So-net無料ブログ作成
検索選択
前の10件 | -

5月11日のてくてくマップハイキング・鶴橋駅-2

5月13日       5月11日のてくてくマップハイキング・鶴橋駅-2
               近鉄あみま倶楽部てくてくマップ大坂⑮
此の日は、天王寺の居酒屋で6人、15時~17時に恒例の”昼飲み会”を設定して
有り、14時50分迄に待ち合わせ場所へ行く段取りでのてくてくマップハイキング、
鶴橋駅~阿部野橋駅迄の12kmコースのマップを少し変えて、新世界で銭湯に
入ってから”昼飲み会”の待ち合わせ場所へ行く手筈だったが新世界ラジウム温
泉がお休みで、新世界のスパワールドでお風呂に入る事になり、カラスの行水と
なってしまった、初めてのスパワールド、もっとゆったり時間取って入りたかった・・・
てくてくマップ大坂⑮・・・上町台地名所巡りコースから難波宮と四天王寺をパスして
志都美駅~鶴橋駅
志都美駅から葛城山、二上山を・・・
P5119252.JPG
鶴橋駅~真田山公園~三光神社
三光神社
真田幸村公の像、真田の抜け穴跡
大坂市内にはその他10ヶ所以上の抜け穴があると云われている
P5119254.JPGP5119256.JPGP5119258.JPG
三光神社~玉造稲荷神社
玉造稲荷神社
豊臣秀頼公の像
秀頼公寄進の大鳥居(阪神大震災で折れて半分埋まってる)
P5119261.JPGP5119263.JPGP5119266.JPG
玉造稲荷神社~越中井
道路脇のシャリンバイの花
P5119268.JPG
越中井
明智光秀の長女で細川家の嫁、細川ガラシャが身を投じた井戸
P5119272.JPG
越中井~大阪城公園
道路脇にアザミ
P5119274.JPG
大坂城公園、大坂城天守閣。他
天守閣前の2本のヒトツバタゴ(なんじゃもんじゃ)花は終わっていた
P5119278.JPGP5119282.JPG

  豊国神社
P5119286.JPGP5119288.JPGP5119294.JPGP5119296.JPGP5119299.JPGP5119301.JPGP5119309.JPGP5119313.JPG
大坂城御座船HPより
大阪城の内壕(うちぼり)を約20分間で巡る観光船です。日本一高いとされ
る石垣が目の前に迫り、水面から見る天守閣は豪華絢爛。大阪城の美しさ、
すごさを感じることができる小さな船旅です。是非、ご体験くださいませ。
大人1500円、子供750円、65才以上1000円
P5119315.JPG
極楽橋を渡って
極楽橋
P5119318.JPG
大坂城京橋口~大坂橋
大坂橋
大坂橋(おおさかばし)は、大阪市の寝屋川と府道石切大阪線を跨ぎ、
大阪城公園と毛馬桜之宮公園を結ぶ自転車・歩行者専用橋。
大阪城を眺める絶好のポイントです。
桐の花
P5119321.JPGP5119325.JPG

大坂橋~川崎橋
P5119327.JPG
此処までは、
5月11日のてくてくマップハイキング・鶴橋駅-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-05-13
此処では、此の続きの川崎橋~についての詳細を
5月11日のてくてくマップハイキング・鶴橋駅-2 として掲載します。
川崎橋(かわさきばし)は、大阪市北区天満と都島区網島町を結ぶ大川に
架かる自転車・歩行者専用斜張橋。 国土交通省が全国的に整備を進めて
いる大規模自転車道のひとつ、北大阪サイクルライン(大阪市北区中之島
~大阪府吹田市万博記念公園)の大川を渡る地点に架かる。浪速の名橋
50選選定橋。昭和53年度の土木学会田中賞を受賞。
橋名は、かつて架橋地点にあった渡船「川崎渡」から採られている。
P5119329.JPGP5119331.JPGP5119334.JPGP5119336.JPG

大川沿いを天満橋へ
P5119338.JPG
天満橋~八軒家浜(昼食)~天神橋
天満橋(てんまばし)は、大川に架かる天満橋筋(大阪府道30号大阪和泉泉
南線)の橋。難波橋、天神橋と共に浪華三大橋と称され、最も東(上流)に位
置する。大阪市北区天満と大阪市中央区天満橋京町の間を結んでいる。
大阪では珍しい2階建ての橋になっており、上部は土佐堀通をまたぐ跨道橋
になっている。天満橋南詰には天満橋交差点があり、ここより北を天満橋筋、
南を谷町筋という。大阪市営地下鉄谷町線が天満橋の地下を通過している。
P5119340.JPGP5119341.JPGP5119343.JPGP5119345.JPGP5119347.JPG
P5119349.JPG
天神橋(てんじんばし)は、大川に架かる天神橋筋(大阪市道天神橋天王寺線)
の橋で、大阪市北区天神橋と大阪市中央区北浜東の間を結んでいる。
1594年(文禄3年)の架橋とされ、当初は大阪天満宮が管理していたが、1634
年(寛永11年)に他の主要橋とともに幕府が管理する公儀橋となった。難波橋、
天満橋と共に浪華三大橋と称され、真ん中に位置する。
浪華三大橋の中で全長が最も長い。また、1832年(天保3年)の天神祭におい
て、橋上からだんじりが大川へ転落して溺死者13名を出す事故があり、「天神
橋長いな、落ちたらこわいな」と童歌に歌われた。
P5119351.JPG
八軒家浜~熊野街道ウオーク
上町台地北端の西麓、天満橋と天神橋の間において、平安時代までに渡辺津
(わたなべのつ)と呼ばれる外港が成立した。大江、国府津、窪津、楼津などと
も呼ばれ、摂津国の政治の中心であった渡辺の地はまた、四天王寺、住吉大
社、高野山、そして熊野三山への参詣道である熊野街道の起点として駅楼が
置かれ、海陸交通の要地として栄えた。
大阪平野の形成にともなって西へ移動した河口と離れて河港に姿を変えたこと
や、遷都等の要因によって外港としての役割は縮小したが、同地における寄港
地としての機能は近世以降も残ることになる。
江戸時代には、同地は船宿などが8軒並んでいたことから「八軒家浜」と呼ばれ
るようになり、京(伏見)と大坂を結ぶ「三十石船」と呼ばれる過書船のターミナル
となるなど、淀川舟運の要衝として栄えた。

熊野街道
天満橋・・・八軒家浜・・・八軒家船着場跡・・・熊野街道入口・・・窪津王子跡(坐摩
神社行宮)・・・日限地蔵院・・・釣鐘屋敷跡・・・御祓筋(熊野街道)・・・中大江公園
・・・(中央大通り)・・・太閤下水跡・・・坂口王子伝承地(朝日神明社跡・南大江公
園)・・・榎木大明神・・・(谷町筋)・・・(長堀通り)・・・郡戸王子跡(高津宮)・・・
P5119353.JPG
熊野街道
太閤下水見学施設
豊臣秀吉による大坂城築城の際に原型が造られたと言われている石積の下水溝
です。豊臣秀吉が大坂城築城に着手したのは、天正11年(1583年)のことでした。
町づくりにあたっては、大阪が、淀川・大和川のデルタ地帯にできた低湿な土地で
あったので、道路整備と同時に町屋から出る下水を排水するための下水溝が建設
されました。東西の横堀川に囲まれた城下町は、大坂城に向かう東西道を軸に碁
盤の目に区切られ、その道路に面した建物の背中どうしのところ(裏口)に下水溝
が掘られました。この下水溝は「背割下水」、あるいは太閤秀吉にちなんで「太閤下
水」と呼ばれています。当時の大阪は、この太閤(背割)下水に挟まれた約40間
(72m)四方の区画が町割りの基本となっていました。
P5119355.JPGP5119358.JPG
P5119360.JPG
榎木大明神
御神木の槐(エンジュ)、樹齢650年といわれています。
榎木大明神は、御祓い筋(熊野街道)と長堀通りの角を北に、石段を登った所に
あります。このあたりは第2次大戦の空襲でも焼け残った古い家屋がまだ残って
います。榎木大明神ですから榎(エノキ)の木があると思いきや、エンジュです。
槐(エンジュ)は、マメ科の落葉高木で、中国が原産。古くから台湾、日本、韓国
などで植栽されている樹木です。エノキとエンジュを間違って名前を付けたみた
いです。巳さん(白蛇)を祀っています。
榎木大明神のエンジュは楠木正成のお手植えとの伝説もあり、樹齢は650年と
もいわれます。大戦中の大空襲ではこの木のところで延焼が止まり、これも霊
験として伝えられています。大阪市は何度も伐採を試みたそうですが、そのたび
に不慮の事故が起こり断念したそうです。
P5119362.JPGP5119364.JPG
高津宮
古墳時代、難波高津宮に遷都した第16代天皇である仁徳天皇を主祭神とし、祖
父の仲哀天皇、祖母の神功皇后、父の応神天皇を左座に、后の葦姫皇后と長子
の履中天皇を右座に祀る。
貞観8年(866年)、勅命により難波高津宮の遺跡が探索され、その地に社殿を築
いて仁徳天皇を祀ったのに始まる。天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城を築
城する際、比売古曽神社の境内(現在地)に遷座し、比売古曽神社を当社の地主
神として摂社とした。明治5年に府社に列格した。
P5119366.JPGP5119367.JPG
P5119369.JPGP5119371.JPG
真言坂
真言坂(しんごんざか)は大阪府大阪市天王寺区にある坂。
天王寺七坂と呼ばれる坂の一つで、一番北に位置し、かつ唯一南北に通る。北側
の上り口は千日前通の南(阪神高速高津入口付近)に通じ、上り口に真言坂の顕
彰碑があり、正式名称は真言坂。南向きに坂を上ると生國魂神社の北の鳥居・石
段の前へ至る。
坂の名の由来は、このあたりに生國魂神社の神宮寺だった法案寺をはじめとした
真言宗の仏教寺院が十坊(「生玉十坊」と呼ばれた)あったことに由来する。
P5119375.JPG
生圀魂神社
大阪市中心部、難波宮跡や大坂城(大阪城)から南西方の生玉町に鎮座する。
かつては現在の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願
寺も建立され繁栄したが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現
在地に遷座されている。
この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)
は、国土の神霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新
天皇の即位儀礼の1つである難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神
に祀られた重要な神々で、生國魂神社自体もそれら宮中祭祀と深い関わりを持
つとされる。また、同様に大坂城地から遷座されたという久太郎町の坐摩神社と
ともに、難波宮との関わりも推測されている。その後中世・近世を通じても崇敬を
受け、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられた、大
阪の代表的な古社の1つである。
P5119373.JPGP5119376.JPGP5119378.JPGP5119379.JPG
源聖寺坂
源聖寺坂(げんしょうじざか)は大阪府大阪市天王寺区にある坂。
天王寺七坂と呼ばれる坂の一つで、坂の名は、坂の上り口北側に源聖寺がある
ことに由来する 西側の上り口は下寺町の松屋町筋に通じ、坂を上りきると生國魂
神社正門の少し南、齢延寺と銀山寺の間を通る。道筋は上町台地上で水平となり、
東は谷町筋・生玉南交差点の一つ南の辻へと至る。
上り口から途中までは石畳となっているが、途中から階段状になり、少し東南東に
向きを変える。
P5119380.JPG
松屋町筋を国道25号~新世界
松屋町筋
松屋町筋(まつやまちすじ)とは、大阪府大阪市を南北に縦断する全長約4.1kmの
主要地方道の愛称である。地元の人には「まっちゃまちすじ」とも呼ばれる。雛人形
や五月人形など、玩具と駄菓子などの問屋が多くこの筋にあるため「まっちゃまち」
として近在にまで有名である。全線が大阪市道天神橋天王寺線に含まれている。

新世界
当地は、1897年(明治30年)に大阪市へ編入される以前は西成郡今宮村の一部で、
畑地や荒地が広がっていた。市街化のきっかけとなったのが、1903年(明治36年)
に開催された第5回内国勧業博覧会で、東に隣接する旧東成郡天王寺村の一部と
ともに会場敷地となった。「内国」とあるが、国内外からの最新技術が披露された点
では「万博」に近いものがあり、博覧会は5ヶ月間で入場者530万人という大盛況の
内に幕を閉じた。
博覧会跡地は日露戦争中に陸軍が使用したのち、1909年(明治42年)に東側の約
5万坪が大阪市によって天王寺公園となった。西側の約2万8千坪は大阪財界出資
の大阪土地建物会社に払い下げられ、1912年(明治45年)7月3日、「大阪の新名
所」というふれこみで「新世界」が誕生。通天閣とルナパークが開業した。開発当初
は「新巴里」「第二千日」と仮称されていたが、開業の際、「新世界」と改められた。
P5119383.JPGP5119388.JPGP5119390.JPGP5119391.JPG
スパワールド 世界の大温泉HPより
関西人なら一度はCMを目にしたことがある「スパワールド 世界の大温泉」。その場
所は大阪のシンボル“通天閣”を構える新世界にあります。「世界の大温泉って何や
ねん」と思っていたそこのあなた。それ、間違っていません。異国感あふれるお風呂
や岩盤浴、その上プールまで楽しめちゃうアミューズメント施設なんです。しかも意外
に知らない人が多いのがそのお得さ。
普通のスーパー銭湯と同じに考えたら大間違い。代名詞ともなっている「世界の大温
泉」の名の通り、ヨーロピアンな内装のお風呂や、アジアンテイストのお風呂など、まさ
に「世界」を感じられる温泉が楽しめます。それだけでなく、岩盤浴ゾーンでは、何と世
界8カ国の岩盤浴が集結!しかも人気の漫画も好きなだけ読めちゃうんです。さらに
「スパプー」の呼び名でお馴染みのプールがあったり、大阪グルメが楽しめるお食事処
まで完備しているんです。
P5119393.JPG

天王寺駅で待合せ合流してミオプラザへ
P5119395.JPGP5119396.JPG
P5119398.JPG
此の日は、カラオケに行かず帰ったので
早い時間帯に家に帰り着いた、未だ陽が沈む前?
P5119400.JPG

5月8日の馬見丘陵公園・他(大坂空港)-2

5月11日         5月8日の馬見丘陵公園・他(大坂空港)-2
                  ヒトツバタゴ(なんじゃもんじゃ)
朝一に病院へ行って帰りに馬見丘陵公園へ寄ってヒトツバタゴ(なんじゃもんじゃ)を
撮って来た、此れまではなんじゃもんじゃを5本くらいを確認出来てたが、驚いた事に、
10本以上あるのでは?花が咲いてる時期にきて此処にもあそこにも?見つけた・・・
馬見丘陵公園
中央駐車場に車を入れて
エゴノキも満開
P5089174.JPGP5089172.JPG

公園館
P5089176.JPG

結びの広場
P5089180.JPG

ナガレ山古墳前のツツジ&ハンカチノキ&ヒトツバタゴ
P5089182.JPG

ハンカチノキは此れが最後の花?
P5089195.JPGP5089193.JPG
ヒトツバタゴ(なんじゃもんじゃ)
此処だけで5本ある(昨日迄は2本しか知らなかった)
P5089184.JPGP5089192.JPGP5089202.JPG
ウイルソン株?のつもり、カエルがお出迎え
森の入口、入るとウッドブリッジ&デッキを渡る・・・
此処にもヒトツバタゴが数本(3~4本)有る、今日初めて知った
P5089204.JPG

タンポポ
P5089210.JPGP5089208.JPG
此処までは、
5月8日の馬見丘陵公園・他(大坂空港)-1 として
           下記のセカンドブログへ投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-05-11
続きは、上池に向かう~
ヒトツバタゴが5~6本有る、此れまでは3本しか知らなかった
P5089212.JPGP5089214.JPG
P5089216.JPGP5089218.JPG
P5089221.JPGP5089222.JPGP5089224.JPGP5089225.JPG
P5089226.JPG

トキワベニマンサクの花は既に終わっている
P5089227.JPG

ホオノキ
P5089231.JPGP5089229.JPG

ヒトツバタゴ(なんじゃもんじゃ)
P5089232.JPG

カエル?タンポポ&エゴノキ
P5089234.JPGP5089236.JPGP5089240.JPG
伊丹(大坂空港)展望デッキから
17日に帰省するので何時ものお土産を買いに来た
今回は関空から飛立つので何時もの土産物を先に送って・・・
P5089242.JPGP5089245.JPG
P5089247.JPGP5089249.JPG
天王寺
家内と一諸に久し振りにランチを食べて帰った・・・
P5089250.JPG

5月6日の大和三山を眺めて 第1弾・大和八木駅-2

5月10日     5月6日の大和三山を眺めて 第1弾・大和八木駅-2 
           今井町を抜け、新緑の畝傍山眺めて 歩程約10㎞
午後から雨予報にも係らず近鉄ハイキングに3人で参加、終盤小雨、最後本降り、
橿原神宮前駅へ1人別れて、最後の大久保神社へは残った2人で全行程制覇・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 大和八木駅受付9:30~11:00  10:00集合
大和八木駅(受付)~人麿神社~入鹿神社~今井町~高市御縣神社~河俣神社
~木葉神社~綏靖天皇陵~神武天皇陵~大久保神社~畝傍御陵前駅(ゴール)
此の日の私の万歩計は、26369歩で約17.8km歩いたことに・・・
志都美駅
左側の葛城山~右側の二上山
IMG_7522.JPG

畝傍駅で近鉄線へ乗り換え
IMG_7523.JPG

近鉄線八木西口駅
IMG_7524.JPG
大和八木駅(受付・スタート)
畝傍山(うねびやま)
畝傍山は、天香久山、耳成山と共に大和三山と呼ばれ、2005年(平成17年)には
他の2山と共に国の名勝に指定された。標高は198.8mと三山の中では最も高い。
ただし、山頂に有る三等三角点の標高は198.49mである。歴史的風土特別保存
地区にも指定されている。畝傍とは「火がうねる」の意味で有る。田の畝のように
くねくねした尾根を多く持つことから名付けられたとも云われる。山頂への登山口
は、東麓の橿原神宮側と、西麓の畝傍山口神社側が有る。山頂からは天香久山
や耳成山の他、遠く若草山なども眺望する事が出来る。
・・・此の日は麓から眺めるだけ

人麿神社へ向かう
IMG_7527.JPG
人麿神社(ひとまろじんじゃ)
地黄集落北西に鎮座、柿本人麻呂を祀る。旧村社。現奈良県新庄町の柿本神社
から分祀したと伝える。「西国三十三所名所図絵」に、「人麻呂祠、地黄村にあり。
柿本大明神の額を掲ぐ。かたはらに池ありて此周に数珠の桜樹をうえたり、花の
ころは美観とす。遠近より衆人うちむれて、終日詩を賦し歌よみ舞うたひて酒宴を
もよほす。桜の下に観音の小堂ならびに玉津島明神の小祠あり。」
IMG_7529.JPGIMG_7530.JPG
入鹿神社へ向かう
池の向こうに二上山が・・
IMG_7532.JPGIMG_7536.JPG
入鹿神社(いるかじんじゃ)
神社の伝えによると、乙巳の変(645年6月12日)で蘇我入鹿が飛鳥板蓋宮で中大
兄皇子や中臣鎌足らに倒された時、その首が小網町(しょうこうちょう)に飛んで来
たのを祀ったと言われている。入鹿は首を斬られたので、入鹿神社が首から上の
病に霊験あらたかと言う信仰がある。頭痛になやむ人々には同情的で頭痛に霊験
あらたかな入鹿神社として知られている。又、蘇我入鹿が鶏鳴を合図に首をはねら
れたので、昔は小網では鶏を飼わなかったとか、小網では蘇我入鹿を暗殺した中
臣鎌足を祀る多武峰へ参ると腹痛が起るとか、明日香村小原は中臣鎌足の母の
出生地だという事で小網町と小原は縁組しない等多くの伝説がある。
IMG_7537.JPGIMG_7540.JPG

   大日堂
IMG_7541.JPGIMG_7542.JPGIMG_7543.JPGIMG_7545.JPG

今井町へ向かう
IMG_7548.JPG
今井町(いまいちょう)
かつて「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄した今井町。現在も町の
大半の町家が大切に保存され、江戸時代の姿を残しています。時代劇の撮影
などにも使われる町並みは、世界的に貴重な財産であり、平成5年には「重要
伝統的建造物群保存地区」の選定を受けています。NHK朝の連続テレビ小説
「あさが来た」の撮影現場にも選ばれ話題にもなりました。東西約600m、南北
約310m、面積にして17.4haの地区内には、全建物数1500棟弱のうち、約500
棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区となっています。
IMG_7550.JPG
順明寺
順明寺は、旧北町、北尊坊通りの西端にある浄土真宗本願寺派の寺院で、北の
御堂ともよばれています。屋根は降り棟(くだりむね)の付いた切妻造で、千鳥破
風(ちどりはふ)に猪の目懸魚(いのめけぎょ)が付いています。板扉には入八双
金具(いりはっそうかなぐ)が付き、両開きとなっています。建立年代についての
確証はありませんが、文献によると表門は1638年(寛永15)の建立であることが
窺われます。扉以外はすべて建立当初の材を残している、貴重な門です。
1217年(建保5年)に照意房順明が十市郡新賀庄に創始して、1626年
(寛永3年)に現在地に移したと言われています。
IMG_7549.JPGIMG_7551.JPG
此処までは、
5月6日の大和三山を眺めて 第1弾・大和八木駅-1  として
              下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-05-10 
此処では、この続きの今井町~の詳細についてを
5月6日の大和三山を眺めて 第1弾・大和八木駅-2 として掲載します。 
今井町華甍の庭で昼食
今井まちなみ交流センター華甍
奈良県指定文化財・旧高市郡教育博物館。今井町旧環濠外の東南部にある。2階
建の本館を中央に配し、両側に左右対称に翼廊がある。明治36年に建設された博
物館であるが、昭和初年より約30年間今井町役場として使用されていた。外観は大
和にふさわしく、和風的にまとめた県下では数少ない明治建築である。江戸時代の
町並を残す、今井町の町並みについての展示コーナー、映像シアターまた情報提供
の図書室等があります。
IMG_7553.JPGIMG_7552.JPGIMG_7554.JPG
今井町花甍の駐車場の直ぐ前
高市御縣神社(たけちのみあがたじんじゃ)
四条町の北部、今井町との境に鎮座。祭神は 高市県主の祖天津彦根命と高皇産霊
神。近世に 苔の宮・高県(こけ)の宮・高木(こうき)の宮と称したことから、 「延喜式」
神名帳高市郡の「高市御県神社名神大、月次新嘗」 に治定。高市御県神社は大和
六処御県神社 の一で(「延喜式」月次祭祝詞)、御県は朝廷直轄領 にあたる。大同
元年(806)に神封二戸があて られ(新抄格勅符抄)、天安三年(859)一月二七 日、
従五位下より従五位上に昇叙(三代実録)、 「延喜式」神名帳によると御県の神のな
かで唯一 名神祭にもあずかった。高市県については「古 事記」神代巻に「天津日子
根命者高市県主等之祖 也」とあり、「日本書紀」天武天皇元年(672)七 月条に「高市
県主許梅(こめ)」の名がみえる。所在は明 確ではないが、現曾我町字宮毛説が有力
で、現 橿原市の西部地域に推定されたいる。「延喜式」 神名帳高市郡には高市御県
坐鴨事代主神社 (現橿原市雲梯町の河俣神社に比定)の名がみえる。 文政二年(18
29)津田長道の著した「卯花日 記」には、「今井里人高木氏は、世々四条村の人 にし
て、今は今井に家居す。此家にむかしより 此社の事つかさどる事になりて、別に神主も
な ければ、此家より神供灯明のことを物しける。 高木の宮と云也といへり」という記述
がある。
IMG_7555.JPGIMG_7556.JPG

河俣神社へ向かう
IMG_7557.JPGIMG_7560.JPGIMG_7561.JPGIMG_7564.JPGIMG_7566.JPGIMG_7567.JPG
川俣神社(かわまたじんじゃ)
主祭神:鴨八重事代主神。河俣神社は、奈良県橿原市にある神社である。式内社で、
旧社格は村社。『出雲国造神賀詞』に皇室を守護する神として「事代主命の御魂を宇
奈提の神奈備に坐せ」とあり、この「宇奈提(うなせ)」は「雲梯(うなて)」のことである
として、延喜式神名帳に記載される式内大社「大和国高市郡 高市御坐鴨事代主神社」
に比定されている(延喜式神名帳には「川俣神社三座」という社名が見えるが、これは
近くの木葉神社に比定されている)。
『日本書紀』によれば、壬申の乱の際、高市郡大領高市縣主許梅に「高市社に居る事
代主神」が神懸りし、大海人皇子(後の天武天皇)を守護すると神託した。大海人皇子
の即位後、この霊験により、高市御坐鴨事代主神に、史上初となる神位が授けられて
いる。万葉集にも当社のことを詠んだ歌がある。住吉大社(大阪市住吉区)には畝傍
山口神社境内における埴取の神事があるが、その祭祀を行う者は当社で装束を整え
ることが恒例となっており、そのことから「装束の宮」と俗称される。
IMG_7570.JPGIMG_7572.JPGIMG_7574.JPG

木葉神社へ向かう
IMG_7577.JPGIMG_7578.JPG
木葉神社(このはじんじゃ)
木葉神社は、奈良県橿原市雲梯町初穂寺にある神社。御朱印の有無は不明。『延喜
式神名帳』にある「川俣神社三座(大和国・高市郡)」に比定される式内社(大社)。近
代社格では無格社。創建年代は不詳。現在の御祭神は木花咲耶姫命。本来は川俣
公の祖である彦坐命を祀っていたと考えられている。中世以降は荒廃し、神仏習合に
よって僧坊が建てられた。これが初穂寺である。 当社はその初穂寺の隅に「浅間権現」
と呼ばれる祠で祀られた。あるいは「富士権現」と呼ばれた。いわゆる、浅間神社になっ
た。『大和志』に「川俣八王子」とあるのが当社で、八王子が初王子となり、さらに初穂寺
と変わったという。これが当社の式内比定根拠。当社は曽我川西岸に鎮座するが、対
岸の東岸には、式内社「高市御縣坐鴨事代主神社」に比定される河俣神社がある。
河俣神社は、式内社「川俣神社」と混同して、現社号に定着した、ともされている。一方の
当社名称の変遷や解釈はより不可解か。 明治初年に、御祭神名から木華神社に改称、
その後現社号に改称した。現在も「権現さん」、初穂寺の名から「八王子さん」とも呼ばれ
ている。
IMG_7579.JPGIMG_7580.JPG
IMG_7581.JPG

橿原市運動公園へ向かう
IMG_7583.JPGIMG_7584.JPGIMG_7585.JPG
橿原市運動公園
橿原市では、市民の皆さんに健康で文化的な生活をエンジョイしていただくために、各種
スポーツ、レクリェーション施設を集結した、総合的な運動公園です。プール、硬式野球、
軟式野球、ソフトボール、テニス、サッカーなどがお楽しみいただけ、また、軽スポーツも
楽しめ、くつろぎスペースとしても利用できる芝の多目的広場もあります。
IMG_7586.JPGIMG_7587.JPG

綏靖天皇陵へ向かう
IMG_7588.JPG
綏靖天皇陵(すいぜいてんのうりょう)
第2代天皇(在位:綏靖天皇元年1月8日 - 綏靖天皇33年5月10日)。和風諡号は、『日
本書紀』では「神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)」、『古事記』では
「神沼河耳命」。神武天皇(初代天皇)の皇子。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載は
あるが事績の記述は少なく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。
『日本書紀』によると、神渟名川耳尊は神武天皇42年1月3日に立太子した。
神武天皇76年3月11日に父天皇が崩御した際、朝政の経験に長けていた庶兄の手研
耳命(たぎしみみのみこと)は、皇位に就くため弟の神八井耳命・神渟名川耳尊を害そ
うとした。己卯年11月、この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、神武天皇の山
陵を築造し終えると、弓部稚彦に弓を、倭鍛部の天津真浦に鏃を、矢部に箭を作らせた。
そして片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か)の大室に臥せっていた手
研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代
わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じたため、神渟名
川耳が皇位に就き、神八井耳は天皇を助けて神祇を掌ることとなった。
翌年(神武崩御の4年後;綏靖天皇元年)1月8日に即位し、宮を葛城高丘宮に遷した。
その後、綏靖天皇33年5月10日に在位33年にして崩御した。時に『日本書紀』では84歳、
『古事記』では45歳という。安寧天皇元年10月11日、遺骸は「桃花鳥田丘上陵」に・・・・
伝承:南北朝時代の編とされる『神道集』によれば、綏靖天皇には食人の趣味があり、
朝夕に7人もの人々を食べて周囲を恐怖に陥れたため、人々は「近く火の雨が降る」
との虚言を弄し、天皇を岩屋に幽閉して難を逃れたという。
IMG_7590.JPGIMG_7591.JPGIMG_7592.JPG
神武天皇陵(じんむてんのうりょう)
初代天皇とされる神話・伝説上の人物(在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年
3月11日)。和風諡号は、『日本書紀』では「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひ
このすめらみこと)」、『古事記』では「神倭伊波礼毘古命」。また幼名は「狭野尊(さの
のみこと)」、諱は「彦火火出見(ひこほほでみ)」。日本皇統の祖としている。
神武天皇の即位月日とされる1月1日(旧暦)は、明治に入り新暦に換算され、2月11
日となり、日本国の建国の日として1873年(明治6年)に「紀元節」(祭日)と定められ
た。紀元節は1948年(昭和23年)に廃止されたが、1967年(昭和42年)に「建国記念
日」として国民の祝日となった。
IMG_7596.JPGIMG_7593.JPGIMG_7595.JPG
大久保神社へ向かう
喜多酒造(株)(御代菊)
IMG_7599.JPG
大窪寺跡 & 歴代天皇遥拝所
大窪寺跡(おおくぼでらあと/おおくぼてらあと)は、奈良県橿原市大久保町にある古代
から中世の寺院跡。史跡指定はされていない。跡地付近に所在する浄土宗の国源寺
観音堂(こくげんじ かんのんどう)が法燈を継承するとされ、同寺の境内に伝世される
塔心礎は大窪寺のものと推定される。創建は不明(出土瓦によれば白鳳期か)。史書
には大窪史(おおくぼのふひと、大窪氏)一族の記載が見え、大窪史と大窪寺の関係を
推測する説(一説に氏寺)もある。古く『日本書紀』朱鳥元年(686年)8月21日条には、
檜隈寺(寺跡は明日香村檜前)・軽寺(寺跡は橿原市大軽町)・大窪寺の3寺に30年を
限とする封100戸の寄進の記事が見える。持統天皇8年(694年)の藤原京遷都後は、
寺域はその京域内に所在した。また延久2年(1070年)の「興福寺雑役免帳」に大窪寺
領の記載があるほか、室町時代の「越智郷段銭帳」にも「大窪寺 四町八段半」とあり、
鎌倉時代末頃までの存続が確認される。その後、『大和志』や文政12年(1829年)の
『卯花日記』では、跡地の様子が記述されている。
IMG_7600.JPGIMG_7603.JPG
大久保神社
社殿は、畝傍山や神武陵を背に東面して建つ。境内はとても綺麗に整備され、ている。
今なお厚い信仰に支えられているのが判る。天和2年(1682)5月銘の石燈籠がある。
社家は松原家で、永禄8年(1565)以来、京都の白川伯王家(伯家神道の家元)から
神職免許を受け代々世襲していた。白川家では、同家を「神武天皇御陵神主」と弥ん
でいたという。 …雨になってしまった。
IMG_7601.JPGIMG_7602.JPG

畝傍御陵前駅(ゴール) …本降りになって
IMG_7604.JPG

畝傍御陵前駅→大和八木駅→五位堂駅→バスで自宅へ

5月7日のなんじゃもんじゃ(馬見丘陵公園)

5月8日        5月7日のなんじゃもんじゃ(馬見丘陵公園)
          なんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)を撮りに馬見丘陵公園へ
此の日は、上池廻りのなんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)を撮りに東エリアの駐車場に
車を停めて、駆け足で何時もの上池を撮るスポットへ行って来た、咲いていた・・・・
此処だけでも5~6本のなんじゃもんじゃが有る様だ、今まで3本だと思っていたが。
なんじもんじゃ
IMG_7607.JPGIMG_7606.JPGIMG_7608.JPGIMG_7609.JPGIMG_7610.JPGIMG_7611.JPGIMG_7612.JPG

  上池
IMG_7613.JPGIMG_7613.JPGIMG_7614.JPGIMG_7616.JPG

その他
IMG_7617.JPGIMG_7618.JPG

5月4日の海上釣り堀 魚釣り大会-深日漁港

5月7日      5月4日の海上釣り堀 魚釣り大会-深日漁港
                第21回目の魚釣り大会
晴天に恵まれて海上での心地よい、参加者14人の魚釣り大会となりました。
年に一度、この魚釣り大会でしか顔を会わさない知人も居て交流を懐かしみ
ながら、何時もの様に和気合いあいの楽しい釣り大会で、釣果を持ち帰って
調理して家族と食べる楽しみや、海上釣り堀とはいえ釣るのに四苦八苦・・・
IMG_7488.JPGIMG_7490.JPGIMG_7491.JPG
この様な釣り場(枡)が2列で8番迄あり、一番沖の8番と4番の2枡を14人で
貸切って真鯛、シマアジ、イサキを放流して貰い、14人で釣果を競い、賞品
等も設定して毎年楽しんでる催事で今年も参加しました・・・
今年は例年の場所が予約できず、少し遠い深日漁港の”海上釣り堀・岬”
朝7時~昼2時迄、7時間の釣りに一夜明けた今朝は心地よい筋肉痛も・・・
その他の釣り風景
IMG_7492.JPGIMG_7494.JPGIMG_7495.JPGIMG_7496.JPGIMG_7498.JPGIMG_7499.JPGIMG_7501.JPGIMG_7502.JPGIMG_7504.JPGIMG_7505.JPG

  お疲れの様です。
IMG_7506.JPG
解散です。
流石に連休中?第二阪和も阪和道も渋滞続きで・・・
IMG_7507.JPG
私の釣果&持ち帰り
釣果は真鯛3匹とシマアジ1匹、真鯛2匹とシマアジ1匹を持ち帰り調理
真鯛もシマアジも40センチ超えの大物?でした。
クーラ
IMG_7508.JPGIMG_7510.JPGIMG_7509.JPG
捌くのも大変、台所で3匹を全て3枚におろして・・・先ずは夕食に
鯛の刺身2種類(皮なしの生と皮つきの湯引き)とシマアジの刺身
IMG_7512.JPG

鯛の刺身をカルパッチョ風に、つまは新玉葱のスライス
IMG_7514.JPGIMG_7517.JPG

食べ飽きた刺身とカルパッチョは辛子酢味噌和えにして味を変えて・・・
IMG_7518.JPG

鯛とシマアジのアラは、味噌味のアラ汁にして
IMG_7520.JPG
写真は無いが6日の朝食用に、
三枚おろしの鯛の片身を塩焼きに、家内が担当・・・

残りは塩して暫く保存、暫くは魚をメインの食事に・・・
IMG_7515.JPGIMG_7516.JPG

5月2日の馬見丘陵公園の花木・・・2

5月3日          5月2日の馬見丘陵公園の花木・・・2
                ハンカチノキ&なんじゃもんじゃ
今日はクワーマガ(子供と孫)が来る日なので朝から忙しい、私の担当はもずく
の酢の物作り、部屋の片づけ?娘を駅まで迎えに行く事、夕方の寿司を貰いに
行く事等々で夕食の寿司を貰いに行く事以外は、先ほど昼迄で終わり、昼飯に
素麺を食べた。
子供と孫達はきげん良く遊んでいるのでPCの前に、昨日1時間半くらい時間が
有ったので馬見丘陵公園の気になる花木の様子を撮って来たものを整理して
ブログに投稿しようと・・・
気になるのは、ハンカチノキのハンカチ?はどうなったのか、なんじゃもんじゃの
花は咲いたのか?奈良の八重桜はどうなってるのか?チュウリップは?等々・・・、
中央公園館前の駐車場に車を入れて
公園館を
P5029077.JPGP5029079.JPG

芝生の丘のチュウリップ
P5029080.JPGP5029084.JPGP5029087.JPG

ナガレ山古墳の前のなんじゃもんじゃに向かう
P5029090.JPGP5029094.JPG
なんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)とハンカチノキが有る
なんじゃもんじゃが咲きはじめの木が1本
P5029097.JPGP5029112.JPGP5029118.JPGP5029117.JPG

もう1本は未だつぼみ・・・
P5029120.JPG

此れは、ハンカチノキ
P5029101.JPGP5029102.JPGP5029105.JPGP5029106.JPG

  散ったハンカチ?
P5029108.JPG

周りのツツジ
P5029127.JPG
此処までは、
5月2日の馬見丘陵公園の花木・・・1 として
      下記のセカンドブログへ詳細を投稿しました。
     http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-05-03-1
此処では、此の続きのナガレ山古墳~の詳細を
5月2日の馬見丘陵公園の花木・・・2 として掲載します。
ナガレ山古墳
P5029129.JPGP5029133.JPG

ツツジ
P5029130.JPG

結びの広場
P5029132.JPGP5029135.JPGP5029136.JPGP5029137.JPGP5029139.JPG

ヤマブキ
P5029141.JPGP5029142.JPGP5029145.JPG

芝生の丘へ戻って
ならの八重桜
P5029148.JPG
P5029089.JPGP5029146.JPGP5029149.JPGP5029150.JPG

芝生の丘のつつじとチュウリップ
P5029151.JPGP5029152.JPG

公園館前に戻って
P5029154.JPG
駐車場へ
ハナミズキ&つつじ
P5029156.JPGP5029158.JPGP5029159.JPGP5029161.JPG
おまけ
家へ戻ると買い出しに・・・
スーパーの駐車場からの風景
P5029167.JPGP5029168.JPG
家え戻って
我家のモミジ、此れから緑色に変わる
P5029169.JPGP5029170.JPG
・・・・・・・・・・・
明日4日は、釣り仲間14人で海上釣り堀での”第21回魚釣り大会
朝4時に起きて、4時半出発して深日漁港に有る”海上釣り堀 ・岬”へ

4月29日のへぐり時代祭 歴史ウオーク・平群駅-2

4月30日     4月29日のへぐり時代祭 歴史ウオーク・平群駅-2
              近鉄駅フリーハイキング 歩程約9㎞
知人と3人で参加、途中でもう一人の知人と遭遇?し、4人で一緒に歩く事に、
コース 近鉄駅フリーハイキング 平群駅受付9時半~11時  10時集合
平群駅(受付)~藤田家住宅~白山神社弥勒堂~長屋王墓・吉備内親王墓
~道の駅(祭り)~鳥土塚古墳~石床神社旧社地~西宮古墳~平群駅
ゴール平群駅前の喫茶で、知人2人にもう1人の方を紹介してコーヒータイム、
白山神社の境内では最近顔見知りになって挨拶を交わすご夫婦にも出会い
暑くも無く寒くも無く風通しの良い爽やかな素晴らしいハイキングとなりました。
此の日の私の万歩計は、21263歩で約14.3km歩いたことに・・・
志都美駅
葛城山~二上山
IMG_7413.JPG
平群駅で受付
知人と待ち合わせてスタート
長楽寺
長楽寺は、平群町にある 聖観音を本尊とする 真言宗豊山派の寺院です。
聖徳太子の建立と伝えられ、平群町役場の向かいにあるのが長楽寺です。
寺には、太子が腰をかけて戦略を練ったとされる「鑑石」(かんがみいし)が
あります。
IMG_7414.JPGIMG_7417.JPGIMG_7418.JPGIMG_7419.JPG
※下記は現地駒札より引用
用明天皇2年(586)聖徳太子建立と伝わる真言宗豊山派の寺院。山号は
勝出山。寺伝では太子が仏敵の物部守屋を討伐する時、ここで石(現在本
堂の前にある鑑石)の上に坐り、軍法を鑑み、護法四天王に祈念して曰く
「我をして敵軍に勝たし給えば必ずここに寺塔を建立して神仏を弘通せん」。
すると毘沙門天王が現れて軍法を授け、戦勝を得たので、ここに毘沙門天
本地仏「聖観音立像」を太子自ら刻み安置したという。

つぼり山古墳へ向かう
竜田川を渡る
IMG_7420.JPG
つぼり山古墳
生駒山地より東に延びる丘陵の南斜面に築造された古墳で、墳丘は造成工事で
削平され、当初の姿を留めていないが、一辺20m程の方墳の可能性が考えられ
ている。主体部は南に開口する横穴式石室で、玄室は二段積みで、2石目が大
きく内傾し、前壁も同様だったとみられる。
玄室中央と羨道に各一基の二上山白色凝灰岩製の刳抜式(くりぬきしき)家形石
棺が納められている。玄室棺は蓋が半分のこり、わずかに下方に傾いた縄(なわ)
掛(かけ)突起の形態が確認できる。古くに開口し、石室の整備に伴う発掘調査で
は当初の副葬品は出土せず、石室構造、石棺形態より7世紀初頭の築造と考え
られている。
IMG_7423.JPGIMG_7425.JPGIMG_7428.JPG

藤田家住宅へ向かう
IMG_7429.JPGIMG_7431.JPG
藤田家住宅
藤田家は、系図によると武蔵国榛沢郡藤田庄(埼玉県本庄市藤田)に藤原氏
の荘園があり、その荘官出身。鎌倉期に武士化して上杉氏に仕え、藤田姓を
名乗る。その滅亡後は甲斐武田氏に仕え、室町期に武田氏が滅ぶと大和に
移り、山辺郡を本拠に筒井氏・藤堂氏に仕えた。元和(げんな)(1615~1624)
の頃に平群に転封され、帰農して庄屋を歴任した。
藤田家住宅は北福貴の高台にあり、南には灰田川の谷を見下ろす要地にある。
整った大和棟(やまとむね)の民家として指定され、昭和59、60年度に半解体修
理が行われた。修理の際の調査により、当初は元禄年間(1688~1703)に建て
られた萱葺(かやぶき)の入母屋造りで、三度の改修が確認された。第一次改造
は18世紀後半、第二次改造は文化4年(1807)、第三次改造は明治末年(1912)
に実施されている。修理後は、指定の趣旨から大和棟の形態が整った第一次改
造の姿に復元されている。
IMG_7433.JPGIMG_7435.JPGIMG_7437.JPGIMG_7439.JPGIMG_7440.JPG

白山神社へ向かう
IMG_7442.JPG
白山神社弥勒堂
白山神社
この神社は平群中学校の西約300mに鎮座しています。一の鳥居と社号標は境内
から200m程手前に建立され、参道はいったん左に曲がってから神社へと行き着き
ます。神社入り口脇には双体道祖神と思しき二体の仏像のレリーフが彫られた石
像が祀られ、二の鳥居を潜り石段を上がると正面に弥勒堂が建立されています。
其の右側に並んで割拝殿が建ち、その奥に浪速狛犬に護られた本殿が覆い屋内
に建立されています。神社から外を振り返ると、宮池が穏やかな水面を見せて・・・
主祭神 伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)
伊弉冉尊 (いざなみのみこと) 御祭神 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
伊弉諾尊・伊弉諾冉尊を祀っていた福貴寺の神宮寺。明治初めに神仏分離で独立
森垣内の小森神社と栗坪垣内の38社神(子守神社)を合祀して福貴大字全体の氏
神となる。明治25年(1892年)の明細帳には「或云白山大神」とみえる。享保14年
(1729年)奉納の慈尊山白山大明神の湯釜が伝わる。白山神社周辺が福貴寺の跡
で、慈尊山福貴寺と号し、法隆寺の高僧「道詮律師」の隠居寺として栄え、盛時には
60坊を数え、境内奥に、中ノ坊・西ノ坊等の塔頭跡が残る。弘法大師とも信仰があつ
く、伝燈大師と号して南都七大寺僧綱を兼ね、荒廃した法隆寺夢殿の再建を果たし、
その功績から律師像(塑像:国宝)が夢殿の本尊脇に侍している。隠居後も、法隆寺
の学僧等の請いを受けて毎年夏期に百ヶ日間三経を講じに往来し、民衆からは「福
貴の道詮」と呼ばれて厚く慕われた。境内奥に近世の供養墓が祀られている。
IMG_7443.JPGIMG_7447.JPGIMG_7449.JPGIMG_7448.JPG
此処までは、
4月29日のへぐり時代祭 歴史ウオーク・平群駅-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-04-30 
此処では、続きの普門院跡~の詳細を
4月29日のへぐり時代祭 歴史ウオーク・平群駅-2 として掲載します。
普門院跡(ふもんいんあと)
法隆寺の夢殿を再興した道詮律師が隠居寺として建てた福貴寺の塔頭の
一つで、日頃起居された住坊だと伝えられている。
脇仏で江戸時代の木造仏、3体が盗難にあったが、重要文化財に指定され
ている木造聖観音立像は残されており、現在は法隆寺に保管されている。
IMG_7451.JPGIMG_7452.JPG
吉備内親王墓
長屋王墓北西150mのやや高所、丘陵斜面の中段に所在する塚で、現状は直
径20m、高さ2m程の円墳である。長屋王墓と共に明治34年に治定されている。
明治26年の野淵龍潜の調査では、「墳丘に埴輪の残欠多く、巨石が鍵の手に
埋っている。墳頂に埴輪が散布する」とあり、絵図にも3つの巨石が描かれてい
る。同32年の平群村の調査図では台形状の塚として描かれている。現在は方
形の石垣と生垣で囲まれ、南側に長い石段の参道が取り付いている。
IMG_7453.JPG
長屋王墓
平群谷の北より、矢田丘陵より西に長く延びる丘陵の南斜面裾にある塚で、直径
15m、高さ1.5m程の円墳状をしている。宮内庁により明治34年に、奈良時代初
期の皇親政治家、長屋王の墳墓に治定されている。現在は方形の石垣と生垣の
で囲まれ、南側に参道が取り付いている。『続日本紀』神亀6年(729)には、正妻
吉備内親王と共に「生駒山に葬る」とのみ記され、明確な葬地は示されていない。
そして、約千年後の江戸中期にまとめられた『大和志』に、「双墓 梨本村にあり
一は長墓と称し左大臣正二位長屋王、一は宇司墓と称し二品吉備内親王‥・・」
と記され、梨本の2つの塚が夫妻の墓とされている。
IMG_7454.JPGIMG_7455.JPGIMG_7456.JPG
※長屋王墓の下には削平された前方後円墳(前方部を西に向け、全長約45m
で、周溝をもち、葺石・円筒埴輪・須恵器を配置す。6世紀前半の築造。)の梨本
南2号墳が埋まっていることが確認されている。長屋王墓との関係は不明であ
るが、梨本南2号墳は付近に分布する後期古墳群の初出である可能性もあり、
その形状とともに、注目される古墳である。

へぐり時代祭りパレード
行列では、平群町に関わりのある歴史上の人物が町内を練り歩きます。
へぐり時代行列は、2010年にあった平城遷都1300年祭をきっかけに始
められました。天平衣装や甲冑の装束をまとった時代行列、住民参加型
で住民が手作りで作ったイベントです。 1300メートルほど練り歩きます。
IMG_7457.JPGIMG_7459.JPG
IMG_7458.JPG
道の駅(祭りステージと屋台)
イベントで大賑わいの為、此処を通りこして、次の鳥土塚古墳へ向かうべく、
竜田川を渡り川沿いの公園で昼食をとることに、桜吹雪?の中で昼食・・・
IMG_7460.JPGIMG_7461.JPGIMG_7462.JPGIMG_7463.JPGIMG_7465.JPG
鳥土塚古墳(うどつかこふん)へ向かう
古墳前の釣り堀
IMG_7466.JPGIMG_7467.JPG
鳥土塚古墳
竜田川の西岸、南北方向の独立丘陵に築造された北面する前方後円墳。墳丘
は全長60.5m、後円部径35m、高さ約9m、前方部幅31mあり、平群谷最大規
模の古墳。墳丘は一段築成で葺石はなく、墳頂寄りに1.5~2m間隔で円筒埴
輪を並べていたらしい。墳丘西裾では幅約2mの小規模な周溝が確認されてい
る。主体部は南に開口する両袖式の横穴式石室。西北西800mの石床神社付
近(越木塚)から運ばれた巨石を用い、奥壁と前壁は垂直に、両側壁はやや持ち
送られて積まれいる。玄室(げんしつ)中央と羨道(せんどう)奥寄りに二上山白色
凝灰岩(ぎょうかいがん)製の組合家形石棺が納められ、玄室の周囲より金銅装
馬具・銀装太刀等の武具・四獣鏡・須恵器・土師器等の副葬品が出土し、立体
的な副葬品配置が確認されている。また、石室前庭部付近で須恵器子持ち器台
・巫女(みこ)形埴輪・形象埴輪・須恵器(すえき)大甕(おおがめ)などがまとまって
出土しており、石室閉塞部分における埴輪と須恵器を用いた墓前祭祀の様子が
明かとなった。
墳丘の花&景色&玄室
IMG_7468.JPGIMG_7469.JPGIMG_7470.JPGIMG_7471.JPGIMG_7472.JPG
※石床神社旧社地・・・今回はパス、行かなかった
越木塚集落の南東部、伊文字川流域を見下ろす位置にあり、本殿や拝殿は当
初からなく、鳥居と社務所があっただけで、崖面に露頭した高さ約6m、幅10数m
の巨大な「陰石」を御身体としている。『延喜式』に記載のある式内社で、祭神は
剣刃石床別命(けんじんいわとこわけのみこと)。貞観元年(859年)には従五位
上を授けられている。地域での磐座(陰石)信仰が窺え、古い信仰形態を伝える
貴重な神社である。大正13年(1924)に集落内の素盞鳴神社「現:石床神社」に
合祀されている。この付近には花崗岩の巨石が多数露頭し、烏土塚古墳や西宮
古墳に運ばれており、古墳時代~飛鳥時代の石材産地でもある

西宮古墳(にしのみやこふん)へ向かう
IMG_7473.JPGIMG_7474.JPG
西宮古墳
廿日山(はつかやま)丘陵の南側斜面、中段に築造された方墳。一辺約36mあり、
二段のテラスを配して三段に築成されている。墳丘の左右と後方の三方に堀割
を廻らし周囲の地形を大きく取り込んだ墓域を有する。
墳丘は全面に貼石が施され、傾斜部分(35度)は扁平な石を、テラス部分はやや
丸みのある石を用いている。墳丘の南側、下段テラス面にあわせて精美な切石
の横穴式石室を設け、羨道側石と天井石の前面を墳丘勾配に合わせて加工し
ている。この状況から、石室の開口部を墳丘封土に埋め込むのではなく、扉状
の施設によって閉塞し、石室を墳丘外に明示していたことが確認できる。羨道の
幅に合わせて前面テラスを0.2m下げて墓道としている。石室は基本的に一石で
積まれ、玄室は奥壁、側石、天井石がそれぞれ一枚石で積み木のように組まれ
ており、目地には漆喰(しっくい)が詰められている。
石室の床面には近世に礫石経((れきせききょう)法華経)が敷かれているが、こ
の下には90cm角ぐらいの花崗岩切石を敷きつめているらしい。玄門部に竜山
石(たつやまいし)製の刳抜式(くりぬきしき)家形石棺身部が盗難を免れ
て残り、外面上下に帯状の突帯を設けている。羨門部で須恵器坏蓋(つきふた)、
高坏片が出土し、7世紀中葉から後半の築造と考えられている。
IMG_7478.JPGIMG_7477.JPGIMG_7479.JPG
中央公園でトイレ休憩
ベニバナトキワマンサク?が綺麗
IMG_7480.JPGIMG_7481.JPG
平群神社
祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)。「延喜式」神名帳記載社。五座の祭
神とある。神功皇后の時代(4世紀半ば)平群氏の祖・武内宿禰が神功皇后と
共に新羅出征前に戦勝祈願として大山祇神をこの地に祀ったと伝わる。その
後平群氏が祖神の武内宿禰と平群木菟宿禰(つくのすくね)を祀ったのだろう。
五穀豊穣と、武運長久、家内安全の守護神として信仰を集め今日に至る。

平群駅~王寺駅~バスで帰宅
おまけ
我家の草木花?モミジが緑色に変わりつつ・・
IMG_7482.JPGIMG_7483.JPGIMG_7484.JPGIMG_7485.JPGIMG_7487.JPGIMG_7486.JPG

4月27日の病院&馬見丘陵公園

4月29日       27日の病院&馬見丘陵公園
               眼科で視野検査他
午前中は病院で目の検査&治療、何時もの眼圧の検査、視力検査、視野検査、
眼底検査、涙の通り道治療(洗浄)、今回右目の矯正視力が0.5と悪くなってると
言う事で、緑内障の治療を今の3種類の点眼薬(目の圧力を下げる薬2種、炎症
を鎮める薬1種)だけで良いのか?緑内障の専門医に一度診察を受ける様に進
められ、受診する事にした。
IMG_7391.JPGIMG_7392.JPGIMG_7393.JPG

午後に、馬見丘陵公園の変わり種?チュウリップを見に家内を連れて行って来た。
北エリア駐車場に九ry真を停めて、お目当ての変わり種?チュウリップへ、色違い
の2種類が丁度咲いていた、折角なので近場のチュウリップも撮って帰った・・・
変わり種チュウリップ?
一株に4~5輪花を付けている、チュウリップ祭り中には咲いて無かった
IMG_7394.JPGIMG_7395.JPGIMG_7398.JPGIMG_7410.JPGIMG_7411.JPGIMG_7412.JPG

普通のチュウリップ
IMG_7396.JPGIMG_7397.JPGIMG_7399.JPGIMG_7400.JPGIMG_7403.JPGIMG_7404.JPGIMG_7405.JPGIMG_7406.JPGIMG_7407.JPGIMG_7408.JPGIMG_7409.JPG

4月25日の歩こう会・浅香山緑道他・浅香駅-2

4月26日      4月25日の歩こう会・浅香山緑道他・浅香駅-2
             浅香山緑道つつじ&関西大学堺キャンパス
コース:浅香駅(10時半 集合・スタート) 歩程約6km  参加者は94人とまあまあ
浅香駅(スタート)~浅香山稲荷神社~浅香山公園~浄水場つつじ鑑賞~大和川水
辺体感~関西大学堺キャンパス前~鉄砲鍛冶射的場跡~南海本線七道駅(ゴール)
駅前の放鳥銃定限記(ほうちょうじゅうていげんき)碑と河口慧海の銅像
天気良く最高のハイキング日和、私の万歩計は16295歩で約10.9km歩いた事に・・・
志都美駅へ向かう
志都美駅から葛城山~二上山
IMG_7332.JPG
浅香駅(スタート)爽やかで心地良い天気・・・
ツツジがお出迎え?
IMG_7333.JPGIMG_7334.JPG
浅香山城跡
奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫、浅香氏の居城だった。浅香将監宗勝は南朝
に属した。室町後期の文亀元年(1501)に落城、一族は閑居していたが、天正の
豊臣秀吉の四国攻めの際に功があり、浅香善右衛門宗胤が旧城地一帯を与えら
れた。城跡は現、浅香山稲荷と伝えられる。
IMG_7338.JPG
浅香山稲荷神社・・・「浅香山稲荷神社案内板」
昔、この辺り住之江の浦と連なる小さな湾で、そこに小島が出来、遠く推古天皇の御
代(590年代)聖徳太子御巡遊の折、白髪の老翁が太子に、昔より比処に埋る香木
有り、と伝えて去る。太子が不思議に思い、掘らせたところ、果せるかな地中より幾
千年も経たと思われる朽木が出で、これを焼かせたところ馥郁優なる香りたなびき、
その時太子が「浅からぬ香り」と仰せられて、以後この地を”浅香の浦”と呼び、その
香木で老翁の像を刻みここに祀られたのがこの神社の創始と言われています。
後、ここに城を築いて、この神像を稲荷大神と仰ぎ祭られてきた。この稲荷大神とは
宇迦之御魂大神と言い。生活の大本を司り福徳盛運の守護神として伊勢外宮にます
豊受大神と異名同神と言われます。
時移り世が代わって宝永年間(1704)、旧大和川の水害から流域を守るために大久
保大隈守宰領として流れを変える工事の折、この地の狐塚の所に至り、どうしても工事
が進まず、前日掘った所が翌日は又元に復し、人夫達は恐怖におののき手だしも出来
ず、宰領奉行も神威を畏み、計画を変えこの狐塚を避けることによって大工事を完成さ
せるに至りました。
後、宰領大隈守は神威を怖れこの狐塚の所に神殿を建立し、現在に至っております。
尚、現神殿は、昭和五十一年七月に改築完成されたものです。
神前の一対の石灯籠は大久保大隈守の寄進にかかり、又自然石の大手洗鉢は当時
川口奉行等の寄進によるものです。   以上「浅香山稲荷神社案内板」より
IMG_7343.JPGIMG_7342.JPGIMG_7340.JPG
浅香山公園へ向かう
ライラック(リラの花)
IMG_7345.JPG

浅香山公園の藤
IMG_7348.JPGIMG_7350.JPG
浅香山公園~浄水場つつじ(浅香山緑道)
※浅香山浄水場
1910年(明治43年)4月通水。近代水道としては全国18番目である。当初は大和
川から原水を取水していたが、大和川の水質の悪化に伴って1978年(昭和53年)
11月に取水は中止されている。また、かつての浄水施設も撤去が進み、事実上
「浄水場」ではなく「配水場」である。
現在は、淀川から取水した大阪広域水道企業団村野浄水場から送水された浄水や
堺市内の他の配水場からの送水をいったん浅香山浄水場で受水したのち、堺区内
に配水している。配水池容量は高架配水池2池と地下1池で24,000m3。
厚生労働省の「近代水道百選」に選ばれている。

ツツジの通り抜け
浅香山浄水場では毎年4月下旬~5月上旬にかけて、「ツツジの通り抜け」をおこ
なっている。浄水場内の沈殿池の堤防強化や緑化を目的に植えられたヒラドツツジ
約2300本が、期間中に無料公開される。ツツジの通り抜けは1956年(昭和31年)
に開始された。ちなみに2011年(平成23年)は東日本大震災の影響で中止。
2012年(平成24年)からは、浄水場敷地内の一部に常時散策可能な「浅香山緑道」
が整備されたことにより、これまでの開花時期だけの期間限定開放から、常時つつ
じを楽しめる環境へと変わった(緑道部分)。
また、この緑道の完成により、「緑道のつつじ」とこの時期に開放される「浄水場のつ
つじ」を合わせて、「浅香山つつじまつり」へと名前が改められた(旧「浅香山浄水場
つつじの通り抜け」)。浄水場の樹齢70年を越えるつつじ約500本と、新しく植えられ
たつつじ約2000本が約600メートルにわたって楽しめる。
浅香山浄水場のツツジは、「大阪みどりの百選」にも選定されてい。

浅香山緑道のツツジ
IMG_7352.JPGIMG_7353.JPGIMG_7354.JPGIMG_7355.JPG
此処までは、
4月25日の歩こう会・浅香山緑道他・浅香駅-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-04-26
此処では、この続きの浅香山緑道のツツジの途中~について
4月25日の歩こう会・浅香山緑道他・浅香駅-2 として詳細を掲載します。
IMG_7356.JPGIMG_7357.JPGIMG_7358.JPGIMG_7359.JPG

此の時期、浄水場へは入れない
IMG_7360.JPGIMG_7361.JPGIMG_7364.JPG
大和川水辺体感
昼食には、このメタセコイヤの林へ戻って来る・・・
IMG_7365.JPGIMG_7366.JPGIMG_7367.JPGIMG_7369.JPG
関西大学堺キャンパス
(堺市立堺商業学校~堺市立商業高等学校跡)
IMG_7370.JPGIMG_7371.JPGIMG_7372.JPGIMG_7373.JPGIMG_7374.JPG
メタセコイヤの林へ戻って(昼食)
集合写真撮影の後、大和川河川敷ウオークへ・・・
IMG_7369.JPGIMG_7365.JPGIMG_7378.JPGIMG_7379.JPGIMG_7382.JPG
鉄砲鍛冶射的場跡・・・大阪府堺市堺区鉄砲町
南海本線七道駅(ゴール)駅前に放鳥銃定限記碑と河口慧海の銅像
放鳥銃定限記 (ほうちょうじゅうていげんき)碑
わが国に初めて鉄砲が伝来したのは,天文十二年(1543年)のことです。
堺の貿易商人橘屋又三郎は,いちはやく種子島より鉄砲の製造技術と射撃場を持
ち帰ったと言われています。また,紀州根来の津田監物算長も伝来の銃を持ち帰り
堺出身の刀工芝辻清右衛門に鉄砲を作らせました。清右衛門は,豊臣秀吉の「根
来攻め」のあと堺に戻って製造を続け,鉄砲鍛冶芝辻一門の祖となりました。
堺鉄砲の製造は,芝辻一門,榎屋一門など多くの鉄砲鍛冶によって国内最大の生
産量を誇りました。それとともに試射場も次々と作られ,このあたりにも江戸時代初
期につくられた試射場が,昭和の初めまでその面影を残していました。
大正三年にこの付近で,運河の開削工事中に「放鳥銃定限記」と題した碑が、発見
されました。この碑には,寛文四年(1664年)砲術家川名金右衛門忠重によって、
「鉄砲 は優れた兵器で,正しく扱えば命中確実である。しかし,そのためには不断の
習練が必要である。小濱民部丞嘉隆は文武両道を兼ね備えた人であり,堺の浜に
射撃場を設け砲術家の養成や銃の試射を行うなど,大きな功績を残した。」と,恩師
小濱丞嘉隆への讃辞と鉄砲試射場の由来が記されています。
この碑もまた,堺鉄砲の歴史を物語る貴重な資料です。
     運河掘削工事の発起人であった柳原吉兵衛氏は,この碑を後世に伝え
     顕彰するために,自然石をくりぬいた中にはめこみました。その後、昭和
     一九年に堺市に寄贈され,長らくザビエル公園に保存されてきましたが、
     駅前広場の整備にともない,発見場所に近いこの場所に移設しました。
 平成二年三月  堺市  堺市教育委員会
IMG_7385.JPGIMG_7386.JPG
河口慧海
河口慧海[慶応2年(1866年)~昭和20年(1945年)]
河口慧海は現在の堺区北旅籠町西に生まれました。幼名は定治郎(さだじろう)。
錦西小学校、土屋弘(鳳州)の晩晴塾、東京の哲学館(現、東洋大学)に学ぶ。
黄檗宗の僧侶。仏教学者にして探検家。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。
中国や日本に伝承されている漢語に音訳された仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来
の教えの意味が分る物を求めて、梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を決意。
慧海は、チベット語訳の仏教原典を求めて明治30年および37年の二回にわたり
チベットへ入国しました。その旅行記(『西蔵旅行記』)は、仏教学者だけではなく
民族学者、探検家にも高く評価され英訳出版されました。晩年は僧籍を返上し
て在家仏教を提唱しました。
IMG_7387.JPG
5人で七道駅近くの喫茶店でだべった後、1人は七道駅へ、2人は浅香駅へ、
私達は、2人で高須神社~阪堺線(ちんちん電車)で阿倍野橋へ出て帰った。
私はあべのハルカス&JR天王寺駅へ、連れは近鉄阿部野橋駅へ別れた・・・
IMG_7389.JPG
IMG_7390.JPG

4月23日の新家長福寺の桜・ボタン・藤

4月26日        4月23日の新家長福寺の桜・ボタン・藤
                     (花のお寺)
23日、寝屋川市へ伯母さんの見舞いに行った帰りに少し時間が有ったので
22日の近鉄ハイキングで訪れた広陵町の新家長福寺へ立ち寄ってみた、駐
車場が満車なら帰ろう、と思いながら行ってみるとうまい具合に広陵町図書
館の駐車場に入る事が出来、新家長福寺の八重桜や藤棚、ボタンや石楠花、
ハナズオウなどを家内にも見せる事が出来た・・・・
    
新家長福寺(花の寺 ボタン・石楠花・桜・藤・はなずおう)
浄土真宗大谷派の寺院で本尊は天正2年(1547年)造立の阿弥陀如来立像です。
徳川家康より、僧慶秀が新家の地を賜り草庵を設け「長福寺」と称したのが始めで
あり、承応元年(1652年)には新家御坊と称した様で、新家長福寺と称されたのは
寛文3年(1663年)からです。境内には八重桜が多く、「桜御坊」とも呼ばれます。
ガラケーでポイントブログへ投稿した3枚
170423_1610~01.jpg

170423_1608~01.jpg

170423_1606~01.jpg

この7枚は23日にカメラで撮った八重桜、ボタン、藤、たんぽぽ・・・
IMG_7324.JPGIMG_7324.JPG
IMG_7325.JPGIMG_7325.JPG
IMG_7326.JPGIMG_7327.JPGIMG_7328.JPGIMG_7328.JPG
IMG_7329.JPGIMG_7329.JPG

 帰りに道路脇のタンポポ
IMG_7330.JPG
下記の 近鉄ハイキング
☆4月22日「生産量日本一」靴下のお祭り・五位堂駅-1&2 
 には、大量の花の写真を投稿済みです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-04-24

http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/2017-04-24

前の10件 | -