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1月18日の馬見丘陵公園-蝋梅を??-2

1月22日     1月18日の馬見丘陵公園-蝋梅を??-2
             内科検診&眼科検診の病院帰りに
3ヶ月毎の内科検診と2ヶ月毎の眼科検診を済ませてその足で馬見丘陵公園
へ行ってみた。気になる蝋梅&梅林&河津桜?を見に・・・
蝋梅ポイントは咲き始めていたが、梅林と河津桜並木は未だ未だ蕾みかたし。
竹取り公園の駐車場に車を停めて馬見丘陵公園の蝋梅ポイント南エリアから
中央エリアにかけて途中の河津桜並木と梅林をKさん札しながら歩いて来た。
ユリノキに花の後が多数?私の万歩計は、5383歩で約3.9km歩いた事に・・・
竹取り公園
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竹取り公園から陸橋を渡って
馬見丘陵公園、タダオシ古墳
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三吉2号墳~いにしえの丘へ
蝋梅
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山茶花
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巣山古墳の西側を
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河津桜並木~陸橋
陸橋から巣山古墳前丘
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陸橋をカリヨンの丘へ
陸橋から倉塚古墳
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梅林
まだまだ蕾み固い
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狐塚古墳
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蝋梅
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ウッドデッキへ向かう
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ウッドデッキを上池&陽だまり広場へ向かう
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トチノキ
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陽だまり広場
春の桜が綺麗
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上池
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ラクウショウ
あちこちに気根が
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此処までは、
1月18日の馬見丘陵公園-蝋梅を??-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-01-21-1
続きは、結びの広場の横を下池へ~詳細を投稿します。
ラクウショウ
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別所下古墳
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下池
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流れの有る坂道を
中央の公園館へ
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中央の公園館前
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結びの広場へ向かう
水仙
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結びの広場
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ナガレ山古墳前
クロガネモチ
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蝋梅
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此処の梅は蕾膨らんでる
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ドウダンツツジ
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ユリノキ・・・昨年花の咲いたあとが?
竹取り公園へ陸橋を渡る
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オタフク南天
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竹取り公園の池
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1月14日の新春!奈良の初歩き-2

1月20日        1月14日の新春!奈良の初歩き-2
             近鉄駅フリーハイキング 歩程約7㎞
此の日は知人と3人で参加、私はJR奈良駅から歩いて15分、近鉄奈良駅東改札口
へまわり、知人2人と10時に合流して、奈良の初歩きへスタート・・・
コース  近鉄駅フリーハイキング 近鉄奈良駅東改札 受付 9時半~11時
近鉄奈良駅(受付)~漢国神社&林神社~率川神社~猿田彦神社~御霊神社~十
輪院~瑜伽神社~天神社~鷺池&浮見堂~高畑駐車場(トイレ休憩)~若宮十五社
巡り(紀伊神社・元春日枚岡神社遥拝所・伊勢神宮遥拝所・雨宮神社・宗像神社・
春日明神・金龍神社・夫婦大国社・若宮社等)~春日大社~奈良公園~氷室神社~
奈良県庁屋上(昼食)&コーヒー~近鉄奈良駅(ゴール)⇒バスでJR奈良駅へ戻った
此の日は天気も良く、私の万歩計は、21179歩で約15.6km歩いたことに・・・
JR奈良駅
旧奈良駅駅舎(観光案内所)
JR奈良駅の北にある奈良市総合観光案内所。国内外の観光客から重宝される奈良
の観光拠点ですが、実はこの建物、平成15年(2003)までJR奈良駅舎として利用さ
れていました。  日本国有鉄道(現JR西日本)によって昭和9年(1934)に竣工され、
その様相は寺院風和風と鉄骨鉄筋コンクリート造の近代的構成でできた和洋折衷の
荘厳なもの。当時の建築技師が奈良の諸寺院の特色ある屋根を参考して考案したそ
うです。このような建築は洋風意匠の建物に比べ、数が少なく貴重です。ところが平成
13年(2001)、JR奈良駅付近の連続立体交差事業で駅機能が新駅に移ったことによ
り、その存続が危ぶまれます。県民や観光客からの存続を望む声や、文化的価値を踏
まえ、県・市・JR西日本の三者協議の末、保存が決定。駅舎をレールと鉄の棒(ころ)
による曳き家工法で、北東へ18m移動を行い、平成21年(2009)年に観光案内所とし
て生まれ変わったのです。.
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浄教寺(じょうきょうじ)
淨教寺は、浄土真宗本願寺派の寺院である。山号は九条山。本尊は阿弥陀如来立像。
『淨教寺由緒略記』によると、開基行延法師は、河内国八尾の庄司で、真野将監行延と
名乗る知勇兼備の武士であった。浄土真宗開祖親鸞上人の直弟子となり、寛元2年(12
44年)3月出家し、法名を行延と賜ったという。第6世の円誓には実子がなかったが、楠
木正季の孫が初陣にあたり深手を負い、円誓の養子となって空信と法名を授かり、第7
世を継いだと伝わる。このため当寺では「九耀菊水」を定紋に用いるようになったという。
また北朝光明天皇の勅願所となり、「称仏明院」の号を賜った。11世行心の代、享禄3年
(1530年)に、河内国から大和国添下郡冨庄西城村に移転し、また永禄2年(1559年)
12世行春の際に、しばらく九条の里に移っていたという。この頃より九条山と号するよう
になった。また天正19年(1591年)、行春は石山合戦の際の忠節を顕如上人から讃えら
れ、御染筆にて「淨教寺」の号を賜り、石山本山内仏の本尊阿弥陀如来を拝領したという。
慶長8年(1603年)3月6日、徳川家康から南都上三條で御赦免の寺地を頂戴し、現在地
へ移転した。
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近鉄奈良駅(受付)~
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漢國神社(かんごうじんじゃ)&林神社
漢國神社は、式内小社(論社)、旧社格は県社。祭神は、園神(そのかみ)として大物主命、
韓神(からかみ)として大己貴命・少彦名命を祀る。延喜式神名帳で宮中宮内省に祀られ
名神大社に列すると記される園神社・韓神社は当社からの勧請であると社伝では伝える。
推古天皇元年(593年)2月3日、勅命により大神君白堤(オオミワノキミ シラツツミ)が園神
を祀ったのに始まると伝える。その後、養老元年(717年)11月28日、藤原不比等が韓神
二座を相殿として合祀したという。かつては春日率川坂岡神社あるいは園韓神社と称して
いたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國神社」という社名になったと伝える。
貞観元年(859年)1月27日、平安京内の宮内省に当社の祭神を勧請し、皇室の守護神と
したと社伝では伝えているが、平安京の園神社・韓神社の社伝とは矛盾している。
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境内社として林神社がある
境内社の林神社(りんじんじゃ)は、日本唯一の饅頭の神社。貞和5年(1349年)に中国か
ら来日し、漢国神社社頭に住居して日本初となる饅頭を作ったという、饅頭の祖・林浄因
が祀られていることが名前の由来。1978年(昭和53年)に菓祖神の田道間守を合祀し、
饅頭・菓子の祖神の神社として関係業界の信仰を集める。林浄因の命日である4月19日
には、菓業界の繁栄を祈願する例祭「饅頭まつり」が行われ、全国各地の菓子業者が神
前に自家製の銘菓を献上するほか、一般参拝者向けにも無料で饅頭と抹茶がふるまわ
れる。また、林家から出た碩学、林宗二の著作『饅頭屋本節用集』に因み、民間印刷業の
原点として9月15日、印刷・出版業界の参列のもと節用集祭りが執り行われる。境内には、
巨石を伏せた饅頭塚もある。
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率川神社(いさがわじんじゃ)
率川神社は、大神神社の境外摂社で、正式名称を率川坐大神御子神社といい、また子守
明神とも呼ばれる。『延喜式神名帳』に「率川坐大神神御子神社 三座」と記載される式内
小社。推古天皇元年(593年)2月3日、大三輪君白堤が勅命により奉斎したとされ、奈良市
最古の神社という。仁寿2年(852年)、文徳天皇の代に従五位下を授けられ、神封6戸(左
京4戸、丹後国2戸)を与えられている。治承4年(1180年)12月、平重衡の乱によって社殿
が消失。中世以降は春日若宮神官により管理され、興福寺とのつながりが大きかった。
そのため、中世期の遷宮記録などは、『大乗院寺社雑事記』に度々記録されている。近世
には春日大社の大宮外院11社の中にあったが、1877年(明治10年)3月、内務省達により
大神神社摂社率川坐大神御子神社と定められた。
本殿中央に御子神(媛蹈韛五十鈴姫命)が祀られ、父母神(西に御父神・狭井大神、東に御
母神・玉櫛姫命)が両脇によりそうような姿で鎮座していることより、古くから「子守明神」とた
たえられ、安産、育児等の神として篤い信仰がよせられている。南辺を流れる率川は、よっ
て子守川との俗称もある。
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猿田彦神社(道祖神社)
猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)は、道祖神社とも呼ばれる。
平城天皇の御代に元興寺境内に創祀されたと伝わる。宝徳2年(1450年)元興寺の大火後、
再々の火難に類焼し、現在の小祠となった。一説には、橘奈良麻呂の乱で無実の罪で獄死
した道祖王の怨霊を恐れ、祀られたのが始めともいう。往古より道祖神、賽神・妻神、開運の
神として近在の信仰を集め、商売繁盛、開運招福、良縁・安産の神として名高い。古歌に、
本社に願をかけた『村のよめ 道祖神に 願をかけ』(明和年間)というものがある。
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御霊神社
御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。南都御霊神社・木比御
霊とも呼ばれる。元興寺五重塔跡の南西に鎮座し、井上皇后・他戸親王等八所大神を祀っ
ている。西紀寺町の崇道天皇社とともに南都二大御霊社とされる。現五條市の宇智郡霊安
寺から延暦19年(800年)に勧請され、御霊会が行われていた。かつては元興寺南大門前に
あり、その門前は井上町と呼ばれる。 元興寺古図には南大門脇に神輿舎が描かれている。
『大乗院寺社雑事記』では元興寺御霊社と記され、文明15年(1483年)9月13日の条には、
『今日元興寺御霊祭也、頭人高畠郷ニ在之云々、此社ハ御霊八所之内、藤原之左上臣時
平公云々』とみえる。 『南都名所集には吉備真備以下の八所御霊を祀ると記され、「八重
桜」にも元興寺鎮守として吉備大臣を祀ったとある。
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※崇道天皇社(すどうてんのうしゃ)は、旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。
紀寺天王とも呼ばれ、かつては璉珹寺(紀寺)の鎮守として祀られた。同寺東北に鎮座。薬
師堂町の御霊神社とともに南都二大御霊社とされる。平城天皇の大同元年(806年)の草
創と伝わる。祭神の早良親王は、天応元年(781年)皇太子となったが、藤原種継暗殺に連
座した疑いを受け延暦4年(785年)に廃嫡された。淡路国に配流の途上、49歳で薨去。淡
路国にて葬られたが、怨霊を鎮めるために崇道天皇の諡号を追贈し、御骨は大和国八島
陵に改葬し、また本社の祭神として祀ったとされる。
五條市の藤井家に蔵される長禄2年(1458年)の「霊安寺御霊大明神略縁起私記」によると、
『又奈良ノ南里ノ紀寺ノ天王ト申スモ、崇道天皇ニテマシマスナリ』とあり、怨霊を鎮める為に
祀った御霊神社の一つである。南都八所御霊の一座として御霊会が行われる。
「大乗院寺社雑事記」の応仁2年(1468年)10月15日の条には、春日大社の末社であり本地
は弥勒菩薩であると記されている。

十輪院(じゅうりんいん)
十輪院は、奈良市十輪院町にある真言宗醍醐派の寺院である。山号は雨宝山。本尊は石
造の地蔵菩薩。開基(創立者)は朝野魚養と伝える。江戸・明治期の町並みが残る奈良町
の一角に位置する。元は大寺院だった元興寺の別院とされ、寺伝によると奈良時代に右大
臣・吉備真備の長男で日中の混血 児とされる朝野宿禰魚養(あさののすくねなかい)が、元
正天皇の旧殿を拝領し創建したと伝わる。その後、弘仁年間には弘法大師が留錫したとい
う。朝野魚養は能書(書道の名人)とされ、空海の書の師ともいうが、伝記のはっきりしない
人物である。十輪院については、『大和名所記(和州旧跡幽考)』のような近世の地誌類には
弘法大師(空海)の創建とも伝え、創建の正確な時期や事情については不明である。
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瑜伽神社(ゆうがじんじゃ)
平城遷都により明日香の地より遷座の地。元宮(明日香)に対して今宮(平城)と言う。
飛鳥坐神社は『出雲国造神賀詞』によれば、飛鳥の神奈備に祭られていた大己貴命の娘の
賀夜奈留美命を祭神としている。従って当所の祭神は賀夜奈留美命であった。現在は摂社
として飛鳥神並社が鎮座。
摂社飛鳥神並社 瑜伽大神の和魂を祀る。次に、興福寺の大乗院の発議で、備前国(岡山
県)から瑜伽第権現を勧請し、手置帆負神と彦狹知神を祭った。その後、再度の興福寺の
大乗院の発議を以て、宇迦御魂大神を祀ることになった。
奈良十六景の中の「瑜伽山の桜」「瑜伽山の紅葉」と二ヶ所も選ばれている。鎮座している
山を瑜伽山と言うようだ。拝殿まで石段を相当数登ると大和国中を見渡せる遮るもののない
景色が現れる。飛鳥まで見えるかどうかは別。神社の名前が特徴的である。「瑜伽」とは仏
教用語で、「中世呼吸と精神の合一をはかる「ヨガ」の語源ともいわれ、平安後期に興福寺
の大乗院が創建され、その守護神として篤く信仰されて、この名前がついたという。
境内には2つの歌碑がある。階段の中腹にあるのが、江戸時代に藤原良材が詠んだ歌の
桜楓歌碑。  春は又花にとひこん瑜伽の山 けふのもみぢのかへさ惜しみて
古来この地は桜と紅葉の名所であったそうだ。紅葉狩りに来た作者は見事な紅葉を惜しみ
つつ、春にまた来て花見をしたいと詠んでいる。
階段を上りきり、本殿の右側にある歌碑は、大伴坂上郎女の歌が刻まれた万葉歌碑である。
ふる里の飛鳥はあれど青丹よし 平城の明日香を見らくしよしも
1300年の昔、平城遷都で奈良にやってきた官人たちは、昔の都である飛鳥に望郷の感を
抱いていた。当時の元興寺周辺(今の高畑町の辺り)の雰囲気が飛鳥に似ていたという。
そこでこの辺りは「平城(なら)の飛鳥」と呼ばれるようになったそうだ。今も小学校の名前な
ど地名にその名残を残している。
万葉歌碑の横には「飛鳥の御井」と呼ばれる井戸があり、これまで一度も水が枯れたこと
がないという。この辺りは水のきれいな土地で近くには酒蔵もある。
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天神社
略縁起では、承保5年(1078年)の草創とされている。後に、元興寺禅定院鎮護の社、興福
寺大乗院の鎮守社となった。祭神はもともと少彦名命であるが、この神は手間天神(てまの
あまつかみ)という別名を持つことより、一般にてまてんじんと呼ばれた。後に奈良のゆかり
の菅原道真公を相殿に祀るようになった。社伝によると、道真が祀られたのは平安時代、
白河天皇の御世であったという。
嘉吉元年(1441年)5月6日、猿楽が執り行われた。享保五年(1720年)10月24日夜、天満
宮が焼失し、同6年5月に造替されている。
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浮見堂へ向かう
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鷺池&浮見堂
浮見堂
奈良公園・鷺池に浮かぶ檜皮葺き(ひわだぶき)、八角堂形式(六角形)のお堂 です。 水面
に写る姿が美しく、水辺の憩いの場となっています。現在の浮見堂は、旧 浮見堂が老朽化
したために、平成3年から平成6年にかけての3年間の修復工事 によって、その美しさを今
によみがえらせました。 ...
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高畑駐車場(トイレ)~
此処までは、
1月14日の新春!奈良の初歩き-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
     http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-01-20
此の続きは、紀伊神社へ向う~
紀伊神社へ向う
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紀伊神社・・・
近世「奥の院」と称されていたこの御社の主祭神五十猛命様は素盞鳴命様の御子神で、
紀伊の国へ樹木の種をもたらした樹神とされています。また境内の南端に御鎮座する当
社の手前には、二つに割れた大石があります。これは鎌倉時代の記録にも見られる「伊
勢遥拝石」で、この間に向けばちょうど伊勢の神宮の方角にあたることから、遥かにお伊
勢様をお参りする場所であります。 鎌倉以降盛んになる伊勢信仰の名残と思われますが、
もともとは磐座の一つとも考えられています。
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伊勢神宮遥拝所
御祭神: 天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおかみ)様(内宮)、豊受大御神
(とようけのおおみかみ)様(外宮)
天地の恵みに感謝する所
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宗像神社
御祭神: 市杵島姫命(いちきしまひめみこと)様
諸芸発達をお守りくださる、七福神の弁天様とも伝えられる神様で天河弁財天と伝えられ
ています
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元春日 枚岡神社遥拝所
御祭神: 天児屋根命(あめのこやねのみこと)様、 比売神(ひめがみ)様
延命長寿の神様
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金龍神社
御祭神: 金龍大神(きんりゅうおおかみ)様
開運財運をお守りくださる神様。後醍醐天皇ゆかりのお宮です。
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佐良気神社(さらけじんじゃ)
御祭神: 蛭子(ひるこのかみ)神様(えびす神様)
商売繁盛、交渉成立をお守りくださる神様
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三十八所神社(さんじゅうはっしょじんじゃ)
御祭神:伊弉諾尊(いざなぎのみこと)様、伊弉冊尊(いざなみのみこと)様、
神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)様
正しい勇気と力をお授けくださる神様
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若宮15社めぐり
若宮15社巡りは、若宮神社を中心とする春日大社の摂社・末社の15社に祈願するもの。
夫婦大國社で受付をして玉串札を受取り、15社に札を納めながら巡ります。
春日大社若宮神社、第1番・若宮神社、第2番・三輪神社、第3番・兵主神社、第4番・南宮
神社、第5番・広瀬神社、第6番・葛城神社、第7番・三十八所神社、第8番・佐良気神社、
第9番・春日明神遥拝所、第10番・宗像神社、第11番・紀伊神社、第12番・伊勢神宮 遥
拝所、第13番・元春日牧岡神社遥拝所、第14番・金龍神社、第15番・夫婦大國社。
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夫婦大国社
夫婦大國社(めおとだいこくしゃ)の祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)と、その妻・
須勢理姫命( すせりひめのみこと)。夫婦円満、良縁、福運の御利益で知られている。
若宮15社めぐりの15番納札社。
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若宮神社
若宮神社の祭神「天押雲根命」(あめのおしくもねのみこと)は、春日大社の第三殿天
児屋根命と第四殿比売神の御子神。本殿は1135年(保延元年)の創建で重要文化財。
若宮15社めぐりの1番納札社。正しい知恵をお授けくださる神様
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春日大社へ向かう
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春日大社
奈良時代の初め、平城京鎮護のために茨城県鹿島神宮の武甕槌命を御蓋山の山頂に
祀ったのが起こりとされています。神護景雲2年(768)称徳天皇の勅命により、現在の
場所に社殿を造営し千葉県香取神宮から経津主命、大阪府枚岡神社から天児屋根命、
比売神をあわせて祀りました。平安時代になると皇族や貴族の春日詣もさかんとなり、
20年ごとの式年造替の確立に伴い、本殿以下各社殿は現在のような規模になりました。
また中世以降になると武家や庶民にも信仰がひろまり、全国各地に3000社を超える分
社がつくられるまでになりました。“万燈籠”で知られるさまざまな形の釣燈籠、石燈籠の
多くは庶民の寄進によるものだということからも、庶民信仰の深さを伺い知ることができ
ます。毎年2月節分の日と8月14・15日にすべての燈籠に火を入れる“万燈籠”の行事
が行なわれ、その幻想的な美しさに、多くの参拝客が訪れます。
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参道
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奈良公園
ムクロジの大木の中に竹が今年は6本に・・・
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氷室神社(ひむろじんじゃ)
氷室神社は、奈良市にある神社。式内小社(論社)、旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。
祭神は、闘鶏稲置大山主命・大鷦鷯命・額田大仲彦命。
由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』にも散見され
る。和銅3年(710年)、元明天皇の勅命により、吉城川上流の月日磐に氷神を奉祀し(下
津岩根社)、厳寒に結氷させたものを氷室に蓄え、翌年に平城京へ献氷させる制度が創
始された。翌和銅4年(711年)6月1日に初めて献氷の勅祭が興され、以降毎年4月1日よ
り9月30日まで平城京に氷を納めた。
奈良朝7代、70年余りの間はこの制度は継続したが、平安遷都後は廃止され、貞観2年
(860年)、清和天皇の時期になって、現在の地に奉遷され、左右2神を併せ三座となった。
社殿が建立されたのは建保5年(1217年)とされている。
以来、春日大社の別宮に属し、式年費用や営繕費、祭礼費などは春日社、興福寺の朱印
高2万石、および社頭所禄、三方楽所料2千石などの一部によって行われたが、明治以降
はこの制度も廃止され、氏子と冷凍氷業界の奉賛により維持される形になっている。
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奈良県庁屋上(昼食)
屋上庭園のツワブキ&屋上から五重の搭
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コーヒータイム~近鉄奈良駅

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1月11日の戎っさんに行こう良い福願って街あるき-2

1月17日     1月11日の戎っさんに行こう良い福願って街あるき-2
              近鉄駅フリーハイキング  歩程約9km
此の日は昼飲み会の新年会へ向けたハイキング、ハイキングの参加者は2人だった、
此の日は非常に寒かった?湯処・あべの橋が定休日だったので新世界ラジウム温泉
へ、通天閣の真下で通天閣が見える露天風呂で温まってから新年会の待ち合わせ。
コース  近鉄駅フリーハイキング 布施駅コンコース受付 9時半~11時  
布施駅(受付)~布施戎神社~巽東緑地~久宝寺緑地(昼食)~久宝寺寺内町~顕
証寺~大信寺~八尾天満宮~常光寺~八尾駅(ゴール)
 → 新今宮駅~新世界ラジウム温泉へ~天王寺駅 
☆1月11日(木)昼飲み会新年会15:00~17:00 甘太郎 会費3000円
此の日の私の万歩計は、24419歩で約18km歩いたことに・・・
布施駅(受付)~布施戎神社
受付
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ほんまち通り商店街
布施駅前通りから西側の通りにあり、50店舗、約350mの両側に面し、商店街入り口に
は、足代のだんじり小屋を設置されており近くには商売繁盛の神様、布施戎神社があり
ます。地域に密着した、昭和の始めよりの老舗の物品販売、各種飲食店、食料品販売、
医院、銀行等が有ります。
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布施戎神社・・・近鉄ハイキング参加者は記念に「金色の値付け」を貰いました。
足代(あじろ)にあった神社で元の名は都留彌(つるみ)神社でしたが大正3年に統合され
荒川に移転し、その神社跡に昭和20年初期に布施戎神社と改名し、現在は、「布施の戎
さん」として親しまれています。又「福娘コンテスト」も実施されており、選ばれた福娘も戎っ
さんに参加し毎年1月9日~11日は賑わいを増しています。
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ほんまち通り商店街
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巽東緑地
大阪市生野区の南東にある、生野区最大の公園です。公園の北側には大きな野球場。桜
並木が春のウォーキングを楽しませてくれます。幼児~小学生の楽しめる遊具が沢山あり
休日には賑わいます。公園の周りは1周約610メートルのウォーキングコースになっており、
ゴムチップ舗装になっているので、足への負担も軽くジョギングも楽しめます。
少し変わった健康器具も幾つかあり、工夫次第で様々な使い方が出来そうで楽しめます。
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久宝寺緑地へ向かう
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久宝寺緑地(昼食)・・・ユリノキの並木で沢山のチュウリップ形の花の後を見た
服部・鶴見・大泉と並ぶ大阪4大緑地のひとつです。甲子園球場の約10倍 の広い園内に
は、「花の広場」や「ファミリー広場」などの憩いのスペースに加え、本格的 なスポーツ施設
が勢揃いしています。 久宝寺緑地の最新トピックスです. 現在、久宝寺 緑地は「都市公園
久宝寺緑地指定管理共同体」が管理を行っております。
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ユリノキ
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久宝寺寺内町へ向かう
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久宝寺寺内町
入口のお地蔵さん
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安井道頓・道卜生誕地碑
八尾市久宝寺3丁目の「八尾まちなみセンター」の中庭に「道頓・道卜生誕 地碑」がある。
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顕証寺(けんしょうじ)
顕証寺は、大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の寺院。山号は近松山。
久宝寺御坊ともいう。 かつて、周囲に寺内町を形成し、現在もその町並みをとどめて
いる。15世紀に本願寺蓮如上人により西証寺として建立。寺内町の中核的寺院です。
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此処までは、
1月11日の戎っさんに行こう良い福願って街あるき-1 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-01-17
続きは、長瀬川~
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アーケード商店街~
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大信寺(だいしんじ)
真宗大谷派 八尾別院大信寺は、大阪府八尾市本町にある真宗大谷派の寺院である。
同派の別院。 真宗本廟(東本願寺)を本山と仰ぐ。「八尾御坊」とも呼ばれる。
石山合戦の講和に端を発する本願寺の内部対立と並行して、河内国渋川郡久宝寺村
(久宝寺寺内町)においても講和派の顕証寺(久宝寺御坊)と抗戦派の慈願寺による
内部対立が発生した。やがて本願寺が東西に分裂すると、顕証寺は西本願寺派、慈
願寺は東本願寺派に属し、関係はさらに悪化した。
慈願寺と森本行誓ら17人の民衆らは、顕証寺と安井氏による久宝寺村の支配に異を
唱え、徳川家康に仲裁を願い出たが認められず、慶長11年(1606年)11月、久宝寺村
を出ることとなった。慈願寺の移転先は家康から東本願寺第12代住職の教如に寄進
された若江郡八尾(現在の八尾市中心部)で、旧大和川(現在の長瀬川)を挟んで久
宝寺村の東にあたる場所である。
慶長12年(1607年)3月、教如によって八尾に大信寺(八尾御坊)が建立され、移転集
落は若江郡寺内村と称するようになり、以降、大信寺を中心とする八尾寺内町へ発展
していく。
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アーケード商店街~
八尾天満宮&八尾戎神社
八尾寺内町の鎮守で、「八尾の天神さん」といわれる。祭神は天穂日命と菅
原道真で、慶長年間に片桐且元が創建したといわれている。中門は寺内町
の木戸門を移建したものと伝えられる。
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八尾戎神社
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アーケード商店街
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常光寺・・初日山常光寺 臨済宗南禅寺派
河内音頭発祥の地、常光寺としても有名
常光寺の開創は古く、奈良時代の初め、聖武天皇の勅願で、行基菩薩が創建したと伝
えられています。平安時代中期の寛治二年(1088)には、白河法皇が本尊・地蔵菩薩
の霊験あらたであることを聞こし召されて、高野山に参詣のおりに当寺に参詣されたと
のことです。その頃は新堂寺と称されていましたが、室町時代の初め康応元年(1389)
足利義満が、当寺の住職・通玄和尚に『常光寺』・『初日山』の扁額を奉納されこの時か
ら初日山常光寺と呼ぶようになりました。
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※禅宗は、3つの宗派で構成されており、黄檗宗・曹洞宗・臨済宗からなる。
もともと臨済宗では、総本山を定めず、中国南宗の五山制度を模した形態をとっていま
した。1386年、鎌倉と京都にそれぞれ五山制度が定められ、京都五山は、南禅寺を別
格とし、一位を天龍寺、二位を相国寺、三位を建仁寺、四位を東福寺、五位を万寿寺とし
た。 鎌倉五山にいたっては、一位を建長寺、二位を円覚寺、三位を寿福寺、四位を浄智
寺、五位を浄妙寺とした。 さらに京都・鎌倉五山の下には十刹諸山が定められたが、以
来返還をへて、五山十刹制度は消え、現在の14派本山となった。
現在の臨済宗14派は、妙心寺派・南禅寺派・東福寺派・建長寺派・大徳寺派・天龍寺派
・相国寺派・建仁寺派・建長寺派・円覚寺派・方広寺派・向嶽寺派・国泰寺派・仏通寺派に
分かれており、各派には雲水が修業する専門道場がある。
常光寺はこの14派の中の臨済宗南禅寺派に属し、南禅寺の禅風は、開山大明国師・創
建開山南院国師・開基亀山法皇の三者により確立され、その流れを汲んでいる。

アーケード商店街
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八尾駅(ゴール)
 → 新今宮駅~新世界界隈
新世界界隈
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新世界ラジウム温泉・・・HPから
大阪のシンボル通天閣の真下に、大阪新世界の銭湯・ラジウム温泉があります。ワン
コインセットで、手ぶらでブラッと入れます。通天閣を眺められる大きな露天風呂では、
本物のラジウム鉱石(人形峠産鉱石)を使い本格的なラジウム温泉を体験して頂けま
す。又、関西でも数少ない高濃度人工炭酸泉風呂設備のある銭湯です。優待駐車場
のサービスも完備しています。朝風呂年中AM6:00から営業。是非お越しください!
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天王寺駅~
居酒屋 甘太郎 
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天王寺駅ホームから
あべのハルカス
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王寺駅で・・・・
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布施戎神社で貰った、近鉄ハイキング参加者は記念に「金色の値付け」・・・
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1月9日の新年にぎわう十日戎に出かけよう-2

1月13日      1月9日の新年にぎわう十日戎に出かけよう-2
              近鉄駅フリーハイキング 歩程約9km
この日は1人で参加、途中で雪&雨も降り、コースを変えて四天王寺をやめて天王寺
駅へ戻った、此の日の私の万歩計は、17903歩で約13.2km歩いたことに・・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 大阪上本町駅地上コンコース受付 9時半~11時
上本町駅(受付)~生国魂神社~八阪神社~大国主神社~今宮戎神社~四天王寺
~上本町駅(ゴール)の予定だったが、今宮戎神社~四天王寺へ向かう途中で雪&
雨で、新世界&通天閣へ抜けて天王寺駅へ向かう途中で雨がやみ、和気橋~茶臼
山~堀越神社~天王寺駅へ戻り、弁当は家へ持ち帰って、暖かい所で食べた・・・
上本町駅(受付)
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籐次寺・・・今回のコースには無かったが以前訪れた事があったので
藤次寺(とうじじ)は、大阪市天王寺区生玉町にある、高野山真言宗の寺院。山号は
如意山(にょいさん)。藤次寺は弘仁年間(810年~824年)に藤原冬嗣の発願により、
甥(おい)の、任瑞上人を開基とする。藤原家の安泰を願い建立された。藤原家を治
める寺であるでゆえに、藤冶寺と称していたが、明治初年には、生玉十坊の一つで
ある地蔵院を合併し、藤次寺と改称し、現在に至っている。
作家・山崎豊子の墓所も藤次寺にあり、墓石の右隣には山崎が生前執筆した全28
作の作品名が刻まれた石碑も存在する。
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生国魂神社
大阪市中心部、難波宮跡や大坂城(大阪城)から南西方の生玉町に鎮座する。かつ
ては現在の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願 寺も建立
され繁栄したが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在地に遷座さ
れている。この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしま
のかみ)は、国土の神霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、
新天皇の即位儀礼の1つである難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神に
祀られた重要な神々で、生國魂神社自体もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとさ
れる。また、同様に大坂城地から遷座されたという久太郎町の坐摩神社とともに、難
波宮との関わりも推測されている。その後中世・近世を通じても崇敬を受け、戦前の
近代社格制度においては最高位の官幣大社に位置づけられた、大 阪の代表的な古
社の1つである。
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道頓堀
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近鉄 大阪難波駅
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南海 難波駅
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難波八阪神社
創建年月日など詳しい資料は残っていませんが、社伝によれば古来「難波下の宮」
と称し難波一帯の産土神でした。後三条天皇の延久(1069年から1073年)の頃か
ら祇園牛頭天王(ごずてんのう)をお祀りする古社として世間に知られていました。
もとは神仏混淆でしたが、維新後、神仏分離により寺は廃絶し、明治5年(1872年)
に郷社となりました。現在のご本殿は、昭和49年(1974年)5月に完成。毎年1月の
第3日曜日に行われている綱引神事は当社の御祭神、素盞嗚尊(すさのをのみこ
と)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、民衆の困苦を除かれた故事に基づき
始められたと言われています。。「摂津名所図絵」や「摂津名所図会大成」にも紹介
されています。また、平成13年(2001年)には、大阪市で初めての無形民俗文化財
に指定されました。
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境内には「戦艦陸奥主砲抑気具記念碑」が
建立されており、陸奥の部材の一部が置かれてます。
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八阪神社を後に
大国主神社へ向う
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大国主神社
社伝によれば、神功皇后が三韓出兵の帰りに立ち寄り、この地に松を三本植えて、
そこに素戔嗚尊を祀り、渡航安全を祈願したのが始まりとし、この松の木にちなみ
「松本宮」と称したという。中世以降は牛頭、天王社、祇園社などの名が残り、明治
初年の神仏分離令により「八坂神社」と改称されている。現在の社名となったのは
明治20年代(1887~96年)である。この「敷津松之宮」は素盞鳴尊、大国主命、
奇稲田姫命、事代主命、少彦名命とポピュラーな名前の神々が祀られている。
「大阪七福神」の1つ『木津の大国さん』で知られる「大国主神社」は「敷津松之宮」
の摂社である。 この大国主神社は江戸時代の1744年(延享元年)に出雲大社か
ら勧請されたと伝えられ、毎年1月9日から11日には大国祭りが行なわれ賑わう。
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境内には木津勘助の銅像と折口信夫の歌碑がある。
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今宮戎神社へ向う
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今宮戎神社
今宮戎神社は、天照皇大神・事代主命・外三神を奉斎しています。創建は推古天
皇の御代に聖徳太子が四天王寺を建立されたときに同地西方の鎮護としてお祀
りされたのが始めと伝えられています。戎さまは、ご存知のように左脇に鯛を右手
に釣竿をもっておられます。そのお姿は、もともと漁業の守り神であり、海からの幸
をもたらす神を象徴しています。当社の鎮座地もかつては海岸沿いにあり、平安中
期より朝役として一時中断があるものの宮中に鮮魚を献進していました。またこの
ような海辺で物資の集まりやすい土地では、海の種々の産物と里の産物、野の産
物とが物物交換される、いわゆる「市」が開かれますが、当社でも四天王寺の西門
に「浜の市」が平安後期には開かれるようになり、その市の守り神としても当社の戎
さまが祀られるようになりました。 時代が経るに従い、市場の隆盛は商業を発展さ
せますので、いつしか福徳を授ける神、商業の繁栄を祈念する神としても厚く信仰
されるようになりました。室町時代以降庶民の信仰はより厚くなり、また大阪の町も
発達し、大阪町人の活躍が始まります。江戸期になると大阪は商業の町としてより
一層の繁栄を遂げ、それと期を一にして今宮戎神社も大阪の商業を護るなると大
阪は商業の町としてより一層の繁栄を遂げ、それと期を一にして今宮戎神社も大阪
の商業を護る神様として篤く崇敬されるようになりました
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此処までは、
1月9日の新年にぎわう十日戎に出かけよう-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-01-13
雪&雨が降り出したのでコース変更して
新世界&通天閣を通って天王寺駅へ向かう~
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新世界&通天閣
通天閣(つうてんかく)は、大阪府大阪市浪速区にある新世界の中心部に建つ展望
塔である。2007年5月15日に、国の登録有形文化財となった。公式キャラクターは
「ビリケン」。大阪の観光名所として知られる。
1903年(明治36年)に開催された第5回内国勧業博覧会の会場跡地に、パリの凱旋
門にエッフェル塔の上半分を乗せたような初代通天閣が1912年(明治45年)7月3日
にルナパークと共に建設された。設計は設楽貞雄。建設費用は約9万7000円で、当
時の入場料は10銭。300尺(91m)という触れ込み(実際は250尺/約75m)で、その
当時東洋一の高さを誇っていた。通天閣は、ルナパークと「ロープ・ウエィ」で結ばれ
人々に親しまれていた。大阪で2番目(非貨物専用としては最初)の昇降機が設置さ
れ評判となった。現在の二代目と同じように塔側面に巨大ネオン広告があった時期
がり(1920年(大正9年)に導入)、当時の広告は「ライオン歯磨」であった(後に阪神
電車の広告も加わる)。
通天閣の電灯工事には当時大阪電灯に勤務していた松下幸之助(後にパナソニック
創業者、当時17歳)が配線工として参加している。
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天王寺公園へ向かう
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和気橋&茶臼山古墳へ寄り道
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和気橋
赤い橋は和気橋という名前がつけられている。788年(延暦7年)和気清麻呂が旧大
和川の流れを変えるため切り開いたといわれる河底池も、この古墳の濠を利用したと
伝わり、現在天王寺区には堀越町や河堀町の地名が残る。
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茶臼山古墳
大塚城(おおつかじょう)は大阪市天王寺区茶臼山町にあった日本の城で、現在は天
王寺公園内にある。大坂冬の陣では徳川家康の陣城として、また大坂夏の陣では真
田信繁(幸村)の陣城として使用された。別名茶臼山砦や茶臼山陣城とも言われてい
る。1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では徳川家康がここに本陣を構えた。大塚城
の山頂部に家康の寝所、番士の多くは北方向の一心寺に駐屯していたと記されてい
る。翌1615年(元和元年)の大坂夏の陣の決戦の際は、豊臣軍の真田信繁がここに
着陣した。茶臼山砦や茶臼山陣城としても有名である。
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茶臼山 標高26m
登頂証明書Get(100円)
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堀越神社(ほりこしじんじゃ)
堀越神社は、大阪市天王寺区茶臼山町にある神社。 聖徳太子が四天王寺を創建し
た際、崇峻天皇を祭神として風光明媚な茶臼山の地に社殿を造営したのが最初と伝
わり、四天王寺七宮の一つに数えられる。
かつて創建当初から明治中ごろまで境内の南沿いに堀があり、この堀を渡って参詣
したのが社名の由来だといわれる。また、古くから「一生に一度の願いを聞いてくださ
る」と、尊崇を集めている。
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天王寺駅へ向かう
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天王寺駅
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1月7日(日)新春ご利益「開運松原六社巡り」-2

1月11日      1月7日(日)新春ご利益「開運松原六社巡り」-2
              近鉄駅フリーハイキング 歩程約10km
此の日の参加者は8人、歩こう会のK池M吉・K場・M村・Y田・他O村さん・I田さんと田原
コース  近鉄駅フリーハイキング  南大阪線 布忍駅受付9時半~11時  19時半集合
布忍駅(受付)~布忍神社~我堂八幡宮~阿麻美許曽神社~屯倉神社~阿保神社~
柴籬神社~河内松原駅(ゴール)・・・2人が先に帰って、残った6人でコーヒータイム 
最初の布忍神社で絵馬を購入(500円)して各神社の参拝印を集めて最後の神社で「開運
干支張子」を授かった、今年で4つ目、4年連続で授かった事になる。
今年は、我堂八幡宮で「お神酒」のふるまいが有ったのと松原市の消防出初式あとの
ふれあい広場でのぜんざいの振舞いに会った。
此の日の私の万歩計は、23053歩で約17km歩いたことに・・・
布忍駅(受付)~布忍神社
大林寺・・・布忍山 大林寺
当山はもとは東大饗村(東おわい村:現堺市美原町)にあったが、1878年(明治11年)当
地に移転した。寺院の西側を流れる西除川の西岸にあった永興寺(ようこうじ:明治6年に
廃寺)の本尊であった十一面観音像や「布忍山永興寺略縁起」、「大般若経600巻」を蔵す
る。この「布忍山永興寺略縁起」によると、永興寺は1069年(寛治3年)永興律師により創
建され、弘安年中(1278~88年)に大和西大寺の叡尊が中興したと伝える。又、近くにあ
る布忍山布忍寺は、この永興寺の塔頭と伝えられ、布忍寺に伝わる「布忍山東坊縁起」に
は、東之坊は聖徳太子が薬師如来を本尊として創建。814年(弘仁5年)空海が再建したが
荒廃し、寛治3年に永興律師が再興し、永興寺と名付けたとあり、平安後期には大伽藍を
誇った寺院が存在していたと思われる。なお、この永興寺の本堂は1887年(明治20年)、
現柏原市にある壺井寺に移築され、現存する。
大林寺は、旧長尾街道に面してある。長尾街道は飛鳥時代の7世紀頃に創られた難波・河
内と飛鳥を結ぶ官道であったといわれる。西除川を挟んで永興寺の鬼門の守宮であったと
考えられる布忍神社がある。
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布忍神社
布忍神社は速須佐男之尊、八重事代主之尊、武甕槌雄之尊の三神を祀っています。社伝
によると十八町北方の天見丘から、この地に勧請したとき道中に白布を敷いて迎えたため、
この地を布忍といい、村里を向井といいます。
本社の鎮座する「布忍」の地名の由来は日本書紀にもある布忍入姫命(ぬのしいりびめのみ
こと、日本武尊の娘のひとり)にあると言われている。本社の創建年については明確でない。
古来より布にまつわる言い伝えがあり、病気平癒、毒虫の退治の神と称えられ、近世では
病気平癒、厄除け、交通安全、商売繁盛のご利益で知られる神社。
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我堂八幡宮・・・振舞いお神酒があり温まりました
我堂八幡宮は厄除宮として有名です。江戸時代の延宝8年(1680)の「我堂村検地絵図」で
は社名がなく、鳥居マークだけですが、延享元年(1744)の「両我堂村明細帳」には「十五社
明神」、享和2年(1802)の「東我堂村明細書上帳」にも「氏神十五社神」と記されています。
江戸時代の延宝8年(1680)の「我堂村検地絵図」では社名がなく、鳥居マークだけですが、
延享元年(1744)の「両我堂村明細帳」には「十五社明神」、享和2年(1802)の「東我堂村
明細書上帳」にも「氏神十五社神」と記されています。明治初年に八幡神社と称した後、大
正2年(1913)に産土神社と改めましたが、いまでは我堂八幡宮の名で信仰されています。
堺市の百舌鳥八幡宮の分霊を勧請したもので、品陀別命が祭神です。境内には、江戸時
代から昭和初期にかけて若者が力競べをした力石・八幡石・明治石・龍王石・金剛石が残
っており、貴重な民俗資料といえるでしょう。
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善正寺・・・真宗大谷派
大阪市平野区にあった真言宗・金剛乗院が、室町時代・明応年間(1492〜1500)に改宗し
現在の最勝寺の地に移転し、浄蓮寺と称するようになりました。安土・桃山時代・文禄2年
(1593)僧順欽の時に「善正寺」と改号。その後、江戸時代・元和2年(1616)に砂村へ移り、
寛永18年(1641)に現在の地に移ったと言われています。
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阿麻美許曽神社へ向う
今池水みらいセンター
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※久多美神社(関西出雲大社)
昨年は、寄り道して久多美神社(関西出雲大社)も参拝したが、今年は行かなかった・・・
この神社は河内天美駅の北西約800mに鎮座しています。鳥居には「久多美大神」、境内
の「記」には「関西出雲大社」という社名が記されています。参道や境内等が綺麗に整備さ
れ社殿は出雲大社そっくりの大きさや造りです。御祭神:久多美大神。

阿麻美許曽神社(あまみこそじんじゃ)
阿麻美許曾神社は、大阪市東住吉区矢田にある神社。延喜式神名帳に記載されている
河内国丹比郡の式内社で、旧社格は郷社。阿麻美許曾神社は式内社であり、社伝によれ
ば、大同年間(大同元年=806年頃)の創建とされているが、おそらくそれより古いであろう
とされている。「許曽」は新羅の言葉に由来するとされ、朝鮮半島からの渡来人が先祖を
祀ったのが起こりではないかとされている。
この神社を含む一帯はもともと(後に大阪市の一部となる)矢田村の一部であったが、江戸
時代に大和川の付け替えにより川が矢田村を分断し、神社は大和川の南岸に切り離され
てしまうことになった。この際に、南岸に残された矢田村の大半は後の松原市となる側に編
入されることになったが、神社は矢田村の氏神であったことから、神社の周囲と参道のみは
矢田村に残留した。このために、神社周辺は大和川の南岸にありながら大阪市に属してお
り、参道に相当する部分(下高野街道)が細長く松原市に食い込んで大阪市として存在して
いる。
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大和川河川敷で松原市消防出初式&ふれあい広場
丁度「ふれあい広場」が始まり、お持ち入りのぜんざいが振る舞われて温まりました。
おまけに抗菌マスク入れやホカホカカイロも貰いました。嬉しいー!(^^)!
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大和川の河川敷を歩いて
昼食場所を探す
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此処までは、
1月7日(日)新春ご利益「開運松原六社巡り」-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-01-11 
此処では此の続きを、大和川河川敷で昼食~
大和川河川敷で昼食
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屯倉神社へ向う
昼食を終えて大和川堤防道路~中高野街道
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屯倉神社(みやけじんじゃ)
屯倉神社は、天慶5年(942)に菅原道真を祭神として創祀されたと伝えられています。当地
にはもともと、土師氏(のち菅原氏に改姓)の祖神である天穂日命を祀る穂日の社があり、
同社は、のち依羅三宅天満宮ともよばれるようになりました。本殿には神像として菅原道真
像が安置されています。今年は梅は?未だ咲いていなかった・・・・
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阿保神社(あおじんじゃ)
道真公が、大宰府に流されていく途中、道明寺の覚寿尼に一 夜のいとまごいをされた時
に、この地で休息されたことから、 この地に阿保神社 が建てられた。
阿保神社は菅原道真を祭神とします。境内には「史跡阿保親王住居址」の石碑が建てら
れています。樹齢1000年と云われる楠木がある。楠木の前で8名並んで集合写真を・・・ 
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※阿保親王(あぼしんのう)・・・在原行平・業平の父
延暦11年(792年) - 承和9年10月22日(842年12月1日)は、平安時代初期の皇族。平城
天皇の第一皇子。
大同4年(809年)に四品に叙せられるが、翌弘仁元年(810年)に発生した薬子の変で出家
した父・平城上皇と皇太子を廃された弟・高岳親王に連座して大宰権帥に左遷される。弘仁
15年(824年)平城上皇の崩御後、叔父の嵯峨天皇によってようやく入京を許される。
天長3年(826年)子息の行平・業平等に在原朝臣姓を賜与され臣籍降下させている。翌天
長4年(827年)上総太守に任ぜられる。天長10年(833年)仁明天皇の即位後まもなく三品
に叙せられると、仁明朝では上野太守や治部卿・兵部卿・弾正尹等を歴任した。
柴籬神社へ向かう
海泉池(かいずみいけ)~松原商店街
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柴籬神社(しばがきじんじゃ)
御祭神反正天皇(別名瑞歯別命){正殿}菅原真公(相殿)依羅宿弥(相殿)当社は24代
仁賢天皇の勅命により創建され後世慶長年中に兵火により焼失、その後寛永年中に宮
代代宮寺 観念寺2代目住持覚夢(寛永田年没)によって再建され今日に至っております。
柴籬の宮跡、当跡は大津道(長尾街道)と丹比道(竹内街道)のほぼ中央に位置し、古の
松原荘の内にて大和政権の第18代反正天皇の皇居跡で、五年間この地に都を置き河内
王朝最後の都として、また古事記、日本書紀に丹比柴離宮とあるは即ち本宮であります。
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河内松原駅(ゴール)
2名が先に帰り、残りの6名で駅前のコメダコーヒーで反省会??
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久し振りに通った家の近所、高速道路の裏道で・・・
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12月23日のまぼろしの大仏鉄道の遺構を巡る-2

2018年1月5日    12月23日のまぼろしの大仏鉄道の遺構を巡る-2
               JRふれあいハイキング 歩程約13㎞
知人と2人で参加(K場さん・田原)、歩こう会&歴史探訪のE本さんも参加していた・・・
コース  JRふれあいハイキング  桜井ウオーキングクラブ主催  参加費用500円
加茂駅(10時集合)~加茂駅構内のランプ小屋~観音寺橋台~鹿背山橋台~梶ケ
谷隧道~赤橋~城山台公園(トイレ休憩)~梅美台公園(昼食・トイレ休憩)~松谷川
隧道~鹿川隧道~黒髪山トンネル跡~鴻ノ池運動場(トイレ休憩)~興福院前~大仏
鉄道記念公園~佐保川鉄橋跡~2人で寄り道(西方寺)して~JR奈良駅(ゴール)
此の日は朝は冷え込んでいたが陽が登るとだんだん暑くなり、暑い暑い、途中から
上着を脱いで歩いた、2年越しの歩きたかったコースを歩けた。参加者は180人・・・
私の万歩計は、25219歩で約18.6km歩いた事に・・・
加茂駅(10時集合・スタート)
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※「大仏鉄道」とは、
明治時代の鉄道会社「関西(かんせい)鉄道」の加茂と奈良を最短距離で結んだ、約10
キロの路線のこと。明治31年(1898年)、加茂駅から大仏駅(現在の奈良駅北1.1km)の
区間が開通。大仏駅は、奈良の大仏(東大寺大仏殿)の最寄り駅としてすごく賑わった。
翌年には奈良駅まで延伸している。しかし、起伏の多い路線だったため、明治40年、平
坦なルート(現在のJR関西本線)の開通とともに廃線に追い込まれた。わずか9年と言う
短い歴史と当時の資料の乏しさから、いまは、「幻の大仏鉄道」と呼ばれている。

加茂駅構内のランプ小屋
加茂駅の西側にあるレンガ造りの建物。明治30年(1897)10月に完成した加茂駅開業
当時からの建物です。オランダ積みの赤レンガ造りで切妻屋根の倉庫としては珍しく、
機関車の前照灯や客室の照明用に使用されていたランプの石油類の給油、保管に使
用されていました。
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蒸気機関車が展示されていた
今上天皇・皇后両陛下がご成婚されたとき、この蒸気機関車が、両陛下を乗せた客車
(お召し列車)をひいて伊勢神宮と橿原神宮に行かれた。「貴婦人」と呼ばれた関西本
線の機関車だが、昭和47年に大仏鉄道のレールで運び、ここに展示された。
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観音寺橋台
加茂駅から歩くこと40分、大仏鉄道ひとつめの遺構。石垣は算木積み。
大仏鉄道の急な高低差を緩和するために作られた石造りの観音寺橋台(手前の高
い方)と併走して現在もJR大和路線が走っています。大仏線の工事とほぼ同時期に
木津(片町方面)へと結ぶ線路が並行して進められていました。
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観音寺小橋台
此処へは行けず・・・
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鹿背山橋台へ向かう
竹林野中を進む・・・
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鹿背山(かせやま)橋台
『鉄道廃線跡を歩くII』(宮脇俊三著・JTB刊)の表紙に採用されたこの橋台は、石積
みの力強さ、形の素晴らしさが一目でわかります。レールを敷けば、すぐに列車が
走れるようです。(案内版より)
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梶ケ谷隧道へ向かう
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梶ケ谷隧道
大仏線築堤を造る際、農道や水路を通すために築堤下部に設けられた隧道です。
壁は煉瓦、側壁は御影石と豪華な作りです。アーチ部分の煉瓦は長手積み坑門
はイギリス積みで当時の技術の高さが良く分かります。保存状態は極めて良く、
大仏鉄道の代表的遺構の一つです。
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赤橋へ向かう
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赤橋
御影石と煉瓦を組み合わせて造られています。長短の赤煉瓦を交互に積むイギリ
ス式です。大仏鉄道の遺構の中でも最も代表的なもので、今も現役で上を車道が
通っています。
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城山台公園(トイレ休憩)
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此処までは、
12月23日のまぼろしの大仏鉄道の遺構を巡る-1 として
           下記のセカンドブログへも詳細を投稿済みです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-01-05 
続きは、城山台公園~梅美台公園へ向かう~
梅美台公園へ向かう
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梅美台公園(昼食・トイレ休憩)
梅美台公園を出発
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松谷川隧道
交差点下の畑地へ下ると松谷川トンネルの遺構が残っています。
松谷川トンネルの上が軌道跡で現在は市道44号線が走っています。
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鹿川隧道
農業用水路の目的で造られた隧道で、今も水路として使われています。細いトン
ネルですが、とてもきれいな石組みでできています。
鹿川トンネルの上が軌道跡で現在は市道44号線が走っています。
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鴻ノ池運動場へ向かう
歩こう会と歴史探訪の会に入ってるN本さんの後ろ姿が・・・
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黒髪山トンネル跡
昭和41年頃迄残っていた大仏鉄道唯一のトンネル、道路拡張で取り壊されて
今は残っていない

※大仏鉄道とは-2
急坂すぎて、蒸気機関車のパワーでは登れず、乗客が降りて押したり、線路
沿いの住民が押したりした事もあったと伝えられているほど起伏に富んだ大
仏鉄道の路線。

鴻ノ池運動場(トイレ休憩)
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興福院前~大仏鉄道記念公園へ向かう
小学校の門の横に大人の拳より大きな松ぼっくり・・・
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大仏鉄道記念公園
大仏駅跡を記念する公園「大佛鐵道記念公園」です。機関車の動輪モニュメント
と説明碑があります。
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佐保川鉄橋跡
船橋商店街内、佐保川に架かる下長慶橋の川底より平成19年(2007)大仏鉄道
鉄橋跡の煉瓦橋脚の基底部が発見されました。
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2人で寄り道 西方寺
西方寺
奈良市油阪町の浄土宗寺院『西方寺(さいほうじ)』(山号「草鞋山(そうあいざん)」)
は、行基菩薩によって、神亀年間(724年~729年)に創建されたと伝わる古刹です。
創建の地は、多聞山(現在の若草中学校付近)。室町時代に松永久秀が多聞山城
を築くにあたり、1559年に現在の油阪町へ移転しました。その際に、正親町天皇か
ら「南都総墓所」の綸旨も賜っているという、由緒あるお寺です。
ご本尊は、国の重要文化財に指定されている「阿弥陀如来坐像」。修行中の宮本武
蔵が西方寺に逗留した際、朝夕この阿弥陀さまに祈ったという由来から「心経念仏
の弥陀」とも呼ばれているとか。
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JR奈良駅(ゴール・解散)
旧奈良駅駅舎、今は観光案内所
JR奈良駅の北にある奈良市総合観光案内所。国内外の観光客から重宝される
奈良の観光拠点ですが、実はこの建物、平成15年(2003)までJR奈良駅舎とし
て利用されていました。
日本国有鉄道(現JR西日本)によって昭和9年(1934)に竣工され、その様相は
寺院風和風と鉄骨鉄筋コンクリート造の近代的構成でできた和洋折衷の荘厳な
もの。当時の建築技師が奈良の諸寺院の特色ある屋根を参考して考案したそう
です。.
このような建築は洋風意匠の建物に比べ、数が少なく貴重です。ところが平成13
年(2001)、JR奈良駅付近の連続立体交差事業で駅機能が新駅に移ったことに
より、その存続が危ぶまれます。県民や観光客からの存続を望む声や、文化的
価値を踏まえ、県・市・JR西日本の三者協議の末、保存が決定。駅舎をレールと
鉄の棒(ころ)による曳き家工法で、北東へ18m移動を行い、平成21年(2009)年
に観光案内所として生まれ変わったのです。.
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新年明けましておめでとう御座います

2018年1月1日     新年明けましておめでとう御座います

         旧年中は 大変お世話になり 有難う御座いました。

            本年も どうぞ宜しく お願い致します。

         皆さま方におかれましても

       今年一年が良いお年になります様 心からお祈り致します。


   今朝は、雑煮を頂き、買い置きのおせちを出しました。
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   ☆今年は、2月初旬に奄美大島へ行ってきます。
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加計呂麻島 実久~芝の林道から無人島の江仁屋離&東シナ海
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12月22日のハイキング上本町駅~布施駅-2

12月31日     12月22日のハイキング上本町駅~布施駅-2
            昼飲み会ハイキング・てくてくマップ 約11㎞
知人と4人で「てくてくマップ」の初めてのコースに挑戦してみた・M吉・K場・S藤・田原
コース  本来なら上本町駅~枚岡駅への16kmコースだが途中でUターンを考え・・・
上本町駅(駅改札印)~鎌八幡~東雲稲荷神社~玉造稲荷神社~八阪神社~熊野
大神宮~法明寺~深江稲荷神社~天神社~法観寺~植田家住宅~新御厨北大橋
~八釼神社~Uターンして若江岩田駅 約11kmに挑することに挑戦した・・・
しかし、深江稲荷神社迄でUターンして布施駅へ戻る事に、銭湯から居酒屋へ仲間が
待つ天王寺へ。此の日の私の万歩計は、23826歩で約17.6km歩いたことに・・・
上本町駅(駅改札印)~鎌八幡
鎌八幡(円珠庵)
円珠庵(えんじゅあん)は、大阪市天王寺区空清町にある真言宗豊山派の寺院。
天和元年(1681年)6月百姓太郎左衛門が契沖に深く帰依して所有地を寄付したのが
当庵の起こり。元禄14年(1701年)1月25日に契沖は当庵にて62歳で亡くなり、墓所は
境内にある。
鎌八幡(かまはちまん)
元和の大坂冬の陣の時真田信繁(幸村)が、陣所内にて当時信仰を集めていた御神木
に、「鎌八幡大菩薩」と称して慣例に習い鎌を打ち込み、必勝を祈願したところ、大いに
戦勝をあげたと伝承されている。江戸時代以降は、真言宗の祈祷と結びつき、現在の形
の「悪縁を断つ鎌八幡」として信仰を集め、現在に至っている。
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※契沖(けいちゅう
寛永17年(1640年) - 元禄14年1月25日(1701年3月4日))は、江戸時代中期の真言宗
の僧であり、古典学者(国学者)。
摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市北城内)で生まれた。釈契沖とも。俗姓は下川
氏、字は空心。祖父・下川元宜は加藤清正の家臣であったが、父・元全(もとたけ)は尼崎
藩士から浪人となったため、8人の子は長男を除いて出家したり養子として家を離れざる
を得なかった。契沖は、幼くして摂津国東成郡大今里村(現在の大阪市東成区大今里)の
妙法寺の丯定(かいじょう)に学んだ後、高野山で東宝院快賢に師事し、五部灌頂を受け
阿闍梨の位を得る。

東雲稲荷神社・・・玉造稲荷神社分社(旧社名 東雲稲荷神社)
現在、玉造稲荷神社分社の地は江戸時代に玉造を代表する町人である松屋甚四郎、そ
の手代源助が「浪花講」を設立した場所にあたる。甚四郎は唐弓弦師として全国を行商
した経験から、当時の旅は安全性が乏しく、旅人に安全で信頼のおける旅を提供しようと
この組織を設立した。
この「浪花講」は、現在の協定旅館・旅行斡旋業の祖とされ全国へと広がった。全国各地
の旅籠などの軒先には「大坂・浪花講」の看板が掲げられ、旅人らはそれを目印に安心な
宿をとる事が出来た。
PC227504.JPGPC227508.JPGPC227510.JPG カトリック教会 PC227512.JPG 玉造稲荷神社 社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建され、当時は比売社と称していた。 蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、 戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。 大坂城の南東にあり、大坂城三ノ丸に位置した当神社。西向きに建てられている本 殿は比較的に少なく大坂の経済を見守るため、西を向いていたとも言われている。 大坂の町を造った豊臣秀吉公は稲荷神を崇敬し当神社を大坂城の鎮守神として祀っ た。また、大坂城における神事の多くは当神社神職が執り行い、慶長八年には豊臣 家より五百石の水田(現・大阪市天王寺区玉造本町)が当神社へ朱印地として寄進 された。 PC227513.JPGPC227515.JPGPC227517.JPG 玉造二軒茶屋跡道標 PC227520.JPG 暗越奈良街道道標 PC227522.JPGPC227527.JPG 八阪神社 当神社の創建は古く、およそ1000年前の寛仁元年(1017年)までさかのぼります。 平安貴族の中でも栄華を極めた関白藤原道長が東成郡中道法性寺なるところに別 邸を建てスサノオノミコト、ククリヒメノミコトの同一神とされる牛頭天皇白山権現を鎮 守の神として奉祀されたのが始まりです。その後、仁安元年 (1166年)に社殿を再 し、天正12年(1584年)には現在の地に遷座。社殿を東向きに配し、牛頭天王白山 権現社と称せられました。そして、明治5年。八阪神社と改め、この地の産土神社と なります。明治42年には境内より暗越奈良街道参詣道を開拓し、街道筋に大鳥居を 建てましたが、大正6年、玉垣を新設するとともにこの大鳥居を移動し、その跡に社 名標石を建てています。 PC227528.JPGPC227530.JPGPC227532.JPG ※暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう) 大阪から奈良へ通じる旧街道として、5百年程度前に開けた街道である。江戸時代、 奈良への最短コースをとる街道として大変賑わったといわれています。 この暗越奈良街道が開けていなかった頃、難波から大和に行くには日本最古の国 道といわれる竹内街道が利用され、また奈良時代には、難波から大和(平城京)に 通じる最短の道があり「日下の直越(ただごえ)道」といわれていたが、後の暗越奈良 街道と一部重複する箇所もあると考えられています。近世になって、豊臣秀吉の天下 統一と、弟、秀長の郡山城での大和支配など奈良との関係で重視されたと伝えられ ています。 起点は高麗橋とされ、東成区の玉造より西から東へと通じ、暗越と呼ばれるように生 駒山系の暗峠を越えて奈良に往っていたので、この名称の由来があります。 現在も大今里辺りは、昔の街道を偲ばせるところがあります。江戸時代中頃から、全 国的にお伊勢参りが盛んとなり、多いときで一日7~8万人の旅人で賑わったといわれ ています。 明治時代に入ると交通機関の発達に伴い、この街道は殆ど利用されなくなりました。 玉津橋~東成警察署 PC227535.JPGPC227537.JPGPC227539.JPGPC227541.JPGPC227543.JPG 熊野大神宮 由緒書きによると、創立年代は1400年以上前になり詳らかではないとのことですが、 「用明天皇2年、厩戸皇子が四天王寺を浪速玉造の岸に創立せられたとき、拾弐坊 の伽藍を建立せられ、当社社務を司らしめられました」とあり、この神社の創建に聖 徳太子が関わっているという伝承があったようです。もとは熊野権現と称していまし たが明治8年権現号を廃し、熊野大神宮と改称した旨が記されています。 由緒書き には紀伊熊野との関わりは明記されていない。 PC227545.JPGPC227548.JPG 妙法寺 聖徳太子の創建と伝えられ、近世国学の祖と言われる契沖(けいちゅう)が、延宝 7年(1679年)から元禄3年(1690年)まで住職をし、また修学の道場としても有名 で、現在大阪府顕彰史跡に指定されています。 契沖は、妙法寺住職となってから本格的に国学研究の学問に専念し、徳川光圀公 の委嘱により、有名な「万葉代匠記」やその他多くの著作を完成させました。 現在妙法寺境内には契沖の供養塔と慈母の墓があります。 PC227547.JPG ※契沖遺跡 昭和24年(1949年)に妙法寺境内は、僧契沖遺跡として大阪府顕彰史跡に指定 されています。近世国学の祖といわれる契沖は、延宝7年(1679年)から元禄3年 (1690年)までの11年間、この妙法寺住職をし、国学の勉強に尽力した。 法明寺 当地で生まれた法明上人(弘安(こうあん)2年、1279-正平(しょうへい)4年、1349) の創建(文保(ぶんぽう)2年、1318)と伝えられる。平和な家庭をもったが、不幸が つづき無常を感じ若くして出家した。高野山・比叡山で修行し、平野の大念仏寺の 中興の祖として尊敬された。 境内には弘長(こうちょう)2年(1262)、暦応(りゃくおう)2年(1339)在銘の2基の石塔 があり、雁(がん)塚とよばれている。ある猟師が雁を射落としたところ首がなく、後日 射た雁はしっかりと別の首を抱いていた。夫婦か親子の雁とあわれみ供養したという 伝説がある。また龕(がん)(仏像などをおさめる物入れ)を埋めたものともいう。 PC227553.JPGPC227555.JPG ※雁(がん)塚 PC227557.JPG 深江稲荷神社 宇賀御魂神(うがのみたまのかみ)ほか二柱を奉斉する旧深江村の氏神で、和銅年 間(8世紀前期)の創建といわれ、慶長8年(1603年)豊臣秀頼が社殿を改造したとも 伝えられます。笠縫部(かさぬいべ)との関係が深く、現在境内が「笠縫邑跡(かさぬ いむらあと)」「深江菅笠ゆかりの地」として大阪府、大阪市から史跡に指定されてい ます。 深江稲荷神社は垂仁天皇の御代、笠縫氏の祖が摂津国東生郡笠縫島の宮浦の地 (今の深江南3丁目の地)に居を定め、下照姫命を奉祀したのが始まりとされ、その 後、元明天皇和銅年間に山城国稲荷神社の御分霊を勧請したと伝えられています。 PC227559.JPGPC227561.JPGPC227565.JPG 桜川公園で昼食 時間が無いので布施駅へ戻り、天王寺へ向かう あべのハルカス&キューズモール PC227566.JPGPC227568.JPG 銭湯 湯処・あべの橋 PC227570.JPG 居酒屋 甘太郎 15時~17時 9名で昼飲み会の忘年会で盛り上がった 20171222_151821.jpg ※天神社~法観寺~以降は股の機会に・・・・ 天神社 奈良街道から北に向かい、参道がのびる天神社(あまつかむやしろ)は集落の中央 にあり、古くは御厨神社と呼ばれ、近世以後に現在の社名(通称:てんじんしゃ)が使 われるようになりました。第二寝屋川南東岸近く、街中のやや微高地に鎮座。 明治以來、現在の東大阪市御厨地区と長田地区とで、どちらの地区の神社が式内の 意支部神社であるかで争つている。御厨は天神社といい、長田は長田神社という。 裁判にもなつたこともあり、現在もまだ解決されていない、論社となったままである。 意支部という社名の難解さが、この神社をわからなくしている一因である。社名の意味 やこの神社を祀つた氏族がはつきりしないので、神社の創建その他の由緒はわから ない。延喜式神名帳だけにみえる神社である。 この地の奥方・置方の地名が意支部に通ずるということから論社とされているが、御厨 天神社は古くは御厨神社と呼ばれていたことから、式内社からもれていたとの伝もある。 ※天神社 旧御厨村の中央に位置し、大名持命、少彦名命の二神をおまつりしています。創建年 代は文献が無く解りませんが、延喜式神名帳にみえる意岐部神社がこの神社であると も伝えられています。古くは御厨神社と呼ばれ、近世以後に現在の社名が使われるよ うになりました。また、大正4年には新家村の菅原神社と菱屋東の稲荷神社と山科神社、 荒本の荒本神社の4社が合祀されました。 境内には、市の天然記念物に指定されている「くすの木」があるほか、本殿東側にある 小さな四社の殿前の元禄10年(1697)銘の石燈篭や拝殿西側にある奈良秋篠寺の石 燈篭と同形の八角形の石燈篭や寛成9年(1797)銘の狛犬、正徳元年銘の手水鉢など の石造物があります。また、枚岡神社から移築された能舞台や村相撲が盛んであった ことを示す番付表も保存されています。ところで、御厨という地名は、朝廷にお供えする 魚介類を獲るため、平安時代の延喜5年(908)、付近に拡がる湖沼一体を「大江御厨」と 定めたことに由来する。 平成15年3月 東大阪市
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12月19日の歩こう会〆は泉佐野の酒蔵で乾杯-2

12月28日     12月19日の歩こう会納会〆は泉佐野の酒蔵で乾杯-2
             納会ハイキング 〆は泉佐野の酒蔵で乾杯 約6㎞
コースは、
日根野駅(受付・スタート)~日根神社~北庄司酒造・昼食・試飲~買い物~日根野駅
北庄司酒蔵の2階「蔵しっくホール」で昼食、利き酒、振舞い酒他でほろ酔い気分になり、
お土産に利き酒のあてについていた「酒粕入りネギ味噌」@600円を購入して帰った。
今年最後の歩こう会参加者は79人と少な目?だったが、〆に相応しいハイキング・・・
此の日の私の万歩計は、16349歩で約12km歩いたことに・・・
日根野駅(受付・スタート)
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日根神社へ向う
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PC197377.JPGPC197379.JPGPC197381.JPGPC197387.JPGPC197389.JPGPC197391.JPGPC197394.JPGPC197396.JPG
日根神社
日根神社(ひねじんじゃ)は大阪府泉佐野市日根野にある神社。和泉国日根郡
の式内社で、和泉五社の一つ(和泉国五宮)。
日本で唯一の枕と寝室の守護神。不眠でお悩みの方(健康, 安眠祈願)や子宝を
願う方(子授け,安産祈願)に特別なご利益があります。
日根神社の創建は明らかではない。霊亀二年(716年)に制定された和泉五社の
うちに数えられており、 延喜式内社日根郡十座のうちに列せられていることから、
1200年以上前であると考えられる。 聖武天皇の御代、天平十四年の大旱魃の
際には五百石を賜っている。
現在の本殿は、社伝によれば天正年間(1573年-1593年)に兵火によって焼失
したものを、豊臣秀頼が再建したものと言われている。
明治6年(1873年)には郷社定則により郷社に指定され、大正13年(1924年)に
は府社に昇格した。
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此処までは、
12月19日の歩こう会〆は泉佐野の酒蔵で乾杯-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-12-28
此処では、続きの日根神社本殿~
日根神社本殿
PC197409.JPGPC197411.JPGPC197413.JPGPC197415.JPGPC197416.JPGPC197418.JPGPC197419.JPGPC197428.JPG

北庄司酒造へ向かう
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北庄司酒造・昼食・試飲&利き酒等
北庄司酒造店の酒造り・・・HPより
佳い酒を少しずつ
泉佐野市日根野地区は古くから農耕の地として栄え、平安時代には「日根野荘」
という荘園が営まれていた歴史とその名残の風景が残されています。北庄司酒
造店は、この地で昔ながらの伝統を受け継ぎながら、手間暇を惜しむことなく高
品質の酒造りを行っています。
当酒蔵が目指すものは、淡麗に流されず、辛口に過ぎない日本酒本来の旨味
です。良質の酒米を高精白し、南部流の「軽ろ味」の技で醸し上げた奥行きの深
い味わい、キレが良く、ふくよかな旨さをお楽しみください。
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酒蔵の2階「蔵しっくホール」で昼食、利き酒、振舞い酒他でほろ酔い気分になり、
土産に利き酒のあてについていた「酒粕入りネギ味噌」@600円を購入して帰った。
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日根野駅へ向かう
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12月16日の梅田の街中~心癒される大阪の公園巡り-2

12月26日    12月16日の賑やかな梅田の街中~心癒される大阪の公園巡り-2
               阪神TRYあんぐるウオーク  歩程約11㎞
知人と3人で参加、参加者数1076人、私の万歩計は、26431歩で約19.5km歩いた事に・・
TRY阪神  近鉄・南海・阪神 TRYあんぐるウオーク 鷺州中公園 受付9時半~10時
阪神・野田駅~10分~鷺州中公園(受付9時半~10時)~大和田街道・梅田街道碑~
福島~梅田・大阪駅前~曽根崎・お初天神~太融寺町・太融寺~扇町公園~天神橋筋
商店街~大阪天満宮~天神橋~中之島公園・バラ園(昼食)~北浜証券取引所~少彦
名神社~御霊神社~大阪科学技術館~靭公園・バラ園・楠永大神・靭海産物市場跡~
津波・高潮ステーション~木津川沿い遊歩道~阪神・ドーム前駅(ゴール)
鷺州中公園(受付9時半~10時)
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大和田街道・梅田街道碑
碑文
この街道は 北区西天満一丁目を起点とし福島区 西淀川区を経由して尼崎に通じる明
治期の物資流通道路であった。起点から西進し堂島 梅田出入橋を経由し かきつばた
で有名な浦江の聖天の南を通り珍しい神事が残る海老江の八坂神社のかたわら 国道
2 号沿いを北に進み 淀川を渡る 姫島神社を右にみて大和田を通り佃漁民ゆかりの地
の佃を経して尼崎市大物町に至る 街道は 古くから阪神間を直結する重要路線の一つ
として西国往来の人や 尼崎 西宮 兵庫の商人など行き来する人が多かった。
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梅田・大阪駅前
まだまだ大人数・・・
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曽根崎
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曽根崎・お初天神(露天神社(つゆのてんじんじゃ))
露天神社(つゆのてんじんじゃ)とは、大阪府大阪市北区曽根崎二丁目にある神社。
通称:お初天神。概ね摂津国西成郡曾根崎村(キタの西半)を氏地とする。
祭神は大己貴大神、少彦名大神、天照皇大神、豊受姫大神、菅原道真の五柱の神を
祀る。社伝によれば、この地はかつて曾根崎洲という大阪湾に浮ぶ孤島で、そこに「住
吉住地曾根神」と祀っていたとされる。創建は西暦700年頃とされ、「難波八十島祭」旧
跡の一社とされている。
天照皇大神を祭神として祀ることから、かつては難波神明社とも呼ばれ、日本七神明
(東京芝神明宮、京都松原神明宮、京都東山神明宮、大阪難波神明宮、加賀金沢神
明宮、信濃安曇神明宮、出羽湯殿山神明宮)の一つにも挙げられた。 社名は、「梅雨
のころに神社の前の井戸から水がわき出たため」ともいうもののほか、菅原道真が太
宰府へ左遷される途中、ここで都を偲んで、
[露とちる 涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出づれば]との一首を詠んで涙を
流したからとも伝えられている。
近松門左衛門のいたころの天神の境内は560余坪の広さがあり、木が鬱蒼と茂ってい
た。近松は当時、天神を「影暗く風しんしんたる曽根崎の森」、「天神の森」と書き記して
いる。太平洋戦争による戦火と、その後の社殿復興のための境内の切り売りが行われ
た結果、現在の広さとなったものである。
元禄16年(1703年)に堂島新地天満屋の遊女「お初」と内本町平野屋の手代「徳兵衛」
が「天神の森(現在の社の裏手)」にて心中を遂げた。一月後近松門左衛門はこの二人
の悲恋を人形浄瑠璃『曽根崎心中』として発表したところ、当時の大きな話題となった。
事件の神社は一躍有名となり、そのヒロインである「お初」の名前から以後今日に至る
まで「お初天神」と通称されている。
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太融寺へ向かう
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太融寺町・太融寺
太融寺(たいゆうじ)は、嵯峨源氏の祖で左大臣・大納言の源融(みなもと・の・とおる)
ゆかりの寺で、大阪市北区太融寺町に伽藍を構える真言宗(高野山真言宗・準別格
本山)の寺院。山号は「佳木山」、院号は「宝樹院」。
821年(弘仁12年)に弘法大師が嵯峨天皇の勅願により創建。1615年(元和元年)5月
の大坂夏の陣の兵火で全焼後、元禄時代に本堂など25の諸堂を再建したが、1945年
(昭和20年)6月に大阪大空襲より再び全焼、戦後になって20余り再建した。
境内には本堂の他に空海(弘法大師)を祀る大師堂、不動明王(一願不動尊)を祀る不
動堂、多くの女性の信仰を集める淀殿の墓所が有る。
PC167227.JPGPC167229.JPGPC167238.JPGPC167241.JPGPC167234.JPGPC167232.JPG

扇町公園・カンテレ
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天神橋筋商店街
天神橋一丁目から天神橋六 丁目まで南北2.6 km、600の店舗が軒を連ねる日本一
長いアーケード商店街である。
PC167246.JPGPC167248.JPGPC167257.JPGPC167260.JPG
大阪天満宮(おおさかてんまんぐう)
大阪天満宮は、大阪府大阪市北区天神橋に鎮座する神社(天満宮)。別名に天満天神・
浪華菅廟・中島天満宮がある。大阪市民からは「天満(てんま)の天神さん」と呼ばれ親し
まれている。毎年7月24日から25日にかけて行われる天神祭は日本三大祭、大阪三大
夏祭りの一つとして知られている。
901年に菅原道真が、藤原時平により九州大宰府へ配転(左遷)させられた際、同地に
あった大将軍社に参詣した。903年に菅原道真が没した後、天神信仰が始まる。949年
に大将軍社の前に7本の松が生え、霊光を放ったという奇譚が都に伝わった。そのため
村上天皇の勅命によって天満宮を建立させたのが始まりである。
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天神橋(てんじんばし)
天神橋は、大川に架かる天神橋筋(大阪市道天神橋天王寺線)の橋で、大阪市北区天
神橋と大阪市中央区北浜東の間を結んでいる。
1594年(文禄3年)の架橋とされ、当初は大阪天満宮が管理していたが、1634年(寛永
11年)に他の主要橋とともに幕府が管理する公儀橋となった。難波橋、天満橋と共に浪
華三大橋と称され、真ん中に位置する。
浪華三大橋の中で全長が最も長い。また、1832年(天保3年)の天神祭において、橋上
からだんじりが大川へ転落して溺死者13名を出す事故があり、「天神橋長いな、落ちた
らこわいな」と童歌に歌われた。現在は、全長219.7メートルの3連アーチ橋である。
此処までは、
12月16日の梅田の街中~心癒される公園巡り-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-12-26
続きは、中之島公園・バラ園(昼食)~
中之島公園・バラ園(昼食)
PC167270.JPGPC167272.JPGPC167274.JPG
難波橋(なにわばし)・・・通称らいおん橋とも言われる
難波橋は、大阪市の大川に架かる橋。浪速の名橋50選選定橋。大阪弁では「ナン
ニャバシ」と発音する。
大阪市中央区北浜~北区西天満の堺筋にかかる、全長189.7m、幅21.8mの橋であ
る。中之島を挟んで土佐堀川と堂島川の2つの川を渡る。橋の中央で下流側に中之
島通を分岐させ、上流側に中之島公園へ降りる階段が設けられている。
難波橋辺りの最初の橋は、元をたどると704年ごろに行基によって架けられたといわれ
ている。天神橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、最も西(下流)に位置する。「浪華
橋」とも表記され、明治末期まで堺筋の一筋西の難波橋筋に架かっており、橋の長さが
108間(約207m)もの大型の反り橋だったという。1661年(寛文元年)天神橋とともに幕
府が管理する公儀橋とされた。
1912年(明治45年)に大阪市電が天神橋筋六丁目まで延伸される際、市電敷設の反対
運動が起こったため、1915年(大正4年)に一筋東の堺筋に新橋が架けられた。パリの
セーヌ川に架かるヌフ橋とアレクサンドル3世橋を参考にして製作されたと言われるこの
新橋が現在の難波橋である。
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大阪証券取引所・五代友厚像
五代 友厚(ごだい ともあつ)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の武
士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生まれ。
大阪経済界の重鎮の一人。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)のあった大
阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。
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少彦名神社
少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)は、大阪市中央区道修町二丁目にある神社。旧社格
は無格社。別称として、道修町の神農(しんのう)さんとして親しまれている。
祭神は、少彦名命(すくなひこのみこと)と神農氏(しんのうし)
祭神は薬・医療・温泉・国土開発・醸造・交易の神であるが、少彦名神社では、薬の神とし
て健康増進、交易の神として商売繁盛の神徳があるとされている。
医薬にゆかりのある祭神を祀っていることから、医薬業に携わる会社・関係者などの信仰
を集めている。病気平癒・健康祈願や医薬業関連の資格試験合格を願う参詣者も多い。
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御霊神社
当社は圓江(つぶらえ:現在の靱)にあった圓神祠(つぶらしんし)が創起で、850年(嘉
祥3年)の「文徳実録」に八十嶋祭の祭場が圓江で行われたとあり、800年代後半の創
建とされる。文禄三年(1594年)に、石州津和野藩主亀井候が邸宅を割いて寄進し、圓
江から現在地の北船場に移され、寛文年中に御霊神社と改称された。頂いた資料による
と、商業金融の中心地の鎮守として商家の崇敬はもとより、山片蟠桃、緒方洪庵、福沢
諭吉を始め、懐徳堂や適塾の塾生もよく参拝したとのことである。
紅葉が残ってて綺麗だった
PC167296.JPGPC167298.JPGPC167301.JPGPC167305.JPGPC167306.JPGPC167308.JPGPC167310.JPGPC167312.JPG
大阪科学技術館
津波・高潮ステーションを体験
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靭公園・バラ園
バラが残っていた
PC167314.JPGPC167316.JPGPC167318.JPGPC167320.JPGPC167323.JPG
靭公園・楠永大神・靭海産物市場跡
楠永大神
楠永神社は東西に延びる靭公園の中央・西園のなわて筋側にあります。
祭神:楠永大神、楠玉大神。ご神木は、樹齢は約300年になる2本の楠木です。
御霊神社の祭神である摂津津村郷の産土神(うぶす)である津布良彦(つぶらひこ)
と津布良媛(つぶらひめ)の二神は、元々この場所で祀られていました。2柱が淡路
へ遷座されてから、楠永大神、楠玉大神として、この2本の楠を祀っているようです。
楠永神社のある場所は、淡路に遷座した御霊神社(ごりょう)があった場所で、御霊
宮旧跡碑が建っています。
御霊神社(ごりょう)は平安時代初期の創建で、靱の地にあり、圓神祠(つぶら・しん
し)と呼ばれ八十嶋祭が行われた由緒ある神社です。
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靭海産物市場跡
楠永神社の裏に永代濱跡碑があります。大坂の魚市場は、江戸時代の初めには
生魚を扱う雑喉場魚市場(大阪市西区・江之子島1丁目)と、干物などを扱う靭海
産物市場に分かれて、発展していきました。この付近一帯の靭(うつぼ)の地は、
江戸時代には永代濱(えいたいはま)と呼ばれ、昆布、塩干魚、鰹節などの靭海
産物市場として栄えました。隣に靭海産物市場跡の碑もあります。
PC167334.JPGPC167337.JPGPC167339.JPG

木津川沿い遊歩道
PC167351.JPGPC167354.JPGPC167357.JPGPC167358.JPGPC167359.JPGPC167362.JPG

阪神・ドーム前駅(ゴール)

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