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2月27日の竹取公園&馬見丘陵公園ー1

2月29日       27日の竹取公園&馬見丘陵公園ー1

竹取公園の朝市で大きな大根を1本100円で購入、今日も河津桜と
梅林の様子を撮りに、寒い寒い!枯れた芝生が霜で真っ白に・・・・・
河津桜の1本に1輪咲いてから此の日で11日目、10本以上に咲いて・・
竹取公園
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竹取公園と馬見丘陵公園を繋ぐ陸橋から
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馬見丘陵公園の南エリア
枯れた芝も霜で真っ白に・・・
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隣接する巣山古墳は未だ整備途上・・・
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馬見丘陵公園の蝋梅
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河津桜
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  足元は霜で真っ白
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此の続きは、
2月27日の竹取公園&馬見丘陵公園ー2 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/
河津桜の続き

墳観橋の上から

馬見丘陵公園の梅林

上池

竹取り公園へ向かう

馬見丘陵公園と竹取公園を繋ぐ陸橋

陸橋から竹取公園を

2月25日・北野天満宮(抜粋編)

2月28日        25日・北野天満宮(抜粋編)
        詳細は、JRふれあいハイキング・京都駅~2 として
             下記のセカンドブログに投稿済みです。 
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-02-28
北野天満宮
「北野の天神さん」と親しまれている北野天満宮は、天暦元年(947)に創建され、
平安時代に学者・政治家として活躍した菅原道真公をお祀りする全国に約一万
社御鎮座する天神社・天満宮の宗祀(総本社)の神社である。現在は、特に学問
の神様としての信仰篤く、学問に勤しむ多くの学生が参拝に訪れる。国宝・本殿
は慶長12年(1607)に豊臣秀頼が造営したもので八棟造と称され絢爛豪華な桃山
建築。菅公が殊のほか愛でられた梅と紅葉の名所でもある。毎月25日は縁日で、
境内には多くの露店が立ち並び賑わいをみせる。また、この日は宝物殿を特別
公開している。
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2月25日の近鉄ハイキング・京都駅~1

2月28日        25日の近鉄ハイキング・京都駅~1
              京都 北野天満宮梅花祭ウオーク 
1人で参加、参加費300円、此の日の参加者は300人・・・
コース  JRふれあいハイキング  京都府ウオーキング協会
京都駅(受付)~地下道で烏丸通り潜り~七条通り~河原町通り~
五條大橋から~木屋町通り~鴨川河川敷~荒神口通り~三宝荒神
~梨木神社から~京都御所・京都御苑~今出川通り~七本松通り
~翔鸞児童公園(昼食)~北野天満宮~翔鸞児童公園~円町駅
北野天満宮へ初めて行った、25500歩で約17km歩いた・・・
志都美駅
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京都駅・京都タワー
京都のランドマーク「京都タワー」
京都の玄関口に佇み、住人、観光客を温かく迎える京都タワー。
白くほっそりとしたフォルムは海のない京都の街を照らす灯台をイメージ。
京都市街で一番高く、地上100メートルにある展望室からは
東山三十六峰に囲まれた古都京都の市街地が360度見渡せます。
時間、四季によって様変わりする京都の全てを感じる事ができます
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出発式?
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出発
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地下道
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七条通り
京都市街地南部の東西幹線路。東は東山区、智積院前の東大路通から西は
右京区の桂大橋まで。河原町通から天神川東までは平安京の七条大路に当
たる。平安京の東西市は七条大路に面して市門があった。1913年(大正2)に
本通り北側を拡幅、市電が1978年(昭和53)の廃止まで走った。
河原町通り
京都市街地東部の南北幹線路。北は葵橋西詰から南は十条通まで。豊臣秀吉
の京都改造後に開通。通り名は鴨川の河原であったことに由来するという。明
治以降に南北へ延びたが、現在の三条通と四条通間は京都の中心繁華街。
五條大橋
下京区と東山区の境の鴨川に架かり五条通(国道1号)を結ぶ。平安京の五条
大橋は2筋上流の松原通にあたり、本来の五条橋は、今の松原橋の位置。伝説
の牛若丸と弁慶の出会いはこの旧橋ということになる。豊臣秀吉が1589年(天
正17)現在の五条通に架け替えさせた。京阪電車五条すぐ。
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木屋町通り
京都市街地東部の南北路。北は二条通から南は七条通まで。角倉了以による
高瀬川の開削に伴い開通。通り名は高瀬川で搬入する木材、薪炭を商う店が
多かったためで、初めは樵木町通と呼んだ。江戸期から生洲、貸座敷などが並
ぶ遊興の地となり、現代に至る。道幅は狭かったが、1895年(明治28)の電気
軌道敷設で拡幅。
※参考
角倉 了以(すみのくら りょうい、天文23年(1554年) - 慶長19年7月12日(1614
年8月17日))は、戦国期の京都の豪商。
朱印船貿易の開始とともに安南国との貿易を行い、山城(京都)の大堰川、高瀬
川を私財を投じて開削した。また幕命により富士川、天竜川等の開削を行った。
地元京都では商人と言うより琵琶湖疏水の設計者である田辺朔郎と共に「水運
の父」として有名である。
マンサクが咲いていた
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鴨川河川敷
古くから東山と並んで京都のシンボルとして名高い鴨川。時には禊(みそぎ)の川
として神聖な行事をささえ、時には京友禅の艶やかな彩りを川面に浮かび上がらせ、
京の人々の暮らしになくてはならない清らかな流れを保ってきました。
河川敷が現在のように美しく整備されるようになったきっかけは、昭和10年の集中
豪雨で鴨川が氾濫したこと。このため河川の大改修工事によって高水敷が整えられ、
緑地化して運動広場や芝生地がつくられたのです。堤防上には当時のサクラやマツ、
カエデ、ムク、エノキなどの老並木が残り、水辺に遊ぶ人々の姿を見守っています。
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荒神口通り
京都市内の東西の通り。鴨川に架かる荒神橋から西へ寺町通まで500mに満たな
い短い通りである。 御所から比叡山への最短の経路で、鴨川を徒渉し東岸を東や
や北へ向かう志賀越道に道をとった。名前の由来は、京の七口のひとつであり、
河原町通との交差点名ともなっている荒神口から。荒神の名は、寺町通東入の
護浄院に三宝荒神がまつられていることによる。
護浄院(清荒神)・・・三宝荒神
本尊である火の守り神の「三宝清荒神尊」は「火の用心」「災難除け」の本尊
として人々の信仰をあつめています。荒神尊は三寶、仏・法・僧を守護する
ところから三宝清荒神尊と名づけられました。開基は宝亀2年(772)で、光仁
天皇の皇子である開成皇子が仏門に帰依し、勝尾山(現在の大阪府箕面市)
で修行中感得され、自ら模刻し日本最初の荒神尊としてお祀りされました。
慶長5年(1600)後陽成天皇により皇居守護のためこの地に移され、以後歴
代天皇に国家安寧・五穀豊穣の御札を献上し、現在も綿々と続いています。
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梨木神社から
1885年(明治18)創建、明治維新の功労者三條実万・実美父子を祀る。手水
舎の井戸の‘染井の水’は京の三名水の一つ。ハギの名所でもあり、9月の
中旬~下旬には萩まつりも。上田秋成や湯川秀樹らの歌碑もある。
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京都御苑・京都御所
京都御所と仙洞御所、大宮御所を包含する東西700m、南北1300mの広大な
緑地で、環境省の管理する国民公園。禁門の変で有名な蛤御門など四方から
自由に出入りでき、芝生や梅林などがある格好の散策地。運動広場など憩い
の場の他、閑院宮邸跡(月曜・年末年始休、無料)、拾翠亭(3/1~12/27までの
毎金土曜、100円)など、歴史的遺構も残る。
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縣井・・・京都三名水
京都御所の西側に、京都御苑三名水のひとつ「縣井」(あがたのい)があります。
昔は、この井戸のそばに縣宮(あがたのみや)と呼ばれる社があって、地方官
吏として出世を願う人々が、井戸で身を清めて祈願してから宮中に参内したと
いわれています。江戸時代まで五摂家のひとつ一條家の屋敷があったところで、
井戸水は明治天皇の皇后となった一條美子のうぶ湯に用いられたと伝えられ
ており、古くから名水とされてきました。また、昔から井戸のまわりには山吹が
咲き、それを詠んだ後鳥羽院などの歌にも詠まれています。現在は枯れている。
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今出川通り
京都市市街地北部の主要な東西の通りの一つであり、東は左京区銀閣寺町
の銀閣寺門前付近から、西は嵐電(京福電車)等持院駅の西側にある踏切付近
までを称した名称。付近に鴨川支流の今出川が流れていたため通り名がついた
という。沿道の京都御苑の北門も今出川御門と呼ばれる。1958年(昭和33)市電
が全通、1976年(昭和51年)廃止され、現在はバスが交通幹線の役割を果たす。
鴨川から東は東今出川通とも呼ばれている。
七本松通り
京都市街地西部の南北路。北は寺之内通から南は十条通までだが、JR線で中断。
通りに1株から7本に分かれる松があり、通り名になったという。南部は平安京の皇
嘉門大路に当たる。第2次大戦末に松原通と七条通間は拡幅された。

翔鸞児童公園(昼食)

此処からは、
2月25日の近鉄ハイキング・京都駅~2 として
        下記のセカンドブログへ投稿します。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/
北野天満宮
「北野の天神さん」と親しまれている北野天満宮は、天暦元年(947)に創建され、
平安時代に学者・政治家として活躍した菅原道真公をお祀りする全国に約一万
社御鎮座する天神社・天満宮の宗祀(総本社)の神社である。現在は、特に学問
の神様としての信仰篤く、学問に勤しむ多くの学生が参拝に訪れる。国宝・本殿
は慶長12年(1607)に豊臣秀頼が造営したもので八棟造と称され絢爛豪華な桃山
建築。菅公が殊のほか愛でられた梅と紅葉の名所でもある。毎月25日は縁日で、
境内には多くの露店が立ち並び賑わいをみせる。また、この日は宝物殿を特別
公開している。

翔鸞児童公園

円町駅へ向かう

2月23日の歩こう会・和泉中央駅・抜粋編

2月26日           23日の歩こう会・和泉中央駅・抜粋編
             和泉市の歴史と伝説を訪ねて・・・
此の日の参加者は96人、曇り空だったが解散迄は無事に雨も降らず・・・
コース  歩程約6km
泉北高速鉄道 和泉中央駅~観音寺山遺跡~弥生町4丁目ビュー~槇尾
川公園(昼食)~西福寺(雷井戸)~和泉国府跡~泉井上神社(和泉清水)
~JR和泉府中駅(ゴール・解散) 
和泉市には、全国でも屈指の規模を誇る弥生時代の集落跡・池上曽根遺跡が
あり、遠い昔からこの地に人々が住み、生活を営んでいたことがうかがわれる。
和泉市周辺は、古くから清水が多く湧き出た所で、「和泉」という地名も、泉井
上神社の境内にある「和泉清水」に由来しています。 
2月23日の歩こう会・和泉中央駅・詳細編については
          下記のセカンドブログに投稿しました。   
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-02-27 
志都美駅
遠くに葛城山~二上山
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新今宮駅
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和泉中央駅
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観音寺山遺跡
弥生時代の後期、はやった?高地性集落、防御の為、周りが見通せる丘に・・・
※参考:他に近畿の高地性集落遺跡としては、柏原氏の高尾山遺跡、神戸
の伯母之山遺跡、芦屋市のえがのやま遺跡が有る。
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弥生町4丁目ビュー
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槇尾川公園(昼食)
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水仙畑
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西福寺(雷井戸)
重源上人ゆかりのお寺、重源(ちょうげん)上人は、平安時代末期から鎌倉
時代の日本の僧。俊乗房(しゅんじょうぼう、重源)東大寺大勧進職として、
源平の争乱で平重盛に火をつけられ焼失した東大寺の復興を果たした。
和泉市の花、水仙は重源が宋から球根を持ち帰り桑原でひろめたものと言
われ、現在の花木産業の礎となった、土木・建築技術に秀でており夏場に
毎年水不足に悩む和泉の為に、谷山池を造り治水と農業用水を整備した事
でも知られ、和泉とは切っても切れない和泉の恩人である。
堂の傍らにある雷井戸には次のような伝説があります。昔、井戸に雷が落
ちたとき、老婆が蓋をして雷を閉じ込めました。今後、この地(桑原)には絶
対落ちないという誓いのもと村人は雷を逃がしてやりました。雷鳴りがする
と「クワバラ、クワバラ」というのは、この伝説に由来します。
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和泉国府跡へ向かう
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和泉国府跡(国府跡 和泉府中の由来)
「府中」の地名は、和泉国府が置かれていた事に由来します。
泉井上神社の近くにある御舘山児童公園の一角に和泉国府跡の碑が建てら
れています。
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泉井上神社(和泉清水)
和泉の地名の由来といわれる「和泉清水」が祀られています。
神功皇后・仲哀天皇・応神天皇のほか、神功皇后にしたがって朝鮮に渡った
神々四十五座を加えた計四十八座を祭神とし、その神像四十八躯を蔵す。
境内の清水は神功皇后渡韓の途次、一夜にして湧出したので霊泉と名づけ
られ、国名の源となる。総社本殿は慶長十年(西暦1605)豊臣秀頼が建立し
たもので重要文化財に指定されている。
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JR和泉府中駅(ゴール・解散)           
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2月21日の竹取公園&馬見丘陵公園ー1

2月21日         2月21日の竹取公園&馬見丘陵公園ー1

竹取公園の駐車場へ車を入れて、朝市で大根と人参を調達してから、
馬見丘陵公園の河津桜と梅林の状況を確認に廻って来ましたよっ・・・
前回、16日の朝に比べて河津桜は?16日には1本の木に花が一輪、
だったが今朝は7本くらいの木に、各々数えきれない程花が咲いていた。
竹取公園
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馬見丘陵公園への陸橋から
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馬見丘陵公園
池の周りの桜は未だ未だ蕾がかたい
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隣接する須山古墳(此処へは入れない)
重機が運び出されていたのでそろそろ整備も終わりに近づいてる??
巣山古墳
奈良盆地の西部にある馬見丘陵には、4・5世紀に造られた大型古墳が多く、
馬見古墳群と呼ばれています。なかでも巣山古墳は最大級の古墳で、周辺
の新木山(にきやま)古墳(陵墓参考地)とともに丘陵中央部に集中する古墳
群の中核をなし、昭和27年には国の特別史跡に指定されています。周濠が
農業用溜池として利用されており、水位変動や波によって墳丘と外堤の裾が
大きく削り取られ、埴輪列が露出していた。規模は、全長約220m、後円部
径約130m、前方部幅約112mとされている。全長220mの前方後円墳は、
奈良県下では垂仁天皇陵に比定されている宝来山古墳に次いで11番目に
ランクされる。全国では33番目にランクされる。
巣山古墳は、大王の墓域が佐紀から河内へ移動する時期に築かれた前方後
円墳で、大阪府藤井寺市の津堂城山古墳とほぼ同時期と考えられ、周濠内に
島状遺構を設け、水鳥形埴輪を配する点は非常によく似ています。
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参考
新木山古墳(にきやまこふん)・前方後円墳は、馬見古墳群を構成する古墳
の1つ。宮内庁により「三吉陵墓参考地」(被葬候補者:第30代敏達天皇皇子
押坂彦人大兄皇子舒明天皇御父)として陵墓参考地に治定されている。

蝋梅は未だ5~6本で咲いている
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河津桜・・・30本くらい若木が植えられている
今朝は大分咲いていた
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此の続きは、2月21日の竹取公園&馬見丘陵公園2 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-02-21-1 
此の続きは、
未だ未だ河津桜・・・

陸橋・墳観(つかみ)橋を渡って梅林へ

梅林

馬見丘陵公園の上池

竹取公園へ戻る

陸橋・竹取公園tの連絡橋

竹取公園

2月18日の近鉄ハイキング・王寺駅~1

2月20日          18日の近鉄ハイキング・王寺駅~1
              斑鳩の里法隆寺から郡山城跡盆梅展へ
知人と3人で参加、
コース  近鉄駅フリーハイキング  歩程約13km+2km
近鉄王寺駅(受付・スタート)~大和川~神岳神社(カミオカ神社)~三室
山~竜田公園~竜田城跡~龍田神社~藤の木古墳~法隆寺~法起寺
~富雄川~郡山城~郡山市街散策~郡山駅(ゴール)~JR郡山駅
此の日の私は、32300歩、約21.5km歩いた事に・・・
志都美駅
遠くに葛城山~二上山、此方は西名阪の香芝SA付近
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大和川を渡る
遠くに信貴山が・・・
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神岳神社(カミオカ又はかむおか神社)
当神社は法隆寺の西側にあたる三室山の中腹に位置し古代は社殿などの
建造物はなく 自然の森や山を神地としての信仰であったといわれている。
聖徳太子は飛鳥より産土神(神名不詳)をこの地に安置し、 太子の勅願所
として祭祀されていたがいつしか祭神は須佐乃男命を奉祀している。須佐
乃男命は別名を「牛頭天王」と呼び、内陣鳥居前には「牛頭天王」と刻んだ
四基の 石灯籠がその歴史を今日に伝承させている。旧村社、神岳神社は
延喜式神名帳巻九(延長5年)に平群郡神岳神社と、また大和国平群郡神
社 明細帳(明治12年7月調)にも社格を明記されている。
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三室山
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竜田公園
竜田川沿い総延長約2km、総面積14haの都市公園です。
かつて
「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」(在原業平)
「嵐ふく 三室の山の もみじ葉は たつ田の川の 錦なりけり」(能因法師)
と詠われた、紅葉の名所です。
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竜田城跡・・・片桐且元の竜田陣屋
片桐且元(1556~1615)は秀吉に仕え、賤ヶ岳の合戦で活躍した人です。7本
槍の1人。関が原の戦いの後、徳川家康に厚遇され慶長6 年(1601)に平群
郡内五十五ヵ村・約二万五千石を与えられ竜田藩が成立、四代続きましたが、
1655年に廃藩となった。
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     マンサクが咲いていた
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「参考」大和小泉・小泉城の片桐貞隆
1601年(慶長6年)、豊臣秀吉に仕えていた片桐且元の弟片桐貞隆が小泉城
を含め1万5千石で大名の列に加わった。その後『茨木市史』によると「片桐氏
の茨木入城の時期については関ヶ原合戦後と考えた方がよい」とあり、関ヶ原
の戦い後に片桐且元、片桐貞隆兄弟の本拠地としていた龍田城や小泉城から、
大坂城の近くにある茨木城に移って豊臣氏を補佐していた。そして大坂の役が
終わると、今度は徳川家康より片桐且元は4万8千石、片桐貞隆は1万6400石
に加増され、片桐貞隆は1623年(元和9年)に小泉城に戻ってきた。茶人として
有名な石州流の元祖、片桐貞昌は小泉藩第2代藩主である。片桐氏は初代貞
隆から12代貞篤まで代々と小泉の地を離れることなく明治維新を迎えている。
賤ヶ岳の七本槍(しずがたけ の しちほんやり)
賤ヶ岳の合戦で秀吉方で功名をあげた兵のうち以下の7人は後世に賤ヶ岳の
七本槍と呼ばれる。
福島正則(1561年 - 1624年)
加藤清正(1562年 - 1611年)
加藤嘉明(1563年 - 1631年)
脇坂安治(1554年 - 1626年)
平野長泰(1559年 - 1628年)
糟屋武則(1562年 - 1607年)
片桐且元(1556年 - 1615年)

竜田公園
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龍田神社へ向かう
お寺の様な集会場
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古い町並み
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東光寺・・・浄土真宗 本願寺派寺院
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龍田神社(たつたじんじゃ)は、式内社で、旧社格は県社。
崇神天皇の時代に創立され、法隆寺の鎮守とされていた。伝承によれば、聖徳
太子が法隆寺の建設地を探し求めていたときに、白髪の老人に化身した龍田
大明神に逢い、「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。私はその守護神となろ
う」と言われたので、その地に法隆寺を建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る
神社を創建したという。元々の社名は「龍田比古龍田比女神社」で、その名の
通り龍田比古神・龍田比女神の二神(龍田大明神)を祀っていた。延喜式神名
帳にもこの名前で記載され、小社に列している。しかし、後に龍田大社より天御
柱命・國御柱命の二神を勧請したため、元々の祭神は忘れられてしまった。
現在は天御柱命・國御柱命を主祭神とし、龍田比古神・龍田比女神を配祀して
いる。
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能楽・金剛流発祥の地碑・・・龍田神社の境内にある
能楽・金剛流は、斑鳩の里を発祥の地とし、大和猿楽4座( 結崎(ゆうざき)・円
満井(えんまんい)・外山(とひ)・坂戸(さかと) )の一つを成す「坂戸座猿楽」が
ルーツです。これらの座々は、藤原氏の氏寺として大和一国を支配していた「興
福寺」やその鎮守社「春日大社」の法会や祭礼に参勤する芸能者として文献に
登場しますが、もともとは、大和一円の大寺に所属した猿楽座です。現在の櫻井
市外山に本拠を置いた外山と、磯城郡川西町結崎を本拠とした結崎の両座が、
現 談山神社、円満井が興福寺、坂戸が法隆寺に属した猿楽座と言われている。
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藤ノ木古墳へ向かう
県民グランド下の池
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藤ノ木古墳
藤ノ木古墳は、法隆寺の西約400メートルに位置し、昭和60年(1985年)より
発掘調査が行われました。中からは朱塗りの家形石棺と素晴らしい金銅製
馬具類・冠・太刀などの副葬品が出土しました。被葬者は、現在も謎に包ま
れており古代のロマン誘うところです。
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此処からは、2月18日の近鉄ハイキング・王寺駅~2 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-02-20
藤ノ木古墳から
法隆寺へ向かう

法隆寺
聖徳宗の総本山である。別名は斑鳩寺(いかるがでら、鵤寺とも)、法隆学問
寺など。法隆寺は7世紀に創建され、古代寺院の姿を現在に伝える仏教施設
であり、聖徳太子ゆかりの寺院である。創建は金堂薬師如来像光背銘、『上
宮聖徳法王帝説』から推古15年(607年)とされる。金堂、五重塔を中心とする
西院伽藍と、夢殿を中心とした東院伽藍に分けられる。境内の広さは約18万
7千平方メートルで、西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群である。

法起寺
世界遺産・法隆寺が所在する斑鳩(いかるが)の里には、法起寺のほか、法
輪寺、中宮寺など、創建年代が7世紀にさかのぼる古代寺院が存在し、この
地が早くから仏教文化の栄えた地であったことがわかる。法起寺は法隆寺東
院の北東方の山裾の岡本地区に位置する。この地は聖徳太子が法華経を
講じた「岡本宮」の跡地と言われ、太子の遺言により子息の山背大兄王(やま
しろのおえのおう)が岡本宮を寺に改めたのが法起寺の始まりと伝えられて
いる。

小白水井戸跡(こはくすいいどあと)
小泉の地名の由来となった、弘法大師が掘ったと伝えられる名水の井戸跡。

郡山城
10世紀後半、郡山衆が雁陣の城を築いたという記録が郡山城の初見とされる。
奈良時代には薬園が営まれていた。郡山城は、秋篠川と富雄川の中間に突き
出た西京丘陵南端上に位置する。平山城または平城として明智光秀や藤堂高
虎らが普請に携わり、筒井順慶や羽柴秀長らの主導によって改修された。奈良
は良質な石材が乏しかったため、奈良一帯の各戸に五郎太石20荷の提供を義
務付け、寺院の石地蔵や墓石、仏塔なども徴発され石垣石として使用された。
中には、平城京羅城門のものであるといわれる礎石が使われていたり、8世紀
ごろの仏教遺跡である「頭塔」(奈良市)の石仏が郡山城の石垣の中から見つ
かっている。

2月16日の竹取公園&馬見丘陵公園ー1

2月16日         16日の竹取公園&馬見丘陵公園ー1
            馬見丘陵公園の梅林が気になって様子見に・・・
最近は、馬見丘陵公園の駐車場が開いていないので、竹取公園の駐車場へ
車を入れて、竹取公園のエントランス?を通り、馬見丘陵公園と繋がる陸橋を
渡って、馬見丘陵公園の南エリアから巣山古墳の前辺りの蝋梅を撮りながら
河津桜の様子を見て陸橋、墳観橋(つかみばし)を渡り、梅林へ向かうコース、
河津桜の蕾もだいぶふくらみ、今朝は一輪だけ咲いていた
2月16日の早朝
何時もの日の出スポット
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竹取公園
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陸橋から
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馬見丘陵公園
奥は巣山古墳、此処も前方後円墳
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巣山古墳
未だ整備の途中だが・・・
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馬見丘陵公園の蝋梅
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河津桜
一輪だけ咲いていた
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陸橋・墳観橋から
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古墳
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古墳の横に梅林
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此処からは、
2月16日竹取公園&馬見丘陵公園ー2 として
          下記のセカンドブログへ投稿します。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-02-16-2
梅林の続き

馬見丘陵公園の上池

竹取公園へ戻る
冷たくて指が痺れて痛い、早々に帰る事に

馬見丘陵公園と竹取公園を繋ぐ陸橋
ユリノキ、二上山
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竹取公園のトイレ
絵もタイルに描かれて・・・
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2月12日の近鉄ハイキング・筒井駅~1

2月15日         2月12日の近鉄ハイキング・筒井駅~1
           駅フリーハイキング「大和郡山 三つの城跡巡り」
近鉄の駅フリーハイキングに、知人と3人で参加、後半は郡山城への
登り坂で少し足が疲れたが、おおむね和気藹々、楽しいハイキング・・・
コース  近鉄駅ふりーハイキング  歩程約10km
筒井駅(受付・スタート)~筒井城跡~辻堂~富雄川~庚申堂(金輪院)~
小泉城跡~なぎなた池~高林庵~六道山古墳~慈光院~九頭上池公園
(昼食)~小南神社~郡山金魚資料館~新木山古墳~郡山城・柳沢神社
・天守台・大手門~郡山八幡神社~金魚BOX~薬園八幡神社~JR郡山駅
12日の早朝
何時もの日の出スポットで
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志都美駅
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近鉄郡山駅へ向かう
柳町商店街
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筒井駅
筒井城跡へ向かう、光專寺
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筒井城跡
室町時代、戦国時代を通じて大和国の政治史の中心的存在であった興福寺
衆徒筒井氏の居城であった。筒井城が築かれた時期については不明だが、
文献上の初見は『満済准后日記』に、大和永享の乱が始まった永享元年
(1429年)で城主は筒井順覚。この時は「筒井館」と記載されている事もあった。
その後、戦乱の世を生き延び居館から城郭へ発展していったのではないかと
思われている。嘉吉元年(1441年)には城主は筒井順永にうつり、応仁の乱、
戦国時代を通じて何度か筒井城をめぐる攻城戦が行われその史料も豊富に
残されている。応仁の乱は細川勝元を総大将とする東軍と、山名宗全が率い
る西軍の争いであったが、河内ではそれ以前に畠山義就と畠山政長が分かれ
て争っており、これに大和の国人衆が真っ二つに分かれてそれぞれに加勢し、
その流れに応仁の乱が巻き込まれていく。
順慶の時代になって、松永久秀と激戦を繰り返し、元亀3年(1572年)5月に多
聞城を攻め、翌天正元年12月に落とし、城を壊し始め、同7年に多聞城の石を
奈良中の人夫に申し付けて筒井へ運ばせている。翌8年、織田信長は一国一
城の方針から、大和国では郡山城のみを残し、他のすべての城郭は破却する
事になる。筒井順慶は郡山城を与えられた。
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辻堂
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富雄川
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庚申堂(金輪院)
金輪院(こんりんいん)は、大和郡山市小泉町にある天台宗の寺院。小泉
庚申堂と呼称される方が多い。山号は尭山山(ぎょうせんざん)、本尊は
青面金剛。大和国の庚申信仰の総道場として知られる。万治2年(1659年)、
小泉藩第2代藩主片桐貞昌の家臣で茶人でもあった藤林直良(宗源)が創
建し、小泉氏の祈願寺となった。大徳寺玉舟和尚の筆による縁起「宗鐇記」
によると、貞昌の父片桐貞隆が家蔵の什器を焼き捨てたとき灰の中から
青面金剛像一体が発見され、この像が後に本尊になったという。

「青面金剛」しょうめん‐こんごう
帝釈天(たいしゃくてん)の使者の金剛童子。身体は青色で、六臂(ろっぴ)
または二臂、四臂、目は赤くて三眼で、怒りの形相をとる。病魔を退散させ
る威力があるとする。後世、中国の道教思想に由来し、庚申(こうしん)待の
本尊とする。
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小泉城跡
小泉氏は大和に勢力を持つ越智氏に属し、越智氏と対立する筒井氏と敵対
関係にあったが、永享11年(1439)越智氏が室町幕府管領の畠山持国の
軍勢によって熊野へ追われ、長禄3年(1459)には筒井順永が小泉城を攻め、
時の城主小泉重栄は自刃。豊臣秀長が大和郡山城主となる前年の天正12
年(1584)、秀長の家老羽田長門守が一時的に小泉城に入る。徳川幕府の時
代となると、元和元年(1615)茨木城主片桐且元の弟である片桐貞隆が大和
小泉に1万6千石を与えられ、元和9年(1623)片桐貞隆は小泉城跡に陣屋
を構え、小泉藩が成立。延宝元年(1673)には内堀が完成し、城下町も整備
された。片桐氏は貞隆を初代とし、11代続いて明治維新を迎える。
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高林庵
片桐貞隆の嫡子貞昌は石州流茶道の祖として有名。貞昌は「片桐石州」と名
乗り、徳川四代将軍家綱の茶道指南となる。石州流茶道は徳川幕府の茶道と
して諸大名や旗本などを中心に日本各地に普及。小泉片桐家は明治以後も
現在まで連綿と茶道を守り伝えている。小泉城跡(陣屋跡)は現在もなお片桐家
の居で、財団法人「薙刀池高林庵」として石州流茶道宗家の本部となっている。
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六道山古墳・・・樹木が伐採されてはげ山になっていた
慈光院の大型バスの駐車場から南に位置する丘一帯が六道山古墳。前方後
円墳で、墳丘の主軸全長約100m、後円部の径約75m、高さ約14m、前方部
の幅約50m、高さ約6mの3段築成で、面積6畝5歩と記録され官有地である。
慈光院の南にあたるので慈光院山とも呼ばれ5世紀初頭頃の古墳と考えら・・・
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慈光院
石州流茶道の祖として名高い片桐貞昌が初代小泉藩主である父の貞隆の
菩提を弔うために建立した臨済宗大徳派の寺院。
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此処から以降は、2月12日の近鉄ハイキング・筒井駅~2 として
           下記のセカンドブログへ掲載します。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/
九頭上池公園(昼食)
九頭上池
今の形になったのは、1,550年頃だそうだけど、この池ができたのは、 それ
より前と言われてる。石碑によると、 聖徳太子 が西暦 615 年頃に、満願寺
というお寺を最後に建てた。そしてその南に太子がつくられたのがこのため
池だと書いてあります。九頭上池の九頭上というのは、九つの頭の上に太子
が乗っている、という意味だそうです。池の水面に、満願寺の建物がうつし
出され、「のぞみ、みちる池」ということで、地域の人たちのこころのよりどころ
だった。その後、南北朝の争いのころ、小泉出雲という豪族がこの地を治めて
いたという。現在は、小泉市場土地改良区が管理している。

小南神社
御祭神:誉田別命、素盞鳴命
境内社:八玉大明神
由緒:主神誉田別命は第15代応神天皇の別名で八幡大菩薩と称し古くより武家
の雄たる源氏の氏神として知られその神威は特に武門に高い。素盞鳴命は天照
大御神の弟神で八俣遠呂智退治で有名な武神で神仏融合時は牛頭天王と称し
国土の総べてを支配される神として昔から天王さんと称讚されています。故に八
幡宮天王両宮と呼んでいる。

郡山金魚資料館
先代の代表嶋田正治が1982年に「1年中いつでも金魚が見ることができる観光
施設が全国の何処にもない」と私費で「郡山金魚資料館」を開館しました。 金魚の
原種から高級金魚、その他全国の少数の人たちからなる保存会。愛好会の人々
の努力により絶滅から守り続けられている貴重な品種など約40種類の金魚が展
示しております。日本出最初に出版された金魚の飼育方法の図書や初めて金魚
の事を書いた本等、金魚に関する古書や錦絵などが展示されている。
※参考迄に 金魚のふる里 大和郡山
大和郡山の金魚は柳沢吉保の子・吉里が甲斐の国から郡山藩主として国替りして
きた時に持ってきたと伝えられいます 。下級武士の内職として飼育していた金魚の
養殖技術が、徳川の末期から明治の初期にかけて付近の農家に伝えられ、水利の
便の地の利を得て日本の主要産地となりました。

新木山古墳(にきやまこふん) 陵墓参考地
全長122.5mの前方後円墳。陵墓参考地として宮内庁が管理している。
後円部径約67m、前方部幅約75mを測り、周囲には盾形の濠がめぐる。
2011(平成23)年11月、宮内庁は柵の改修工事に伴う発掘調査で出土した埴輪
片から、新木山古墳の築造時期が5世紀中頃とみられると発表した。あったはずの
葺石がほとんど残っておらず、後世に大きくイジられていたことも明らかになった。

郡山城・柳沢神社・天守台・大手門
郡山城
大和郡山城は筒井順慶によって築かれた城です。その後は秀吉の実弟である羽柴
秀長の居城となりました。江戸時代には譜代大名が歴代城主を務め、柳沢吉里が
入封後は柳沢氏が明治維新まで居城としました。大和は石材に乏しい国であった
ため、天守台の石垣には墓石や地蔵までもが用いられています(これを「転用石」と
呼びます)。なかには「逆さ地蔵」と呼ばれる、逆さになった状態で石の間に埋もれて
いる地蔵があります。現在は本丸の石垣や堀が残っており、また大手門、大手東隅
櫓、大手向櫓が復元されています。

柳沢神社
大和郡山城の本丸跡には現在、柳澤神社があります。
初代郡山藩主・柳沢吉里の父であり、5代将軍・徳川綱吉に重宝された側用人
の柳沢吉保を祀る神社で、1880年(明治13年)10月29日に創建されました。
創建当時は現在、奈良県立郡山高校のある二の丸跡に社殿が建てられまし
たが、1882年(明治15年)6月に現在の場所に移されました。

天守台
大和は石材に乏しい国であったため、天守台の石垣には墓石や地蔵までも
が用いられています(これを「転用石」と呼びます)。なかには「逆さ地蔵」と
呼ばれる、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵があります。

郡山八幡神社
聖武天皇の勅命により、東大寺大仏の鋳造が完成した天平勝宝元年(749)に、
東大寺大仏の守護神として宇佐八幡神社を勧請されることとなった。『続日本
書紀』同年十二月十八日に、宇佐八幡神を平群郡に迎え、二七日に京に入り、
京南の梨原宮に新殿を造って神宮としたとある。京入りの前日、和州薬師寺
門前の休ヶ丘で一泊された。
時の豪族中尾氏は勧請し、柳八幡大菩薩と尊崇し小高き丘の上、天高くそび
え立つ老木の松の根方に斎祀申し上げ、この地を”柳”と命名した。(奈良県の
宇佐八幡宮系の宮では一番古く、現在大和郡山市の神社のうちでも、ただ
一社の氏神神社であります。)
又、郡山八幡神社では「グラブ神社」としての活動も行っております。

金魚BOX
大和郡山市の柳町商店街の一角、郡山八幡神社の直ぐ近くにある、
公衆電話BOXの中で金魚が泳いでいます。

薬園八幡神社(やくおんはちまんじんじゃ)
八幡宮とも呼ばれ、主に、神道において応神天皇の神霊とされる八幡神を祀っ
ている。八幡神社は末社を含むと、全国で4万社以上あるともいわれ、大分
宇佐市にある宇佐八幡(正式には宇佐神宮)が総本社だ。 八幡神は、東大寺
の大仏造立の際、その守護神として勧請され、はるばる北九州から奈良へと
やって来られた。八幡神が遠出されるのはこれが初めてのこと。そのときの様
子を、『続日本紀』はおよそ次のように伝えている。
-749年11月19日、大仏完成擁護の神託を奉じた八幡神は、宇佐から平城京
へと向かった。同24日、孝謙天皇は石川朝臣年足(いしかわのあそんとしたり)、
藤原朝臣魚名(うおな)等の重臣を迎神使として派遣。路次の諸国から兵士
100人以上を出させて道中警護し、八幡神が通過する国では殺生を禁じた。また
八幡神の入京に従う人への給仕には酒や肉を用いず、道路は掃き清められた。
大仏鋳造直後の12月18日、八幡神は平群郡(現在の大和郡山市南部)から入
京する。平城京の南、梨原宮(なしはらのみや)において神殿を造って神宮とし、
八幡神を迎え祀った。僧侶40人を招き、悔過の行を7日間行った。同27日、天皇
の乗り物と同じ紫色の輿に乗った八幡神とお供の禰宜尼・大神朝臣杜女(おおみ
わのあそんもりめ)は、東大寺へ向かう。そして、大勢の僧侶や文武百官らが出
迎える中、転害門をくぐった―。
入京する際、八幡神が立ち寄った「梨原」は、かつて広大な薬園があったとされる
地だ。東大寺へと向かう際、八幡神の分霊をこの地の神殿にとどめて祀ったとさ
れ、それが薬園八幡神社の創始といわれる。翌750年、今の同社御旅所の地で
ある清澄荘薬園に遷座した後、1491年、郡山城築城に伴って現在の社地に移さ
れた。薬園八幡神社のある一帯は奈良時代、「薬園の庄」とも呼ばれていた。
その名残を偲ばせるかのように、八幡神がとどまりし古社には薬草が植えられ、
今も緑の葉をそっと揺らしている。

JR郡山駅
おまけ
自宅近くへ戻って、夕日を・・・

2月9日の近鉄ハイキング・田原本駅~1

2月11日         2月9日の近鉄ハイキング・田原本駅~1
              田原本町、古き時代の面影を求めて 
知人と2人で参加、朝の内は雨が降ってて、雨がやむと一時風が強くなり、
でもまあまあ?終わって見ると良いハイキング日和だったのかな?と・・・・
コース  近鉄万歩ハイキング  歩程約6km
田原本駅(受付・スタート)~津島神社~田原本町役場~警察署~鏡作神社
~八坂神社~寺川~首切地蔵~安養寺~鍵の蛇巻~唐古・鍵遺跡~唐古
・鍵考古学ミュージアム~田原本役場~田原本駅(ゴール)~西田原本駅 
此の日、私が歩いた距離は、20300歩で約13.5kmでした・・・
鏡作神社以外、今回が初訪問の所ばかりだったので?有意義な日でした・・・
志都美駅
左側の葛城山は雲で見えないが右の二上山は晴れて・・・
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田原本駅で受付
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津島神社
津島神社は、田原本町旧町域の南側に鎮座する。神仏分離以前は祇園社と
いった。現在も夏に盛大な祇園祭が催されることもあり、地元では「祇園さん」
の愛称で親しまれている。現在、祭神は素戔鳴命、櫛名田姫命、誉田別命、
天児屋根命などとなっているが、本来は牛頭天王を祭神とする田原本村の産
土神だったと考えられる。この神社は、明治中期に書写された天治二年(11
25)の棟札に建立の文字があったとされることから、創建年代の早いことがう
かがえる。神社の南西側の発掘調査で、神社を囲む中世末の大溝が検出さ
れている。
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田原本町役場へ向かう
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田原本町役場~田原本警察署
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鏡作神社へ向かう
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鏡作神社
鏡作坐天照御魂神社は、田原本町八尾に鎮座する延喜式内大社で、「和名抄」
鏡作郷に鎮座する。祭神は天照国照日子火明命、石凝姥命、天児屋根命で、
古来から鏡鋳造の神として信仰された。このうち石凝姥命は、天照大神の御魂
の神爾の鏡として内待所に祀る鏡を鋳造したとされる神で、社伝ではその試鋳
の鏡が鏡作神社のご神体であると伝える。神社の本殿は、桁行7.55m、梁行
1.64mで、東面した5間社流造である。本殿3社と2つの合間から成る。江戸時代
中期頃の建築と考えられるが、詳細は不明である。
この神社では、毎年2月下旬に御田植祭が行われる。お田植舞、豊年舞、牛使
いが行われ、近隣の氏子でにぎわう。牛使いが乱暴にすると慈雨に恵まれると
いう。なお、社宝として三神二獣鏡が伝えられるが、これは三角縁神獣鏡の外区
が欠落したものと考えられる。末社には、鏡作伊多神社(宮古・保津)、鏡作坐
若宮神社(八尾)、鏡作麻気神社(小阪)などがある。
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唐古・鍵遺跡へ向かう
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寺川
田原本町を流れる1級河川、両岸に桜並木の堤防があり、きっと綺麗だろうな?
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  ミツマタも・・・三椏 ミツマタ:和紙の材料
日本銀行券(紙幣)、金糸銀糸用紙、金箔の間にはさむ箔合紙、カナ用書道
用紙、美術工芸紙などに用いられっる。
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此の続きは、2月9日野近鉄ハイキング・田原本駅~2 として
           下記のセカンドブログへ投稿しました。
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セカンドブログでは
首切地蔵~安養寺~鍵の蛇巻~唐古・鍵遺跡~唐古・鍵考古学ミュージアム
~田原本役場~田原本駅(ゴール)~西田原本駅迄の詳細を掲載します。 
八尾の首切り地蔵
八尾の薬師堂の入り口、中(なか)街道に面した所に「首切地蔵尊」がまつられて
います。むかしむかし、この地は罪人の首切り場であったことから、村人はここに
地蔵をまつり、以降「首切り地蔵」と呼ぶようになったということです。首切り地蔵で
有名なのは、柳生(やぎゅう)街道にある「首切り地蔵」ですが、これは宮本武蔵が
宝蔵院試合のあと、柳生の里に但馬守を訪れる途中、石地蔵を一刀のもとに切り
捨てたことで、この名が付いたという話です。しかし、八尾の「首切地蔵尊」はもっと
現実味のある話です。下ッ道(しもつみち)(中街道)沿いにあることや、付近に薬師
堂、大日堂がのこっていることなどから、この首切り地蔵も古くから村人に親しまれ
てきた仏にちがいありません。安養寺も直ぐ近くに有ります。
安養寺
木造阿弥陀如来立像は、大字八尾の安養寺に安置されている。像は、玉眼
・粉溜塗の特徴をもつ。粉溜とは、白土を下地にその上に金泥を塗ったもの
である。快慶が好んで用いた手法。X線写真によると、眼の奥に蛇腹状の文
様が映っている。これは玉眼を入れるための工法によるもので、快慶仏には
時々この手法が認められるという。足ほぞには快慶作を示す「巧匠安阿弥
陀佛」の墨書が認められるが、これは後世に書き改められたものと考えられ
ている。安養寺は、寛永10年(1633)、源蓮社宝誉上人の開山と伝えられる。
鍵の蛇巻
むかしむかし、今里の村に男の竜が住んでいました。村中の若い娘や赤子を
とり、田畑を荒らして作物を食べつくし、村人を大変困らせていました。そんな
とき、一人の旅の僧がとおりかかって、「五月五日の節句の日にショウブの葉で
太刀(たち)をつくって家の入り口に飾ればよい」と教えて行きました。村人たちは
そろってそのようにすると、さすがの竜もショウブの臭気(しゅうき)にまけて、村の
なかの大きな榎の木に逃げ昇り、空高く去って行ってしまいました。それから今
里の村は平和になったということです。
その後、今度は、鍵の村に大きなムジナが出るようになりました。今里村の竜の
ように、人をとり田畑を荒らしました。そこへ天に昇ったかつての竜が降りて来て、
村の鍵の辻のソノヤブというところに入りムジナを取り殺して、鍵の人々の苦しみ
を除いてくれました。 それで鍵はもとの平和な村に戻ったそうです。
田原本町「鍵(かぎ)の蛇巻(じゃま)き」
「安養寺」から西へ行って「寺川」を渡ると、北中学校の北西角、道を隔てた所に
「鍵の蛇巻き」があります。田原本町鍵では、毎年6月の第一日曜日に豊饒祈願
と男子の成人を祝って節句の行事が行われ、藁で作った蛇の頭を17歳の男子
が担いで、他の少年達が蛇の尾の方を持ち、お互いに引っ張りながら、集落の中
を練り歩きます。これは17歳の男子が少年の仲間から離脱する儀式で、巡行の
後、榎(えのき)の木に蛇の頭を下にして、尾の方を上へと巻き付けるので、
「鍵の蛇巻き」は、「降(くだ)り龍」と云われて、昭和58年文化庁より「今里の蛇巻
き」と共に大和の野神行事として、無形民俗文化財に指定されました。
唐古・鍵遺跡(からこ・かぎ・いせき)
唐古・鍵遺跡は奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積地、奈良県磯城郡
田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。
現段階の調査で認知されている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみ
ならず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。
明治34年、高橋健自が『大和考古雑録』の中で「磯城郡川東村大字鍵の遺跡」として
紹介した事を始め、全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地で
もあったと見られ、弥生時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落では
ないかと見られている。平成11年(1999年)に国の史跡に指定され、ここから出土した
土器に描かれていた多層式の楼閣が遺跡内に復元されている。
唐古・鍵考古学ミュージアム
平成16年11月24日、田原本青垣生涯学習センター内に唐古・鍵考古学ミュージアム
を併設し出土品などの展示を行っている。
寺川を渡って
田原本役場~
田原本駅(ゴール)~西田原本駅

2月8日の竹取公園&馬見丘陵公園ー1

2月9日         2月8日の竹取公園&馬見丘陵公園ー1

家内を職場に送ってその足で馬見丘陵公園の梅林へ、様子見に?
馬見丘陵公園の駐車場が未だ開いていなくて、竹取公園の駐車場へ
車を入れて、馬見丘陵公園の梅林へ様子を見に回りました、今朝は
異常?に冷えてて冷たかった、指がちぎれる様な寒さ?霜で真っ白・・・

家内を職場へ送って
何時もの日の出スポットで・・・
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竹取公園
遠くに二上山が・・・
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オタフク南天も心なしか白い?
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馬見丘陵公園南エリア
茶色の芝生が真っ白、寒い寒い
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巣山古墳の方も真っ白?
工事も途中
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蝋梅が未だ咲いていた
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墳観橋を渡って
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橋の欄干の霜を少し集めると・・・
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梅林へ向かう
ほんのり朱く見える・・・
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梅林
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此処から以降は、
2月8日の竹取公園&馬見丘陵公園ー2 として
           下記のセカンドブログへ投稿しました。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-02-10
梅林
馬見丘陵公園の上池
竹取公園へ向かう
馬見丘陵公園と竹取公園を結ぶ陸橋
ユリノキ
竹取公園
車で馬見丘陵公園の北エリアへ行って見た
馬見丘陵公園北エリア