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3月27日の昼前の馬見丘陵公園-2

3月29日        3月27日の昼前の馬見丘陵公園-2
                  昼前の散歩
家内が何処かへ歩きに行きたい?と言うので車で馬見丘陵公園へ案内した・・・
南エリア駐車場へ車を入れて巣山古墳前丘~
河津桜は大半が葉桜に変わっていたが未だ花も少し・・・
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足元の芝には黄色のタンポポが・・・
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巣山古墳周濠
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佐味田狐塚古墳を目指して
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佐味田狐塚古墳へ登り町道を跨いで梅林へ
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上池前を通りウッドデッキを通り
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上池前の桜はもう少し(1週間くらい)先に咲く?
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別所下古墳群前を通り下池へ
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下池周辺、古墳群の桜も未だ未だ先に・・・
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下池の対岸には一本松古墳がある
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此処までは、
3月27日の馬見丘陵公園-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-03-29-1
此の続きは、
3月27日の昼前の馬見丘陵公園-2 として、詳細を掲載します。
下池の亀達の甲羅干し~
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花桃の丘~乙女山古墳(古墳に立ち入り出来る様になった?)
ハナモモの丘では未だ梅が咲き残って、花桃は未だ未だ蕾
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乙女山古墳入口
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中央エリアのススキの丘へ出て
何処も彼処もチュウリップ畑に・・・
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トンネルを潜って北エリアへ
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此処も、ダリア園もチュウリップ畑に・・・
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大型テントをぐるっと回って
階段の上り下りがしんどいそうでスロープを歩いて
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花見茶屋でコーヒータイム
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中央の公園館前を通り紫陽花園前のサンシュユ他
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結びの広場前をウッドデッキを通って梅林前へ
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梅林前を通り、倉塚古墳を後ろに駐車場へ戻る
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3月25日・弥生の土佐街道お雛様に会いに行こう!-2

3月27日      3月25日・弥生の土佐街道お雛様に会いに行こう!-2
                   近鉄駅フリーハイキング  
此の日は1人で参加、15日に歴史探訪の会で飛鳥駅~高松塚古墳~文武天皇陵
~檜隈寺跡~キトラ古墳・四神の館~高取町・土佐街道お雛様迄歩いたが・・・
家を出て壺阪山駅に到着する迄にハイキングに来てくれる知人から連絡があって、
壺阪山駅で合流、一緒に歩く事に、途中の雛の里親会館では、時たまハイキングで
出会う御夫婦とも久し振りに出会って声を交わし、楽しいハイキングになった・・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 壺阪山駅受付9時半~11時10分 歩程約8km
壺阪山駅(受付)~下屋敷門(石川医院)~雛の里親館~夢創館・くすり資料館~
信楽寺(お里沢市の墓)~上子嶋砂防公園~子嶋寺~壺阪山駅(ゴール)
上子嶋砂防公園へは行かず、清水谷公園の休憩所で食事を済ませてコースへ戻り
子嶋寺からコースを変えてキトラ古墳公園の檜隈寺跡へ回り、先般15日に見逃した
於美阿志(おみあし)神社境内にある第28代・宣化天皇が即位した「檜隈廬入野宮」
(ひのくまのい おりののみや)があった場所とされている石碑が建ってるのを撮って
飛鳥駅へ歩いて、同行の方とは飛鳥駅前の地元野菜販売所でお別れして帰った。
此の日の私の万歩計は、27800歩で約18.9km歩いたことに・・・
実は、帰りに五位堂駅で降りてバスで帰る予定が、間違えて一つ手前の築山駅で
降りてしまい、歩いて真美ヶ丘まで行き途中からバスに乗って帰った為、5kmくらい
余分に歩く事になってしまいました・・・・
志都美駅
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香芝駅でおりて下田駅へ向かう
香芝の鹿島神社
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壺阪山駅(受付)
第11回・たかとり「城下町の雛巡り」
高取土佐の街なみにある町家には、大切にされている雛人形がいます。どのお雛
様にも、其の家の思い出や、親子の願いが込められていて、添えて飾られている
色紙には、そんな思い出と願いが込められています。
今年は94ヶ所の雛巡りが出来ます。家々の「雛物語」にふれて楽しんで来ました。
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※下屋敷門(石川医院)
下土佐の石川家の主屋は商家の壮大な建物であり、入口に駒繋ぎの輪が左右に
一個づつ備わり、南側の石川医院の入口は、家老級の門のような大きな門があり、
それにも駒繋ぎの輪が残っている。
日本全国から皮膚病の患者?が頼って来て、患者に合う塗り薬を調合してくれる?
と聞いたような気がする、今日一緒に歩いてくれた方も知人に紹介されて此の病院
を頼って、薬を処方されていつの間にか完治した、と言う方だった・・・

高取城と天誅組の戦いで使用された大砲のレプリカ?
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雛の里親館
高取町の雛祭りメイン展示である雛の里親館「天段のお雛様」
天高くそびえるお雛さまに圧倒される。
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夢創館・くすり資料館
くすりの町「たかとり」を感じさせるアミューズメントとして、開館した「くすりの資料館」。
夢創舘の蔵の一部を改造して、生まれ変わらせたのがこの資料館です。
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夢創舘の2階で百人一首の花飾りに出会う
製作者のお話も聞いた、凄いの一言・・・
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※此れは、家に帰って我が家の百人一首の絵札を撮って・・・
天智天皇と持統天皇
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夢創館の裏庭・ミニジャンボ
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土佐街道を外れて脇道へ入る
信楽寺(お里沢市の墓)
この寺はお里と沢市の菩提所、(しんぎょうじ)と読みます。
境内隅にお里・沢市の墓が有ります。座頭だった沢市(沢井市蔵)の杖は、
堂の壁際に置かれているそうです。創建由緒などは不詳です。
豊沢団平・千賀女の作による『壷坂観音霊験記』で名をはせたお里沢市
物語はその昔土佐に住んでいた男女をモデルにしたものと伝えられてます。
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清水谷公民館へちぎり絵の展示を見に行く
ひな飾りとヒュウガミズキと梅の生け花を見せて頂いた
ご主人の話で奥さんのちぎり絵を見に行って又感動r・・・
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此処までは、
3月25日・弥生の土佐街道お雛様に会いに行こう!-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-03-27
此処では続きの、清水谷公園のミニジャンボ雛~の詳細を掲載します。
清水谷公園のミニジャンボ雛展示会場の休憩所で弁当タイム
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麹漬けや奈良漬、白菜漬けを
お土産に購入して・・・
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ふるさと農道を通って
河津桜が2本満開に・・・ 
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※上子嶋砂防公園・・・清水谷公園で昼食済ませたのでパス
高取川の上流、ちょうど高取城への入口に当るところに上子嶋砂防公園があります。
ハイキングシーズンには、たくさんの方々が、高取城へ上る際の最初の休憩地点と
して休憩されています。
この砂防公園は、地元の保全ボランティアの皆様の活躍により、梅、桜、あじさい等、
通年様々な花々が我々を迎えてくれます。また、水が綺麗なため、6月中旬頃には、
ほたるも見頃になります。

ミニジャンボ酉雛
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長屋門へ下って
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ジャンボ雛を見ながら甘酒タイム
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光永寺・人頭石を見に行ったが今年はお休み・・・見れなかった
饗宴の場の装飾として造られたともいわれる石造物で、光永寺の前庭にあります。
斉明女帝の宮を訪れた外国人の顔でしょうか。花崗岩に彫られた大きな鼻と耳、
前に突き出した顎が特徴的です。吉備姫王墓に置かれている4体の猿石と同じ石
造物と考えられています。斉明女帝は飛鳥で多くの石造物を造っており、その性格
はまだ不明です。
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子嶋寺
子嶋寺(こじまでら)は奈良県高市郡高取町にある高野山真言宗の寺院。山号は
子嶋山(報恩山とも)。本尊は大日如来。開山は寺伝では僧・報恩と伝える。
平安時代中期作の国宝・両界曼荼羅図(子島曼荼羅)を伝えることで知られる。
「清水の舞台」で知られる京都東山の清水寺は子嶋寺の僧・延鎮によって開かれ
たとされ、平安時代中期以降は真言宗子嶋流の道場として栄える等、歴史的に重
要な寺院。
奈良時代以前の創建を伝えるが、草創の時期や経緯については複数の説がある。
現在の子嶋寺は近鉄壺阪山駅近くにあるが、各種史料に「子嶋山寺」と見えるとこ
ろからも、創建当時は山間部に位置していたと思われる。平安時代中期には一時
衰退し、興福寺の僧・真興(しんごう)によって中興された。
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壺阪山駅(ゴール)へ行かずにキトラ古墳公園経由で飛鳥駅へ向かう
檜隈寺跡へ向かう
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檜隈寺跡(ひのくまでらあと)
『檜隈寺跡』(ひのくまでらあと)は、7世紀ごろ、古代の渡来系豪族「東漢」(やまと
のあや)一族の中心氏族であった檜隈氏が、その祖と伝わる「阿智使主」(あちの
おみ)を祀った寺院があった場所です。1907年、この地に『於美阿志神社』(おみ
あしじんじゃ)が移転し、現在の形となりました。
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於美阿志神社(おみあしじんじゃ)境内の石碑、今回は撮りました。
この一帯は、第28代・宣化天皇が即位した「檜隈廬入野宮」(ひのくまのい おりの
のみや)があった場所とされています。先の安閑天皇の死去にともない、536年、
この地で69歳という高齢で即位し、わずか4年で崩御なさいました。短い間でした
が、当時の日本の中心だったとされる場所に当たり、境内に石碑が建っています。
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この後、檜隈寺跡前の休憩所で一休みして飛鳥駅へ向かう
大きな機雷?を供えた忠魂碑があった
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※阪合村忠魂碑の前に機雷2ヶ・・・浮標水雷缶   直径:約110センチ
昭和3年、阪合村の御大典事業として忠魂碑が建設され、備付け記念品として海軍
から廃兵器の下付を受けた。下付願いは同年8月10日付で出されている。本村は
山間部にして四面山脈に囲まれている関係上、民心の海軍思想に乏しく、したがっ
て未だ我が海防の必要性に理解が乏しい。ここで忠魂碑の建設にあたり廃兵器の
下付を受けて、敬神の念を深めるとともに海軍思想の普及を計りたい、という趣旨。
浮標水雷缶4個と12糎砲弾6個を希望し、保管据付け場所は村役場門前忠魂碑の
前となっている。同年11月1日、呉海軍軍需部保管の浮標水雷缶(内機を除く)2個
を忠魂碑備付品として同村に下付するよう、陸軍省から呉鎮長官に訓令が出された。
昭和3年9月の時点で、呉の海軍軍需部には廃品として浮標水雷缶115個の在庫が
あった。

飛鳥駅前の地元野菜販売所で此処まで一緒に歩いてくれた方と別れ、飛鳥駅~
橿原神宮前経由五位堂駅迄帰る予定が築山駅で降りてしまい、歩く事になった。
溜池や二上山や雪柳を見ながら、真美ヶ丘迄歩いて、途中からバスに乗って・・・
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3月15日の歴史探訪の会・早春の飛鳥路散策他-2

3月22日    3月15日の歴史探訪の会・早春の飛鳥路散策他-2
             キトラ古墳&高取町 町屋のひな祭り 
今回の歴史探訪の会はオープン開催、歴史探訪の会員でなくても事前申請にて
参加可能のハイキング、参加者は会員が26人、オープン参加が8人で合計34人。
コース
飛鳥駅(受付)~高松塚古墳~壁画館~文武天皇陵~檜隈寺(ひのくまでら)跡~
於美阿志(おみあし)神社~キトラ古墳~高取町・土佐街道・雛巡り~壺阪山駅
此の日の私の万歩計は、18542歩で約12.3km歩いたことに・・・
志都美駅
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飛鳥駅(受付・スタート)
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高松塚古墳(たかまつづかこふん)
高松塚古墳は、奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に存在する古墳。
藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、直径23m(下段)及び18
m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見された
ことで一躍注目されるようになった。
2009年に本来の形状に復元され、一般に公開されている。
高松塚古墳の発掘調査は、1972年3月1日から開始された。発掘の始まったきっか
けは、1970年の10月ごろ村人がショウガを貯蔵しようと穴を掘ったところ、穴の奥に
古い切石が見つかったことである。地元の人達が明日香村に働きかけ、明日香村
資金を捻出し奈良県立橿原考古学研究所が発掘調査することになった。
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高松塚壁画館
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文武天皇陵へ向かう
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文武天皇陵
天武天皇と持統天皇の孫にあたり、藤原京で即位し、大宝律令を制定した文武天皇
がまつられています。 高松塚古墳の南東方向に位置します。
文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月)は、
日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日
(707年7月18日))。
草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男。母は阿陪皇女(天智天皇皇女、
持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)。父草壁は皇太子のまま亡くなり即位していない
ため、本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられるはずだが、祖母である持
統天皇の後見もあってか、立太子以前から皇子の扱いを受けていたと考えられる。
父・草壁が持統天皇3年4月13日(689年)に亡くなり、同10年7月10日(696年)には伯
父にあたる高市皇子も薨じたため、同11年2月16日(697年)立太子。文武天皇元年8
月1日(697年)、祖母・持統から譲位されて天皇の位に即き、同月17日(9月7日)即位
の詔を宣した。当時15歳という先例のない若さだったため、持統が初めて太上天皇を
称し後見役についた。
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檜隈寺跡へ向かう
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二宮金次郎像がぽつり・・・
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此処までは、
3月15日の歴史探訪の会・早春の飛鳥路散策他-1 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。 
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-03-22
続きは、檜隈寺跡~
於美阿志神社(おみあしじんじゃ)・檜隈寺跡(ひのくまでらあと)
桧隈は、百済から渡来した阿智使主(あちのおみ)が居住したと伝えられ、於美阿
志神社はその阿智使主を祭神とする。桧隈寺跡は、その神社の境内にあり、塔、
講堂と推定される建物跡をのこす。「日本書紀」天武天皇朱鳥元年の条に桧隈寺
の寺名がみえ、寺跡からは、7世紀末の瓦が出土する。現在塔跡にある十三重石
塔は上部の一部を欠いているが重要文化財に指定されている。
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檜隈寺跡(ひのくまでらあと)
『檜隈寺跡』(ひのくまでらあと)は、7世紀ごろ、古代の渡来系豪族「東漢」(やまと
のあや)一族の中心氏族であった檜隈氏が、その祖と伝わる「阿智使主」(あちの
おみ)を祀った寺院があった場所です。1907年、この地に『於美阿志神社』(おみ
あしじんじゃ)が移転し、現在の形となりました。
また、この一帯は、第28代・宣化天皇が即位した「檜隈廬入野宮」(ひのくまのい
おりののみや)があった場所とされています。先の安閑天皇の死去にともない、
536年、この地で69歳という高齢で即位し、わずか4年で崩御なさいました。短い
間でしたが、当時の日本の中心だったとされる場所に当たり、境内に石碑が建っ
ています。
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於美阿志神社(おみあしじんじゃ)
於美阿志(おみあし)神社』は、古代の渡来系氏族・東漢氏の氏寺跡『檜隈寺跡』
に建つ神社です。重要文化財の「石塔婆」が残っていたりしますし、古くは第28代
宣化天皇の「檜隈廬入野宮」があった土地でもあります。
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檜隈寺跡前休憩案内所で昼食休憩
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キトラ古墳(キトラこふん)
キトラ古墳は、明日香村の南西部、阿部山に築かれた古墳。亀虎古墳とも書く。
墳丘にある石室内に壁画が発見され高松塚古墳と共に保存事業が進められて
いる。二段築成作りの円墳である。墳丘は小高い阿部山の南斜面に位置してい
る。名称の「キトラ」は、「北浦」の転訛といわれる。
1983年11月7日、石室内の彩色壁画に玄武が発見され、高松塚古墳に次いで
2例目となる大陸風壁画古墳として注目を集める。
1998年の探査で青龍、白虎、天文図が確認され、2001年には朱雀と十二支像が
確認された。カビなどの被害が発生していたため壁画ははぎとられて保存されて
いる。壁画などにみられる唐の文化的影響が高松塚古墳ほどには色濃くないこと
から、遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作ら
れた古墳であると見られている。
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キトラ古墳壁画体験館 四神の館
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高取町へ向かう
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高取町のランドマーク? 長屋門
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高取町の土佐街道
高取町では壺坂寺まで通じる長い長い町並みが続く。そのうち「札の辻」の交差
点までの道を地元では土佐街道と呼んでいる。明日香に都があったころ、土佐
の国から都造営のために連れてこられて故郷へ帰れなくなった人たちが、望郷
の思いからこの地を「土佐」と呼ぶようになったといわれる。両側に水路がある
狭い道に沿って、高取城の城下町に由来する古い町並みが続いている。

第11回・たかとり「城下町の雛巡り」
高取土佐の街なみにある町家には、大切にされている雛人形がいます。どのお雛
様にも、其の家の思い出や、親子の願いが込められていて、添えて飾られている
色紙には、そんな思い出と願いが込められています。
今年は94ヶ所の雛巡りが出来ます。家々の「雛物語」にふれて楽しんでください・・・
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壷阪山駅
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五位堂駅
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3月13日・馬見丘陵公園の河津桜-2

3月19日          3月13日・馬見丘陵公園の河津桜-2
                       早朝散歩
馬見丘陵公園の河津桜もそろそろ満開になる時期?今年は開花が遅れてる・・・
南エリア駐車場に車を入れて前方の倉塚古墳と梅林を眺めて、墳観橋で町道を
渡り、巣山古墳前丘と前丘周辺の河津桜を撮り、墳観橋を戻って、梅林へ回って
粗満開に近い梅を撮って駐車場へ戻って来る、短いショートカットコースで回って・・
前方は倉塚古墳
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前方は梅林
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墳観橋のスロープを降りて
桜並木の前方は佐味田狐塚古墳・・・
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佐味田狐塚古墳前迄行き、巣山古墳前丘へ戻って来る
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此処から5枚はキャノンのコンデジで撮影分・・・
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此処までは、
3月13日・馬見丘陵公園の河津桜-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。   
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-03-19
此処では、此の続きを、巣山古墳前丘周辺の河津桜~
巣山古墳前丘周辺の河津桜は満開・・・
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巣山古墳前丘
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墳観橋を渡って戻って来る
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梅林へ向かう
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梅林は粗満開・・・
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佐味田狐塚古墳前迄行く
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駐車場へ戻る途中
チューリップが植えられている
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3月8日の阿倍野・上町台地のロマンを求めて-2

3月16日    3月8日の阿倍野・上町台地のロマンを求めて-2
             JRふれあいハイキング 歩程約10㎞
此の日は、知人と4人で久し振りにJRふれあいハイキングに参加、
コース JRふれあいハイキング 大阪・関西歩け歩け協会 参加費300円
天王寺公園東側観光バス停10時 受付   此の日の参加者は172人だった。
天王寺公園(集合)~和気橋・茶臼山~堀越神社~歴史の散歩道~聖天山公園
~聖天山正圓寺~松虫塚~安倍晴明神社~安倍王子神社~北畠公園~ゆずり
葉の道~桃ヶ池公園(昼食休憩)~安倍寺跡~天王寺駅
此の日の私の万歩計は、23590歩で約15.8km歩いたことに・・・
志都美駅へ向かう
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志都美駅
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天王寺公園(集合・スタート)
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和気橋~茶臼山
和気橋
大阪市立美術館の北奥に大きな池が広がります。この池は「河底池(愛称ちゃぶ
いけ)」といいます。そして茶臼山へと架かる橋は、「和気橋(わけばし)」。
788年(延暦7年)和気清麻呂が旧大和川の流れを変えるために上町台地を開削
した際、古墳の濠を利用した名残が河底池だと伝わります。
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茶臼山
天王寺公園内にある茶臼山は、ほんの標高26mの山ですが、そこに伝わる歴史は
とても大きいのです。これまで5世紀ごろの全長200m近い前方後円形古墳とされる
説と、自然陵とする説ともに、今だ謎の残る山です。
茶臼山は、江戸幕府が豊臣方を滅ぼした大坂の役(大坂の陣)の重要な舞台です。
1614年(慶長19年)11月 ・大坂冬の陣では、徳川家康の本陣となり、翌1615年(慶
長20年)5月には、真田幸村(本名は信繁)勢の本陣として、茶臼山の戦い(天王寺
口の戦い)が繰り広げられました。
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堀越神社
古くから大阪では、「堀越さんは一生に一度の願いを聞いてくださる神さん」との言い
伝えがあります。第33代推古天皇の御代、時の摂政聖徳太子が、太子の叔父君に
当たらせられる第32代崇峻天皇の徳を偲んで、風光明媚にして長松直々たる茶臼
山の地をえらばれ、四天王寺建立と同時に当社を創建されたものであります。
古くより明治の中期まで、境内の南沿いに美しい堀があり、この堀を越えて参詣した
ので、堀越という名が付けられたといわれています。この地は、有名な慶長・元和の
大阪冬の陣、夏の陣の古戦場としてかずかずのエピソードと共に知られています。
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※崇峻天皇と皇后・皇子の物語
崇峻天皇は名を泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)と申され、欽明天皇の第12
皇子であり、御母は蘇我稲目の女小姉君。587年、その英明さを以って、皇族はじめ
朝廷の群臣に推されて即位。当時懸案累積の国内、国外諸問題に力をつくされ、特
に戦乱で荒廃した朝鮮半島、任那の復興に心をくばられた。折しも蘇我氏の全盛時
代であり、特に大臣の蘇我馬子の専横はなはだしく、帝は深く憂慮されて馬子を除こ
うとされたが、却って馬子の奸智にたけた反逆にあい倒れられた。
天皇のご長男、蜂子皇子は父君の事を深く悲しまれたが、権謀うずまく大和朝廷より
も、当時としては遥かな地の果て、東北地方に安住の地を求めて、父君の霊を弔わん
とされ、ひそかに大和を脱出して、北陸より海路出羽へ向われた。すなわち今日、日本
三大山嶽宗教の一つたる出羽三山の開祖はこの蜂子皇子である。皇子は文字通り出
羽の文化、産業の始祖として、また能除聖者、修験道の祖として出羽地方の人々の崇
敬の中心となられた。蜂子皇子の墓は東北地方における唯一の皇族の墓といわれて
いる。小手姫皇后もまた、夫君崇峻天皇の服喪の後、皇子の後を追って東北を目指さ
れ、そして福島県小手郷堂平に安住の地を見出され、皇后時代より天才的といわれた
養蚕の技術をその地の民人達に教え伝えられた。福島県が養蚕産業の発祥地とされ
るのは、実にこの小手姫皇后のお陰とされるのもそのためである。

阿倍野霊園(五代友厚の墓)歴史の散歩道~聖天山公園(トイレ休憩)
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聖天山正圓寺
聖天山は阿倍野区の西端、上町台地の南端に位置する小高い丘で、山の北側は
公園になっており、古墳が残っている。山頂は「天下茶屋の聖天さん」と呼ばれる聖
天山 正圓寺の境内である。正圓寺は元禄年中(1690年頃)にこの地に移築再興
された寺院であるが、それよりも遡る南北朝の頃、この付近には吉田兼好の庵が
あったと伝わっている。
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※吉田兼好
1284年?~1350年?(弘安6年~正平5年:その生年と没年は諸説ある)鎌倉
時代末期・南北朝時代の歌人・随筆家。 卜部兼好(うらべのかねよし)が正しいら
しく、吉田兼好は後世の俗称。武士 として朝廷に仕え、のち出家。山城国山科小野
荘に住み、随筆文学の傑作『徒然草』を書いた。

松虫通り・松虫塚
伝承はあまたあるため確定しない。しかし、後鳥羽天皇寵愛の白拍子
松虫鈴虫姉妹が当地に隠れ住んだとして知られる。
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此処までは、
3月8日の阿倍野・上町台地のロマンを求めて-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-03-16
此処では、続きの安倍晴明神社へ向かう~の詳細を掲載します。
安倍晴明神社へ向かう
安倍晴明神社
「安倍晴明説」の地、大阪市阿倍野区阿倍野元町にある「安倍晴明神社」。
この地は安倍晴明の生誕地と伝わり、晴明は奈良時代の豪族阿倍氏の一
族につながっていたとも言われている。
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阿倍王子神社
「痾免寺説」及び「阿倍王子説」の地である、大阪市阿倍野区阿倍野本町にある
「阿倍王子神社」。この地で弘法大師が疫難退散の祈祷を修したと伝わる。
今日一緒に歩いているM吉さんの結婚式場が此の神社だったそうで感慨も・・・
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北畠公園
北畠顕家(きたばたけあきいえ)の墓
北畠顕家(きたばたけあきいえ)は「神皇正統記」を著した北畠親房の長男で、
1330年(元徳2年)13歳で左中弁となり、15歳未満で弁官に任ぜられるとい
う先例を開き、14歳で参議で左中将を兼ねるという空前の昇進を示した。
1333年(元弘3年)『建武の中興』が成立のとき16歳で陸奥守に任ぜられ、
義良親王を奉じて奥州に下り、鎮守府将軍に任じられている。1336年(延元
元年)足利尊氏が反逆すると、上洛して尊氏を九州に敗走させた。この功績に
より、顕家は権中納言、鎮守府大将軍に任ぜられ、再び奥州に下っている。
3ヵ月後、尊氏が勢いを盛り返したため、1337年(延元2年)奥州より再度上
洛。各地で転戦、翌年3月16日に当地、阿倍野での合戦後、「神皇正統記」な
どには顕家は1338年(延元3年)5月22日朝、1万8千の高師直軍と戦い、摂
津国石津(現在の堺市西区浜寺石津町)で戦死したと伝えている。
顕家の墓は、現在の王子町北畠公園に所在する「大名塚」と呼ばれていた塚を、
江戸時代の国学者並川誠所が北畠顕家の墳墓と比定したことにより、当地周辺
を顕家戦没ゆかりの地として顕彰したもので、現在の歴史観から見れば事実誤
認があるようだが、園内の碑文などによると、大正・昭和と篤志家などの寄付に
より、墓地の整備などが図られ、現在に至っている。
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ゆずり葉の道へむかう
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シャープ創業者早川徳次翁ゆかりの地、桃ヶ池公園市民活動センター

ゆずり葉の道・・・全国初、昭和55年に阿倍野区長池町に誕生(歩行者系道路)。
※ゆずり葉の道
大阪市では、安全で快適なみちづくりの一環として歩行者系道路の整備を行って
います。全国でも初めての試みとして、昭和55年に阿倍野区長池町で整備して以
来、市民の方々のご意見を取り入れながら全市的に整備を進めています。
これらの道路は、「ゆずり葉の道」の愛称で多くの方に親しまれています。
ゆずり葉の道は、人と車の共存を目的とした道路で、不要な車を排除し、入ってき
た車もあまりスピードが出せないようにするために、車道の幅を狭くし、しかもジグ
ザク状に変化させています。その代わりに、歩道はゆったりと広くとり、舗装もカラ
ーブロックなどで仕上げて、歩行者が安心して快適に歩けるようにしています。

桃ヶ池公園(昼食休憩)
池は古くから「ももがいけ」と呼ばれていたが、かつては「百ヶ池」「脛ヶ池」「股ヶ池」
とも表記された。名称については、池がいくつもあるため百ヶ池という説や、池の形
が股引のような形になっていることに由来するという説や、聖徳太子の使いが大蛇
退治をした際水深が腿程度だったためなどの説がある。
江戸時代には「百ヶ池」の表記が見え、明治大正頃には「股ヶ池」が定着していたが、
昭和8年に市が整備し、都市計画公園として開園するにあたり、字が分かりにくいな
どの理由でに同じ発音の「桃」の字をあてた「桃ヶ池」の表記とし、以後それが定着し
た。 なおその後も大正時代より近くを走っていた南海平野線の駅名は股ヶ池停留場
であり、公園内にある神社は「股ヶ池明神」の表記のままとなっている。大阪市はその
後桃ヶ池を整備し1933年10月25日に桃ヶ池公園として開園した。この桃ヶ池公園は、
都市計画に基づく区画整理で完成した公園としては、日本初のものである。
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安倍寺跡へ向かう
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童謡「サッちゃん」の歌碑・・・幼稚園の前に2006年建立
子どもの歌「サッちゃん」は、芥川賞作家の故阪田寛夫氏の詩と従兄の作曲家
大中恩氏の作曲によって生まれたものです。幼年時代の阪田寛夫氏が南大阪
幼稚園の第二期生であったとき、その一年上のクラスにいた「サッちゃん」と呼ば
れていた女の子への親しい思いを、後に詩のかたちにしました。この歌は、幼い
頃、誰もが歌ったり口ずさんだりしながら馴れ親しんできたのですが、その詩は
大人になった今でも、読めば、思わず素直な気持ちになるのではないでしょうか。
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阿倍寺跡推定地
大阪市阿倍野区松崎町にある「松長大明神」の境内に「阿倍寺推定地」の石碑
が建っている。現地の解説版によると、当寺の塔心礎から、相当規模の堂塔伽
藍が存在していた推測され、この付近からは白鳳、奈良時代の重弧文軒瓦や
鬼瓦が出土したとのことである。
庚申街道を入った住宅地の一角にあった「松長大明神」。
阿倍寺の礎石
大阪市西成区岸里東「天下茶屋公園」内にある「阿倍寺」の礎石。礎石は花崗岩
で出来ており、白鳳時代の五重ノ塔のものと思われ、中央に柱穴を彫り、その穴
の中央に舎利穴がある。
なぜ、松崎町からこの地に礎石が運ばれてきたのかは説明されていない。
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此処から銭湯へ向かう
湯処 あべの橋
大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 大阪市港区2丁目3番33号  深さ 1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身
    ・くじき・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進
    ・切り傷・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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14時50分にJR天王寺駅出待ち合わせ場所へ向かう
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昼飲み会参加メンバーと合流して今日は6人で昼飲み会&カラオケへ

3月5日の酒蔵みてある記大倉本家「大倉」・尺土駅-2

3月13日      3月5日の酒蔵みてある記 大倉本家「大倉」・尺土駅-2
                近鉄ハイキング  歩程約10㎞ 
此の日は知人3人と参加、素晴らしいハイキング日和の中を酒蔵迄歩いた歩いた。、
コース  近鉄駅フリーハイキング  南大阪線 尺土駅受付 10時半~11時
尺土駅(受付)~木戸池公園~相撲博物館~仁王門~當麻寺~黒門~当麻神社
入口~傘堂~中川酒造~道の駅ふたがみパーク(昼食)~大倉本家・粕汁・試飲・
燗酒試飲・抽選会~五位堂駅(ゴール)
酒蔵では通常の常温のお酒の試飲、熱い粕汁の他に燗酒の試飲も有り良い気分。
抽選には4人共外れ、此の日の私の万歩計は23590歩で約15.8km歩いた事に・・・
志都美駅
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JR御所駅~近鉄御所駅
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尺土駅(受付・スタート)
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木戸池公園
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相撲博物館へ向かう
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相撲博物館・・・葛城市HPより
相撲の起源として、「野見宿禰」(のみのすくね)と「當麻蹶速」(たいまのけはや)の
天覧相撲が日本書紀に書かれています。大和の国當麻の邑に「當麻蹶速」という
人物がいました。蹶速は手で角をへし折るほどの怪力の持ち主で、常日頃から
「この世で自分と互角に力比べができるものはいない、もしいればその人物と対戦
したいものだ」と豪語していました。天皇はその話を聞き、家臣に「當麻蹶速と互角
に戦えるものはいないのか?」と尋ねたところ、家来の一人が「出雲の国に野見宿
禰なる人物がいます。この人物を呼び寄せ蹶速と戦わせてはいかがでしょうか?」
と進言しました。天皇は大いに賛成し、垂仁天皇7年7月7日に「野見宿禰」と「當麻
蹶速」の対戦が行われました。お互いに足を上げて蹴りあい、長い戦いの末、けは
やはこの試合で命を落としてしまいました。この「宿禰」と「蹶速」の力比べが国技
相撲の発祥とされ、また、我が国初の天覧相撲といわれております。
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當麻寺へ向かう
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當麻寺・仁王門
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當麻寺・・・葛城市HPより
當麻寺は、612年に用明天皇の第3皇子麻呂子王が河内国に建てた万法蔵院
に始まり、その後、麻呂子王の孫當麻真人国見が役行者ゆかりの現在地に移し
たものといわれます。681年に弥勒仏を本尊として金堂が創建され、以後、講堂
・千手堂(現・曼荼羅堂)・東西両塔などの諸堂宇と、中院(現・中之坊)をはじめと
する塔頭寺院が順次完成していきました。
創建当初は三論宗を奉じる学問寺院でありましたが、823年(弘仁14年)に空海
が当寺に参籠してから真言宗となり、當麻曼荼羅を中心として修法・観想・祈祷
などの仏道実践を重んじる密教寺院に転化した。この當麻曼荼羅は中将姫が
一夜で織りなした伝説とともに全国的に広まり、多くの参詣者を迎えて浄土信仰
の霊場として栄えた。この浄土信仰の高まりによって、南北朝時代には京都知恩
院が當麻寺境内地に往生院(現・奥院)を建立することになり、後に浄土宗が参入
する契機となりました。この結果、現在は真言宗と浄土宗の併立となっています。
平安後期に一時興福寺の末寺となったため、1180年(治承4年)、平家の南都攻
めの際に標的となり、金堂が大破、講堂は焼失してしまったが、間もなく源頼朝
が施主になって再興し、貴重な寺宝を現代に数多く伝えられることとなりました。
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黒門を出て
傘堂へ向かう
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此処までは、
3月5日の酒蔵みてある記大倉本家「大倉」・尺土駅-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-03-13
此処では、當麻山口神社入口~
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※當麻山口神社・・・HPより
古くから近辺の16ヶ所の村(當麻、大橋、西中、勝根、今在家、染野、市場、岡崎、
大中、有井、神楽、築山、大谷、池田、野口、鎌田)の鎮守産土神として広く崇敬、
信仰されてきた旧指定郷社です。延喜式神名帳※(901年)には大和の国に14ヶ
所の山口神社が載り、いずれも式内大社の社格をもち、朝廷から奉納をうけてい
ました。これらの神社は本来、山々の精霊を支配した大山祗命を御祭神としたも
のと思われます。
當麻山口神社のことについては神名帳に「人皇55代文徳天皇仁寿3年(853年)、
夏4月、冬11月これを祀る」とあり、祈年祭、新嘗祭、月次祭には幣帛※が奉納さ
れ、特に祈年祭には幣帛と共に、馬1匹が加えられて奉られていました。三代実
録には清和天皇の貞観元年正月27日(859年)に当神社に正五位を贈られ、天
皇からの遣いが参向して幣帛奉納とあり神社縁起の上からもまことに古い歴史を
もつ由緒深いお社といえます。
摂社、當麻都比古神社の祭神、麻呂子皇子は第31代用明天皇の皇子で聖徳太
子の異母弟にあたり、當麻氏の先祖とされています。當麻寺を創建したこの地の
豪族當麻氏の氏神として男女二神をお祀りしています。延喜式神名帳に式内小
社と記載されています。

※傘堂・・・葛城市HPより
新在家の大池の東畔にある傘堂は、郡山藩主本多政勝候の菩提を弔うため、
その影堂として、恩顧の家臣やこの地域の農民たちによって延宝2年(1674)
に建立されたものです。一辺が約40cmの四角い一本柱を中心に立て、その
上に本瓦葺の方形造の屋根がのる珍しい形の建物で、その全体的な形が唐
傘に似ていることから傘堂(唐傘堂)と呼ばれています。また、いつの頃からか、
安楽往生を願う庶民信仰の対象にもなっています。
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道の駅ふたがみパークへ向かう
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此処にも酒蔵(中川酒造)が
奈良 中川酒造」で調べると、二上山の麓に湧き出づる澄んだ泉のごとくと命名
された清酒「透泉」を醸造する江戸末期創業の酒蔵「中川酒造」が出てきました。
道の駅で「当麻蹶速(たいまのけはや) 720ml を販売しているようです。
知人が此の酒蔵で酒粕とお酒を購入した様ですが銘柄は見て無かったので・・・
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ふたがみパークへ向かう
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ふたがみパークで昼食
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※葛城市ゆかりの有名人・・・葛城市HPより
・柿本人麻呂 ・大伯皇女と大津皇子 ・中将姫 ・飯豊天皇
・司馬遼太郎(しばりょうたろう)
司馬遼太郎氏の母の実家が磐城村(現葛城市竹内)にあったため、氏は幼少期を
この地で過ごしました。旧當麻町は、氏の原風景であったと言えるかもしれません。
「長尾から竹内にのぼる坂が実に印象的であった」
昭和61(1986)年に旧當麻町で行われた講演会で、氏はそう語っています。

酒蔵・大倉本家へ向かう
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大倉本家
 ~酒は本来 素朴・端正をもって極上とする~
地酒「金鼓」「大倉」は、万葉の昔より「天の二上」と親しまれて来た二上山麓で誕生。
以来この地で百有余年、酒の真髄を追い求めて参りました。
山廃でしか出せない蔵の味。自家栽培米ひのひかりで仕込んだこだわりの味。先人
から伝え受けた水もと仕込みの技。創業以来育んできた技法を守りつつ、個性ある
質の良い酒造りを目指し技術の研讃に励んでいます。
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五位堂駅(ゴール)
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3月4日の馬見丘陵公園・河津桜-2

3月11日          3月4日の馬見丘陵公園・河津桜-2
   早朝散歩
この日は、大阪からくわぁまが(子と孫)が来ると言うので近場の馬見丘陵公園へ
河津桜の様子だけを見に行って来た、殆んどの木に花芽がふくらんで蕾が開く木
も数が増えて来てた・・・桜の花が咲き始めると何故か心浮き浮きの季節に・・・
竹取公園駐車場に車を入れて
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道路を横断して馬見丘陵公園へ
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ダダオシ池
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三吉2号墳
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整備中の巣山古墳周濠
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蝋梅は未だ咲いている
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佐味田狐塚古墳
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佐味田狐塚古墳周りの河津桜
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整備中の巣山古墳周濠
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河津桜を撮りながら巣山古墳前丘へ
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此処までは、
3月4日の馬見丘陵公園・河津桜-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-03-11
続きは、巣山古墳前丘周囲の河津桜~
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巣山古墳周濠の手前に次の花が植えられて
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河津桜と足元の雑草
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帰り道の佐味田狐塚古墳
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三吉3号墳
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道路横断して竹取公園へ戻って来た
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2月28日の近江大橋を渡り膳所の城下町散策-2

3月4日      2月28日の近江大橋を渡り膳所の城下町散策-2
              2月度歩こう会会員例会 歩程約8㎞
JR瀬田駅南口(1階) 10時30分集合  参加費300円 参加者は77人だった。
コース
JR瀬田駅~近江大橋~膳所城跡公園~膳所神社~和田神社~石坐(いわい)
神社~義仲(ぎちゅう)寺~JR膳所駅
此の日の私の万歩計は、20745歩で約13.8km歩いた事に・・・
志都美駅へ向かう
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西名阪自動車道の高架
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志都美駅
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JR瀬田駅前で受付
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萱野神社で朝礼
萱野神社(かやのじんじゃ)は、滋賀県大津市にある神社。神紋は「蓑亀」。別称と
して「九帝王宮(九帝王社)」「九大王社」とも。祭神は開化天皇 - 第9代天皇の1柱
で「九帝王大明神」とも称している。
彦坐王命(開化天皇皇子)第4世にあたる治田連(はるたのむらじ)は、淡海国造と
してこの地に居住したといわれる。『国造本紀』には成務天皇期に彦坐王3世孫・大
陀牟夜別が淡海国造に任じられた旨が記され、『新撰姓氏録』には治田連が彦坐
命の後裔で4世孫の彦命に功があり治田連の姓を賜った旨が記されている。治田
連は栗太地域(後世の栗太郡)の開拓に携わったという。そして雄略天皇6年に治
田一族の遠祖である開化天皇を祀ったのが創祀とされる。
和銅8年(715年)に旱魃が発生した際、農民皆が雨乞を行うと、里の山中の洞穴か
ら亀が出てくるとともに大雨が降りだしたという。この伝承に因み神紋は「蓑亀」とい
う独特のものであり、拝殿前には藁で作られた亀が飾られている。当社には古来よ
り氏子や領主、代々の膳所城主の崇敬が篤かったといわれ、境内の寄進も行われ
た。明治に入り、祭神を開化天皇1柱とするとともに、社号も1869年に現在の「萱野
神社」に改めた。
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近江大橋へむかう
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近江大橋を渡る
近江大橋(おうみおおはし)は、滋賀県大津市丸の内町と同県草津市新浜町を結
ぶ琵琶湖上の道路橋である。近江大橋有料道路の一部として滋賀県道路公社が
建設し、管理していたが、2013年12月26日をもって無料開放された。琵琶湖上の
他の道路橋として、南側約3kmに瀬田川大橋、北側約19kmに琵琶湖大橋がある。
全長 : 1,290m。最高点における水面からの高さ : 11.7m
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膳所城跡公園へむかう
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膳所城跡公園で昼
近江大橋西詰のすぐ南側に突き出た地にあった膳所城は、徳川家康が関ヶ原の
合戦の後、築城の名手といわれた藤堂高虎に最初に造らせた城でした。城構えは、
湖水を利用して西側に天然の堀を巡らせた典型的な水城で、白亜の天守閣や石垣
白壁の塀・櫓(やぐら)が美しく湖面に浮かぶ姿は、実に素晴らしかったといいます。
この美観は、「瀬田(せた)の唐橋(からはし)唐金擬宝珠(からかねぎぼし)、水に映
るは膳所の城」と里謡(さとうた)にも謡(うた)われています。
戸田(とだ)・本多(ほんだ)・菅沼(すがぬま)・石川と城主が変わった後、本多6万石
代々の居城として長く偉容を誇りましたが、明治維新で廃城になり楼閣(ろうかく)は
取り壊されました。城門は重要文化財で、膳所神社や篠津(しのづ)神社に移築され
て残っています。
現在、本丸跡は、膳所城跡公園として整備され、春には桜の名所として花見客を多
く集めています。
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此処までは、
2月28日の近江大橋を渡り膳所の城下町散策-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-03-04
続きは、公園散策~
昼食タイムの後に公園散策、集合写真撮影
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膳所神社へ向かう
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膳所神社
社伝によりますと、天智天皇の大津京遷都のとき、膳所の地が御厨(みくりや)の
地と定められ、天武天皇の代に大和国から食物の神を移して祀ったのが膳所神
社の始まりとされていますが、確かな資料は、平安時代、この一帯が天皇の食事
としての湖の魚介類を献上する場所に指定されたことによると言われています。
御祭神は食物をつかさどる豊受比売命(とようけひめのみこと)です。江戸時代、
膳所藩の領地になると、本多家歴代藩主に信仰され、神社の領地や社殿の寄進
がたびたびありました。なお、正面に建っている薬医門は、もともと膳所城の城門
を移築したもので、重要文化財に指定されています。北門や南門も膳所城の門で
すが、南門は近年建て替えられました。
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和田神社へ向かう
和田神社
御祭神は、タカオカミノカミ。本殿は、鎌倉時代の建築で重要文化財に指定されて
います。社伝によりますと、創建は白鳳時代といわれ、現在の社名のいわれは、
この地の湖岸が和田浜と呼ばれていたことによります。 境内にある高さ約24m、
樹齢600から650年と言われる銀杏の木は大津市指定の天然記念物です。関ヶ
原の合戦で敗れ、捕らえられた石田三成が、京都へ護送される途中、この銀杏
の木につながれたという伝説が残っています。
また、和田神社の表門は、江戸時代、文化五年(1808)に創建された膳所藩の
藩校である遵義堂(じゅんぎどう)の門を移築したものです。
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石坐(いわい)神社で時間調整?
今から千三百有余年の昔、神託により天智天皇が勅使を遣わして神代より鎮まり
給う御霊殿山の天津磐座に八大龍王神・海神豊玉比古神(石坐大神)を御鎮斎な
されました。といわれるが、創建年代等は不詳。祭神は彦坐王(ひこいますおう)と、
天智天皇、伊賀釆女宅子媛命(いがうねめやかこひめのみこと)とその子大友皇子
(おおとものおうじ)(弘文天皇)、豊玉比古命、海津見神です。前四柱の神像は平
安および鎌倉時代の作で、重要文化財に指定されています。
古代の文献によれば彦坐王だけを祭神とし、江戸時代には八大龍王社(はちだい
りゅうおうしゃ)と呼ばれて水神として広く信仰を集めたといいます。かつては、相模
(さがみ)川上流の御霊殿(ごりょうでん)山上にありましたので、山には今でも祠
(ほこら)が残っています。本殿は、市を代表する鎌倉時代の神社建築で、古色(こ
しょく)豊かで優美な姿をしています。神像とともに、重要文化財です。
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義仲寺へ向かう
義仲寺
義仲寺の名は、平家討伐の兵を挙げて都に入り、帰りに源頼朝軍に追われて粟津(あ
わづ)の地で壮烈な最期を遂げた木曽義仲(きそよしなか)(1154-84)をここに葬ったこ
とに由来しています。近江守護であった佐々木六角が、室町時代末期に建立したとい
われています。江戸時代中期までは木曽義仲を葬ったという小さな塚でしたが、周辺
の美しい景観をこよなく愛した松尾芭蕉(1644-94)が度々訪れ、のちに芭蕉が大阪
亡くなったときは、生前の遺言によってここに墓が立てられたと言われています。
境内には、芭蕉の辞世の句である「旅に病て夢は枯野をかけめぐる」など数多くの句
碑が立ち、偉大な俳跡として多くの人が訪れます。このほか、本堂の朝日堂(ちょうじ
つどう)・翁堂(おきなどう)・無名庵(むみょうあん)・文庫などが立ち、境内全域が国の
史跡に指定されています。
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※源義仲
源 義仲 (みなもと の よしなか)は、平安時代末期の信濃源氏の武将。河内源氏
の一族、源義賢の次男。源頼朝・義経兄弟とは従兄弟にあたる。木曾 義仲(きそ
よしなか)の名でも知られる。『平家物語』においては朝日将軍(あさひしょうぐん、
旭将軍とも)と呼ばれている。
以仁王の令旨によって挙兵、都から逃れたその遺児を北陸宮として擁護し、倶利
伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って入京する。連年の飢饉と平氏の狼藉によっ
て荒廃した都の治安回復を期待されたが、治安維持の失敗と大軍が都に居座った
ことによる食糧事情の悪化、皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和とな
る。法住寺合戦に及んで法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となるが、源頼
朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれた。
巴御前は義仲の妾、夫人では無い。

JR膳所駅へ向かう
膳所駅-京都駅-大阪駅-王寺駅へ
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2月27日の馬見丘陵公園の河津桜&梅林-2

3月3日        2月27日の馬見丘陵公園の河津桜&梅林-2
                早朝散歩に河津桜と梅林へ
河津桜は未だか河津桜は?今年は中々咲かないな、と思いながら行ってみた。
前回訪れた時は1本の木だけに花が開いていたが今回は多くの木に花が・・・
家内を職場におろしてその足で竹取公園の駐車場へ車を入れて馬見丘陵公
園の河津桜と梅林を巡って帰る?河津桜は1本ずつ花は開いていないかを・・・
此の日は、漸く花らしい花の付いた河津桜を見る事が出来て満足した。
何時もの竹取り公園の風景・・・
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馬見丘陵公園へ陸橋を渡ってダダオシ池
池の周りの河津桜は未だ未だつぼみ硬い・・・
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三吉2号墳
巣山古墳の西に築かれた北向きの帆立貝式古墳で、全長93メートルを測る。
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蝋梅は未だ未ださいている
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佐味田狐塚古墳
此の辺りの河津桜も何本かの木にチラホラ・・・
巣山古墳外提の北西に接して築かれた帆立貝式古墳である。墳丘全長78m、
後円部径54~56m、同高7m、前方部長20m、同幅31m、同高5mで周囲に浅
い空濠がめぐる。町道建設により後円部中央を分断されているが、発掘調査
で木棺を粘土で保護した粘土かくが確認され、鏡や鉄刀の破片等が出土して
いる。築造時期は古墳時代前期後葉と考えられる。
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巣山古墳の周濠は・・・
巣山古墳(すやまこふん)は、形状は前方後円墳。馬見古墳群を構成する古墳
の1つ。国の特別史跡に指定されている。
全長204m、後円部径110m、高さ25m、前方部幅94m、高さ21m。後円部の頂
上は径45mの平坦な地形になっている。
周濠は楯形で、幅は後円部側で33m、前方部側で37m、くびれ部造り出し周辺
で57mである。周濠の外堤は最大幅が27m、南の一部、東側、北側の一部に築
堤を行い、特に東面と北東周辺が高く、幅広い築堤となっている。
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巣山古墳前丘へ向かう
通路の左側は花がチラホラ、右側の木は蕾硬い
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巣山古墳前丘の周囲の
河津桜は21本中5本にチラホラ
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此処までは、
2月27日の馬見丘陵公園の河津桜&梅林-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-03-03-2
続きは、墳観橋を渡って倉塚古墳~
倉塚古墳
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梅林
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梅林側から見る佐味田狐塚古墳
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佐味田狐塚古墳の周濠、空堀り
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墳丘から見る梅林
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墳丘頂上へ登って道路を渡る
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巣山古墳側へ下って振り返ると
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巣山古墳側は蝋梅
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いにしえの丘を竹取公園側へ
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道路を渡ると竹取公園の駐車場
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2月24日の斑鳩のさと法隆寺から郡山城跡盆梅展へ-2

3月3日      2月24日の斑鳩のさと法隆寺から郡山城跡盆梅展へ-2
                近鉄駅フリーハイキング  歩程約12㎞
知人と2人で参加、風が少しで陽射しが結構あったので丁度良いハイキング日和。
コース 近鉄駅フリーハイキング 生駒線 王寺駅受付 9時半~11時
王寺駅(受付)~鹿塚~寺風集会場~健民グランド(トイレ休憩)~藤の木古墳~
法隆寺~中宮寺墓~法輪寺~山背大兄王墓跡(昼食)~法起寺~九頭上池~
郡山城跡・柳沢神社・天守跡・盆梅展~郡山市街~JR郡山駅
此の日の私の万歩計は31170歩で約20.9km歩いたことになっていました・・・
近鉄生駒線王寺駅を
スターとして大和川を渡る
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国道25号線の竜田川を渡る
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鹿塚
昔、聖徳太子が多くの家臣とこの辺りを通った時、家臣の飼い犬が鹿と喧嘩
をして、犬が鹿の足に噛み付き、それを見た太子が鹿の手当てをして逃がしまし
たが、数日後、また犬が鹿を噛み殺したので、太子がこの事を深くお考えになり、
これは前世の宿業によるもので、恨みの恐ろしさを悟り、それを忘れない様に鹿
塚を造りました。
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お寺風の集会所
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健民グランドへ向かう
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健民グランド(トイレ休憩)
グランド前の池
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藤ノ木古墳へ向かう
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藤ノ木古墳(国指定史跡)
藤ノ木古墳(ふじのきこふん)は玄室内から大量に出土した土師器、須恵器の年代
から古墳時代後期、6世紀第4四半期の円墳であると推定されている。この時期に
畿内では前方後円墳の造営が終わりに近づいていた。藤ノ木古墳は、法隆寺(斑鳩
宮)の創建よりも古く550年から600年の間に造営されたと云われている。(法隆寺の
創建:600年代初期)大和での埴輪の設置は6世紀前半で終わったと考えられていた
が、墳丘裾には円筒埴輪が並べられていて、従来の見解を訂正することになった。
未盗掘の横穴式石室で、家形石棺に成人男性2人が合葬されていた。
副葬品が金銅製の馬具や装身具類、刀剣類などであるからこの当時の支配階級の
一人であったと考えられているが、円墳であることから大王クラスではなく、その一族
の人物であったと推測されている。
2人の被葬者が『日本書紀』が記す587年6月の暗殺時期と一致することなどから、聖
徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅
部皇子の可能性が高いと論じている。
一方、副葬品や埋葬の様子から「元々穴穂部皇子の陵墓であった所に同母弟崇峻天
皇が合葬された」との説もあり、なお、南側被葬者については、女性説も存在する。
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法隆寺西門へ向かう
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法隆寺西門から入る
世界最古の木造建築。多くの建造物などが国宝・重文に指定され、1993年12月には
法起寺と共にユネスコの世界文化遺産に登録されています。
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八角堂、夢殿とおなじ
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東門へ抜けて夢殿
夢殿
行信僧都という高僧が、聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に建てた伽藍を
上宮王院(東院伽藍)といいます。その中心となる建物がこの夢殿です。八角円堂の
中央の厨子には、聖徳太子等身と伝える秘仏救世観音像(飛鳥時代)を安置し、そ
の周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代
に夢殿の修理をされた道詮律師の塑像(平安時代)なども安置しています。この夢
殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える
聖徳太子を供養するための殿堂として、神秘的な雰囲気を漂わせています。
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中宮寺宮墓へ向かう
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中宮寺宮墓地
宮内庁が治める陵墓
被葬者は、高栄女王(後西天皇皇女)・栄恕女王(霊元天皇皇孫女)・栄暉女王
(霊元天皇皇曾孫女)。尊智女王(後伏見天皇八世皇孫女)・尊覚女王(後伏見
天皇十一世皇孫女)・成淳女王(後伏見天皇十八世皇孫女)それと後西天皇塔
の6基1塔からなる。
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中宮寺宮墓地前のなぎの木の実
なぎ
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法輪寺へ向かう
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法輪寺
聖徳太子の病気平癒を願って山背大兄王が建立したといわれる。(諸説あり)。
三重塔は1975年の再建である為、世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」には
含まれていない。
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此処までは、
2月24日の斑鳩のさと法隆寺から郡山城跡盆梅展へ-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-03-03
此処では、続きの山背大兄王墓跡~
山背大兄王墓跡(昼食)
山背大兄王(やましろのおおえのおう、生年不詳 - 皇極天皇2年11月11日(643年
12月30日))は、『日本書紀』によれば7世紀前半の皇族。『上宮聖徳法王帝説』よ
り厩戸皇子(聖徳太子)の子。母は蘇我馬子の娘・刀自古郎女(とじこ の いらつめ)
で大臣・蘇我入鹿とは従兄弟に当たる。
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法起寺へ向かう
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法起寺
法起寺(ほうきじ、ほっきじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町岡本にある聖徳宗の寺院。
古くは岡本寺、池後寺(いけじりでら)とも呼ばれた。山号は「岡本山」(ただし、奈
良時代以前創建の寺院にはもともと山号はなく、後世付したものである)。本尊
は十一面観音。聖徳太子建立七大寺の一つに数えられることもあるが、寺の完
成は太子が没して数十年後のことである。「法隆寺地域の仏教建造物」の一部と
して世界遺産に登録されている。
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九頭上池(くずがみ池)
615年(推古23年)聖徳太子が46の巨刹を創建し、その内の西岳院と満念院が共
に最後に建立され、いずれも満願寺と名乗り、今は満願寺町に町名だけを残す廃寺
ですが、その南約150mの所に太子が造成された池で、池畔を春、夏、秋、冬の各
ゾーンに分けて、浮御堂もあり、九頭上とは九つの頭の上に太子が乗っている意味。
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郡山城跡へ向かう
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郡山城跡・柳沢神社
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天守閣跡が整備され4月オープン
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郡山城跡・盆梅展へ
会場へは入らず外の梅だけで満足
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郡山市市街・紺屋川
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薬園(やくおん)八幡神社の梅
鳥居の横に「国史現在社薬園八幡神社」の石碑が立っている。これは『続日本紀』
(巻十七)に、「天平勝宝元年(747)十一月、於南藥園新宮大甞。以因幡爲由機
國。美濃爲須岐國。」とあることによる。大仏造営の宇佐八幡大神が多いに力を発
揮し、宇佐から八幡大神を大和に勧請した。その際、平城京の南、当社の北約1k
mの梨原の薬園新宮内にお迎えした。それが当社の創建の由緒。後に東大寺へ
遷座の際御神霊の分霊は当社にとどまった。
聖武太上天皇の勅願で、朝廷より奉幣に預かったが、次第に衰え、足利時代末期
に当地に遷座した。
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王寺駅から信貴山を撮る
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