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2月6日歩こう会特別企画“あさが来た”広岡浅子を訪ねて-2

2月8日   2月6日歩こう会特別企画“あさが来た”広岡浅子を訪ねて-2
                ※雨天決行 歩程約5㎞
このひは曇り空、幸い雨らしい雨には会わず完歩出来たが、地下鉄の事故や
南海電車の事故で予定の10時半スタート出来ず、おおよそ25分遅れとなって
しまったが、特別企画にしては参加者人数は予想以上の50人超えて59人・・・
コース:地下鉄・北浜駅 大阪証券取引所 五代友像前(受付10時半)
大阪証券取引所 五代友厚像~緒方洪庵旧宅&適塾跡~大同生命・広岡浅子
~福沢諭吉誕生地碑船着き場(昼食)~諭吉誕生地碑中津藩蔵屋敷跡~蛸の
松~五代友厚朝陽館跡碑~五代友厚邸跡(日銀大阪支店)~淀屋橋(解散)
此の日の私の万歩計は、14666歩出約9.9km歩いたことに・・・
大阪証券取引所 五代友厚像前で受付
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五代友厚像
五代 友厚(ごだい ともあつ)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本
の武士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町(現鹿児島市長田町)生ま
れ。大阪経済界の重鎮の一人。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)の
あった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。
五代友厚・・・近代の立役者?大阪での実績
・運上所跡(初代税関長)
大阪税関の前身である川口運上所が、ここ川口の地に設置された。
当時の運上所は現在の税関事務と外交事務を行っていた。慶応4年(1867年)、
「五代友厚」(初代大阪税関長、後の 初代大阪商工会議所会頭)が「外国官判
事」に就任し、運上所の事務を行うようになった。明治5年(1872年)11月28日
(税関記念日)、全国の「運上所」(うんじょうしょ)の名称は「税関」に統一され、
川口運上所は大阪税関となった。
・英国視察によって行われた五代の教育革命
現在の大阪市立大学の源流である大阪商業講習所を設立し、日本の教育制度
の充実に力を注いだ。
※五代友厚の功績は書ききれないので以下に項目だけを羅列します
・神戸事件  ・堺事件  ・大阪通商会社・為替会社 ・大阪活版所 ・大阪会議
・金銀分析所の設立  ・造幣寮の設立
・朝陽館・・・五代友厚西朝陽館跡碑
その横には「明治天皇聖躅」と刻まれた石碑がある。その意味は「足跡」というらしく
「明治天皇が残した足跡」という意味になる。明治天皇は度々大阪に行幸をされてい
て、この「明治天皇聖躅」なるテレパーク敷地内の碑は、明治天皇が西朝陽館を天覧
した記念の碑として、建てられた。
・堂島米会所
・大阪商法会議所設立
大阪経済の復活を願って、財界指導者の有志15名が明治11年(1878年)7月、大阪
商法会議所設立の願書を大阪府知事に提出した。今日の大阪商工会議所の礎である。
・為替手形約束手形条例
・大阪証券取引所設立
大阪は江戸期の金相場会所以来、金融取引の活発な地であり、今日まで大阪経済の
発展を担ってきた。薩摩出身の五代友厚は明治11年(1878年)、大阪株式取引所の設
立に尽力し、大阪の発展に多大なる功績を残した。
大阪証券取引所の前身、大阪株式取引所もまた、友厚の尽力によって設立された。
・大阪商業講習所(現大阪市立大学)創設
簿記、商法学(商学)などを教えるため学校をつくるため、五代は筆頭の創立員となっ
て、鴻池善右衛門、広瀬宰平、杉村正太郎らが加わり、明治13年11月、私立大阪商
業講習所が設立された。当時の入学金は1円であり、五代は多額の寄付金、創立費
を出している。
・市立大阪商業学校となる朝陽館の跡
・五代邸
五代友厚の最初の自邸跡は、現在の大阪市西区靱本町にある「大阪科学技術館」
である。昭和35年(1960年)まで残っていたが大阪科学技術センタービルの建設に
より取り壊され、現在は大阪科学技術館として姿を変えている。新築自邸跡は、現在
の大阪市北区中之島にある「日本銀行大阪支店」である。慶応4年(1868年)から大
阪在勤となった五代は備後町(びんごまち)で暮らし始める。明治2年(1869年)には
梶木町(かじきちょう)へ移り約半年ほど住んだ。翌年に備後町に仮居した後は平野
町に引っ越し、明治4年(1871年)12月から西区靭(うつぼ)北通1丁目(現・大阪科学
技術センター)に居宅を構えた。料亭・加賀伊(かがい)(後の花外楼(かがいろう))で
行われた大阪会議開催前に盟友・大久保利通が長期間宿泊し、碁盤を間に五代と向
き合って日々談義したのはこの靭(うつぼ)邸である。
その後、明治18年(1885年)1月、中之島(現・日本銀行大阪支店)に邸を新築した。同
年8月には東京で療養生活を送り始め、そのまま同年9月25日に東京で逝去した。
・葬儀
五代の棺は東京・築地から横浜、神戸へと船で、さらに神戸から大阪まで汽車で運ば
れた後、中之島の邸に運ばれた。中之島邸にて葬儀が執り行われたが、葬儀には大阪
の恩人・五代を偲ぶ4千数百名の弔問客が訪れ、棺は淀屋橋を南に渡り東へ、心斎橋
筋を南下して高麗橋(こうらいばし)通を東へ堺筋まで行き、堺筋を南下し、阿倍野墓地
に向かった。
・五代友厚の恵まれた環境
五代は小松清廉や西郷隆盛、大久保利通などの要人と知り合いだった。長州藩の高杉
晋作や土佐藩の浪人坂本龍馬とも非常に仲が良い。このように一流の人物たちと関わり
合える条件をもっていたことが五代の後の功績へと役立った。加えて、五代が役立てたも
のは英語力である。当時から外交に英語力は欠かせなかった。特に薩摩藩城代家老小
松清廉には重用されて恩義を感じ、小松死後はその妻(側室)子の面倒を見た。
・五代友厚の悪に対する厳格な態度
友厚の大阪との関わりは、明治の新政府成立後に始まった。新政府が諸外国との交渉
窓口として外国事務掛を大阪に設け、五代を任命したのが起点である。この頃、大阪で
は日本人の無知につけこんだ外国商人の不正行為が後を絶たなかった。条約違反、購
入料金の不払い、雇い人への賃金不払い等は日常茶飯事で、領事館の家賃不払いま
でもが平気で行われていた。五代はこのような不正に対しては断固たる態度で臨み、一
切の妥協を拒んだ。次第に五代が駐在する大阪港では外国船の荷物検査があまりにも
厳しいという抗議が政府まで届き、政府が取り締まり緩和勧告を出すほどの騒動に発展
した。しかし、五代は外国商人の要求の真意が荷物検査が行われることによる不満(脱
税や不正行為ができなくなる為)であることを見抜いていたので全く動じなかった。
商売人にとって「信用」は最も大切であり、不正を容認することは信用を失い、不正を糾
弾することでその信用を勝ち取ろうとする五代の信念があった。五代は商人である前に
「正義」「大儀」を重んじる一人の武士であり、不正を見逃すことも国益を損なうことも出
来ない性分だった。
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緒方洪庵旧宅&適塾跡へ向かう
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緒方洪庵旧宅&適塾跡
大阪府大阪市中央区北浜にある邸宅跡。緒方洪庵は1810年(文化7)、備中国(岡山)
足守に生まれ、江戸と長崎で西洋医学と蘭学を学んで大坂に帰り、1838年(天保9)に
瓦町に家を構え、医師を開業するかたわら、私塾、適塾(適々斎塾)を開いた。1845年
(弘化2)に現在の北浜に邸宅を移し、1862年(文久2)に幕府の奥医師として江戸に迎
えられるまでの17年間、医学だけでなく蘭学や西洋の近代科学を指導した。適塾には
3000人近くが学び、大村益次郎(ますじろう)、橋本左内(さない)、福沢諭吉(ゆきち)、長
与専斎(ながよせんさい)ら、新しい時代を開く先駆者を輩出。邸宅は1941年(昭和16)
に国の史跡に指定された。
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大同生命へ向かう
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大同生命前へ到着、此処で2班に分かれる・・・
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広岡浅子と大同生命
大同生命は、1902(明治35)年、当時朝日生命(現在の朝日生命とは別会社)を経営
していた加島屋(かじまや)が主体となって、東京の護国生命、北海道の北海生命との
合併により設立されました。
江戸時代、大坂有数の豪商であった加島屋は、明治維新の動乱により家勢が傾きます。
その危機を救ったのが、17歳(数え年。以下同様)で加島屋の次男・広岡信五郎に嫁い
だ広岡浅子です。浅子は、七転び八起きを超える「九転十起」を座右の銘とし、炭鉱経営
等に参画。さらに中川小十郎をはじめとする有能な人材を招聘し、大同生命の創業にも
深く関わるなど、その手腕を遺憾なく発揮します。加島屋を立て直した浅子は、夫・信五
郎が亡くなった後、事業を女婿の広岡恵三(大同生命第2代社長)に託し、女性の地位
向上に尽力します。
1919(大正8)年、71歳でその生涯に幕を下ろした浅子は「普段から言っていることが遺言」
だとして、最期の言葉を残しませんでした。
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外へ出て集合写真撮影・・・
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此処までは、
2月6日歩こう会特別企画“あさが来た”広岡浅子を訪ねて-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-02-08
此処では、此の続きを 
   ・・・“あさが来た”広岡浅子を訪ねて-2 として詳細を掲載します。
大同生命を後に
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続きは福沢諭吉誕生地碑の船着き場へ向かう
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続きは福沢諭吉誕生地碑の船着き場で昼食
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福沢諭吉誕生地
慶応義塾の創始者である福沢諭吉は天保5年(1834)12月12日、諭吉は当地にあった
中津藩蔵屋敷で生まれた。父百助は諭吉が1歳8か月のとき急死、そのため母につれら
れ中津へ戻った。中津では儒学を学び、安政元年(1854)長崎遊学を終え江戸へ上る途
中大坂の蔵屋敷へ立ち寄ったが、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵の適塾に入門し、後
に塾頭になっている。3度にわたる幕府の遣外使節に随行、明治の文明開化啓蒙思想家
として活躍、慶応義塾を開設した。
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蛸の松へ向かう
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蛸の松
「蛸の松」は、明治を迎えてもその雄大な姿が見られ、『大阪摂津名所図絵大成』をみると、
「枝葉繁茂し四面に垂れ恰も蛸の如し、すこぶる大樹の名木なり、この辺河岸にして景色
もっとも絶景なり」と紹介されています。写真にも多く残されていますが、明治の後半には
枯死してしまいました。現存していれば、樹齢400年前後の巨木ですが、その切り株は現
在、大阪教育大学に大切に保存されています。
平成16年6月、護岸の美化にあわせて、大阪府師範学校附属演習小学校(現大阪教育大
学附属天王寺小学校)が久留米藩蔵屋敷跡地に開校した縁によって、同窓会である雛松
会が、かつての風趣を偲んで、「蛸の松」をこの地に再現しました。
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※昔の蛸の松
中之島は、大阪落城後に豪商・淀屋与三郎によって開発されたのが始まりです。江戸時代
には諸国物産取引の中心地としての地位を築き、諸大名の蔵屋敷が多く設けられ、“天下
の台所”にふさわしい活況を呈していました。立ち並んだ蔵屋敷前には、各藩自慢の松が植
えられ、人々は屋敷の白壁と川面に映る松の景色を楽しんだといわれています。なかでも、
慶長年間(1596~1615)に当時の広島藩主・福島政則が植えたと伝えられる黒松は、枝振
りが蛸の泳ぐ姿に似ていることから「蛸の松」と名付けられ、名所の一つとして親しまれてい
ました。
「蛸の松」が川に面して四方に枝を張っていた様子が、『久留米藩大阪蔵屋敷絵図』の屏風
絵でもうかがい知ることができます。久留米藩蔵屋敷の門前にあった「蛸の松」は、月の夕
べや雪の朝の眺めがことのほか美しく、藩でも神木として大切に扱われていました。近年、
周辺地域の発掘調査が進んでおり、絵図でしか、うかがうことができなかった久留米藩と広
島藩の敷地割りが、遺構として確認されました。現在、久留米藩蔵屋敷跡には、大阪大学
中ノ島センターが建てられています。「天下の台所」としての拠点であった蔵屋敷。「蛸の松」
と蔵屋敷の様子が大阪歴史博物館に模型で、展示されています。

五代友厚精藍所西朝陽館跡」の石碑
田蓑橋から阪神高速1号線との間、堂島川右岸のNTTテレパーク堂島第二ビルの前
に「五代友厚精藍所西朝陽館跡」の石碑が立つ。
その横には「明治天皇聖躅」と刻まれた石碑がある。その意味は「足跡」というらしく
「明治天皇が残した足跡」という意味になる。明治天皇は度々大阪に行幸をされてい
て、この「明治天皇聖躅」なるテレパーク敷地内の碑は、明治天皇が西朝陽館を天覧
した記念の碑として、建てられた。
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淀屋橋へ向かう
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日本銀行大阪支店
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淀屋橋で解散
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コメント 4

mamu7010

 広岡浅子さんの居た事・した事、少しでも聞けて良かった!
ただこの日は歩数不足で難波まで歩き、韓国・中国の人に交じりラーメン食べて帰りました。
by mamu7010 (2017-02-09 11:05) 

hatumi30331

昨日は、二色浜あたりで人身事故。
1時間くらい遅れたでしょう?
お疲れさまでした。
by hatumi30331 (2017-02-09 11:10) 

taharas

mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
私は同じ鹿児島県人として浅さんや当時の大阪の
発展に身を投じた五代友厚に感激!ディン・フジオカが
演じてたのも良かった、前に聞いた堺事件や神戸事件も
五代友厚が裁いたから上手くいった、人柄がにじみ出てる・・・
by taharas (2017-02-09 17:39) 

taharas

hatumi30331さん
コメント有難う御座います!(^^)!
南海電車の遅れで合流出来ないメンバーも発生、
大同生命で頂いた”広岡浅子”の説明資料等を送
らせて頂く等の対応、証券取引所のロビーを使って
寒さしのげて良かったが長時間待たされた苦情も・・・
今日は此方は今シーズン初の雪化粧、しばれます。

by taharas (2017-02-09 17:55) 

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