So-net無料ブログ作成
検索選択

4月25日のてくてくマップ大阪-5・古市駅-2

4月27日         4月25日のてくてくマップ大阪-5・古市駅-2
                 ・羽曳野・藤井寺史跡・古墳コース
コース  近鉄あみま倶楽部てくてくマップ大阪-5・羽曳野・藤井寺史跡・古墳コース
古市駅~白鳥神社~誉田八幡宮~誉田山古墳(応神天皇陵)~大鳥塚古墳~古室
山古墳~仲津姫皇后陵~市野山古墳(允恭天皇陵)~大水川散策公園~津堂城山
古墳・津堂八幡神社~産土神社~小山善光寺~高鷲丸山古墳(雄略天皇陵)~吉村
家住宅~明教寺~高鷲駅   ※仲哀天皇陵~藤井寺駅をパスして 歩程約10km
此の日は、特別?応神天皇陵参拝の後にガイドさんに捕まり周辺の古墳の出土品に
始り色々な説明を聞いて時間を費やし、更にハイキング途中で見つけたリサイクル釣
り道具屋でも時間を費やし予定のコースを巡る時間が足りなくなり高鷲駅で帰路に・・・
志都美駅
葛城山が黄砂で霞んで見える・・・
IMG_1632.JPG

古市駅でスタンプを貰い・・・
IMG_1634.JPG
白鳥神社
日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。明治時代に近隣の高屋神社を合祀し、その祭
神である饒速日命、広国押武金日命(安閑天皇)を合せ祀る。元は軽里の西方の伊岐
谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ばれていた。南北朝・戦国
の兵火により衰微し、峯ケ塚古墳の頂の小祠として祀られてきたが、慶長9年(1596年)
の慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていた。天明4年(1784年)、古市の氏神
として現在地に移された。
IMG_1636.JPGIMG_1638.JPG
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
大阪府羽曳野市にある神社である。旧社格は府社。主祭神は応神天皇で、誉田御廟
山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座する。社伝によると、欽明天皇20年(559年)に
任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことを
もって創建としている。このことから最古の八幡宮を称している。奈良時代には行基に
よって神宮寺の長野山護国寺も創建された。永承6年(1051年)の後冷泉天皇行幸の
際に、元の鎮座地から1町ほど南の現在地に遷座した。八幡神が源氏の氏神とされる
ことから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信仰を受けた。南北朝時代か
ら戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって保護されたが、享徳3年
(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃し
た。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領をすべて奪われた。その後、豊臣
秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が焼失した
ため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造
中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。江戸
幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。
IMG_1647.JPGIMG_1653.JPGIMG_1657.JPG
東高野街道の石碑
数ある高野街道のうち、いちばん東側に位置する道筋。八幡(京都府八幡市)で京街道
(大坂街道) と別れ、河内国の東部を通り、長野(大阪府河内長野市)で西高野街道と合
流し、 以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へ至る。
いつ頃に形成されたかは定かでない。既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように
通されており、自然発生的に形成された道ではなく、計画に基づいて建設された古代道
路であると言われている。 淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)
周辺の湿地帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和
川を越えると石川の左岸に沿って通った。 平安時代には駅が設置され、京と河内国府
を結ぶ官道としても重要であったとされる。
その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般化に伴い、高野山参り
が盛んになると参拝道として賑わうようになった。
現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田林
泉佐野線と国道170号(旧道)各道の大半に相当または平行する。
誉田山古墳(応神天皇陵)
誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん、誉田山古墳)は、大阪府羽曳野市誉田に
ある前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。
宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみささぎ)」として第15代応神天皇
の陵に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和53年)に国の史跡に指定され
ている。名称は「応神天皇陵」とも。全国で大仙陵古墳(大阪府堺市)に次ぐ第2位の規
模の巨大古墳である。
2008年9月26日、大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を含む百舌鳥古墳群、誉田御廟山古墳
(応神天皇陵)を含む古市古墳群が世界遺産の国内暫定リストに追加された。歴史学
や考古学の一部学会には、世界遺産登録やその登録条件となる文化財指定が、宮内
庁管理下の天皇陵古墳の公開や発掘調査に道を開くものとして歓迎する声がある。
5世紀初頭の築造と考えられている。立地条件は、必ずしもよいとは云えない。それは、
土質の安定した段丘と不安定な氾濫源という異質の土地にまたがって墳丘を造営し
ているためという。 また、造営前から二ツ塚古墳が存在しており、それを避けるように
造ったため、周濠と内堤が歪んでいる。なお、前方部の一部が崩れているのは734年、
及び1510年にこの地で内陸直下型の大地震があったためと考えられており、前方部
の崩落部分のほぼ真下を活断層の生駒断層帯が走っている(地質調査で付近での
活断層の存在が判明し、誉田御廟山古墳の一部を通っていることが推定された。また、
地質調査により活断層が前回活動したと推定されている年代と、大地震があったと記
録された年が一致)。宮内庁が管理しているため、立ち入って学術調査が出来ないた
め確かなことが分かっていない。
IMG_1667.JPGIMG_1668.JPG
大鳥塚古墳
大鳥塚古墳は、墳丘の長さが110メートルの前方後円墳です。古市古墳群の中では中
形で、前方部は南を向いています。 造られた当時、墳丘の斜面には石が葺かれ、平坦
面には円筒埴輪が並んでいました。人を葬った施設の構造は分かっていません。副葬
品として銅鏡2面、鉄剣、鉄刀、鉄矛、鉄鏃が出土したと伝えられている。この古墳から
は、円筒埴輪のほか、家形・蓋(きぬがさ)形・盾形・靫(ゆき)形・冑(かぶと)形などの
さまざまな形象埴輪が出土している。出土した埴輪の特徴から、5世紀前半の築造と考
えられている。
IMG_1670.JPG
古室山古墳(こむろやまこふん)に登る
大阪府藤井寺市古室2丁目にある前方後円墳。1956年(昭和31年)9月22日に単独の
古墳として国の史跡に指定され、2001年1月29日には近隣の他の古墳とともに国の史
跡「古市古墳群」として、あらためて指定された。
古市古墳群の北部、誉田御廟山古墳の北東に位置する。全長約150メートル、後円部
径約96メートル、高さ約15.3メートル、前方部幅約100メートル、高さ約9.3メートル。墳
丘は三段築成で、葺石が確認される。現在、くびれ部の東側のみに造り出しが残り、周
囲に周濠と堤をめぐらしている。
内部構造や副葬品については不明であるが、後円部頂に板石が見られることから竪穴
式石槨の存在が推測される。墳丘には円筒埴輪列があり、家・衣蓋・盾・靫・冑形などの
形象埴輪も確認されている。出土した埴輪の特徴から、仲ツ山古墳とほぼ同時期、5世
紀前半の築造と考えられる。
墳丘の一部には住宅が建っているが、藤井寺市による公有地化が進められている。
なお、宮内庁の管理地でないため、墳丘内には自由に立ち入ることができる。
IMG_1675.JPGIMG_1674.JPG
仲ッ姫古墳(仲津姫皇后陵)
仲姫命(なかつひめのみこと、生没年不詳)は、応神天皇の皇后。『古事記』は中日売
命に作る。品陀真若王(五百城入彦皇子の王子、景行天皇の孫王)の王女で、母は
金田屋野姫命(建稲種命の女)。応神天皇との間に仁徳天皇を儲ける。仲津姫命とも。
因みに同母姉の高城入姫命や同母妹の弟姫命も応神天皇の妃となっている。
応神天皇2年2月3日(271年3月1日)、応神天皇の皇后に立后された。仁徳天皇元年
1月3日(313年2月14日)、仁徳天皇の即位と同日に皇太后となった。
仲ツ山古墳に葬られたとされる。同陵は全国で10番目の大きさを誇る。但し、出土した
埴輪の特徴から、5世紀前半の築造と推定されている。
応神天皇が八幡神として観想されると、その皇后である事から八幡三神中の比売神に
充てられ、その神霊を祀る八幡宮も各地に鎮座する。
IMG_1677.JPGIMG_1678.JPG
古室八幡神社
古室八幡神社は、応神天皇の皇后・仲津姫(なかつ)が眠る仲津姫陵の北西端に鎮座
する神社で、境内は仲津姫陵に接しています。
応神天皇陵のある羽曳野の誉田という地は、もともと応神天皇の土地ではなく、応神の
皇后の仲津姫の父の本拠地です。誉田に暮す仲津姫の父とは景行天皇の孫にあたる
誉田真若王のことです。仲津姫の姉の高城入姫や妹の弟姫も同時に応神天皇の妃と
なっています。姉妹何人もが同じ天皇に嫁ぐことはこの時代よくあることですが、誉田
真若王は自分の娘から絶対次の天皇を出したかった為だと思います。応神天皇は、こ
の地の誉田真若王の3人の娘を妃にし、婿養子の誉田別となり、そのうちの仲津姫命
を皇后にし大鷦鷯(仁徳天皇:おおさざき)が産まれます。
沢田八幡神社、 古室(こむろ)八幡神社、土師里(はじのさと)八幡神社、 津堂八幡神社
の四社は江戸時代に誉田(こんだ)八幡宮(羽曳野市)の分霊 を勧請したものとされて
います。
IMG_1682.JPGIMG_1684.JPG
仲津姫皇后陵を一回りして
此処までは、
4月25日のてくてくマップ大阪-5・古市駅-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-04-26
此処では、
此の続きの詳細を掲載します。
道明寺天満宮
祭神は菅原道真公、天穂日命と、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。隣接
して道明寺という真言宗の尼寺がある。
この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当たる野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖
である天穂日命を祀る土師神社があった。仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が
建立された。伝承では聖徳太子の発願により土師八島がその邸を寄進して寺としたとい
う。平安時代、土師寺には菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真公
も時々この寺を訪れ、この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。延喜元年(901年)、大宰
府に左遷される途中にも立ち寄って、覚寿尼公との別れを惜しんだ。道真公遺愛の品と
伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。
IMG_1690.JPGIMG_1691.JPGIMG_1692.JPGIMG_1693.JPGIMG_1694.JPGIMG_1695.JPGIMG_1696.JPGIMG_1697.JPGIMG_1700.JPGIMG_1701.JPGIMG_1702.JPG
道明寺
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。道明
寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。当時は七
堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。901年(延喜元年)、大宰府に左遷され
る道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなから
ん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故事は、後に人形浄瑠璃
・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれている。道真の死後、寺名は
道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来する。1575年(天正3年)
には、兵火で天満宮を含む寺の大部分が焼失するが、後に再興。1872年(明治5年)の
神仏分離により道明寺天満宮境内から現在地に移転した。
IMG_1704.JPGIMG_1705.JPGIMG_1707.JPGIMG_1708.JPG

土師ノ里八幡神社へ向かう
IMG_1709.JPG
土師ノ里八幡神社
沢田八幡神社、 古室(こむろ)八幡神社、土師里(はじのさと)八幡神社、 津堂八幡神社
の四社は江戸時代に誉田(こんだ)八幡宮(羽曳野市)の分霊 を勧請したものとされて
います。
IMG_1710.JPGIMG_1712.JPG
市野山古墳(允恭天皇陵)
(いちのやまこふん、市野山古墳)は、大阪府藤井寺市にある前方後円墳。古市古墳
群を構成する古墳の1つ。宮内庁により「惠我長野北陵(えがのながののきたのみさ
さぎ)」として第19代允恭天皇の陵に治定されている。
出土した埴輪などから、築造年代は5世紀後半とされる。近くに国府八幡神社、唐櫃
山古墳、長持山古墳、衣縫塚古墳などがある。
IMG_1714.JPGIMG_1715.JPG
大水川散策公園
藤井寺市のほぼ中央部を南から北へ流れる1級河川・大水川(おおずいがわ)の堤防
上にある散策公園で、大阪外環状線を境に、北は翠花堤苑(すいかていえん)、南は
彩花堤苑(さいかていえん)と命名しています。 延長約3,000mの緑道には、桜や色と
りどりの花を咲かせるバラ園、四季の移り変わりを感じさせる球根植物(スイセン・カ
ンナ・ヒガンバナ)、花をつけると数百mの白い帯となる雪柳など、四季おりおりにジョ
ギングやウォーキング、散策に訪れた人々の目を楽しませています。
IMG_1717.JPGIMG_1718.JPGIMG_1719.JPGIMG_1720.JPGIMG_1721.JPGIMG_1722.JPGIMG_1724.JPG

   休憩所で弁当を食べる
IMG_1726.JPGIMG_1727.JPGIMG_1728.JPGIMG_1729.JPG

津堂城山古墳へ向かう
IMG_1730.JPGIMG_1731.JPGIMG_1732.JPGIMG_1733.JPGIMG_1734.JPG
津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)
大阪府藤井寺市にある前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。宮内庁に
より「藤井寺陵墓参考地」(被葬候補者:第19代允恭天皇)として陵墓参考地に治定
されている。また国の史跡に指定されている。前方部は南東を向き、二重の周濠が
墳丘を囲んでいる。外側の周濠は宅地や田畑となっているが、これを含めると古墳
の全長は400m以上になる。これまでの発掘調査などから築造は4世紀後半とみられ、
古市古墳群の中でも初期の古墳であり、誉田山古墳よりも先行する。室町時代には
古墳の地形を利用して小山城が築かれたため、墳丘の一部が掘削されている。明治
初期の天皇陵の治定作業では陵墓とされなかったが、1912年に、神社に建立する石
碑の材料とするため、後円部の墳丘から石板を発掘したことがきっかけで竪穴式石室
と巨大な長持形石棺が発見され、鏡や鏃などの副葬品が多数出土した。そのため、後
に「藤井寺陵墓参考地」に治定された。
IMG_1736.JPGIMG_1738.JPGIMG_1741.JPGIMG_1740.JPG
此の続きは、
4月25日のてくてくマップ大阪-5・古市駅-3 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/
続きは、
津堂城山古墳の途中から
IMG_1744.JPGIMG_1745.JPGIMG_1746.JPGIMG_1749.JPG
津堂八幡神社
沢田八幡神社、 古室(こむろ)八幡神社、土師里(はじのさと)八幡神社、 津堂八幡神社
の四社は江戸時代に誉田(こんだ)八幡宮(羽曳野市)の分霊 を勧請したものとされて
います。
IMG_1755.JPGIMG_1756.JPG
津堂城山古墳を一回りして産土神社へ向かう
産土神社
室町時代に神宮寺として再建され、祭神を牛頭天王としていましたが、現在は産土神
社として素戔鳴命と櫛稲田姫を祀っています。本殿は一間社流造で、主要部分は創建
当時の状態をよく留めており、藤井寺市内で最古級の神社建築として貴重です。絵馬
も必見です。
IMG_1763.JPGIMG_1765.JPG
小山善光寺
天正年間まで城山古墳の後円部外側に接する善光寺屋敷にありましたが、織田信長に
よる河内攻めの戦火で焼失したため、現在地に再建されました。 長野善光寺の元祖と
いわれる伝説があり、寺に伝わる「善光寺参詣曼荼羅」からうかがうことができます。
本尊は長野善光寺と同じ一光三尊の阿弥陀如来像で毎年4月24日にご開帳されます。
IMG_1770.JPGIMG_1773.JPG
長尾街道を雄略天皇陵へ向かう
長尾街道(ながおかいどう)とは、大阪府堺市堺区から東へ向かい、二上山の北麓・田尻
峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る街道である。ほとんどの区域で大阪府
道・奈良県道12号堺大和高田線に平行し(一部は重複)、同線が長尾街道と通称される
ため、旧長尾街道と呼ばれることもある。また、堺市の市街地では花田口筋とも呼ばれる。
長尾街道は、日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大
道(おおじ)を置く」と記されていた日本最古の「官道」である「竹内街道」の北1,908m(但し
計画値)に平行して整備された。 古くは「大津道」と呼ばれた。大津の名は、羽曳野市北宮
にある式内大津神社に由来するといわれるが、大和川と石川の合流地点が大津と呼ばれ
た時期があったことがあり、その大津に至る道という意味で大津道といい、細長い海岸浜
堤を長狭(ながお)といい、その特徴から長尾街道と名が付いたという。
雄略天皇陵
雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月 - 雄略天皇23年8月7日)は、第21代天
皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。大泊瀬幼武尊(おおはつせ
わかたけるのみこと)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも。
また『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。その倭王武の上
表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、熊本県玉名郡和
水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯
銘鉄剣銘を「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して、その証とする説が
有力である。
IMG_1782.JPGIMG_1784.JPG
吉村家住宅
吉村家はかつて、周辺十八ヶ村を管轄する大庄屋を務めた家柄である。 主屋は大坂夏
の陣で焼失後、間もなく再建された歴史ある家屋である。その後幾度か増改築が行われ、
現在の姿となったのは寛政年間の頃である。屋根の構造に特色があり、急勾配の茅葺と、
妻側の両端に一段低くて勾配の低い瓦葺という2種類の屋根で構成されている。これを高
塀造りといい、大和から河内にかけて多く見られることから大和棟造りともいう。上層農家
の家格を示すものである。吉村家住宅は戦前の1937年(昭和12年)8月25日に、主屋が
国の重要文化財に指定された(当時は国宝と称されていた)。民家としては日本で初めて
のことであった。
IMG_1787.JPGIMG_1791.JPG
リサイクル釣り道具屋に立ち寄り
5月5日の釣り大会様に釣り道具をそろえる?
明教寺(みょうきょうじ)
現在の建物は江戸時代(17〜19世紀)に再建されたものですが、もとは推古天皇の頃
(6世紀末〜7世紀前半)の創建と伝えられています。山門・鼓楼・本堂・庫裏などがあり、
寺宝として明教寺旧境内古図、豊臣秀吉や徳川家康らの書状などが残されています。
IMG_1794.JPGIMG_1797.JPG

高鷲駅へ向かう
IMG_1799.JPG

高鷲駅
IMG_1800.JPG

4月23日&24日・馬見丘陵公園他

4月26日         4月23日&24日・馬見丘陵公園他

23日13時20分高畑駐車場に車を入れて、奈良公園の大仏前バス専用駐車場で
14時に待ち合わせ、13時40分頃到着して東大寺側入口のベンチで待ってると?
45分頃にゾロゾロと戻って来た、今年65才の同窓会、叔母を含めて25人、数名は
小学校入学頃に会って知ってるメンバーも約58年振り?の再会、私より4才下の
同窓会、昨年会ったメンバーも居た、叔母は彼ら彼女らの恩師、今年81才未だ未
だ若い、65才の同窓生に間違われる程??65才の同窓会メンバーに別れを告げ、
奈良公園から4年前に亡くなった叔母の姉の家へ線香をあげに大阪平野区迄・・・
戻って23日は我が家に泊まり、24日は大阪堺市の伯母の友人の同窓生の家に
泊まり、25日に奄美へ帰ると言う、24日午後、天王寺駅迄おくり叔母の友人に託す・・
23日の奈良公園
IMG_1599.JPGIMG_1602.JPGIMG_1603.JPGIMG_1604.JPGIMG_1605.JPGIMG_1606.JPG

24日の馬見丘陵公園
チュウリップフエスタの名残りが・・・
珍しいハンカチの木やなんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)の花が咲いていた
チュウリップフエスタの名残り
IMG_1607.JPGIMG_1607.JPGIMG_1608.JPGIMG_1620.JPGIMG_1609.JPGIMG_1610.JPGIMG_1611.JPGIMG_1612.JPGIMG_1613.JPGIMG_1614.JPGIMG_1615.JPGIMG_1616.JPG

りらの花(ライラック)も咲いていた
IMG_1617.JPG
 
珍しいハンカチの木に花が咲いていた
IMG_1623.JPGIMG_1624.JPG

珍しいなんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)の花が咲いていた
IMG_1627.JPG
IMG_1618.JPGIMG_1619.JPG


IMG_1621.JPGIMG_1622.JPGIMG_1625.JPGIMG_1628.JPG

おまけ
我家の小判草・・・
IMG_1630.JPG

4月20日のてくてくマップ大阪-13・河内国分駅-2

4月23日         4月20日のてくてくマップ大阪-13・河内国分駅-2
                 柏原・八尾 山麓史跡巡りコース 約10km
知人と2人で、あみま倶楽部のてくてくマップ大阪-13でハイキング、暑かった・・・
コース
河内国分駅~西町地蔵~白坂神社~高井田横穴古墳公園~業平道~歴史の丘
展望公園~石神社~清浄泉~観音寺~鐸比古鐸比賈(ぬでひこぬでひめ)神社~
瑠璃光禅寺~若倭姫(わかやまとひめ)神社~八王子神社~シュミイ地蔵~恩智
城址~恩智神社~安養寺~権現社~黒谷高札場~垣内村一里塚~高安駅
此の日の私は32450歩で約21.6km歩いた事に、暑くてクタクタに疲れた・・・
4月20日の朝
何時もの場所で・・・
IMG_1474.JPG
志都美駅
葛城山~二上山、二上山&香芝SA付近
IMG_1476.JPG

西町地蔵
IMG_1479.JPG

白坂神社
IMG_1480.JPG
史跡高井田横穴公園
高井田横穴
高井田横穴は6世紀中頃から7世紀前半にかけて造られたお墓で、調査によって
約160基が確認されており、実際は200基以上あるものと推定されています。横
穴は、凝灰岩をくりぬいて造られており、奥にある玄室には、3体ほどの遺体が納
められたと考えられています。市内には他にも、安福寺横穴群(玉手町)、玉手山
東横穴群(旭ヶ丘)などがあり、このような横穴が見つかっているのは、大阪府下
では柏原市だけです。
IMG_1483.JPGIMG_1482.JPGIMG_1485.JPGIMG_1486.JPG
橿原市立歴史資料館
高井田山古墳
公園内で最も高い場所に位置している高井田山古墳は、5世紀後半に造られた直
径約20mの円墳です。石室内からは、純金製のイヤリング、ガラスの首飾り、銅鏡、
甲冑など豪華な副葬品のほか、日本に数例しかない古代のアイロンとされる火熨斗
(ひのし)も出土しています。
IMG_1493.JPG

業平道へ向かう
IMG_1499.JPG
業平道(なりひら道)
平安時代の貴族・歌人である在原業平が大和国と河内国を行き来した際に通った
とされる道筋の総称。此処は龍田(斑鳩)~八尾(高安)へ通った道 。
IMG_1502.JPG
歴史の丘展望公園
智識寺跡(ちしきじ)
河内国大県郡にあった古代仏教寺院。現在の大阪府柏原市太平寺2丁目付近
の仏教遺跡がその跡と言われている。知識寺の東塔の塔心礎石だったとされる
石神社の手洗い石
知識と呼ばれた仏教信徒の財物及び労力の寄進によって建立された寺院を「知
識寺」「智識寺」と称したが、その中でも河内の知識寺は後に「日本三大仏」に数
えられた廬舎那仏を安置するなど、その規模の大きさで知られていた。7世紀後
半に茨田宿禰を中心とした知識によって創建されたと伝えられ、河内国大県郡の
一部に相当する柏原市の遺跡からは白鳳期の瓦や薬師寺式伽藍配置の痕跡
などが発掘されており、知識寺の跡であるとする有力説の根拠とされている。
また、知識寺の東塔の塔心礎(礎石)と見られる石が現在でも石神社に残されて
いる。740年(天平12年)に聖武天皇が同寺に行幸して、廬舎那仏の姿と同寺を
支える人々の姿に魅了され、後に東大寺盧舎那仏像を造像するきっかけになった。
IMG_1504.JPGIMG_1506.JPG
石神社(いわじんじゃ)
神社は、柏原市太平寺地区の生駒山地南端に近い小高い丘陵の山腹に位置
する。 麓の境内に社務所が、高い石段を登ったところに社殿がある。
祭神の石姫皇女は、宣化天皇の皇女、欽明天皇の皇后である 。他に石長姫命、
熊野権現。
境内にある大きなクスノキは、周囲約6メートル・高さ約16メートル以上の大木
で、樹齢700~800年と推定されており、大阪府指定天然記念物となっている。
かつて、この辺りに「智識寺」と呼ばれる古代寺院があった。 聖武天皇、孝謙
天皇が難波宮と平城宮を往来する際にここを訪れ、礼拝例仏されたという。
智識寺には大きい廬舎那仏があり、これを見た聖武天皇が東大寺大仏造営
を発願されたといわれている。
IMG_1508.JPGIMG_1515.JPG
清浄泉
浄井戸(じょいど)とも呼ばれる湧水地です。石神社(いわじんじゃ)の東側にある
井戸で、生駒山地の岩盤を通って浄化された湧き水です。地元ではおいしい天然
水として古くから親しまれてきました(今は、あまり飲用には適しません)。弘法大
師(空海)がこの井戸を掘って、干ばつに苦しむ人たちを救ったという言い伝えが
あります。
IMG_1517.JPG

鐸比古鐸比賈(ぬでひこぬでひめ)神社へ向かう
IMG_1519.JPGIMG_1520.JPG
此処までは、
4月20日のてくてくマップ大阪-13・河内国分駅-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-04-22-1
此処では、
其の続きを・・・
観音寺
城壁の様な石垣・・・見晴らしが良い
観音寺は、かってこの地にあった智識寺の法灯を継ぐと伝え、その縁起は後鳥羽
院(在位:1183~ 98年)の時、源頼朝が勅を奉じて、2寺を合わせて1ヵ寺とした
という。智識寺は奈良時代の創建で、7堂伽藍を備えた河内6大寺の1つで、聖武
天皇や孝謙(称徳)天皇の行幸、礼仏で知られる。聖武天皇は740年(天平元年)
に行幸、当時としては日本最大であった丈六の大仏を見た感動から東大寺大仏の
造立発願の契機となったいわれる。智識寺は1086年(応徳3年)の落雷のため倒
壊、以後再建されることはなかった。観音寺にはこの智識寺の経机が所蔵されて
いる。経机の制作年代は不明であるが奈良・平安を通し、河内における大寺として
知られた智識寺の唯一の遺品ともいえるだけに貴重な物といえる。
IMG_1522.JPGIMG_1527.JPGIMG_1523.JPGIMG_1524.JPGIMG_1526.JPGIMG_1525.JPG

鐸比古鐸比賈(ぬでひこぬでひめ)神社へ向かう
IMG_1528.JPGIMG_1529.JPGIMG_1530.JPG
鐸比古鐸比賈(ぬでひこぬでひめ)神社
河内国大県郡(柏原市平野、大県地区)の氏神であり、背後にそびえる高尾山(標高
:278m)を神体山・磐座としている。 神社縁起によると創建は成務天皇21年(151年)
とされるが、実際の年代は不明。 祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。 鐸比古命は垂仁
天皇の子であり、「沼滞別命」「鐸石別命」と同人とされる。 和気清麻呂の遠祖であり、
鐸比古命を祭神とするのは日本全国でもここと岡山県の和気神社のみとされている。
IMG_1531.JPGIMG_1532.JPGIMG_1533.JPGIMG_1534.JPGIMG_1535.JPGIMG_1537.JPGIMG_1538.JPG
若倭彦(わかやまとひこ)神社
平野地区の産土神で式内社です。
創建年代は不詳のようですが、6世紀頃この地で勢力を持っていた若倭部ノ連が、
祖神である若倭彦命を祀ったのが創始の様です。若倭姫神社も同様だそうです。
別名を「あかざ八幡」と言います。古記録には「貞観2年(859)従五位下を授く」「延
喜の制に小社に列せられ祈年祭並に鍬一口を奉る」とあります。若倭姫神社とと
もに、明治41年に鐸比古鐸比売神社に合祀されましたが、戦後独立し現在地に
復座しました。現社地は極狭い境内地となっていますが、昔は、境内も広大で老
松が境内の周囲を天を摩するごとく覆っていたようです。それが明治維新後に現
在のように小さくなったと伝えられています。
IMG_1541.JPGIMG_1542.JPG
瑠璃光禅寺
天平年間に行基が開創、本尊の薬師如来像は行基の作と伝わる。かつては『七堂
伽藍を具備せし巨刹なり』といわれ、大規模な寺院だったが、織田信長の信貴山城
攻略の際に兵火に遇い、その後慶安四年(1651年)に再建されるも往時のような規
模にはならず、境内は縮小して現在は敷地わずか123坪となり、本堂、庫裏、廊下
および不動堂があるのみとなっている。
IMG_1545.JPGIMG_1546.JPGIMG_1547.JPGIMG_1549.JPGIMG_1550.JPGIMG_1551.JPG
若倭姫(わかやまとひめ)神社
当地辺りを本貫としていた若倭部連(ワカヤマトベノムラジ)が、その祖神を祀った神社
と推察されるだけで、その由緒等は不明。創建時期も不明だが、三代実録(901)によ
れば、貞観元年(859)、従五位下の神階が授与されているから、遅くとも8世紀末頃に
は存在していたと思われる。なお、延喜式には社名の後に“鍬”とある。祈年祭奉斎時
に“鍬一口”が加えられたことを示し、同じ小社でも一般のそれよりやや格上の神社
だったといえる。
当社の祭祀氏族とされる若倭部氏(ワカヤマトベ)について、先代旧事本紀(天孫本紀
-9世紀後半、物部氏系史書)には、「饒速日尊(ニギハヤヒ)五世の孫・建筒草命
(タケツツクサ)--建額赤命(タケヌカアカ・=建額明命)の子、多治比連・津守連・若
倭部連・葛木廚直の祖」とあり、物部氏系の古い氏族という。
IMG_1552.JPGIMG_1553.JPGIMG_1554.JPGIMG_1555.JPGIMG_1556.JPG
八王子神社
常世岐姫神社(とこよきひめじんじゃ)と言い、燕王公孫淵を祖と称する常世氏が信奉
する神(常世岐姫神)を祀る神社であり、日本全国に数社ある。大阪府八尾市神宮寺
にある神社が本宮であるとされ、残り(分社)は埼玉県内に確認できる。特に行田市
荒木に所在する神社は"荒木"を冠して「荒木常世岐姫神社」と称する場合がある。
深谷市樫合にも所在する。常世岐姫神社の正式名称は明治時代以降のものであり、
それまでは「八王子神社(はちおうじじんじゃ)」と称していた。現在も正式名称よりも
旧名称のほうが知られており、地図や看板・社頭の石標・八尾市教育委員会の説明
標にも八王子神社と記されている。
神社が創建された年代は不詳であるが、貞観9年(867年)官社に預かり、延喜の制
で小社(官幣小社)に列した。近世には、神宮寺村は北隣の高安郡恩智村とともに
恩智神社の氏地であった。恩智神社は中世末に牛頭天王を勧請しており、それに
関連して当社が「八王子社」といわれており(八王子は牛頭天王の8柱の御子神)、
八王子神社と呼ばれる所以である。『河内名所図会』にも、「今、八王子と称する」と
記されていた。当地は古代に帰化したと思われる染色技術者集団(品部)の赤染
部(あかそめべ)の本拠地で、赤染とは茜染めのことであるが、赤染氏が伴造とし
てこれらを管理していたと考えられ、時代は降って鎌倉時代にも当地の人々が幕
府から「河内国藍御作手(あいみつくて)奉行」に任じられて染色技術を諸国で指
導したという(『吾妻鑑』)。
伴造の赤染氏(姓(かばね)は造姓)の一族には壬申の乱で活躍した者もおり(『日
本書紀』)、当地についてみれば、宝亀8年(777年)の夏に正六位上の赤染人足ら
13人が常世連(とこよのむらじ)を賜姓されたという記録があり、『新撰姓氏録』の
河内国諸蕃に「常世連。燕の国王、公孫淵の後なり」と記されており、当地を燕の
公孫氏の流れを汲むと称する帰化人が本貫としていた事が判り、またその子孫が
茜染めをしていたとも伝わっているので、赤染氏(常世氏)が祖神を祀ったものと
推定できる。
IMG_1557.JPGIMG_1558.JPGIMG_1559.JPGIMG_1560.JPG
シュミイ地蔵
名前の由来はわからないが、地元恩智の有志が結集して菩提追善のため、
彼岸の中日に建立したものである。高さ136㎝、幅67㎝材質は花崗岩である。
IMG_1561.JPG
恩智城址
恩智城は中世この地の豪族恩智左近満一が築いた。自然の高地を利用した城郭で
高安連峰との間に堀をめくらせ前方に大阪平野を一望のもとにおさめた。 堀の中に
かつては小島があったがそれはむかしの一の丸で現在の城址は二の丸の址という。
正平三年(1348年)四條畷の戦いで楠木正行が戦死し恩智城も落ちた。 学制領布
のときここに小学校が新築され、今では桜の名所として知られている。
IMG_1562.JPG
此の続きは、
4月20日のてくてくマップ大阪-13・河内国分駅-3 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。 
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/
続きは、恩智神社~
恩智神社
創建は大和時代の雄略年間(470年頃)と伝えられ、河内の国を御守護のためにお祀
りされた神社で国内でも有数の古社であり、後に延喜式内名神大社に列する神社で
あります。「恩智神社圭田八十三束三字田所祭手力雄神也雄略天皇三年奉 ニ 圭田
一 行 ニ 神事 一 云々」と記されています。(総国風土記)
奈良時代(天平宝字)に藤原氏により再建されてより、藤原氏の祖神である『天児屋根
命』を常陸国「現香取神宮」より御分霊を奉還し、摂社として社を建立したその後、宝亀
年間に枚岡(枚岡神社)を経て奈良(春日大社)に祀られました。従って当社は元春日
と呼ばれる所以であります。
神功皇后が三韓征伐の際、当社の神が住吉大神と共に海路、陸路を安全に道案内し、
先鋒或は後衛となり神功皇后に加勢したその功により神社創建時に朝廷から七郷を
賜りました。
神兎(なでうさぎ)・神龍
神様のお使であります御霊の籠った神兎・神龍が拝殿前左右に並んでいます。
参拝された折、卯辰をなでて無病息災と昇運・開運をお祈り下さい。
閼伽井戸 (清明水)
弘法大師に縁ある閼伽井戸(清明水)は古くより天候を予知する清水として知られ、
雨の降る前になると赤茶の濁水が流れ出るという不思議な井戸です。
IMG_1563.JPGIMG_1570.JPGIMG_1575.JPG

安養寺へ向かう
IMG_1578.JPG
安養寺
この地は恩智字向谷といい、本寺裏山の通稱垣内山のすぐ裏手の山裾から
大正十年(1921年)風雨のため山崩れが生じその赤土露出部より流水紋銅鐸
が発見された。流水紋様は弥生時代前期から中期にかけて近畿を中心に流行
した流水紋土器に見られ、この鐸もその影響を受け作られたものであろう。
銅鐸は現在東京博物館にありその拓本が当寺にある。安養寺は浄土宗で本尊
は阿弥陀如来である。
IMG_1582.JPG
権現社  八尾市
権現社の沿革:神社明細書には「慶長年間(1596年~1614年)に、熊野権現を
勧請した」と書かれている。寛政二年(1790年)意満寺の南西端にあった愛宕神社
を合祀した。鎮座地 当初は、黒谷1021番地 山頂に近い常川(伝承)。その後、
黒谷1142番地…現在地の南東 約100mに遷座。昭和三年(1928年)10月3日
現在地に遷座。昭和十五年(1940年)境内を東部に大拡張(約五倍に)して神殿
拝殿 玉垣などを建設、神社の様式を整えた。昭和六二年(1987年)神殿を改修、
境内を東部に拡張した。境内にある古い灯籠 南部にある一基は元禄13年
(1700年) 拝殿前の二基は宝暦二年(1752年)
IMG_1585.JPG
黒谷高札場
黒谷の旧庄屋坂本家の門前にある。江戸時代に幕府や領主などからの御達しや
お触れ書きなどを板に写して、こうした高い所に揚げて示したからこれを高札といい、
その場所を高札場といった。一般民衆にお達し書などを周知せしめるための施設で
ある。年貢の免定を初め、禁止の条項とか、色々の法令を記したものなどが揚げら
れ、明治6年(1873)まで使用された。この高札場は、文字通り屋敷そのものが高く
なっているため、高さ170㎝の石垣の上に、立派に瓦葺きの屋根をもって、正面幅
150㎝の高札場が設けられていて、下から仰ぎ見るようにされている理想的なもの
である。
IMG_1587.JPG
垣内村一里塚(かいちいちりづか)
俗に京街道、高野道といい、伝えによると白河法皇が弘法大師三〇〇年遠忌に
参拝のとき、河内石川の安助上人が開いたという。京都と高野山を結ぶ参拝路で、
平安時代から鎌倉時代にかけては歴代天皇、諸公家たちが往来し、南北朝時代
には京都と南朝方軍勢の出合い道であり、戦国時代には畠山一族、三好一族な
どの合戦の通路となった。この垣内一里塚は、その里程をはかるもので、数年前
までは善根寺、四条、楽音寺にもあったが、いまはここだけである。
IMG_1589.JPG
恩智川を渡って
高安駅 
IMG_1593.JPG

4月15日のてくてくマップ・八尾駅-3

4月19日         4月15日のてくてくマップ・八尾駅ー3
                 八尾市史跡巡りコース
知人と2人で近鉄あみま倶楽部のてくてく大坂ー12マップでハイキングに・・・
天気にも恵まれて、近鉄八尾駅であみま倶楽部手帳にスタンプを貰って出発。
コース   
八尾駅(スタート)~常光寺~板倉家住宅~八尾市役所~環山楼~成法せせ
らぎの小径~長瀬川・天神橋~安中新田会所跡・旧植田家住宅~地蔵~渋川
神社~植松観音堂~大門地蔵~植松地蔵尊~簷葡(えんほ)舎跡~地蔵堂~
物部守屋墳墓~大聖勝軍寺~鏑矢塚~守屋首洗池~樟本神社(北木の本)~
平野川・柏原船と使い場~防災公園(昼食)~樟木神社(南木の本)~樟木神社
(木の本)~光蓮寺~稲城跡~地蔵~ビューポイント・二上山が見える~弓削神
社(西)~二股橋・長瀬川・玉串川へ分岐~弓削神社(東)~JR志紀駅
此の日の「私は、29200歩で約19km歩いた事に・・・
4月15日の朝
何時もの場所で・・・
IMG_1358.JPG
志都美駅
二上山&西名阪道香芝SA付近
IMG_1361.JPG
常光寺
常光寺の開創は古く、奈良時代の初め、聖武天皇の勅願で、行基菩薩が創建
したと伝えられています。平安時代中期の寛治二年(1088)には、白河法皇が
本尊・地蔵菩薩の霊験あらたであることを聞こし召されて、高野山に参詣のおり
に当寺に参詣されたとのことです。その頃は新堂寺と称されていましたが、室町
時代の初め康応元年(1389)足利義満が、当寺の住職・通玄和尚に『常光寺』
・『初日山』の扁額を奉納されこの時から初日山常光寺と呼ぶようになりました。
それより前、南北朝時代に、楠正成の家臣・八尾別当顕幸が、当寺にあって大
いに南朝のために尽したそうです。その顕幸の墓は、現在も本堂横の墓地に
残っています。大坂夏の陣で藤堂高虎は、当寺の廊下で長曽我部家臣の首改
めをしたとのこと。その廊下の板は、そのまま天井板に上げ今も残っていますが、
一面に血の跡がしみついており、『常光寺血天井』として来訪者の目を見張らせ
ています。そのとき討死した藤堂家家臣七一士の墓も、本堂後ろに並んでいます。
IMG_1364.JPG

地蔵堂
IMG_1367.JPG
板倉家住宅(茅葺屋根)
桃林堂板倉家住宅 とうりんどういたくらけじゅうたく
代々河内木綿の問屋を営んだ旧家で、大正期に現家屋敷に移住したという。
間口9間半、奥行4間の大型の民家。平面は右手5間分が土間で、居室部は
整形4間取元であったものを土間境の広縁を居室に改造している。切妻茅葺
屋根の高塀造になる民家の好例である。
IMG_1370.JPGIMG_1371.JPG
八尾市役所・河内音頭を踊る銅像
河内音頭発祥の地・・・常光寺
昭和初期に当地区の音頭取り有志が「流し節正調河内音頭」としてSPレコード
に吹き込み、「河内音頭」と初めて表示して以来、流し音頭も一様に「河内音頭」
と呼称されるようになりました。いずれにしても「流し節正調河内音頭」は、河内
地方で踊られる音頭の中でも最古の音頭といわれる所以であり、物語口説き調
音頭、踊り、囃子しかも鳴り物も太鼓のみという実に悠長で古風な形式を有する
もので、これを永く後世に伝承するため保存会が組織され、活動されています。
この「流し節正調河内音頭」は、平成8年に環境庁の「残したい日本の音風景
100選」に選ばれています。
IMG_1373.JPG
環山楼
環山楼は江戸の中期、当時八尾の豪商であった石田利清の設けた郷塾で
ある。創建の年次は詳かでないが、命名は享保十二年(一七二七年)京都
堀川の儒者伊藤東涯がこの地に招かれ講義のあと一泊、このとき学舎から
高安、二上、ハブ金剛の山なみを一望し、その景観をめで環山楼と名づけたという。 
IMG_1376.JPGIMG_1375.JPG

成法せせらぎの小径
IMG_1378.JPGIMG_1379.JPG
長瀬川・天神橋を渡って
安中新田会所跡・旧植田家住宅
旧植田家住宅は、旧大和川主流である長瀬川左岸(旧大和川の左岸)にあり、
宝永元年(1704)の大和川付替えによって開発された「安中新田」の会所(屋
敷)の地を継承したものです。建造物としては、主屋、道路に面し周囲を区切
る表門とその右脇の土蔵1、奥の主屋と接続する土蔵2、控舎(番部屋)など
があります。「会所屋敷」の建物は、大和川付け替えによる新田開発以降の
建造物となり、主屋と土蔵1は江戸時代後期のもので、主屋の土間部分は会
所当時の姿を留めている可能性があります。 また、表門と控舎は明治中期、
土蔵は大正後期の建築と考えられます。
IMG_1388.JPG
渋川神社
天忍穂耳尊、饒速日命、國狹槌尊、日高大神、菅原大神を祭神としている。
創建の年月は不明。 かつて飛鳥時代に本地域を本拠地としていた物部守屋
の渋河の家の跡ともいわれている。もとは旧大和川の東側の字川向にあった
が、天文3年(1533年)の大洪水で境内全域を流失。 この時、浮島神社は数
kmほど北の茨田郡新田村に漂着した。その後元亀2年(1572年)、お旅所の
あった現在地に再建された。境内には、大阪府天然記念物のクスノキを含め
数本の大きな樹木がそびえている。
境内にある樹齢1000年という大楠樹は、玉祖神社(神立)善光寺(垣内)のそ
れとともに大阪府指定の天然記念物です。
IMG_1390.JPGIMG_1393.JPG
此の続きは、
4月15日のてくてくマップ・八尾駅ー2 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿しました。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-04-19
続きは、
植松観音堂・大門地蔵・植松地蔵尊・簷葡舎跡・常夜灯&地蔵堂
植松観音堂
IMG_1395.JPG
大門地蔵
もとは旧大和川いまの長瀬川右岸にあった龍華寺の大門に建てられていたが、
いつの頃かこの地に移されたものと伝えられる。尊像の材質は花崗岩で、仏頭
は欠けている。現存高一二六センチメートル鎌倉時代の優品である。龍華寺には、
神護景雲三年(七六九)十月称徳天皇が参詣され塩、綿の施入があった。現在
の安中小学校の西南に大門の唐居敷という礎石があったがいまはない。
IMG_1396.JPG
簷葡舎跡
簷葡舎(えんほしゃ)は、奈良街道沿いにある松林寺で開かれた私塾です。
叡山で天台教学を修め、京都で貫名海屋・染川星厳・賴山陽に学んだ佛蓮が、
天保八年頃、植松・松林寺に来住して開いた幕末八尾を代表する私塾であった。
IMG_1398.JPG
常夜灯&地蔵(立江地蔵)
四国立江寺から明治の終わり頃もらってきた。地蔵祠の南側に大きな常夜灯
が2対並んでいる。この通りは、昔は大勢の人達の往来があった旧奈良街道で
その面影が残る旧家も点在する。
IMG_1399.JPG
物部守屋墳墓
守屋大連を葬ったところと伝えられ「河内名所図会」には、塚状の丘の上に一
本松のある姿が記されている。明治のはじめ、堺県知事小河一敏が、ここに
守屋顕彰の碑と石灯籠を建てた。昭和十二年守屋の千三百五十年祭には日
本書記の一節を刻し、裏面に追悼文をきざんだ碑を建て、右側に石灯籠を献
じた。墳の前は、旧奈良街道ですなわち国道二十五号線がある。
IMG_1401.JPG
大聖勝軍寺 太子堂 聖徳太子古戦場
587年、崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「いまもし我をして
敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」
(日本書紀)と祈願して戦勝したことから、戦後間もなく四天王を祭るための寺
院として摂津国難波(大阪市天王寺区)の四天王寺とともに、当寺の太子堂が
建立された。594年、推古天皇より現在の山号と寺号が贈られ、この年が創建
年とされる。756年、聖武上皇から鎮護国家寺の称号を贈られ、勅願寺に定め
られる。太子町にある叡福寺の「上の太子」、羽曳野市にある野中寺の「中の
太子」に対して、「下の太子」と称されます。
IMG_1402.JPGIMG_1404.JPGIMG_1405.JPG
一番は四天王寺、二番は此処の大聖勝軍寺、三番は藤井寺の道明寺、 四番は
古市の西琳寺、五番は羽曳野の野中寺、六番は叡福寺、七番は、世尊寺、八番は
橘寺、九番は定林寺、十四番は法隆寺、十九番は達磨寺等々・・・知らなかった
鏑矢塚
室町時代後期に書かれたという大聖勝軍寺の寺伝『大聖勝軍寺略縁起』
に、迹見赤檮が守屋を射た際の矢を埋めた場所とあるそうです。
『河内志』にも、「物部守屋墓、在太子堂村、傍有鏑矢塚」とみえます。
『河内名所図会』には、この場所は「御戦場」と書かれています。
IMG_1415.JPGIMG_1414.JPG
楠本神社(北木の本)・守屋首洗池
当神社は延喜七年(西暦九〇七年)の延喜式神名帳に樟本神社三座の一つ
とし記載されている式内社である。大和時代、用明天皇の御代、この付近一
帯は物部氏の住地であった。物部守屋が本拠地である稲城の守護神として
崇めていた布都大神を布都大明神として奉祀されたものと伝えられる。紀・記
・古伝によると悪疫邪霊を祓い、病気平癒、又、鍬、靫を司る」農耕・武の神と
して広く村民の崇敬を受け現在に至っている。
IMG_1417.JPG

守屋首洗池
IMG_1421.JPG
此処では
此の続き「・八尾駅ー3」の詳細を掲載します。
続きは、
平野川・柏原船&使い場~
IMG_1424.JPG
樟本神社(南木の本)・日羅禅寺
この地は、物部氏の住地であり、この社はその祖神をまつったものである。
北木本と木本に同名の二社があり、延喜式神名帳には樟本神社三座と記
されている。守屋が聖徳太子の軍を防ぐためこのあたりに「稲城」を設けた
とき、城中に榎木があったので、これを「榎木城」といい、村の名も「榎木村」
といったが、のち「木本」となったと伝える。境内には黄檗宗日羅寺がある。
薬師如来を本尊とする。日羅は百済へ渡り重く用いられた。敏達天皇は任
那滅亡後、日羅を呼びもどし、百済の政情をたずねたところ、「兵事よりも、
百姓保護に努め、国力を充実して、百済を討つべし」と説いた。このため同
行して来朝していた百済使臣のために暗殺された。厨子は、延宝八年
(一六八〇)平野の豪族末吉勘兵衛利長の寄進によるという。
IMG_1426.JPGIMG_1425.JPGIMG_1427.JPGIMG_1428.JPGIMG_1429.JPGIMG_1430.JPG
樟本神社(木の本)・・赤い鳥居
当社は式内社である。延喜式に記載されている樟本神社三座の一にして他
の二座は南木の本、北木の本に分祀されている。創建の年代は詳かではな
いが用明天皇の御代(約千四百年前)物部守屋公が本據地である稲村城
(現光蓮寺敷地)の守護神として崇めていた布都大神を奉祀されたものと伝
えられる。紀・記古伝によると悪疫邪霊を祓い病気平癒又鍬靫を司る農耕・
武の神として広く村民の崇敬を受け現在に至っている。樟本神社の社名は
往古境内に樟の巨木が茂っていたところからと謂われている。
IMG_1431.JPGIMG_1432.JPGIMG_1433.JPG
光蓮寺・稲城跡
光蓮寺
若江山光蓮寺といい、浄土真宗本願派に属する。寺伝によれば、中世には
若江郡の稲葉(現 東大阪市役所付近)において法燈をつぎ光蓮寺となし、
慶長年間(1596~1615)に現地に移転したという。文明7年(1470)に、蓮
如上人によって、天台宗から浄土真宗に転宗した。住職は「稲城」とういう
苗字である。
IMG_1435.JPGIMG_1436.JPGIMG_1437.JPG
稲城跡
聖徳太子が物部守屋の館のあった阿都の桑市を攻めたとき、守屋は兵を
集めて、この地に稲城を構えて抗戦したという。稲城は稲で囲った城とか、
稲積みの城であつたと伝えられる。
IMG_1434.JPG

ビューポイント・二上山が見える
IMG_1438.JPGIMG_1439.JPGIMG_1440.JPGIMG_1441.JPG
八尾市・みえる下水道公園
マンホール一箇所とその周辺地を公園として整備。「見える下水道公園」として
一般の公園として公開されています。日頃、私たちの目に直接ふれる事の少な
い下水道について、少しでも理解して頂くために、マンホール内に入っていただ
いて、各家庭から集められてきた下水の流れるようすを見る施設。また、地下施
設に通じる通路部には、実際に下水道工事に使用する作業台車やセグメント
展示しており、地上部にもさまざまな下水道工事に使用するものを展示し、下水
道の体験空間を創造している。
IMG_1442.JPGIMG_1443.JPGIMG_1444.JPGIMG_1445.JPG
弓削神社(西)・延命水井戸
八尾市内には弓削神社を名乗る社は2社あり、国道25号線を挟んで直線距離に
して約300mのところにある。「延喜式」神名帳には若江郡22座の項に「弓削神
社2座(大社)」が見える。弓削神社の社名からもともとは弓削氏の氏神であった
と思われる。弓削氏は河内国若江郡弓削郷を本貫とする豪族で、その名の通り、
武器の製作に携わるグループを率いていた。また、物部氏との関わりも強く、物
部尾興は弓削連祖倭古連の娘阿佐姫と結婚して物部守屋を生んだと言われ、
守屋は物部弓削守屋大連と複数姓をとっており、この地を本願としていたと思わ
れる。
IMG_1446.JPGIMG_1447.JPGIMG_1448.JPGIMG_1449.JPGIMG_1450.JPG
境内右手に“延命水”との古井戸があり、龍頭の吐水口が残っている。旱魃にも
枯れたことがなかったというが、今、涌水の状態は不明。
IMG_1451.JPG

二股橋、此処で・長瀬川&玉串川に分岐
IMG_1452.JPG
弓削神社(東)
各々の神社には、八尾教育委員会の建てた説明碑があったが、孝謙天皇に
仕え、その信任を得た弓削道鏡の記載など同じような内容で、この2社の関
わりや役割分担などは分からない。
IMG_1453.JPGIMG_1454.JPGIMG_1455.JPGIMG_1456.JPG

JR志紀駅へ向かう

4月15日のてくてくマップ・八尾駅ー1

4月18日         4月15日のてくてくマップ・八尾駅ー1
                 八尾市史跡巡りコース
知人と2人で近鉄あみま倶楽部のてくてく大坂ー12マップでハイキングに・・・
天気にも恵まれて、近鉄八尾駅であみま倶楽部手帳にスタンプを貰って出発。
コース   
八尾駅(スタート)~常光寺~板倉家住宅~八尾市役所~環山楼~成法せせ
らぎの小径~長瀬川・天神橋~安中新田会所跡・旧植田家住宅~地蔵~渋川
神社~植松観音堂~大門地蔵~植松地蔵尊~簷葡(えんほ)舎跡~地蔵堂~
物部守屋墳墓~大聖勝軍寺~鏑矢塚~守屋首洗池~樟本神社(北木の本)~
平野川・柏原船と使い場~防災公園(昼食)~樟木神社(南木の本)~樟木神社
(木の本)~光蓮寺~稲城跡~地蔵~ビューポイント・二上山が見える~弓削神
社(西)~二股橋・長瀬川・玉串川へ分岐~弓削神社(東)~志紀駅
此の日の「私は、29200歩で約19km歩いた事に・・・
4月15日の朝
何時もの場所で・・・
IMG_1358.JPG

志都美駅
二上山&西名阪道香芝SA付近
IMG_1360.JPGIMG_1361.JPG

常光寺
常光寺の開創は古く、奈良時代の初め、聖武天皇の勅願で、行基菩薩が創建
したと伝えられています。平安時代中期の寛治二年(1088)には、白河法皇が
本尊・地蔵菩薩の霊験あらたであることを聞こし召されて、高野山に参詣のおり
に当寺に参詣されたとのことです。その頃は新堂寺と称されていましたが、室町
時代の初め康応元年(1389)足利義満が、当寺の住職・通玄和尚に『常光寺』
・『初日山』の扁額を奉納されこの時から初日山常光寺と呼ぶようになりました。
それより前、南北朝時代に、楠正成の家臣・八尾別当顕幸が、当寺にあって大
いに南朝のために尽したそうです。その顕幸の墓は、現在も本堂横の墓地に
残っています。大坂夏の陣で藤堂高虎は、当寺の廊下で長曽我部家臣の首改
めをしたとのこと。その廊下の板は、そのまま天井板に上げ今も残っていますが、
一面に血の跡がしみついており、『常光寺血天井』として来訪者の目を見張らせ
ています。そのとき討死した藤堂家家臣七一士の墓も、本堂後ろに並んでいます。
IMG_1362.JPGIMG_1363.JPGIMG_1364.JPGIMG_1365.JPG

地蔵堂
IMG_1367.JPG

板倉家住宅(茅葺屋根)
桃林堂板倉家住宅 とうりんどういたくらけじゅうたく
代々河内木綿の問屋を営んだ旧家で、大正期に現家屋敷に移住したという。
間口9間半、奥行4間の大型の民家。平面は右手5間分が土間で、居室部は
整形4間取元であったものを土間境の広縁を居室に改造している。切妻茅葺
屋根の高塀造になる民家の好例である。
IMG_1368.JPGIMG_1369.JPGIMG_1371.JPGIMG_1370.JPG
IMG_1372.JPG

八尾市役所・河内音頭を踊る銅像
河内音頭発祥の地・・・常光寺
昭和初期に当地区の音頭取り有志が「流し節正調河内音頭」としてSPレコード
に吹き込み、「河内音頭」と初めて表示して以来、流し音頭も一様に「河内音頭」
と呼称されるようになりました。いずれにしても「流し節正調河内音頭」は、河内
地方で踊られる音頭の中でも最古の音頭といわれる所以であり、物語口説き調
音頭、踊り、囃子しかも鳴り物も太鼓のみという実に悠長で古風な形式を有する
もので、これを永く後世に伝承するため保存会が組織され、活動されています。
この「流し節正調河内音頭」は、平成8年に環境庁の「残したい日本の音風景
100選」に選ばれています。
IMG_1373.JPG

環山楼
環山楼は江戸の中期、当時八尾の豪商であった石田利清の設けた郷塾で
ある。創建の年次は詳かでないが、命名は享保十二年(一七二七年)京都
堀川の儒者伊藤東涯がこの地に招かれ講義のあと一泊、このとき学舎から
高安、二上、ハブ金剛の山なみを一望し、その景観をめで環山楼と名づけたという。 
IMG_1375.JPGIMG_1376.JPG

成法せせらぎの小径
IMG_1377.JPGIMG_1379.JPGIMG_1378.JPGIMG_1382.JPGIMG_1383.JPGIMG_1384.JPGIMG_1385.JPGIMG_1386.JPG

長瀬川・天神橋を渡って
安中新田会所跡・旧植田家住宅
旧植田家住宅は、旧大和川主流である長瀬川左岸(旧大和川の左岸)にあり、
宝永元年(1704)の大和川付替えによって開発された「安中新田」の会所(屋
敷)の地を継承したものです。建造物としては、主屋、道路に面し周囲を区切
る表門とその右脇の土蔵1、奥の主屋と接続する土蔵2、控舎(番部屋)など
があります。「会所屋敷」の建物は、大和川付け替えによる新田開発以降の
建造物となり、主屋と土蔵1は江戸時代後期のもので、主屋の土間部分は会
所当時の姿を留めている可能性があります。 また、表門と控舎は明治中期、
土蔵2は大正後期の建築と考えられます。
IMG_1387.JPGIMG_1388.JPG

渋川神社
天忍穂耳尊、饒速日命、國狹槌尊、日高大神、菅原大神を祭神としている。
創建の年月は不明。 かつて飛鳥時代に本地域を本拠地としていた物部守屋
の渋河の家の跡ともいわれている。もとは旧大和川の東側の字川向にあった
が、天文3年(1533年)の大洪水で境内全域を流失。 この時、浮島神社は数
kmほど北の茨田郡新田村に漂着した。その後元亀2年(1572年)、お旅所の
あった現在地に再建された。境内には、大阪府天然記念物のクスノキを含め
数本の大きな樹木がそびえている。
境内にある樹齢1000年という大楠樹は、玉祖神社(神立)善光寺(垣内)のそ
れとともに大阪府指定の天然記念物です。
IMG_1389.JPGIMG_1390.JPGIMG_1391.JPGIMG_1392.JPGIMG_1393.JPGIMG_1394.JPG
此の続きは、
4月15日のてくてくマップ・八尾駅ー2 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿しました。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-04-19
続きは、
植松観音堂・大門地蔵・植松地蔵尊・簷葡舎跡・常夜灯&地蔵堂
大門地蔵
もとは旧大和川いまの長瀬川右岸にあった龍華寺の大門に建てられていたが、
いつの頃かこの地に移されたものと伝えられる。尊像の材質は花崗岩で、仏頭
は欠けている。現存高一二六センチメートル鎌倉時代の優品である。龍華寺には、
神護景雲三年(七六九)十月称徳天皇が参詣され塩、綿の施入があった。現在
の安中小学校の西南に大門の唐居敷という礎石があったがいまはない。

簷葡舎跡
簷葡舎(えんほしゃ)は、奈良街道沿いにある松林寺で開かれた私塾です。
叡山で天台教学を修め、京都で貫名海屋・染川星厳・賴山陽に学んだ佛蓮が、
天保八年頃、植松・松林寺に来住して開いた幕末八尾を代表する私塾であった。

常夜灯&地蔵(立江地蔵)
四国立江寺から明治の終わり頃もらってきた。地蔵祠の南側に大きな常夜灯
が2対並んでいる。この通りは、昔は大勢の人達の往来があった旧奈良街道で
その面影が残る旧家も点在する。

物部守屋墳墓
守屋大連を葬ったところと伝えられ「河内名所図会」には、塚状の丘の上に一
本松のある姿が記されている。明治のはじめ、堺県知事小河一敏が、ここに
守屋顕彰の碑と石灯籠を建てた。昭和十二年守屋の千三百五十年祭には日
本書記の一節を刻し、裏面に追悼文をきざんだ碑を建て、右側に石灯籠を献
じた。墳の前は、旧奈良街道ですなわち国道二十五号線がある。

大聖勝軍寺 太子堂 聖徳太子古戦場
587年、崇仏派の聖徳太子が排仏派の物部守屋との戦いで「いまもし我をして
敵に勝たしめば、かならずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし」
(日本書紀)と祈願して戦勝したことから、戦後間もなく四天王を祭るための寺
院として摂津国難波(大阪市天王寺区)の四天王寺とともに、当寺の太子堂が
建立された。594年、推古天皇より現在の山号と寺号が贈られ、この年が創建
年とされる。756年、聖武上皇から鎮護国家寺の称号を贈られ、勅願寺に定め
られる。太子町にある叡福寺の「上の太子」、羽曳野市にある野中寺の「中の
太子」に対して、「下の太子」と称されます。

鏑矢塚
室町時代後期に書かれたという大聖勝軍寺の寺伝『大聖勝軍寺略縁起』
に、迹見赤檮が守屋を射た際の矢を埋めた場所とあるそうです。
『河内志』にも、「物部守屋墓、在太子堂村、傍有鏑矢塚」とみえます。
『河内名所図会』には、この場所は「御戦場」と書かれています。

楠本神社(北木の本)・守屋首洗池
当神社は延喜七年(西暦九〇七年)の延喜式神名帳に樟本神社三座の一つ
とし記載されている式内社である。大和時代、用明天皇の御代、この付近一
帯は物部氏の住地であった。物部守屋が本拠地である稲城の守護神として
崇めていた布都大神を布都大明神として奉祀されたものと伝えられる。紀・記
・古伝によると悪疫邪霊を祓い、病気平癒、又、鍬、靫を司る」農耕・武の神と
して広く村民の崇敬を受け現在に至っている。

守屋首洗池

此の続きは
4月15日のてくてくマップ・八尾駅ー3 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿します。
       http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、
平野川・柏原船&使い場

樟本神社(南木の本)・日羅禅寺
この地は、物部氏の住地であり、この社はその祖神をまつったものである。
北木本と木本に同名の二社があり、延喜式神名帳には樟本神社三座と記
されている。守屋が聖徳太子の軍を防ぐためこのあたりに「稲城」を設けた
とき、城中に榎木があったので、これを「榎木城」といい、村の名も「榎木村」
といったが、のち「木本」となったと伝える。境内には黄檗宗日羅寺がある。
薬師如来を本尊とする。日羅は百済へ渡り重く用いられた。敏達天皇は任
那滅亡後、日羅を呼びもどし、百済の政情をたずねたところ、「兵事よりも、
百姓保護に努め、国力を充実して、百済を討つべし」と説いた。このため同
行して来朝していた百済使臣のために暗殺された。厨子は、延宝八年
(一六八〇)平野の豪族末吉勘兵衛利長の寄進によるという。

樟本神社(木の本)・・赤い鳥居
当社は式内社である。延喜式に記載されている樟本神社三座の一にして他
の二座は南木の本、北木の本に分祀されている。創建の年代は詳かではな
いが用明天皇の御代(約千四百年前)物部守屋公が本據地である稲村城
(現光蓮寺敷地)の守護神として崇めていた布都大神を奉祀されたものと伝
えられる。紀・記古伝によると悪疫邪霊を祓い病気平癒又鍬靫を司る農耕・
武の神として広く村民の崇敬を受け現在に至っている。樟本神社の社名は
往古境内に樟の巨木が茂っていたところからと謂われている。

光蓮寺・稲城跡
光蓮寺
若江山光蓮寺といい、浄土真宗本願派に属する。寺伝によれば、中世には
若江郡の稲葉(現 東大阪市役所付近)において法燈をつぎ光蓮寺となし、
慶長年間(1596~1615)に現地に移転したという。文明7年(1470)に、蓮
如上人によって、天台宗から浄土真宗に転宗した。住職は「稲城」とういう
苗字である。

稲城跡
聖徳太子が物部守屋の館のあった阿都の桑市を攻めたとき、守屋は兵を
集めて、この地に稲城を構えて抗戦したという。稲城は稲で囲った城とか、
稲積みの城であつたと伝えられる。

ビューポイント・二上山が見える

八尾市・みえる下水道公園
マンホール一箇所とその周辺地を公園として整備。「見える下水道公園」として
一般の公園として公開されています。日頃、私たちの目に直接ふれる事の少な
い下水道について、少しでも理解して頂くために、マンホール内に入っていただ
いて、各家庭から集められてきた下水の流れるようすを見る施設。また、地下施
設に通じる通路部には、実際に下水道工事に使用する作業台車やセグメント
展示しており、地上部にもさまざまな下水道工事に使用するものを展示し、下水
道の体験空間を創造している。

弓削神社(西)・延命水井戸
八尾市内には弓削神社を名乗る社は2社あり、国道25号線を挟んで直線距離に
して約300mのところにある。「延喜式」神名帳には若江郡22座の項に「弓削神
社2座(大社)」が見える。弓削神社の社名からもともとは弓削氏の氏神であった
と思われる。弓削氏は河内国若江郡弓削郷を本貫とする豪族で、その名の通り、
武器の製作に携わるグループを率いていた。また、物部氏との関わりも強く、物
部尾興は弓削連祖倭古連の娘阿佐姫と結婚して物部守屋を生んだと言われ、
守屋は物部弓削守屋大連と複数姓をとっており、この地を本願としていたと思わ
れる。
境内右手に“延命水”との古井戸があり、龍頭の吐水口が残っている。旱魃にも
枯れたことがなかったというが、今、涌水の状態は不明。

二股橋・長瀬川&玉串川に分岐

弓削神社(東)
各々の神社には、八尾教育委員会の建てた説明碑があったが、孝謙天皇に
仕え、その信任を得た弓削道鏡の記載など同じような内容で、この2社の関
わりや役割分担などは分からない。

4月12日の近鉄ハイキング・向島駅~2

4月16日         4月12日の近鉄ハイキング・向島駅~2
               春の訪れを感じに! 伏見をぶらり♪♪

久し振りに1人で参加、晴天に恵まれ気持ち良いウオーキングに・・・
コース  近鉄 駅フリーハイキング  向島駅受付9時半~11時 歩程約9km
向島駅(受付)~宇治川・観月橋~御香宮神社~桓武天皇陵~明治天皇陵~
昭憲皇太后陵~乃木神社~光明天皇陵~その他は、パスして~桃山御陵前駅
此の日の私は、18700歩で約12km歩いたことに・・・
4月12日の早朝
何時もの場所で・・・
IMG_1245.JPG

志都美駅
IMG_1247.JPG

向島駅
IMG_1249.JPG

宇治川・観月橋へ向かう
桜並木は既に葉桜になって・・・
IMG_1250.JPGIMG_1252.JPG

宇治川・観月橋
IMG_1255.JPGIMG_1258.JPG
御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)
平安期、境内から病気に効く香水がわき出たので清和天皇からこの名を賜った
という。桃山期の特色ある建築物のうち表門や極彩色彫刻の本殿は重文。神功
皇后ほかを祀り、豊臣秀吉は伏見城の守り神とした。書院の庭は、小堀遠州ゆ
かりの石庭。鳥羽伏見の戦いでは薩摩軍の屯所になっていた。
現在の本殿の建立1605(慶長10)年。環境省名水百選認定 「伏見の御香水」
IMG_1259.JPGIMG_1265.JPGIMG_1268.JPG

桃山御陵へ向かう
IMG_1276.JPG
桓武天皇陵
(かんむてんのう、天平9年(737年) - 延暦25年3月17日(806年4月9日))は、
日本の第50代天皇(在位:781年4月30日 - 806年4月9日)。
平城京から、当時ほとんど未開の山城国への遷都を行う。初め延暦3年(784年)
に長岡京を造営するが、天災や後述する近親者の不幸・祟りが起こり、その原因
を天皇の徳がなく天子の資格がない事にあると民衆に判断されるのを恐れて、
僅か10年後の延暦13年(794年)、側近の和気清麻呂・藤原小黒麻呂(北家)らの
提言もあり、気学における四神相応の土地相より長岡京から艮方位(東北)に当た
る場所の平安京へ改めて遷都した。
文化面では『続日本紀』の編纂を発案したとされる。また最澄と空海が唐から帰国
し、日本の仏教に新たな動きをもたらしたのも桓武天皇治下で、最澄や空海の保
護者として知られる一方、既存の仏教が政権に関与して大きな権力を持ちすぎた
ことから、いわゆる「南都六宗」と呼ばれた諸派に対しては、圧迫を加えている。
IMG_1279.JPGIMG_1280.JPGIMG_1282.JPG
明治天皇陵
(めいじてんのう、嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 明治45年(1912年)7月
30日)は、日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は祐宮(さちのみ
や)。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代日本の指導者と仰がれた。
江戸開城から半年を経た明治元年10月13日、明治天皇は初めて江戸に行幸し、
同日江戸は東京に、江戸城は東京城に改めた(東京奠都)。一旦京都に還幸後、
翌明治2年(1869年)に再び東京に移り、以後は崩御まで東京に居住した。
IMG_1286.JPGIMG_1301.JPG
昭憲皇太后陵
(しょうけんこうたいごう、嘉永2年4月17日(1849年5月9日) - 1914年(大正3年)
4月9日)は、明治天皇の皇后。旧名・一条美子(いちじょう はるこ)。病弱で実子
はなかったが、嫡妻として、明治天皇の側室(柳原愛子)が生んだ嘉仁親王(大
正天皇)を養子とした。
欧米の貴婦人と対峙できるよう女子教育を奨励し、史上初めて洋装をした皇后。
維新期の皇后として社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現学習院女子
高等科)や、お茶の水の東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立、
日本赤十字社の発展などに大きく寄与した。慈善事業の発展に熱心で、東京慈
医院や博愛社(現在の日本赤十字社)の発展に貢献した。
IMG_1295.JPGIMG_1298.JPG
此処までは、
4月12日の近鉄ハイキング・向島駅~1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-04-16  
続きは、
乃木神社へ向かう~
IMG_1303.JPGIMG_1304.JPGIMG_1305.JPG
乃木神社
日露戦争で武功をあげ、明治天皇に殉死した乃木希典・静子夫人を祭る。社殿
は1916年(大正5)建立。境内には将軍の書画、武具など遺品百数十点を保存
する宝物館。旅順攻撃の司令部に使った中国の民家(記念館)、乃木将軍少年
時代の長府旧邸などがある。
大正5年(1916年)9月に創建された。建立の中心となった村野山人は薩摩藩
(鹿児島県)出身で、豊州の門司鉄道をはじめ、摂津、山陽、南海、京阪等の
各鉄道の取締役を歴任した人物である。明治天皇の大葬の際、京阪電車の会
社代表として参列。翌日、乃木夫妻の殉死を聞いて強い衝撃と感銘を受けた。
そして、乃木夫妻の殉死1年後に会社の職を辞し私財を投じて、乃木大将の人
となり・日本人の心を後世に伝えることに尽くそうと考えた。それが明治天皇の
陵の麓に神社を立てることであり、精神の高揚を図ることであった。
IMG_1306.JPGIMG_1307.JPGIMG_1308.JPGIMG_1309.JPGIMG_1310.JPGIMG_1311.JPGIMG_1312.JPGIMG_1313.JPGIMG_1314.JPGIMG_1318.JPGIMG_1319.JPGIMG_1320.JPG
※乃木 希典(のぎ まれすけ、嘉永2年11月11日(1849年12月25日) - 1912年
(大正元年)9月13日)は、日本の武士(長府藩士)、軍人、教育者。日露戦争に
おける旅順攻囲戦の指揮や、明治天皇の後を慕って殉死したことで国際的にも
著名である。階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第10代学
習院院長に任じられ、迪宮裕仁親王(昭和天皇)の教育係も務めた。

光明天皇陵へ向かう
JR桃山駅の線路の橋桁が妙に懐かしい、線路脇にスカンポ
IMG_1321.JPGIMG_1322.JPGIMG_1323.JPGIMG_1324.JPG
光明天皇陵
光明天皇(こうみょうてんのう、元亨元年12月23日(1322年1月11日) - 天授6年
6月24日(1380年7月26日))(在位:延元元年8月15日(1336年9月20日)- 正平
3年10月27日(1348年11月18日))は、南北朝時代の北朝第2代天皇である。
後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏が湊川の戦いで宮方に勝利し、
延元元年(1336年)に京都に入ると後醍醐天皇は比叡山延暦寺に逃走する。後
醍醐天皇の代わりに8月15日に豊仁が三種の神器の無い状況で光厳上皇の院
宣により即位して光明天皇となり、北朝が成立する。三種の神器がない状況での
即位は後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣により即位した先例に従ったものであり、
この時代は三種の神器が皇位継承の絶対条件ではなかったのである。
兄の光厳上皇による院政が行われた。
IMG_1325.JPGIMG_1326.JPGIMG_1327.JPGIMG_1328.JPGIMG_1329.JPGIMG_1330.JPGIMG_1331.JPGIMG_1332.JPGIMG_1335.JPG

アーケード商店街&桃山御陵前駅(ゴール)
IMG_1334.JPG

おまけ
我家の鉢植えのフリージャー
IMG_1336.JPG

4月10日の近鉄ハイキング・榛原駅~又兵衛桜-3

4月15日        4月10日の近鉄ハイキング・榛原駅~又兵衛桜ー3
                春のかぎろひ 又兵衛桜への散歩道
知人と3人で参加、天気に恵まれ、桜にも恵まれ、素晴らしいハイキングになった。
コース  近鉄 駅フリーハイキング  榛原駅南出口9時半~11時 歩程約13km
榛原駅南出口階段下(受付)~宇陀川沿い桜並木~うだ・アニマルパーク~宇陀
松山地区~かぎろひの丘万葉公園~又兵衛桜~阿紀神社~道の駅宇陀路大宇陀
バス停→奈良交通バス 430円→榛原駅
途中の地元の桜まつりで野菜の買い物、おでんを食べて、安くて美味しかった・・・
途中で同行者1人増え、4人でワイワイガヤガヤ??でも無いが楽しいハイキング。
この日は万歩計の電池切れで・・・帰って100均で電池購入(2ヶ108円)し交換した。
志都美駅
西名阪道の香芝SA付近・・・
IMG_1102.JPG
香芝駅~近鉄下田駅へ向かう
鹿島神社・・・香芝の地名は「鹿島神社」に由来するものと・・・
承安2年(1172)に源義朝の家来の鎌田小次郎政光が常陸国の鹿島本宮の神を
連れてきたのが始まりという記録があります。この地にあった、式内社の深溝神社
とする説が有ります。祭神は武甕槌大神
IMG_1103.JPG

近鉄下田駅
IMG_1104.JPG
榛原駅南出口階段下で受付を済ませて宇陀川の桜並木へ向かう
宇陀川の桜並木、期待以上に凄い!満開だ・・・
IMG_1108.JPGIMG_1109.JPG
田圃や畑の風景も素晴らしい
レンゲの花やタンポポも綺麗・・・
IMG_1110.JPGIMG_1114.JPG
520番で受付を済ませたが前を行く人影はまばら、大半がバスで移動か?
此の宇陀川沿いの桜並木を観ることなく又兵衛桜へ一直線??
IMG_1120.JPGIMG_1121.JPGIMG_1124.JPGIMG_1125.JPGIMG_1134.JPGIMG_1135.JPG

とにかく素晴らしい桜並木、約5kmくらい続く様だ・・・
IMG_1137.JPGIMG_1138.JPG
朱い鳥居が見えて桜がまばらに・・・
休憩所付近には桜の大木が満開、此処で小休止、水分補給
IMG_1142.JPGIMG_1145.JPGIMG_1146.JPGIMG_1149.JPG
昼食は、もう少し先の、うだ・アニマルパークと決めて
此処までについては、
4月10日の近鉄ハイキング・榛原駅~又兵衛桜ー1 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿済みです。
       http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/2016-04-14-1
此処からは、
4月10日の近鉄ハイキング・榛原駅~又兵衛桜ー2 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-04-14-1
続きは、
河合板橋を渡り、次のうだ・アニマルパーク看板で橋を渡り
うだ・アニマルパークへ向かう
IMG_1150.JPGIMG_1151.JPGIMG_1154.JPG

うだ・アニマルパークで昼食
IMG_1157.JPG
戦国時代の名残り
宇陀松山地区(重要伝統的建造物群保存地区)
慶恩寺
IMG_1159.JPG

松山通り
IMG_1162.JPG

恵比須神社
IMG_1163.JPG
黒門(松山西口関門)
宇陀川越えの入口
IMG_1165.JPG
春日神社
春日神社の更に高めには、史跡宇陀松山城跡もあるが今回はパス
IMG_1169.JPGIMG_1175.JPG

浄土真宗本願寺派 万法寺
IMG_1186.JPGIMG_1189.JPG
太右衛門橋を渡り、
阿紀神社、かぎろひの丘万葉公園をパスして又兵衛桜へ急ぐ・・・
IMG_1190.JPGIMG_1191.JPGIMG_1200.JPG
「桜維持協力金 100円」を払って近くで見る・・・
此処からは、此の続きを詳細掲載します。
続きは、
又兵衛桜周辺&又兵衛桜
IMG_1194.JPGIMG_1195.JPGIMG_1197.JPGIMG_1198.JPGIMG_1199.JPGIMG_1201.JPGIMG_1202.JPGIMG_1203.JPGIMG_1205.JPGIMG_1206.JPGIMG_1207.JPGIMG_1208.JPGIMG_1209.JPGIMG_1210.JPGIMG_1211.JPGIMG_1208.JPGIMG_1209.JPGIMG_1210.JPGIMG_1211.JPGIMG_1212.JPGIMG_1214.JPGIMG_1215.JPG
かぎろひの丘万葉公園を遠目に見ながら阿紀神社へ向かう
かぎろひの丘万葉公園・・・機会が有れば是非行って見たい
柿本人麻呂の「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」
の歌碑があり遊歩道や東屋が整備された公園だそうです。
かぎろひの丘からは大宇陀の集落の背後に高見山系が望め、暁には刻々と
様子が変わる茜色の空が楽しめる。
この歌の「かぎろひ」については、さまざまな説がある。しかし、大宇陀町観光
協会は”厳冬のよく晴れた早朝、太陽が水平線上に現れる約1時間前に太陽
光線のスペクトルにより現れる最初の陽光”という説を採用している。
発掘調査により「阿騎野」の中心施設が判明して、遺跡公園として保存されて
います。柿本人麻呂像や、復原された掘立柱建物などがあります。
IMG_1216.JPGIMG_1218.JPGIMG_1219.JPG
阿紀神社
垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を祀ったとされて
います。伊勢神宮と同じ神明造です。例年6月頃に「あきの蛍能が」開催され、
多くの見物客出賑わうそうです。
IMG_1220.JPGIMG_1221.JPGIMG_1223.JPGIMG_1224.JPG

道の駅へ向かう、途中に大願寺を・・・アケビの花が此処でも満開?
IMG_1225.JPG
大願寺(だいがんじ)
聖徳太子発願の寺とも伝えられ、藤原時代後期の木造十一面観音菩薩立像を
本尊とします。薬草料理(要予約)は有名で、秋の紅葉も美しい。
IMG_1226.JPGIMG_1229.JPGIMG_1230.JPG

  仏足石も・・・
IMG_1231.JPGIMG_1232.JPGIMG_1233.JPG
道の駅宇陀路大宇陀→奈良交通バス(430円)→榛原駅へ
榛原駅~大和八木駅~五位堂駅
五位堂駅で二上山を撮る・・・
IMG_1235.JPGIMG_1234.JPG
おまけ
自宅の鉢植えのフリージャーが咲いて・・・
IMG_1236.JPG

7月度歩こう会の下見&打ち合わせ・その他

4月14日      7月度歩こう会の下見&打ち合わせ・その他

7月度の歩こう会は”太子ゆかりの王寺の里 座禅体験ツアー”を計画、
世話人3人で、王寺観光ボランティアガイドの会のご担当様と現地訪問し
主要見所を実際に歩いた上で打ち合わせを行い、7月26日に向けて・・・
コース  雨天決行でメイン葉座禅、ショートカットコースも視野に入れて
王寺駅改札出口に集合
10時に駅を出発して葛下川堤防の遊歩道
王寺町健民グラウンドへ(トイレ休憩場所)
孝霊天皇陵
第7代孝霊天皇片岡馬坂陵
孝霊天皇は孝安天皇の第二皇子で「古事記」「日本書記」に記される
第7代天皇である。
IMG_1338.JPG
親殿神社
片岡道春が春日若宮から祭神を勧請して「親殿」と名付け、片岡武士団が
戦勝祈願や軍議をするばしょであった。拝殿には戦勝にまつわる絵馬が数
多く奉納され、町内最古の絵馬は、親殿神社に奉納された合戦図(1790年)
のもので、今は奈良県の民族博物館にある。
IMG_1340.JPGIMG_1339.JPG
芦田池
本町の辺りは昔から葦田と呼ばれ、葦が茂っていたことから放光寺古今縁起
に芦田池と書かれていた。   柿本人麻呂が詠んだ歌に
「あすからは 若菜つまむと 片岡の あしたの原は けふぞやくめる」」とあり
あしたの原とは、葛木山から馬見丘陵にはさまれた葛下川流域一帯をさした
と思われている。
IMG_1341.JPGIMG_1342.JPGIMG_1343.JPG
達磨寺・昼食・境内散策&本堂内見学
達磨寺
13世紀前半に勝月上人が達磨大師の墓であると伝えられていた古墳の上に
三重塔を建立して開基されたと考えられている。その後東大寺や興福寺等の
弾圧や松永久秀の戦火によって荒廃したが、其のたびに復興を遂げた。
慶長7年(1602年)の徳川家康朱印状は、家康が達磨寺に30石と境内竹林を
寄付する事を記した物である。以来、達磨寺は門前村を領地として支配する
様になった。15代将軍のうち12通の朱印状が現存している。
一夜竹
達磨大師お杖竹とも言い、一夜にして根付いたと言う。
熱帯・亜熱帯地方産、九州沖縄地方で生垣に植えられている蓬莱竹。
IMG_1344.JPG

一夜竹の他に雪丸像、片岡武士団の墓、松永久秀の墓、達磨寺古墳群
IMG_1345.JPGIMG_1346.JPGIMG_1347.JPG
片岡神社
「延喜式」の葛下郡18座「片岡坐神社」に比定される式内社である。記録に
よると、正暦5年(994年)疫病や天変地異が続いた為、中臣氏人が救済を
祈願して奉納したとある。放光寺の鎮守社である。
IMG_1348.JPGIMG_1349.JPGIMG_1350.JPG
放光寺
現在の放光寺は、片岡王寺と言われた古代寺院の跡に建つ黄檗宗の寺院
で延宝8年(1680年)に再興され、十一面観音坐像を本尊としている。「放光
寺古今縁起」によれば「敏達天皇第3皇女の片岡姫が葛下郡片岡中山に営
んだ片岡宮を寺に改め、片岡寺と称した事にはじまり、聖徳太子をはじめ用
名・推古・舒明・孝徳・聖武天皇らの崇敬を得て、皇寺(王寺)と称された」と
ある。此の片岡王寺が、王寺町の町名の起源と考えられている。
IMG_1351.JPGIMG_1352.JPGIMG_1353.JPGIMG_1354.JPG
葛下川堤防・和の鐘
王寺駅
達磨寺での本殿見学後座禅体験班&昼食&境内散策班等の時間調整は
王寺観光ボランティアガイドの会の皆さんにお任せする事でスムースに・・・
志都美駅
葛城山~二上山&西名阪道香芝SA付近
IMG_1238.JPGIMG_1239.JPGIMG_1237.JPG

その他
4月11日の社友会事務所で役員会
長池公園
IMG_1240.JPGIMG_1241.JPGIMG_1242.JPG

鶴が丘駅
IMG_1243.JPG

4月10日の近鉄ハイキング・榛原駅~又兵衛桜ー1

4月14日        4月10日の近鉄ハイキング・榛原駅~又兵衛桜ー1
                春のかぎろひ 又兵衛桜への散歩道
知人と3人で参加、天気に恵まれ、桜にも恵まれ、素晴らしいハイキングになった。
コース  近鉄 駅フリーハイキング  榛原駅南出口9時半~11時 歩程約13km
榛原駅南出口階段下(受付)~宇陀川沿い桜並木~うだ・アニマルパーク~宇陀
松山地区~かぎろひの丘万葉公園~又兵衛桜~阿紀神社~道の駅宇陀路大宇陀
バス停→奈良交通バス 430円→榛原駅
途中の地元の桜まつりで野菜の買い物、おでんを食べて、安くて美味しかった・・・
途中で同行者1人増え、4人でワイワイガヤガヤ??でも無いが楽しいハイキング。
この日は万歩計の電池切れで・・・帰って100均で電池購入(2ヶ108円)し交換した。
志都美駅
二上山にも新緑が増えて・・・
IMG_1101.JPGIMG_1102.JPG
香芝駅~近鉄下田駅へ向かう
鹿島神社・・・香芝の地名は「鹿島神社」に由来するものと・・・
承安2年(1172)に源義朝の家来の鎌田小次郎政光が常陸国の鹿島本宮の神を
連れてきたのが始まりという記録があります。この地にあった、式内社の深溝神社
とする説が有ります。祭神は武甕槌大神
IMG_1103.JPG

近鉄下田駅
IMG_1104.JPG

榛原駅南出口階段下で受付を済ませて宇陀川の桜並木へ向かう
宇陀川の桜並木、期待以上に凄い!満開だ・・・
IMG_1107.JPGIMG_1108.JPGIMG_1109.JPG
田圃や畑の風景も素晴らしい
レンゲの花やタンポポも綺麗・・・
IMG_1110.JPGIMG_1111.JPGIMG_1112.JPGIMG_1113.JPGIMG_1114.JPGIMG_1115.JPGIMG_1118.JPGIMG_1119.JPG
520番で受付を済ませたが前を行く人影はまばら、大半がバスで移動か?
此の宇陀川沿いの桜並木を観ることなく又兵衛桜へ一直線??
IMG_1120.JPGIMG_1121.JPGIMG_1122.JPGIMG_1124.JPGIMG_1125.JPGIMG_1126.JPGIMG_1128.JPG

とにかく素晴らしい桜並木、約5kmくらい続く様だ・・・
IMG_1131.JPGIMG_1132.JPGIMG_1133.JPGIMG_1134.JPGIMG_1135.JPGIMG_1136.JPGIMG_1137.JPGIMG_1138.JPGIMG_1139.JPGIMG_1140.JPGIMG_1141.JPG
朱い鳥居が見えて桜がまばらに・・・
休憩所付近には桜の大木が満開、此処で小休止、水分補給
IMG_1142.JPGIMG_1143.JPGIMG_1144.JPGIMG_1145.JPGIMG_1146.JPG

昼食は、もう少し先の、うだ・アニマルパークと決めて
IMG_1148.JPGIMG_1149.JPG

此処からは、
4月10日の近鉄ハイキング・榛原駅~又兵衛桜ー2 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-04-14-1
続きは、
河合板橋を渡り、次のうだ・アニマルパーク看板で橋を渡り
うだ・アニマルパークへ向かう
うだ・アニマルパークで昼食
戦国時代の名残り
宇陀松山地区(重要伝統的建造物群保存地区)
慶恩寺
松山通り
恵比須神社
黒門(松山西口関門)
宇陀川越えの入口
春日神社
春日神社の更に高めには、史跡宇陀松山城跡もあるが今回はパス
浄土真宗本願寺派
万法寺
太右衛門橋を渡り、
阿紀神社、かぎろひの丘万葉公園をパスして又兵衛桜へ急ぐ・・・

此処からは、
4月10日の近鉄ハイキング・榛原駅~又兵衛桜ー3 として
          下記のメインブログへ詳細を投稿します。
         http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
続きは、
又兵衛桜周辺&又兵衛桜
樹齢300年ともいわれる枝垂れ桜です。この地に伝わる戦国武将「後藤又兵衛」
の伝説と、この桜が後藤家の屋敷跡にある事から「又兵衛桜」と呼ばれ親しまれ
ています。近くで鑑賞するには「桜維持協力金 100円」が必要です。

かぎろひの丘万葉公園を遠目に見ながら阿紀神社へ向かう
かぎろひの丘万葉公園・・・機会が有れば是非行って見たい
柿本人麻呂の「東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」
の歌碑があり遊歩道や東屋が整備された公園だそうです。
かぎろひの丘からは大宇陀の集落の背後に高見山系が望め、暁には刻々と
様子が変わる茜色の空が楽しめる。
この歌の「かぎろひ」については、さまざまな説がある。しかし、大宇陀町観光
協会は”厳冬のよく晴れた早朝、太陽が水平線上に現れる約1時間前に太陽
光線のスペクトルにより現れる最初の陽光”という説を採用している。
発掘調査により「阿騎野」の中心施設が判明して、遺跡公園として保存されて
います。柿本人麻呂像や、復原された掘立柱建物などがあります。
阿紀神社
垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が天照大御神を祀ったとされて
います。伊勢神宮と同じ神明造です。例年6月頃に「あきの蛍能が」開催され、
多くの見物客出賑わうそうです。

道の駅へ向かう、途中に大願寺を・・・アケビの花が此処でも満開?
大願寺(だいがんじ)
聖徳太子発願の寺とも伝えられ、藤原時代後期の木造十一面観音菩薩立像を
本尊とします。薬草料理(要予約)は有名で、秋の紅葉も美しい。

道の駅宇陀路大宇陀→奈良交通バス(430円)→榛原駅へ
榛原駅~大和八木駅~五位堂駅
五位堂駅で二上山を撮る・・・

おまけ
自宅の鉢植えのフリージャーが咲いて・・・

4月9日の近鉄ハイキング・河内山本駅~1

4月12日      4月9日の近鉄ハイキング・河内山本駅~1
          あみま倶楽部 てくてくマップ大阪-11 玉串川
朝のうちに所用が済み、7日に予定していて雨で中止にした、あみま倶楽部の
てくてくマップ大阪-11 河内山本駅~の玉串川の花見に、家内と出かけた・・・
コース  あみま倶楽部てくてくマップ大阪-11のスタンプを駅で貰ってスタート
河内山本駅~山本八幡宮~玉串川の桜並木散策~河内山本駅 
4月7日の雨風で桜は大分散ってしまった様だったがまだまだ見頃?
天気は良かったが人出が少なくて、私達にとっては、絶好の花見に・・・
王寺駅陸橋から
信貴山を撮る
IMG_1046.JPG

JR柏原駅~近鉄堅下駅へ
IMG_1047.JPGIMG_1100.JPG
近鉄堅下駅~河内山本駅
河内山本駅の直ぐ北側の山本八幡宮
山本八幡宮(やまもとはちまんぐう)は、大阪府八尾市山本町にある神社。 近鉄河内
山本駅のすぐ北側、玉串川の西岸、立石街道の南沿いに所在する、小ぢんまりとし
た神社である。誉田別尊(応神天皇)を祀る。享保元年(1716年)、石清水八幡宮より
神霊を勧請し、山本新田の鎮守として分祀された。
IMG_1098.JPGIMG_1048.JPGIMG_1049.JPGIMG_1050.JPGIMG_1051.JPG

玉串川の桜並木散策
今東光和尚の天台院の・・・今回は行けず
IMG_1052.JPGIMG_1054.JPGIMG_1053.JPGIMG_1053.JPGIMG_1055.JPGIMG_1056.JPGIMG_1057.JPGIMG_1058.JPGIMG_1059.JPGIMG_1060.JPGIMG_1061.JPGIMG_1062.JPGIMG_1063.JPG

  一部分葉桜になるも素晴らしい桜並木の桜吹雪に花筏
IMG_1064.JPGIMG_1065.JPGIMG_1066.JPGIMG_1067.JPGIMG_1068.JPGIMG_1069.JPGIMG_1070.JPGIMG_1071.JPGIMG_1072.JPGIMG_1073.JPG

未だ未だ続く桜並木・・・
此の続きは、
4月9日の近鉄ハイキング・河内山本駅~2 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/
未だ未だ続く桜並木・・・