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2月8日の平城宮跡から郡山城跡へ・大和西大寺駅-2

2月10日     2月8日の平城宮跡から郡山城跡へ・大和西大寺駅-2
              近鉄駅フリーハイキング  歩程約10㎞
1人での参加だったが、梅もほころび最高のハイキング日和、郡山城への手前
で知り合いに出会い、コース変更、郡山城の盆梅展へは行かず茶店へ・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 大和西大寺駅~平城宮跡受付10時~11時
大和西大寺~平城宮跡資料館前(受付)~平城宮大極殿~朱雀門~秋篠川~
唐招提寺~養天満宮~薬師寺~秋篠川~九条公園~羅城門跡~郡山城外濠
跡~郡山城跡(盆梅展)~近鉄郡山駅(ゴール)→郡山城外堀緑地~JR郡山駅
受付を済ませて大極殿へ行く途中で此れから受付へ向かう、と言う顔見知りの方、
ご夫婦と会ったがその後のハイキングコース中には会えず残念だった、郡山城へ
の手前で別の知り合いの方に出会い、コースを変更して茶店へだべりに行けた。
郡山城盆梅展へは24日に行く予定にしてるので問題なく楽しい時間が過ごせた。
此の日の私の万歩計は26303歩出約17.8km歩いたことに・・・
大和西大寺駅~平城宮跡へ
平城宮跡資料館前で受付~平城宮跡・大極殿へ
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平城宮跡
平城京は、今から1300年程前に奈良市に建設された都です。その中心の
平城宮には天皇の住まいや官公庁が集まっていました。甲子園球場が30
個も入る広大なスペースには、現在様々な公開施設が有ります。
第一次大極殿
奈良建都1300年に当たる2010年に合わせ、平城宮跡に第一次大極殿が実物大
で復元された。(→平城遷都1300年記念事業)
復元された平城宮第一次大極殿の屋根には、中国古代建築の類例に倣い、大棟
中央飾りが設置されている。ただし、これまで平城宮跡からは大棟中央飾金具の
出土例がない。そのため、奈良時代前後の事例および資料の収集調査を通じ、こ
の金具の意匠設計を進めたという。 宝珠形の大棟中央飾りの類例として、初唐の
敦煌莫高窟第338窟壁画の邸宅、隋の訓西西安出土仏殿形式石棺などがある。
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外廻り
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広場へ出て
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塀の外へ出て
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第二次大極殿址の直ぐ横
西棲
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第二次大極殿(大極殿址)
恭仁京(くにきょう)遷都までの大極殿を第一次大極殿、奈良に都が戻ってからの
大極殿を第二次大極殿という。第一次大極殿は平城宮の正門である朱雀門の真
北に位置し、第二次大極殿は平城宮東寄りの壬生門北に位置している。第二次
大極殿跡は近世まで「大黒(ダイコク)の芝」と呼ばれた基壇が残っていた。この命
名は、平城京遷都当初は朱雀門北の地域に大極殿が設けられたものの、恭仁京
大極殿の規模と一致するところから745年(天平15年)に壬生門北に移動したもの
と考えられた為であったが、第二次大極殿跡の下層から掘立柱建物の遺構が検出
され、それが大極殿・朝堂院と同じ建物配置をとることから、結局、奈良時代の前半
には朱雀門北の広大な前庭をもち朝堂2堂をともなう第一次大極殿(中央の大極殿)
と壬生門北の朝堂12堂よりなる太政官院のさらに北にある内裏南面の大極殿(東側
の大極殿)の2棟あることがわかった。
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朱雀門へ向かう
途中に踏切が・・・
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踏切を渡って朱雀門へ
朱雀門
朱雀門(すざくもん)は、古代、平城京や平安京といった条坊都市の宮城(大内裏)
において南面する正門。宮城の12の門のうち最も重要な門であった。
中国の条坊制を模範に造営された古代都城では、中央北辺に宮殿、官衙からなる
宮城が置かれた。平城京では平城宮、平安京では平安宮などといい、大内裏とも呼
ばれた。大内裏には四方に12の門が備えられ、各々有力氏族の姓が付与されてい
た。南門は「天子南面す」というように、皇宮より京師を睥睨(へいげい)する最も重要
な門であり、朝廷の有力氏族、大伴氏の姓が付けられ「大伴門」と呼ばれていた。
714年、これを漢風に改め、四神において南方を守護するとされる朱雀の名を冠した
ものとした。朱雀門から都城正門の羅城門に続く大路を朱雀大路という。
平城京朱雀門は、考古学的研究と奈良県下の寺社に残る門を参考にして、五間三戸
の二重門がかつての位置に等寸復元されることとなった(平城宮跡)。朱雀門の位置
や規模が1964年の発掘調査で確認され、翌年に10分の1サイズで模型製作が行わ
れる。その後、1989年に決定された基壇の復原工事が1992年に終わると、門本体の
復原工事は1993年に開始され、1998年に竣工している。
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朱雀門を抜けて
朱雀大路へ出る・・・
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棚田嘉十郎像・・・朱雀門を指さす像
棚田 嘉十郎(たなだ かじゅうろう、(1860年5月21日-1921年8月16日)は日本の
植木職人。文化財保護運動家。明治時代から大正時代にかけて奈良県・平城宮
の保存活動を行った。植木職人として奈良公園などの植栽を手がけていた。
しばしば観光客に平城宮跡の場所を尋ねられたが、棚田は場所を知らず答えるこ
とができなかった。これを奈良の人間として恥ずかしいと思った棚田は、平城宮跡
の保存と顕彰に一生をかけることを決意した。
1896年、知人に連れられて大極殿跡を訪れた棚田は、放牧地となり堆肥が山積み
になっている有様を見て、次のように言って涙を流したという。
      “ 実に見る影もなき有様。之れを皇居の址と云はれ様か ”
これ以降、棚田は憑かれたように保存運動へのめり込み、平城宮の啓発のために
宮跡の図面を観光客らに配り、宮跡で掘り出された瓦を高名な人らに贈るなどした。
1906年には自ら発起人となり「平城宮阯保存会」を組織したほか、1912年3月には
当時の国鉄奈良駅前に大極殿跡への道標を建立した。人間関係のトラブルにより
自決。喉を突いたとも割腹したともいわれる。享年62。短刀等の遺品は奈良文化財
研究所に寄贈されている。
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秋篠川
自転車道を歩く
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みやこばし
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唐招提寺橋
なかよし公園のベンチで昼食
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秋篠川を渡って
唐招提寺へ向かう
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唐招提寺
聖武天皇の招きに応じ、苦難の末、日本にやってきた唐僧鑑真和上によって建立
されました。鑑真は日本に着いてから5年間、戒壇院での授戒を制度として確立す
るために東大寺で過ごしましたが、東大寺から解放された後、故新田部親王(天武
天皇の第七皇子)の旧宅を賜り、そこを「唐律招堤」と称し、戒院として教学の場を
営むことになりました。やがて鑑真を支持する人々から居室や宿舎を贈られ、倉庫、
食堂、講義用の講堂、本尊を安置する仮金堂などが建てられ、鑑真の没後も金堂や
東塔が建立されました。平安時代初頭に伽藍全体が完成し、そのころ「唐律招堤」
から「唐招提寺」となりました。
唐招提寺は覗くだけ・・・
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薬師寺へ向かう
養天満宮
かつては、薬師寺の寺内社でした(現在は、社寺地は線路で分断されています)
創建は古く、祭られている神像(菅公)の状態などから、鎌倉時代以前にさかの
ぼると考えられるそうです。本殿は元禄15年(1702)の改築。
祭神;菅原道真公  境内社;熊野神社、蛭子神社、気比神社
社叢は市の指定文化財(1989年指定)。
天然記念物のツブラジイを中心とする群落は、住宅地にあって原始林的な森林
形態を保っているのは極めて珍しいそうです。
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此処までは、
2月8日の平城宮跡から郡山城跡へ・大和西大寺駅-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-02-10
此処では、続きを
   ・・・ 郡山城跡へ・大和西大寺駅-2 として詳細を掲載します。
薬師寺へ向かう~
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薬師寺
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良
県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初め
に現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺)の
伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。
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秋篠川・自転車道へ出る
薬師寺東塔の修理棟がみえる・西搭も見える
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九条公園へ向かう
明治天皇駐輦之碑(めいじてんのうちゅうれんのひ)
明治41年 (1908)、国意発揚のため同年11月10日から13日まで大和平野一円に
おいて陸軍大演習が実施された。その14日、郡山 秋篠川左岸に4個師団が結隊整
列して閲兵式が行われたとき、明治天皇が車をとめて堤上に立ち観閲された。このこ
とを記念 して、のち大正4年(1915)11月の大正天皇即位の御大典に慶祝碑として
建てられたものである。なお、橋梁工事の際、碑は少々位置を移されてある。
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道路を横断すると直ぐに九条公園
富本銭出土地
九条公園は、昭和60年(1985)に富本銭(ふほんせん)が初めて発掘された場所です。
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富本銭(ふほんせん)は、683年(天武天皇12年)頃に日本でつくられたと推定される
銭貨である。708年(和銅元年)に発行された和同開珎より年代は古い。この貨幣が
実際に流通したのか、厭勝銭(えんしょうせん:まじない用に使われる銭)として使われ
たに留まったかについては学説が分かれている。
富本銭よりも前の貨幣として無文銀銭が知られている。無文銀銭・富本銭・和同開珎
の関係、貨幣としての価値、流通範囲、機能などはまだ不明な点が多い。
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大橋を渡ると直ぐに
常夜灯・・・いわゆ伊勢神宮の“お陰灯篭”
大橋南詰め東側に建てられた伊勢神宮のいわゆる“お陰灯篭”で、文化14年11月
(1817)郡山町中や近隣領地 村々の有志の人たちによって建立されたものである。
また、この灯篭は、昭和11年(1937)の震災によって倒壊し、同8月篤志家9 人が
再建している。今の光源は電球に なっているが当時は油であり灯心とともに箱本が
管理した灯明台である。
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池の横を通り畑の中を
平城宮羅城門跡へ向かう
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佐保川の堤防?
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平城宮羅城門跡・朱雀大路跡
八世紀初頭、平城京は、東西6km、南北4.8kmにわたる大きな規模に新営され、和銅
三年三月十日、都は飛鳥の藤原京からこの奈良の地に遷された。 新京中央に整備さ
れた朱雀大路の南起点には、高さ約22m、間口約31.8mの雄大なる羅城門を構え、そ
の両翼に高さ約6mの羅城を築いた。 羅城門は国城として開かれ、唐や新羅など海外
諸国の使節賓客は、ここに迎えられ入京したのである。
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郡山城へ向かう
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郡山城外濠跡
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今回はコース変更して此処までで終わり
知り合いと茶店でだべり、此処で近鉄奈良駅とJR奈良駅へ別れた。
薬園八幡神社の紅白の枝垂れ梅も咲いていたが改装工事中・・・
JR奈良駅へ向かう
郡山城外堀緑地
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JR王寺駅で降りて信貴山を撮りバス停へ
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コメント 2

mamu7010

 唐招提寺から薬師寺へ向かう道、良いですネ。
今回はまた梅も、、、
平城宮羅城門跡・朱雀大路跡へも行きたくなりました。


by mamu7010 (2017-02-11 11:03) 

taharas

mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
次は、是非羅城門跡石碑?のある公園に行って見たい・・・
今日の吉野神宮駅から大和上市へのコースはよかったよ、途中
に未だ見たい場所が有ったがY田さんが遅れて来たので余裕が
無く、急ぎ足でコースだけ見て廻った感じです、それでも満足した。

by taharas (2017-02-11 21:15) 

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