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11月21日の散歩(抜粋編)

11月21日         21日の散歩(抜粋編)
         隣町の池の有る公園を通って、皇帝ダリアと紅葉を・・・
24日~2泊3日の入院生活に備えて、今のうちに歩いて足腰を鍛えて?
10日に右目の白内障手術で2泊3日入院、24日~左目の手術をする・・
今は車の運転は駄目、重たい物を持っては駄目、身体に力を入れる事は
控える様に?と、土いじりも駄目、で散歩をする事くらいしか残っていない。
良く利用する散歩コースの紅葉と皇帝ダリアを撮りに・・・
高速道路の裏道
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隣町の池の有る公園へ
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高速道路脇の皇帝ダリアを
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ナンキンハゼも
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今日の散歩で撮った全部の写真を、詳細編として
          下記のセカンドブログへ投稿しました。
     http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2015-11-21-1

11月16日の夕方・夕日

11月20日          16日の夕方・夕日
            天気が良かったので夕方散歩・夕日を・・・
4時20分に家を出て、4時35分頃、丘の上に到着、夕日の沈んだ
直後?夕日は撮れずじまい、夕日が沈んだ直後の夕焼け?を撮って・・・
上空の雲
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丘の上から、夕日の沈んだ直後
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反対側へ丘を下る
遠くに二上山が見える
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16日の馬見丘陵公園ー2(北エリアの皇帝ダリア・他)

11月17日    16日の馬見丘陵公園ー2(北エリアの皇帝ダリア・他)
         久し振りに徒歩で馬見丘陵公園を往復・・・
白内障手術の合間に徒歩で馬見丘陵公園を往復、北エリアの皇帝ダリアを
撮って来ました、10日に右目の白内障手術をして12日に退院、14日に初
回の通院診察、17日に2回目の通院診察(今朝行って来ました)を控えてて
気になってた皇帝ダリアを例年通り見に行って、撮って来ました・・・
7時50分に家を出て、何時もの近所の散歩コースを少し歩いて、紅葉を楽し
みに馬見丘陵公園の北の近鉄池部駅側の入口へ約1時間、公園に1時間、
10時に公園館のある中央エリアの出入り口を出て、11時過ぎに久し振りに
汗ビッショリで家へ戻って来た、18500歩で約12.5km歩いた事に・・・
散歩コース
散歩コースの琉球朝顔&紅葉
隣町の池の有る公園
10月桜
池部駅への踏切
馬見丘陵公園の池部駅側の入口
1300年間の歴史の道を北エリアの入り口へ
紅葉が素晴らしい
北エリアの入り口へ到着
皇帝ダリアが丁度見頃の満開?来て良かった・・・
此処までは、
      下記のセカンドブログへ投稿済みです。
   http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2015-11-17-2
此処では、
馬見丘陵公園北エリア入口の皇帝ダリアを・・・
青空に皇帝ダリアが良く映える
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北エリアのダリア園へ向かう
憩いの丘・花の広場・花見茶屋・ダリア園
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小さなダリア?
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ダリア園
赤の大輪のダリアだけが未だ残っていた
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此処にも皇帝ダリアが
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紅葉
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中央エリアへの地下道?トンネル
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此の続きは、
       下記のセカンドブログへ投稿します。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/
此処では、
中央エリアのバラ園&下池の周辺&帰り道の紅葉を・・・ 

11月3日の記紀万葉の地をたどる-1

11月9日         11月3日の記紀万葉の地をたどる-1
           櫻井駅~山の辺の道(日本最古)と纏向遺跡ウオーク
知人と2人出参加、コース案内を見たとき、後半のコースが初体験の様・・・
此の日は、秋晴れのいハイキング日和、素晴らしい、楽しい1日となりました。
コース  桜井市観光ボランティアガイドの会 歩程約9km  参加費200円
桜井駅(受付・スタート)~初瀬川・海石榴市(つばいち)・仏教伝来の地・碑~
金谷の石仏~平等寺~大神神社(おおみわ神社)~柿山展望台~玄賓庵
(げんぴあん)~檜原神社~公園(昼食場所)~井出池~茅原大墓古墳~
ホケノ山古墳~箸墓古墳(はしはか古墳)~纏向遺跡・大型建物調査地~
纏向駅・・・櫻井市観光ボランティアガイドの会の皆さん、有難う御座いました。
志都美駅
葛城山~二上山、いつも利用する格安カットハウス
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初瀬川・海石榴市(つばいち)・仏教伝来の地・碑
海石榴市(つばいち)
日本古代の市の一つ。《万葉集》に〈海石榴市の八十衢(やそのちまた)〉とあり、
《日本書紀》武烈即位前紀に〈海柘榴市巷(ちまた)〉、同推古16年(608)条に
難波より大和川を遡上してきた隋使裴世清(はいせいせい)一行を〈海石榴市
街(ちまた)〉に迎えたとあるごとく、水陸交通の要衝に立地した。比定地としては、
横大路と山辺の道の交点付近の桜井市金屋の集落付近。
仏教伝来の地・碑
桜井市金屋の河川敷のあたりは、昔、大陸からの船が大阪(難波津)から大和川
をさかのぼって到着する船着場があった場所で、諸国や外国から多くの遣いや物
資が上陸したと伝えられています。
欽明天皇の時代に、百済(いまの韓国西部)からの使節も川をさかのぼり、この地
に上陸し、仏教を伝えたと言われています。現在、その地には金屋河川敷公園が
整備され、「佛教伝来之地」の碑が建てられています。
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仏教
もともと日本人は八万神(やおよろずのかみ)を信仰していましたが、仏教の教え
が優れた文化や書物と一緒に伝えられると、外国から来た神として、その信仰は
まず貴族など上流階級の人々の間に広まっていきました。
『日本書紀』によると、欽明天皇は、「いままでにこのような教えは聞いたことがない
。」とお喜びになり、大臣たちに仏教を受け入れるかどうかを尋ねられました。この
とき大臣のひとりの蘇我稲目は「仏教は優れた大陸の文化であり、西の国では皆、
仏を礼拝しています。日本(ヤマト)も受け入れるべきです。」と答えました。一方、
物部尾輿、中臣鎌子は、「新たに外国の神である仏を拝むことになると、日本の神
の怒りを招くでしょう。」と反対しました。そこで天皇は、仏像を蘇我稲目に授けて、
ためしに礼拝することを許しましたが、仏教をめぐって蘇我氏と物部氏は対立する
ことになります。この争いが、当時の政界を二分する主導権争い、権力争いとなり、
桜井のシキ、イワレ地方の宮都やアスカを舞台にくりひろげられました。
この両者の争いは、587年に蘇我馬子らによって物部守屋が殺され、物部氏が
滅ぼされて決着がつきます。蘇我氏が主導権を握ったことで、こののち仏教は、
日本全国に広まっていきました。
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金谷の石仏
お堂の中に石仏(重文)二体がある。高さ2.2m板石に立像が浮き彫りにし
てある。釈迦如来(右)と弥勒菩薩(左)の像。平安時代後期から鎌倉時代の
作と伝承。かって発掘調査された際、縄文・弥生時代の土器・石器に混じって、
製鉄に関するものが出土したことから、金屋の地名もそこから来ていると推測
される。一体は石棺の蓋に彫られたものと説明にある。その石棺の身は床下
に横たわる。もとは三輪山中腹に安置されていたが、明治初年の神仏分離に
よりこのあたりに移された。重要文化財。
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平等寺
平等寺は、その開基を聖徳太子と伝え、永遠の平和を祈願する霊場として創建
されました。鎌倉時代の初期、中興の祖、慶円上人(三輪上人1140~1223)
を迎えるに及び、東西500m、南北330mの境内に、本堂、護摩堂、御影堂、
一切経堂、開山堂、赤門、鐘楼堂のほか、12坊舎の大伽藍を有し三輪社奥の
院として、由緒ある名刹でありました。
平等寺は三輪別所とも呼ばれ、高徳の上人を中心に、仏法の奥義をきわめんと
する行学一如の根本道場として栄えました。東大寺の宗性は嘉禎元年8月20日
に平等寺において法華、唯識、般若三観抄を写し、幾度も当山を訪れたことや、
建長2年(1250年)正月、西大寺の叡尊も三輪別所一乗上人の禅室に参詣した
史実も明らかで、鎌倉時代の平等寺には、仏法、学問の奥義を求めて多くの人々
が参詣しました。
室町、江戸時代には醍醐寺三宝院、南部興福寺とも深く関係し、80石の朱印地を
持ち修験道の霊地でもありました。
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大神神社(おおみわ神社)
神武東征以前より纏向一帯に勢力を持った先住豪族である磯城彦が崇敬し、
代々族長によって磐座祭祀が営まれた日本最古の神社の一つで、皇室の
尊厳も篤く外戚を結んだことから神聖な信仰の場であったと考えられる。
旧来は大神大物主神社と呼ばれた。
三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、江戸時代に地元
三輪薬師堂の松田氏を棟梁として造営された拝殿から三輪山自体を神体と
して仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。三輪山祭祀は、三輪山
の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた地域(水垣郷)でも
三輪山を望拝して行われた。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに
組み合わせた特異な形式のものである。三つ鳥居から辺津磐座までが禁足
地で、4~5世紀の布留式土器や須恵器・子持勾玉・臼玉が出土した。三輪山
から出土する須恵器の大半は大阪府堺市の泉北丘陵にある泉北古窯址群で
焼かれたことが判明した。
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柿山展望台
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玄賓庵(げんぴあん)へ向かう
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玄賓庵(げんぴあん)
9世紀、玄賓僧都がここに草庵を結んで世を忍んだといわれ、謡曲「三輪」の
題材となっている。木造不動明王坐像(重文)と大日如来の二像が、残って
いる。その他、「三輪流神道」という中世の神道教学の一派の書物が多く残さ
れている。これは、伊勢神宮と大神神社を表裏一体とみ、ともに大日如来の
金剛界と胎臓界(たいぞうかい)という両界の神道的なあらわれだとする説で
あって、真言宗の教学を借りて、神道に哲学的裏付けを行った。
 玄賓は桓武天皇の病回復を祈願し、その功績により大僧都に任ぜられたが、
辞退して伯耆の国に隠遁してしまった。しかし、その後平城上皇の病回復の
祈願のため、再び都に呼ばれ、嵯峨天皇や、清和天皇など歴代天皇の厚遇
をうけた。 弘仁9年(818)86歳で没したとき、清和天皇はその死を悼み、
七言律詩をおくり冥福を祈っている。
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此の続きは、
      下記ンぽセカンドブログへ投稿します。
     http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2015-11-09-1
続きは、
檜原神社~公園(昼食場所)~井出池~茅原大墓古墳~ホケノ山
古墳~箸墓古墳(はしはか古墳)~纏向遺跡・大型建物調査地~纏向駅
檜原神社
崇神天皇の時、宮中で祀っていた天照大神(あまてらすおおみかみ)を笠縫
邑(かさぬいむら)に遷して豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に奉斎さ
せた磯城神籬(しきひもろぎ)。
垂仁天皇の時、天照大神をこの地から伊勢神宮へ遷した後も、引き続き天照
大神を祀ったため「元伊勢」と呼ばれている。
天照大神を奉斎した豊鍬入姫命を祀った豊鍬入姫宮が大神神社の末社とし
て同じ境内に建っている。
檜原神社には本殿はなく、拝殿もない。だが、大神神社では見えなかった
三輪特有の「三輪鳥居」とその奥にある神籬(ひもろぎ。神霊が降臨する時の
臨時の宿り場所。
公園(昼食場所)
井出池
井寺池は桧原神社の西方、約10分~15分のところにあり奈良盆地が一望
できるビューポイントとして知られています。池は二つに分かれ井寺上池・同
下池が正式な呼称です。おすすめは池の真ん中の道路からみる眺望です。
西には万葉集でもおなじみの二上山、大和三山、東には三輪山が一望でき、
池の周辺には川端康成など著名人揮毫の万葉歌碑がその良さをさらに引き
立てています。
茅原大墓古墳(ちはらおおばか古墳)
5世紀前半代、古墳時代中期の帆立貝式の前方後円墳である。全長は約85
メートル。古墳西側の周濠からは、家形埴輪や円筒埴輪が出土した。墳丘は
葺石で覆われ円筒埴輪が樹立していたと考えられる。纒向川以南の古墳群の
中核となる前方後円墳であり、地元では倭佐保姫の御陵として永く保存されて
きた。
ホケノ山古墳
ホケノ山古墳(ほけのやまこふん)は、奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山に所
在する古墳時代前期初頭の纒向型といわれるホタテ貝型の前方後円墳である。
2006年1月26日、纒向古墳群の一つとして国の史跡に指定された。現在、復元
整備され一般に公開されている。
被葬者:不明(大神神社は豊鍬入姫命の墓としている)。
築造時期:副葬品や埋葬施設などから箸墓古墳に代表される定型化した出現
期大型前方後円墳よりあまり遡らない時期の前方後円形墳墓と考えられ、築造
は中国史書に記された邪馬台国の時代にちょうど重なると推測されている。前
方後円形をした弥生墳丘墓であるとする見方と、古墳時代出現期のものである
とする見方が出されている。
箸墓古墳(はしはか古墳)
箸墓古墳(はしはかこふん、箸中山古墳)は、奈良県桜井市箸中にある前方後
円墳。宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の
倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている。また周濠の一部は「箸中大池」として
ため池百選の1つに選定されている。
纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中
でも最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳。この古墳を、
『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする(一部の邪馬台国畿
内説)説もある。以前は築造年代が3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼が死
亡したされる3世紀前半との時期にずれがあるため、その可能性は少ないとい
われてきた。しかし1980年代以降に考古学的年代決定論が精度を増し、箸墓
古墳の築造年代も卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀の中頃
から後半とする説が主流となった。
纏向遺跡・大型建物調査地
飛鳥時代以降の宮殿や寺院の建設には、中国の方位思想の影響が見られる。
建物跡の発掘調査から、南北方向を主軸として建てられていたことが判明して
いる。しかし、纒向遺跡の4棟の建物跡はいずれも中軸線を東西の同一直線上
におき、同じ方向を向いて建てられている。
発掘された4棟の建物の復元模型(製作は黒田龍二・神戸大大学院准教授)
つまり、これらの建物はまだ中国の方位思想の影響を受けていない。このこと
が最大の特徴になっているようだ。そこに特別な意味があると指摘されるのは、
歴史地理学の千田稔氏だ。東西方向は日が出て沈む太陽軸であり、その方向
性が重視されているのは日本独特の古い考え方に基づいているようだ。

11月1日の近鉄ハイキングー1

11月8日       11月1日の近鉄ハイキングー1
          晩秋の大坂散策と祭り「四天王寺ワッソ」
此の近鉄ハイキングには、知人と2人出参加、初めてのワッソ!
近鉄のハイキングクラブ「あみま倶楽部」会員に昨年11月30日に
加入して此処までの約11ヶ月間に、近鉄ハイキングを50回踏破、
65回踏破のゴールドは叶わなかったが、45回踏破のシルバー賞
申請に該当、先般申請して継続、シルバー会員証を入手した・・・・・
11月7日から10日の白内障手術に向けて右目への朝昼夜の1日
3回の術前点眼×3日(細菌による感染症を治療する点眼薬)を開始、
11月中に左目も手術予定の為、11月のハイキング予定は次回の
11月3日の記紀万葉ウオーク、山の辺の道(日本最古)と纏向遺跡で
終了・・・
コース    歩程約 9km
上本町駅(受付・スタート)~心眼寺~玉造稲荷神社~聖マリア大聖堂
~大阪城公園~難波宮跡(四天王寺ワッソ会場)~高津宮~上本町駅
実査に歩いたコースは、高津宮をパスして、21000歩約14km歩いた
上本町駅~円珠庵(鎌八幡)~心眼寺~どんどろ大師~三光神社~玉造
稲荷神社~聖マリア大聖堂~難波宮跡~大阪城公園(昼食)~Qsモール
~知人を帰して~難波宮跡(四天王寺ワッソ)鑑賞?良かった!大満足!
~大阪城公園~難波宮跡(四天王寺ワッソ会場)~地下鉄谷町四丁目駅
円珠庵(鎌八幡)
かつてこの場所には、古くから人々の信仰を集めていた大きな榎の霊木があり
ました。約400年前の大阪冬の陣の折、この地に陣所を構えた真田幸村がその
話を聞き、慣習にならってその木に「鎌八幡菩薩」と称して鎌を打ち込み祈祷した
ところ、大いに戦績を上げることができたと言われて、これが鎌八幡の由来。
その後江戸時代初期、国文学者として著名な契沖が境内に居を構え、円珠庵と
称して研究と同時に信仰してきました。
この頃からこの寺は必勝祈願の祈祷寺として信仰されています。
鎌八幡が悪縁切りとして有名になったのは昭和に入ってから。 大空襲で御神木
を始め境内の多くが失われたものの、見事な再生を遂げました。
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興徳寺
隆法山 興徳寺 (りゅうほうざん こうとくじ)高野山真言宗
当山は聖徳太子在世中に現在の法円坂付近に「薬師院」として創建と、伝えら
れますが、第二次世界大戦の大阪大空襲にて現在の山門以外はすべて焼失し、
資料も喪失しましたので詳細は不明です。 天平年間(729年~749年)に行基に
よって薬師如来を発掘され、別に木彫の本尊を刻し、これを本尊として一宇を
建立、薬師院としました。畿内49院の一つと言われています。
大坂夏の陣ののち、松平忠明が現在の大阪市内に分散していた寺院を当時の
小橋村、高津村、天満村の3か所に集めたときに小橋の現在地に「興徳寺」と
寺号を改めて再建しました。
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心眼寺
元和8年(1622)4月、白牟和尚が戦国武将真田幸村父子の冥福を祈り堂宇を
建立したのを嚆矢(こうし)とする。境内地は幸村が戦捷(せんしょう)をおさめた
大坂冬の陣の大阪城出丸城郭跡で、幸村鎧掛けの松の木もあったが、昭和20
年(1945)の大阪大空襲により堂宇ともども焼失した。創建から寺の定紋は真田
家家紋の六文銭とされ、山号は真田山と称する。復興をみた現在の山門扉にも、
定紋の浮彫が鮮やかである。
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どんどろ大師
善福寺(ぜんぷくじ)は、高野山真言宗の寺院。「どんどろ大師」「どんどろ」と通称
する。山号は如意山。院号は甘露院。「どんどろ大師」の名で知られる。
大坂冬・夏の陣の戦跡
鏡如庵大師堂(きょうにょあんだいしどう)は、宝暦2年(1752年)3月に高野山岩本
院 法資法道が大坂夏の陣(元和元年・1615年)の戦死者の霊を弔うために創建さ
れたと言う。鏡如庵とも称する。鏡如庵大師堂のあった付近は、大坂冬の陣(慶長
19年・1614年)では、真田幸村が真田丸を築き、激戦があった。大坂冬・夏の陣と
もに激戦地であった。
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三光神社
当神社は大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の
松原の遺称)と称したが、全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では
三光神社となった。創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い
伝えられ創建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして
今に至ると言う。当神社は古来より日本全国で唯一の中風除の神として広く知られ
毎年恒例の神事として六月一日を祈願の初日と定め七日間往古より今に至るまで
変わることなくとり行われ全国各地からの参拝者が絶えない。
境内地の名所
片柱の鳥居
遠く生駒・金剛の連山を見晴るかす景勝のこの地に永くその由緒ある三光神社の
御門として誇っていた大鳥居もすぐる第二次世界大戦の戦火を被りその片柱のみを
とどめた。戦後この鳥居の復興に際して、あの悲惨な戦争を二度と繰り返すことの
ないよう悠久の平和と国家の安泰を祈願して、この片柱を後世に残すこととした。
この片柱には、大相撲の次の名が刻まれている。陣幕久五郎・竹縄竜八・美保関
長八郎・葛城徳蔵・朝日山太郎右衛門・押尾川・藤島和一郎・不知火・岩友幸助
真田の抜け穴
大坂城の出城のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城
(えんげつじょう)と名付ける塁を定め本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと
言い伝えられ今なおその跡を三光宮鎮座の階下にあり。
真田幸村の像
真田の抜け穴脇に真田幸村公の陣中指揮姿の銅像を建立(昭和62年5月5日)、
その台座に信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺より取り出した石(名付けて
真田石)が置かれている。
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真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。
真田昌幸の次男。「真田幸村(さなだ ゆきむら)」の名で広く知られている。
江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍し、特に大坂夏の陣では、
3500の兵を持って徳川家康の本陣まで攻め込んだ。
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玉造稲荷神社
当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇
3年に改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣
を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたと
ころ、のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったといわれています。
その後、天正4年の兵乱により本・末社、旧記等ことごとく焼失しましたが、慶長8年に
豊臣秀頼公により社殿、高殿(舞台)が再建されました。大坂の陣で、当地は再び戦地
となり被害をうけましたが、元和5年に徳川幕府の大坂城代 内藤紀伊守を始め、氏子
・崇敬者の寄進を以って再建。別称は豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代を通じ
「大坂城の鎮守神」として崇敬されたことが、史料に残っています。
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聖マリア大聖堂
1894年(明治27年)。創立時に建てられた「聖アグネス聖堂」は1945年(昭和20年
)の大阪大空襲により滅失。現在の大聖堂は1963年(昭和38年)に落成した。
敷地が細川大名家の屋敷跡という由縁もあって、大聖堂内内陣左側には細川ガラ
シャを描いた画が掲げられている。その「最後の日のガラシア夫人」および聖堂正面
の壁画「栄光の聖母マリア」、右側の「高山右近」は堂本印象の筆、
近代建築家・長谷部鋭吉の遺作ともいえる建築作品である。
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越中井
豊臣時代の大名、細川越中守忠興(ほそかわえっちゅうのかみただおき)の屋敷が
ありました。越中井は細川家の台所跡に残る井戸だといわれています。
忠興の妻ガラシャは石田三成の軍勢に囲まれ、玉造のこの屋敷で最期を迎えました。
井戸は悲劇のシンボルになっています。
細川 ガラシャ(伽羅奢、迦羅奢)/ 明智 珠(明智 玉)(ほそかわ ガラシャ / あけち たま、
永禄6年(1563年) - 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は、戦国時代から安土桃山
時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱は「たま」(珠、玉)または
玉子(たまこ)。キリスト教信徒(キリシタン)として有名。
明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも広く
このように呼ばれる場合が多い。
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難波宮跡
難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)の
上町台地の先端付近にあった古代宮殿。
前期難波宮
乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は652
年に完成した。天皇制の始まり、元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治
はこの宮でおこなわれた。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であ
った。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されて
おり、ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であった。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没
した後、655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。
683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、
686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
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此の続きは、下記のセカンドブログへ投稿します。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2015-11-08  
四天王寺ワッソ会場
大阪城公園(昼食)
キューズモール
難波宮跡(四天王寺ワッソ会場)
四天王寺ワッソ・・・・・ワッソは現代韓国語では「来た!」の意味?
古代のなにわを舞台に行われた、朝鮮半島や中国などの東アジア古代国家と
日本の交流の様子を「再現」した祭り。当時の東アジアからの使節に扮した参
加者が、当時のものと推定される音楽と「ワッソ! ワッソ!」の掛け声とともに、
舟だんじりを曳き、巡行する。これを、聖徳太子など古代日本人に扮した参加
者が当時のものと推定される作法で出迎える。関西をはじめ韓国の著名人も
参加している。現在は関西財界を中心にNPO法人を創設し、日韓だけではなく、
東アジアの古代交流を再現する「大阪の祭り」として毎年11月に開催されてる。
祭りの際には日本国総理大臣・韓国大統領の双方から祝辞が届く世界唯一の
イベントとなっている。中学校の日韓歴史共通教材にも取り上げられる など広く
認知されるようになっている。

10月27日の馬見丘陵公園ー2・北エリア(ダリア園)

11月7日       10月27日の馬見丘陵公園ー2・北エリア(だりあ園)
          10月5日以来の馬見丘陵公園のダリア園を見たくて
10月6日~24日の奄美大島・加計呂麻島の故郷への度を終え、戻って
秋の深まりを実感する中、馬見丘陵公園はど変わっているのか?と・・・・
今朝(11月7日)から10日の白内障手術に向けて右目への朝昼夜の1日
3回の術前点眼×3日(細菌による感染症を治療する点眼薬)をスタート・・・
中央エリアから
 草丈の低いコスモスが満開
下池周辺
ムクロジの大木
 ムクロジの実も葉も綺麗・・・
バラ園,、コスコスも?
北エリア(ダリア園)への地下道
此処までは、
      下記のセカンドブログへ投稿済みです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2015-11-07-2
此処では、
其の続き、北エリアのダリア園の写真を掲載します。
北エリア(ダリア園)への地下道を通って
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北エリアのダリア園
ダリアはまだまだ満開の状態・・・
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此の続きは、
       下記のセカンドブログへ投稿しました。
    http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2015-11-07-3

10月26日の朝の散歩-1

11月6日        10月26日の朝の散歩ー1
            近所の散歩コースの紅葉です・・・          
紅葉の無い?常夏の島?奄美から約3週間ぶりに戻って来て
近所の散歩コースを、紅葉を愛でながら1時間半程歩いて見ました。
11月10日に白内障の手術が迫って来て、PCの文字も20㎝くらいに
顔を近づけないと文字が判別できないくらい見づらくなる日々、散歩や
ハイキングの写真もブログ投稿出来ずに貯まる一方なので・・・・
セイタカアワダチソウが綺麗
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高速道路の裏道へ出て
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川沿いの遊歩道を越えて
琉球朝顔はまだまだ元気に咲いている
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銀杏、ハナミズキ、桜、柿の紅葉が綺麗
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神社下の池
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此の続きは、下記のセカンドブログへ投稿します。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2015-11-06-1