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1月29日の近鉄ハイキング・大阪難波駅~1

1月31日           1月29日の近鉄ハイキング・大阪難波駅~1
               レトロビル探訪と都心のオアシス中之島散策
知人と2人で参加、受付の大坂難波駅で知人2人と出会い、4人で歩く事に、
コース  近鉄 駅フリーハイキング  歩程約9km  雨天決行
大阪難波駅東改札(受付)~松竹座~船場界隈~北浜界隈(レトロビル群)~
大阪証券取引所ビル~中之島公園~大阪市中央公会堂~中之島遊歩道~
中之島漁港~阪神・九条駅(ゴール) 雨にも負けず、良く歩きました・・・
・阪神・九条駅 尼崎行 ~西九条駅~環状線~天王寺駅中央口
29日午後3時から新年会開催&からおけ・・・

大阪難波駅東改札(受付)~千日前通りに出て御堂筋~道頓堀南詰?
~松竹座
難波HIPS
開業当初は、屋外に「FREEFALL『ヤバフォ』」という絶叫マシーンが併設され
ており、地上74mの高さから最大秒速22メートルで垂直落下する6人乗りアト
ラクションだった。御堂筋沿いから大阪・難波の街を見下ろせる事ができた。
現在は廃止に・・・その名残?? とにかく人目を引く建物・・・
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松竹座
演劇・映画製作・配給・興業を手掛ける松竹株式会社が経営する劇場、映画館。
テラコッタを使用したルネッサンス様式の正面大玄関が特徴で、イタリアミラノの
スカラ座をモデルに1923年に竣工し、日本初の鉄骨・鉄筋コンクリート造りの洋
式劇場として開場しました。
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道頓堀
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戎橋~戎橋商店街
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御堂筋周防町~御堂筋を大丸本館
大丸本館
大丸心斎橋店は建築家 ヴォーリズによって建てられた。
建築家 ヴォーリズの妻一柳満喜子(ひとつやなぎ)は広岡恵三(広岡浅子養子)
の妹、広岡恵三邸の改築を建築家 ヴォーリズに依頼、其の通訳をしたきっかけ
で結婚迄進んだ。一柳恵三は広岡浅子の子・亀子と結婚して広岡恵三となる。
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大阪農林会館ビル
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船場界隈
船場は大阪市中央区の地域名で、大阪市の中心業務地区にあたり、大坂の町
人文化の中心となった所で、船場言葉は江戸時代から戦前にかけて模範的な
大阪弁とみなされました。本町通りの北を北船場、南を南船場と呼び分ける事
も有ります。
大阪綿業会館
東洋紡績専務取締役・岡常夫の遺族から贈られた100万円と関係業界からの
寄付50万円、合わせて150万円(現在の75億円に相当)を基に、1931年12月
日本綿業倶楽部の施設として建設された。近代の日本を代表する施設として
国際会議の場として数多く利用され、1932年3月には リットン卿を団長とする
国際連盟日華紛争調査委員会メンバー(リットン調査団)が来館するなど、戦
前の日本外交の舞台にもなっている。1945年3月の大阪大空襲で船場オフィス
街は壊滅的な被害を受けたが、この建物は各部屋の窓にワイヤー入り耐火
ガラスを使用していたために、窓ガラス1枚とカーテン1枚に被害を受けただけ
で殆ど無傷であった。
しかるに同年7月5日、大阪師団管区司令部はこれを徴用となし、倶楽部は休
館のやむなきにいたって寺田ビルを事務所とした。日本敗戦後の同年10月11
日、占領軍はこれを全館接収し、1952年(昭和27年)5月23日返還するまで使
用した。返還により同年10月2日再び倶楽部となる。
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船場ビル
船場ビルディングは三休橋筋拡張を機に大正14年10月(1925年)に竣工致し
ました。 当時、オフィスと住宅をあわせもつ大変にユニークで革新的なビルと
して注目を集め、同時に船場という所柄、 装飾性のみでなく、トラックや荷馬
車などを引き込むのに便利な機能性を重んじた設計が大きな特徴となってい
ます。 これはすでに今日でいうところの住環境を整え美化するという考えに
至っていた欧米の手法をいち早く採り入れた桃谷政次郎翁を はじめとする
経営首脳の先見性に依るもので、さらに船場という土地柄を考慮に入れ、 船
場ビルディング独自のスタイルを つくりあげたのです。以来、船場ビルディング
は数々の自然災害や戦争をくぐり抜け、 大正時代の雰囲気を漂わせながら
ほぼ竣工時の姿のまま今日に至っています。大阪・船場の淡路町という地域
のなかの建造物であり、この地域の環境を形成するひとつの要素です。
地下1層、地上4階、塔屋1層、耐震耐火鉄筋コンクリート、レンガ工法、西洋建
築、1階にパティオ風中庭を有し、床レンガ敷き4階まで吹き抜け構造。
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北浜界隈(レトロビル群)
船場の北端に位置し、土佐堀川に面します。東西に長く、1丁目~4丁目迄有り
ます。東側の1丁目と2丁目は大阪証券取引所を中心とした金融街となっていま
す。3丁目~4丁目は淀屋橋駅に近く、北浜と呼ばれる事はあまりありません。
4丁目は住友グループのオフイスが多く立地して「住友村」とも称されています。
生駒ビル
所在地: 大阪市中央区平野町2-2-12
構 造: 鉄筋コンクリート造 地上5階(一部6階)地下1階
建造年: 1930年(昭和5年)
設 計: 宗建築事務所 監修:宗 兵蔵。原案:大倉三郎 実施設計:脇永一雄 
施 工: 大林組
特 徴: スクラッチタイル(手掻きの縦縞模様のタイル)とテラコッタ(素焼きの
陶片)を活用したアールデコ調のビルです。屋上の時計塔と出窓(3~5階)丸窓
(2階)が、巨大な振り子時計のデザインとなっています。
登録有形文化財指定(登録番号27-0019, 平成9年6月12日)
生駒時計店は、明治3年(1870)高麗橋5丁目(現在の御堂筋淀屋橋)に「大阪屋
権七・大権堂」の商号にて創業しました。当時、御堂筋は幅3間位(約5m)の道で
した。昭和の初め、御堂筋の拡幅と地下鉄工事のために立ち退かねばならぬこと
となり、当時、堺筋出張所のあった現在地に当ビルを新築、同年9月に竣工・移転
しました。地下鉄御堂筋線は、昭和8年に梅田-難波間が開通しています。
設計は、宗 兵蔵氏(堺筋難波橋・柴島浄水場などの設計者)、施工は大林組で、
地上5階(塔屋6階)地下1階の鉄筋コンクリート造りで、総工費15万円であったと
の記録があります。
昭和20年3月、大阪大空襲により、周辺は全くの焼け野原となり、西側も南側も隣
家まで焼失しましたが、当ビルは堅牢なコンクリート壁に守られ、戦災を免れました。
平成7年1月の阪神淡路大震災の時も激しく揺れ、隣のビルの窓が半分以上破損
する状況においても当ビルに被害がなかったのは、建築の際に直径6寸5分の松
丸太を493本、基礎杭として打ち込んだという工法のためかもしれません。
1983年、築後50年を超えて、夜中にテラコッタの一部が落下するという出来事が
あった為、外壁の大改修を行いました。タイルの剥離を防ぐためにエポキシ樹脂注
入接着を行い、テラコッタの一部に防水塗装を施すと共に、剥離の原因である腐食
しかけていた鉄製窓枠をアルミサッシに取り替えるなどの改修を行っています。
1991年、外装が美しくなったのに比して、傷みの目立っていた1・2階店舗を改修し
ました。その際、同時に外観の原形を極力保ちながらも、入り口やショーウィンドウ
のシャッターを電動式に入れ替え、入り口の鉄扉も従来の雰囲気を活かしたエッチ
ングの強化ガラスに変更されました。
2002年、このビルを今後も維持し、有効活用していくために、耐震性の補強と老朽
化していた設備の一新を行いました。水回りの配管や電気関係設備を入れ替え、
新たに光ファイバーも施設しました。
屋上の時計塔を堺筋から見上げると、時計の下、5階から3階にかけて縦に長く出
窓があり、その下の2階部分に丸窓があります。これは時計の振り子をデザインし
たものですが、近年は街路樹の落葉した秋冬に、東北方向から眺めないと見えに
くくなっています。時計の機械は、建築時(1930)にロンドンから取り寄せたもので、
鐘を打ち鳴らしていましたが、昭和50年代に、セイコーの交流式時計に入れ替え
ました。オリジナルの機械は現在も保管されています。
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道修町
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此の続きは、1月29日の近鉄ハイキング・大阪難波駅~2 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-02-01  
神農さん
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大阪証券取引所ビル
大阪証券取引所はかつて存在した証券取引所であり、現在は大阪取引所に
組織変更しています。2013年現物市場を東京取引所へ統合し、デリバティブ
(金融派生商品)特化型の取引所となりました。また、玄関前には、大阪経済を
立て直す為、商工業の組織化や信用秩序の構築を図りました、大阪商工業の
恩人、五代友厚の銅像が建てられています。
五代友厚銅像
五代 友厚(ごだい ともあつ)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本
の武士(薩摩藩士)、実業家。慶応2年(1866年)、御小納戸奉公格に昇進し薩摩
藩の商事を一手に握る会計係に就任。長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドック
を開設するなど実業家の手腕を発揮し始めた。ここでいうドックというのは俗にそろ
ばんドックと呼ばれるもので現存している。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発し
五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍した。
その結果、明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となる。外国官
権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件、イギリス公使パークス襲
撃事件などの外交処理にあたった。また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。初代
大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開ける。明治2年(1869年)の退官後、本木
昌造の協力により英和辞書を刊行、また硬貨の信用を高めるために金銀分析所を
設立。紡績業・鉱山業(奈良県天和銅山・福島県半田銀山など)・製塩業・製藍業
(朝陽館)などの発展に尽力する。薩長藩閥政府との結びつきが強く、明治8年(18
75年)に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った
「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件(参照:明治14
年の政変)にも関わり、政商ともいわれた。他にも、大阪株式取引所(現・大阪証券
取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)、大阪商業講習所(現・大阪市立
大学)、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道
(現・南海電気鉄道)などを設立した。
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中之島公園
大阪市の都心部、中之島の東部に位置する。周囲一帯はオフィス街で、都会の憩い
の場となっている。園内にはバラの花壇が設けられ、春や秋にはバラの花が咲く。
また、南北方向に水路が流れ、ばらぞの橋が架かっている。天神橋より突き出た東
端部は、大川を堂島川と土佐堀川に分けて尖っていることから「剣先」と呼ばれ、
先端には安藤忠雄の構想による噴水が設置されている。
大阪市中央公会堂
公会堂の屋根の上の像は何?29日に気づきました、人形浄瑠璃??・・・
公会堂の屋根の上には、ローマ神話に登場する商売の神と科学・工芸の神様の
銅像があったが、戦争で供出のため一度なくなって、改修工事で今は復活して
いる。中之島中央公会堂、その屋根にローマ神話の像が2体載っている事を初
めて知りました。右側がミネルヴァという学問や芸術の女神、左はメルキュール
という商業の神。戦争中に金属類は供出させられ、これらも持ち去られたとのこと、
元通りに修復された復元工事は、1999年に始まり2002年9月に完成しています。
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府立中之島図書館
大阪市役所と大阪市中央公会堂に挟まれる形で建っている。
1904年にネオ・バロック様式で建てられた建物は、1922年に左右の両翼を建て
増しし、現在の形となった。本館は大阪大空襲の戦災からも免れ、幾度かの書庫
の増築を経て、今も残っている。1974年、本館と左右の両翼が共に国の重要文化
財に指定された。

大阪市役所

日本銀行大阪支店
  設計 辰野金吾/葛西万司/長野宇平治
  竣工 1903(明治36年)
  改修 1982(昭和57年)
  構造・規模 石造煉瓦造2階建
明治建築界の大御所、辰野金吾が後輩の葛西万司・長野宇平治と共に設計した
レンガと石造りの本格的洋風建築です。鉄骨I型梁、波型鉄板製の防火床、鉄骨
のドーム架構など、当時の最先端の技術を駆使して建てられました。ベルギーの
中央銀行をモデルにしながら、細部はイギリスのネオ・ルネッサンス様式に倣った
といわれるデザイン。

中之島遊歩道

中之島漁港
中央市場の近くに、中之島漁港みなと食堂
各地の漁港で獲れたての魚を活きたまま街に運ぶ。まるで港にいるような活気
や人のつながりが生まれる。プロの料理人をうならせる鮮度、品質、美味を手頃
な価格で提供する新しい仕組みの鮮魚取引所のハズ・・・
あいにく「みなと食堂」は改修工事の為、閉鎖中で利用できませんでした。
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阪神・九条駅(ゴール)

1月26日の歩こう会・大石神社他ー1

1月28日       1月26日の歩こう会・大石神社他ー1
           ・大石神社訪問し参拝とお祓い・・・
1月度の歩こう会の例会は毎年、神社参拝とお祓いを受けるのが習わし・・・
今年は、諸願成就の後利益が有ると地元の人々に親しまれている京都山科
大石神社へ、今年一年の会員各位の無病息災、健康長寿と共に赤穂義士と
同様、歩こう会も、強い絆と団結力で益々の発展を祈願してまいりました・・・
26日早朝
何時もの日の出スポットで
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志都美駅
遠くに葛城山~二上山&西名阪自動車道の香芝SA付近
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奈良駅での乗り換え時間の間に一度出て
旧奈良駅駅舎(今は奈良市の総合観光案内所)をパチリ
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椥辻駅、山科区役所前をお借りして集合、96人が参加・・・
途中、坂上田村麻呂の墓(将軍塚)に立ち寄って大石神社へ
坂上田村麻呂の墓(将軍塚)
この墓には、平安前期の武將坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を
葬っている。田村麻呂は、奈良時代の武將坂上苅田麻呂の子。延暦20年
(801)征夷大將軍となり、遠く陸奥(むつ)に出陣して蝦夷(えぞ)を討ち、
胆沢城(いざわじょう)などを築いた。京都にあっても弘仁元年(810)の薬
子(くすこ)の乱などに活躍し、官職は右近衛大將にいたった。田村麻呂は
赤ら顔のひげづらで怪力の持主、眞の勇者であったといわれ、後世の武士
からも尊崇された。「征夷大將軍」は武門最高の栄誉となることは周知のと
ころである。弘仁2年5月23日死去、54才。この地で葬儀が営まれ、嵯峨
天皇の勅によって甲冑・剣や弓矢を具した姿で棺におさめられ、平安京に
むかって立ったまま葬られた。死してなお平安京の守護神とされたわけで、
のち国家に危険ある時は塚の中で大きな音がしたといわれる。これを「將
軍塚鳴動」という。(後世東山の將軍塚が有名となるが、本来の將軍塚は
この墓である)田村麻呂はまた佛教の信仰も深く、清水寺を創建したこと
でも有名である。なおこの墓地は明治28年平安遷都1100年祭にさいし
整備されたものである。
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大石神社へ向かう
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大石神社
1935年(昭和10)浪曲師吉田奈良丸の提唱に府市が賛同、赤穂義士大
石内蔵助良雄を祀るため、大石の山科隠棲所近くに建立。本殿、神饌所、
社務所のほか天野屋利兵衛を祀る義人社もある。この神社は、昭和10年
赤穂義士大石良雄の義挙を顕彰するため、大石を祭神として創建された。
大石の山科旧居は神社の付近にあった。毎年4月14日の春季大祭と12
月14日の討入りの日に義挙記念祭が行われる。大石は、赤穂城の明け
渡しの後、元禄14年(1701)6月下旬に、以前からこの付近に田地・屋敷
を持っていた親類の進藤源四郎の世話でこの地に移った。閑静で人目に
つきにくく、かつ交通に便利で事件の善後策を講じるのに何かと便利で
あったからであろう。この地でしばしば同志の会合を開いた。はじめ、はや
る同志を押さえ、亡主浅野長矩(ながのり)の弟大学長広を立てて主家の
再興を図った。しかし、翌、元禄15年(1702)夏、結局、再興は許されず、
吉良義央(きらよしなか)邸討入りに方針を固め、同志はひそかに江戸に
集った。大石は、同年5月、妻子を離縁し、8月にはここを引き揚げ、いっ
たん京都四条寺町に移り、10月江戸に向かった。
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神社入り口に吉田奈良丸碑
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  天野屋利兵衛を祀る義人社もある
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大石神社参拝
お祓いを受けて御神酒を頂きお守りを授かり、解散・・・

此処からは、
1月26日の歩こう会・大石神社他ー2 として
            下記のセカンドブログへ投稿します。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-01-28
岩屋寺へ向かう
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セカンドブログでは
解散後、椥辻駅迄の帰り道、有志10人?で区内の史跡散策をする事に
岩屋寺~山科神社~折上稲荷神社を巡り椥辻駅へ向かいました・・・・
岩屋寺
大石良雄山科閑居址、浅野内匠頭、大石良雄他47士の位牌、木像等拝観。
当寺は従来天台宗に属し、比叡山三千坊の一にして、山号を神遊山と号し、
曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺で、むかしは山科神社の神宮寺であったと伝
えられる。本堂に安置する本尊不動明王は智証(ちしょう)大師の作と伝え、
大石良雄(よしお)の念持仏であったという。本堂の下段境内に大石良雄の
遺髪塚及び宅址がある。赤穂城明渡しの後、彼はここにかくれてひそかに討
入りの謀をめぐらしたが、事成ってのち、邸宅、田畑等一切を岩屋寺に寄進し
た。その後、当寺は荒廃したが、嘉永年間(1848~1854)に堅譲(けんじ
ょう)尼が京都町奉行浅野長祚(ながとし)等の寄付をうけて再興した。境内に
は本堂・毘沙門堂のほか、明治34年(1901)に建立された木像堂があり、
堂内に浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)公の位牌(いはい)及
び大石良雄の遺品、他に47士の位牌木像を安置する。12月14日には義士
忌(ぎしき)が行われる。
山科神社
(やまとたけるのみこと)・稚武王(わかたけのみこと)を祀る。日本武尊(やま
とたけるのみこと)・稚武王(わかたけのみこと)を祀る。  社伝によれば、寛
平9年(897)宇多天皇の勅命により創建されたと伝え、以後、この地の豪族
宮道(みやじ)氏の祖神として、また山科一ノ宮とも呼ばれてこの地の産土神
として人々の崇敬を受けて栄えてきた。盛時には、社領を丹波、山城に持ち、
社殿の規模も大きかったが、度々の兵火のため焼失し、現在は、三間社流造
の本殿及び権殿、拝殿、神庫などが残っている。  また、元禄14、5年(1701
~02)赤穂浪士の大石良雄が山科の里に隠棲していたが、その時、当社奥の
院岩屋神社に参篭して、大願成就を祈ったといわれている。例祭は、「山科祭」
と呼ばれ、毎年10月10日に行われる。
折上稲荷神社
和銅4年(711年)、西野山(後稲荷山)の三の峯に稲荷神が降りられた同じ
時にこの折上の森にも降りられ,伏見稲荷からはその神体山、稲荷さんの
中心部を一直線上に通り真奥に当たることから[伏見稲荷の奥の宮]として
信仰され,よりいっそう強力な稲荷のご利益がいただけるといわれています。
又,昔より女性守護のお稲荷さんといわれ,祇園の舞妓を世界的に有名に
した[モルガンお雪]など働く女性の守り神として信仰されています。
建立:550年(古墳時代)頃。女性守護のお稲荷さんなので女性も一緒に
神輿を担ぎます。
中臣神社・・・残念ながら今回は訪問できませんでした
延喜3年の創祀。醍醐天皇が山科郷へ行幸したとき、倉稲魂神が現れて天皇
と誓約があり、勅命により勧請された。旧記は兵火により焼失し、事蹟は不明。
現在は山科神社の御旅所となっている。 また、中臣鎌足の殯舎跡とも伝えら
れ、鎌足塚と呼ばれる古墳群の遥拝所を神社としたものとも伝わる。

何れも、大石神社に負けない史跡探訪でした・・・
おまけ
1月24日早朝、何時もの日の出スポット

1月25日早朝、何時もの日の出スポット

1月23日の竹取公園~三吉石塚古墳ー2

1月27日        1月23日の竹取公園~三吉石塚古墳ー2

家内を職場に送って、その足で竹取公園の朝市で鍋の材料・下仁田ネギ・キク菜
と糠漬け用に蕪を各々100円で購入、ついでに朝の散歩に竹取公園を散策、反対
側の出口を行くと、新木山古墳と復元された三吉石塚古墳が有るので行ってみた・・
家内を職場に送って
何時もの日の出スポットで
竹取公園
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竹取公園
かぐや姫物語・・・
竹取公園散策
子供向けの遊具の多い公園
復元された竪穴式住居と水車小屋
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子供向けの遊具
グランドでは
ラグビーの練習、女の子も・・・
此処までは、1月23日の竹取公園~石塚三吉古墳ー1 として
         下記のセカンドブログへ投稿済みです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-01-27
此処では
竹取公園の外にある古墳を主に掲載します。   
公園を出て
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此処から宮内庁管理の新木山古墳とその近くに復元された三吉石塚古墳へ
公園を出ると綿畑が・・・
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広陵町図書館の前を新木山古墳(にきやま古墳)へ
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新木山古墳
宮内庁により「三吉陵墓参考地」(被葬候補者:第30代敏達天皇皇子押坂彦人大兄
皇子舒明天皇御父)として陵墓参考地に治定されている。墳丘内に埴輪列が存在す
ることが確かめられている。またこの古墳の出土遺物として宮内庁に勾玉、管玉、棗
玉などが所蔵されている。採集された方形透かしと有黒斑の円筒埴輪から、5世紀
前半の築造と考えられる。馬見古墳群中央群では最後の大型前方後円墳である。
後円部西側には、主軸を同じくする帆立貝形古墳の三吉石塚古墳(県指定史跡)が、
外提に接して造られている。
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三吉石塚古墳
三吉石塚古墳は新木山古墳の西に位置する陪塚である。以前は円墳だと見なされ
ていた。ところが、墓地建設に伴う事前の発掘調査を広陵町教育委員会が実施して、
後円部にごく短い前方部がつく帆立貝式とわかった。1987年のことである。そこで、
出来るだけ忠実に築造当初の姿を復元した。復元に際しては、古墳の遺構を盛土で
保存した上に、かさあげ方式で築造当初の姿に復元する工法を採用したとのことだ。
1992年3月に、復元古墳は県史跡に指定されている。
この古墳は新木山(にきやま)古墳の陪塚として作られている。出土した埴輪の形式
から築造時期は5世紀後半とされている。新木山古墳の築造時期は5世紀前半と推
定されていて、時期的に開きがある。
陪塚は、主人が亡くなったとき殉死した家来などを埋葬するために築かれるものとさ
れてきた。したがって、築造時期がほぼ同時代であるのが一般的である。新木山古
墳と三吉石塚古墳とでは、半世紀の開きがある。この時間差が謎とされている。ある
いは陪塚ではなく、たまたま隣接して造られた墓だったかもしれない。
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三吉石塚古墳に立つと、
左から右へ、葛木山~金剛山~二上山~明神山~信貴山~生駒山がパノラマに・・・
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もう一度下から環濠まわりから
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此処からは
もう一度竹取公園に戻って
       下記のセカンドブログへ投稿済みです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-01-27
竹取公園に戻って
反対側の駐車場へ向かう
此処にもユリノキが・・・
クチナシの実も熟して
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竹取公園のシンボル(トイレだが)を駐車場側から等々・・・

1月20日の歴史探訪の会・橿原神宮前駅~

1月21日        20日の歴史探訪の会・橿原神宮前駅~
      橿原神宮から今井町・河合家住宅&河合酒造へ歴史ウオーク
昨年までの歴史探訪の会は、3月スタートの奇数月開催(年間5回)だった、
今年から1月スタートで奇数月開催になり年間6回開催する事となった・・・
コース   歩程約4km
橿原神宮前駅(集合)~橿原神宮~初代神武天皇陵~2代綏靖天皇陵~
今井町まちなみ交流センター~蘇武の井公園(昼食)~河合酒造・試食&
試飲&住宅見学~今井町散策~八木西口駅(解散)
志都美駅
降水確率60%で迎えた朝、葛城山は雪雲に?
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高田駅→高田市駅へ歩いて乗り換え
橿原神宮前駅(集合)、スタート直後から陽射しに恵まれる
寒波の中、20人受付、1人は今井町で合流、酒蔵へは21人で・・・

橿原神宮
初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)が
あったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた
明治天皇により、1890年(明治23年)4月2日に官幣大社として創建された。
祭神は神武天皇とその皇后・媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)。
本殿(重要文化財)は京都御所の賢所(かしこどころ)を移築された。畝傍山
の南東麓、約50万平方メートルもの広大な神域に建てられた檜皮葺き(ひわ
だぶき)で素木(しらき)造りの本殿と神楽殿が、玉砂利の参道と背景となる
深い森の緑に調和して、なんともいえない爽やかさと、厳かな雰囲気を生み
出しています。(この森は昭和13年、皇紀2600年の祝典行事として、全国の
都道府県の人々がその土地の樹木を持参し植樹しました。今では約450種、
15万本の樹木が生い茂り見事な森林を形成している)今年4月には、神武
天皇が崩御されて2600年となり大祭が行われます。
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若桜友苑・・・立ち寄りました
第二次世界大戦で亡くなった空母「瑞鶴」の乗組員や海軍兵士の御霊を祭る。
毎年桜の時期に慰霊祭を行う。前に畝傍山、上空は青空・・・
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初代神武天皇陵
神武天皇(神武天皇元年1月1日- 神武天皇76年3月11日)は、日本神話に
登場する人物で、古事記や日本書紀によれば日本の初代天皇で皇統の祖
とされている。日本書紀によると、天皇在位は76年とされる。127歳で崩御。
日本書紀では、天皇は紀元前711年に生誕し前585年に127歳で崩御
したと伝えている。日向を発った神武天皇は、瀬戸内海を東進し難波の浜に
上陸しようとするが果たせず、地場の長随彦に破れて兄五瀬命(いつせの
みこと)を失う。「日の御子等である我らが、日の昇る方角へ攻め入ったから
負けた」と、難波から紀伊半島を迂回して、熊野から大台ヶ原山中を越えて
奈良盆地へ入る。そして長随彦を滅ぼし橿原の宮での即位となるのである。
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2代綏靖天皇陵(すいぜい天皇)
綏靖天皇(紀元前632年?~紀元前549年?)とは、古事記・日本書紀に
記されている日本の第2代天皇である。
在位:紀元前581年2月23日~紀元前549年6月28日の33年。84歳で崩御。

神武天皇には3人の息子がいた。長男は最初のお妃の子で、次男、三男は
二人目のお妃の子供で、神武天皇が崩御された後、長男は義母である二人
目のお妃を略奪結婚し、その上、弟たちを殺害し自分が天皇に即位しようと
計画した。その事を知った母が歌を詠んで我が子に危険を知らせた。二人の
弟が逆に長兄の殺害を計画し、寝ていた長兄を襲う。しかし、次兄は手が震
えて殺すことが出来ず、弟が兄から刀を奪って長兄を殺す。次兄はこの失態
を深く恥じ弟に皇位を譲り、自分は天皇を助けて神祇を掌ることとなった。此
の次男が後の“古事記”を編纂した“太安万侶”の祖先である。翌年(神武崩御
の4年後;綏靖天皇元年)1月8日に即位し、宮を葛城高丘宮に遷した。
その後、綏靖天皇33年5月10日に在位33年にして崩御した。
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此の日は、御陵の鳥居を丁度撤去下作業の後で・・・・
此れは1月17日に撮影した時のもの
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伝承
南北朝時代の編とされる『神道集』によれば、綏靖天皇には食人の趣味が
あり、朝夕に7人もの人々を食べて周囲を恐怖に陥れたため、周囲の人々は
「近く火の雨が降る」と虚言を弄し、天皇を岩屋に幽閉して難を逃れたという。

今井町まちなみ交流センター
今井町の歴史を詳しく、分かりやすく解説する資料を一堂に集めた資料館と
して、展示コーナー映像シアター、図書閲覧室などがあり、今井町の歴史を
さまざまな角度から知ることができます。
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蘇武の井公園で昼食
陽射しが陰って寒くなって来たが、次は酒蔵での試飲が待ってる・・・
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河合家住宅&河合酒造
今井町の中尊坊通りの西よりにあります。東および南側の道路に接して、
東妻入母屋造、西妻切妻造、南東に土庇(どびさし)が付き、本瓦葺となって
います。外観の2階は白漆喰塗籠めとし、丸窓を開け、優れた意匠を示して
います。今井町では比較的早い時期の2階建町家で2階に座敷などが設け
られており、豪商の片鱗がうかがえる建物です。江戸時代初期頃、上品寺
村より移住し、古くより「上品寺屋(じょうぼんじや)」の屋号で酒造業を営ん
でおり、現在も造り酒屋を営業しております。代表銘柄「出世男」と縁起の
良い名、他に「香久山」「うねび」「上品寺屋」「宗久」&「酒ケーキ」奈良漬等
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今井町散策
現在も江戸時代そのままのたたずまいと情緒を残す町・今井町を散策・・・
東西約600m、南北約310m、面積に、約500棟の伝統的建造物があり、全国
で最も多い地区となっています。また、国の重要文化財が9件、県指定文化財
が3件、市指定文化財が5件あります。地元の材料を使い、近隣の職人によっ
て暮らす人に便利なように工夫された一軒一軒の家は、土地の風土や自然、
歴史をはっきり反映しており、民家建築の貴重な財産でもあります。これらの
家々が並ぶ町の様子にも、商業が繁栄し、外部からの侵入者を拒絶、独立し
た自治都市を築いた歴史が表されています。
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八木西口駅
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五位堂駅
遠くに二上山
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1月17日の近鉄ハイキング・飛鳥駅~1

1月19日       1月17日の近鉄ハイキング・飛鳥駅~1
           近鉄 酒蔵みてある記 喜多酒造「御代菊」
知人と2人で参加、参加者1500人超のハイキングだった様です。
コース  近鉄ハイキング 歩程約8km
飛鳥駅(受付)~猿石~欽明天皇陵~鬼の雪隠・俎~久米寺~橿原神宮
~喜多酒造(酒蔵見学・試飲)~畝傍御陵前駅へ帰るコースを変更して
(知人と2人でコースを外れて 1月20日に歴史探訪の会で歩くコースを・・)
~神武天皇陵~綏靖天皇陵~今井町・まちなみ交流センター~河合酒造
~町中散策・恒岡醤油醸造本店~蘇武橋のエノキ~八木西口駅・八木駅
~五位堂駅~バスで帰宅  おかげで?2万歩超え 17km歩いた事に・・・
早朝
家内を職場へ送って、何時もの日の出スポットで
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志都美駅
遠くに葛城山~二上山&西名阪自動車道の香芝SA付近・・
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飛鳥駅まえで受付
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猿石
吉備姫王の墓前の猿石は、「女」「山王権現」「僧」「男」と呼ばれています。
そのうち、「僧」以外の3体は、後ろに天邪鬼の様な顔が有ります。猿石は
元禄15年(1702年)に、梅山塚(現在の欽明天皇陵)の南側の田園より
掘り出されました。材質は花崗岩です。
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欽明天皇陵
全長約138mの前方後円墳で欽明天皇の墓と云われています。しかし、
最近では見瀬丸山古墳が欽明天皇陵とされる説も有ります。明治5年
以前には、現在吉備姫墓に置かれている猿石が配置されていました。
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明日香遊歩道
白菜畑が広がっています・・・・
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鬼の雪隠・俎
鬼の雪隠・俎は道路を挟んで並んでいます。もとは古墳の石室の一部
でしたが古墳が壊され、現在の姿になって残ったとされています。
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久米寺
大和三山の一つ、畝傍山の東南麓に位置するお寺で、聖徳太子の弟にあ
たる木目恋歌石皇子が眼病を患うが、薬師如来に祈願した平癒した事に
感謝し、建立したと伝えられています。紫陽花の美しいお寺としても優秀
です。
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此の続きは
・1月17日の近鉄ハイキング・飛鳥駅~2 として
           下記のセカンドブログへ投稿します。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/
橿原神宮
日本最古の正史ともされる「日本書記」において、日本建国の地と記され
た橿原、天照大神の血を引く後の神武天皇が、豊かで平和な国造りを目
指して、九州高千穂の宮から東に向かい、想像を絶する苦難を乗り越え、
畝傍山の東南の麓に橿原宮を創建されました。第一代天皇として即位さ
れたのが紀元元年、今年で、紀元2600年を迎えます。

喜多酒造「御代菊」
創業1718年(享保3年)。代表銘柄「御代菊」は創業者のこだわりの酒造
りを受け継ぐ、美味しいお酒です。橿原神宮のお神酒として神宮境内で
作られるお米(神セン田米)で仕込んだ「かむやまと」を醸造しています。

神武天皇陵
日本神話に登場する人物であり、古事記や日本書紀によれば日本の
初代天皇で皇統の祖とされている。日本書記によると天皇在位は神武
天皇元年~神武天皇76年(紀元前585年)とされる。127才で崩御。

綏靖天皇陵
古事記や日本書紀によれば日本の第二代天皇である。天皇在位は
紀元前581年~紀元前549年。84才で崩御。神武天皇の三男。

今井町・まちなみ交流センター・蘇武の井公園
~河合酒造「出世男」酒ケーキ、奈良漬試食、新酒試飲

~散策・恒岡(醤油醸造所見学等~蘇武橋大エノキ

~八木西口駅~八木駅

五位堂駅
五位堂駅で二上山を撮る

1月15日の竹取公園&馬見丘陵公園ー1

1月18日        1月15日の竹取公園&馬見丘陵公園-1
馬見丘陵公園の蝋梅&梅や河津桜が気にかかり、行って来ました。
家内を職場に送って、その足で馬見丘陵公園の中央駐車場か東駐車場を
目指して行ったがどちらも未だ閉まったままだったので、ユータンして竹取
公園の駐車場へ車を置いて・・・
家内を職場に送って、何時もの日の出スポットで
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竹取公園
遠くに二上山が・・・
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竹取公園と馬見丘陵公園を繋ぐ陸橋脇のユリノキに異変?
此の1本のユリノキだけにこの様なものが?・・・昨年の花の残骸?
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オタフクナンテン他
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馬見丘陵公園の南エリアから竹取公園を
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馬見丘陵公園については別途
           下記のセカンブログに投稿します。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-01-18-1

1月14日の2016年初詣?ー抜粋編

1月15日          1月14日の2016年初詣?ー抜粋編
我家の初詣?は、毎年、松尾山まいり、鏡開きが終わってから出かける、
今年は、昨日14日に大和郡山市の厄除け霊場、松尾寺&松尾山神社へ
家内と次女と一緒に3人で初詣に行って来ました、帰りに平群の道の駅へ
買い物に寄って、ランチを頂いて・・・
松尾寺山門
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松尾寺にお参りして
蝋燭と線香を灯して・・・
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古札返納所へ昨年の縁起物を返納・・・
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階段を登って三重の搭
三重塔の右手へ周って、松尾山神社へ向かう
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松尾山神社へ向かう
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松尾山神社
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振り返ると大和郡山市の市街が見える
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松尾山神社にお参りして
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三重の搭の左側へ下りてくる
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階段の下には、松尾寺本堂と・・・
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階段を下りる途中で七福神社へ寄り、
縁起物(熊手&笹)を買う、おみくじを引いて、お守りも
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家内と娘は、鐘楼の横に
並んで順番待ち、厄除けの鐘を一突きして
階段を下りて、山門の横へ出る
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1月13日のJRふれあいハイキング・大和小泉駅~1

1月15日         1月13日のJRふれあいハイキング・大和小泉駅~1
            小泉の里を歩く・・・大和郡山観光おすすめコース
知人と2人で参加、大和郡山観光ボランティアガイドクラブの皆さんのサポートで
実りある素晴らしい、楽しいハイキングを過ごさせて頂き有難う御座いました・・・・
コース   JRふれあいハイキング  大和小泉駅に9:00集合  歩程約6km
大和小泉駅(集合)~安養寺~辻堂~小泉城跡~高林庵~小泉神社~善福寺~
小白水~小泉大塚古墳~六道山古墳~親子塚~庚申堂(金輪院)~大和小泉駅
13日の早朝
家内を職場に送った帰りに日の出を
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志都美駅へ向かう
霜がおりてる、寒いはずだ
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志都美駅
葛城山~二上山の山並と西名阪の香芝SA付近
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大和小泉駅前でハイキングの受付
予想にはんして参加者が多い??100人くらい・・・
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安養寺
1561年(永禄4年)、小泉城は松永弾正久秀に攻められ、3ヶ月に及ぶ
激戦の末、城主・小泉四郎左衛門はじめ17名が切腹すると言う壮烈な
最期を遂げました。この時切腹した家老・阿木宗円の子孫が、小泉氏の
菩提を弔う為、河本家の草庵を安養寺として供養を行っています。
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辻堂
富雄川が氾濫した際に流れて来た大きな石を祀って、以後の災害は無い?
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富雄川を渡る
遠くに葛城山~二上山の山並み
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小泉城跡へ向かう
立派な瓦葺の旧家、屋根のソリが違う・・・
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小泉城跡・・・片桐城跡石碑、小泉城跡石碑
9世紀の額安寺文書に小泉出雲の名があることから、小泉氏と言う地侍が
此の地にいて、城をかまえていたと考えられています。小泉氏は戦国の世、
興亡を繰り返しつつ生き抜いていたが、1561年に松永久秀が小泉城を攻
略、小泉氏自害。1585年に豊臣秀長が郡山城に入部すると、小泉城に家
老・羽田長門守を置き小泉を治め、その時造った外堀、薙刀池、お庭池が
今も残る。1623年に徳川の世となり片桐貞隆が入部して、陣屋を構えた。
・兄の片桐且元(かたぎりかつもと)は、大和国竜田藩の初代藩主である。
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高林庵
片桐家の2代目貞昌が興した茶道「石州流」の本部であり、片桐家の居宅とも
なっています。貞昌は江戸の四代将軍家綱の茶道指南として活躍し、石州流
茶道は武家を中心に日本各地に普及し、「武士(もののふ)の茶道」と呼ばれた。
いまでも邸内には、独立した茶室が11棟あります。
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此の続きは、
JRふれあいハイキング・大和小泉駅~2 として
             下記のセカンドブログへ投稿します。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-01-15
小泉神社
祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと) 誉田別命(ほんだわけのみこと)
1390年、小泉村10ヶ村の総社として祀られたのが始まりとされています。
以来、村人の信仰の中心として、又小泉城の守り神として歴代城主の宗敬
を受けて来ました。山門は明治の初め、小泉城から移築された門と伝えら
れています。本殿は一間社春日造り檜皮葺、室町初期の造りと伝えられて
いて、国の重要文化財。
善福寺
小泉家の菩提寺で、浄土宗鎮西派の寺院です。小泉四郎左衛門の妹の
創立といわれ、鏡誉上人の中興、正保元年(1644)に焼失、寛政6年
(1794)に、本堂を再建。本尊;阿弥陀如来坐像
鐘楼の釣鐘は、宝暦6年(1756)の鋳造、慈雲尊者の撰にかかる長文の
鐘銘があったそうです。小泉四郎左衛門の墓という五輸塔があります。
小白水・・・小泉の地名の由来と言われる 
弘法大師が掘ったとされる小白水という井戸、小さいながら
どんな日照りにも枯れることが無かったと、言われています。
小泉大塚古墳
3世紀中頃(卑弥呼の時代)に造られた古い古墳。前方後円墳で全長が約
88m、前方部(長さ40m)が宅地造成によりなくなり、円墳のようになって
います。後円部は径50m、高さ7m。竪穴式の石室からは、銅鏡7、剣1、
土師器3等が発見されています。銅鏡が天理参考館に展示されている。
六道山古墳
小泉町六道にある。小泉町の慈光院お寺の大型バスの駐車場から南に位置
する丘一帯が六道山古墳。前方後円墳で、墳丘の主軸全長約100m、後円
部の径約75m、高さ約14m、前方部の幅約50m、高さ約6mの3段築成で、
面積6畝5歩と記録され官有地である。慈光院の南にあたるので慈光院山とも
呼ばれ5世紀初頭頃の古墳と考えられている。
親子塚
養父の仇と狙ったのが、実父とわかり親子が自刃したと言う哀話の供養塚。
庚申堂(金輪院)
正式名称は、天台宗金輪院。門前の石碑に「一国一宇」とある様に、大和国の
庚申信仰の総道場として知られ、江戸時代の庚申縁日には門前市が開かれ
ていた。小泉藩の二代目藩主・片桐貞昌の時、茶人道林直良が創建し、万治
2年(1659年)には、石州(貞昌)が八石を寄進して一門の安全を祈祷させた。
 

1月9日の朝日&竹取公園・抜粋編

1月12日          1月9日の朝日&竹取公園・抜粋編
  1月10日の近鉄ハイキング都前後しますが・・・
此の日は家内を職場に送り届けて、帰りに朝日を撮って、竹取公園の
朝市へ行ってみた、大根、ゴボウ、ユズを買って、朝日を撮って帰って来た。
家内の職場の近くで
朝日を
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竹取り公園&朝日と馬見丘陵公園南エリア・・・
二上山
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葛城山も
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南エリアから
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竹取り公園
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1月10日の近鉄ハイキング・布忍駅~1

1月12日          1月10日の近鉄ハイキング・布忍駅~1
         開運を手に入れよう!新春後利益「開運 松原六社参り」
昨年の羊年に続き、今年の猿年も「開運 松原六社参り」に知人と4人で参加、
布忍神社でぜんざいを我堂八幡宮でお神酒を頂来ました、阿麻美許曾神社、
屯倉神社、阿保神社、柴籬神社を巡り、無事に干支のお猿さんを頂ました・・・
コース   歩程約10km
布忍駅(受付)~大林寺~布忍神社~我堂八幡宮~善正寺~阿麻美許曾神社
~大和川堤防~中高街道~屯倉(みやけ)神社~阿保(あお)神社~海泉池~
地蔵尊~柴籬神社~河内松原駅ゴール
家内を職場に送って
1月10日の日の出・・・今日は良いハイキング日和に
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志都美駅から
葛城山~二上山&西名阪の香芝SA付近?
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布忍駅で知人3人と合流してスタート、大林寺へ
大林寺
融通念仏宗の布忍山大林寺(ふにんざんだいりんじ)
当山はもとは東大饗村(東おわい村:現堺市美原町)にあったが、1878年
(明治11年)当地に移転した。寺院の西側を流れる西除川の西岸にあった
永興寺(ようこうじ:明治6年に廃寺)の本尊であった十一面観音像や「布忍
山永興寺略縁起」、「大般若経600巻」を蔵する。
この「布忍山永興寺略縁起」によると、永興寺は1069年(寛治3年)永興律
師により創建され、弘安年中(1278~88年)に大和西大寺の叡尊が中興し
たと伝える。又、近くにある布忍山布忍寺は、この永興寺の塔頭と伝えられ、
布忍寺に伝わる「布忍山東坊縁起」には、東之坊は聖徳太子が薬師如来を
本尊として創建。814年(弘仁5年)空海が再建したが荒廃し、寛治3年に永
興律師が再興し、永興寺と名付けたとあり、平安後期には大伽藍を誇った
寺院が存在していたと思われる。
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西除川を渡ると布忍神社
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布忍神社(ぬのせ神社)
本社の鎮座する「布忍」の地名の由来は日本書紀にもある布忍入姫命(ぬの
しいりびめのみこと、日本武尊の娘のひとり)にあると言われている。本社の
創建年については明確でない。本殿は府指定有形文化財にも指定されている。
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   ぜんざいを頂いて
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我堂八幡宮へ向かう
松原市は松とバラ?のマンホール蓋
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我堂八幡宮
江戸時代の延宝8年(1680)の「我堂村検地絵図」では社名がなく、鳥居マーク
だけですが、延享元年(1744)の「両我堂村明細帳」には「十五社明神」、享和
2年(1802)の「東我堂村明細書上帳」にも「氏神十五社神」と記されています。
明治初年に八幡神社と称した後、大正2年(1913)に産土神社と改めましたが、
いまでは我堂八幡宮の名で信仰されています。堺市の百舌鳥八幡宮の分霊を
勧請したもので、品陀別命が祭神です。境内には、江戸時代から昭和初期にか
けて若者が力競べをした力石・八幡石・明治石・龍王石・金剛石が残っており、
貴重な民俗資料といえるでしょう。
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我堂八幡神社でお神酒をたっぷり頂いて善正寺へ向かう
善正寺(真宗大谷派善正寺)
現在、天美我堂七丁目にある真宗大谷派の善正寺は、もともとは真言宗で摂津
の平野(大阪市)にありましたが、明応年間(一四九二~一五〇一)に浄土真宗
に転じ、城連寺村に移ってきました。文禄二年に住職の順欽が教如に帰依した
ことから、教如が順欽に「顕如上人真影」を下したのです。その裏書に「大谷本
願寺釋教如(花押) 文禄二癸巳年正月廿六日 河内国丹北郡天見郷城蓮寺
村興正寺門徒 端坊下 願主釋順欽」とあります。この頃、善正寺の寺号はまだ
無く、その上、同じ浄土真宗でも興正寺派に属していたようです。
教如は、豊臣秀吉によって、十か月後の文禄二年十月、弟の准如に本願寺宗主
を譲らされ、退隠することになりました。しかし、その後も教如は、本願寺の嫡流
を主張します。
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西除川を渡る、天美西公園
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阿麻美許曾神社(あまみこそ神社)
阿麻美許曾神社は式内社であり、社伝によれば、大同年間(大同元年=806年)
創建とされているが、おそらくそれより古いであろうとされている。「許曽」は新羅
の言葉に由来するとされ、朝鮮半島からの渡来人が先祖を祀ったのが起こりで
はないかとされている。手水舎の東側に「行基菩薩安住之地」という石碑があり、
行基がこの地に居住していたという伝承がある。
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此処からは、10日の近鉄ハイキング・布忍駅~2 として
             下記のセカンドブログへ投稿します。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-01-12-1
大和川堤防
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屯倉神社(みやけ神社)
当地には古くから土師氏(後の菅原氏)祖神の天穂日命を祀る穂日の社があった
という。言い伝えによれば、大宰権帥に左遷され九州へ向かう途中の菅原道真公
は祖先由来の当地を通り、穂日の社に無実を訴えたとされるが、大阪府内には
当地から大きく外れた地にも道真伝説があり(大阪市東淀川区淡路、服部天神宮
など)、真相は明らかではない。
直接現在に連なる由緒としては、天慶5年(942年)、河内国丹北郡依羅三宅郷に
道真公を祀ったのに始まる。三宅天満宮と称していたが、明治の頃より屯倉神社
と称するようになった
阿保神社(あお神社)
阿保親王とは、平城天皇の第2皇子、母は、葛井宿禰藤子、子に六歌仙であり伊
勢物語の著者、在原業平がいる。平城天皇が上皇のとき弟、嵯峨天皇との権力
闘争様である、薬子の乱に関連して、大宰権師として、九州に左遷される、承知
元年(834)に許され、河内国丹北郡田坐に別荘を造営したと伝える、田坐とは、
現在の田井城から阿保あたりになる、承知9年(853)51歳で没す。
海泉池(かいずみいけ)~地蔵尊
柴籬神社
仁賢天皇の勅命により5世紀後半に創建されたと伝わる。所在地である上田
町は18代天皇である反正天皇の都跡(丹比柴籬宮)として伝えられている。
反正天皇の「瑞歯別尊」と呼ばれた美しい歯並びの伝承により、現在は歯の
神様として信仰されている。

 絵馬に六社の参拝印を集印して
最後の柴籬神社で「開運干支張子」を授かります・・・・
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