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3月26日の近鉄ハイキング・三山木駅~寺田駅ー1

3月30日     3月26日の近鉄ハイキング・三山木駅~寺田駅ー1
               いにしえの山背古道を歩く   
知人と2人で葉書予約の近鉄あみま倶楽部会員限定ハイキングに参加、
途中の和菓子屋で和菓子とお茶のふるまいも有り、参加賞もカンバッジと
メジャー付き方位磁石ストラップ?が貰えて、桜は未だ未だ開花したばかり
で見頃では無かったが天候に恵まれて素晴らしい気持ち良いハイキング。
コース  近鉄あみま倶楽部会員限定ハイキング  歩程約15km
三山木駅(受付)→バスでJR玉水駅~井出の玉川堤~小町塚~椿坂公園
~ビューポイント~谷川ホタル公園(昼食)~高神社~大蓮寺~和菓子の
松屋(お茶)~鴻ノ巣山運動公園~鴻の巣山~水度神社~城陽市~寺田駅
参加者250人ぐらい?此の日の私は、32800歩で約21.3km歩いた事に・・・
26日の早朝
何時もの場所で・・・
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志都美駅
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大和郡山市
JR郡山駅~近鉄郡山駅へ
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近鉄郡山駅
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三山木駅(受付)
バスでJR玉水駅前へ、玉水駅~
井出の玉川堤を歩く
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小町塚
小野小町の墓
平安時代初期の歌人・小野小町については、各地に生誕、終焉地の伝承がある。
井手の玉津岡神社参道の坂途中に、小野小町之塚といわれる4つの四角い石積
みがある。石は井手寺(光明寺)の礎石を利用したものという。井手を歌った小町
の歌に、「色も香もなつかしきかな蛙鳴く井手のわたりの山吹の花」
小野小町は山城の井手の里に住し、69歳で井手寺で亡くなった。(『冷泉家記』)
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椿坂公園
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ビューポイント
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谷川ホタル公園へ向かう
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谷川ホタル公園(昼食)
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高神社
高神社は、古くから多賀郷に住む人の信仰を集めてきました。
鎌倉時代の高神社文書には、社殿改築の時に猿楽(さるがく)が奉納された
とあり、これは日本で最初の猿楽に関する記録の一つとなっています。 京都
府指定文化財の本殿は慶長9年(1604)の建立で、桃山時代の絢爛豪華
(けんらんごうか)な建築を今に伝えています。 また、社(やしろ)を囲む鎮守
の森は、京都百景の一つです。
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天満神社へ向かう
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天満神社・・市辺天満神社(いちのべてんまんじんじゃ)
菅原道真を祭神とする旧市辺村の産土神です。
本殿は慶長11年(1606年)に建築されたと伝えられています。
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大蓮寺へ向かう
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此の続きは、
3月26日の近鉄ハイキング・三山木駅~寺田駅ー2 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-03-31
続きは、
大蓮寺
引接山 極楽院 大蓮寺(いんじょうざん ごくらくいん だいれんじ)
開基 慶長5年(1600) 関ヶ原の合戦の年、専蓮社深誉和尚により開山
安産阿弥陀如来縁起
本堂には、慈覚大師の作と言われる端整な阿弥陀如来像があります。この阿弥陀
様に「安産の寺」の由来があります。慈覚大師は晩年、比叡山の念仏堂にこもり、
念仏三昧に修行し、最後に阿弥陀如来を彫りました。仕上げに掛かっていると、夢
の中で阿弥陀如来が「比叡山から京都へ下りて、女人の厄難(お産の苦しみ)を救
いたい」とお告げになりました。お告げに従い、女人禁制だった比叡山を下りて、真
如堂に安置されると、たちまち京都の女性たちから圧倒的な信仰を集めるようにな
り、阿弥陀如来のお告げ通り、多くの女性たちの出産の苦しみを救われました。時
代が流れ、応仁の乱で真如堂は荒廃し、阿弥陀様は行方知れずになってしまいま
した。後に大蓮寺開山の深誉上人が伏見の町を歩いていると、一軒の荒れたお堂
に光まばゆい阿弥陀如来がありました。誰もこの阿弥陀如来をお守りしている気配
のないことに心を痛めた上人は、慶長五年(1600)に大蓮寺を建立し、この阿弥陀
如来を安置しました。
一方、真如堂は元禄年間の頃に復興し、失ってしまった阿弥陀如来を探し始めま
した。やがて大蓮寺の阿弥陀如来がかつての真如堂の本尊であることが分かりま
した。幕府から阿弥陀様を真如堂へ返還するように命じられた上人は、二十一日
間、念仏を称え続けました。すると成満の二十一日目の朝、驚いたことに阿弥陀
如来像が二体に分かれたのです。結局、大蓮寺と真如堂で一体ずつ安置すること
になり、現在まで伝えられています。以降、後光明天皇の勅願所となり、古くより
京都の人をはじめ、多くの方々に信仰されてきました。
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嶋利兵衛の墓
大連寺には、つるや葉を伴った3本のさつま芋をかたどった嶋利兵衛の墓があり、
裏面に「琉球芋宗匠嶋利兵衛」と刻まれている。さつま芋といえば、享保の凶荒で
飢えに苦しむ民衆の救荒作物として甘薯の栽培を奨励をした青木昆陽が思い浮
かぶ。しかし、南山城の地にさつま芋(琉球芋)の栽培法を教えて普及させた人は
嶋利兵衛であり、青木昆陽より十数年も先んじていたという。嶋利兵衛は、宝永
・正徳年間(1706年~16年)に長池(現、城陽市)で薬種問屋を営み、観音堂村の
農民にも苗を貸して薬草を作らせていたが、その中に、幕府禁制の外国の薬草が
あって、罪を問われて琉球鬼界ケ島への流刑に処せられた。この島にはすでにさ
つま芋が栽培されており、利兵衛は享保元年(1716年)に赦免されて帰国する際に、
髪の毛の中に芋の苗を隠し入れて持ち帰り、さつま芋の栽培普及に努めたので、
近隣一帯にさつま芋が伝わったという。これが、城陽市の名産の寺田芋(荒州芋)
の起源だという。
ところが、近時、上津屋石田神社で利兵衛の孫が書いた「琉球芋根元助力願口上
書」が発見され、それには、利兵衛が流されたのは壱岐で、宝暦3年(1746年)に赦
免・帰国となったとある。これが正しいとすれば、青木昆陽による甘薯普及のほうが
早かったことになる。長池や寺田で琉球芋が植えられるようになったが、栽培法が
わからず、利兵衛が種芋を持ち帰って栽培法を教えたということになるのであろうか。

和菓子の松屋(お茶)
古くから「五里五里の里」と呼ばれ、宿場町として栄えた京都、城陽に御座います。
江戸時代に旅籠としてはじまった松屋は、京と奈良とを行き交う旅人達との縁を結
んできました。和菓子司として創業し、人と人とを結ぶ存在でありたいとの思いは、
菓子作りに励む今でも変わりません。
松屋名物『いもようかん』誕生の由縁
城陽の特産物のひとつである『寺田芋』。まったりとした口当たりと甘みで全国的に
も名高いこのサツマイモは、木津川沿いの荒州地区で作られています。度重なる
木津川の氾濫によって運ばれた肥えた泥が、この地でしか味わえない、素晴らし
い芋を作るのです。この寺田芋を城陽に持ち込んだのが、『島利兵衛』です。利兵
衛は、宝永・正徳年間(1704~1716年)に長池で薬種問屋を営んでいましたが、
扱っていた薬草の中に幕府御禁制の品があった罪で流罪の刑を受けました。その
地(琉球鬼界ケ島)で巡り会ったのが、このサツマイモだったのです。
享保元年(1716年)に許されて城陽に戻るとき、利兵衛は密かにサツマイモの苗を
持ち帰り、試行錯誤のすえ栽培に成功。以来、この地をおそった飢饉でも数え切れ
ない多くの人々を救い、その感謝の気持ちとして、大蓮寺境内にある利兵衛のサツ
マイモをかたどったこの墓には、「琉球芋宗匠島利兵衛」と刻まれています。そして
この墓の裏面には、墓碑建立の世話人として「松屋治郎兵衛 菓子屋清蔵」と刻ま
れ、松屋の先祖と島利兵衛の関わりを知ることが出来ます。代々の松屋当主は、
この先祖に思いをはせながら、『島利兵衛』との縁の証でもある「いもようかん」を
作りつづけています。

常光庵
門前の芭蕉像と柿本人麻呂像。門前に芭蕉像があるのは。もともと東山の
円山公園内にあった芭蕉堂が失われたのを惜しみ、その跡に西光院の別院
を建てたのが縁です。
常光庵・西光院寺額。常光庵は天正17年(1589年)後陽成天皇の御代僧道尊
によって旧地(京都市下京区東洞院)に草庵を結んだのが始まりと伝えられる。
西光院は三条天皇の第4皇子が開創されたと伝記にある。その後西隠法師により
復興され、以後は衰退の一途をたどり、住持全明法尼かねて昵懇の常光庵先代
義彰法尼に復興護持を託したのがそもそも常光庵と西光院との法縁です。
したがって一つの建物内に常光庵・西光院の本堂があります。
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鴻ノ巣山運動公園
アンズ
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鴻ノ巣山
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水度神社(みとじんじゃ)
『山城国風土記』逸文に、「久世の郡水渡の社祗社」とあることから、風土記が編纂
された奈良時代には存在したと考えられる。創祀は平安時代初期といわれる。平安
時代前期に成立した延喜式には、「水度神社三座」と記されている。1873年(明治
6年)に村社、1882年(明治15年)に郷社、1907年(明治40年)には府社に昇格した。
現在は社格は廃止され、神社本庁に属し、「宗教法人 水度神社」と称している。
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城陽市
寺田駅
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3月23日の近鉄ハイキング・鶴橋駅~1

3月28日       3月23日の近鉄ハイキング・鶴橋駅~1
      真田幸村ゆかりの地を巡り 勇姿にそびえ立つ大阪城を目指して
知人と2人で参加、此れ迄に何度も歩いたコースだが、又改めて歩いてみた
コース  近鉄 駅フリーハイキング  鶴橋駅東出口受付9時半~11時
鶴橋駅(受付)~真田山公園~三光神社~宰相山公園~善福寺(どんどろ
大師)~心眼寺~円珠庵(鎌八幡)~越中井~難波宮跡~大阪城公園・大
手門・西の丸庭園前・桜門・天守閣前広場・極楽橋・青屋門~大阪城公園
・桃園・噴水前~玉造稲荷神社~玉造日之出通りアーケード街~鶴橋駅
此の日の私は、23800歩で約16km歩いたことに・・・
23日の早朝
何時もの場所で・・・
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志都美駅
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鶴橋駅東出口(受付)を済ませて
真田山公園
大阪冬の陣の際、真田幸村が陣を構えた場所です、日清戦争後
に騎兵第四連隊がおかれました。其の跡地は公園化され陸軍墓
地(現在は宰相山公園)も有りました。
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三光神社
大阪冬の陣の際、真田幸村が大阪城からの抜け穴(地下道)を
設けた事で有名な神社です。境内には抜け穴の史跡や幸村像が
残されており、桜の名所としても知られています。又、当神社は
大阪七福神の「寿老神」に当ります。全国でも中風除けの神を祀
る唯一の神社です。
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宰相山公園
真田山公園が分断されて三光神社屋陸軍墓地が有ります。
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善福寺(どんどろ大師)
善福寺(ぜんぷくじ)は、大阪市天王寺区空堀町にある高野山真言宗の寺院。
「どんどろ大師」「どんどろ」と通称する。山号は如意山。院号は甘露院。「どん
どろ大師」の名で知られる。平成21年(2009年)山門前に、歌舞伎「傾城阿波
の鳴門 どんどろ大師門前の場」に登場する「お弓 おつる」母子像の銅像が
建立された。
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   ミツマタの花が綺麗に・・・
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心眼寺
真田幸村・大助父子の冥福を願って建てられたお寺で、門扉には
真田家の家紋である六文銭が張り付けられています。又、「まん
なおし地蔵」といわれるお地蔵さんが祀られています。
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真田丸顕彰碑
真田幸村が大坂の陣の際に築いた「真田丸」の地に顕彰碑を設置し、
平成28年2月1日(月曜日)に除幕式を行いました。
現在、大阪明星学園(天王寺区餌差町)がある辺りは、戦国武将・真田
幸村(信繁)が大坂冬の陣で築いた大坂城の出城「真田丸」があった地
とされています。天王寺区役所は、昨年7月、地域の歴史的・文化的資
産を活かし、天王寺区の活性化を図ることに賛同いただいた同学園と
「真田丸顕彰碑の設置に関する協定」を締結し、このたび、同学園の東
側(心眼寺側)に面した敷地の一角に「真田丸顕彰碑」が設置されました。
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円珠庵へ向かう
ヤマモモの花が満開・・・
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円珠庵(鎌八幡)
古来より霊木として信仰を集めていた榎に真田幸村が鎌を打ち付けて
記念し、江戸時代頃には祈祷寺として信仰が広まっていたお寺です。
「悪縁切り」のお寺として有名になったのは昭和にはいってからで、境内
にある榎にはびっしりと鎌が打ち付けられています。
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越中井へ向かう
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越中井
1600年(慶長5年)に細川忠興が徳川家康に從って上杉攻めに出陣す
ると、石田三成は在阪諸大名の妻子を人質にしようとしましたが、忠興
夫人である細川ガラシャは此れに從わず、家臣に胸を突かせて死去し
ました。現在は遺構として越中井と呼ばれる井戸が残っています。
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難波宮跡
現在、難波宮の跡地の一部は難波宮跡公園として整備されている。
難波宮の遺跡は現在の馬場町・法円坂・大手前4丁目付辺に及んでおり、
大阪歴史博物館やNHK大阪放送会館の複合施設がある一角も難波宮
の跡である。大阪歴史博物館の地下1階では、地下遺跡の様子を見学す
ることができる。同博物館前にある茅葺きの高床倉庫は、法円坂遺跡で
見つかった5世紀(古墳時代)の巨大高床倉庫群のうち1棟を復元した物
で、難波宮以前から重要な交通拠点となっていた難波津の遺構である。
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大阪城公園
大阪城
1583年(天正11年)に豊臣秀吉に築かれ、豊臣氏の居城および豊臣政権
の本拠地となりましたが、大阪夏の陣で豊臣氏の滅亡と共に焼失しました。
徳川政権は豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張りを改
めさせ豊臣氏の影響力と記憶を払拭する様に債権下とされています、
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・大手門
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・西の丸庭園前
枝垂れ桜が綺麗に咲いて・・・
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此の続きは、
3月23日の近鉄ハイキング・鶴橋駅~1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-03-28 
・桜門
・天守閣前広場
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・極楽橋
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・青屋門

大阪城公園
・桃園

・大噴水前
植木市が開催されていました。ベニスモモの花が満開になってて綺麗だった
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玉造稲荷神社
豊臣・徳川時代をとおして大阪城の鎮守として信仰された古社で、
境内には豊臣家奉納鳥居(石の鳥居)が残されています。
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玉造日之出通りアーケード街
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鶴橋駅

3月21日の近鉄てくてくマップ奈良・飛鳥駅~1

3月24日        3月21日の近鉄てくてくマップ奈良・飛鳥駅~1
                 近鉄てくてくマップハイキング
コース  春の飛鳥路
飛鳥駅~岩屋山古墳~耳なほし地蔵~欽明天皇陵~猿石(吉備姫王の墓)
~飛鳥周遊歩道~丘の上の公園~鬼の俎・雪隠~天武・持統天皇陵~
亀石~岡寺牟佐神社~岡寺駅迄  気持ち良い春のぽかぽか陽気の中、  
此の日の私は、午前中、13800歩で約9.3km歩いたことに・・・
飛鳥駅でスタンプを貰い
踏切を越えて岩屋山古墳へ向かう
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岩屋山古墳
岩屋山古墳(いわややまこふん)は奈良県高市郡明日香村に所在する古墳
時代終末期の古墳。切石加工を施した巨石を使用した横穴式石室があり、
これは石室の編年の指標の1つとなっている。1968年(昭和43年)に国の史
跡に指定された。横穴式石室が開口していたことから、古くから、その存在が
広く知られた古墳である。一辺45メートル前後の方墳と考えられるが、八角
墳と見る説もある。
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耳なほし地蔵
明日香・栗原集落の朝風峠のお地蔵さん、右の肩の上が大きく欠けている
のは、「朝風地蔵」と平田集落にある「みみなほし地蔵」が争って、片方は肩
を取られ、片方は耳を取られた。というおもしろい言い伝えがあるそうです。
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欽明天皇陵へ向かう
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欽明天皇陵
欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月
15日(571年5月24日?))は、第29代天皇(在位:宣化天皇4年12月5日
(539年12月30日?) - 欽明天皇32年(571年?)4月15日)。この代に、百済
より仏教が公伝し、任那が滅亡した。 継体天皇の嫡子、母は手白香皇女
(たしらかのひめみこ、仁賢天皇皇女) 皇后:石姫皇女(いしひめのひめみこ、
宣化天皇皇女) 。皇后の他に妃5人、子達が27人、27人の中には、敏達
天皇、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇や用明天皇皇后で厩戸皇子(聖徳
太子)の母や吉備姫王の父桜井皇子も・・
現在の皇室から少なくとも遡れる継体天皇以降の歴代天皇では昭和天皇、
明治天皇に次いで長く在位したことになる。しかし、いずれも推測・・・
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猿石(吉備姫王墓)
吉備姫王墓(猿石)(きびひめのおおきみ・きびひめのみこ)
欽明天皇陵の南側に隣接する丘陵上にあり、直径8メートル程度の円墳で
あると考えられている。吉備姫王は欽明天皇の孫で、皇極天皇、孝徳天皇
の母、天智・天武天皇の祖母である。
「書紀」には「檀弓岡(まゆみのおか)に葬る」とあり、この場所が該当するか
どうかは疑問符のつくところである。 柵内に猿石4体が安置されている。
元禄15(1702)年に、欽明天皇陵近くの水田から掘り出された石像4体で、
もとは欽明天皇陵に置かれていたらしいが、明治初年ごろにここに移された
と考えられている。左側に「女」と「山王権化(さんのうごんげん)」これらの
愛称は外見から後になってつけられたもので、実際に女や山王権化として
作られたわけではありません。女だと思われたのは、下腹部に女性性器が
彫刻されているから。 山王権化とは神仏習合の神であり、天台宗の守り神
です。神社の名前にもありますね。神の使い手としてサルを崇拝しているの
で、そのように呼んでいるのでしょう、男性器を露出しています。右側の二体
は「僧(法師)」と「男」 「男」の石は帽子を被っていて、揉み手をしているよう
でニンマリしています。この当時、飛鳥の人口の8割ほどが中国や朝鮮半島
から移住した渡来人であったと言われています。仏教、鉄器、機織り、土木
など当時最先端の学問や技術の伝道者、また亡命者として日本に渡ってき
た人々です。猿石は彼らが祖国を懐かしんで作ったものかもしれません。
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飛鳥周遊歩道
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鬼の俎・雪隠へ向かう
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此の続きは、
3月21日の近鉄てくてくマップ奈良・飛鳥駅~2 として
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丘の上の公園

丘の上の公園から

鬼の俎・雪隠
畑の中を通る遊歩道の脇の高台には「鬼の俎」が、遊歩道を挟んだ高台の
麓に「鬼の雪隠」がある。両者は直線距離にして数十メートル離れているが、
元は1つの古墳の石室だったものが、盛土が無くなったうえ、二つに分かれ
てしまったものである。元々は繰り抜かれた横口式石槨の石室(鬼の雪隠)
とその底石(鬼の俎)であった。

天武・持統天皇陵へ向かう

天武・持統天皇陵
天武天皇は、兄である天智天皇の遺志をつぎ、中央集権国家の形成を推し
進めた。壬申の乱に勝利し皇位に就いたが、686年(朱鳥1)9月、病により
崩御した。持統天皇は天武天皇の皇后であり天智天皇の娘である。天武
天皇とともに中央集権国家の確立に尽力した。天武帝亡き後即位し藤原
京の造営を行っている。檜隈大内陵と呼ばれたこの天武・持統陵は、藤原
宮の南方中軸線上に営まれ、八角形の五段築成と考えられている。天武
帝のために築かれたが、後に702年に亡くなった持統天皇が火葬され合葬
されることとなる。1235(文暦2)年に盗掘された際の実検記である『阿不幾
及山陵記』に記された記事と、『日本書紀』『続日本紀』などの記述が一致し
たため、天武・持統合葬陵であることが確定した。

亀石へ向かう

亀石
亀石(かめいし)とは、奈良県明日香村川原にある亀の形をした遺構。長さ
3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に亀に似た彫
刻が彫られていることからこの名前で呼ばれている。ユーモラスな顔つきか
ら明日香村観光のシンボルともなっている。
亀石と呼ばれているが、顔が三角形であることや目が上に飛び出している
など、亀というよりはカエルの特徴をとらえていると見る人もいる。上部が自
然石のままで下部のみが加工されていることから、現在の下面が本来の上
面で実は上下逆であったという説も奈良国立文化財研究所の報告書で出さ
れてはいるが、有力視はされていない。
下部には石矢の跡が見られるが、建造当初からあったものなのか酒船石の
ように後世になって石を割ろうとした跡なのかも分かっていない。もし当初か
ら残された跡だとすれば亀石は未完成品であるとの証拠にもなり、後世に割
られたとしたら本来は現在よりもかなり高さのある石だった可能性がある。
言い伝えによれば、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻(たいま)の
ヘビと川原のナマズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは
干上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまった。亀を哀れに思った村人
達は、「亀石」を造って亀の供養をしたという。 亀石は、以前は北を向き、次
に東を向いたと言う。そして、今は南西を向いているが、西に向き、当麻の
ほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化す、と伝えられている。

岡寺駅へ向かう

岡寺駅の地下道を潜って高取川を渡って

牟佐坐神社(むさにます神社)
式内社・牟佐坐神社に比定されている古社。 元は、久邇郷牟佐村築田にあり、
安康天皇の御代、牟佐村主青が、生霊神をここに奉祀した。 一説には、壬申
の乱で大海人皇子軍が金綱井で戦った時、高市県主許梅に、身狭社(むさ)の
生霊神が神がかり勝利に導いたので、篤く祀られたという。元来、生霊神を祀
る神社であったと思われるが、近世には、境原天神と称し、天児屋根命と高皇
産霊命を祀り、菅原道真を祀る天神社とも呼ばれていた。天神宮とも春日明
神とも呼ばれており、明治初期に、生雷と思兼神を祭神としたが、その後、当
地が孝元天皇の軽境原宮跡に治定されてからは高皇産霊命と孝元天皇が
祭神となった。

岡寺駅

五位堂駅を降りて
二上山

3月17日の高取「町家のひなめぐり」・壺阪山駅~1

3月22日      3月17日の高取「町家のひなめぐり」・壺阪山駅~1

今日は、珍しく家内を連れて高取の10回目の「町家のひなめぐり」を見に
電車で壺阪山駅迄行き高取城下町の土佐街道を雛飾りを覗きながら・・・

下記開催中の高取「町家のひなめぐり」
3月1日(火)~3月31日(木)午前10時~午後4時迄、花で彩るひなめぐり。
近鉄電車
特急電車に乗る事はないが
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壺阪山駅をおりて高取町へ
最初に見つけた・・・
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先ず、広場のジャンボ雛
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光永寺へ向かう
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光永寺
人頭石&おひなさまはガラス越しに見るだけ・・
(真宗本願寺派) 無量山「光永寺」です。当地の伝承では、往昔了煎法師
の開基(真言宗でした)文明年中(1469~87)に真宗に改宗したようです。
現在の本堂は天明年間(1781~89)の建造。本尊;阿弥陀如来像
光永寺(こうえいじ)の庭にある人の横顔をした石。
世紀中頃に「あすか石」という花崗岩で造られたもので、飛鳥の宮殿に
やってきたペルシャ人の横顔ではないかと言われています。ただ、誰が
何のために造ったのかは分かっていません。
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子嶋寺の方へ
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Uターンして
土佐恵比須神社の方へ向かう
薬祖大神とも呼ばれ、健康祈願のお社として知られます。
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土佐恵比須神社
おひなさま
薬祖大神とも呼ばれ、健康祈願のお社として知られます。
六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で古里土佐国を離れこの地に
召し出されたものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷が
かなわず、この地に住み着いたところから土佐と名付けられたと思われる。
故郷を離れて生きていく生活を余儀なくされた人達のたった一つの自由な
意思は古里の名を今の場所につけることであった。
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此の続きは、
3月17日の高取「町家のひなめぐり」・壺阪山駅~2 として
          下記のセカンドブログに詳細を投稿します。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-03-22-2
続きは
ペットボトルの蓋で作った・・・

高取城の大砲も有る
高取城
日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)
とともに日本三大山城の一つに数えられる。元和元年(1615年)の一国一
城令の際も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が
残されている。展示の大砲は、天誅組と戦った時の大砲のレプリカ?

メイン会場

くすり資料館

お里沢市ゆかりの
伊勢屋屋敷跡
高取藩の公用伝馬の役や大年寄を務めた伊勢屋の屋敷跡。屋敷は、重要
文化財に指定された際に奈良県民俗博物館に移築され、現在は、同地で
見学することができる。

植村家長屋門(高取城家老)
この門は、高取城の旧大手門通りに面し、旧高取藩筆頭家老屋敷で、
華麗な長屋門は県の重要文化財に指定されています。現在は、旧藩主
植村家の住宅になっています。

清水谷ミニジャンボ雛



3月15日の3月度歩こう会・伊丹駅~1

3月21日         3月15日の3月度歩こう会・伊丹駅~1
            伊丹空港スカイパーク&田能遺跡&猪名川
葛城山や六甲山山頂が銀色に輝く寒い朝だったが、春の日差しに恵まれて
気持良く歩く、丁度良いハイキング日和、朝の冷込みのせいか参加者91人。
コース   歩程約6km
JR伊丹駅~有岡城跡(集合)~猪名川~伊丹空港スカイパーク(昼食)~
田能遺跡(集合写真撮影)~春日神社~猪名川~JR伊丹駅(解散)
3月15日の早朝
いつもの場所で・・・
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志都美駅
葛城山山頂が銀色に・・・
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伊丹駅
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有岡城跡
有岡城跡は,猪名川の西岸,伊丹段丘(だんきゅう)東縁部の一角に位置
します。もとは伊丹氏が南北朝時代から戦国時代にかけて伊丹城を築いて
いたところです。天正2年(1574年)11月,織田信長の武将荒木村重は、伊
丹氏にかわって伊丹城に入城しました。そして城の名を有岡城と改めて、大
改造をおこないました。城だけでなく、侍町と町屋地区をも堀と土塁で囲んだ
惣構(そうがまえ)の城としての価値を認められ,国の史跡に指定されました。
織田家の重臣で摂津国を任されていた荒木村重が信長に対して謀反を起こ
し、有岡城に籠城した(有岡城の戦い)。この時、主君の小寺政職も村重に呼
応しようとしたために、10月、黒田孝高は村重を翻意させるために有岡城に
乗り込んだが、成功せず逆に土牢に幽閉される。1年後の天正7年(1579年)
10月19日、本丸を残すのみとなっていた有岡城は開城し、救出された。
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黒田官兵衛
黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将
・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。キリシタン大名でも
あった。諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といった
が、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは剃髪後の
号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。豊臣秀吉の側近と
して仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。
伊丹駅前~猪名川を渡り
伊丹空港スカイパークへ向かう
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伊丹空港の端に到着
いよいよ伊丹空港スカイパークへ
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伊丹空港スカイパーク
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スカイパーク午前(昼食迄)
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此の続きは、3月15日の3月度歩こう会・伊丹駅~2 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-03-22
続きは、
スカイパーク午後

田能遺跡へ向かう

田能遺跡(たのいせき)・・弥生時代全期間 紀元前300年~西暦300年頃
田能遺跡は、弥生時代の全期間にわたる集落跡です。住居のほかそれまで不
明であった近畿地方弥生時代の墓制を明らかにした木棺墓、土壙墓、壺・甕棺
墓などの墓が発見されました。木棺墓の中には碧玉製管玉の首飾りや白銅製
の腕輪を身につけた特別な扱いをうけていたと思われる人物の墓がありました。
発掘された遺構は地下に保存された後、全面に土盛りし植栽を施し、屋外には
住居や高床倉庫などを復元し、出土した資料は資料館で公開しています。

春日神社
主祭神 天児屋根命(あめのこやねのみこと)
立札によると、酒井村の鎮守神として猪名川と藻川の中州に祀られていたが
天正8年(1580年)に村の移転と共に現地に移された。

伊丹駅へ向かう

伊丹駅

3月13日の奈良公園 鹿よせと東大寺・奈良駅ー1

3月18日      3月13日の奈良公園 鹿よせと東大寺・奈良駅ー1
                なら観光ボランティアガイドと行く
奈良駅前に8時半集合と、つらい時間帯だったが「鹿よせ」を見てみたいと
1人で参加、参加者の中に此のパーティーで何度か一緒に歩いた方が・・・
コース JRふれあいハイキング  なら観光ボランティアガイドの会
奈良駅~三条通り・開化天皇陵~南都銀行本店~高札&奈良県里程元標
~猿沢の池・采女神社~興福寺・三重塔・南円堂・五重塔・他~春日大社の
一の鳥居~飛火野・鹿よせ~東大寺・南大門・中門・鏡池・鐘楼・二月堂・法
華堂・手向け山八幡宮・校倉造りの建物・大仏殿(解散)~氷室神社~興福
寺~三条通り~奈良駅へ歩く
鹿よせに感動!?ホルンの音色に鹿があちこちから駆け足?で集まってくる、
集まった鹿達には、褒美のドングリを、又、観光客達が鹿煎餅を・・・
歩程約6kmのコースだったが、私は15700歩で10.5km歩いた事に・・・
13日の早朝
何時もの場所で
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志都美駅から
西名阪自動車道の香芝SA付近
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奈良駅&旧駅舎(観光案内所)
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三条通り
開化天皇陵
開化天皇(かいかてんのう
開化天皇(孝元天皇7年 - 開化天皇60年4月9日)は、日本の
第9代天皇(在位:孝元天皇57年11月12日 - 開化天皇60年4月9日)。
『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、
いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。
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南都銀行本店(レトロビル)
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高札&奈良県里程元標
高札場
高札は道が交差した人の往来の多いところに、人に目立つように一段
高くした「高札場」に掲示されました。幕府の権威を示すように 石垣や
土盛の上に建てられ、柵がつけられ、矢来で囲むこともありました。
その管理責任は藩に命じ、村人に決まりをきびしく守らせ、付近の掃除
や手入れもさせた。文字の読めない人のため、村人に読み聞かせるのも
名主など村役人の仕事でもありました。民衆にとってみれば、高札場は
幕府の権威そのものだったため、恐れるべき存在としてアンタッチャブル
だった。また高札場は距離を表示するときの原点にもされ、集落という単
位を表し、住人たちのまとまりの象徴でもあった。
“高札”には、掟、条目、禁制などが書かれ、奈良時代末期から既にあり、
江戸時代に全盛で、明治初期に撤廃されたようである。現在あるものは、
後に観光用に建てられた “高札”とのこと。
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猿沢の池
七不思議:・澄まず・濁らず・出ず・入らず・蛙はわかず・藻は生えず
・魚が七分に水三分
猿沢池の水は、決して澄むことなくまたひどく濁ることもない。水が流入する
川はなくまた流出する川もないのに、常に一定の水量を保っている。亀はたく
さんいるが、なぜか蛙はいない。なぜか藻も生えない。毎年多くの魚が放た
れているので増える一方であるにもかかわらず、魚であふれる様子がない。
水より魚の方が多くてもおかしくないような池。
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采女神社
「奈良時代に帝に仕えていた采女(後宮で帝の給仕をする女官の職名)が、
帝のご寵愛が衰えたのを嘆いて猿沢池の池畔の柳に衣を掛け、入水したの
で、その霊を慰めるために社を建てた。しかし、采女は我が身を投じた池を
見るにしのびないと一夜のうちに社を後ろ向きにした。」と伝えられています。
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興福寺・三重塔
興福寺
法相宗の大本山として知られる興福寺。その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、
さらにさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。
その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人
である鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置
するために造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福
寺の別称として使われています。
その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、
その地名を取って厩坂寺とされました。
さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移される
とともに、「興福寺」と名付けられたのです。
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興福寺・南円堂
西国三十三所観音霊場の第九番札所です。
弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願って
お建てになった八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、
和同開珎(わどうかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き
上げたことが発掘調査であきらかになりました。この儀式には弘法大師空海
(こうぼうだいしくうかい)が深く係わったことが伝えられます。
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興福寺・五重塔
古都奈良を象徴する塔です。塔は仏教の祖釈迦の舎利(しゃり)(遺骨)を
おさめる墓標です。天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)
の娘光明(こうみょう)皇后がお建てになりました。初層の東に薬師浄土変
(やくしじょうどへん)、南に釈迦浄土変(しゃかじょうどへん)、西に阿弥陀
浄土変(あみだじょうどへん)、北に弥勒浄土変(みろくじょうどへん)を安置し、
また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこうだらにきょう)を安置し
ていたと伝えられます。
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此の続きは、
3月13日の奈良公園 鹿よせと東大寺・奈良駅ー2 として
           下記のセカンドブログに詳細を投稿します。
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春日大社一の鳥居
春日大社の表玄関、一之鳥居をくぐると東へ、馬場としても用いられた真っ
すぐな参道が続きます。 藤原氏の貴族たちが、華やかな行列を整えて進
んだ道でもあります。入ってすぐ右手の丘の上には、おん祭に神様が降り
てこられるという影向の松があります。一之鳥居には、大きな鉄の輪が付
いて、春日祭やおん祭にはここに大榊(現在はなぎ)が立てられます。
江戸時代までは常に立てられていました。俗界との境である鳥居は、神様
が現れる神聖な場所です。

影向の松(ようごうのまつ)
春日大社一の鳥居をくぐってすぐの、参道右側に生育しているクロマツで
ある。延慶2年(1309年)の春日権現験記にも記された古い巨木であった
が、1995年(平成7年)に枯れたため、現在は巨大な切り株の横に後継樹
の若木が植えられている。
この地は昔、春日大明神が翁の姿で降臨され、万歳楽を舞われた地とされ
る。教訓抄によると、松は特に芸能の神の依代(よりしろ)であり、この影向
の松は能舞台の鏡板に描かれている老松の絵のルーツとされている。

馬出橋(まだしのばし)
一之鳥居から萬葉植物園前にかけての表参道は馬場で、参道中このあたり
だけ直線になっています。その始点がこの橋で、現在も若宮おん祭の競馬は
ここから出走します。また八位の橋ともいいます。

飛火野
現在は飛火野と呼ばれていますが、古くは春日野とも呼ばれ、御蓋山を仰ぐ
古代祭祀の地でした。 また万葉の昔には貴族たちが、打球(ポロ)をしたこ
とが、知られ、平安時代にも王朝人のあこがれの名所で、 特に若菜摘み、
花見など春の遊びの名所でした。
古くは「とぶひの」ともいわれ、鹿島大明神が春日の地にお着きになられた
とき、八代尊様が光明のため口から火を吐かれ、その炎がいつまでも消え
ず飛んでいる様に見えたことからこの名がついたとも、飛火が古代の通信
施設「烽火(のろし)」の意味であるからだといわれています。

東大寺
東大寺(とうだいじ)は、奈良県奈良市にある華厳宗大本山の寺院である。
金光明四天王護国之寺(きんこうみょうしてんのうごこくのてら)ともいい、
奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。「奈良
の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊とし、開山(初代
別当)は良弁である。「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広
い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、聖武
天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国
分寺」と位置付けられた。

鐘楼
鎌倉時代、13世紀初頭の建築。吊られている梵鐘(国宝)は大仏開眼と同
年の天平勝宝4年(752年)の製作で、中世以前の梵鐘としては最大のもの
(高385センチ、口径271センチ)。俗にこの梵鐘は擬人化して「奈良次郎」と
呼ばれる

三昧堂(四月堂)
延宝9年(1681年)の建立。寄棟造二重、本瓦葺き。本尊十一面観音立像
(重文)、阿弥陀如来坐像(重文)などを安置する。旧本尊の千手観音立像
(重文)は東大寺ミュージアムに移座。

法華堂(三月堂)
境内の東方、若草山麓にある。東大寺に残る数少ない奈良時代建築の一つ
であり、天平仏の宝庫として知られる。創建当時は羂索堂(けんさくどう)と呼
ばれ、東大寺の前身寺院である金鐘寺(こんしゅじ)の堂として建てられたも
ので、創建時期は天平12年(740年)から同20年(748年)ごろと推定されて
いる。建物の北側(参道側から見て向かって左側)の、仏像が安置されている
寄棟造の部分を正堂(しょうどう)、南側の入母屋造部分を礼堂(らいどう)と
呼ぶ。正堂は奈良時代の建築、礼堂は奈良時代にも存在したが、現在あるも
のは鎌倉時代の正治元年(1199年)ごろ(異説もある)に付加したものである。

二月堂
旧暦2月に「お水取り」(修二会)が行われることからこの名がある。二月堂は
平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の大火には焼け
残ったとされているが、寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、
2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音(おおがんのん)、
小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見る
ことを許されない絶対秘仏である。建物は2005年12月、国宝に指定された。

多羅葉(たらよう)
雌雄異株で、花期は4~5月頃、4mmほどの小さな淡黄緑色の花が群れて
咲く。秋には8mmほどの小さな球形の赤い実がなる。葉は肉厚で20センチ
ほどもある長楕円形をしており、その縁は鋸のように細かいきざぎざとなって
いる。日本では葉の裏面に経文を書いたり、葉をあぶって占いに使用したり
したため、その多くは寺社に植樹されている。
また、葉の裏面を傷つけると字が書けることから、郵便局の木として定めら
れており、東京中央郵便局の前などにも植樹されている
文字を書くことのできる性質がインドで経文を書くのに使われた貝葉の原料
であるヤシ科のタラジュ(多羅樹)という木のようだということで、タラヨウ
(多羅葉)名前の由来となっている。
戦国時代にこの葉の裏に文字を書いて情報のやりとりをしたという話もあり、
これがはがき(「葉書」)の語源になったといわれ、葉書の木、郵便局の木と
呼ばれることもある。

若狭井
奈良に春を呼ぶ行事、東大寺の「修二会(しゅにえ)」。三月一日から十四日ま
で境内の二月堂で厳修(ごんしゅう)される。そのクライマックスが「お水取り」。
このため行事全体もそう呼ばれる。
修二会は、心身の穢(けが)れを払った僧侶(練行衆(れんぎょうしゅう))十一人
が、本尊の十一面観音像の前で「五体投地(ごたいとうち)」などの行(ぎょう)を
行い、国や社会、人々にかわって罪過(ざいか)を懺悔(さんげ)し、天下泰安、
五穀成就、万民快楽(ばんみんけらく)を祈願する法会(ほうえ)である。東大寺
の実忠和尚(じっちゅうかしょう)が天平勝宝四年(七五二)に創始したとされる。
「お水取り」は、十二日の深夜から十三日の未明にかけて行われる。暗闇の中、
練行衆らが二月堂の南の石段を降り、二月堂下にある閼伽井屋の中の井戸
(若狭井)からお香水を汲み上げ、本尊にお供えする。この若狭井は、若狭国
(わかさのくに)(福井県)の小浜と水脈がつながっているという。実は、この関係
について奈良の昔話はこう伝えている。
昔、実忠和尚が、修二会の行法中(ぎょうぼうちゅう)、「神名帳(じんみょうちょう)」
に書かれた全国の一万七千余の神様の名を読み上げ、参集(さんしゅう)を求めた。
神々はすぐに集まってこられたが、若狭国の遠敷明神だけが川で魚釣りをしていて
遅刻された。それを他の神が口々に咎(とが)めた。そこで遠敷明神は「これは申し
訳ない。お詫びとして、ご本尊にお供えする霊水を若狭からお送りしよう」といい、
二月堂下の大岩の前で祈られた。すると、大岩が動いて二つに割れ、黒と白の鵜
が飛び立ち、続いて霊水が湧き出た。和尚はこれをお供えの水とされた。これが今
も二月堂下にある若狭井戸である。

法華堂経庫・・・校倉造り
手向山八幡宮南側に建つ手向山八幡神輿庫も校倉造り

※奈良に校倉造りの建物が8つある
6つが東大寺の周辺に有り、2つが唐招提寺に有る。
正倉院と正倉院の構内にある聖語蔵。法華堂経庫(重文)。手向山八幡宮
南側に建つ手向山八幡神輿庫。勧進所内、八幡殿左に建つ勧進所経庫
(重文)。東大寺本坊経庫(国宝)。
唐招提寺には校倉が2つ有ります。
宝蔵と経蔵。ともに天平時代に建てられた校倉造りです。
特に、経蔵は寺創建以前の新田部親王邸の建物を改築したものと推定され
ていて正倉院よりも古いと云われています。宝蔵、経蔵ともに国宝です。

氷室神社
平城遷都にともない春日野に氷池や氷室をつくり、稲作に重要な夏の天候
を呪う祭紀を行ったのが始まりとされています。  献氷祭ではコイやタイを
封じ込めた高さ1メートルほどの氷柱が神前に供えられます。
由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』
にも散見される。和銅3年(710年)、元明天皇の勅命により、吉城川上流の
月日磐に氷神を奉祀し(下津岩根社)、厳寒に結氷させたものを氷室蓄え、
翌年に平城京へ献氷させる制度が創始された。

3月12日の近鉄ハイキング・大和八木駅~1

3月14日      3月12日の近鉄ハイキング・大和八木駅~1
           近鉄 酒蔵みてある記 今井町 河合酒造「出世男」
今日は朝から雨だが
12日は、知人と4人で参加、春のハイキング日和、気持ちい良く・・・
コース  近鉄 駅フリーハイキング 酒蔵みてある記  歩程約9km
大和八木駅(受付)~入鹿神社~人麻呂神社~宗我坐宗我都神社~
天高市神社~今井町・春日神社~河合酒造~八木西口駅
1200人くらいの参加者?到着した時点で甘酒は終了しており残念!!
此の日の私は、23000歩で約15km歩いたことに・・・
志都美駅へ行く途中
土筆が・・・
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志都美駅
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大和高田駅で
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大和八木駅で受付を済ませて
入鹿神社へ
入鹿神社(いるかじんじゃ)
入鹿神社は、奈良県橿原市小綱町(しょうこちょう)にある神社である。
蘇我入鹿とスサノオを祀る。スサノオは明治時代より祀られたものである。
蘇我入鹿の木造坐像を神体とする。現在の橿原市周辺は蘇我氏ゆかり
の地であり、「蘇我」、「曽我」といった地名も残る。小綱町の隣の曽我町
には、蘇我馬子が創建した宗我都比古神社があり、蘇我氏の始祖を
祀っている。
明治時代に、皇国史観に基づいて逆臣である蘇我入鹿を神として祀る
のは都合が悪いとして、祭神をスサノオに、社名を地名からとった
「小綱神社」に改めるように政府から言われたが、地元住民はそれを
拒んだという。日本書紀に基づいた「蘇我氏逆臣説」が日本史に通説
となっている今に至るまで、地元の人々から崇敬を集めている。
境内には神宮寺としてかつて仏起山普賢寺があり大日如来が祀られて
いた。神仏分離の際に普賢寺は廃寺となったが、建物と本尊の仏像は
残されて成等山正蓮寺の管理となり、「大日堂」という名称で現存して
いる。大日堂および大日如来木像は国の重要文化財になっている。
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人麻呂神社
人麿(ひとまろ)神社は、万葉歌人で三十六歌仙である柿本人麻呂
(かきのもとのひとまろ)を祭神とする神社です。石灯籠と狛犬は明治
14年に奉献されています。普段は樹木に覆われた静かな境内も、毎年
5月4日に行われる「すすつけ祭」の当日には元気な子どもたちの姿と
歓声でいっぱいになります。
神社のある地黄(じお)町の地名は、漢方の薬草サオヒメ(地黄)を盛ん
に作っていたことに由来すると言われています。
地黄町の人麿神社は、葛城市新庄町の柿本神社から分祀されたと伝
えられます。拝殿の前には御神木が有ります。
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宗我坐宗我都神社へ向かう
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池の向こうに畝傍山が・・・
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宗我坐宗我都神社(そがのそがつひこじんじゃ)
祭神は、
宗我都比古大神(そがつひこのおおかみ)
宗我都比売大神(そがつひめのおおかみ)
推古天皇の御宇(6世紀末から7世紀前葉)に当地を拠点とする蘇我馬子
が蘇我氏の氏祖である蘇我石川宿祢夫妻を祀ったことを起源とする。
『延喜式神名帳』では大社(官幣大社)に列し、朝廷からの崇敬を受けて
いた。明治に村社に列した。
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蘇我川緑地(昼食)へ向かう
レンゲや雪柳が
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蘇我川緑地
二上山を眺めながら昼食
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蘇我川を渡り堤防を歩く
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此処からは、
3月12日の近鉄ハイキング・大和八木駅~2 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。
           http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/
後半は、
蘇我川堤防を天高市神社へ向かう

天高市神社(あめのたけちじんじゃ)
延喜式神名帳に、『大和国高市郡 天高市神社 大 月次新嘗』とある
式内社だが、今、地元では八幡宮と称している。
「天高市神社(アメノタケチ) 通称:曾我八幡宮
当社は『三代実録』によりますと、第56代清和天皇の御代、貞観元年(859)
正月27日に大和国天高市神に従五位上の神階を授け奉る、との記事が
あります。また、延喜の制により名神大社に列せられ、古くより朝廷の信仰
も篤く、月次・新嘗の官弊に預かっております。しかし、星霜うつり、中世から
江戸期頃に至って当社は、曾我八幡宮とも称されました」とあり、その創建
由緒などは記されていない。当社の創建由緒・年代あるいは祭祀氏族名
など示唆する史料等はないが、上記・栞にいうように、三代実録・貞観元年
正月27日条に「大和国従五位下・・・天高市神・・・従五位上を授け奉る」
とあることから、9世紀以前から続く古社であることは確かといえる。
「祭神は、事代主命(えびす様)一柱に祭祀してきましたが、後世になり
品陀別命(応神天皇)・息長帯姫(神功皇后)・日売神の八幡三柱を合祀して、
四座として尊崇されてきました」とある。

今井町
かつて「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄した今井町。
現在も町の大半の町家が大切に保存され、江戸時代の姿を残しています。
飛鳥川の流れにかかった蘇武橋を渡ると、現在も江戸時代そのままのたた
ずまいと情緒を残す町・今井町があります。
今井町(いまいちょう)は、奈良県橿原市の北西方に位置する東西600m、
南北310mの区域。戦国時代の寺内町が原型となり、今も江戸時代以前の
建物が多数存在する。近世以前の町並みがこれだけまとまって残っている
場所は日本では他に無いといわれ、重要伝統的建造物群保存地区に選定
されている。
江戸時代のまま残され、時代劇の撮影などにも使われる町並みは、世界的
に貴重な財産であり、平成5年には「重要伝統的建造物群保存地区」の選定
を受けています。
飛鳥時代には、「八木村付曽武橋当世八木村に俗にそむぼう乃橋というあり。
聖徳太子斑鳩宮より筋違道(太子道)を経て、曽武々の橋をわたり、八木の里
を過ぎて、橘宮に通い給いしなり」(玉林抄)とあり、聖徳太子が舎人調使麻呂
(つきのおみまろ)と秦河勝から献上された愛馬甲斐の黒駒を伴って曽武
(蘇武)井で休憩したと伝えられている。

今井町 春日神社
明治初年まで「常福寺」が有り、その鎮守社でした  
創建年代は不明ですが、慶安5年(1652)銘の石灯籠が有ります。
祭神;天児屋根命
今井町は興福寺の荘園であったので、春日神社が祭られています。
神宮寺の「常福寺」は、慶長18年(1613)に上棟され、延宝9年(1681)
には天台宗「多武峯」の末寺でした。現在も、表門・観音堂・行者堂が
建っています

河合酒造
奈良県橿原市今井町に息づく昔ながらの酒造り、代表銘柄「出世男」
今井町は、大和三山に囲まれ、江戸時代の古い町並が残っています。
1993年に国の重要伝統的建造物群保存地区”に指定され、昔ながらの
街並みが保存されています。
河合酒造は、その中でも国の重要文化財に指定されているほどの歴史
ある今井町唯一の蔵元です。屋号を「上品寺屋(じょうぼんじや)」といい、
明和9年(1772年)には既に酒造業を営んでいたと文書にも残っており
ます。現在に至っても昔ながらの伝統を守り、丁寧な酒造りを心掛け、
さらに「うまし酒」を醸す為、日々努力を続けております。
代表銘柄「出世男」は縁起の良い名前として皆様に喜ばれております。

蘇武の井の大榎
橿原の「今井町」に入る飛鳥川に架かる橋が蘇武橋です。この蘇武橋は、
聖徳太子が太子道を通って渡ったという橋です。橋の袂には蘇武之井と
言う井戸があり、聖徳太子が馬を止めて水を飲ませたと伝えられています。
蘇武の井の向かいには、樹齢400年の榎が時の流れをゆっくり見守って
います。 榎は、樹高が11m 幹周りが4.2mの大木です。

八木西口駅へ

おまけ
3月11日の引っ越し手伝い・・・
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3月10日の竹取公園&馬見丘陵公園ー2

3月14日       3月10日の竹取公園&馬見丘陵公園ー2
          馬見丘陵公園のカンヒ桜、河津桜、サンシュユ等・・・
今朝は、雨は降らないと言うので早朝、家内を職場に送ったその足で公園
駐車場へ向かい、此の時間でも開いている、竹取公園の駐車場へ車を置き
馬見丘陵公園のカンヒ桜や河津桜、サンシュユやコブシ、モクレン等を・・・・
舌打ちを続けていたマシキョ(奄美の方言)も、漸くホッホケキョと鶯に進化?
今朝は、カンヒ桜の下や奥の藪で♪ホッホケキョ♪とやかましく鳴いていた・・・・
竹取公園
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馬見丘陵公園と繋がる陸橋の上から
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馬見丘陵公園の南エリア
池の周りのカンヒ桜が咲き始めた、鶯もやかましい程に
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隣接する、未だに整備途中の巣山古墳
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馬見丘陵公園の南エリア
河津桜が満開を迎えている
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巣山古墳前の古墳状高まり
IMG_0251.JPGIMG_0253.JPG 此処までは、 3月10日の竹取公園&馬見丘陵公園ー1 として           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-03-13 此処からは、 3月10日の竹取公園&馬見丘陵公園ー2 として 南エリアの満開の河津桜、途中から詳細を掲載します。 IMG_0248.JPGIMG_0257.JPGIMG_0258.JPGIMG_0261.JPGIMG_0262.JPG

墳観橋(つかみ橋)陸橋から
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墳観橋(つかみ橋)陸橋を渡り、今朝は下池へ
倉塚古墳&一本松古墳
倉塚古墳
種 別:古墳・前方後円墳
時 代:古墳時代中期(5世紀前葉)
規 模:墳丘全長約180m、後円部直径約106m、後円部高約12m、
前方部幅約70m、前方部高約6.1m、周濠?幅約10m
全長180m の前方後円墳で、前方部を東に向けています。後円部南西側
に濠状の地形や堤状の地形が残っていますが、上池により抉られ詳細は
不明です。周辺の調査により埴輪の破片が出土しており、5世紀前半の
築造と見られます。1951 年に倉塚古墳の北東側円筒埴輪列中からから
円筒棺(倉塚1 号円筒棺)が出土し、棺内に直刀が副葬されていました。
又、南西100m の地点からも円筒棺(倉塚2 号円筒棺)が出土しています。
IMG_0276.JPGIMG_0270.JPGIMG_0273.JPGIMG_0277.JPG 一本松古墳 種 別:古墳・前方後円墳 時 代:古墳時代前期末~中期初頭(4世紀後葉~5世紀初頭) 規 模:墳丘全長約130m、後円部直径約80m、後円部高約10m、 前方部幅約80m、前方部高約5m、外堤上面幅約7.5m 倉塚古墳の北側にある全長130m、後円部直径80m、前方部幅80m の前方 後円墳で前方部を北に向けています。後円部と倉塚古墳の前方部が接する ような位置関係にあります。墳丘の調査は実施されていないので詳細は不明 ですが、2006年に外堤部分の調査が行われ、埴輪棺や陪墳が確認され、倉 塚古墳より古い4世紀後半~5世紀初頭の築造と考えられるようになりました。 また、周濠内から奈良時代の土器が多量に出土し、周濠は奈良時代に埋め られたものであることがわかりました。 IMG_0274.JPGIMG_0271.JPGIMG_0272.JPGIMG_0275.JPGIMG_0279.JPG 中央エリアの下池&周辺 IMG_0278.JPGIMG_0280.JPGIMG_0281.JPGIMG_0282.JPGIMG_0283.JPGIMG_0284.JPGIMG_0285.JPGIMG_0286.JPGIMG_0287.JPGIMG_0288.JPGIMG_0289.JPGIMG_0290.JPGIMG_0291.JPG コブシ IMG_0292.JPGIMG_0293.JPGIMG_0294.JPG ツバキ他 IMG_0295.JPGIMG_0296.JPGIMG_0297.JPG IMG_0298.JPGIMG_0299.JPGIMG_0301.JPG 此の続きは、  3月10日の竹取公園&馬見丘陵公園ー2 として            下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。           http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/ 公園館~ サンシュユ ナガレ山古墳 種 別:古墳・前方後円墳 時 代:古墳時代中期(5世紀初頭) 規 模:墳丘全長105m、後円部直径64m、後円部高8.5m、前方部幅70m、 前方部高6.2m かつて「お太子山」と呼ばれていました。前方部を南に向けた前方後円墳です。 墳丘は2段築成ですが、後円部北側に低い段があり、前方部南側も尾根を 切り通しています。この墳丘の形状に合わせて造成した地形の範囲は南北約 140m、東西約80m に及びます。昭和50 年から51 年にかけて一部が破壊 されました。昭和63 年度より整備事業を行い、東側は古墳築造当時の状況を 復元し、西側は築造から1600 年後の現在の小山のようになった状況で整備 しました。平成9 年5 月から一般公開されています。 馬酔木 白花とぴんく花の2種類が咲いている ユリノキ 南エリア&竹取公園への陸橋 ユリノキ 南エリアのカンヒ桜 竹取公園

3月5日のJRふれあいハイキング・寺田町駅~1

3月9日         3月5日のJRふれあいハイキング・寺田町駅~1
               太子ゆかりの町からコリアタウンを歩く
 Canonのコンデジで撮った写真を・・・
               Canon  PowerShot A2400IS
知人と3人で参加、春のハイキング日和の中、主催者発表の参加者380人、
コース  JRふれあい  大阪府歩け歩け協会主催  歩程約11km
JR寺田町駅~大道南公園(受付)~生野神社~舎利尊勝寺~御勝山南
公園~御勝山古墳~つるのはし史跡公園~コリアタウン(散策)&御幸森
天神宮~御幸森第二公園~真田山公園(昼食場所)~三光神社~大阪城
公園・梅林~JR京橋駅
ハイキングを終えて、阿倍野に戻り2人で飲み会?食べ飲み放題で・・・
私は此の日、26800歩で約18km歩いた事に・・・
5日の早朝
何時もの場所で
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志都美駅
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寺田町駅
大道南公園
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生野中央商店街
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生野八坂神社
東成郡誌第三編、生野村第四神社の項に『素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社、
大字林寺字林に鎮座せり…』とあり、その創祀は諸書に『元禄二巳(1689)年勧
請』とありますが、他にも説があって定かではありません。
東成郡林寺村(旧地名)の氏神様として崇敬されていましたが、明治41(1908)
年に天王寺区の河堀稲生神社に合祀され、境内地も『河堀稲生神社御旅所
(おたびしょ)』となりました。その後、氏子有志の熱誠なる努力によって復興造
営が完成し、昭和30(1955)年御神霊の還御を仰ぎ『生野八坂神社』の認証を
受け、『生野の祇園様』として今日に至っています。
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生野神社 
木瓜(もっこう)を神紋とする生野神社の古名は、牛頭(ごず)天王宮という神号
を用い、明治5(1872)年村社、明治42(1909)年素盞嗚尊(すさのおのみこと)
神社を経て、戦後の昭和22(1947)年に生野神社と改称。 神社の鳥居は小振
りながら宝永7(1710)年の刻銘があり、区内では最も古い貴重なもので、鳥居
より背の高い大きな歌碑と榎・いちょうの古木が景観を添えています。
また、拝殿前の一対の狛犬は天保4(1833)年のもので、お伊勢参りが大流行
した江戸期の貴重な記念物です。これは村の氏神さんへの崇敬を疎かにしな
かった証拠品となっています。
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舎利尊勝寺
南岳山舎利尊勝寺という。その縁起は寺伝によれば、約1400年前、聖徳太子
の創建と伝わる。この地は生野長者の旧地と言われ、長者に言葉の不自由な
子が生まれたが、四天王寺を創建するために来ていた聖徳太子がこのことを
知り、その原因を太子が前世で仏舎利3顆を与えた為と云い、それを吐くことを
命じたところ、長者の子供は3つの仏舎利を吐き出し、言葉は普通に話せるよう
になったという。太子は3つの仏舎利のうち、1つを法隆寺に、1つを四天王寺に、
残った1つを自筆の御影と共にの長者に付与された。大変喜んだ長者が屋敷内
に堂を建て、仏舎利を奉ったのが、舎利尊勝寺の始まりと言われる。
当山の中世の寺歴は不詳であるが、戦国時代末期の1547年(天文16年)両
細川軍がこの付近で対決した、いわゆる舎利寺合戦で荒廃した。その後、
1672年(寛文12年)徳川家綱が黄檗山万福寺の2代木庵に当地を与え、復興
させた。
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御勝山公園
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御勝山古墳
もとは岡山と呼ばれ、元和元(1615)年夏の陣の大坂落城のとき、徳川秀忠が
ここで戦勝の宴を催したことから御勝山の名で知られるようになりました。
南北112m、東西55m、高さ約8mの前方後円墳で現在は前方部が道路(勝山通)
と勝山南公園になっており、後円部を残すのみです。
市内では、茶臼山古墳(天王寺区)と帝塚山古墳(住吉区)と並んで重要な史跡
の一つです。中臣氏の祖『大小橋命(おおおはせのみこと)』の墓であるといわれ
ていますが明らかではありません。
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勝山遺跡
大阪市域では、これまで縄文中期・後期(紀元前4千年ごろ)の森ノ宮遺跡(中央区)
が最古とされていました。しかし、平成2(1990)年10月から11月にかけて御勝山古
墳附近での調査の結果、縄文時代早期末から前期初頭(紀元前5千年ごろ)の土
器片が発見され、この附近を『勝山遺跡』と名付けられました。出土した土器片の
中には、二枚貝の先端を擦り付けて土器の表面を整え、半分に割った竹のような
ものを縁取り部分に押しつけたC字形(割り竹の内側を押しつけたもの)やD字形
(割り竹の外側を押しつけたもの)の爪形文のものや二枚貝で円弧を描いた条痕
文のあるものがありました。C字形・D字形の爪形文は、粟津貝塚(滋賀県)で出
土した粟津式と呼ばれているものと同種の爪形文で、大阪府内では初めて出土
したものです。円弧を描いた条痕文のものは、東海地方の天神山土器との関連
が考えられ、当時の人の交流がうかがえる貴重な資料として注目を集めています。

つるのはし史跡公園
むかし、このあたりに鶴が多数飛来したことから橋の名となったようです。一説に
は、西暦 323年に百済川に架設された橋で猪甘津橋の古跡ともいわれ、『日本
書紀』仁徳天皇14年11月の条に『猪甘津に橋を為(わた)す。即ち、そのところ
を号(なず)けて小橋という』と記され、文献にでている橋ではわが国最古のもの
といわれています。『つるのはし』は、旧桃谷街道・鶴橋街道が旧平野川を渡る
地点に架けられ、古くは河内・大和への交通の要所。新平野川の開削により、
昭和15(1940)年に廃橋、石碑と当時の親柱4本を記念に保存し、平成9年4 月
に『つるのはし跡公園』として再整備されました。
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コリアタウンへ向かう
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生野コリアタウン(いくのコリアタウン)
大阪市生野区の桃谷にある「御幸通商店街」(御幸通東商店街、御幸通中央商
店会、御幸通商店街の3商店街)とその周辺の通称。公式サイトでもこの呼称が
用いられている。「大阪コリアタウン」「猪飼野コリアタウン」「桃谷コリアタウン」な
どとも呼ばれる。1993年(平成5年)から『コリアタウン』との呼称を使うようになる。
それまでは「朝鮮市場」と呼ばれ(ちなみに近隣住民の中には今もなお「朝鮮市
場」の愛称を使う者も少なくない)、在日韓国・朝鮮人にとって食材・日用品などが
豊富に揃う生活に密着した市場であった。その呼称利用の際に東、中央の両商
店街にはそれぞれ「百済門」「御幸通中央門」が完成。カラー舗装、街灯なども設
置。多くの在日韓国・朝鮮人が生活する街として、その特色を際立たせた。その
後、2002年日韓共催のワールドカップサッカーの開催や「韓流ブーム」の影響を
受け、鶴橋駅西側(天王寺区)一体から続く大規模なコリアタウンとして有名にな
る。現在は在日韓国・朝鮮人はじめ地元の人々の生活スペースでありながら、
観光客が多く訪れるようになった。
もともと古代からこの地は渡来人が多数住みついており、旧地名である「猪飼野」
の起源となっている。1910年の日韓併合を経て、1923年に済州島と大阪をつな
ぐ直行便「君が代丸」の就航をきっかけに、多くの朝鮮人が労働のために日本へ
渡航し、当時工業地化しつつあった猪飼野周辺に集まってきた。こうして自然と
朝鮮市場が誕生し、それを核に商店街としてスタートしたのもこの頃である。
日本の敗戦後、国に帰る韓国・朝鮮人、新たにやってくる韓国・朝鮮人と入れ替
わりはあるが、この市場を中心に生活し日本最大の在日韓国・朝鮮人の集住地
になった。「コリアタウン」にくれば韓国・朝鮮人にとって必要なものが揃う「地域に
密着した商店街」として発展した。
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御幸森(みゆきもり)天神宮
仁徳天皇・少彦名命(すくなひこなのみこと)・押坂彦命(おさかひこのみこと)を主
祭神としています。江戸時代には『御幸宮』または『天皇天神社』と称していました。
社頭に立てられた由来碑によると、仁徳天皇のとき百済野の北端にあった小丘に
鷹を放って天皇がそれをご覧になったところから御幸森の名が起こったと刻まれて
います。また、境内にある5本のムクノキ(椋)の老樹は『まちの貴重な緑をみんな
の力で守っていこう』との願いから、市の保存樹林に指定されています。
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御幸森第二公園
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此の続きは、
3月5日のJRふれあいハイキング・寺田町駅~2 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿しました。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-03-09 
真田山公園
真田山
真田山は1614年(慶長19年)大阪冬の陣の際、大阪城の弱点とされる南方面の
防御を強化するため、大阪方の真田幸村が築いた出丸で、宰相山や現在の真田
山とする説がある。現在の真田山はほぼ全域が公園となっている。三光神社の有
る、宰相山も俗に「真田山」と呼ばれていた。
三光神社
三光神社(さんこうじんじゃ)は、大阪府大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園に
ある神社である。天照大神・月読尊・素戔嗚尊を祀る。
反正天皇の時代の創建と伝えられる。創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職
として奉職し、現在は86代目と伝える。社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦
現在地の南東の鎌八幡の隣に遷座し、宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったと
いう。かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていた。
中風封じの神として有名な陸前国宮城郡青麻(現 宮城県仙台市宮城野区)の三光
宮(現 青麻神社)を勧請し、そちらの方が有名になった。明治15年(1882年)の『大
阪名所独案内』に三光宮を勧請した旨が書かれており、勧請はそれ以前ということ
になる。明治41年(1908年)、姫山神社に境内社・三光宮を合祀し、社名を「三光
神社」とした。3柱の神を祀ることから「三柱神社」とも、「日月山神社」ともいう。
鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。かつては大坂城の出城「真田丸」が置か
れ、大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわ
れ、社殿の下に残っている。境内には黒田屏風に描かれた真田信繁を元にした像
がある。千田嘉博によると、現在残っている抜け穴は真田信繁がつくったものでは
なく、真田丸を攻めた前田軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとしている。
大阪城・梅林
JR京橋駅~天王寺駅
阿倍野の居酒屋で飲み会・・・・


3月4日の竹取公園&馬見丘陵公園-1

3月7日          3月4日の竹取公園&馬見丘陵公園-1
             Canonのコンデジで撮って有った写真を・・・
               Canon  PowerShot A2400IS
3月4日の早朝
いつもの場所で、1枚
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竹取公園
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竹取公園~馬見丘陵公園への陸橋で
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馬見丘陵公園
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隣接する須山古墳
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馬見丘陵公園の蝋梅&河津桜
河津桜が大分さいて来た・・・
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馬見丘陵公園
巣山古墳に隣接する古墳状高まり
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此の続きは、
3月4日の竹取公園&馬見丘陵公園-2 として
         下記のセカンドブログへ詳細tを投稿します。
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/
馬見丘陵公園
巣山古墳に隣接する古墳状高まり

馬見丘陵公園の河津桜を・・・

佐味田狐塚古墳
此処にも陸橋を渡れば直ぐに梅林・・・
(佐味田狐塚古墳を真っ二つにした道路に掛かる)

馬見丘陵公園
上池&上池周辺、森の中のウッドデッキ

ナガレ山古墳前
馬酔木の花

ナガレ山古墳

竹取公園へ向かう
蝋梅&ユリノキ

竹取公園へ戻る陸橋
ユリノキ

竹取公園