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9月27日の近鉄ハイキング・近鉄奈良駅~1

9月29日          9月27日の近鉄ハイキング・近鉄奈良駅~1
             歩こう!古都奈良から金魚の町郡山へ・・・
知人と3人で参加、昨日より少し暑い、夏に逆戻り、前半は昨日と同じコース。
コース   近鉄ハイキング   歩程約12km+
近鉄奈良駅(受付・スタート)~正方寺前へ戻り~舟橋商店街~大仏鉄道記念
公園~佐保川堤防~奈良支庁(トイレ)~長屋王邸跡~平城京左京三条二坊
宮跡庭園~菰川~佐保川堤防~図書情報館(昼食休憩)~佐保川堤防~衛星
浄化センター角~歴史の道~大安寺~八幡神社(元石清水八幡宮)~大安寺
旧境内~歴史の道~岩井川堤防~バイパスとJR効果を潜り~九条公園(トイレ)
~秋篠川~平城京西市船着場跡~平城京西市の町跡~郡山火の見櫓~紺屋
川~おみやげ屋~金魚の電話ボックス(電話ボックス金魚鉢)~郡山八幡神社
~郡山市街~此処で2人と別行動(JR郡山駅へ)~残りコースは~郡山金魚資
料館~郡山城跡~近鉄郡山駅
前日に14km歩いており、郡山市街を郡山金魚資料館へ向かう途中で別行動・・・
志都美駅
左側の葛城山は中腹から靄の中
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近鉄奈良駅~西方寺前へ戻り~舟橋商店街~大仏鉄道記念公園
此処で道を間違えて大回り?
大仏鉄道記念公園
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佐保川堤防
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奈良支庁(トイレ)~長屋王邸跡
長屋王(ながやのおおきみ、天武天皇13年(684年)? - 神亀6年2月12日
(729年3月16日))は、奈良時代の皇族。官位は左大臣正二位。皇親勢力
の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原氏の陰謀といわれる
長屋王の変で自害した。
長屋王は慶雲元年(704年)正四位上に直叙され、和銅2年(709年)従三位
宮内卿、同3年式部卿、霊亀2年(716年)には正三位に叙せられている。平
城京遷都後、右大臣藤原不比等が政界の中心となり、舎人親王や長屋王
ら皇親勢力がこれに対する形であった。ただし、長屋王が不比等の娘を妻と
していた関係で、不比等の生存中はむしろ王の立場は親藤原氏的存在で
あったとみる説もある。
霊亀3年(717年)左大臣石上麻呂が薨去すると、翌年長屋王は非参議から
一挙に大納言に任ぜられ、太政官で右大臣藤原不比等に次ぐ地位を占める。
さらに、藤原不比等が養老4年(720年)に薨去すると、その子である藤原四
兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は当時参議の地位に
あった房前のみであった為、長屋王は皇親の代表として政界の主導者となる。
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平城京左京三条二坊宮跡庭園
園池を中心とする奈良時代の庭園遺跡であり、日本古代の庭園の姿を伝え
る貴重な文化財です。園池は比較的浅く大小の石を使って作られており、形
はS字状に屈曲しています。平城宮の離宮または皇族等の邸宅(宮)であった
可能性もあることから「宮跡庭園」と名付けられ、他に類例のない高い歴史的
価値から昭和53年に国の特別史跡に指定されました。平成4年には、古代庭
園の意匠・作庭技法を知ることができるなど、学術的・文化的価値があらため
て評価され、国の特別名勝に指定されました。特別史跡と特別名勝の両方に
指定された古代の庭園は、当園の他は平城宮跡の東院庭園と岩手県の毛越
寺庭園の2ヶ所しかなく、我が国屈指の貴重な庭園です。
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菰川
菰川はその歴史は古く、平城京に都が置かれていた時代、東西の佐保川・秋
篠川とならんで、平城京の造営に伴い条坊に合致するように付け替えられた、
南北に流れる基幹水路として利用されていました。
菰川の「こも」は、イネ科の水生植物である「マコモ」のことです。「マコモ」は
新芽、茎、実などが食用とされ、米よりもはるかに古い穀物として栽培され
ていました。
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佐保川堤防、フジバカマも・・・
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図書情報館(昼食休憩)~
佐保川堤防~衛生浄化センター角~歴史の道
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大安寺
大安寺(だいあんじ)は、奈良市中心部にある高野山真言宗の仏教寺院。
本尊は十一面観音。開基(創立者)は聖徳太子と伝える。南都七大寺の
1つで、奈良時代(平城京)から平安時代前半は東大寺、興福寺と並ぶ
大寺であった。
奈良時代の大安寺は東西2基の七重塔をはじめとする大伽藍を有し、東大
寺、興福寺と並ぶ大寺院で、「南大寺」の別称があった。南都七大寺のなか
でも、七重塔が建っていたのは東大寺と大安寺のみである。奈良時代の大
安寺には、東大寺大仏開眼の導師を務めたインド僧・菩提僊那をはじめ歴
史上著名な僧が在籍し、日本仏教史上重要な役割を果たした寺院であった
七重塔飾ったジャンボ風鐸 全国最大、奈良・大安寺
 奈良市の大安寺旧境内で、平安時代に焼失した西塔跡を調査している同
市教育委員会は8日、塔の軒先につり下げたとみられる大型の風鐸(ふうたく)
の破片が出土したと発表した。  風鐸は塔の軒先などに付ける大型の風鈴。
市教委によると、復元すると高さ55センチとなり、発掘された風鐸としては全
国で最大という。  青銅製で金メッキが施されていたとみられ、市教委は「西
塔は高さ70メートル以上の七重塔だったと推定される。金色に輝く大きな風
鐸が揺れる堂々たる眺めだったのでは」と話している。  見つかったのは鐘
状の本体の一部で、3-20センチ大の破片が約20個あった。西塔が創建さ
れた8世紀末-9世紀初めごろのものとみられる。
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    ギンナンも・・・
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此の続きは、9月27日野近鉄ハイキング・近鉄奈良駅~2 として
           下記のセカンドブログへ投稿します。 
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2015-09-29-1
大安寺後半~
八幡神社(元石清水八幡宮)
八幡神社(はちまんじんじゃ)は奈良県奈良市東九条(とうくじょう)町に鎮座
する神社(八幡宮)。大安寺の旧境内に鎮座し、もと同寺の鎮守神として大安
寺八幡宮と称された。また、山城国男山の石清水八幡宮の元宮であるとの伝
承を持つ事から元石清水八幡宮と称し、或いは辰市(たつのいち)4箇郷の氏
神とされたことから[1]、郷社石清水八幡神社や辰市八幡宮等とも称された。
和2年(962年)5月11日の年紀をもつ『大安寺八幡宮御鎮座記』は、入唐した
大安寺の僧侶行教が帰朝の途次に豊前宇佐八幡宮に参籠してその神影を奉
戴、大同2年(807年)に大安寺東室第7院の石清水房に鎮座したのが起源で、
後に神殿を造営して遷座し、「石清水八幡宮」と号して大安寺の鎮守神としたが、
貞観元年(859年)に神託によって山城男山へ遷座したために改めてその跡に
祀ったのが創祀であるとする。また異説として、保延6年(1140年)に著された
『七大寺巡礼私記』はそれ以前の斉衡2年(855年)に行教が勧請して創祀した
ものとしている。
当神社が男山石清水八幡宮の元宮であるとの伝承については、『七大寺日記』
も石清水の井が現存する事を以て「八幡石清水之根本(石清水八幡宮の根本)」
であると述べているが、対する男山八幡宮はこれを否認しており、例えば天永
4年(1113年)4月22日に南都七大寺が共謀してそれぞれの鎮守神の神輿を舁
いで上洛、嗷訴に及ぶに際しては、興福寺の衆徒が男山八幡宮に対して元宮で
ある大安寺八幡に従い神宝を具して参加するよう要求したところ、男山八幡宮は
逆に男山から勧請したのが大安寺八幡宮であると反論し、従って嗷訴への参加
を乞われる謂われは無いとこれを拒否している。
※石清水八幡宮
貞観元年(859年)に南都大安寺の僧行教(空海の弟子)が宇佐神宮にて受けた
「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌貞観2年
(860年)清和天皇が社殿を造営したのが創建とされる。「石清水」の社名は、男
山に既に鎮座していた石清水山寺(現・摂社石清水社)によるといわれる。

大安寺旧境内~
歴史の道~岩井川堤防~バイパスとJR高架を潜り

九条公園(トイレ)~

秋篠川~平城京西市船着場跡
平城京西市跡
西市は、東市(奈良市)とともに、日本最初の都城内の官営市場であり、
近鉄九条駅の東側一帯にあったと考えられています。秋篠川にあった
船着場は、西市の造営や物資運搬に活用されていたと推測されます。

平城京西市の町跡~

郡山火の見櫓~紺屋川
近鉄郡山から5分ほど歩くと道の真ん中に紺屋川と名の小さな溝を流れ
る川が見えます。江戸時代に染めた布をさらすのに使った用水路だそう
です。余談ですが郡山の友人に聞くと、車がよくはまることでも有名だそう
です。
おみやげ屋~
金魚の電話ボックス(電話ボックス金魚鉢)
奈良県大和郡山市に行けばいつでも見られる、話題の「公衆電話BOXを
まるごと使った金魚水槽」。
京都造形芸術大学の学生による『金魚部』というグループの作品。
「大量に生産・消費される金魚のあり方を再考し、伝統文化として培われて
きた金魚の美を改めて見直し、美しい日本の文化として新たに開花させる
ことを目指す」といったコンセプトのもと、作成されたそうだ。
国内外の様々なイベント会場で展示されている?

郡山八幡神社~郡山市街~此処で2人と別行動(JR郡山駅へ)
郡山八幡神社(こおりやまはちまんじんじゃ)は奈良県大和郡山市にある神社。
聖武天皇の勅命により、東大寺大仏の鋳造が完成した天平勝宝元年(749年)
に、 東大寺大仏の守護神として宇佐八幡神を勧請されることとなった。『続日
本書紀』によると同年12月18日に、宇佐八幡神を平群郡に迎え、27日に京に
入り、京南の梨原宮に新殿を造って神宮としたとある。京入りの前日、和州薬
師寺門前の休ヶ丘で一泊された。時の豪族中尾氏は勧請し、柳八幡大菩薩と
尊崇し小高き丘の上、天高くそびえ立つ老木の松の根方に斎祀申し上げ、この
地を”柳”と命名した。 奈良県の宇佐八幡宮系の宮では一番古く、現在大和郡山
市の神社のうちでも、ただ一社の氏神神社である。

養魚池~
郡山城外堀跡緑地公園~JR郡山駅へ
郡山城とその城下町全体は周囲5.5キロの外堀で囲まれています。外堀は
秋篠川を付け替えその旧流路を利用したり、多数の溜池を繋いだり、また
断層崖などを利用したり、堀を掘って5mほどの土塁(お土居:おどい、と呼
ぶ)を築いたりして出来ています。現在、郡山城の多くの外堀は失われてい
ますが、その痕跡を残す所が隋所にあり、安土桃山時代に溯り当時の築城
を偲ぶことができます。
郡山城
天正9年(1581)松永久秀を破り大和を統一した筒井順慶が、織田信長の
命により筒井城を破却し、郡山城を築いたことが始まりである。
天正13年(1585)に筒井定次を伊賀に転封し、豊臣秀吉の弟豊臣秀長が
大和・和泉・紀伊三国100万石の太守の居城として、豊臣秀吉はじめ5千人
の配下とともに入城し、本格的な城と城下町の整備がはじまった。
豊臣秀長亡き後、後継の豊臣秀保も早逝したため、文禄4年(1595)に豊臣
五奉行の一人である増田長盛(ましたながもり)が20万石で郡山城主となる。
当時の城下の規模に対応して惣掘の普請にとりかかり、秋篠川の流路を切り
換え、旧流路を外堀として利用するなど、城下を取り囲む周囲が5.5キロの
外堀を完成させた。
関ヶ原の戦いで西軍に味方した増田長盛は城を明け渡し、大久保長安の在
番の後、水野勝成(6万石)が入城した。その後、本多氏、松平氏を経て、享
保9年(1724)に柳沢吉保の子吉里が甲府から入り、柳沢家を藩主として
明治維新をむかえた。

9月26日のJRふれあいハイキング・奈良駅~1

9月27日         9月26日のJRふれあいハイキング・奈良駅~1
             佐保・佐紀路-万葉歌碑と御陵を訪ねて-
ひとりで参加、
コース  JRふれあい  なら・観光ボランティアガイドの会主催 
奈良駅(9時15分集合・スタート)~西方寺~佐保川(万葉歌碑)~大仏鉄道
記念公園~興福院(こんぶいん)~不退寺~ウワナベ・コナベ古墳~磐之媛
命陵~平城宮跡(解散)~第一次大極殿~昼食~朱雀門~バス~奈良駅
秋のハイキング日和?集まったのはガイド2人に13人、2班に分かれてスタート、
人数が少なくてガイドさんの説明が聞き易い、良いハイキングになりました・・・
私で20300歩、約13.5km歩いたことに、ガイドさん!有難う御座いました。
解散後、1人で大極殿を見学して朱雀門へ行く途中の木陰で弁当を広げて、
朱雀門へ行き写真を撮って、遣唐使船のレプリカを撮ってバスで奈良駅へ。
志都美駅~
奈良駅
1890年(明治23年)12月27日 - 大阪鉄道 (初代) 王寺駅 - 当駅間の開通
時に同線の駅(一般駅)として開業。
1896年(明治29年)4月18日 - 奈良鉄道 木津駅 - 当駅間の開通時に、
同線の駅が開業。
1899年(明治32年) 10月14日 - 奈良鉄道線が京終駅まで開通。
1900年(明治33年)6月6日 - 大阪鉄道が関西鉄道に合併。
1905年(明治38年)2月7日 - 奈良鉄道が関西鉄道に合併。これを以って
関西鉄道の単独駅となる。
1934年(昭和9年) - 寺院風の駅舎が完成。
2003年(平成15年) 9月7日 - 高架化工事のため仮駅舎に移転。
2005年(平成17年)9月11日 - 高架化工事のため仮線・仮設ホームで
の営業を開始(当初は同年5月22日の予定であったが、福知山線脱線
事故の影響により延期された)。
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JR奈良2代目駅舎を利用した奈良市総合観光案内所
JR奈良駅前には1934年から2003年まで使われていた2代目駅舎が
保存され2009年7月より奈良市総合観光案内所として利用されている。
経済産業省から「近代化産業遺構」に指定されている、奈良らしい寺院を
連想する方形屋根に相輪(そうりん)を持つ和洋折衷様式の建物だ。吹
き抜けの中央に巨大な朱塗りの4本の柱が建っている。これは平城宮跡
の平城遷都1300年祭で人気を集めた第1次大極殿正殿の復元の際に
作られた、高さ5.3m、直径0.7mのものと同じ柱との事。
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西方寺へ向かう
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西方寺
南都総墓所と言われ、広大な墓地に石塔が林立しています。
正親天皇御綸旨霊場・南都総墓所 (浄土宗) 草鞋山「西方寺」です。
奈良時代に行基菩薩によって多聞山に創建されました。
永禄2年(1559)に松永久秀が多聞城を築くために移転を余儀なくされ、
慶長8年(1603)に、東大寺の住職・祐全上人によって再興されました。 
本尊;木造阿弥陀如来坐像(平安時代の作・国重文)
中興開山の祐全上人坐像は、弘治2年(1556)の作で市の文化財です。
まだ無名だった頃の宮本武蔵が修行の為に滞在したと伝わっています。
墓地を挟んだ西側の船橋通り商店街の入口にある「荼羅坊」の屋上に
『みてござる観音』があります。
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万葉歌碑
巻5-802
瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲しぬはゆ いずくより 来たり
しものそ まなかひに もとまかかりて 安眠やすいしなさぬ

瓜を食べると子どものことが思われる。栗を食べるとまして偲ばれる。 いっ
たい何処からやってきたのか、その面影が目の前にむやみにちらついて、
安らかに眠らせてくれない。
巻5-803
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 優(まされ)る宝 子にしか
めやも
銀も、金も、殊玉も、どうしてすばらしい宝の、子どもに及ぶだろうか。
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佐保川(万葉歌碑)
佐保路
平城京の一条南大路であった現在の一条通りを東に突き当たったとこ
ろに東大寺の手貝門(転害門、佐保路門ともいわれる)があります。この
門を起点として、一条通りを西に歩くと道に沿うように、聖武天皇陵ー興
福院ー不退寺ー法華寺と続きます。このあたりまでを「佐保路」といい
ます。古来、春の女神を佐保姫と呼んでいますが、このやさしさに満ちた
名を持つ、標高100メートルほどの佐保山と呼ばれる丘陵は春のように
のどかで、佐保山の裾野の南を流れる佐保川のせせらぎは往来する人
の心を癒してくれます。奈良時代の佐保山の裾野は、その風光と立地の
良さから高級貴族の邸宅地で、万葉歌人大伴家持、旅人、坂上郎女を
輩出した大伴氏の邸宅、長屋王の別荘「作宝楼」、藤原氏の邸宅「佐保
殿」、日本最初の公開図書館「芸亭」を設置した石上氏の邸宅があったと
いわれています。そこに風雅を愛でる風流士が集い、芸術・文芸の華を
開かせました。『万葉集』には佐保で詠まれた歌も、佐保を詠んだ歌も
多く、佐保路には多くの万葉歌碑がおかれています。
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北向地蔵尊
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万葉歌碑
ふりさけて三日月見れば
一目見し人の眉引き思ほゆるかも

月立ちてただ三日月の眉根掻き
日長く恋ひし君に逢えるかも
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万葉歌碑
うちのぼる佐保の川原の青柳は
今は春べとなりにけるかも

千鳥鳴く佐保の河門の清き瀬を
馬うち渡し何時か通はむ
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大仏鉄道記念公園
大仏鉄道(正式名:関西鉄道大仏線)は、名古屋と大阪をつなぐ路線の
一つとして、明治31年4月に開業し、明治40年8月まで奈良駅・加茂駅
間約10kmを運行していました。大仏鉄道が廃止されてから100年が
過ぎましたが、平成4年4月には大仏駅跡地付近に大仏鉄道記念公園
が設置され、大仏鉄道の面影を残しています。大仏鉄道記念公園は、
奈良事務所の南方約100mの佐保川沿いにあり、春4月には、しだれ
桜の大木が見事に咲き、たくさんの人々が訪れます。
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春日野荘
万葉歌碑
我が背子が見らむ佐保道の青柳を
手折りてだにも見むよしもがも
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興福院(こんぶいん)
興福院(こんぶいん)は、奈良県奈良市法蓮町にある浄土宗の尼寺。山号
を法蓮山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は和気清麻呂とも
いい、藤原百川ともいう。
興福院の創建については複数の説があり、中世以前の沿革はあまり明ら
かでない。
寺はもと添上郡興福院村(平城京の右京四条二坊、現在の近鉄尼ヶ辻駅
近く)にあり、現在地に移ったのは近世のことである。創建について、寺伝
では天平勝宝年間(749 - 757年)、和気清麻呂が聖武天皇の学問所を移
して創建し、弘文院と称したという。『七大寺日記』(嘉承元年(1106年))に
は藤原百川が創建した興福尼院が前身とされている。また、護国寺本『諸
寺縁起集』には、宝亀元年(770年)、藤原広嗣の妻・輪立氏の発願で創建
されたとある。
古くは興福院、弘文院の2つの寺号が用いられ、本尊は薬師如来であった。
前述の和気清麻呂を開基とする説は、和気氏が設立した学問所を弘文院
と称したことから出たものと推測されている。
寺はその後衰退していたが、安土桃山時代に大和大納言豊臣秀長から寺
領200石の寄進を受け、復興した。寛永13年(1636年)には徳川家光から
再び寺領200石を寄進されている。現在残る本堂、客殿、大門はこの頃の
建立である。徳川家綱代の(寛文5年(1665年))に現在地の法蓮町に移転
した。上記の建物も移築されている。
第2世の尼僧は、元大和郡山城主豊臣秀長の未亡人である。3代徳川家光
から14代徳川家茂までの将軍の位牌をまつっている。
※王寺の達磨寺には、徳川家康~徳川15代将軍迄の位牌が祀られている。
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此の続きは、9月26日のJRふれあいハイキング・奈良駅~2 として
             下記のセカンドブログへ投稿します。
           http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/
万葉歌碑
我がやどのいささ群竹  吹く風の音のかそけき  この夕へかも                           

狭岡神社~佐保姫伝承の地へ向かう
佐保姫(さほひめ)は春の女神である。元は佐保山の神霊であり、948年の
『陽成院一宮姫君歌合』では秋の歌に登場している。『記紀』における狭穂
姫(沙本毘売)とは同名であることから混同される事があるが無関係。狭穂
姫命の項、参照。
五行説では春は東の方角にあたり、平城京の東に佐保山(現在の奈良県
法華寺町法華町)があるためにそこに宿る神霊佐保姫を春の女神と呼ぶよ
うになった。白く柔らかな春霞の衣をまとう若々しい女性と考えられ。この名
は春の季語であり和菓子の名前にも用いられている。 竜田山の神霊で秋の
女神竜田姫と対を成す女神。
竜田姫が裁縫や染めものを得意とする神であるため、対となる佐保姫も染め
ものや機織を司る女神と位置づけられ古くから信仰を集めている。古来その
絶景で名高い竜田山の紅葉は竜田姫が染め、佐保山を取り巻く薄衣のような
春霞は佐保姫が織り出すものと和歌に歌われる。

不退寺
不退寺(ふたいじ)は、奈良市法蓮町にある真言律宗の寺院。本尊は聖観世
音菩薩(業平観音とも呼ばれる)。山号は金龍山。寺号は詳しくは不退転法
輪寺と称する。仁明天皇の勅願を受け、平城天皇萱御所跡に在原業平が
開基したと伝わる。その由緒から「業平寺」とも呼ばれる。平城天皇の第一
皇子阿保親王の菩提所である。
近世の地誌類が伝える縁起によれば、大同4年(809年)、平城天皇が譲位
してのち隠棲し「萱の御所」と称したのが始まりとされ、その後平城天皇の
皇子である阿保親王、更に阿保親王の5男である在原業平が暮らしたという。
伊勢神宮参詣時に受けた神勅を機に、業平が自ら聖観音像を刻み、「不退
転法輪寺」と号して阿保親王の菩提を弔ったのが、寺院としての始まりと伝
えられている。
確実な史料における不退寺の初見は『三代実録』に、貞観2年(860年)10月
15日、真如親王が平城京内の田地を不退寺に施入したとみえるものである。
真如親王(法親王)は出家前の名を高岳親王といい、平城天皇の皇子、阿保
親王の弟にあたる。このことから、不退寺は伝承どおり平城天皇所縁の寺で
あると推定される。

ウワナベ・コナベ古墳
平城京の北に築かれた巨大前方後円墳
不退寺の西、国道24号をはさみ、大きな古墳が3基ある。東からウワナベ古墳、
コナベ古墳、磐之媛命陵(いわのひめのみことりょう)だ。いずれも周濠を残す
前方後円墳で、平城京の北に築かれた佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群のうち、
東のグループを構成する代表的な古墳である。3基とも墳丘には松をはじめと
する樹木が生い茂り、こんもりとした山のようになっている。

ウワナベ古墳は全長約260m、西側には造り出し部がある。隣接する、コナベ
古墳は全長約210mとやや小さい。古墳時代中期の古墳とみられるが、墳丘
で発見された埴輪からはコナベ古墳の方が少し早く築かれたと推察されてい
る。ウワナベ古墳の造り出し部からは、土師器や魚形土製品などが出土して
いる。陵墓参考地のため、内部の状況はわかっていない。しかし墳丘の規模
などから、仁徳天皇の皇后あるいはその皇子ではないかとの見方もある。

磐之媛命陵
ウワナベ・コナベ古墳のやや西北に位置するのが磐之媛命陵で、全長は
約219m、後円部の直径は約130m。古墳時代中期の築造とされる。東側
のくびれ部分に造り出し部がある。天皇の皇后に比定される古墳が多い
佐紀盾列古墳群にあって、本古墳も仁徳天皇の皇后の墓とされているが、
真偽のほどはわからない。『日本書紀』では、仁徳天皇陵が現在の大阪府
堺市にあるにもかかわらず、皇后の墓が奈良にあるのは、仁徳天皇が別
の女性を寵愛したことに怒った磐之媛命が、難波京にも戻らずにここに留
まったためと伝えている。

第一次大極殿
朱雀門の真北約800mに堂々とそびえる「大極殿」。正面約44m、側面約
20m、地面より高さ約27m。直径70cmの朱色の柱44本、屋根瓦約9万
7000枚を使った平城宮最大の宮殿であり、その建物は奈良時代の中頃
に、一時都とした恭仁(くに)宮に移築され、山城国の国分寺金堂になり
ました。当時、天皇の即位式や外国使節との面会など、国のもっとも重要
な儀式のために使われていました。

朱雀門
平城宮の正門・朱雀門。その前では外国使節の送迎を行ったり、大勢の
人達が集まって歌垣などを行ったりし、正月には天皇がこの門まで出向き、
新年のお祝いをすることもありました。朱雀門の左右には高さ5.5mの築地
がめぐり、130haの広さの宮城を取り囲んでいました。
朱雀門(すざくもん)は、古代、平城京や平安京といった条坊都市の宮城
(大内裏)において南面する正門。宮城の12の門のうち最も重要な門で
あった。「しゅじゃくもん」ともいう。中国の条坊制を模範に造営された古代
都城では、中央北辺に宮殿、官衙からなる宮城が置かれた。平城京では
平城宮、平安京では平安宮などといい、大内裏とも呼ばれた。大内裏に
は四方に12の門が備えられ、各々有力氏族の姓が付与されていた。南
門は「天子南面す」というように、皇宮より京師を睥睨(へいげい)する最
も重要な門であり、朝廷の有力氏族、大伴氏の姓が付けられ「大伴門」と
呼ばれていた。714年、これを漢風に改め、四神において南方を守護する
とされる朱雀の名を冠したものとした。朱雀門から都城正門の羅城門に続
く大路を朱雀大路といい、現在の千本通に相当する。


9月19日のJRふれあいハイキング・京都駅~2

9月23日         9月19日のJRふれあいハイキング・京都駅~2
            平安神宮拝観&神苑無料公開ウオーク
知人と2人で参加、清々しいハイキング日和の中で京都散策?他素晴らしい・・・
コース  JRふれあい  NPO法人京都府ウオーキング協会主催 
                参加費用 300円 歩程約10km
京都駅中央口前東側広場(受付・スタート)~大和大路通~八坂通~摩利支尊天堂
~建仁寺~八坂の塔()~高台寺公園~知恩院~青蓮院~岡崎公園(昼食)~平安
神宮・神苑散策~阻水の横・二条通~二条大橋~三条・四条(鴨川遊歩道)~五条
児童公園・五條大橋・牛若ひろば・弁慶と牛若丸~京都駅(ゴール)
志都美駅
京都駅前広場・京都タワー~七条大橋を渡って鴨川遊歩道
七条大橋
京都は、電気鉄道事業の発祥地である。
新橋(東京都)・横浜(神奈川県)間で日本初の鉄道が開通し、蒸気機関車が走るように
なったのは、1872(明治5)年のことだった。それからわずか23年後の、1895(明治28)
年2月1日に京都電気鉄道が、京都駅に近い「東洞院塩小路下ル駅」から「伏見下油掛
(しもあぶらかけ)駅」までの約6kmの区間で、日本で初めてとなる(路面)電車の営業
運転を開始している。1913(大正2)年に完成した七条大橋は、日本初の鉄筋コンク
リート・アーチ橋で、橋長が約112mもある巨大な6連の橋だった。建築様式としては
ウィーン分離派(セセッション)の影響を受けており、近代建築らしき堂々たるたたず
まいの中にも、平面と直線を多用するセセッションならではの特徴が見て取れる。
19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパに「新たな近代の美」をもたらした芸術運動
の、その余熱が七条大橋の「ハイカラさ」にこめられているのだ。実は、同時期に
竣工した四条大橋にも、同じデザインが用いられていた、しかし水害などにより、
四条大橋は1942(昭和17)年に架け替えられているし、丸太町橋はそれより早い
1930(昭和5)年に更新されているため、現在の鴨川に架かる橋の中では、
七条大橋が最も古い橋だということになる。明治期の意匠と息吹を今に伝えて
いるのも、唯一、七条大橋だけであることから、竣工100周年を迎えたこの橋は
「土木学会選奨土木遺産」にも認定されている。
鴨川
河川法における鴨川の起点は、京都市北区雲ケ畑の出合橋付近である。
北区雲ケ畑の桟敷ヶ岳東部の谷を源とする祖父谷川と、桟敷ヶ岳南部の薬師峠を源とする
雲ケ畑岩屋川が雲ケ畑岩屋橋で合流し雲ケ畑川となる。雲ケ畑川は、雲ケ畑の魚谷山南部
の谷を源とする中津川と出合橋で合流し、これより「鴨川」となる。鴨川起点の表記は中
津川下流域にあるため、これに従うと源流は中津川であると考えられるが、これはあくま
でも河川法上での扱いであり、伝統的には桟敷ヶ岳を源流と見なす人も多い。古代の鴨川
上流域は賀茂氏の本拠地であった。上賀茂神社、下鴨神社はその氏神を祀る。下流域に
は山背国に配置された秦氏が定住していた。平安京においては都の東限となる。なお、
鴨川が平安京の東限とされた理由として、初代造宮大夫である藤原小黒麻呂が新京
予定地域である葛野郡に視察に入り「地相」を占したとされることや、作庭記を根拠に、
風水の四神相応の思想を反映させたものとする説がある。しかし、作庭記は平安京
の地勢については言及しておらず、また平安京造営に際した詔や奏じられた踏歌に
おいてもそういった考えについては触れていないことから、四神相応の思想が造都
工事に影響を与えたという史学的根拠はなく、後世における推論が通説化したもの
と考えられる。中世には京都市街に隣接する河原が歓楽地となり、多くの芸人が集
まるようになった。その中の一人に出雲阿国がいる。
1614年(慶長19年)には角倉了以・素庵父子によって高瀬川が開鑿され、京都と大阪
を結ぶ水路として利用された。1890年(明治23年)には琵琶湖疏水によって琵琶湖と
も結ばれた。しかし20世紀に入ると、鉄道の開通によりこれらの水運は衰退した。
鴨川遊歩道
京都駅近くから出町柳(賀茂川と高野川の合流点)を超えてさらに北へ 西賀茂橋を
こえるあたりまで川沿いに約10キロ程度続く道です。
大和大路通~八坂通~摩利支尊天堂
摩利支尊天堂 山門
「建仁寺・禅居庵 開運摩利支尊天」との石碑が建ち、狛犬ならぬ狛猪が出迎えてくれる。
摩利支尊天は猪に乗った、二臂(にひ)の女神像で知られており、猪とは縁の深い神様なの
である。禅居庵の境内にあり、禅居庵は非公開なのだが、摩利支天尊堂は自由に拝観する
ことが出来る。 建仁寺の境内からも禅居庵の門から、摩利支天尊堂へと入ることが出来
る。門にある説明には、『当庵ご開山、大鑑禅師は執権北条高時の詔により、嘉暦元年
(1326)秘仏摩利支天尊像を袈裟に包み元の国より来朝され、 翌年、当庵鎮守、摩利
支尊天堂にお祀りをされました。現存する堂宇は、天文16年織田信長の父、信秀により
建立され、元禄・享保・安政・明治年間に整備改修を重ね、平成7年には大屋根の大修
理をして今日に至っています。』
建仁寺
建仁寺は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山と号する。
本尊は釈迦如来、開基は源頼家、開山は栄西である。 京都五山の第3位に列せられている。
俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。建仁寺は建仁
2年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立
されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。 創建時は真言・止観
の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。
その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、正嘉元年(1258年)東福寺
開山円爾弁円(えんにべんえん)が山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。
正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺して
からは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。
やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位とし
て厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃します。
ようやく天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿
を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問
が整備されます。明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派
独立、建仁寺はその大本山となります。また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭
の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在に
いたります。
八坂の塔
法観寺(ほうかんじ)は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は霊応山。
観音霊場として知られる清水寺の近隣に位置する。街中にそびえ立つ五重塔は通称「八坂
の塔」と呼ばれ、周辺のランドマークとなっている。境内は狭く、塔以外に目だった建築
物がないことから、「八坂の塔」は寺自体を指す通称ともなっている。伝承によれば五重
塔は592年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされ、その際仏舎利を三粒を
収めて法観寺と号したという。聖徳太子開基説は『山城州東山法観禅寺仏舎利塔記』
(暦応元年・1338年)にみられ、近世の地誌類はこれを踏襲している。創建時の伽藍は
四天王寺式伽藍配置または法隆寺式伽藍配置だったと考えられている。聖徳太子創建
の伝承は信憑性に疑いがあるものの、平安京遷都以前から存在した古い寺院である
ことは確かとされており、朝鮮半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたという
見方が有力である。
高台寺&高台寺公園
鷲峰山(じゅぶざん)高台寺(臨済宗建仁寺派)
東山霊山(りょうぜん)の山麓、八坂法観寺の東北にある。正しくは高台寿聖禅寺といい、
豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼
と号す)が慶長11年(1606)開創した寺である。寛永元年(1624)7月、建仁寺の三江
和尚を開山としてむかえ、高台寺と号した。造営に際して、徳川家康は当時の政治的
配慮から多大の財政的援助を行なったので寺観は壮麗をきわめたという。現在旧持
仏堂の開山堂、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等が国の重要文化財に指定され
ている。 秀吉と北政所を「霊屋(おたまや)」に祀り、北政所像の下はその墓所と
なっている。須弥壇(しゅみだん)と厨子は華麗な蒔絵装飾が施され、桃山美術を
代表する「高台寺蒔絵」として知られる。開山堂を中心に東西に広がる池庭は
小堀遠州作と伝えられる。 尚、豊臣秀吉夫人(北政所)は天正16年(1588)に
従一位に序せられ慶長8年(1603)に後陽成天皇より高台院の号を賜り寛永
元年(1624)9月6日、76才で亡くなられた。
知恩院
知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山
(かちょうざん)。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おお
たにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)
は法然である。浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てら
れた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。
徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて
「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房
源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその
起源とする。法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(岡山県)に生まれ
た。13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。18歳で比叡山
でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを
取って法然房源空と改名した。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読ん
で「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安5年
(1175年)、43歳の時であった。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に弥陀(阿弥
陀如来)の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想である。この思想は旧仏教
側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。法然は建永2年(1207年)には讃岐国
(香川県)に流罪となり、4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻るが、
翌年の1月、80歳で没した。
法然の住房は現在の知恩院勢至堂付近にあり、当時の地名を取って「吉水御坊」「大谷
禅坊」などと称されていた。ここでの法然の布教活動は、流罪となった晩年の数年間を
除き、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、浄土宗の
中心地となった。ここに法然の廟が造られ、弟子が守っていたが、嘉禄3年(1227年)、
延暦寺の衆徒によって破壊されてしまう。文暦元年(1234年)、法然の弟子にあたる
勢観房源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜された。
その後も永享3年(1431年)の火災や応仁の乱などで焼失するが、その都度再興され
ている。浄土宗徒であった徳川家康は慶長13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、
諸堂の造営を行った。造営は江戸幕府2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門
は元和7年(1621年)に建設された。寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至
堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍徳川家光のもとでただちに再建が進められ、寛永
18年(1641年)までにほぼ完成している。
徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉
存牛(ちょうよぞんぎゅう)が松平氏第5代長親の弟であること、二条城とともに京都に
おける徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を
牽制することといった、政治的な背景もあったと言われている。
青蓮院
9歳の春、親鸞聖人(松若丸)は出家得度の意を固められ、叔父・範綱卿に手を引かれ、
京都・東山の青蓮院を訪ねられました。青蓮院は比叡山の座主を務める慈鎮和尚の
寺でし­た。親鸞聖人は、「次は、私が死んでいかなければならないと思うと、不安なん
です。何としても、ここ一つ、明らかになりたいのです」と、出家得度を願われました。
慈鎮和尚は、「わずか9歳で出家を志すとは尊いことじゃ」と驚き「明日、得度の式を
あげよう」と言いました。付き添いの範綱卿に、異存のあるはずがありません。しかし、
聖人は、紙と筆を持たれて、「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬ
ものかは」と一首の歌を記されました。「おお……」受け取った慈鎮和尚は、背を寒く
したように、その歌に打たれました。「今を盛りと咲く花も、一陣の嵐で散ってしまい
ます。人の命は桜の花よりもはかなきものと聞いております。明日といわず、どうか
今日、得度していただけないでしょうか」「そこまでそなたは、無常を感じておられる
のか……。分かった。じゃあ早速、得度の式をあげよう」かくて、その夜のうちに得度
の式を終え、聖人の髪はきれいに剃り落とされました。それは同時に、天台宗比叡
山での、20年間に及ぶ、血のにじむご修行のスタートでもあった­のです。
岡崎公園で昼食
岡崎公園は東山及び比叡山を背景に、東には南禅寺や永観堂、北には平安神宮がある環境
に恵まれた一帯です。 明治28(1895)年に開催された第4回内国勧業博覧会の跡地の一部が
公園地として指定され、明治37(1904)年7月8日に開設されました。 周辺には、京都会館
・京都市勧業館みやこめっせ・京都国立近代美術館・京都市美術館・京都府立図書館
・京都市動物園・琵琶湖疏水・インクラインなどの施設があり、このあたり一帯を、岡崎
公園と一般に呼ばれています。春の桜の頃は、岡崎桜回廊と呼ばれ、赤橋から望む
疎水沿いの桜と、疎水を運行する十石舟、まさに桜一色です。
此処までは、9月19日のJRふれあいハイキング・京都駅~1 として
             下記のセカンドブログへ投稿済みです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2015-09-23
此処では
平安神宮&神苑を掲載します。
平安神宮
1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会
の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。当初は実際に大内裏があ
った千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されたが、用地買収に失敗し、当時は郊外で
あった岡崎に実物の8分の5の規模で復元された。博覧会に先立つ3月15日には、平安遷都を
行った天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として創祀された。皇紀2600年にあたる
1940年(昭和15年)に、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に
加えられた。平安神宮では、京都を守る四神の御守が授与されている。社殿は平安京の
大内裏の正庁である朝堂院(八省院)を縮小(長さ比で約8分の5)して復元したものである。
大きく赤く光る朱色が特徴的な正面の門は、朝堂院の應天門を模している。その内側の
左右の殿舎は朝集堂の再現である。外拝殿は朝堂院の正殿である大極殿(左右には
蒼龍楼と白虎楼が付属する)を模している。基本的にはこれらの建築様式は、平安
時代後期(11 - 12世紀)の第3次八省院(延久4年(1072年)再建、治承元年(1177年)
焼亡)を再現したものとなっている。この時の大極殿などの姿は、後白河法皇が作らせ
た「年中行事絵巻」に描かれている。ただ、大極殿と応天門の間には本来は会昌門と
朝堂12堂が存在し、応天門の左右には翔鸞楼と栖鳳楼という楼閣が付属していたが、
これらは平安神宮では復元されていない。また、平安神宮の社殿の瓦はすべて緑
釉瓦となっているが、近年の研究によると平安時代の大極殿では軒先と棟部分だけ
にしか緑釉瓦は使われていなかったと推定されている。敷地面積は約10,000坪の
日本庭園である「平安神宮神苑」を含め、約20,000坪ほどある。神苑は明治から
昭和にかけての名造園家である7代目・小川治兵衛(植治)が20年以上かけて
造った名園で、国の名勝に指定されている。琵琶湖疏水から水を引き入れており
琵琶湖では外来魚のために見かけることが出来なくなったイチモンジタナゴが
生存していることが確認されている。神苑には人里には少ないカワセミやオオタカ
などの鳥類や、甲羅に草を生やすミノガメ日本では非常に珍しいミナミイシガメなど
が棲息している。
創建を記念して、平安京遷都の日である10月22日に時代祭が行われるようになった。
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   平安神宮神苑
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   市電
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   キノコも
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  神苑出口へ
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  神苑を出て
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平安神宮を後にして二条大橋へ向かう
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此処から先の続きは、下記のセカンドブログへ投稿します。
           http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/
琵琶湖疏水
琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したもので
ある。両疏水を合わせ、23.65m3/s[1]を滋賀県大津市三保ヶ崎で取水する。その内訳は、
水道用水12.96m3/s、それ以外に水力発電、灌漑、工業用水などに使われる。また、疏
水を利用した水運も行なわれた。水力発電は通水の翌年に運転が開始され、営業用と
て日本初のものである。その電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて
京都市電)を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代
化に貢献した。水運は、琵琶湖と京都、さらに京都と伏見・宇治川を結んだ。落差の
大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路
上の台車に載せて移動された。水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止された
が、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている。無鄰菴や平安神宮神苑、
瓢亭、菊水、何有荘、円山公園をはじめとする東山の庭園に、また京都御所や東本
願寺の防火用水としても利用されている。一部の区間は国の史跡に指定されている。
また疏水百選の一つである。琵琶湖疏水開通まで京都市は禁門の変で市中の大半
が焼け、明治維新と東京奠都に伴い人口が減少し産業も衰退したため、第3代京都
府知事の北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を
計画した。そして主任技術者として、工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を任じ
設計監督にあたらせた。第1疏水は1885年(明治18年)に着工し、1890年(明治23
年)に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線とが完成
した。4月9日には明治天皇・昭憲皇太后の御臨幸を仰ぎ竣工式を挙行している。
第1疏水(大津-鴨川合流点間)と疏水分線の建設には総額125万円の費用を要し、
その財源には産業基立金、京都府、国費、市債や寄付金などのほか、市民に対して
の目的税も充てられた。また、水力発電は当初は計画されなかったが、田邉らが
アメリカで視察したアイデアを取り入れ、日本初の営業用水力発電所となる蹴上
発電所を建設し、1891年(明治24年)に運転が開始された。この電力を用いて、
1895年(明治28年)には京都・伏見間で日本初となる電気鉄道である京都電気
鉄道(京電)の運転が始まった。鴨川合流点から伏見堀詰の濠川までの鴨川
運河は、1892年(明治25年)に着工し、1894年(明治27年)に完成した。第2疏水
は、第1疏水でまかないきれない電力需要に対応するとともに、新設する近代上
水道のための水源として、京都市により「三大事業の一つとして進められた。
1908年(明治41年)に着工され1912年(明治45年)に完成し、取水量は第1第2
合わせて毎秒850立方尺 (23.65m3) となった。日本初の急速濾過式浄水場で
ある蹴上浄水場はこの時に設置されている。なお、疏水を掘り進める際に生じ
た砂は当時の滋賀県知事の許諾を得た上で、琵琶湖の埋め立てに用いられた
(現在のびわこ競艇場の場所)。
二条大橋~三条大橋~鴨川遊歩道

鴨川遊歩道~四条大橋~五条児童公園~五條大橋から鴨川を・・・

牛若ひろば~弁慶&牛若丸~京都駅へ向かう

おまけ
近鉄郡山駅~JR郡山駅へ他


9月18日の馬見丘陵公園ー3

9月21日        9月18日の馬見丘陵公園ー3
           北エリアへ回ってダリア園のようすを・・・
彼岸花を撮って帰りに馬見丘陵公園を散策、来たエリアの養生中の
ダリア園の様子を撮ってきた。
馬見丘陵公園では
やまと花ごよみ2015 第5回馬見フラワーフェスタに向けて準備中・・・
開催日時:平成27年10月3日(土)~10月18日(日)10時~17時
秋の馬見(うまみ)丘陵公園の一大イベント、馬見フラワーフェスタも今年で5回目!
ダリアやコスモスなど約20万株の花々が咲きあふれるなかで、
音楽ステージなど楽しいイベントも盛りだくさん!同時開催のシェフェスタ in 馬見も
日替わりで登場するランチやピッツァ等、ファミリーでカジュアルに奈良の食を満喫。
北エリアへのトンネル
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秋空?と紫式部が・・・
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養生中のダリア園・・・
大輪のダリアも咲き始めている
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丘の上
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ダリア園以外の・・・
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9月18日の馬見丘陵公園ー1

9月20日      9月18日の馬見丘陵公園ー1

彼岸花を撮りに馬見丘陵公園へ行って来た・・・
中央口から入って
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睡蓮池の横を通って
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広場へ彼岸花を撮りに
彼岸花と萩と女郎花&紫式部
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上池
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下池へ出て
ススキ&彼岸花&百日紅
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池の亀&芙蓉他
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続きは、下記のセカンドブログへ投稿します。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/

9月13日のJRふれあいハイキング・抜粋編

9月18日         9月13日のJRふれあいハイキング・抜粋編
            川底トンネル・渡船で行く 西大阪
この日は、知人と2人出JRふれあいハイキングに参加した・・・
コース   JRふれあいハイキング   神戸ウオーキング協会主催
JR西九条駅~西九条西公園(受付・スタート)~安治川隧道(旧源兵衛渡)
~旧弁天埠頭~波除公園~中央体育館~天保山公園(昼食)~大阪一低山
・天保山~旧天保山埠頭~天保山渡(天保山側)~安治川~天保山渡(桜
島側)~桜島駅(ゴール)
9月13日のJRふれあいハイキング・総集編(写真43枚)は
          下記のセカンドブログへ投稿済みです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2015-09-18
此処では
・9月13日のJRふれあいハイキング・抜粋編を掲載します。
西九条西公園(受付・スタート)
此花区の都市公園
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安治川隧道へ向かう
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安治川隧道(旧源兵衛渡)
安治川隧道は安治川の下を通る全長約81mのトンネルです。『海底』ならぬ『川底
トンネル』なのです。安治川を渡る人・自転車などの交通量が増加したため計画され、
1935年(昭10年)11月に工事着工。1944年(昭19年)9月15日に開通しました。
安治川隧道の開通により安治川にあった4つの渡船が廃止されています。現在の
安治川隧道の場所にあった『源兵衛渡船』も隧道の開通により廃止され、西区側の
交差点にその名を残すのみとなっています。
安治川隧道は、幅2.4mの歩行者・自転車用通路と幅4.5mの自動車用通路(2車
線道)の2種類の通路が設けられました。地上から地下への移動はエレベータによっ
て行われるという珍しい方法が取られました。しかし、1963年(昭38年)に安治川
大橋(現R43)が開通したことにより自動車の通行量は減少。自動車用通路は、スロ
ープ を設けて川底トンネルとする計画が持ち上がり、その工事開始を前提として
1977年(昭52年)2月に閉鎖されました。しかしその後、地元住民の反対などにより
計画は頓挫してしまい、以来自動車専用通路は閉鎖されたままとなっています。
波除公園へ向かう
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波除公園
大きな公園です。JRをはさんで2つに分かれています。
弁天町駅に向かって右側の小さな公園です。市岡新田会所跡があります。
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旧弁天埠頭前公園
昭和の終わりまで、四国・九州への船旅の一大出発ターミナルだった。
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中央体育館・八幡屋公園
港区内最大の公園です。公園内には大阪市立体育館や大阪プールがあり、スポーツ
の世界大会やコンサートが開催されています。遊具などがある芝生広場のほか、大阪
市立体育館の上部が緑化されており、子どもたちの遠足などにもよく利用されています。
軽いウオーキングのあとの頂上から見る景色は最高です。

天保山公園へ向かう
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天保山公園
海遊館や観覧車のすぐそばにある公園です。公園内には、港に関する歴史スポット
(明治天皇観艦記念碑や西村捨三翁の像)のほか、日本一低い山、天保山があります。
ただ、現在の日本一低山は、宮城県仙台市の日和山 - 3m -
日和山 - 3m - 宮城県仙台市宮城野区。1990年代に標高6mで日本一低い山とされたが、
1996年7月に下記の大阪市の天保山が国土地理院の地形図により山として掲載された
ため日本一低い山ではなくなった。2011年3月11日の東日本大震災の津波で削られ消滅
したが、その後に国土地理院が行った測量で、天保山より低い標高3mの山であることが
確認され、地形図に掲載されたため、再び日本一低い山となった。
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大阪一低山・天保山
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築山
日和山 - 3m - 宮城県仙台市宮城野区。1990年代に標高6mで日本一低い山とされたが、
1996年7月に下記の大阪市の天保山が国土地理院の地形図により山として掲載された
ため日本一低い山ではなくなった。2011年3月11日の東日本大震災の津波で削られ消
滅したが、その後に国土地理院が行った測量で、天保山より低い標高3mの山である事
が確認され、地形図に掲載されたため、再び日本一低い山となった。天保山 - 4.53m -
大阪府大阪市港区。1996年7月に国土地理院の地形図により山として掲載され、日本
一低い山となったが、上記のように2014年4月に日和山が天保山より低い標高3mの山
であることが確認されたため日本一ではなくなった。ただし二等三角点のある山としては
日本一低い。蘇鉄山 - 6.97m - 大阪府堺市堺区。一等三角点(登録名は大浜公園)の
ある山では日本一低い。大潟富士- 0m - 秋田県南秋田郡大潟村。日本一低い山を自他
称し、地形図への掲載申請も行われたが、掲載は見送られている。
自然の山
弁天山 - 6.1m - 徳島県徳島市。自然の山としては日本一低い。

天保山渡(天保山側)
天保山(港区築港三丁目)と此花区桜島三丁目を結ぶ(岸壁間400メートル)位置に
天保山渡船場がある。明治38 年に開設されたこの渡しは、大阪港の繁栄を企図した
大阪市が港湾振興策の一環として始めたもので、昭和15年までは市の港湾部が所
管していた。当初は天保山、桜島、築港大桟橋の間を三角運航していたが、大阪港
の繁栄につれて利用者が増え、築港桟橋を基点に木津川、尻無川方面にも運航区
域を広げ、大正11年に天保山桟橋が完成して内航客船が発着するようになってから
は、天保山~桜島間を終夜運航した時代もあったが、昭和元年には現在のルートに
なった。昭和初期には桜島付近の重工業化が進んで通勤用としても利用された。
昭和12年12月1日午後9時ごろ、渡船が突風にあおられて転覆、軍需工場帰りの乗
客53人の犠牲者を出す事故があった。昭和15年に経営は土木部(現建設局)に移
され、現在にいたっている。昭和42年には1日平均1700人の利用者があったが、平
成20年度現在1日平均約900人が利用している。
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安治川
大阪市内を流れる旧淀川の分流の1つ。中之島の西端から大阪港に注ぐまでを
さす。淀川の洪水を防ぐため貞享4 (1687) 年,河村瑞賢 (ずいけん) が九条島
を開削して造成。淀川舟運の大動脈となった。
かわむら‐ずいけん〔かはむら‐〕【河村瑞軒】
[1618~1699]江戸前期の商人。伊勢の人。瑞賢とも書く。江戸に出て材木商と
なり、明暦の大火で巨利を得た。のち、東廻り航路・西廻り航路を開発。安治川
などの治水工事にも業績を残した。
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天保山渡(桜島側)~桜島駅(ゴール)へ向かう
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9月9日の文化祭歴史ウオーク

9月14日         9月9日の文化祭歴史ウオーク
            文化祭屋外イベント・歴史ウオーク 平野駅~
9月9日~11日、社友会結成35周年記念の総合文化祭に屋外イベントと
して、総合文化祭会場へ向けて大坂夏の陣ゆかりの跡地を巡るウオーク、
9日は、大阪夏の陣「徳川家康が九死に一生を得た」平野郷を巡る・・・・
コース
平野駅~大念佛寺~平野郷・全興寺(地獄堂)~願正寺~平野公園
樋尻口門跡~安藤正次墓所~樋之尻口橋~平野川堤防~国道25号~
シャープ工場(昼食場所)~許麻神社~顕正寺~八尾プリズムホール
平野駅・・・
台風の影響でスタートは雨
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大念佛寺
1127年、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子
から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建した
のが始まり。平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門の最
初の宗派で日本最初の念仏道場といわれる。その後、火災などで荒廃するが、
元禄期(1700年頃)に本山として体裁が整い現在に至る。融通念佛宗の総本山。
本堂は大阪最大の木造建築と言われています。
融通念仏とは
融通とは溶け合い和合することです。砂とセメントと水は、それぞれその形も働き
も異なりますが、この三者が溶け合って和合すると強固なコンクリートになるのも
融通です。融通念仏は、念仏が相互に融通して大きな力となることをいいます。
すなわち念仏を称えることによって、人と人、人と物、物と物とのすべての関係の
上に融通和合の世界を自覚し、苦脳と迷いのこの世を喜びに満ち溢れ、悟りの
智慧かがやく楽土(浄土)にすることをめざした教えです。
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平野本通り商店街
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平野郷・全興寺(地獄道)
平野本通商店街・全興寺(ぜんこう寺)・地獄堂
野中山 全興寺  高野山真言宗・おおさか十三仏霊場・摂津八十八ヶ所霊場、
今から千四百年前の昔、聖徳太子が、平野の野中の地に小宇を建立して薬師如来
の像を安置されたと、寺伝にあり、これが全興寺の草創です。その薬師堂からしだい
に町が形づくられ「平野」発祥の地とも言われています。本堂は江戸時代初めの
1615年"大阪夏の陣"で一部を焼失。1661年再建されたもので、大阪府下では古い
木造建築の一つです。
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願正寺へ向かう
雨は小雨、降ったりやんだり・・・
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龍光山 願正寺
龍光山と号し、本尊は阿弥陀如来で天文元年(1532)僧明願の創立で慶長二年
(1597)僧了順これを再興した。昭和二十五年三月火災により本堂焼失、同年
現本堂が再建された。本寺は大坂陣に徳川氏の臣、安藤正次が自盡し、正次の
子正珍葬所に五輪の墓碑を建て、当寺を菩提所とした。
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平野公園  樋尻口門跡
平野郷樋尻口門跡
戦国時代、平野は堺とならぶ自治都市であった。郷内の安全のため集落のまわりを
濠で囲み(一般に「環濠集落」と呼ばれる)郷への出入りは13ヶ所に設けられた木戸
口を使って行われた。それぞれに門や地蔵堂があって平野十三口と呼ばれ、この
樋之尻口門もその中のひとつである。少し東側の平野川に「樋之尻橋」の名が今も
とどめられている。現在、13の木戸口はなくなったが、地蔵堂とその名称によって
かつての位置を知ることができる。
大坂夏の陣の際、真田幸村が平野郷樋之尻口に地雷を仕掛け、徳川家康を追い込
んだとき爆発し、地蔵の首がこの全興寺まで飛んだとされ、今でもその首が全興寺
に安置されている。
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安藤正次墓所
安藤次右衛門尉(じえもんのじょう)正次は禄高二千石の旗本で、大坂夏之陣には
御旗奉行として徳川秀忠に直属し、元和げんな元年(1615)五月七日の大阪城
落城直前、秀忠の使者として前田利常、本多康紀両軍に、敵陣へ肉薄するようとの
命令を伝えた。そのとき、数騎の敵兵に出会い、単身馬を進めて戦い豊臣方の首
級をあげたが、自らも深傷を負い、家来に助けられて戻った本陣で、秀忠から高名
(こうみょう)したと賞され、宿所である平野の願正寺に送られて、傷の療養に努めて
いたが、再起不能を悟り、十九日自刃した。享年五十一、浄徳院釈了栄とおくり名
された。五輪の墓塔は世子正珍(まさよし)が、平野郷を囲む環濠の土居上に建て、
願正寺を菩提寺とした。元禄十四年(1701)に曾孫定房が寄進した盥盤’くわんばん)
は背面に正次の伝記体を刻した他に例をみない珍しいものである。
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樋之尻口橋~平野川堤防
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国道25号を渡って
雨も晴れて、シャープ工場へ向かう
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シャープ工場(昼食場所)
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昼食を終えて工場を出て
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許麻神社
式内社で、もと牛頭天王と称され、渋川六座の一である。この地は古く巨麻荘
といい、河内国諸蕃の大狛連の住地で、その祖神をまつったと伝えられる。境
内の手洗いの屋形は、むかしの宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りである。こ
の寺は、聖徳太子の建立で、戦国時代に兵火に逢って焼失した、その後観音
院のみ復興したが、明治初年廃寺となった。本尊十一面観音はいま念佛寺に
ある。神社の西方に、むかし弥生式土器を埋蔵したベントウ山があった。
①社名の由来:「許麻」は「コマ」と訓み、昔はこの地を「許麻荘」と言った。許麻
は高麗に通じ、高麗からの渡来民族が多く住んでいた。彼らが祖霊として祭祀し
たのが、後に神社として祀られ、社名に「許麻」が残ったと言われている。  
②手洗舎建立の由来:この手洗舎は往古この境内に許麻の宮寺として「久宝寺
観音院」があり、「真言宗大悲閣」と呼ばれる様になったものです。旧記に、この
寺は聖徳太子の建立によるもので、太子自作の十一面観音を本尊としていたと
伝えられます。三十三代推古天皇二年三月に勅願所となりましたが、松永弾匠
久秀の乱による兵火にかかり悉く灰燼となりその後漢文七年七月(一六六七年)
に再建されました。その後明治初年の神仏分離により廃寺となりましたが、その
鐘楼を神社の手洗舎として移築し現在に及んでおります。尚、古老によれば鐘
楼の釣鐘は有名で、その響きは十里の外まで及び、大和高田まで達したと伝え
られております。
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顕正寺
顕証寺(けんしょうじ)は、大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の寺院。
山号は近松山。久宝寺御坊ともいう。 かつて、周囲に寺内町を形成し、現在もそ
の町並みをとどめている。伝承によれば、久宝寺の地名は、飛鳥時代に聖徳太子
が「久宝寺」を当地に創建したことに由来する。顕証寺西側の許麻神社(こまじん
じゃ)境内には太子創建を伝える久宝寺観音院があったが、明治の神仏分離で廃
絶した。文明元年(1469年)、本願寺8世法主蓮如は、近江国近松(滋賀県大津市)
に顕証寺を創建し、初めは長男順如、その死後は6男蓮淳に住持させた。これは
後の本願寺派近松別院となり、寺号は後に久宝寺御坊顕証寺に引き継がれた。
そのため、戦前まで近松別院は久宝寺村の顕証寺が法要を勤めていた。文明2年
(1470年)、蓮如は河内国渋川郡(現在の東大阪市布施から八尾市龍華一帯)を
訪れて布教活動を始めた。当初は久宝寺にあった慈願寺(のち八尾の現在地へ移
転。後述)を本拠としたが、明応年間(1492年 - 1501年)、久宝寺跡に「西証寺」を
建立した。この時、近くにある久宝寺城主の安井氏は地域住民が一向宗に与する
のを見計らい、地域支配を維持するために創建に協力している。蓮如の11男の実
順を住持とし、ここを河内一向宗の中心道場とした[1]。しかし実順は永正15年(15
18年)、25歳で没し、その跡を継いだ子の実真も享禄2年(1529年)に13歳で早世
したため、近江顕証寺から蓮淳を迎え、その時に「顕証寺」と寺号を改めた。
戦国時代に入ると、戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかるため、天文10年(1541年)頃
に顕証寺を中心に周囲に二重の堀と土塀を巡らし、その内側に碁盤目に道を巡らし
た寺内町を作った。寺内町では顕証寺がいっさいの支配権をもち、安井氏がこの権
利を委されていた。また、本願寺内での蓮淳の地位の高さもあって、交野郡招提や
石川郡大ケ塚といった河内国の他の寺内町も統轄するようになった。
安土桃山時代になると、石山合戦の際に顕証寺は講和派(顕如)、慈願寺は抗戦派
(教如)に分かれ、激しい対立関係に発展した。その後の本願寺東西分裂の際も顕
証寺は西本願寺、慈願寺は東本願寺に属した。慶長11年(1606年)、顕証寺と安井
氏の支配に異を唱える慈願寺と17名の住人らは久宝寺寺内町を出て、旧大和川の
本流にあたる現在の長瀬川の東岸、若江郡八尾の荒地を開墾し、八尾御坊(現、真
宗大谷派八尾別院大信寺)を中心に八尾寺内町を作った。
慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて徳川家康と豊臣秀頼が衝突し
た大坂冬の陣・大坂夏の陣において、この地域は主戦場のひとつとなり、辺りは焼き
払われ、焼け野原になった。現在の本堂には江戸時代中期・正徳6年(1716年)の
棟札があり、この年再建されたものとわかる。
江戸時代前半頃には八尾街道の中継地として栄えたが、宝永元年(1704年)の大和
川付け替えを境に、地域の中心は久宝寺村から寺内村(八尾)に移っていった。
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八尾プリズムホール・文化祭会場
歩こう会、歴史探訪の会・足腰神社
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 9月4日のてくてくマップ奈良・飛鳥コース①ー番外編

9月8日          9月4日のてくてくマップ奈良・飛鳥コース①ー番外編
           あみま倶楽部 てくてくマップ奈良21・飛鳥コース①ー番外編
何度も計画して、この日に漸く実現、吉備姫王(猿石)&欽明天皇陵を撮った・・・
何度も飛鳥駅~のハイキングに挑戦したが、吉備姫王(猿石)&欽明天皇陵を
巡るコースに当らず、あみま倶楽部のてくてくマップ奈良21・飛鳥コース①を歩く
事に決めて、予定を入れていたが雨や不都合で中々歩く機会が無く、漸く実現・。
9月4日も途中で雨が降り、コース短縮して念願の猿石&欽明天皇陵を歩いた・・
コース
飛鳥駅~国営歴史公園~高松塚古墳~定林寺跡~健康福祉センター~亀石~
鬼の雪隠~鬼の俎~吉備姫王墓(猿石)~欽明天皇陵~みみなほし地蔵~榎
竜神~ほうねん橋~飛鳥ゆめ販売所~飛鳥駅

飛鳥駅~国営歴史公園~高松塚古墳

定林寺跡・春日神社
定林寺跡(じょうりんじあと)は、奈良県高市郡明日香村立部にある寺院跡。
現在無住の小堂が建つ。別名に立部寺、常林寺など。寺伝などによると聖
徳太子建立四十六ヶ寺(または七ヶ寺)の一つとされるが、その詳細は判明
していない。小堂の西側の春日神社境内に塔跡をはじめ基壇、礎石等の遺
構が残る。
健康福祉センターの水車?~亀石へ向かう
此処までは、9月4日のてくてくマップ奈良・飛鳥コース①ー1 として
             下記のメインブログへ投稿して有ります。
          http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/2015-09-08
此処からは、
亀石へ向かう~9月4日のてくてくマップ奈良・飛鳥コース①ー2 として
             下記のセカンドブログへ投稿して有ります。
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2015-09-08
亀石
亀石(かめいし)とは、奈良県明日香村川原にある亀の形をした遺構。長さ
3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に亀に似た彫
刻が彫られていることからこの名前で呼ばれている。ユーモラスな顔つきか
ら明日香村観光のシンボルともなっている。
亀石と呼ばれているが、顔が三角形であることや目が上に飛び出している
など、亀というよりはカエルの特徴をとらえていると見る人もいる。上部が自
然石のままで下部のみが加工されていることから、現在の下面が本来の上
面で実は上下逆であったという説も奈良国立文化財研究所の報告書で出さ
れてはいるが、有力視はされていない。
下部には石矢の跡が見られるが、建造当初からあったものなのか酒船石の
ように後世になって石を割ろうとした跡なのかも分かっていない。もし当初から
残された跡だとすれば亀石は未完成品であるとの証拠にもなり、後世に割ら
れたとしたら本来は現在よりもかなり高さのある石だった可能性がある。
言い伝えによれば、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻(たいま)の
ヘビと川原のナマズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干
上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまった。亀を哀れに思った村人達は、
「亀石」を造って亀の供養をしたという。
亀石は、以前は北を向き、次に東を向いたと言う。そして、今は南西を向いて
いるが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化
す、と伝えられている。

鬼の雪隠・鬼の俎

吉備姫王墓(猿石)(きびひめのおおきみ・きびひめのみこ)
欽明天皇陵の南側に隣接する丘陵上にあり、直径8メートル程度の円墳
であると考えられている。 吉備姫王は欽明天皇の孫で、皇極天皇、孝徳
天皇の母、天智・天武天皇の祖母である。 「書紀」には「檀弓岡(まゆみの
おか)に葬る」とあり、この場所が該当するかどうかは疑問符のつくところで
ある。 柵内に猿石4体が安置されている。元禄15(1702)年に、欽明天皇
陵近くの水田から掘り出された石像4体で、もとは欽明天皇陵に置かれて
いたらしいが、明治初年ごろにここに移されたと考えられている。
左側に「女」と「山王権化(さんのうごんげん)」
これらの愛称は外見から後になってつけられたもので、実際に女や山王
権化として作られたわけではありません。女だと思われたのは、下腹部に
女性性器が彫刻されているから。
山王権化とは神仏習合の神であり、天台宗の守り神です。神社の名前に
もありますね。神の使い手としてサルを崇拝しているので、そのように呼ん
でいるのでしょう、男性器を露出しています。
右側の二体は「僧(法師)」と「男」
「男」の石は帽子を被っていて、揉み手をしているようでニンマリしています。
この当時、飛鳥の人口の8割ほどが中国や朝鮮半島から移住した渡来人
であったと言われています。仏教、鉄器、機織り、土木など当時最先端の
学問や技術の伝道者、また亡命者として日本に渡ってきた人々です。猿石
は彼らが祖国を懐かしんで作ったものかもしれません。

欽明天皇陵
欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月
15日(571年5月24日?))は、第29代天皇(在位:宣化天皇4年12月5日
(539年12月30日?) - 欽明天皇32年(571年?)4月15日)。この代に、百済
より仏教が公伝し、任那が滅亡した。
継体天皇の嫡子、母は手白香皇女(たしらかのひめみこ、仁賢天皇皇女)
皇后:石姫皇女(いしひめのひめみこ、宣化天皇皇女) 。口語の他に妃5人、
子達が27人、27人の中には、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇
や用明天皇皇后で厩戸皇子(聖徳太子)の母や吉備姫王の父桜井皇子も・・
現在の皇室から少なくとも遡れる継体天皇以降の歴代天皇では昭和天皇、
明治天皇に次いで長く在位したことになる。しかし、いずれも推測・・・
大臣・大連
大伴金村と物部尾輿を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣としたが、直後の540
年(欽明天皇元年)大伴金村は失脚する。これにより物部氏と蘇我氏の二極
体制ができあがるが、特に蘇我氏とは541年(欽明天皇2年)に稲目の娘で
ある堅塩媛や小姉君を妃とし、敏達天皇崩御後、彼女らの間に儲けた橘豊
日皇子以降3人の弟・妹が、母親がれっきとした皇族である、甥の押坂彦人
大兄皇子を差し置いて約40年大王(天皇)位につき、蘇我氏の全盛期が築か
れる(ただ、当時は親子よりも兄弟の継承が一般的であった)。
任那
百済の聖明王(『三国史記』では聖王、中国の正史では諱を明とすると書か
れている)の間とは541年より任那の復興について協議していたが、戦況は
百済側に不利であり、552年には平壌と漢城を放棄(『三国史記』によれば
538年)、さらに554年(欽明天皇15年)に新羅との戦で、聖明王が亡くなると
新羅軍は勢いづき、562年(もしくは560年)に任那を滅ぼしてしまう。これに
激怒した欽明天皇[1]は562年(欽明天皇23年)に新羅に対して討伐軍を送
るが、敵の罠にかかってしまい退却する。同年高句麗にも軍を送っている
欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら亡くなったという。第一皇子の
箭田珠勝大兄皇子はすでに552年に早世していたため、554年に立太子さ
せた渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)が即位した。
仏教公伝
552年(欽明天皇13年)に百済から仏像と経文が伝来する(仏教伝来そのもの
に関しては、『上宮聖徳法王帝説』(「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」)
『元興寺伽藍縁起』(天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月)を根拠として
戊午年・538年とする説が有力である。欽明天皇治世(540年 - 571年)には
戊午の干支年が存在しないため、最も近い戊午年である538年(書紀によれ
ば宣化天皇3年)が有力と考えられている。[誰?] )。これによって、廃仏派の
物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立がおこり、物部氏は寺を焼き、仏像を投
げ捨てる事までした。これにより物部氏と蘇我氏の間の確執が始まる。
蘇我馬子
蘇我 馬子(そが の うまこ)は、敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、用明天皇、
崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年に亘り権勢を振るい、蘇我氏の全盛
時代を築く。
敏達天皇14年2月(585年)、馬子は病になり、卜者に占わせたところ「父の
稲目のときに仏像が破棄された祟りである」と言われた。馬子は敏達天皇に
奏上して仏法を祀る許可を得た。ところがこの頃、疫病がはやり多くの死者を
出した。3月、排仏派の物部守屋と中臣勝海が「蕃神を信奉したために疫病
が起きた」と奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は寺に向かい、
仏殿を破壊し、仏像を海に投げ込ませた。守屋は馬子ら仏教信者を罵倒し、
三人の尼僧を差し出すよう命じた。馬子は尼僧を差し出し、守屋は全裸にし
て縛り上げ、尻を鞭打った。しかし、疫病は治まらず敏達天皇も守屋も病気に
なった。人々は「仏像を焼いた罪である」と言った。同年6月、馬子は病気が
治らず、奏上して仏法を祀る許可を求めた。敏達天皇は馬子に対してのみ
許可し、三人の尼僧を返した。馬子は三人の尼僧を拝み、新たに寺を造り、
仏像を迎えて供養した。同年8月、敏達天皇が崩御した。葬儀を行う殯宮で
馬子と守屋は互いに罵倒した。橘豊日皇子(欽明天皇の皇子、母は馬子の
姉の堅塩媛)が即位し、用明天皇となる。用明天皇の異母弟の穴穂部皇子
は皇位に就きたがっており、不満を抱いた。穴穂部皇子は守屋と結び、先帝
・敏達天皇の寵臣三輪逆を殺害させた。用明天皇2年4月(587年)、用明天
皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮った。守屋と中臣
勝海は反対したが、馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に僧の豊国を
つれて来させた。守屋は怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知
り、河内国へ退いた。程なく用明天皇が崩御した。守屋は穴穂部皇子を皇位
につけようとしたが、同年6月、馬子が先手を打ち炊屋姫(敏達天皇の后)を
奉じて穴穂部皇子を殺害した。同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすこ
とを決め、諸皇子、諸豪族の大軍を挙兵した。馬子軍は河内国渋川郡の守
屋の居所を攻めるが軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築いて頑強に
抵抗し、馬子軍を三度撃退した。厩戸皇子が四天王像を彫り戦勝祈願し、
馬子も寺塔を建立し、仏法を広めることを誓った。馬子軍は奮起して攻勢を
かけ、迹見赤檮が守屋を射殺し、馬子は勝利した。
此処までは、9月4日のてくてくマップ奈良・飛鳥コース①ー2 として
              下記のセカンドブログへ投稿して有ります。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2015-09-08
此処からは当、番外編です。
欽明天皇陵から国道169号へでてみみなほし地蔵尊へ
ヤシの木
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みみなほし地蔵尊
明日香・栗原集落の朝風峠のお地蔵さん、右の肩の上が大きく欠けている
のは、「朝風地蔵」と平田集落にある「みみなほし地蔵」が争って、片方は肩
を取られ、片方は耳を取られた。というおもしろい言い伝えがあるそうです。
此れを知っていたらもう少し詳しく覗いて見る事が出来たのに後の祭り・・・
次回訪問時の宿題に覚えておきます・・・・
P9041784.JPGP9041786.JPGP9041781.JPGP9041783.JPG

榎(ヨノミの木)竜神・碑
此の地はかって、岡寺、長谷寺、伊勢方面へ続く三叉路に川辺に突きだし
た大きな榎(ヨノミの木)が有り、道しるべとなっていましたが、昭和30年代
頃の国道169号の拡張、高取川の改修工事にともなって切り倒されてしま
いました、木の中に2匹のヘビがいて、1匹は何処かへ行ってしまい、もう
1匹はヨノミの木と共に切り倒され、その後此の下平田大字を次々と災難が
襲った事から、当時の役員や老人方が祈祷され、現在地に榎竜神の石碑
を立てて祀りました。高取川河川改修後の昭和32年10月に建立された
石碑は、かっての豊年橋の石橋の石を2つに割って作った物で、もう1方は
豊年橋の石碑として使用されています・・・・
P9041789.JPG

ほうねん橋・碑
高取藩の藩医をしていた服部家の服部宗寛が安政8年(1796年)に自費
で橋を架け替えた事で知られ、この橋は「豊年橋」と呼ばれた。高取川河川
改修後の昭和32年10月に建立された「ほうねん橋」石碑は、かっての豊年
橋の石橋の石を2つに割って作った物で、もう1方は少し下流の榎竜神碑と
して使用されています。
P9041793.JPG

高取川沿いを飛鳥駅方向へ
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飛鳥野菜販売所
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飛鳥駅
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おまけ
帰る途中の五位堂駅から二上山を・・・
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9月4日のてくてくマップ奈良・飛鳥コース①ー1

9月8日          9月4日のてくてくマップ奈良・飛鳥コース①ー1
           あみま倶楽部 てくてくマップ奈良21・飛鳥コース①ー1
何度も計画して、この日に漸く実現、吉備姫王(猿石)&欽明天皇陵を撮った・・・
何度も飛鳥駅~のハイキングに挑戦したが、吉備姫王(猿石)&欽明天皇陵を
巡るコースに当らず、あみま倶楽部のてくてくマップ奈良21・飛鳥コース①を歩く
事に決めて、予定を入れていたが雨や不都合で中々歩く機会が無く、漸く実現・。
9月4日も途中で雨が降り、コース短縮して念願の猿石&欽明天皇陵を歩いた・・
コース
飛鳥駅~国営歴史公園~高松塚古墳~定林寺跡~健康福祉センター~亀石~
鬼の雪隠~鬼の俎~吉備姫王墓(猿石)~欽明天皇陵~みみなほし地蔵~榎
竜神~ほうねん橋~飛鳥ゆめ販売所?~飛鳥駅
志都美駅
左側の葛城山は見えない、右の二上山はぼんやり
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高田市駅
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飛鳥駅
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国営歴史公園へ向かう
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国営飛鳥歴史公園館
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高松塚古墳へ向かう
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高松塚古墳
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定林寺跡・春日神社へ向かう
P9041628.JPGP9041629.JPGP9041631.JPGP9041633.JPGP9041635.JPGP9041638.JPGP9041640.JPGP9041644.JPGP9041645.JPGP9041647.JPGP9041651.JPGP9041653.JPG

定林寺跡・春日神社
定林寺跡(じょうりんじあと)は、奈良県高市郡明日香村立部にある寺院跡。
現在無住の小堂が建つ。別名に立部寺、常林寺など。寺伝などによると聖
徳太子建立四十六ヶ寺(または七ヶ寺)の一つとされるが、その詳細は判明
していない。小堂の西側の春日神社境内に塔跡をはじめ基壇、礎石等の遺
構が残る。
P9041655.JPGP9041656.JPGP9041658.JPGP9041659.JPGP9041661.JPGP9041662.JPGP9041664.JPGP9041666.JPGP9041668.JPGP9041669.JPG

健康福祉センター?の水車
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亀石へ向かう
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此の続きは、
9月4日のてくてくマップ奈良・飛鳥コース①ー2 として
         下記のセカンドブログへ投稿します。
     http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2015-09-08
亀石
亀石(かめいし)とは、奈良県明日香村川原にある亀の形をした遺構。長さ
3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に亀に似た彫
刻が彫られていることからこの名前で呼ばれている。ユーモラスな顔つきか
ら明日香村観光のシンボルともなっている。
亀石と呼ばれているが、顔が三角形であることや目が上に飛び出している
など、亀というよりはカエルの特徴をとらえていると見る人もいる。上部が自
然石のままで下部のみが加工されていることから、現在の下面が本来の上
面で実は上下逆であったという説も奈良国立文化財研究所の報告書で出さ
れてはいるが、有力視はされていない。
下部には石矢の跡が見られるが、建造当初からあったものなのか酒船石の
ように後世になって石を割ろうとした跡なのかも分かっていない。もし当初から
残された跡だとすれば亀石は未完成品であるとの証拠にもなり、後世に割ら
れたとしたら本来は現在よりもかなり高さのある石だった可能性がある。
言い伝えによれば、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻(たいま)の
ヘビと川原のナマズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干
上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまった。亀を哀れに思った村人達は、
「亀石」を造って亀の供養をしたという。
亀石は、以前は北を向き、次に東を向いたと言う。そして、今は南西を向いて
いるが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化
す、と伝えられている。

鬼の雪隠・鬼の俎

吉備姫王墓(猿石)(きびひめのおおきみ・きびひめのみこ)
欽明天皇陵の南側に隣接する丘陵上にあり、直径8メートル程度の円墳であると考えられている。
吉備姫王は欽明天皇の孫で、皇極天皇、孝徳天皇の母、天智・天武天皇の祖母である。
「書紀」には「檀弓岡(まゆみのおか)に葬る」とあり、この場所が該当するかどうかは疑問符のつくところである。
柵内に猿石4体が安置されている。
元禄15(1702)年に、欽明天皇陵近くの水田から掘り出された石像4体で、もとは欽明天皇陵に置かれていたらしいが、明治初年ごろにここに移されたと考えられている。
左側に「女」と「山王権化(さんのうごんげん)」
これらの愛称は外見から後になってつけられたもので、実際に女や山王権化として作られたわけではありません。女だと思われたのは、下腹部に女性性器が彫刻されているから。
山王権化とは神仏習合の神であり、天台宗の守り神です。神社の名前にもありますね。神の使い手としてサルを崇拝しているので、そのように呼んでいるのでしょう、男性器を露出しています。
右側の二体は
「僧(法師)」と「男」
「男」の石は帽子を被っていて、揉み手をしているようでニンマリしています。
この当時、飛鳥の人口の8割ほどが中国や朝鮮半島から移住した渡来人であったと言われています。仏教、鉄器、機織り、土木など当時最先端の学問や技術の伝道者、また亡命者として日本に渡ってきた人々です。猿石は彼らが祖国を懐かしんで作ったものかもしれません。

欽明天皇陵
欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月
15日(571年5月24日?))は、第29代天皇(在位:宣化天皇4年12月5日
(539年12月30日?) - 欽明天皇32年(571年?)4月15日)。この代に、百済
より仏教が公伝し、任那が滅亡した。
継体天皇の嫡子、母は手白香皇女(たしらかのひめみこ、仁賢天皇皇女)
皇后:石姫皇女(いしひめのひめみこ、宣化天皇皇女) 。口語の他に妃5人、
子達が27人、27人の中には、敏達天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇
や用明天皇皇后で厩戸皇子(聖徳太子)の母や吉備姫王の父桜井皇子も・・
現在の皇室から少なくとも遡れる継体天皇以降の歴代天皇では昭和天皇、
明治天皇に次いで長く在位したことになる。しかし、いずれも推測・・・
大臣・大連
大伴金村と物部尾輿を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣としたが、直後の540
年(欽明天皇元年)大伴金村は失脚する。これにより物部氏と蘇我氏の二極
体制ができあがるが、特に蘇我氏とは541年(欽明天皇2年)に稲目の娘で
ある堅塩媛や小姉君を妃とし、敏達天皇崩御後、彼女らの間に儲けた橘豊
日皇子以降3人の弟・妹が、母親がれっきとした皇族である、甥の押坂彦人
大兄皇子を差し置いて約40年大王(天皇)位につき、蘇我氏の全盛期が築か
れる(ただ、当時は親子よりも兄弟の継承が一般的であった)。
任那
百済の聖明王(『三国史記』では聖王、中国の正史では諱を明とすると書か
れている)の間とは541年より任那の復興について協議していたが、戦況は
百済側に不利であり、552年には平壌と漢城を放棄(『三国史記』によれば
538年)、さらに554年(欽明天皇15年)に新羅との戦で、聖明王が亡くなると
新羅軍は勢いづき、562年(もしくは560年)に任那を滅ぼしてしまう。これに
激怒した欽明天皇[1]は562年(欽明天皇23年)に新羅に対して討伐軍を送
るが、敵の罠にかかってしまい退却する。同年高句麗にも軍を送っている
欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら亡くなったという。第一皇子の
箭田珠勝大兄皇子はすでに552年に早世していたため、554年に立太子さ
せた渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)が即位した。
仏教公伝
552年(欽明天皇13年)に百済から仏像と経文が伝来する(仏教伝来そのもの
に関しては、『上宮聖徳法王帝説』(「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」)
『元興寺伽藍縁起』(天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月)を根拠として
戊午年・538年とする説が有力である。欽明天皇治世(540年 - 571年)には
戊午の干支年が存在しないため、最も近い戊午年である538年(書紀によれ
ば宣化天皇3年)が有力と考えられている。[誰?] )。これによって、廃仏派の
物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立がおこり、物部氏は寺を焼き、仏像を投
げ捨てる事までした。これにより物部氏と蘇我氏の間の確執が始まる。
蘇我馬子
蘇我 馬子(そが の うまこ)は、敏達天皇のとき大臣に就き、 以降、用明天皇、
崇峻天皇、推古天皇の4代に仕え、54年に亘り権勢を振るい、蘇我氏の全盛
時代を築く。
敏達天皇14年2月(585年)、馬子は病になり、卜者に占わせたところ「父の
稲目のときに仏像が破棄された祟りである」と言われた。馬子は敏達天皇に
奏上して仏法を祀る許可を得た。ところがこの頃、疫病がはやり多くの死者を
出した。3月、排仏派の物部守屋と中臣勝海が「蕃神を信奉したために疫病
が起きた」と奏上し、敏達天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は寺に向かい、
仏殿を破壊し、仏像を海に投げ込ませた。守屋は馬子ら仏教信者を罵倒し、
三人の尼僧を差し出すよう命じた。馬子は尼僧を差し出し、守屋は全裸にし
て縛り上げ、尻を鞭打った。しかし、疫病は治まらず敏達天皇も守屋も病気に
なった。人々は「仏像を焼いた罪である」と言った。同年6月、馬子は病気が
治らず、奏上して仏法を祀る許可を求めた。敏達天皇は馬子に対してのみ
許可し、三人の尼僧を返した。馬子は三人の尼僧を拝み、新たに寺を造り、
仏像を迎えて供養した。同年8月、敏達天皇が崩御した。葬儀を行う殯宮で
馬子と守屋は互いに罵倒した。橘豊日皇子(欽明天皇の皇子、母は馬子の
姉の堅塩媛)が即位し、用明天皇となる。用明天皇の異母弟の穴穂部皇子
は皇位に就きたがっており、不満を抱いた。穴穂部皇子は守屋と結び、先帝
・敏達天皇の寵臣三輪逆を殺害させた。用明天皇2年4月(587年)、用明天
皇は病になり、三宝(仏法)を信仰することを欲し群臣に諮った。守屋と中臣
勝海は反対したが、馬子は詔を奉ずべきとして、穴穂部皇子に僧の豊国を
つれて来させた。守屋は怒ったが、群臣の多くが馬子の味方であることを知
り、河内国へ退いた。程なく用明天皇が崩御した。守屋は穴穂部皇子を皇位
につけようとしたが、同年6月、馬子が先手を打ち炊屋姫(敏達天皇の后)を
奉じて穴穂部皇子を殺害した。同年7月、馬子は群臣に諮り守屋を滅ぼすこ
とを決め、諸皇子、諸豪族の大軍を挙兵した。馬子軍は河内国渋川郡の守
屋の居所を攻めるが軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築いて頑強に
抵抗し、馬子軍を三度撃退した。厩戸皇子が四天王像を彫り戦勝祈願し、
馬子も寺塔を建立し、仏法を広めることを誓った。馬子軍は奮起して攻勢を
かけ、迹見赤檮が守屋を射殺し、馬子は勝利した。

みみなほし地蔵
明日香・栗原集落の朝風峠のお地蔵さん、右の肩の上が大きく欠けている
のは、「朝風地蔵」と平田集落にある「みみなほし地蔵」が争って、片方は肩
を取られ、片方は耳を取られた。というおもしろい言い伝えがあるそうです。
此れを知っていたらもう少し詳しく覗いて見る事が出来たのに後の祭り・・・
次回訪問時の宿題に覚えておきます・・・・

榎(ヨノミの木)竜神・碑
此の地はかって、岡寺、長谷寺、伊勢方面へ続く三叉路に川辺に突きだし
た大きな榎(ヨノミの木)が有り、道しるべとなっていましたが、昭和30年代
頃の国道169号の拡張、高取川の改修工事にともなって切り倒されてしま
いました、木の中に2匹のヘビがいて、1匹は何処かへ行ってしまい、もう
1匹はヨノミの木と共に切り倒され、その後此の下平田大字を次々と災難が
襲った事から、当時の役員や老人方が祈祷され、現在地に榎竜神の石碑
を立てて祀りました。高取川河川改修後の昭和32年10月に建立された
石碑は、かっての豊年橋の石橋の石を2つに割って作った物で、もう1方は
豊年橋の石碑として使用されています・・・・

ほうねん橋・碑
高取藩の藩医をしていた服部家の服部宗寛が安政8年(1796年)に自費
で橋を架け替えた事で知られ、この橋は「豊年橋」と呼ばれた。高取川河川
改修後の昭和32年10月に建立された「ほうねん橋」石碑は、かっての豊年
橋の石橋の石を2つに割って作った物で、もう1方は少し下流の榎竜神碑と
して使用されています。

飛鳥ゆめ販売所~飛鳥駅

9月2日のハイキング・文化祭歴史ウオークコースの下見-1

9月6日        9月2日のハイキング?
        9月9日&11日の文化祭歴史ウオークコースの下見-1
9月9日~11日、社友会結成35周年記念の総合文化祭に屋外イベントと
して、総合文化祭会場へ向けて大坂夏の陣ゆかりの跡地を巡るウオーク、
9日は、大阪夏の陣「徳川家康が九死に一生を得た」平野郷を巡る・・・・
11日は、大阪夏の陣「東軍・西軍激突の地、八尾・若江の戦い」跡地を・・・
前記、2コースの下見に行って来ました。
此の日の私は①②コーストータルで
       30740歩で約20.9km歩いた事に! 流石に疲れた・・・・
①9日のコース下見
平野駅集合~杭全神社~大念佛寺~平野郷・全興寺(地獄道)~願正寺~
平野公園樋尻口門跡~安藤正次墓所~樋尻口橋~平野川堤防~国道25号
~シャープ工場(昼食場所)~許麻神社~顕正寺~近鉄八尾駅
志都美駅へ向かう
志都美駅で、右の二上山は見えるが左の葛城山は雲に・・・
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大念佛寺
1127年、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子
から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建した
のが始まり。平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門の最
初の宗派で日本最初の念仏道場といわれる。その後、火災などで荒廃するが、
元禄期(1700年頃)に本山として体裁が整い現在に至る。融通念佛宗の総本山。
本堂は大阪最大の木造建築と言われています。
融通念仏とは
融通とは溶け合い和合することです。砂とセメントと水は、それぞれその形も働き
も異なりますが、この三者が溶け合って和合すると強固なコンクリートになるのも
融通です。融通念仏は、念仏が相互に融通して大きな力となることをいいます。
すなわち念仏を称えることによって、人と人、人と物、物と物とのすべての関係の
上に融通和合の世界を自覚し、苦脳と迷いのこの世を喜びに満ち溢れ、悟りの
智慧かがやく楽土(浄土)にすることをめざした教えです。
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杭全神社(くまた神社)
貞観4年(862年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫で、この地に荘園を有して
いた坂上当道が素盞嗚尊を勧請し、社殿を創建したのが最初と伝えられている。
以降、建久元年(1190年)に熊野證誠権現(伊弉諾尊)、元亨元年(1321年)には
熊野三所権現(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を勧請合祀し、後醍醐天皇から
「熊野三所権現」の勅額を賜り、熊野権現社の総社とされた。
明治になって現在の社名に改まった。日本で唯一連歌所が残っており、連歌会は
明治以降廃れていたが、1987年に復活させ、現在、毎月定期的に平野法楽連歌会
が催されている。1999年からはインターネット連歌が始まった。初代の連歌所は室
町時代に建てられたが、大坂冬の陣で焼かれた。現存するのは1708年(宝永5年)
に再建されたもので、大阪市指定文化財に指定されている。
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平野本通商店街・全興寺(ぜんこう寺)・地獄堂
野中山 全興寺  高野山真言宗・おおさか十三仏霊場・摂津八十八ヶ所霊場
今から千四百年前の昔、聖徳太子が、平野の野中の地に小宇を建立して薬師如来
の像を安置されたと、寺伝にあり、これが全興寺の草創です。その薬師堂からしだい
に町が形づくられ「平野」発祥の地とも言われています。本堂は江戸時代初めの
1615年"大阪夏の陣"で一部を焼失。1661年再建されたもので、大阪府下では古い
木造建築の一つです。
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    此処は天国?
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願正寺
龍光山 願正寺
龍光山と号し、本尊は阿弥陀如来で天文元年(1532)僧明願の創立で慶長二年
(1597)僧了順これを再興した。昭和二十五年三月火災により本堂焼失、同年
現本堂が再建された。本寺は大坂陣に徳川氏の臣、安藤正次が自盡し、正次の
子正珍葬所に五輪の墓碑を建て、當寺を菩提所とした。
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平野公園
安藤正次(あんどうまさつぐ)墓所
安藤次右衛門尉(じえもんのじょう)正次は禄高二千石の旗本で、大坂夏之陣には
御旗奉行として徳川秀忠に直属し、元和げんな元年(1615)五月七日の大阪城
落城直前、秀忠の使者として前田利常、本多康紀両軍に、敵陣へ肉薄するようとの
命令を伝えた。そのとき、数騎の敵兵に出会い、単身馬を進めて戦い豊臣方の首
級をあげたが、自らも深傷を負い、家来に助けられて戻った本陣で、秀忠から高名
(こうみょう)したと賞され、宿所である平野の願正寺に送られて、傷の療養に努めて
いたが、再起不能を悟り、十九日自刃した。享年五十一、浄徳院釈了栄とおくり名
された。五輪の墓塔は世子正珍(まさよし)が、平野郷を囲む環濠の土居上に建て、
願正寺を菩提寺とした。元禄十四年(1701)に曾孫定房が寄進した盥盤’くわんばん)
は背面に正次の伝記体を刻した他に例をみない珍しいものである。
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平野郷樋尻口門跡
戦国時代、平野は堺とならぶ自治都市であった。郷内の安全のため集落のまわりを
濠で囲み(一般に「環濠集落」と呼ばれる)郷への出入りは13ヶ所に設けられた木戸
口を使って行われた。それぞれに門や地蔵堂があって平野十三口と呼ばれ、この
樋之尻口門もその中のひとつである。少し東側の平野川に「樋之尻橋」の名が今も
とどめられている。現在、13の木戸口はなくなったが、地蔵堂とその名称によって
かつての位置を知ることができる。
大坂夏の陣の際、真田幸村が平野郷樋尻口に地雷を仕掛け、徳川家康を追い込
んだとき爆発し、地蔵の首がこの全興寺まで飛んだとされ、今でもその首が全興寺
に安置されている。
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樋之尻橋
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平野川堤防
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此の続きは、
9月2日ハイキング・文化祭歴史ウオークコースの下見ー2 として
         下記のセカンドブログへ投稿します。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2015-09-06
樋尻口門跡

樋之尻橋
平野川堤防

国道25号
加美鞍作東~シャープ工場へ(昼食場所)
許麻神社
式内社で、もと牛頭天王と称され、渋川六座の一である。この地は古く巨麻荘
といい、河内国諸蕃の大狛連の住地で、その祖神をまつったと伝えられる。境
内の手洗いの屋形は、むかしの宮寺久宝寺観音院の鐘楼の名残りである。こ
の寺は、聖徳太子の建立で、戦国時代に兵火に逢って焼失した、その後観音
院のみ復興したが、明治初年廃寺となった。本尊十一面観音はいま念佛寺に
ある。神社の西方に、むかし弥生式土器を埋蔵したベントウ山があった。
①社名の由来:「許麻」は「コマ」と訓み、昔はこの地を「許麻荘」と言った。許麻
は高麗に通じ、高麗からの渡来民族が多く住んでいた。彼らが祖霊として祭祀し
たのが、後に神社として祀られ、社名に「許麻」が残ったと言われている。  
②手洗舎建立の由来:この手洗舎は往古この境内に許麻の宮寺として「久宝寺
観音院」があり、「真言宗大悲閣」と呼ばれる様になったものです。旧記に、この
寺は聖徳太子の建立によるもので、太子自作の十一面観音を本尊としていたと
伝えられます。三十三代推古天皇二年三月に勅願所となりましたが、松永弾匠
久秀の乱による兵火にかかり悉く灰燼となりその後漢文七年七月(一六六七年)
に再建されました。その後明治初年の神仏分離により廃寺となりましたが、その
鐘楼を神社の手洗舎として移築し現在に及んでおります。尚、古老によれば鐘
楼の釣鐘は有名で、その響きは十里の外まで及び、大和高田まで達したと伝え
られております。

顕証寺へ向かう
顕証寺(けんしょうじ)は、大阪府八尾市久宝寺にある浄土真宗本願寺派の寺院。
山号は近松山。久宝寺御坊ともいう。 かつて、周囲に寺内町を形成し、現在もそ
の町並みをとどめている。伝承によれば、久宝寺の地名は、飛鳥時代に聖徳太子
が「久宝寺」を当地に創建したことに由来する。顕証寺西側の許麻神社(こまじん
じゃ)境内には太子創建を伝える久宝寺観音院があったが、明治の神仏分離で廃
絶した。文明元年(1469年)、本願寺8世法主蓮如は、近江国近松(滋賀県大津市)
に顕証寺を創建し、初めは長男順如、その死後は6男蓮淳に住持させた。これは
後の本願寺派近松別院となり、寺号は後に久宝寺御坊顕証寺に引き継がれた。
そのため、戦前まで近松別院は久宝寺村の顕証寺が法要を勤めていた。文明2年
(1470年)、蓮如は河内国渋川郡(現在の東大阪市布施から八尾市龍華一帯)を
訪れて布教活動を始めた。当初は久宝寺にあった慈願寺(のち八尾の現在地へ移
転。後述)を本拠としたが、明応年間(1492年 - 1501年)、久宝寺跡に「西証寺」を
建立した。この時、近くにある久宝寺城主の安井氏は地域住民が一向宗に与する
のを見計らい、地域支配を維持するために創建に協力している。蓮如の11男の実
順を住持とし、ここを河内一向宗の中心道場とした[1]。しかし実順は永正15年(15
18年)、25歳で没し、その跡を継いだ子の実真も享禄2年(1529年)に13歳で早世
したため、近江顕証寺から蓮淳を迎え、その時に「顕証寺」と寺号を改めた。
戦国時代に入ると、戦乱を防ぎ、門徒の団結をはかるため、天文10年(1541年)頃
に顕証寺を中心に周囲に二重の堀と土塀を巡らし、その内側に碁盤目に道を巡らし
た寺内町を作った。寺内町では顕証寺がいっさいの支配権をもち、安井氏がこの権
利を委されていた。また、本願寺内での蓮淳の地位の高さもあって、交野郡招提や
石川郡大ケ塚といった河内国の他の寺内町も統轄するようになった。
安土桃山時代になると、石山合戦の際に顕証寺は講和派(顕如)、慈願寺は抗戦派
(教如)に分かれ、激しい対立関係に発展した。その後の本願寺東西分裂の際も顕
証寺は西本願寺、慈願寺は東本願寺に属した。慶長11年(1606年)、顕証寺と安井
氏の支配に異を唱える慈願寺と17名の住人らは久宝寺寺内町を出て、旧大和川の
本流にあたる現在の長瀬川の東岸、若江郡八尾の荒地を開墾し、八尾御坊(現、真
宗大谷派八尾別院大信寺)を中心に八尾寺内町を作った。
慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて徳川家康と豊臣秀頼が衝突し
た大坂冬の陣・大坂夏の陣において、この地域は主戦場のひとつとなり、辺りは焼き
払われ、焼け野原になった。現在の本堂には江戸時代中期・正徳6年(1716年)の
棟札があり、この年再建されたものとわかる。
江戸時代前半頃には八尾街道の中継地として栄えたが、宝永元年(1704年)の大和
川付け替えを境に、地域の中心は久宝寺村から寺内村(八尾)に移っていった。

近鉄八尾駅
近鉄八尾駅→バスで若江岩田駅へ移動
②11日のコース下見
若江岩田駅~飯嶋三郎右衛門墓~木村重成陣屋跡~蓮城寺・木村重成
位牌堂~若江鏡神社~山口重信墓~木村重成墓・公園~八尾市立埋蔵
文化財調査センター(トイレ)~西郡天神社~高塚地蔵~穴太神社~常光寺
~八尾駅
河内街道・飯嶋三郎右衛門墓

木村重成陣屋跡~蓮城寺・木村重成位牌堂

若江鏡神社~山口重信墓

第二寝屋川を挟んで
木村重成墓・公園
八尾市立埋蔵文化財調査センター(トイレ)
西郡天神社

高塚地蔵~穴太神社(あのう神社)~常光寺~八尾駅

おまけ
高速道路の裏道