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11月15日の須磨・源平合戦・源氏物語ゆかりの地巡り-2

11月21日      11月15日の須磨・源平合戦・源氏物語ゆかりの地巡り-2
                 11月度 歴史探訪の会
天気良く、ハイキング日和にも係らず参加者は13人、やはり遠距離がひびくのかな?
此の日訪れた須磨は、西国と畿内を結ぶ要地にあり、奈良時代には須磨の関が置か
れ、平安時代には「源氏物語」に見られる様に貴族の隠棲の場所にもなりました。平安
時代末期には源義経による”逆落とし”で有名源平合戦(一ノ谷の合戦)の舞台にもなり
ました。江戸時代には西国街道を多くの人が往来し、松尾芭蕉や与謝野蕪村などが須
磨を訪れた記録が残っています。又、須磨の地名の由来は、六甲山系の鉄拐山や鉢
伏山が海の近くまで迫り平地の「スミ」にあたる事、山の西で垂水区との境を流れる境
川が古くは摂津と播磨の国境であった事より、隅っこの「スミ」が訛って「スマ」になり、
色々な漢字が当てられた様だが、現在の「須磨」になった、との説があります。
今回のコース
JR須磨駅改札口(10時集合)~村上帝社~関守稲荷神社~現光寺~平重衡捕われ
の松~須磨寺~須磨寺公園(昼食)~松風村雨堂~綱敷天満宮~JR須磨駅(解散)
此の日の私の万歩計は、13531歩で約10km歩いたことに・・・
志都美駅
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JR須磨駅舎から海を
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JR須磨駅&須磨海岸
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村上帝社&琵琶塚
平安時代の末期、琵琶の名手であった藤原師長は唐に渡って琵琶の奥義を極めたい
と思い、都を発った。須磨迄来た夜に村上天皇と梨壺女御の霊が現れ琵琶の奥義を伝
えたので、唐に行く事を思いとどまり、琵琶の名器「獅子丸」を此処に埋めて都に帰って
行った。此の伝承に基づいて土地の人が村上天皇を祀ったとされる。
能の「絃上」は此の伝承を題材にしたもの。師長が琵琶を琵琶を埋めたという塚は一分
が残っている。
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関守稲荷神社
関守稲荷人社は此の辺りにあった「須磨の関」の守護神として祀られたと伝えられて云
います。「須磨の関」は大宝令に定められている摂津の関の事で、天下の三関(伊勢・鈴
鹿の関、美濃・不和の関、越前・愛発(あらち)の関)に次ぐ重要な関でした。境内には源
兼昌の歌碑があります。 百人一首   源兼昌(78番)
        淡路島 かよふ千鳥の 鳴く声に  いく夜寝覚め ぬ 須磨の関守   ...
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現光寺(源氏寺)
正式な名称は藩架山現光寺 正式な名称は藩架山現光寺。「源氏物語」の須磨の巻の舞
台と伝えられている事より光源氏の住居跡といわれ、元は源氏寺とも呼ばれていた。江戸
時代には松尾芭蕉が此の寺に泊まったとも言われ、境内には三段切の名句「見渡せば眺
むれば見れば須磨の秋」の句碑が立っている。
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平重衡捕らわれの松跡
1184年の一ノ谷の合戦で源範頼(頼朝の弟、義経の兄)の軍と戦った平重衡(平清盛の五
男)は戦いに敗れ、退却しようとしたが範頼の郎党に生け捕りにされた。捕えられた重衡は
近くに有った松に腰を掛けて無念の泗を流した。これを見た村人が哀れに思い酒を差し出し
たところ、重衡は大変喜び 「笹ほろや 波ここもとを 打ちすぎて すまでのむこそ濁り酒な
れ」と詠んだと伝わる。平重衡はその後鎌倉に送られたが、重衡に焼き討ちされた南都の
強い要求により南都に引き渡され、木津川の畔で処刑された。
駅舎の角にある
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須磨寺へ向かう
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須磨寺
真言宗須磨寺派の本山で、正式名称は上野山(じょうやさん)福祥寺ですが一般的に須磨寺
と呼ばれています。平安時代に漁師が和田岬の沖で見つけた聖観音像を聞鏡(もんきょう)上
人が此の地に移したのが始まりとされています。一ノ谷の合戦で熊谷直実に討たれた平敦盛
愛用の「青葉の笛」、平敦盛の首塚(首塚は須磨浦公園にあります)、弁慶の鎧、義経腰掛け
の松等、源平ゆかりの重宝や史跡があります。又、境内には松尾芭蕉、正岡子規等文人の句
碑や歌碑等が有ります。
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※平敦盛
平清盛の弟、経盛の末子で笛の名手と伝わる。愛用の「青葉の笛」は敦盛の祖父平忠盛が鳥
羽上皇から賜ったものと言われる。一ノ谷の合戦で源氏方の熊谷直実に討たれるが、直実は
敦盛が我が子と歳の変わらぬ若武者であった事から一度は見逃そうとするが、泣く泣く敦盛を
討った。直実は此れをきっかけに出家したと言われる。
此処までは、
11月15日の須磨・源平合戦・源氏物語ゆかりの地巡り-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-11-21
続きは、須磨寺途中~
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源平の庭
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敦盛首塚
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須磨寺公園(昼食)
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松風村雨堂
平安時代の公家で、歌人でもある在原行平が光考天皇不興をかい須磨に左遷された際に多
井畑の村長の娘「もしほ」と「こふじ」に出会い、二人を「松風」と「村雨」と名付けて愛しました。
行平が都に戻った後も二人は行平を慕い続けて庵を結び行平の無事を祈ったと言われ、現
在のお堂がこの庵の跡と伝えられています。
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綱敷天満宮へ向かう
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綱敷天満宮
菅原道真が大宰府に左遷される途中、風雨を避ける為に須磨に一時上陸した際に、土地の
漁師たちが漁網の大網で円座を作り休息して頂いたとの言い伝えがあります。
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北海道の名付け親
「北海道」名付けの親である松浦武四郎さんが納めた宝鏡があります。 二十五霊社と
は「北海道」を命名した松浦武四郎の定めた天神社25社を指します。
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JR須磨駅(解散)
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11月12日の竹内街道と太子と古代天皇が眠る王陵の谷を巡る-2

11月17日   11月12日の竹内街道と太子と古代天皇が眠る王陵の谷を巡る-2
               朝日&五私鉄リレーウオーク 歩程約13km
今回は知人と3人で「朝日・五私鉄リレーウオーク」と「みなみかわち歴史ウオーク」合同企画
の「日本最古の官道 竹内街道と 聖徳太子と古代天皇が眠る 王陵の磯長谷を巡る」ハイ
キングに参加、参加人数は脅威の4141人、太子町の狭い道路では人間の渋滞迄体験も・・・
アップダウンの多い長距離(13km)ハイキングで少し疲れたが気候に恵まれとても良かった。
私の万歩計は、29130歩で約19.6km歩いたことに・・・
今年、平成29年4月に日本遺産認定!日本最古の国道「竹内街道・横大路(大道)」
平成29年4月5日に開催された日本遺産審査委員会(文化庁)の審議を経て、『1400年に渡る
悠久の歴史を伝える日本最古の国道「竹内街道・横大路(大道)」』が、日本遺産に認定されま
した。大阪府内では初めて、奈良県内では3件目の認定となります。
<タイトル>1400年に渡る悠久の歴史を伝える「最古の国道」~竹内街道・横大路(大道)~
<ストーリーの概要>
春分と秋分の日、太陽は三輪山から昇り、二上山を超えて大阪湾に沈む。このことから、推古
天皇21年(613年)に東西の直線で敷設された幅20mを越える大道(竹内街道・横大路)は、太
陽の道と言われる。
古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、先進技術や仏教文化を伝えた。中
世には経済都市を結び、近世には伊勢参りの宿場町としての賑わいを見せ、場所ごとに様々な
表情を浮かべる。
1400年の歴史の移り変わりを周辺の歴史遺産を通して感じさせる日本最古の国道。それが竹
内街道と横大路(大道)なのである。
※日本遺産
日本遺産は平成27年度から文化庁が「地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝
統を語るストーリー」を認定する制度です。今年度は全国から79件の申請があり、17件が認定
されました。
11月12日のハイキングで感じた事は、小野妹子墓?以前は大勢の参拝者?達で賑わった様
な痕跡(トイレや休憩所など)残っているが、今はこの様な企画でも無い限り寂れて荒れている?

コース  近鉄 朝日・五私鉄リレーウオーク&みなみかわち歴史ウオーク合同企画
上ノ太子駅~聖和台第1公園(受付・スタート)~妙見寺~用明天皇陵~太子町役場(トイレ)~
スーパー~孝徳天皇陵~竹内街道歴史資料館~道の駅・近つ飛鳥の里・太子~大道旧山本家
住宅~池~観音堂~科長神社・金原大明神~小野妹子墓~二子塚古墳~推古天皇陵~敏達天
皇陵~西方院~推古天皇皇太子聖徳太子墓・叡福寺~聖和台第1公園(ゴール)~上ノ太子駅
此の日の私の万歩計は、29130歩で19.6㎞でした・・・
志都美駅
葛城山~二上山
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柏原駅ホームから
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上ノ太子駅ホーム
急行が臨時停止して此の人出・・・
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上ノ太子駅~聖和台第1公園へ向かう
ブドウ園やみかん園の横を通る
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聖和台第1公園が見えてきた
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聖和台第1公園(受付・スタート)
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用明天皇陵へ向かう
正月桜(10月桜とも)が咲いていた
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妙見寺
日本最古の官道竹内街道に蘇我馬子が創建した河内の国最初の霊場とされる妙見寺
推古天皇6年(598年)蘇我馬子が創建したと伝えられ、七堂伽藍を有する大寺で、河内の
国最初の霊場である。南北朝の乱の兵火で被害を受けて焼失するが、寛門年間(1661~
1673)僧浄悦によって再興され、真言宗から曹洞宗に改宗。
妙見寺HPより
曹洞宗(禅宗)、本尊は十一面観世音菩薩立像
曹洞宗開祖、道元禅師様は、『ただひとえに利行にもよほさるるなり』 と示され、自分自身
がいかされていることを意識し、自分本位ではなく、他人の気持ちを考え行動していく利行
(利他行)の実践をしていくべきだと説かれております。妙見寺も利行の実践を行い、慈し
みの心を持ち、皆様に愛される、開かれたお寺作りを目指して日々精進してまいります。
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竹内街道
用明天皇陵へ向かう、人間が渋滞・・・
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用明天皇陵・・・用明天皇は聖徳太子の父親
第三一代天皇(在位585~587)。橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)の漢風諡号(し
ごう)。欽明天皇第四皇子。聖徳太子の父。天皇の仏教受容をめぐって,物部守屋と蘇
我馬子が対立した。585年9月5日、聖徳太子の父にあたる用明天皇が即位しました。
大和朝廷が日本の大部分に関して安定した支配権を確立したのは、継体天皇とその子
の欽明天皇の時代と考えられます。その後は欽明天皇の子の敏達天皇が立って、神
道勢力と新興の仏教勢力の争いや、また隣の朝鮮半島での争いなどはあったものの、
比較的平和な時代が続いていました。その敏達天皇が亡くなった後、まだ子供の彦人
皇子は若かったため敏達天皇の弟の橘豊日大兄皇子つまり用明天皇が後をついだも
のと思われます。そして彦人皇子が皇太子になったようです。(明確には書かれてない
が日本書紀の用明紀に1ヶ所だけ彦人皇子のことを太子と書いた箇所がある)
しかしこの用明天皇は即位してわずか1年半で疱瘡に罹り亡くなってしまいます。そして
その後継を巡って物部一族と蘇我一族の全面戦争が勃発、これを制した蘇我が崇峻天
皇を立てますが、従順ではなかったため更にこれを暗殺して蘇我一族の栄光の時代で
ある推古天皇の御代がやってきます。
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太子町役場(トイレ)~スーパー

孝徳天皇陵
第 36代の天皇 (在位 645~654) 。名は天万豊日尊 (あめよろずとよひのみこと) 。茅渟
王 (ちぬのおおきみ) の王子,皇極天皇の弟,敏達天皇の曾孫。母は吉備姫王。初めは
軽皇子と称した。皇極4 (645) 年中大兄皇子らが蘇我氏を誅滅したのち,中臣鎌足の意
見もあって軽皇子が即位した。天皇は中大兄皇子を皇太子とし,大化と建元し,大化改
新の事業を進めた。すなわち大化2 (646) 年正月1日詔を出して,班田収授,租・庸・調
の制などを定めた。同年都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮 (ながらのとよさきのみ
や) に移したが,この宮は長安京に模した日本で最初の都城である。間人皇女を立てて
皇后とした。
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竹内街道歴史資料館
竹内街道は堺市大小路[おおしょうじ]を起点とし河内平野を東進する。三国ヶ丘、金岡
を経て松原市に入る。羽曳野市古市で東高野街道と交差する。このあたりから南東に
向きを変え太子町を通過。 竹内峠を越えると当麻町(現・葛城市)に入る。竹内街道は
長尾神社がゴールで全長26km
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公園で昼食
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昼食後、道の駅へ向かう
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道の駅・近つ飛鳥の里・太子
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山本家住宅へ向かう
ラフランスか?
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大道旧山本家住宅
大道旧山本家住宅は、わが国最古の国道とも言われる竹内街道の沿道にたたずむ
「かやぶきの古民家」で、大和棟の形態をよく残し、大和と堺を結ぶ街道沿いの歴史
的景観を特徴づけるものとして「国登録有形文化財(建造物)」となっています。周辺
には道しるべや伊勢燈篭などが残されており、かつて経済活動や巡礼にと人々の
ゆきかった、かつての面影を今に伝える格好のスポットとなっています。
大和棟の主屋と北西に連なる入母屋造・桟瓦葺きの離れからなり、東側には蔵を
配置しています。その構造手法から江戸末期と推定される主屋は、茅葺きの切妻
屋根の両側を本瓦葺きとし、内部はドマ、ザシキ、シモミセなどを配する典型的な
民家で、離れには大正元年(1912)の棟札も残ります。
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科長神社(しながじんじゃ) へ向かう
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今シーズン初の咲いてる皇帝ダリア
皇帝ダリア
成長すると3~4mにもなる事から皇帝と名付けられました。 別名:木立ダリア。
丈が3~4mにもなります。花はピンク色で直径約20センチメートルの 大輪の花
が茎の頂上につけます。晩秋の頃、空にそびえて立つ姿は圧巻です。
霜に弱いですから、気温が3度以下の時は家に入れます。 また、夜、街灯の下
ではつぼみが付きません。暗い所に移動しましょう
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観音堂したの池
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池の向こうに「PLの搭」が見える
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観音堂
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此処までは、
11月12日の竹内街道と太子と古代天皇が眠る王陵の谷を巡る-1 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-11-17
続きは、科長神社~
科長神社(しながじんじゃ) ・金原大明神
科長神社は、平安時代の『延喜式』という書物に記録された、いわゆる式内社と呼ば
れる由緒のある神社で、級長津彦命(しながつひこのみこと)、級長津姫命(しながつ
ひめのみこと)など8柱を祀るために、八社大明神とも呼ばれています。社宝には神
功皇后が使用したと伝える雛形の小さな兜があります。
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金原神社
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小野妹子墓
小野 妹子(おの の いもこ、6世紀~7世紀、生没年不詳)は、飛鳥時代の官人。姓は臣。
子に毛人・広人がいた。冠位は大徳冠。『日本書紀』によると大唐に派遣され、大禮(冠位
十二階の位)蘇因高と呼ばれた。日本の通説では『隋書』が記録する「日出処天子」の文
言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる。
近江国滋賀郡小野村(現在の大津市)の豪族で、天足彦国押人命を氏祖とする小野氏
の出身。系譜は明らかでないが、春日仲君(または仲若子)の子とする系図がある。
一般に流布されている小野氏の系図では、妹子を敏達天皇の皇子である春日皇子の子
とするが、『日本書紀』雄略紀において「春日小野臣大樹」との人物が登場し、妹子はこ
の大樹の後裔と考えられることから、敏達天皇裔とするのは仮冒である。春日仲君の娘
老女子が敏達天皇の妃となり春日皇子を産んだことから、小野氏を春日皇子の系統に
繋いだものと想定されるが、定かではない。
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二子塚古墳へ向かう
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二子塚古墳
推古天皇陵の南東200メートルに位置する二子塚古墳は、方墳を2基つなぎ合わせた
双方墳という珍しい形式を有しています。東西の墳丘それぞれに、ほぼ同形同大の横
穴式石室があり、石室の使用石材の隙間や表面に漆喰を充填塗布しています。また
蓋の縄掛突起が退化したカマボコ形を呈する家形石棺がそれぞれの石室に納められ
ています。地元には本墳こそが本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるとする言
い伝えがあります。
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推古天皇陵・・・推古天皇は聖徳太子の伯母
第三三代天皇(在位592~628)の漢風諡号(しごう)。名は額田部(ぬかたべ)。豊御食炊
屋姫(とよみけかしきやひめ)とも。欽明天皇第三皇女。敏達天皇の皇后。崇峻天皇が蘇
我馬子に殺されると,推されて即位。聖徳太子を皇太子・摂政として政治を行い,飛鳥文
化を現出。欽明天皇の第三女で名を額田部皇女という。576年に敏達天皇(異母兄)の皇
后広姫の薨去にともないその後添えとなった。夫の敏達天皇が疱瘡の病で崩御し、つい
で皇位についた用明天皇もまた疱瘡の病で崩御したので、587年の頃、崇峻天皇が用明
天皇の後をついで皇位についた。しかし、592年蘇我馬子の命を受けた東漢直駒(やまと
のあやのあたいこま)に崇峻天皇は暗殺されてしまう。この後皇位をめぐって議論がたたか
わされ、額田部皇女が推挙されるに至ったが、額田部は再三にわたり固辞したという。しか
し群臣らの上奏が数度に及んでついに皇位につき推古天皇となった。わが国初めての女
帝の誕生である。
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敏達天皇陵へ向かう
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敏達天皇陵
第三〇代天皇、淳名倉太玉敷尊ぬなくらふとたましきのみことの漢風諡号しごう。欽明天皇
第二皇子。記紀では六世紀後半に在位。
敏達天皇は百済大井に宮を建てたとされているが、この宮については、①奈良県広陵町百
済説と②大阪府河内長野市太井説があり、定まっていない。
敏達天皇は息長真手王の娘広姫を皇后として、押坂彦人大兄皇子らをもうけたが、石姫皇
后が薨去したため、豊御食炊屋姫尊(後の推古天皇)を皇后に迎えた。敏達の時代は、高句
麗から使人が来朝し、また百済・新羅も調を奉じて来ており外交は絶えていなかった。そこ
で敏達は先帝の遺言すなわち、任那の再興を皇子・大臣らに諮ったという。後に百済に働き
かけて日羅に来朝することを求めた。日羅は国内の政を優先すべきと進言したとある。
後にこの日羅は暗殺される。日本の反対勢力によるものか、百済の日本との通交を望まな
い勢力によるものかは、わかっていない。いずれにしてもこれにより任那の再興は頓挫した。
国内ではあいかわらず崇仏派と廃仏派が争い、特に蘇我馬子と物部守屋の対立が激しく
なっていた。585年元興寺縁起によれば物部守屋・中臣勝海らが仏法破却を奏し、これによ
り仏像・仏殿・塔などが破壊され、さらに善信尼(鞍部村主司馬達等の娘=仏師として著名な
鞍造止利の叔母にあたる。)らは辱めを受けて処罰された。敏達は575年8月疱瘡の流行で
この世を去った。
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叡福寺へ向かう
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西方院
西方院(さいほういん)は、大阪府南河内郡太子町にある浄土宗の仏教寺院。山号は南向
山、寺号は法楽寺。寺伝によれば、創立は推古天皇30年(622年)、開基は三尼公(善信尼、
禅蔵尼、恵善尼)。本尊は阿弥陀如来と十一面観音菩薩。
『河内名所図会』等に見える伝承によれば、622年に聖徳太子が死去した後に出家した三人
の侍女、善信(俗名月益、蘇我馬子の娘)・禅蔵(俗名日益、小野妹子の娘)・恵善(俗名玉
照、物部守屋の娘)により、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にその塔頭として法楽寺の寺
号で創建されたといい、聖徳太子作の阿弥陀如来像を本尊として遺髪を納めたと伝わる。
以上の縁起から、日本最古の尼寺であるともいう。ただし、『日本書紀』によれば、善信尼は
司馬達等の娘で、出家したのは敏達天皇13年(584年)であり、日本最古の尼寺は飛鳥の
豊浦寺である。
江戸時代初期の寛永16年(1639年)、衰退し荒廃していた寺を蓮誉寿正尼が中興し、名称
は西方院と改められた。
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推古天皇皇太子聖徳太子墓・・・(聖徳太子の伯母は推古天皇で父親は用明天皇)
聖徳太子
飛鳥時代の摂政。用明天皇の皇子。名は廏戸豊聡耳皇子。聖徳太子は諡名。上宮王
ともいう。おばにあたる推古天皇の摂政として政治を整備した。冠位十二階・十七条憲
法を制定。国史の編纂を行ない、小野妹子を隋へ派遣し国交を開き大陸文化導入に
努めた。特に仏教興隆に尽力し、『三経義疏』を著わし、法隆寺・四天王寺を建立する
など多くの業績を残した。推古30年(622)歿、48才。
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叡福寺
叡福寺(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町にある仏教寺院。聖徳太子の墓所とさ
れる叡福寺北古墳(磯長墓〈しながのはか〉)があることで知られる。山号は磯長山(しな
がさん)、本尊は如意輪観音である。開基(創立者)は、聖徳太子または推古天皇とも、
聖武天皇ともいわれる。宗派は真言宗系の単立寺院で、太子宗を名乗る。また「上之
太子」と呼ばれ、「中之太子」野中寺(羽曳野市)、「下之太子」大聖勝軍寺(八尾市)と
ともに三太子の一つに数えられている。
この寺にある叡福寺北古墳(磯長墓)には、聖徳太子、太子の母・穴穂部間人皇女、
太子の妃・膳部菩岐々美郎女が埋葬されているとされ、「三骨一廟」と呼ばれる。叡福
寺の所在する磯長(しなが)は蘇我氏ゆかりの地であり、聖徳太子の父(用明天皇)と
母はともに蘇我氏の血を引いているが、この古墳の被葬者を聖徳太子とすることにつ
いては異説もある。なお、叡福寺近辺には敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇
の陵もある。
寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたとい
う。推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇女が没するとここに葬られる。翌年の推古
天皇30年(622年)には、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬さ
れたといわれる。太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの
住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。約1世紀後の神亀元年(724年)、
聖武天皇の発願で東院・西院の2つの伽藍を整備し、西院を叡福寺と称したというが、
このことは正史には見えず、史実かどうか定かではない。叡福寺の創建年代につい
ては諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見かたもある。
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叡福寺から聖和台第1公園(ゴール)~上ノ太子駅へ
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11月10日の上牧町ささゆりウオーク-2 

11月14日        11月10日の上牧町ささゆりウオーク-2 
                  健康上牧21計画推進事業
毎月10日は奈良県民健康の日、と言う事で我が町でも毎月10日に「ささゆりウオーク」を、
此れまでは、中々参加する機会が無かったが、この11月に参加、12月も参加できそうだ。
受付&スタートは、2000年会館前、家から歩いて15分くらいの所、9時~9時15分受付
コース  方向距離 約5km(約1.5時間) 次回12月10日は片岡城跡コース 約5.5km 
2000年会館前(受付・スタート)~滝川遊歩道~東洋シール側道~五軒家集落~雨乞い
地蔵~牧野史跡~葛城台~滝川遊歩道~2000年会館(ゴール)
私が初めて参加した、此の日の参加者は40人+ウオーキングスタッフ16人の合計 56人
いつもは80人位の参加らしい?今日の参加者はいつもの半分くらい出そうで40人・・・ 
2000年会館前に集合、向かい側に虹の湯
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さあースタート
滝川遊歩道へ向かう
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滝川遊歩道を東洋シール側道へ向かう
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東洋シール工場正門前で滝川を渡り道路を浜寿司の前迄
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回転寿司屋(浜寿司)の前で滝川を渡り、又滝川遊歩道を歩く
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五軒家集落・雨乞い地蔵
※五軒家集落の雨乞い地蔵の昔話
昔、ある年の夏、旱(ひでり)の日が何日も続き、五軒屋の村人も、「こんなに長く雨が降
らんと、米がとれん。困ったなあ」と話し合っていた。
「そうや、雨乞い地蔵さんにお願いしたらどうや」。「ああ、それがよい」ということになり、
村のお地蔵さんに助けを求めた。
村人は、重い石地蔵さんを荒縄で縛り、皆で担いで溜池の神田池(じんでんいけ)まで運
んだ。「お地蔵さん、どうか雨を三日のうちに降らせてください。降りましたら、お地蔵さん、
池から出ていただきますから」と言い、地蔵さんを池につけた。
すると、なんと有難いことに、三日のうちに恵みの雨が降った。村人は大いに喜んだとい
う。この雨乞いの行事は、その後も何度か行われたらしい。だが、困ったことに、地蔵さん
を引き上げる時は、せっかく溜めた大切な池の水を放流しなければならない。その為か
どうか、いつからか行われなくなった。
ただ、大正十三年八月の大旱魃(だいかんばつ)の時には行われた。その時も「霊験あら
たか。おかげで、雨を降らせてもらった」と、この時のことは今も古老によって語り継がれ
ている。その雨乞い地蔵さんは、五軒屋の村人の手で今も大切に祀(まつ)られている。
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神田池(じんでんいけ)の向うに二上山賀見える
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滝川のずーつと向こうに二上山が・・・
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※奈良のむかしばなし
奈良盆地の西、北葛城郡上牧(かんまき)町の五軒屋。その昔、このあたりは牧野(ば
くや)とよばれていた。
上牧町の東、広陵町と河合町などにまたがって広がる馬見(うまみ)丘陵は、古代、朝
廷の放牧地で、上牧の地名もそれに由来するとか。五軒屋を抜ける今の舗装道路も昔
は「馬街道」とよばれていた。
そのかつての馬街道に立つと、五軒屋は、周囲を小高い緑の丘陵に囲まれ、その中に
広々とした田圃(たんぼ)がどこまでも続く。実にのどかな昔懐かしい里山の風景である。
馬見丘陵の北東の磯城郡三宅町。地名は古代の「屯倉」(みやけ)に由来し、大和朝廷
が支配していた穀倉地帯であった。つまり五軒屋も含め、このあたり一帯は古くから豊
かな稲田が一面に広がっていたのであろう。水田に必要な溜池も多く点在している。
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滝川遊歩道を離れて牧野史跡へ向かう
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此の続きは、
11月10日の上牧町ささゆりウオーク-2 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿します。
      http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
此の続きは、牧野古墳~
牧野古墳(国指定史跡)
広陵町の『牧野古墳(ばくやこふん)』は、石舞台古墳に次ぐ大きな石室を持つ、古墳時代
末期の巨大円墳です。
丘陵の奥部にある直径約60mの大型円墳で、墳丘は三段築成で造られ、二段目に横穴
式石室が開口している。玄室(げんしつ)の長さ6.7m、幅3.3m、高さ4.5m、羨道(せんど
う)の長さ10.4m、幅1.8mで、全長17.1mを測る大型石室である。
玄室内には奥壁に沿って横向きに刳抜(くりぬき)式の家形石棺が安置され、その手前に
は組み合わせ式の家形石棺が置かれていたと考えられている。
石棺は、ともに大部分が破壊されていたが副葬品は意外に多く残されていた。装身具類
は金環(きんかん)、金銅製山梔玉(くちなしだま)、ガラス小玉、粟玉(あわだま)が、馬具
は木心鉄地金銅張の壺鐙(つぼあぶみ)や、縁金具のある障泥(あおり)、心葉形の鏡板
(かがみいた)と杏葉(ぎょうよう)等が二組分出土してる。武器は、銀装の大刀と400本近
い鉄鏃(てつぞく)があり、羨道に集中していた容器類のなかには、木心の金銅張容器と
総数58点の須恵器があった。
古墳時代後期末葉の古墳で、舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひ
とのおおえのみこ)の成相墓(ならいのはか)の可能性が高い。
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石室入口、今日は中へ入れる
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墳丘からの眺め
二上山も
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墳丘を下る
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墳丘を下ると牧野古墳公園
文代山古墳 (ぶんじろやま) ・・・・の石棺の底石
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※文代山古墳
方墳(南北44m、東西40.5m)周濠あり(幅20mで各辺高低差あり)埴輪、葺石あり
此の古墳から出土したと伝えられる長持式石棺の底石(竜山石製)が西方にある下水の
吐水口に転用されていたが現在、牧野古墳公園に移設されており見ることが出来る。
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葛城台へ向かう
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葛城台
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回転寿司屋(浜寿司)の前で滝川遊歩道へ
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2000年会館前へ戻る(解散)
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中央公民館前を通り家へ帰る
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マンホールのデザインは、町花のササユリ
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おまけ
我家の鉢植えの皇帝ダリア
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11月7日の南生駒の役行者像と石の文化財巡り-2

11月11日      11月7日の南生駒の役行者像と石の文化財巡り-2
                南生駒の役行者像と石の文化財巡り
コース  生駒市観光協会主催 生駒市観光ボランティアガイドが案内 歩程約6.5km
萩の台駅~石福寺~応願寺~円福寺~竹林寺~観泉寺~菊司醸造~南生駒駅(解散)
萩の台駅に12時30~受付13:00スタート  12:30~15:40頃解散 参加費用100円
知人と3人で参加、素晴らしい秋のハイキング日和?此の日は暑かった-参加者24人?
2班に分かれてスタート、我々3人はNOカード1.2.3で1班スタート、ガイドさんが 2名と
スタッフ1名の3人で 12名の面倒を見る班編成、多少アップダウンも有る変化あるコース。
ゴールの菊司酒造は以前、ハイキングで訪問した美味しいお酒の飲めるところ・・・
お酒もまわって、とても良いハイキング、此の日の私の万歩計は15976歩で約10.5km。
案内して頂いた、生駒市観光ボランティアガイドの会の皆さん、有難う御座いました!
上牧服部台バス停
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近鉄生駒線王寺駅へ向かう
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近鉄生駒線王寺駅
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萩の台駅(受付・スタート)
事前に葉書で予約していたハイキング、スタート前に昼食のお握りをほおばって・・・
こんな感じでスタート
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お墓の前の六地蔵
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正根山 石福寺
融通念仏宗、本尊は石造地蔵菩薩立像。旧乙田村の菩提寺として念佛信仰の歴史が
今日迄伝わっています。ご本尊は厨子の中、一般公開はされていない。
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逆修の十三仏板碑
前庭に整列した6対の石碑(13仏板碑と名号板碑)は安土桃山時代(1600年頃)のもの
で歴史が感じられる。
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※逆修
仏教用語。生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るための仏事をすること。その為
に建てる石塔婆を逆修塔という。墓石に自分の戒名を刻み朱を入れたりするのも逆修 。

乙田人形浄瑠璃(おとだにんぎょうじょうるり)
幕末、村の豪商だった松川家の当主・松川伊作が村に娯楽として取り入れようと、村人
に「浄瑠璃語り」を習わせたのがはじまりで、戦後まで続いた。平成19年(2007)には
「乙田浄瑠璃・芝居資料」として、奈良県の有形民俗文化財に指定。生駒市萩の台の
石福寺境内に建つ文化財保存館には、いまでは見られなくなってしまった「村芝居」の
資料が展示・保存されている。館内には芝居用具や、舞台で使われた浄瑠璃本、練習
用の版本など、さまざまな資料が展示され、村芝居を中心に人々が集った、古き良き時
代を偲ばせる。
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小平尾 行者堂へ向かう
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富雄川を渡る
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小平尾 行者堂
お堂に役行者像
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祈求山 応願寺へ向かう
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祈求山 応願寺
融通念仏宗、本尊は十一面観音立像。創建年代は不明。萩原の檀那寺として信仰を集
めて来ました。境内の石造地蔵菩薩像(像高147㎝)は鎌倉時代永仁2年(1294)9月11
日の銘有り、石工伊行氏の作と考えられている。
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円福寺へ向かう
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此処までは、
11月7日の南生駒の役行者像と石の文化財巡り-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-11-11
此の続きは、龍華山 円福寺~
龍華山 円福寺
真言律宗、本尊は釈迦如来坐像。行基が開祖したと伝えられるが詳細は不明。本堂(重
要文化財)・桁行3間・梁間3間・一重・入母屋造りの鎌倉時代造立の和風建築。来迎壁に
十二天図を描く。境内には鎌倉時代造立の宝篋印塔(重要文化財)が2基あります。
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宝篋印塔(重要文化財)2基
此処で1班の集合写真を撮った
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慈願山 興融寺
融通念仏宗、本尊は阿弥陀如来立像。創建は不詳。有里の檀那寺だが無住寺です。
鎌倉時代中期のもので奈良県下最古の五輪塔が有ります。
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生馬山 竹林寺
律宗、本尊は文殊菩薩騎獅像。行基が建てた四十九院の一つ生馬仙房と比定される
が詳細は不明。鎌倉時代に唐招提寺の僧によって文殊堂付近に有った行基の墓所か
ら舎利瓶が発掘されて以降、行基信仰が盛んになる。平成9年に堂舎が整備される。
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境内奥の行者堂
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行基菩薩墓
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忍性菩薩墓
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竹林寺古墳・・・生駒市唯一の古墳。
有里町の竹林寺境内にあります。 古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳です。
生駒山から東に派生する尾根上に築かれています。 前方部を宅地で削られていますが、
推定全長60m、後円部の径は約45mあります。 生駒谷を支配した豪族の族長の墳墓と
考えられます。 一分コモリ遺跡の豪族居館との関係や、 生駒谷の古墳時代を解明する
うえでもたいへん重要な古墳です。
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青龍山 観泉寺へ向かう
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青龍山 観泉寺
融通念仏宗、本尊は木造阿弥陀如来坐像。寺伝によれば、元禄六年(1693)僧龍峯に
より開かれた寺院。境内には、石造美術品「十三重石塔(四條畷の戦で亡くなった方々
の遺髪と臍の緒を祀ったと寺伝にあるという)、種子十三仏板碑など」が数多くある。
神変大菩薩諡の木造役行者像が境内奥のお堂に祀られています。
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境内奥の行者堂
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※神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)
神変大菩薩とは? 役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝
–大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者である。姓は君。 修験
道 の開祖とされている。

境内からの眺めが・・・生駒山山頂
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菊司醸造
かつて奈良街道の宿場町として栄え、300年以上の歴史を受け継ぐ造り酒屋。松尾芭
蕉が暗峠について、詠んだ句にちなんで名付けた辛口でスッキリとした味わいの「くらが
り越え しぼりたて純米生原酒」はおすすめ、スイカの奈良漬もおすすめです・・・・
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南生駒駅
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11月4日のおふさ観音バラ鑑賞~晩秋の耳成山を眺めて-2

11月10日    11月4日のおふさ観音バラ鑑賞~晩秋の耳成山を眺めて-2
近鉄駅フリーハイキング 歩程約10km   
大和八木駅で知人3人と待ち合わせて4人で参加、前日に予約しておいた今井町へ迂回して
胡瓜奈良漬を入手、おふさ観音のバラ鑑賞へ合流、雨にも降られずゴールへ辿り着いた・・・
此の日の私の万歩計は、27219歩で約18.3km歩いた事に?迂回路は+1kmだったのに・・
久し振りに旧知?4~5年前にハイキングで知り合った4人で歩けて楽しいハイキングでした。
コース 近鉄駅フリーハイキング 大和八木駅受付9時半~11時 10時集合で待合せ
大和八木駅(受付)~迂回路(今井町)~おふさ観音~三輪神社~JAまほろばキッチン~
奈良県橿原総合庁舎~竹田神社~阪門(さかと)神社~十市御縣座(とおちのみあがたに
ます)神社~新ノ口駅(ゴール)、私は此処から五位堂駅へ~そしてバスで自宅へ
志都美駅
曇ってて二上山が見えない
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飛鳥川沿いを通り今井町へ(此処までは正規のコース)
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迂回して今井町の中に入り予約してあった胡瓜奈良漬を購入して
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コースへ戻りおふさ観音へ向かう
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おふさ観音
おふさ観音は、高野山真言宗・別格本山のお寺です。
その本堂が建つ辺り一帯は、かつて「鯉ヶ淵(こいがふち)」と呼ばれる、大きな池でありま
した。時は慶安3年(1650)4月、ある日の早朝のこと。この地で暮らす「おふさ」という娘さ
んが、鯉ヶ淵のそばを歩いていると、白い亀の背中に乗った観音様が、目の前に現れた
のです。おふささんは、池のそばに小さなお堂を建て、そこに観音様をおまつりすることに
しました。その観音様は、色々なお願い事をかなえてくださるとして、近くの村人たちに厚
く信仰され、大切にまつられました。やがて誰からともなく「おふさ観音」と呼ばれるように
なったといいます。
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此処までは、
11月4日のおふさ観音バラ鑑賞~晩秋の耳成山を眺めて-1 として
                下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-11-10-1
続きは、
おふさ観音~耳成山を眺めて~三輪神社へ向かう~
藤原宮跡と醍醐池の間を通り、左に耳成山と醍醐池、右に藤原宮跡
耳成山
標高は139.6メートルだが、山頂にある三角点の標高は139.2メートルである。大和三山の
一つで、最も北に位置する。歴史的風土特別保存地区[2]と国の名勝に指定されている。
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※大和三山(やまとさんざん)
大和三山は、奈良県(旧・大和国)の奈良盆地南部、飛鳥周辺(橿原市)にそびえる3体の
山々の総称。1967年(昭和42年)12月15日、歴史的風土保存区域に指定、各山も歴史的
風土特別保存地区に指定、2005年(平成17年)7月14日、国の名勝に指定された。
天香久山(あまのかぐやま、あめのかぐやま、152m)
畝傍山(うねびやま、199m)
耳成山(みみなしやま、140m)
万葉集では「香具山は 畝火(うねび)ををしと 耳成(みみなし)と 相あらそひき 神代より
かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)をあらそふ
らしき」(中大兄皇子、巻1-13)と歌われている。大和三山(の神)が神代に恋争いをしたとい
う歌である。この歌の「畝火ををし」を「畝火雄々し」と解釈し畝傍山の神は男神であるという
説と、「畝火を愛し」と解釈して畝傍山は女神であるという説とがある。この歌は、中大兄皇
子と弟の大海人皇子の額田王をめぐっての恋争いを大和三山に託したものという説もある。

藤原宮跡
中国の都城にならい、日本で初めて建設された本格的都城。持統8(694)年遷都。平城京
遷都までの16年間、この地で持統、文武、元明の天皇三代が律令国家体制を強力に押し
進めた
藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)は、藤原京の中心施設である藤原宮のあったところです。藤
原宮は一辺約1kmの中に、大極殿や朝堂院といった国をあげての儀式や政治を行う施設や
天皇の住まいである内裏などがあり、現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁街を合わせ
た性格を持っていました。藤原京は16年間の都でしたが、藤原宮の構造はその後の都にも
引き継がれていきます。
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醍醐池
藤原宮跡の真正面にある池。
藤原宮跡の正面入口の真向かいにある。往時から池だったのだろうか。このすごい立地と
名前。 池のほとりに万葉歌碑がある。あの有名な歌。

春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山 (持統天皇)
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藤原宮跡&天香久山
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藤原宮跡&畝傍山
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秋の風景を楽しみながら三輪神社へ向かう
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三輪神社
西之宮の西端、橿原市膳夫町と同石原田町に接し、当神社の西側を北から旧中ツ道
が通っていたので、横大路と交差した地にあたる。旧村社で大物主櫛甕玉命を祭神とし、
社殿は東面する。もと内垣内にあった白山神社(祭神・菊理姫命)を合祀した。
本殿(春日造、鉄板葺、朱塗)と拝殿(入母屋造、瓦葺)のほか、石造狛犬一対、石鳥居、
金毘羅大権現(自然石)のほか七基の石燈籠、磐座らしい巨石などが境内にある。
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JAまほろばキッチンへ向かう
皇帝ダリアのツボミも・・・
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JAまほろばキッチン
この中でウロウロしたので歩数が伸びたのかな?
JAまほろばキッチンは、全国最大級の売り場面積を有する農産物直売所を中心に産
直レストラン、フレンチレストラン、フードコート等で構成しています。
生産者の顔が見える安全・安心な地場産農畜産物を消費者のもとへ届けるなど「地産
地消」の輪を広げていきます
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奈良県橿原総合庁舎
屋上庭園(昼食)からの眺めが良かった
2006年に閉校になった耳成高校の校舎をしっかりと耐震化などがなされた上で「橿原
総合庁舎」として利用されています。この屋上部分が『橿原総合庁舎 屋上庭園』として
無料公開されており、三輪山や大和三山、万葉歌の舞台となる土地が一望できる素晴
らしい展望スポットになっています。
橿原総合庁舎の屋上は、大和三山(畝傍、耳成、香具山)、多武峰、三輪山、二上山遠
くには高円山、若草山を眺望できる絶好のロケーションにあることから、庭園として整備
しています。また屋上から見える景色を読んだ記紀・万葉の詩歌を紹介しています。
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耳成山と後方左手に畝傍山
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奈良県橿原総合庁舎を後に竹田神社へ向かう
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竹田神社
寺川の西南岸に鎮座する。社叢の目立つ神社である。
仁徳天皇の御世、大和国十市郡刑坂川の辺に竹田神社ありと新撰姓氏録に記載さ
れている。『多神宮注進状草案』によれば本社は多神社の若宮とされている。
本社の左手にある大日堂は神宮寺の跡という。弘治元年(1555)に南都宿院仏師源
次・源四郎父子によって作られた大日如来坐を安置する。この像は昭和54年に盗難
に遭ったが、その後無事もどってきた。
境内に大伴坂上郎女の歌碑が有る。
          うす渡す竹田の原に鳴く鶴(たづ)の間なく時無しわが戀ふらくは
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阪門(さかと)神社
中町集落の中に鎮座する。周囲は住宅地で、小さな鎮守の森の中にある。
境内に由緒・創建時期等を記した案内はなく、詳細不明。
祭神、武甕槌神(タケミカヅチ)
明治24年(1891)の神社明細帳には、タケミカヅチ・斎主命(イワイヌシ)・天児屋根命
(アメノコヤネ)・姫大神とあり(式内社調査報告)、藤原氏(中臣氏)の祖神・春日四神
を祀るという。
大和志に“今、春日社と云う”とあるように、式内・坂門神社に比定される以前の祭神を
引きついたもので、式内・坂門神社本来の祭神かどうかは不明。
社殿は、中町集落の西寄りに鎮座し、東を向いた鳥居を入った先に拝殿(切妻造・瓦
葺)が、その奥、高い白壁に囲まれた中に本殿(春日造・銅板葺)が東面して鎮座する。
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十市御縣座神社へ向かう
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十市御縣座(とおちのみあがたにます)神社
橿原市十市町にある。北向きの入口を入り、左折すると広い境内。境内には末社が
多い。 創祀年代は不詳。天平二年(730)の『大倭国正税帳』に「十市御県神戸」と
あり、奈良時代から祀られていた古社。
大和国六御縣神社の一座として、創建された神社。皇室御料地に創建された、式内
大社なのだ。大和国六御縣神社とは、高市、葛木、十市、志貴、山辺、曽布の六社。
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新ノ口駅へ向かう
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新ノ口駅(ゴール)→大和八木駅→五位堂駅と乗り継いで
五位堂駅では雨が降ってたが直ぐ止んで
五位堂駅~バスで帰った・・・・
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11月2日のペガサスフェスタ(文化祭)&紅葉散策-2

11月10日       11月2日のペガサスフェスタ(文化祭)&紅葉散策-2
                    近所のウオーキングコース
近所の知人から、文化祭に陶芸と写真を展示してるから、と情報が入って来てたので
行ってみた、文化祭の展示会場へ行くのは此れが初めての体験、ペガサスホール自体、
行くのが此れで2回目、前に行ったのは古墳で珍しい物が発掘されて展示説明会が開
催された時に初めて入って、今回が2回目、ペガサスホール=中央公民館だと言う事も
知らなかったのだ、こんな町民居る?情報をくれ、誘ってくれたた知人に感謝しなくちゃ・・・
家から滝川遊歩道へ出て、ペガサスホールへ向かう
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紅葉の中にペガサスホールが見えて来た
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建物に上牧町立図書館と書いてある
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上牧町文化祭の立て看板
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知人の出展している陶芸と写真展をみて、町の文化遺産(古墳)展示や、
水彩画&油絵の展示会場等を見て廻った・・・
ペガサスホールを出て
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2000年会館の公園の紅葉
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此処までは、
11月2日のペガサスフェスタ(文化祭)&紅葉散策-1 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-11-10  
此処では、続きを、
2000年会館の公園を離れてまほろばコーヒーの前へ
セイタカアワダチソウ
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まほろば咖渄の前、黄色いポストの飾りが
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ヨモギが有ってバス停&ススキ
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第三小学校の前にコスモス&ダリア、ハート型の刈込、キバナコスモス
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畑の向う、遠くに二上山も見える、ダリア、タンポポ他・・・
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介護老人ホームをぐるっと回って
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虹の湯の前をペガサスホールの前を通って帰った
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10月31日・病院の帰りに散歩コースの紅葉散策-2

11月7日      10月31日・病院の帰りに散歩コースの紅葉散策-2
                内科定期検診に向けて事前採血
朝一番に何時もお世話になっている病院へ血液検査の為の事前採血に行き、帰りに
近所の散歩コースの紅葉散策と洒落こんだ、万歩計は10829歩で約7.2km歩いた・・・
先ず、病院を出て役場に向かう、此処にメタセコイヤか?ラクショウ?の大木が有るが
私には解らない。
道中はハナミズキの紅葉
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上牧町健民グランドのペガサス像
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桜並木の紅葉
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町役場のメタセコイヤORラクショウ、私にはどちらか解らない
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県道を越えて田畑の有るところへ
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ハナミズキ並木にセイタカアワダチソウ
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此処で振り返ると田畑の向うに二上山
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タンポポやドングリもある
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ハナミズキ並木
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介護老人ホーム前の花壇
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ハナミズキ並木にススキやヨウシュヤマゴボウ、セイタカアワダチソウ
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二郡水神社 二郡大神
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ハナミズキ並木
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子供達が未だ小さい頃、此の池でよく釣りをした
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此処までは、
10月31日・病院の帰りに散歩コースの紅葉散策-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-11-07
続きは、桜が丘の銀杏並木
銀杏と桜と楠とが交合に植えられている?
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第二小学校の下の紅葉が綺麗
つたの紅葉、カエデが5本、他はハナミズキと南京ハゼ
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片岡台団地の下、葛下川沿いの道路
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高速道路の裏道を通って帰る
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10月27日・大阪生野区の歴史ある寺社巡り-2

11月1日      10月27日・大阪生野区の歴史ある寺社巡り-2
              毎月恒例の昼飲み会&ハイキングと銭湯
今回のハイキングは、以前雨の中を歩いた近鉄駅フリーハイキングのコースを少し
変えて、阿倍野へ戻って銭湯で汗を流してから月一回の昼飲み会に行ける様に・・・
コース    此の日の私の万歩計は22395歩で約15km歩いたことに
近鉄今里駅~清見原神社~難波寺~田島神社~生野商店街~生野八坂神社~
生野神社~舎利尊勝寺~御勝山古墳~平野川沿い~コリアタウン(公園で昼食)
~御幸森天満宮~彌栄神社~桃谷商店街~桃谷駅 →環状線で 天王寺駅~
キューズモール~銭湯 湯処・あべの橋・・・・居酒屋 甘太郎
志都美駅
曇り空で二上山が全く見えない
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天気も良くなって
俊徳道駅で近鉄に乗り換え
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今里駅で知人と落ち合い、清見原神社へ
清見原神社
清見原神社(きよみはらじんじゃ)は、大阪府大阪市生野区にある神社である。
天武天皇を主祭神とし、明治の神社合祀により素盞嗚尊・大山咋命・天水分神・國水
分神を合わせ祀る。 水害により社記等が流失したため創建の詳細は不詳である。
口伝によれば、 天武天皇が大和の飛鳥浄御原宮から難波に行幸した際に現在の当
社鎮座地で休憩したという。現在の社名はこの伝承によるものであり、このとき天武
天皇が吉野の方をかえり見たとのことから、附近の地名「吉野見」が生まれた。天武
天皇の歿後、一帯を本拠としていた大伴氏が天武天皇を祀る神社を創建し、天武天
皇宮と称したと伝えられる。以降、旧大友村の氏神として崇敬された。
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難波寺
難波寺(なにわじ)は、大阪府大阪市生野区にある臨済宗妙心寺派の寺院。山 号は
月江山。本尊は十一面観音。この寺は、736年(天平8年)聖武天皇の勅命により行
基によって、奈良東大寺の大仏開眼法要のため、遣唐使の船にて来日したベトナム
の僧侶を宿泊させる為、現在の天王寺区東高津町に創建されたと伝えられ、当初、
三井寺の直末として天台宗に属していた。室町時代に入ると荒廃し、江戸時代に
入って妙心寺塔頭後花園院の卓同和尚により中興され臨済宗に改められた。1925
年(大正14年)現在地に移された。
境内には、浄瑠璃・歌舞伎の演目に「茜染野中隠井」(あかねそめのなかのかくれい)
縁の、井戸と弘法大師作の墨掛け地蔵がある。 また、難波寺形と呼ばれる手水鉢が
現存する。
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難波寺形と呼ばれる手水鉢
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墨掛け地蔵尊
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田島神社
古い記録は洪水などで紛失していますが、残った石灯籠などに刻まれた文言によれば、
少なくとも貞享元(1684)年にはすでに神社があったことがわかります。その頃、菅原大
神(すがはらのおおかみ)を主神とし、事代主命(ことしろぬしのみこと)・八幡大神を相
殿として天満宮といわれていました。 寛政4(1792)年には、少彦名命(すくなひこなの
みこと)を主神として天神社といわれ、明治42(1909)年に現社号の田島神社と改称し
ました。その後、平成2(1989)年に御大典記念として本殿を改築し、石鳥居や『天神さ
まの牛』が新設されました。
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境内に眼鏡レンズ発祥の地碑
眼鏡レンズ発祥之地
「田島神社」の参道の真ん中に 大きな「石田太次郎顕徳碑」と「眼鏡レンズ発祥之地」
碑が並んで建っている。
田島地区は 明治から昭和にかけて, 国内有数の「眼鏡レンズ」生産拠点だった。後に
「レンズの始祖」と呼ばれた石田太次郎は ここ田島村で生れ, 丹波の国でレンズ研磨
の技術を習得。 1857(安政4)年に 田島村にその技術を紹介し, 田島の家内産業に発
達した。1913(大正2)年に 農村だった田島村に電力が引かれると, 眼鏡レンズ専門工
場が生まれ, 最盛期には 200軒を超える業者が集まり, 日本一の眼鏡生産地となった。
しかし 1960年代以降, プラスチックレンズの技術が開発され, 軽くて割れにくい優れた
特性から ガラスレンズに取ってかわり, また 工場で大規模に量産されるようになった
ため, 田島のレンズ製造は急激に減少していった。
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こがねもちの大木が御神木に
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生野商店街(得する商店街 どりー夢)
どりー夢商店街
生野銀座商店街は、生野本通り商店街(国道25号線側から)を通り抜け、横断歩道
をわたった先の商店街です。なので、駅からも遠く、本当に地元の商店街という感じ
です。しまっているお店も多いですが、日中は地域のおばさまたちで活気があります。
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生野八坂神社
東成郡誌第三編、生野村第四神社の項に『素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社、大字
林寺字林に鎮座せり…』とあり、その創祀は諸書に『元禄二巳(1689)年勧請』とありま
すが、他にも説があって定かではありません。東成郡林寺村(旧地名)の氏神様として
崇敬されていましたが、明治41(1908)年に天王寺区の河堀稲生神社に合祀され、境
内地も『河堀稲生神社御旅所(おたびしょ)』となりました。その後、氏子有志の熱誠な
る努力によって復興造営が完成し、昭和30(1955)年御神霊の還御を仰ぎ『生野八坂
神社』の認証を受け、 『生野の祇園様』として今日に至っています。
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此処までは、
10月27日の大阪生野区の歴史ある寺社巡り-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿しました。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-11-01
続きは、生野神社~
生野神社
木瓜(もっこう)を神紋とする生野神社の古名は、牛頭(ごず)天王宮という神号を用い、
明治5(1872)年村社、明治42(1909)年素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社を経て、戦後
の昭和22(1947)年に生野神社と改称。 神社の鳥居は小振りながら宝永7(1710)年の
刻銘があり、区内では最も古い貴重なもので、鳥居より背の高い大きな歌碑と榎・いち
ょうの古木が景観を添えています。
また、拝殿前の一対の狛犬は天保4(1833)年のもので、お伊勢参りが大流行した江戸
期の貴重な記念物です。これは村の氏神さんへの崇敬を疎かにしなかった証拠品とな
っています。
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舎利尊勝寺(しゃりそんしょうじ)
南岳山舎利尊勝寺と呼ばれ禅宗の一派に属し、本尊は釈迦如来です。約1400年前、
用明天皇のころ、生野長者と呼ばれる長者に言葉の不自由な子が生まれました。
長者が、四天王寺伽藍を設立するために来ていた聖徳太子にすがると、太子はその
子に向かい「わたしが前世に預けた3つの仏舎利を返しなさい」といいました。すると
3つの仏舎利を吐き出し、それからは普通に話せるようになりました。太子はそのうち、
ひとつを法隆寺に、ひとつを四天王寺に、残った一つを長者に渡しました。長者が、お
堂を建てて、この仏舎利を奉ったのが、舎利寺の起源と言われています。
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御勝山公園・御勝山古墳
御勝山(おかちやま)古墳
もとは岡山と呼ばれ、元和元(1615)年夏の陣の大坂落城のとき、徳川秀忠が此 処で
戦勝の宴を催したことから御勝山の名で知られるようになりました。
南北112m、東西55m、高さ約8mの前方後円墳で現在は前方部が道路(勝山通)と勝
山南公園になっており、後円部を残すのみです。
市内では、茶臼山古墳(天王寺区)と帝塚山古墳(住吉区)と並んで重要な史跡の一つ
です。中臣氏の祖『大小橋命(おおおはせのみこと)』の墓であるといわれていますが明
らかではありません。
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コリアタウン
コリアタウン・・・HPより
御 幸通の3商店街(通称:生野コリアタウン)は1600年の歴史ある御幸森神社のお膝
元、東西500m程に約120店舗が軒を連ねる商店街です。大正時代にかつて猪飼野と
呼ばれたこの近隣が人口の増加に伴い市街化していく中、大阪市立鶴橋公設市場が
開設され、旧市電「猪飼野駅」に続く一条通商店街と交差する位置であったことから国
内にある他と同様な商店街として発展していきました。 生活の苦しかった朝鮮半島の
人々は既に韓国併合が行われていたことにより、日本に職を求めて移住するようにな
ります。 特に大正時代末期に就役した「君が代丸」により、済州島からの移住者が増大
します。その人々こそ経済成長著しい大阪の中小零細企業にあって特に避けられがち
な労働や雇用需要を担ったのです。出稼ぎ労働者が増えてくると、今度は同胞を相手
に商売(といってもゴザに物品・食品を並べる程度)を行う人々が現れ始め、その界隈
が朝鮮市場と呼ばれるようになります(現在の御幸通の裏手)
戦 争が激化し大阪にも空襲が行われると、それまで御幸通で商売をしていた旧日本
人店主たちが疎開を始めるようになります。 疎開の際、「店舗は空襲の被害にあうか
もしれない」「ほうっておいては店舗・家屋が痛む」と考えた旧店主達は、それらを安く
貸したり売ったりするようになりました。この時、御幸通の裏手で商売をしていた人た
ちを始めとして在日韓国・朝鮮人達が御幸通で店舗を構えるようになります。この頃
を境に御幸通商店街が特異な商店街としての発展を見せ始めます。
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昭 和30年代から50年代前半にかけては日本の高度経済成長もあり、韓国・朝鮮の
食品や物品がひとところに集まる商店街としてその隆盛期を迎えます。ところが昭和
50年代後半頃から陰りを見せ始めます。最初期の渡航者から数えると50年程経つ
中で、在日韓国・朝鮮人の生活様式の変化、日本経済の成熟、後継者の不在等い
くつかの要因が重なり、来街者が目に見えて減少していきました。そんな時危機感を
覚えた当時の商店主たちが、"コリアタウン構想"を掲げます。しかし当初コリアタウン
構想を立ち上げたとはいえ、新しい来訪者の方への対応に商店主達が戸惑いを見せ
るような状態が続きましたが、特徴的な門や舗装道路が完成し、その後日韓共催ワー
ルドカップ、冬のソナタに始まる韓国文化への関心が高まり、コリアタウンとして注目
が集まるようになり現在に至ります。
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御幸森天神宮
御幸森天神宮(みゆきもり天神宮)
仁徳天皇・少彦名命(すくなひこなのみこと)・押坂彦命(おさかひこのみこと)を主祭神
としています。江戸時代には『御幸宮』または『天皇天神社』と称していました。
社頭に立てられた由来碑によると、仁徳天皇のとき百済野の北端にあった小丘に鷹を
放って天皇がそれをご覧になったところから御幸森の名が起こったと刻まれています。
また、境内にある5本のムクノキ(椋)の老樹は『まちの貴重な緑をみんなの力で守って
いこう』との願いから、市の保存樹林に指定されています。
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彌栄神社
神祖素盞嗚命(すさのおのみこと)を文録年間に熊野巫神社(旧出雲国意宇郡)より分
霊奉還したのがはじまりと旧記にあります。その当時は牛頭(ごず)天王社と呼ばれ、
創立以来旧木野(この)村の鎮守として崇敬厚く宮座(みやざ)を設けて奉仕し、明治5
(1872)年村社に列せられ、社号もこの時に彌栄神社と改められました。
明治43(1910)年、氏子協議のうえ大字岡村(現勝山北4丁目)の御館(みたて)神社を
合祀しました。その御館神社は、旧岡村の生土神(うぶすながみ)でいばらの神と呼ば
れ、仁徳天皇の的殿(まとどの)の旧跡で、現在は彌栄神社の御旅所(おたびしょ)と
なっています。
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桃谷商店街
桃谷駅前商店街は庶民の味方。懐かしいもん、珍しいもん、安いもんやら、 楽しいもん。
何でも揃うから、ほんま便利やで~。 散歩がてらに、いっぺん遊びにおいでや!
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桃谷駅
桃山御陵が出来るときに、桃山駅から桃谷駅へ駅名変更させられた・・・
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天王寺駅~キューズモール~銭湯
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銭湯 湯処・あべの橋・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
    源泉名 龍宮温泉 1号 大阪市港区2丁目3番33号  深さ 1,500m
    泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
    効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身
        ・くじき・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進
        ・切り傷・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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昼飲み会
居酒屋 甘太郎
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10月25日の絵手紙クラブ屋外活動&SSフォトクラブ展へ-2

10月31日      10月25日の絵手紙クラブ屋外活動&SSフォトクラブ展へ-2
                  社友会 同行会の行事
絵手紙クラブの体験教室に参加して、クラブに新規入会し絵手紙の最低限の道具を
揃えて初の屋外活動へ参加、屋外活動を年に2回、気候の良い春と秋に実施してる
と言う、何処かえ出かけて御前中に1枚画いて昼食タイム、皆の前で各々描いたもの
を説明して見て貰い、先生の寸評、此れは何時もの社友会事務所でする時と同じ事
をしている、題材がテーブルに置いた物では無く、自然や造形物を題材に探して・・・
今回は豊中市の服部緑地へ行く事に、参加者は8人
北大阪急行の緑地公園駅改札口に10時、西口と南口の案内は無かった緑地公園へ
の出口で待ってると反対側の出口から迎えに来てくれた、私以外の皆さんは前にも
一度此処へ来た事が有り、次に此処へ来る時は弁当買うのに都合の良い此処へ集
まる、と決めていた様だ、入会直後の私は未だ名簿も出来ていなくて・・・
昔昔昭和40年~43年頃に数回、服部緑地に遊びに行ってた記憶はあるが、当時とは
全く違う思いで当然の事だが何も思い出せない・・・
此の日の私の万歩計は、13987歩で約9.4km歩いたことに・・・
志都美駅
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北大阪急行の緑地公園駅
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緑地公園
服部緑地への入口?此処で1枚目の絵を画く
私が描いたのは此処
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此処を基地に
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昼前には天気も良くなり青空も
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2枚目は此処を描いた(ボールペンだけで色付けなし)
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昼食を終えて
各々描いた絵を批評?して貰って先生の絵も・・・
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帰りは、服部緑地公園をフラワー通りを阪急曽根駅の
方向へ縦断、途中の花や風景を楽しみながら歩いた・・・
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服部緑地公園
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此処までは、
10月25日の絵手紙クラブ屋外活動&SSフォトクラブ展へ-1 として
              下記のセカンドブログへ詳細を投稿しました。
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-10-31
此処では続きを、まだまだ続く服部緑地公園~
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服部緑地公園を出て
川を渡り、阪急曽根駅へ向かう
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用事が迫ってると言う御一人は、曽根駅へ直行、残りの7人は、
曽根駅前の喫茶店で小休止、私は途中で退席して八尾のプリズムホールへ
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近鉄八尾駅について
プリズムホールへ向かう
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プリズムホール
プリズムホールで社友会の同好会、SSフォトクラブの写真展が開催されている
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講師を含めて26名の方々が各々3枚組の写真を展示、見応えがありました。
事業部でお世話になった年齢一回り以上の大先輩に全部の写真の案内迄・・・
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近鉄八尾駅へ
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八尾駅~堅下駅間の車窓から夕焼けを
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近鉄で堅下駅へ出て、JR柏原駅
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柏原駅から王寺駅へ戻りバスで自宅へ
自宅近くに戻り、もうこんな時間に・・・
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10月24日の和歌山城&徳川家ゆかりの寺社-2

10月27日      10月24日の和歌山城&徳川家ゆかりの寺社-2
                    歩こう会例会
徳川家ゆかりの和歌山城を訪ねて 雨天決行10時15分約8㎞  参加者67人
コース    和歌山市駅に10時15分集合
和歌山市駅~勝海舟寓居地~和歌山城~二の丸庭園~天守閣広場~ 不明門跡~
岡山時鐘堂~徳川吉宗生誕地~ 報恩寺~無量光寺~和歌山城氏神 刺田比古神社
(吉宗の仮親)~ 岡公園(陸奥宗光 像・昔懐かしい 和歌山市電)~岡口門~大手門
にて集合写真撮影し解散・・・4人で和歌山駅迄歩いた、大半の方が駅迄歩いてた
此の日の私の万歩計は、20490歩出役13.6km歩いたことに・・・
和歌山市駅
南海電鉄(本線)が台風21号被害で途中で不通、バス代行運転中の為、
大阪からは1時間余分に時間をかけてJRで駆け付けた関係で参加者少なかった
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勝海舟寓居地
幕府の軍艦奉行であった勝海舟が海岸砲台検分のために滞在した場所
幕末の安政元年、ロシアの使節プチャーチンが和親通商条約締結を渋る徳川幕府に
圧力をかける目的で黒船ディアナ号を大阪湾に侵入させ、天保山の沖合に停泊しまし
た。この時には示威行動のみに終わったものの、異国船がたやすく大阪湾に侵入した
ことに脅威を感じた幕府は、大阪防衛のために淡路島と友が島に台場(砲台)を築造
するよう命じます。しかしながら、当時の日本には海上の艦船を攻撃するための砲台
の築造に関するノウハウが無かったため工事は難航し、工事が完了するのは文久3
年になってからのことでした。
勝海舟は、当時、幕府の軍艦奉行であったことから、海岸砲台検分のため紀州藩を訪
れました。その際に滞在した場所が橋丁の清水平右衛門宅であると伝えられており、
これが現在「勝海舟寓居地」の石碑のある場所なのです。
このとき、勝海舟は加太から和歌浦にかけて海岸沿いの30数か所を検分しました。そ
の際の報告書によれば、やっと完成した加太の台場に対して「その位置を失い、多くは
児戯に類して歎息に堪えず」と厳しい評価をしており、あまりに貧弱なことを嘆いていま
す。それと同時に、加太浦を軍艦の建造地の候補にあげ、実現の際にはそこに浦賀
奉行に準ずる「加太奉行」を設置すべしと主張したと言われています。
この構想は、明治時代になって「由良要塞」として加太や友ケ島に大規模な砲台が建
設されることにより実現することになります。
また、この時には、勝の門弟だった坂本龍馬も紀州藩を訪れており、勝海舟とともに
海防施設の巡視に参加したと考えられています。
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和歌山城へ向かう、お城が見えて来た
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わかやま歴史館
先ずは此処で知識を得てから城内へ
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和歌山城
財団法人日本城郭協会より「日本名城100選」の1つに選定されています。
こんもりと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に白亜の天守閣がそびえ、御三家の威容にふ
さわしい風格を醸し出しています。和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊
臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。その築城を担当したのが、築城の名
人藤堂高虎(とうどうたかとら)でした。
まず、秀長の城代として桑山重晴(くわやましげはる)が入り、慶長5年(1600)には、
関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長(あさのよしなが)が入城。そして、元和5年(1619)
には徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が入城し、紀州55万5千石の城となり、以来、
水戸・尾張と並び、徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできました。
和歌山城の石垣には、紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く使われ、たしかに和歌山に
来たことを実感させてくれます。又、天守閣に登れば、和歌山市街が見渡せ、紀ノ川が
ゆったり流れているのがよくわかります。
和歌山城の石垣は、和歌山城の時代の変遷を映すように、石垣の石積みにも変化が
見られます。二の丸庭園前には創建期と思われる、一見乱雑に見える「野面積み」の
石垣。時代が進むと、大手門をくぐって城内に入った所に大きな石の間に小石を詰めた
「打ち込みハギ」へと変わり、さらに歩くと江戸時代の美しく積み上げられた「切り込み
ハギ」の石垣があります。
また、石垣には、転用石や、約170種類2100個以上もの刻印を見ることができます。
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御橋廊下
藩主の生活の場である二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を行き来する橋で、平成
18年に復元。長さ27m、幅約3m。江戸時代には藩主とそのお付きの人だけが行
き来でき、外からは姿が見えない造り。今は通り抜けができます。
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二の丸庭園から天守閣広場へ
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天守閣広場~天守閣
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不明門跡~城外へ
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此処までは、
10月24日の和歌山城&徳川家ゆかりの寺社-1 として      
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-10-27
続きは、岡山時鐘堂~
岡山時鐘堂
紀州藩五代藩主徳川吉宗の時代の正徳2年(1712)に建立されました。当時は、市内
本町に浅野幸長の時に作られた時鐘屋敷があり、南北で呼応して一刻ごとに時を報知
したといわれますが、現在は、この時鐘堂しか残されていません。
この鐘は、藩士の登城と町民に刻限を知らすほか、出火、出水、異国船の出没など、
非常時をいち早く知らせる重要な役目をもっていました。石段を登ると西向きに出入口
があり、一階は土間で、四隅に二階までの通し柱があり、二階の大梁の中心から梵鐘が
釣り降ろされ、撞木によって東西二ケ所から鐘を鳴らすようになっています。屋根は寄棟
造の本瓦葺です。梵鐘は、元は大坂夏の陣で豊臣方が使用し、その後紀州藩が管理し
ていた大筒を二代藩主光貞が、紀州粉河の鋳物師に命じて改鋳させたものとされます。
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徳川吉宗公生誕の地の碑へ向かう
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徳川吉宗生誕地 徳川吉宗公生誕の地の碑
八代将軍吉宗は、NHKの大河ドラマやTVドラマで良く知られるようになりました。地元和歌
山でも人気があって、キャラクターも生まれ、様々なイベント等で登場しています。
実在の吉宗は、紀州藩第二代藩主徳川光貞の四男として、貞享元年(1684年)10月に、徳
川家菩提寺報恩寺のすぐ西にある吹上邸で誕生しました。母は側室お由利の方です。現在
吹上二丁目には生誕地の碑が建てられています。末っ子ではありましたが、兄達が次々と
亡くなったため第五代紀州藩主となります。質素倹約を旨として、農業の振興や武芸学問の
奨励などを行い、藩の財政の立て直しを行いました。 将軍となってからも、紀州藩主時代の
経験を活かして、後に享保の改革と呼ばれる治世で、幕政を立て直し、江戸幕府中興の名
君と称えられています。
[紀州藩主時代]
・訴訟箱の設置 広く民衆の声を聞くために一の橋の門前に置かれたと伝えられます。これ
は後の目安箱につながります。
・農業の振興のために、新田開発を行うとともに水利灌漑のための用水路や大規模なため
池を造りました。 大畑才蔵や伊沢弥惣兵衛に命じて、小田井用水(高野口~岩出間約33
km)や亀池の造営をさせました。
[江戸幕府将軍時代]
紀州藩主としての実績を活かした治世を行います。とくに力を入れた治水灌漑事業では、
伊沢弥惣兵衛を江戸に呼び寄せ、見沼用水路(埼玉県)など数々の事業を完成させまし
た。こうした努力により、幕府の年貢による収入は大幅に改善されました。
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報恩寺
報恩寺(ほうおんじ)は、和歌山市にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は白雲山。
報恩寺は、紀州徳川家二代藩主徳川光貞が母である瑤林院(加藤清正の娘/父の紀
州藩祖徳川頼宣の夫人)の報恩の為に建立(寛文9年/1669)した日蓮宗のお寺で、瑶
林院をはじめ、光貞夫人の天真院、5代藩主吉宗夫人寛徳院らの墓がある。(因みに
頼宣をはじめ歴代の藩主の菩提寺は下津にある長保寺であることは知られている所)
報恩寺の門をくぐり、奥に向かって歩を進め、石段を登りつめたところに件の御廟があ
る。350年の年月を経た墓石はかなり風化が進み、刻字の判読が困難だが、かろうじて
瑤林院の文字を読みとることができる。
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 徳川家の御廟
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無量光寺
無量光寺(むりょうこうじ)は和歌山市にある浄土宗の寺院。徳本上人大名号塔の寺。
本尊は阿弥陀如来。「首大仏の寺」として知られる。
無量光寺の首大仏
無量光寺の境内には首から上の部分しかない大仏「首大仏(おぼとけ)」が鎮座していま
す。この首大仏は大福寺の蓮心和尚のために多くの人の力で丈六佛(じょうろくぶつ)が
造られたことが始まりとされています。その後、丈六佛は火災により焼失します。悲嘆にく
れた人々は再興を決意し、鎌倉の大仏を目標に丈六佛の溶けた銅でまずは頭部を鋳造
し、その後胴体も鋳造し頭部とつなげる予定でしたが断念し、頭部だけの大仏となりまし
た。その後、大福寺は安政の大地震の際に伽藍も全て消失し、寺の維持が困難になった
ことから明治41年(1908年)廃寺に至り、大仏は無量光寺に安置されることになりました。
首大仏は高さも3mあり、偉容を誇っています。
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刺田比古神社(吉宗の仮親)へ向かう
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和歌山城氏神  刺田比古神社(吉宗の仮親)
刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)は、和歌山市にある神社。式内社で、旧社格は県社。
『日本書紀』では「狭手彦」と表記。大伴金村の子で、『新撰姓氏録』によると道臣命十世
孫とされる。朝鮮半島に派遣され武功を挙げたという。
通称「岡の宮」。延喜式内社で1000年以上の歴史を持つ神社。頼宣が和歌山城に入城
以来、城の守り神となり、神主が吉宗の仮親になったといわれています。吉宗の出世にあ
やかり、開運の神様として知られています。
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岡公園(陸奥宗光 像・昔懐かしい 和歌山市電等)
園内には、蒸気機関車くまの号と以前和歌山市内で走っていた路面電車が展示されて
います。
和歌山出身の外交官で政治家の陸奥宗光の銅像、陸奥の生誕地の敷地内に、石碑と
功績が記された看板がある。
和歌山市の「陸奥宗光伯没後120年事業」の一環。「陸奥宗光伯生誕地」と刻まれた石
碑(高さ1・2メートル)と、功績が記されたステンレス製の看板が設置された。
場所は陸奥の生家があった敷地内で、天保15年7月7日に紀州藩の重臣だった伊達宗
広の第6子として誕生した陸奥が、幼少期を過ごしたとされている。
看板には、父の失脚による苦境を乗り越えた陸奥が勉学に励み、後に幕末の紀州藩を
救ったことや、第2次伊藤博文内閣で外相を務め、明治27年に英国との不平等条約改
正を達成、欧米列強に認めていた領事裁判権の撤廃に成功したことなどが日本語と英
語で紹介されている。
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蒸気機関車 C57&チンチン電車
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岡口門~大手門
大手門前にて集合写真撮影し解散・・・4人で和歌山駅
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和歌山駅
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