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1月31日の酒蔵みてある記・西内酒造「談山」-2 

2月6日        1月31日の酒蔵みてある記・西内酒造「談山」-2 
                近鉄駅フリーハイキング・大和朝倉駅~
今年になって初めて1人で参加した、途中の石位寺で昨年2月に田原本駅~の
ハイキングで御一緒した方とバッタリ出会い、一緒に歩いて、西内酒造~コース
変更して桜井駅へ約3kmを一緒に歩いた、7km → 歩程約10㎞に
コース 近鉄駅フリーハイキング 大和朝倉駅受付10時~11時 歩程約10㎞
大和朝倉駅(受付)~舒明天皇押阪内陵~鏡女王墓~大伴皇女墓~神籠石~
石位寺~天王山古墳~倉橋溜池~倉梯柴垣の宮伝承地~崇峻天皇陵~聖林
寺~西内酒造「談山」・甘酒・試飲・抽選会~談山神社一の鳥居~桜井駅
抽選には外れたが、天気に恵まれ、同行者にも恵まれ、西内酒造の4種類試飲の
お酒と後の温かい甘酒が美味しかった、同行者とは桜井駅迄歩いて別れて・・・
此の日の私の万歩計は、21755歩で約14.5km歩いたことに
志都美駅へ向かう
志都美駅
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香芝駅で降りて
鹿島神社・・・鹿島神社のHPより
”香芝”の地名は当社の”カシマ”に由来するともいわれています。
『もりのみやさん』「おうぎのみやさん』とも呼び親しまれ、往古よりこの地の守り神
《鎮守の杜》として、広く皆様から大切にされています。
承安2年(1172)に源義朝の家来の鎌田小次郎政光が常陸国の鹿島本宮の神を連
れてきたのが始まりという記録があります。この地にあった、式内社の深溝神社とす
る説が有ります。祭神;武甕槌大神
鎌倉時代の初期から記録が残されている「結鎮座」けいちんざと呼ばれる氏子の集
団(宮座)があります。民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」が最も古く、昭
和37年に奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館に保管されています。
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近鉄下田駅へ乗り換え
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大和朝倉駅(受付・スタート)
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忍坂街道へ向かう
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玉津島明神
この地は忍阪字生谷(いくだに)で地名のとおり衣通姫の誕生地という伝承が残って
います。祠の横には衣通姫が産湯を使ったという産湯の井戸の石枠組が残されてい
ます。元々の井戸はすぐ横を静かに流れる生谷川の清流沿いにあったという伝承が
あり2011年9月に周辺の一部を試掘したところ地下2mのところから井戸の石組み
と思われる石材が見つかりました。しかし部分的な発掘に加え時代を証明できるよう
な土器類等も見つからなかったので当時のものか断定は出来ませんでした。しかし、
いつの日か幻の忍阪宮跡と共に、この産湯の井戸が発見されるかもしれません。
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※衣通姫
衣通姫は古事記では允恭天皇(19代)と皇后で当地ゆかりの忍坂大中姫(おしさか
のおおなかつひめ)の第五皇女で同母を持つ木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と
情を通じたことで兄は失脚して伊予に流され衣通姫も兄の後を追い共に命を絶って
しまうという悲しい物語が残されています。

舒明天皇押阪内陵・・・第34代 舒明天皇陵
陵墓…押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)(忍阪段塚古墳)  上円下方墳
舒明天皇から、八角墳の造営がスタートした。それまでの都塚古墳は大型方墳で
あり、その後の推古天皇などの大王墓に方墳が採用されていた。舒明天皇は、天
皇中心の新しい国造りを目指すが、志半ばで倒れる。妻の皇極天皇が後を継ぐ。
段塚古墳は、皇極天皇が造った可能性が高いと思われ、蘇我氏に対抗する意味
でも夫の出自や系譜を示そうと、蘇我系の方墳の四隅を切り取った形の八角形を
新たに見出した。
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第34代 舒明天皇
推古天皇が聖徳太子の薨去後、皇太子を立てなかったことから、天皇の崩御にと
もない皇位継承をめぐる紛議が起こった。皇位継承者に推されたのは、田村皇子と
山背大兄王(聖徳太子の子)である。結果田村皇子が即位した。第一子は天智天皇
となった葛城皇子(中大兄皇子なかのおおえのおうじ)で、第二子は天武天皇となっ
た大海人皇子(おおあまのみこ)である。630年(舒明2年)10月に飛鳥岡のそばの岡
本宮に遷り、636年(舒明8年)6月に岡本宮が焼失、近くの田中宮に遷り、639年(舒
明11年)に西の民が百済宮を造り東の民は百済大寺を造り、書直懸(ふみのあたい
あがた)を技師長にあたる大匠とした。舒明天皇は再三有馬温泉に行幸、晩年には
聖徳太子も行った道後温泉にも行き、リゾートを楽しまれた。外交に於いても、犬上御
田鋤(いぬがみのたすき),薬師恵日を大唐に遣わし、初の遣唐使の派遣となり、以後
の端緒を開いた。朝鮮三韓との交渉も密に行なわれ、難波にあった三韓の舘(むろつ
み客舎)を修理している。朝鮮半島、唐との直接交渉の他に屋久島など南島列島への
関心を持っていた。遣唐使を初めて派遣し、日本最古の国家寺院、百済大寺(くだらお
おじ)を発願した。

鏡女王墓
舒明天皇陵から東北に見える円墳が、鏡女王(かがみのひめみこ)の墳墓です。平安
時代に出来た「延喜諸陵式」によると『鏡女王・押坂墓』と記載され、大和国城上郡押
坂陵域内東南にあるとなっています。鏡女王は、『万葉集』の古写本には「鏡王女」と
あり、『日本書紀』には「鏡姫王」という名前が記されていますがいずれも鏡女王と同
一人であるとされています。鏡女王は、近江国野洲郡鏡里の豪族・鏡王の娘で、万葉
歌人として有名な額田王の姉にあたるとされています。はじめ天智天皇の妃で、のち
に藤原鎌足の奥さんになった方と言われています。奈良・興福寺の起源となる山階寺
(やましなじ)は、藤原鎌足が病気のとき、鏡女王によって建立されたと伝えられていま
す。「日本書記」によれば、天武12年(683年)7月4日、天武天皇は鏡女王の宮へ行き
、見舞ったが、彼女はその翌日に亡くなったと記されています。
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大伴皇女墓
大伴皇女は欽明天皇と堅塩媛(蘇我稲目の娘)の皇女で古事記には大伴王と記され
ています。兄弟には推古天皇、用明天皇がいます。したがって大伴皇女は聖徳太子
の叔母さんという事になります。この墳墓は平安時代に書かれた延喜式には「大伴皇
女押坂墓」とされ現在、宮内庁で管理されています。
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もう一度舒明天皇陵前を通り
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神籠石
神籠石(地元では、ちご石と呼ばれています)のいわれについて古書に忍阪の集落
の中央に「楯の奥」(現・タツノ奥)というところあり、その北の「矢垣内」(現・屋垣内)に
神籠石という大きな建石がある、と記され、神武東征の時、天皇がこの地にいた八十
建(やそたける)を討つとき、この石に隠れ石垣をめぐらし矢を持ち楯とした大石という
伝説を持っています。「楯の奥」「矢垣内」という小字名も、そのあたりから、きているの
かも知れません。昔は素手で正面からこの巨石にのぼり、一畳敷きの上で大の字に
なれば一人前の証とされていたという伝承を持っています。(上の火の見やぐらは昭和
35年ごろ、生根神社より移設された。)
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石位寺
石位寺の山号は「高円山」。「こうえんざん」と読みます。今は無住となっており、いず
れの宗派にも属さず、区が管理しています。
現在の堂宇が建てられる昭和53年までの本堂は薬師堂とも呼ばれ、この薬師堂は
元禄2年(1689年)12月、領主の関係があった奈良奉行の大岡忠高が、資金を助力し
て建立されています。その当時の薬師堂は、當麻寺と同じ造りであったとされ、「西の
當麻寺、東の位寺」と呼ばれていたと伝わっています。
また、「石造薬師三尊像」の他に地蔵菩薩、観音菩薩、千手観音、四天王、木造十二
神将が薬師堂にあったと記されています。その後大正6年に、薬師三尊像以外の仏像
は、長野県若穂保科の清水寺(せいすいじ)に渡っています。
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天王山古墳
巨大横穴式石室、家型石棺、元天皇陵と三拍子揃ったこの古墳は桜井市倉橋字赤坂に
ある1辺約50m、高さ9mの大型方墳です。(石室の中はほんの僅かしか光が入ってこない
ので懐中電灯は必携です)
全長15mの横穴式石室は古くから盗掘され開口しています。ただ開口部は土砂が入り
込み、しゃがみ込んでやっと入れる感じですが、真っ暗な羨道の緩やかな斜面を約8m
ほど入ると徐々に広くなり玄室に到着します。長さ6.4m、幅3m、高さ4.2mの巨大な玄
室の中央部には、大きな家型石棺が横たわっています。まさに6世紀末の世界がここ
にあります!!正式な発掘調査は実施されていない為、出土遺物等は不明ですが、石
室の特徴から6世紀末~7世紀初めにつくられたと考えられています。明治年間(明治
22年まで?)までこの古墳は崇峻天皇倉梯岡上陵とされており、築造時期及び倉橋地
区で天皇陵に相応しい規模の古墳は、この赤坂天王山古墳をおいて他になく、研究者
の間では真の崇峻天皇陵ではないかという考えが有力です。巨大横穴式石室、家型石
棺、元天皇陵と三拍子揃った横穴式石室を語るうえでは外せない古墳です。
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此処までは、
1月31日の酒蔵みてある記・西内酒造「談山」-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済み。 
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-02-06
此処では、此の続きの倉橋溜池~
1月31日の酒蔵みてある記・西内酒造「談山」-2 として詳細を掲載します。
倉橋溜池
倉橋溜池は忍阪の石位寺から南の方角に歩いて約1キロ(約20分)の所にあります。
(石位寺からも倉橋溜池の堤がよく見えます)。県内では高山溜池、白川溜池、斑鳩
溜池とともに四大溜池の一つで池としての灌漑面積は県下最大です。
昭和10年頃(1935年)関係町村の有志により干ばつ対策として発案された農業用た
め池ですが戦争等の影響もあり18年の歳月を要して昭和32年(1957年)に完成して
います。
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倉梯柴垣の宮伝承地
倉梯柴垣宮は、第32代崇峻天皇が営んだ宮です。記紀には、崇峻天皇の時、かねて
より仏教の礼拝などをめぐる蘇我氏と物部氏との対立がついに戦となり、物部守屋が
戦死して廃仏派の物部氏が敗れ、没落した丁未の乱(物部守屋の変)といわれる事件
が記されています。後に聖徳太子となる厩戸皇子も崇仏派の蘇我馬子の側につき戦に
加わったとされていますが、この事件の後、仏教は我が国に厚く受け入れられるように
なり、寺院の建立も盛んに行われるようになりました。また、この結果、蘇我氏が大きな
権力を得ることとなり、後に崇峻天皇が暗殺される要因になったとされています。
聖徳太子の母・穴穂部間人(あなほべはしひと)皇女の実弟に穴穂部皇子がいる。聖
徳太子の叔父にあたる皇子である。この皇子は、血気盛んで武人的な性格の男だった
ようだ。盛んに自分が皇位継承者であると自薦して回っていた。その武人的な性格に
共鳴したのか、物部守屋はこの皇子をバックアップすることに決めた。しかし、そうした
性格は天皇としてふさわしくないと考えたのであろう。蘇我氏の血を引く皇子なのに、蘇
我馬子は彼の皇位継承を妨げる側に回った。皇位継承争いを解決するため、蘇我馬子
は果敢な行動に出た。敏達天皇の皇后として隠然たる勢力を保持していた堅塩姫と結
託して、まず穴穂部皇子を殺害してしまった。そして、用明天皇の喪が明けるのを待っ
て、諸皇子と諸豪族を糾合して、河内の阿刀に退いていた物部守屋を襲撃し、物部本
宗家を滅亡に追いやってしまった。聖徳太子がこの戦闘に参加し、味方の形勢が不利
なのを見て、四天王の加護を求めたという有名な話が『日本書紀』に記載されている。
このとき皇子は白膠木(ぬりで)を切り取ると急いで四天王像を作り、それを髪に縛り付
けて味方の勝利を祈願した。後にこのときの加護に報いるため、聖徳太子は四天王寺
を建立したという。だが、この話も後に発生した太子信仰から、仏家の手によって創作
された説話であるとされている。物部一族を滅ぼした後、蘇我馬子と堅塩姫が次期天皇
として擁立したのは、穴穂部皇子の弟の泊瀬部(はつせべ)皇子である。泊瀬部皇子は
587年8月2日、第32代崇峻天皇として即位し、倉梯柴垣宮を宮居と定めた。現在、桜
井市倉橋にある崇峻天皇陵の手前左手に民家のような「金福寺」という寺がある。その
寺が宮跡であると伝えられている。
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崇峻天皇陵
第32代崇峻天皇の倉梯岡上陵(くらはしのおかもへのみささぎ)は倉橋のバス停から南
に下った倉橋川沿いにあります。崇峻天皇は欽明天皇の第12子で母は蘇我稲目の女、
小姉君(おあねのきみ)で日本書紀によると蘇我馬子に擁立され倉橋に宮殿を置き政務
をとっていましたが即位して5年後の崇峻5年10月(592年)天皇は献上されたイノシシを
指さして「いずれこの猪の首を斬るように憎いと思う人を切りたいものだ」と側近に漏らし
たが馬子は悪い人とは自分のことではないかと恐れ部下の東漢直駒(やまとのあやのあ
たいこま)を差し向け暗殺をはかり、その日のうちに「倉橋岡陵」に葬ったと言われていま
す。一般に延喜式では陵墓の兆域と陵戸が書かれていますがこの崇峻陵に関しては無く
特異な例になっている、これは天皇暗殺と即日埋葬とからこうなったと理解されている。
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聖林寺へ向かう
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聖林寺(しょうりんじ)
多武峰(とうのみね)街道の入り口にあたる小高い丘陵上にあるのが国宝十一面観音で
知られる聖林寺(しょうりんじ)です。藤原鎌足の長子定慧(じょうえ)の創建と伝えられて
います。その後再三兵火に合いましたが、鎌倉時代に三輪山の慶円(きょうえん)上人、
玄心和上によって再興され、江戸時代には文春和尚によって本尊の子安地蔵菩薩が本
堂として祀られ現在に至っています。この子安地蔵は丈六の石仏としては大和第一の大
きさで安産と子授けの地蔵として信仰を集めていますが、このお寺の最大の見所は国宝
の十一面観音菩薩です。元は大神(おおみわ)神社の神宮寺の大御輪寺の本尊だったの
ですが明治初年の神仏分離令により廃仏毀釈運動が起こり起こり放出されこの寺が受け
入れたものです。その後1891年11月にこの寺を訪れた宮内庁嘱託として来朝中の米人
フエノロサに激賞されて以来その芸術的価値が見直されるようになったもので、その美しい
姿は多くの人々を魅了してきました。高さ約2m、奈良時代の乾漆像中でも最も形態の整っ
た優品で昭和26年に国宝に指定されています。境内から見る大和平野の眺望も見どころ
のひとつです。
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西内酒造
談山神社の麓、多武峰街道沿いで明治初年より「お客様に喜ばれ愛するお酒づくり」を
モットーに酒造りをされているのが「清酒談山」で知られる「西内酒造」。小さな蔵で真面目
に醸す、知る人ぞ知るこだわりの蔵元です。銘酒は良い水から生まれます。「敷地内に湧
き出るとっておきの清水を使える事は酒屋にとって幸せなことです」と話されるのは五代目
主人の西内康雄さん。そして今回「西内酒造」で人気の「貴醸酒」と「卑弥呼の里」の2品が
「大和さくらいブランド」に選ばれました。
手の掛かる「貴醸酒」は全国的にも珍しく県内でも「西内酒造」のみ。貴醸酒はシオリ法とい
われる製法で、仕込み水の代わりに吟味された清酒を使用し醸造、ルーツは「御酒」で、昔
は宮中の儀式に使われていたと伝えられています。原料米に奈良県産キヌヒカリを使用、
味わいはまろやかで、とろりとした黄金色で甘口の美味しいお酒で後味はすっきりしていま
す。同じく選ばれたのは古代米酒「卑弥呼の里」。桜井にふさわしいお酒を作りたいとの思い
から、黒米を使用しこれぞ桜井という美しい桜色のお酒に仕上げられています。華やかで透
明感のある「卑弥呼の里」という名にふさわしい品のあるお酒で女性にもお勧めです。
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談山神社一の鳥居
簡素で何らの装飾もない。しかも正確に、その石組みの重量感は堂々とした姿に原始
のごとき想像力が味わえる。ここから昔の面影を残す街道が南へと続いている。
この鳥居は享保9年(1724年)の制作で。石材は下村の南大谷から掘り出した。(榊原
文書)鳥居上の銅額は貞明皇后(大正天皇皇后)の父、九条道孝氏の筆になる。高さ
約8.5m、長さ約11.5mですが、西側の端が火災で(昭和23年頃)欠けてしまった。
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桜井駅・一週三善
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五位堂駅・二上山
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コメント 2

mamu7010

 酒蔵は別にしても、魅力的なコースです。
又、下火になれば行ってみたいです。
倉橋溜池→崇峻天皇陵、良いですね!
by mamu7010 (2017-02-07 13:03) 

taharas

mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
8日の大和西大寺~郡山へのハイキング行きますよ・・・
by taharas (2017-02-07 14:14) 

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