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2月13日の栄山寺から天誅組ゆかりの地を訪ねて-2

2月17日     2月13日の栄山寺から天誅組ゆかりの地を訪ねて-2
              近鉄あみま倶楽部会員限定ハイキング
今回の会員限定ハイキングには、知人と3人で参加、往復にバスを各々1時間弱使う
五條市でのハイキング、バス料金だけでも2130円、それでも楽しい1日が過ごせた・・
コース あみま倶楽部会員限定ハイキング 大和八木駅受付9:30~10:00歩程約9㎞
大和八木駅(受付)~バス(1030円)~国道三在バス停~栄山寺~吉野川川原景勝地
(昼食)~栄山寺橋~野原御霊神社~金剛寺~岡松家長屋門~辯天宗総本山如意寺
~大川橋~五條 まちなみ伝承館~新町通り~幻の五新鉄道遺構~民族資料館(長
屋門・天誅組資料)~桜井寺(天誅組本陣跡)~五条バスセンター~バス(1090円)~
大和八木駅(ゴール)。1人だと行かない色々な所へ3人で参加したから行けて良かった。
志都美駅へ向かう
志都美駅
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高田駅で近鉄に乗り換え
大和高田駅
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大和八木駅(受付)~奈交バス~国道三在バス停へ約1時間
国道三在バス停をスタート栄山寺へ向かう
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栄山寺橋
深い谷すじを流れてきた吉野川は、栄山寺橋の先から下流は五條の
盆地に流れ込み、広い河川敷を伴うようになります。
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栄山寺
音無川(吉野川)を眼下に望む榮山寺は藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になる
まで栄華をほしいままにしました。創建は養老3年(719)藤原武智麻呂公によると
いわれています。
古来は前山寺あるいは崎山寺と呼ばれ、いつしか「榮」の字が当てられたといわれ
ています。「崎」とは岩が川の瀬に張り出したところ、そこには美しいよどみができ、
瀬音が消えます。榮山寺前の吉野川を「音無川」と呼ぶのはこのためで、川の水色
は深みのある瑠璃色、青磁色をしています。
この榮山寺には特筆すべきものも多く、法隆寺夢殿とともに奈良時代を代表する
国宝「八角堂」や宇治平等院の鐘とともに「平安三絶」の鐘に数えられている梵鐘
は、表面の銘文は撰者が菅原道真で筆者が小野道風と伝えられます。
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八角堂(国宝)
武智麻呂の子、仲麻呂が父母追善供養のため天平宝字年間(757-765)に建立。
夢殿に似たこの堂は、内壁などに極彩色の仏画が残り、天平時代を代表する唯一
のものともいわれています。
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梵鐘(国宝)
高さ157.4cm、口径89cm、青銅製。4面に菅原道真の撰、小野道風の書と伝えら
れる陽祷の銘文があります。龍頭の精巧なこと、鐘身の美しさも含めて、京都神護
寺、宇治平等院の鐘とともに日本三名鐘の一つとされています。

石燈籠(重要文化財)
榮山寺形といわれる石灯籠は、弘安7年(1284)の銘がある鎌倉時代の遺品。日本
二百撰の石灯籠の仲で、8番目にランクされるといわれています。(総高243cm)
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吉野川景勝地(昼食)・・・音無川・奇岩?景勝地
眺望地点 水辺景観 吉野川の景観
奈良時代に創建された栄山寺の前を流れる吉野川は音無川とも呼ばれ、栄山寺
で修行していた弘法大師が筆を投げ入れ静かにさせたと言われています。
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栄山寺橋を渡る
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野原御霊神社・・・覗いただけですが?
神文の付いた[御霊宮・天満宮]の神額を掲げています。
慶安4年(1651)に霊安寺の御霊神社から勧請されたようです。右側に並ぶ菅原
神社は慶安3年(1650)に京都の北野天満宮より勧請されています。参道入り口
には「奉献願主当村東町綿屋惣兵衛天保八酉歳(1837)九月吉日」とある一対の
狛犬と、「御霊宮」「常夜燈氏子中 寛政十戌午年(1798)九月吉日」と刻む一対の
大石灯籠があります。祭神;井上内親王・相殿に菅原神社(菅原道真公)
末社;山王神社(大名持命)、春日神社(春日四柱神)、少名彦神社
境内社;猿田彦神社(八衢彦神・八衢姫神)、大山祇神社(木花咲耶姫命)
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此処までは、
2月13日の栄山寺から天誅組ゆかりの地を訪ねて-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-02-15
此処では、
2月13日の栄山寺から天誅組ゆかりの地を訪ねて-2 として
                     続きの金剛寺~の詳細を掲載します。
金剛寺
金剛寺は今から800年前、平安朝の文化人、小松内大臣、平重盛公の創建による
古寺と伝えられています。歴史と信仰を有する名刹の古寺でもあり、現在は高野山
派に属する真言宗となっております。
関西花の寺二十五霊場23番、西国薬師四十九霊場第9番札所である。
金剛寺は1173年(承安3年)、平重盛により創建された。江戸時代初期から野原城
主の畠山義春の菩提寺として復興し、奈良朝の末期、 光仁天皇の皇后、井上内親
王(いがみないしんのう)と その子の他戸親王(おさべしんのう)の怨霊を祀る宮寺
として さらには仁和寺直末の中本寺として栄えた。1822年(文政5年)当時の本常
和尚が薬の原料としてボタンを植えたのがきっかけとして、ボタン寺として親しまれ、
毎年4月下旬から5月上旬にかけてボタン祭りが開催される。期間中、境内の吉野川
を借景とする 約2,000平方メートルのボタン園では100種類1,500株のボタンが咲く。
また、秋には、キクが咲き、小菊まつりが開催される。
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岡松家長屋門(おかまつけながやもん)
江戸時代に野原村の代官を務めた家の屋敷を囲みます。市道に面して伸びた
長屋門の内側に、主屋と書院が建ちます。江戸前期の様式です。
奈良県指定文化財に指定されています。内部は非公開。
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辯天宗総本山如意寺
辯天宗は昭和27年に宗祖智辯尊女により立宗されました。
大辯才天女尊を御本尊とし、御本尊のおしえ「水のおさとし」の実践を通して、世界の
人々が「みんな仲良く楽しく暮らせる世界」の実現を目指しています。
昭和9年4月17日、奈良県五條市野原町の十輪寺住職、大森智祥師の妻、清子さま
(後の智辯尊女)は、大辯才天女尊の天啓を受け、その神示により、苦しみ悩む幾多
の人々を救う苦衆救済活動をお始めになられると共に、天啓の際に大辯才天女尊よ
り授けられた「おしえ」を「五行のお諭し」としておまとめになられ、大辯才天女尊の御
心を人々にお説きになられました。昭和27年1月10日、智辯尊女を宗祖とし、宗教法
人辯天宗が立宗されました。
また、昭和29年10月、十輪寺に隣接して総本山・宇賀山妙音院如意寺を建立、全国
教化への礎が築かれました。その後、昭和37年、東京の向島に東京本部(昭和52年
東京渋谷区に移転、現東京別院)を設置。そして、昭和39年、大阪府茨木市に辯天宗
第2の霊場として飛龍山冥應寺(辯天宗本部)が建立されました。
現在、全国に支部・教区・教会が設置されているほか、ハワイ、香港、韓国、バンクー
バーなど海外においても教区、支部が設置されています。また、智辯尊女は、教育・福
祉にもお力を注がれ、その御意志により、福祉法人ちべん保育園、社会福祉法人祥水
園、学校法人智辯学園が設立されています。
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※辯天宗(べんてんしゅう)
辯天宗(べんてんしゅう)は、大森智辯によって開かれた、日本の仏教の宗派。高野山
真言宗の流れを汲み、仏教系新宗教に分類される宗教法人である。大阪府茨木市に
本部を置く。宗紋(シンボルマーク)は桔梗紋。桔梗は奈良県五條市の市花(1982年
(昭和57年)に公募により制定)でもある。
系列の智辯学園高等学校、智辯学園和歌山高等学校は、高校野球の強豪、甲子園の
常連校として全国的に有名である。
※大辯才天女尊
弁才天(べんざいてん)は、仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神で
あるサラスヴァティー(Sarasvatī)が、仏教に取り込まれた呼び名である。神仏習合
によって神道にも取り込まれ、様々な日本的変容を遂げた。
※十輪寺(辯天宗始まりの寺)
十輪寺は奈良時代前半に行基が草庵を設けたのが始まりと伝えられ、その後弘法
大師空海が立ち寄り、桜の杖を植えた所から桜の木が生え、そこに十輪寺が建立
されたといわれている。開創の経緯は不詳である。
1934年、十輪寺住職・大森智祥の妻・大森智辯が門前に祀られている辯才天女尊
の天啓を受けて、信者などの相談にのったことが辯天宗の始まりとされている。
十輪寺に隣接して辯天宗総本山如意寺が建立されている。
まちなみ伝承館へ向かう
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大川橋(吉野川を渡る)
まちなみ伝承館へ向かう
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五條 まちなみ伝承館・・・五條市HPより
江戸時代の風情を残す新町通り。そのまちなみのシンボルとして、平成16年2月1日、
まちなみ伝承館がオープンしました。明治から大正にかけて建築され、民家として実
際に使用されていた建物を改修整備して完成したこの施設は、往時の風情を今に伝
えています。施設内にはまちなみの歴史や文化などに関する資料を展示し、自由に
ご見学いただくことができます。駐車場やトイレも開放しておりますので、まちなみ散
策の拠点として、是非お立ち寄りください。
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五條 新町通り
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幻の五新鉄道遺構・・・五條市HPより
明治末期、五條市から十津川をつたい新宮市までを結ぶ「五新鉄道」の建設熱が高ま
りました。昭和12年(1937)から着工され、吉野川横断の橋脚、生子トンネルの貫通ま
で至りましたが、太平洋戦争が始まり資材不足等の理由で、工事は中断されました。
戦後、工事が再開され、昭和34年(1959)に五條-城戸間の路盤工事が完成し、軌道
敷設等の工事を残すのみとなりましたが、経済社会情勢等の変化によって、五新鉄道
の夢は叶うことなく中断されました。
現在、跡地の一部は路線バス専用道や、宇宙のなぞを解明する研究所「大阪大学コス
モ観測所」として利用されています。また、平成9年(1997)にカンヌ映画祭カメラドール
賞(新人監督賞)を受賞した河瀬直美監督の映画「萌の朱雀」は、五新鉄道と西吉野村
の雄大な自然等を物語りの素材にしています。 2008年3月から上映された映画『花影』
のロケ地にもなりました。
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民俗資料館(長屋門)・・・天誅組資料へ向かう
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民俗資料館(長屋門)・・・天誅組資料
幕末の土佐藩士、尊皇攘夷派。土佐藩脱藩第一号の吉村虎太郎が明治天皇の
叔父にあたる中山忠光を連れて京を抜けて大和に入り天誅組を結成する。
天誅組は尊皇攘夷派の武装集団で、桜井寺を本陣に五條御政府を名乗りました。
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※吉村虎太郎 伝・・・吉村 虎太郎(よしむら とらたろう)
天保8年(1837年) - 文久3年9月27日(1863年11月8日)。自刃 享年27歳。
幕末の土佐藩士。尊皇攘夷派。天誅組の一人。諱は重郷。出身地は高知県
高岡郡津野町。土佐国高岡郡北川村の庄屋の家に生まれる。
12歳で父の職を継いで高岡郡北川村庄屋となり、安政元年須崎浦下分庄屋。
6年檮原村番人庄屋に転じ、それぞれの任地で冶績を挙げた。その間高知城
下に出て、楠山庄助の塾で学び、また間崎哲馬に師事して修学に努め、武市
半平太(瑞山)の門に出入りした。
文久元年(1861)土佐勤王党に加盟し、翌年武市半平太の命で萩に赴き久坂玄瑞
と会見する。文久2年(1862年)2月、武市の密旨を含んで長州藩の久坂玄瑞を訪
ね、伏見挙兵計画の情報を得て土佐に帰郷するのだが、情勢の切迫に激して、3月
6日同志宮地宜蔵と約して脱藩、長州を経て大阪に留まる。土佐藩脱藩第一号。
この時期、逃亡中だった清河八郎と出会い、薩摩島津公を擁しての挙兵を画策して
いた清河八郎と意気投合する。4月23日同志と伏見に集結した。しかし、同日伏見
寺田屋の変のため計画が破れて藩に拘束されるがすぐに放免される。
文久3年(1863)明治天皇の叔父にあたる中山忠光を連れて京を抜け大和に入り天
誅組を結成する。五条代官所を襲撃し桜井寺に本陣を置いた。同年8月、前侍従中
山忠光を擁して、藤本鉄石、松本謙三郎らと大和に挙兵、「天誅組」と称して五条代
官所を襲撃した。「天誅組の変」である。しかし、8月18日の政変により尊攘派が中央
政界から追い出され、後ろ盾を無くし十津川に逃げてそこを根拠地とし、高取城を攻
めるが大敗。この戦闘で重傷を負って逃亡し、吉野郡高見村鷲家口に隠れるが、そ
こも襲撃され逃げ場を無くしその場で自刃する。享年27歳。

※天誅組の盟主
中山忠光 なかやまただみつ 1845-1864(弘化2-元治元)
天誅組の盟主、公卿。大納言中山忠能の第七子。忠光の姉中山慶子と孝明天皇の間
に生まれた祐宮がのちの明治天皇だから、忠光は明治天皇の実の叔父にあたる。中
山家で生育された明治天皇が宮中にもどると、安政5年(1858)忠光も待従として出仕
するようになった。公卿中もっとも過激な尊攘派で、文久2年(1862)9月、自らその頃
京都三条にいた土佐勤王党の武市瑞山のもとに直接訪れ刺客の貸与を申入れるなど、
当時の公卿としては破天荒の行動をとっている。また和宮の降嫁問題に憤激し尊攘派
志士と結んでそれを推進した三卿両嬪を弾劾して辞官落飾を強制した。ついで翌文久
3年3月、忠光は土佐の吉村寅太郎の誘いをうけて、賀茂行幸の供奉のあと無断で京
都を脱出、摂津沿岸を巡見しそのまま長州に走って名も森秀斎と名のり、折から5月
10日、長州藩の馬関攘夷に参加して自ら軍艦庚申丸に搭じて外艦を砲撃した。6月に
は吉村らと再び帰京、真木和兵、桂小五郎、久坂玄瑞ら尊攘激派の中心人物とさかん
に会合をかさねていたが、彼らの画策が効を奏してこの年8月13日ついに大和行幸、
攘夷親征の詔勅が出た。その先駆けたらんとし、忠光を盟主として天誅組が結成され、
吉村寅太郎、藤本鉄石、松本杢堂らが中心になって大和五條の代官所を襲い代官鈴
木源内を斬って討幕の第一声をあげた。だが京都では8月18日の政変によって長州
系尊攘激派は敗退し、大和行幸は取消されたため天誅組は孤立してしまった。頼みと
する十津川郷士も離反し、作戦上の意見の違いから忠光ら本隊と河内勢も別行動をと
ることになり、本隊は各所を転戦、敗走を重ねながら驚家口の戦いで大きな犠牲を払う
ことで、忠光を長州に脱出させることに成功した。この頃しばらく下関の白石正一郎邸
に潜んていたが、長州藩は幕府を恐れてさらに辺鄙な豊浦郡田耕村の山中に送りこん
だ。そして元治元年(1864)11月15日、この山中で長州藩からさし向けられた数人の
暗殺者に絞殺された。享年20歳。

桜井寺・・・天誅組本陣跡&五条代官首洗いの手水鉢
10世紀中期、桜井康成の創建と伝えられる寺院で、本尊は阿弥陀如来。江戸末期、
五條代官所を襲撃した天誅組が本陣としたことで知られています。境内には、討ち
取った代官の首を洗ったという手水鉢があります。
天誅組は尊皇攘夷派の武装集団で、桜井寺を本陣に五條御政府を名乗りました。
桜井寺の門前には、「史跡天誅組本陣跡」の碑があります。
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※五條市出身の有名人
鍵屋弥兵衛(江戸時代の花火師)
江戸(隅田川)の花火を発展させた花火屋。中でも鍵屋と玉屋は、人気を二分した
花火屋の屋号である。鍵屋弥兵衛は慶安3年(1650)に大和国(現五條市大塔町)
から新町村(現五條市新町)へ移り、黒色火薬の製造所で働いていました。やがて
火薬製造の技術を極めていった弥兵衛は、1659年(万治2年)に江戸へ出て、日本
橋横山町で「鍵屋」の看板を上げ、初の民間花火業者として活躍しました。

楳図かずお(漫画家)
五條市にゆかりのある漫画家・楳図かずお先生にちなんで、五条駅近くに紅白スト
ライプのほこら「まことちゃんハウス」が建てられ、そこに『まことちゃん地蔵』が安置
されている。「まことちゃんハウス」の外観は、もちろん楳図先生がトレードマークとし
ていらっしゃる、紅白ストライプに塗られています!ハウスの中には、フィギュア「まこ
とちゃん地蔵」が、左手を「グワシ」(中指と小指だけを折り曲げたもの。意外と難しい
んです)のポーズをしています。五條バスセンター~大和八木駅

五條バスセンター~大和八木駅へ1時間弱のバス移動

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mamu7010

 天誅組の長屋門は今回で3度目の訪問です。
わりと辺ぴなのでついつい車で行ってしまいますが、今回歩けて
良かったです。
栄山寺、見るとこたくさんありましたネ。
by mamu7010 (2017-02-18 16:49) 

taharas

mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
還付金請求申請の時期がやってまいりました・・・
今日は大和高田駅から広陵の長龍酒造目指して行ってきます。
by taharas (2017-02-19 09:08) 

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