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7月28日の藤原京跡蓮田の花蓮-2

7月31日       7月28日の藤原京跡蓮田の花蓮-2
              夏祭り準備の合間をぬって・・・
前回、7月14日の藤原京跡蓮田の花蓮を見に行った時は3つある蓮田の内、
真ん中の”古代蓮”だけがチラホラ花が立ってる?状態で両サイドの蓮田には
殆んど花が立っていない状況、あれから丁度2週間、14日間が過ぎ、今回は
八分?粗満開に近い状態を見る事が出来た、帰りの通りすがりに見た黄花
コスモスのゾーンも大分咲いていた・・・・
藤原京(ふじわらきょう)
橿原市のかしはら探訪ナビから引用
わが国最初の都、藤原京。その16年の栄華は、日本の歴史上に大きな役割を
果たしました。大和三山が見守った藤原京の歴史ドラマ
藤原京は、中国の都城制を模して造られた日本初の本格的な都城でした。持統
天皇が飛鳥から藤原の地に都を遷したのは694年のこと。新たな都の造営は、
亡き夫・天武天皇を意志を受け継いだ中央集権国家の確立には欠かせない一
代事業でした。その大きさは、東西方向約5.3km、南北方向4.8kmで、平城京、
平安京をしのぐ古代最大の都です。藤原京時代には大宝律令が制定され、貨
幣も発行されました。初めて「日本」という国号を使用したのも藤原京を発した
遣唐使でした。
藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)
 藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)は、藤原京の中心施設である藤原宮のあった
ところです。藤原宮は一辺約1kmの中に、大極殿や朝堂院といった国をあげて
の儀式や政治を行う施設や天皇の住まいである内裏などがあり、現在の皇居
と国会議事堂、霞ヶ関の官庁街を合わせた性格を持っていました。藤原京は
16年間の都でしたが、藤原宮の構造はその後の都にも引き継がれていきます。
 藤原宮跡では、季節ごとに美しい花が植えられ、菜の花やコスモス、キバナ
コスモス、ハスなど色とりどりの大地のカーペットを楽しむことができます。また、
藤原宮跡は大和三山の絶好の眺望スポットとなっています。藤原宮跡から見る
朝陽・夕陽は息をのむほどの秀景です。平成23年6月には、藤原宮跡からの
大和三山の稜線の眺めが、「重要眺望景観」に指定されました。
前半は、
7月28日の藤原京跡蓮田の花蓮-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-07-30
此処では、後半
7月28日の藤原京跡蓮田の花蓮-1 の続きを 花蓮-2 として、掲載します。
蓮田で・・・
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香久山をバックに
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畝傍山をバックに
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遠くに二上山を
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耳成山をバックに
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畝傍山をバックに
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駐車場へ戻りながら
畝傍山~二上山をバックに
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香久山
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耳成山
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おまけ
我家のデュランタ&ハイビスカス&琉球朝顔
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パッションフルーツ
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里いも
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7月26日の歩こう会・達磨寺座禅体験-抜粋編

7月29日        7月26日の歩こう会・達磨寺座禅体験-抜粋編・その他
               太子ゆかり 王寺の里 座禅体験ツアー
歩こう会の7月度例会は、夏場の暑さも考慮して短距離の納涼コースを設定し、
昼食後は、クーラーの効いたお寺の本堂で約20分間の無我の境地、座禅体験
をして”座禅体験証”を貰う事にしていました、生憎の雨で参加者は64人、目標の
100人には満たなかったが、雨じゃしょうが無い、参加者には概ね好評だった・・・
此の日の私は、16150歩で約10.7km歩き、後に皆と王寺の銭湯”さくら湯”に。
王寺観光ボランティアガイドの会の皆さんにお世話になり、有難う御座いました。
孝霊天皇陵
孝霊天皇(こうれいてんのう)は、日本の第7代天皇。
『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史
八代」の1人に数えられる。皇子に吉備津彦命(きびつひこのみこと)、吉備津神社
社伝では、吉備津彦命は吉備の中山の麓に茅葺宮を建てて住み、281歳で亡くな
り山頂に葬られたという。吉備津彦命が吉備平定にあたって温羅(うら・うんら・お
んら)という鬼を討ったという伝承が岡山県を中心として広く知られる。これによる
と、温羅は鬼ノ城に住んで地域を荒らしたが、吉備津彦命は犬飼健(いぬかいた
ける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)という3人の家来とともに
討ち、その祟りを鎮めるために温羅の首を吉備津神社の釜の下に封じたという。
この伝説は物語「桃太郎」のモチーフになったともいわれる。
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親殿神社へ向かう
親殿神社
中世の武士団片岡氏が春日若宮社の神を勧請して祀ったのがはじまりといわれる
神社です。祭神は、武甕槌命(たけみかづちのみこと)・径津主命(ふつぬしのかみ)
・天児屋根命(あまのこやねのみこと)・比売神(ひめのかみ)
天児屋根命が祀られる神社で武士団・片岡氏の祖先が文明年間に祀ったのがはじ
まりであるといいます。記録によれば、片岡道春という人が春日若宮から祭神を勧
請して、親殿と名づけたとあります。境内には、安政2年(1855)に雨乞の祈願が成
就したことで奉納された石灯籠があります。
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芦田池へ向かう
芦田池
この芦田池は、「日本書紀」によると、聖徳太子の進言によって、推古天皇15年
(607年)の冬に大和の国に新しく造られた4つのため池(肩岡池、高市池、藤原
池、菅原池)の一つ、肩岡池のことであり、日本最古の官立の「ため池」である。
・本町の辺りは昔から葦田と呼ばれ、葦が茂っていたことから放光寺古今縁起に
は葦田池と書かれていた。
・あしたの原とは、葛城山から馬見丘陵にはさまれた葛下川流域一帯をさしたと
思われる。
・この地は歌の名所として、数々の名歌が残されている。
 あすからは 若菜つまむと 片岡の
   あしたの原は けふぞやくめる   柿本人麻呂
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達磨寺へ向かう
達磨寺
達磨寺(だるまじ)は、奈良県北葛城郡王寺町にある臨済宗南禅寺派の寺院。
山号は片岡山。本尊は、千手観音・達磨禅師・聖徳太子。
この寺の創建については、推古天皇21年(613年)の冬、聖徳太子が片岡山で
飢えていた異人に衣食を施したという片岡山飢人伝説にからめて語られる。そ
の後は、衰退と中興が繰り返され、江戸時代には幕府から30石が与えられた。
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※片岡山飢人伝説とは、『日本書紀』の推古天皇21年(613年)12月条や『元亨
釈書』に見える次のような話である。聖徳太子こと厩戸皇子が片岡山を通りか
かったところ、飢えて瀕死の異人に出会った。太子はその異人に当座の寒さと
飢えをしのぐため、食物と自分の衣服とを与えた。翌日、使いをやって異人の様
子を見に行かせたところ、すでに息絶えていたので、丁重に葬った。それからし
ばらくして墓の様子を見に行かせると、死体は消えており、衣服だけがきちんと
たたまれて、棺の上に置かれていた。これを知った里人は、あの異人は達磨禅
師の生まれ変わりに相違ないと言い、聖徳太子が自ら刻んだ達磨像を祀ったの
が達磨寺の始まりであるという。
座禅体験証
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片岡神社へ向かう
片岡神社
片岡神社は八幡大神、住吉大神、豊受大神、清滝大神、天照大神が祀られ、
放光寺の鎮守社であるとされている。延喜式の神名帳には片岡坐神社(かたお
かにいますじんじゃ)とあり、古人は雨の神として尊信していたと言われている。
『本朝世紀』によると、正暦5年(994)、疫病や天変地異が続いたため、中臣氏人
が救済を祈願して奉幣したといわれています。
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放光寺へ向かう
片岡王寺・放光寺
この片岡王寺が、現王寺町の町名の起源と考えられている。その遺跡は現在の
王寺小学校を中心とする位置に存在し、明治時代までは基壇跡が残っていた。
それは南向きの四天王寺式伽藍配置で、7世紀前半に敏達天皇の系統の王族
が創建したと言われている。片岡王寺の伽藍は永承元年(1046年)の雷火によ
る焼失を契機に衰退し、現在では放光寺として存続している。
放光寺は第30代敏達天皇の皇女片岡姫による創建といわれ、聖徳太子が建立
した四十六院の一つにも数えられている。しかし、永承年間の雷火と元亀年間の
兵火でほとんどが焼失。その後、延宝・元禄の頃に再建された。
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和の鐘へ向かう
和の鐘(やわらぎの鐘)&雪丸
平成元年に設置され、聖徳太子の十七条の憲法第一条「以和為貴」(和をもって
貴しとなす)の精神を引継ぎ地域のシンボルとして、また地域のアイデンティティ
を確立するために設置されました。
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王寺駅へ向かう
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おまけ・その他
王寺の銭湯”さくら湯”で汗を流して
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28日早朝の藤原京跡蓮田の花蓮・・・八分?粗満開?見頃
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7月23日の近鉄ハイキング・阪神魚崎駅~2

7月27日         7月23日の近鉄ハイキング・阪神魚崎駅~2
                   冷や冷や夏吞みハイキング
           弓弦羽神社から白鶴酒造株式会社&菊正宗酒造(株)
ハイキング仲間うちからは誰も参加表明せず、今回は私1人で参加する事に・・
コース 近鉄 駅フリーハイキング 阪神魚崎駅9時~10時受付 歩程約6km  
阪神魚崎駅(スタート)~住吉川遊歩道~白鶴美術館前~若宮八幡宮神社~深田
池公園~弓弦羽神社~白鶴酒造資料館~菊正宗酒造資料館~住吉川~魚崎駅
白鶴酒造で試飲5種類、菊正宗酒造出試飲2種類、住吉川沿いの公園で昼食を済
ませて、阪神魚崎駅へ歩いて、今回は家を出て此処まで10.5km歩いた事に・・・
志都美駅
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阪神西九条駅
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阪神魚崎駅で受付を済ませてスタート
住吉川の遊歩道を白鶴美術館前迄・・・
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  白鶴美術館前を通り
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若宮八幡宮神社
阪急電鉄の沿線案内より引用
若宮八幡宮は小さな神社。昔は、ほんとうに山の中の静寂とともにあったので
しょうが、今は家がびっしりの住宅街。社殿は新しく、小さいながら堂々としてい
て凛とした雰囲気につつまれています。
阪急御影駅下車 北東へ約750m
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深田池公園
阪急電鉄の沿線案内より引用
深田池公園は、駅のすぐ北側にあります。ここは大きな松の並木が池の南岸に
あり、とても静かです。消防署の右手の道を入ると、すぐに住宅街になります。
このあたりから白鶴美術館まで一帯は、住吉山手と呼ばれます。まさしく邸宅と
呼べる、高い塀に囲まれた大きな庭をもつお屋敷ばかりがつづきます。車もあ
まり入って来ないのでのんびりと歩いていけます。
※阪急御影駅下車 北東へ約150m
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弓弦神社へ向かう
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此処までは、
7月23日の近鉄ハイキング・阪神魚崎駅~1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-07-27
此の続きは、弓弦羽神社~
弓弦羽神社
熊野三山に祀られる神である伊弉冉尊(那智大社)・事解之男命(本宮大社)
・速玉之男命(速玉大社)を祀り、「根本熊野三所大神」と総称する。天照皇大
御神・素佐男尊を配祀する。八咫烏をシンボルとする。
神功皇后の三韓征伐からの帰途、忍熊王が挙兵したことを知り、この地で弓矢
・甲冑を納めて熊野大神に戦勝を祈願した。弓矢・甲冑を納めたということから、
当社背後の山を「弓弦羽岳」「武庫山」(後に「六甲山」の字が宛てられた)と呼
ぶようになった。
延暦年間(782年 - 805年)に弓弦羽の森が神領地と定められ、嘉祥2年(84
9年)、社殿を造営し遷座した。平安中期以降は熊野信仰の隆盛に伴い崇敬を
集めた。日本酒の名産地である灘五郷にあり、氏子には造酒メーカーも多い。
新年に菊正宗、白鶴、剣菱の奉納した樽酒がふるまわれるほか、メーカーの
醸造祈願祭も行われる。
弓弦羽神社は八咫烏をシンボルとしており、日本サッカー協会も同じ八咫烏
をシンボルとしていること、また日本初のサッカーチームが近隣の御影師範
学校で編成されたという地縁もあり、境内に御影石製のサッカーボールが設
置されている。また、フィギュアスケート選手の羽生結弦が、ファンからのお守
りで、名前の似た当社の存在を知って2011年7月に参拝したこともあり、とり
わけソチオリンピックでの羽生の活躍を祈願しての絵馬が多数かけられ、金メ
ダルを獲得した直後には参拝者が20倍になったという。
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白鶴酒造資料館へ向かう
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白鶴酒造資料館
白鶴酒造HPより引用
白鶴酒造は、大正初期に建造された酒蔵を利用した酒造資料館を開設してい
ます。昔ながらの酒造工程や作業内容を立体的に展示し、 歴史的な建物とと
もに現代に伝えています。
寛保3年(1743)材木屋治兵衛、酒造業開始、延享4年(1747)酒銘「白鶴」命名
時をこえ 親しみの心をおくる 白鶴酒造株式会社
創業以来、酒造りひとすじに歩む白鶴酒造株式会社は、 清酒の醸造、販売を
通じて、みなさまの食文化・生活文化を応援してまいりました。
豊かな酒造文化の継承者であることの自負をもって、これからもみなさまの
暮らしに役立つ企業活動を推進してまいります。
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参加者488人、試飲を済ませ
菊正宗酒造資料館へ向かう・・・
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菊正宗酒造資料館
資料館HPより引用
旧酒造記念館は、1659年(万治2)に神戸・御影の本嘉納家本宅屋敷内に建
てられた酒蔵を、昭和35年に現在の地に移築し、酒造記念館として保存・一般
開放していたものです。館内には、国指定・重要有形民俗文化財「灘の酒造用
具」や所蔵する小道具類を展示。酒造りの歴史を今日に伝える資料館として、
年間5万人の来館者を数えていました。
平成7年1月17日、旧酒造記念館は阪神淡路大震災によって倒壊。ただ不幸中
の幸いとして、収蔵の酒造用具や小道具類は、がれきの下から一点一点丁寧
に手作業で拾い出した結果、ほとんどが無事、あるいは修復可能な状態でした。
やがて全面建て替え工事の末、4年後の平成11年1月25日に復興オープン。
生まれ変わった記念館は、地上2階建て、耐火・耐震構造を備え、延床面積(既
設「参考室」含む)1,400m2。屋根は本瓦葺、外壁や辻塀は焼杉板張り使用で
伝統的な酒蔵をしのばせています。そして館内では、旧酒造記念館の柱や梁に
使われていた、樹齢400年以上も経た柱や梁が随所に復活。来館者を酒造りの
世界へといざないます。340年以上変わることなく伝え継がれた「生もと造り」へ
の熱い思いを、心ゆくまで体感して下さい。
菊正宗酒造の創業は万治二年(1659年)、徳川4代将軍家綱の時代。嘉納家が
本宅敷地内に酒蔵を建て、酒造業を本格的に開始しました。当時の灘地域は、
まだまだ大きな銘醸地ではありませんでしたが、17世紀末になると、いわゆる
江戸“下り酒(クダラナイという言葉の語源)”の人気が、灘の酒を急速に発展させ
ました。なかでも特に江戸っ子に愛されたのが、造った酒のほとんどを“下り酒”に
していた本嘉納家(本家という意味)の酒でした。ちなみに、嘉納の姓については、
約600年前、御影沢の井の水で酒を造り、これを後醍醐天皇に献上したところ、
ご嘉納になったので嘉納の姓を賜ったとのいい伝えがあります。
※『嘉納』とは、「ほめ喜んで受け取ること」という意味です。
明治期に入り、8代目嘉納治郎右衞門(秋香翁)が、「どうしても良い酒を造る」と
いう信念のもと、巨費を投じて酒質の向上改善に取り組み、業界に先駆けた技術
改善などで、さらに品質を高め、今日の基礎を築きました。また、秋香翁は、私立
灘高建学の祖(設立代表者)としても尽力しました。
この頃、「菊正宗」というブランドが登録商標されました。
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※嘉納財閥(かのうざいばつ)
「灘の生一本」で知られる、灘五郷の本家・本嘉納家(菊正宗)と分家・白嘉納家
(白鶴)の酒造業を母体とする阪神財閥の1つ。
本嘉納家が酒造業を始めたのは、1660年(万治元年)のことである。それよりも
前に摂津国伊丹鴻池村(現在の兵庫県伊丹市鴻池)で酒造りを始め、大醸造元に
なっていたのが、後に日本一の富豪になる鴻池家だった。鴻池家が酒造りを始め
たのが、1600年(慶長5年)というから、灘・本嘉納より半世紀以上も先行していた。
鴻池に遅れること60年。上灘郷・御影村で酒造りを始めたときの本嘉納の屋号は
「材木屋」で、本業は材木商だった。酒の伝統的な醸造法は年に一度の寒仕込み
だったから、全国各地に残る醸造元も、庄屋、富農、綱元などが行っていた冬場の
副業が始まりということが少なくない。本嘉納も、100年余り副業として酒造りを続
けた。副業とはいえ、灘の酒造家は隣の本場・伊丹を競争相手とみなし、工夫・改
良を重ねて量産化にも成功し、それらに匹敵する生産地へと成長していく。本嘉納
は明和・安永年間には酒造り専業になり、屋号を「嘉納屋」に変えた。その30年ほ
ど前の1743年(寛保3年)、本嘉納の分家・白嘉納が「白鶴」の醸造を始めた。この
江戸中期には、灘五郷の酒造りが伊丹を追い抜き、江戸に運ばれる酒の半分は
「灘の生一本」が占めるようになる。武庫川から生田川にかけての大阪湾岸地域の
灘五郷だけに、海上・河川交通の発達が大きな味方をした。

※灘中学校・・・講道館創設者の嘉納治五郎
灘校をつくったのは、本嘉納と白嘉納の両家に、やはり灘の「桜正宗」の山邑酒造
を加えた三家である。1927年(昭和2年)に灘育英会資金20万円を作り、灘中学校
として発足させた。基金は三家で用意したが、学校全般の基礎づくりをしたのは、
本嘉納の一族、講道館創設者の嘉納治五郎であった。治五郎は、古来より伝えら
れた柔術に改良と創意を加え、講道館柔道を完成させた。治五郎は、日本体育協
会創設者で、初代会長にもなっている。また、初代のIOC日本委員会でもあり「日
本の体育の父」とも呼ばれる。講道館三代目館長で治五郎の二男嘉納履正が、柔
道の国際化を推し進め、早くから五輪参加を呼びかけていた。それが実現したのが、
1964年(昭和39年)の東京オリンピックだった。

住吉川沿い公園で昼食&お土産に買った物を広げて・・・
ギンナン
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阪神魚崎駅
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おまけ
鉢植えのハイビスカス&デュランタ
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7月20日の歴史探訪の会・松阪&多気-2

7月25日          7月20日の歴史探訪の会・松阪&多気-2
              三重県・松阪・多気・斎宮歴史博物館を巡る
コース 天王寺公園バス乗り場~
天王寺公園~松阪・三井家発祥の地~本居宣長邸跡~赤壁~御城番屋敷
~本居宣長記念館~松阪城跡~多気・斎宮歴史博物館~天王寺公園
24人参加、松阪牛を食す事も無く足早な?そして快適なバスの旅?でした。
志都美駅
左側の葛城山~右側の二条山迄・・・
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名阪国道・上野ドライブインでトイレ休憩
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三井家発祥の地
三井グループの家祖・三井高利は元和8年(1622)に伊勢・松阪(現三重県
松阪市)で生まれた。その生家跡地は「三井家発祥地」(非公開)として、現
在に受け継がれている。
三井家発祥地には、高利が産湯をつかったという井戸や、高利の祖父母・
父母の五輪塔、第10代三井総領家当主・三井八郎衞門高棟の筆になる記
念碑などが保存されている。昭和31年(1956)には、松阪市教育委員会に
より市の史跡に指定された。
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松阪商人の館
天正16(1588)年、戦国時代の武将、蒲生氏郷により開かれた松阪の城下は、
江戸時代になると商人の町として大いに栄えました。主に松阪木綿を扱う豪商
は、江戸時代前期にいちはやく江戸(あるいは京・大阪)に店を構えましたが、
その商品は粋好みの江戸っ子たちにもてはやされ、年間五十数万反(当時の
江戸の人口の半分)の売り上げを誇ったといわれています。
松阪商人の館は、その江戸期の屈指の豪商・小津清左衛門の邸宅を資料館と
して公開しているものです。展示品の中には「千両箱」ならぬ「万両箱」もあり、
その広い屋敷はまさに「江戸店持ち伊勢商人」の風格を感じさせます。
松阪商人の館の前の道は、その昔、お伊勢参りの旅人が行き交った「参宮街
道」。現代に続く三井グループの礎を築いた三井高利が生まれ育った場所も、
この街道に面したところにあります。

本居宣長旧宅跡へ向かう
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本居宣長旧宅跡
見越しの松が残っている・・・♪粋な黒塀見越しの松にあだな姿の洗い髪♪
本居 宣長(もとおり のりなが)
江戸時代の国学者・文献学者・医師。名は栄貞。本姓は平氏。通称は、はじめ
弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅の 鈴屋 ( すずのや )にて門
人を集め講義をしたことから 鈴屋大人 ( すずのやのうし ) と呼ばれた。
当時既に解読不能に陥っていた『古事記』を研究して解読に成功し、約35年を
費やして『古事記』註釈の集大成である『古事記伝』を著した。『古事記伝』の
成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、国学の源流を形成してゆくこと
となった。
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  見越しの松
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松阪城跡へ向かう
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赤壁校舎が残る・・・旧三重県立工業高校製図室(赤壁校舎)
松阪市にある近代化産業遺産 H20年 経済産業省認定 
現地看板より引用---
松阪工業赤壁校舎 本校は、明治35年(1902)に応用化学科専攻の5年制
工業学校として全国にさきがけて開校された。当時は実験に使用する硫化
水素の影響をうけ建物の塗料が黒変すると考えられていたため、校舎の外
壁はすべて変色しない朱(硫化水銀)で塗られていた。本校はこの色のため
創立早々から赤壁(せきへき)と呼ばれ多くの人々に親しみあいされている。
この建物は、旧三重県立工業高校製図室として明治41年(1908)3月に竣工
されてあもので現存する唯一の赤壁校舎である   ---ここまで
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松阪神社・・・ちら見しただけ
松阪神社は古来、意悲(おい)神社と称し、御祭神は商売繁盛に御利益のある
稲荷様(宇迦御魂神)をお祀りしていました。
室町時代末期の天正16年(1588年)蒲生氏郷公が松阪城を築城した際、武士
の尊崇した八幡様(誉田別命)を併せ祀り、明治41年には、当時の政府の神社
合祀令により、現在の氏子地域になっている町より、17の神社(33柱の祭神)が
合祀祭神として、意悲神社に併せ祀られたことにより、松阪神社と改称し今日に
及んでいます。

御城番屋敷・・・経緯や謂れ等詳細な説明を聞きました
槙垣と石畳をはさんで静かに息づく歴史空間、ここは江戸末期に紀州藩士
が松坂城警護のため移り住んだ武家屋敷です。
このような組屋敷は全国でも大変珍しく、今も人々の暮しが営まれています。
西棟北端の一軒は内部を公開しています。
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  倉の横を通り、松阪城跡へ向かう
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此処までは、
7月20日の歴史探訪の会・松阪&多気-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-07-25 
此処では、
此の続きの松阪城跡~ の詳細を投稿します。
松阪城跡・石垣
現在は石垣のみが残っており、城址公園となっている。周囲には松阪市役所、
市民病院、当地出身の本居宣長記念館などがある。
安土城同様の形式だが、それを上回る強固なもので美観という点でも優れてい
る。蒲生氏郷の美意識の高さを感じられる」とし、近世の先駆けとなる名城として
あげられる。安土城の築城に加わった蒲生氏郷だが、松阪城にもこの時の石垣
作りが取り入れられている。石垣のつみ方は「野面積み」を主体に、隅の部分は
「切り込みはぎ」「算木積み」という工法が使われている。これらの工法は「穴太
衆」と呼ばれる近江国の石工集団が、安土城で今までの日本にはなかった新し
い築城方法を発案した。蒲生氏郷は自分の出身地でもある穴太衆を中心に地
元の農民をかり出し石垣をくみ上げていった。石材の多くは近くの河原から集め
られた石が使われたが、天守台などには古墳に埋葬された石棺の蓋まで使用
された。
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本居宣長ノ宮・・・ちら見しただけ
本居宣長大人(鈴屋大人とも称される)は賀茂真渕大人を師と仰ぎ、畢生の古典
古事記の研究でわが国体と古道を解明して、清明の大和心を恢弘し、民族精神
の自覚を促す思想学説から語学、文学、史学等各方面の創建に富み、殊に国学
に著しい社会的進展を与えました。この国学が明治維新改革の原動力となったと
云っても過言ではありません。尚、碩学鈴屋大人を神と祀る世論は早くからありま
したが、明治初年、川口常文等之を主唱し実現するに至ってます。
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本居宣長記念館(昼食)
本居宣長記念館は、公益財団法人鈴屋遺蹟保存会が運営管理する登録博物館
です。江戸時代の国学者・本居宣長の旧宅「鈴屋」を管理して公開し、 展示室で
は『古事記伝』などの自筆稿本類や遺品、自画像などを公開しています。
また関連資料の収集や、宣長に関する調査や研究も行っています。宣長に関心を
お持ちの方、また18世紀後半の日本文化に興味をお持ちの方はぜひご利用・・・
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松阪城跡
眼下に御城番屋敷が・・・
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本丸跡
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バスで多気へ移動
多気  斎宮歴史博物館
斎宮歴史博物館(さいくうれきしはくぶつかん)は、三重県多気郡明和町竹川に
ある斎宮遺跡(国の史跡)に設置されている三重県立の博物館である。テーマ
博物館であると同時に、埋蔵文化財センターとしての機能を有する。
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斎宮
斎宮(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)は古代から南北朝時代に
かけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所(現在の斎宮跡)であるが、平安時代
以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指した。後者は
伊勢斎王や伊勢斎宮とも称する。
斎王の起こり
『日本書紀』崇神天皇紀によれば、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に
祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑に祭らせたとあり、これが斎王(斎宮)
の始まりとされる。そして次の垂仁天皇の時代、豊鍬入姫の姪にあたる皇女倭
姫命が各地を巡行し伊勢国に辿りつき、そこに天照大神を祭った。この時のこと
を『日本書紀』垂仁天皇紀は「斎宮(いはいのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。
是を磯宮(いそのみや)と謂ふ」と記し、これが斎王の忌み籠る宮、即ち後の斎
宮御所の原型であったと推測される。また垂仁天皇紀は「天皇、倭姫命を以って
御杖(みつえ)として、天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ」とも述べ、以後斎王
は天皇の代替わり毎に置かれて天照大神の「御杖代(みつえしろ、神の意を受け
る依代)」として伊勢神宮に奉仕したといい(ただし史料上は必ず置かれたかどう
かは不明で、任期などもそれほど明確ではない)、用明天皇朝を契機に一時途絶
えたが、天武天皇の時代に正式に制度として確立し(『扶桑略記』は天武天皇が
壬申の乱の戦勝祈願の礼として伊勢神宮に自らの皇女大来皇女を捧げたのが
初代とする)、以後は天皇の代替わり毎に必ず新しい斎王が選ばれ、南北朝時代
まで続く制度となった。

帰りはこんなに遅くなりました・・・
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7月17日の近鉄ハイキング・近鉄郡山駅~2

7月23日            7月17日の近鉄ハイキング・近鉄郡山駅~2
                    薬師寺・唐招提寺の蓮の花を訪ねて
此の日は知人と3人で参加、天美は朝方に大雨だったらしいが奈良は其れほど
でも無く、折畳みの傘は持って出たが、昼食後にお湿り程度に降られたが支障
無かった、薬師寺は外から眺めるだけにして、唐招提寺は中に入ってじっくりと
見て廻る事にした、花蓮以外にも見所は結構あり、3人とも大満足?だった・・・・
此の日の私は25250歩で約16.9km歩いた事に・・・
コース  近鉄 駅フリーハイキング  近鉄郡山駅9:30~11:00  歩程約8km
近鉄郡山駅(受付)~郡山城跡~大池~野々宮天神社~薬師寺~孫太郎稲荷社
~皆天満宮~公園(昼食)~薬師寺~がんこ一澈長屋~唐招提寺~垂仁天皇陵
~尼ヶ辻駅(ゴール)
志都美駅
左側の葛城山は雲の中、右側の二上山はかろうじて見える
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JR郡山駅へ出て
近鉄郡山駅へ向かう
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近鉄郡山駅で受付を済ませて
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郡山城跡
郡山城(こおりやまじょう)は、豊臣政権の中初期には秀吉の実弟羽柴秀長
の居城となり、その領国であった大和・紀伊・和泉100万石の中心であった。
江戸時代には郡山藩の藩庁が置かれた。
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大池・・・奈良県景観資産
万葉集にある「勝間田の池はわれ知る 蓮無し 然言う君が 鬚無き如し」と詠
われている池越しに薬師寺の伽藍そして遠くに若草山、春日山原始林など、奈
良盆地の眺望は奈良を代表する風景の一つになっています。若草山の山焼き
写真(薬師寺のうしろで輝く若草山の構図)の多くがこの場所から撮影されて
います。
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野々宮天神社
境内には椎の木が多く、晩秋は椎の実だらけになるそうです。冬の山茶花も
きれい様です。雨請いの神として尊崇されています。創建・由緒などは不詳。
祭神;菅原道真公  割拝殿の通路に相撲の番付額が奉納されています
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薬師寺
薬師寺(やくしじ)は、興福寺とともに法相宗の大本山である。南都七大寺の
ひとつに数えられる。本尊は薬師如来、開基(創立者)は天武天皇、道昭、義
淵である。1998年(平成10年)に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコ
より世界遺産に登録されている。
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良
県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初め
に現在地の西ノ京に移転したものである。
『日本書紀』天武天皇9年(680年)11月12日条には、天武天皇が後の持統天皇
である鵜野讃良(うののさらら)皇后の病気平癒を祈願して薬師寺の建立を発願
し、百僧を得度(出家)させたとある。薬師寺東塔の屋上にある相輪支柱に刻ま
れた「東塔檫銘」(とうとうさつめい、「さつ」は木扁に「察」)にも同趣旨の記述が
ある。しかし、天武天皇は寺の完成を見ずに朱鳥元年(686年)没し、伽藍整備は
持統天皇、文武天皇の代に引き継がれた。
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孫太郎稲荷神社・・・薬師寺の門前にある
元は栃木県佐野市にお祀りされていて、その後分霊が姫路城下に祀られた。
江戸時代に姫路城から大量の小判が消え、同時に城下の貧しい家々に小判が
投げ込まれるという事件が起きた。城主はそれを孫太郎稲荷の仕業として、よそ
へ遷そうとし、縁あって西ノ京の地に祀られることになったんだそうです。
秋篠川沿いへ向かう
皆天満宮
薬師寺の周辺にある『菅原道真公』を祀る天満天神の一つです。
創建・由緒など不詳。本殿は江戸時代前期の建立のようです。
境内には江戸時代の灯篭も数基有ります。
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秋篠川沿い
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公園(昼食)
薬師寺
玄奘三蔵院 - 主要伽藍の北側にあり、1991年(平成3年)に建てられたもので
玄奘三蔵を祀る。日本画家平山郁夫が30年をかけて制作した、縦2.2メートル、
長さが49メートル(13枚の合計)からなる「大唐西域壁画」がある。
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がんこ一澈長屋
伝統を受け継いだ大和の7人の匠が、こだわりの技を存分に魅せる、
ほんまもんの職人長屋です。
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唐招提寺
唐招提寺(とうしょうだいじ)は、鑑真が建立した寺院。南都六宗の1つである律宗
の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説
『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした
寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。
唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に
登録されている。『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年
(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺とし
たものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」
「広い」などの意味を表す語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教
寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、
「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。
鉢植えの蓮
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此処までは、
7月17日の近鉄ハイキング・近鉄郡山駅~1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-07-22
此処では
此の続きの唐招提寺の途中
校倉造り2棟
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本堂周り
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蓮田&鉢植えの蓮
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身代わり像
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苔が綺麗だった
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垂仁天皇陵へ向かう
見えて来た
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垂仁天皇陵・・・垂仁天皇(すいにんてんのう)第11代天皇
垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月14日)は
第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月14日)。活目入彦五
十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)・活目尊等と称され、『古事記』には「伊久
米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」、『常陸国風土記』には「伊
久米天皇」、『令集解』所引「古記」に「生目天皇」、『上宮記』逸文に「伊久牟尼利比
古(いくむにりひこ)大王」と見える。『日本書紀』、『古事記』に見える事績は総じて
起源譚の性格が強いとして、その史実性を疑問視する説もあったが、近年において
はその実在を認めることが多い。
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田道間守(たじまもり/たぢまもり)の墓
現在、垂仁天皇陵(菅原伏見東陵)に治定される宝来山古墳(奈良県奈良市)
では墳丘南東の周濠内に小島があるが、これが田道間守の墓に仮託され、
湟内陪冢の「伝田道間守墓」として治定されている。
田道間守(たじまもり/たぢまもり)は、記紀に伝わる古代日本の人物。
『日本書紀』では「田道間守」、『古事記』では「多遅摩毛理」「多遅麻毛理」と
表記される。天日槍の後裔で、三宅連(三宅氏)祖。現在は菓子の神・菓祖
としても信仰される。
『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年2月1日に田道間守は天皇の
命により「非時香菓(ときじくのかくのみ)」すなわちタチバナ(橘)を求めに常世
国に派遣された。しかし垂仁天皇99年7月1日に天皇は崩御する。翌年(景行
天皇元年)3月12日、田道間守は非時香菓8竿8縵(やほこやかげ:竿・縵は助
数詞で、葉をとった8枝・葉のついた8枝の意味)を持って常世国から帰ってきた
が天皇がすでに崩御したことを聞き、嘆き悲しんで天皇の陵で自殺したという。
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尼ヶ辻駅へ向かう
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尼ヶ辻駅(ゴール)
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7月15日の近鉄ハイキング・大阪難波駅~2

7月21日        7月15日の近鉄ハイキング・大阪難波駅~2
               大阪の古き良き時代を行く寺社巡り
此の日は、4人で参加、ハイキングの後の昼飲み会には2人加わり6人参加の
予定、大阪難波駅東改札出口で受付を済ませて阿倍野橋駅へ向けスタート・・・、
コース  近鉄 駅フリーハイキング 大阪難波駅9:30~11:00受付 歩程約7km
大阪難波駅(受付)~難波八阪神社~大国主神社~廣田神社~今宮戎神社~
新世界・通天閣~天王寺公園・茶臼山(昼食)~一心寺~安居神社~清水寺~
四天王寺~阿部野橋駅(ゴール)~阿倍野橋温泉(銭湯)~新宿ごちそうビル
7月9日&12日の近鉄ハイキングに参加予定だったが何れも雨で不参加、久々
のハイキングとなった、昼飲み会が15時~予定してたので阿倍野の銭湯で汗
を流してから2人と待ち合わせて新宿ごちそうビルへ・・・銭湯がとても良かった!
元々のコースには無かった安居神社や清水寺へも?含め21200歩14.3km
我家の琉球朝顔
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志都美駅
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大阪難波駅(受付)う済ませて地上へ出て
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難波八阪神社
創建年月日など詳しい資料は残っていませんが、社伝によれば古来「難波下の
宮」と称し難波一帯の産土神でした。後三条天皇の延久(1069年から1073年)
の頃から祇園牛頭天王(ごずてんのう)をお祀りする古社として世間に知られて
いました。もとは神仏混淆でしたが、維新後、神仏分離により寺は廃絶し、明治
5年(1872年)に郷社となりました。現在のご本殿は、昭和49年(1974年)5月に
完成。毎年1月の第3日曜日に行われている綱引神事は当社の御祭神、素盞
嗚尊(すさのをのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治し、民衆の困苦を
除かれた故事に基づき始められたと言われています。「摂津名所図絵」や「摂
津名所図会大成」にも紹介されています。また、平成13年(2001年)には、大阪
市で初めての無形民俗文化財に指定されました。
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大国主神社
社伝によれば、神功皇后が三韓出兵の帰りに立ち寄り、この地に松を三本植え
て、そこに素戔嗚尊を祀り、渡航安全を祈願したのが始まりとし、この松の木に
ちなみ「松本宮」と称したという。中世以降は牛頭、天王社、祇園社などの名が
残り、明治初年の神仏分離令により「八坂神社」と改称されている。現在の社名
となったのは明治20年代(1887~96年)である。この「敷津松之宮」は素盞
鳴尊、大国主命、奇稲田姫命、事代主命、少彦名命とポピュラーな名前の神々
が祀られている。「大阪七福神」の1つ『木津の大国さん』で知られる「大国主神
社」は「敷津松之宮」の摂社である。 この大国主神社は江戸時代の1744年
(延享元年)に出雲大社から勧請されたと伝えられ、毎年1月9日から11日に
は大国まつりが行なわれ賑わう。境内には木津勘助の銅像と折口信夫の歌碑
がある。
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廣田神社
由緒は、神功皇后の諸国征伐の帰途、海路を難波に向かう途中、皇后の船は
海中をぐるぐると廻り、前に進まなかったので、占いをたてたところ、天照大神
から、摂津国広田の杜に祀れとの神告があり、この廣田の地に天照大神の荒
魂「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつ
ひめのみこと)」を祀ったのが、廣田神社の起源とされている。創建年代は不詳
ではあるが、上記のごとく古い由緒を持ち、江戸時代には広田の杜といわれ、
「浪花百景」にはうっそうとした森の中の社として描かれており、当時は境内も
広く、紅白二種の萩を植えた茶店があって、萩の茶屋と呼ばれていた。 又、当
社は、祭神の一人に「賢彦名命(さかひこなのみこと)」を祀り、この神はアカエ
(エイ)に乗り訪れる智恵の神様で、無病息災・痔疾をはじめ難病治癒にご利
益があり、叡知の“エイ”に通じることから合格・必勝の祈願を叶えるといわれて
おり、広く信仰されている。
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今宮戎神社
今宮戎神社は、天照皇大神・事代主命・外三神を奉斎しています。創建は推古
天皇の御代に聖徳太子が四天王寺を建立されたときに同地西方の鎮護としてお
祀りされたのが始めと伝えられています。戎さまは、ご存知のように左脇に鯛を
右手に釣竿をもっておられます。そのお姿は、もともと漁業の守り神であり、海か
らの幸をもたらす神を象徴しています。当社の鎮座地もかつては海岸沿いにあり、
平安中期より朝役として一時中断があるものの宮中に鮮魚を献進していました。
またこのような海辺で物資の集まりやすい土地では、海の種々の産物と里の産
物、野の産物とが物物交換される、いわゆる「市」が開かれますが、当社でも四
天王寺の西門に「浜の市」が平安後期には開かれるようになり、その市の守り神
としても当社の戎さまが祀られるようになりました。 時代が経るに従い、市場の
隆盛は商業を発展させますので、いつしか福徳を授ける神、商業の繁栄を祈念
する神としても厚く信仰されるようになりました。  室町時代以降庶民の信仰は
より厚くなり、また大阪の町も発達し、大阪町人の活躍が始まります。江戸期に
なると大阪は商業の町としてより一層の繁栄を遂げ、それと期を一にして今宮
戎神社も大阪の商業を護る神様として篤く崇敬されるようになりました。  
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此処までは、
7月15日の近鉄ハイキング・大阪難波駅~1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-07-21-1
此処では、此の続きの
新世界・通天閣~の詳細を掲載します。
新世界・通天閣
通天閣が目印の大阪・新世界。昔から庶民の街として知られていましたが、最近
はレトロ感あふれる観光名所としても注目されている人気スポットです。外国人
旅行者の姿も多く見られるようになりました。大阪の中でも特に古い雰囲気が残
っているスポットとして全国的に有名な「新世界」には、今もレトロの“趣”が漂う店
舗が数多く存在します。昔ながらのキャラクター、大手お菓子メーカー「グリコ」の
商品紹介の店舗、懐かしい居酒屋に暖簾、新世界にしかない味わい深い飲食店
の数々が人目を引きます。
明治時代に開催された「内国勧業博覧会」の会場敷地となったことから、大阪の
新名所となる繁華街として誕生しました。初代の通天閣は、創建当初の1912
(明治45)年には「天に通じる高い建物」として東洋一(64m)の高さを誇ってい
たそう。現在の通天閣は2代目で1956(昭和31)年10月に完成しました。高さ
103m、円形エレベーターを備えた近代的な作りになっています。
国の有形文化財に指定されているタワーです。この通天閣のモデルは、フランス
・パリの凱旋門とエッフェル塔なんです。凱旋門の上にエッフェル塔が乗った状
態をイメージして建てられたそうです。
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天王寺公園・茶臼山(昼食)
茶臼やん古墳自体は5世紀にこの地の豪族のために作られた墓といわれ、大阪
市内でも最大級の前方後円墳だが被葬者は不明である。1546年(天文15年)、
細川晴元の家臣山中又三郎が古墳の後円部に大塚城を築く。1614年(慶長19
年)の大坂冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、翌1615年(慶長
20年)の大坂夏の陣では真田信繁(幸村)の本陣となって「茶臼山の戦い(天王
寺口の戦い)」の舞台となった。
赤い橋は和気橋という名前がつけられている。788年(延暦7年)和気清麻呂が
旧大和川の流れを変えるため切り開いたといわれる河底池も、この古墳の濠を
利用したと伝わり、現在天王寺区には堀越町や河堀町の地名が残る。
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一心寺
一心寺(いっしんじ)は、大阪府大阪市天王寺区にある浄土宗の寺であり、正式
名称は坂松山高岳院一心寺(ばんしょうざん こうがくいん いっしんじ)。骨仏の寺
としてよく知られている。天王寺公園に隣接した上町台地の崖線上に建ち、緑の
多い広い境内を有している。法然上人二十五霊跡第七番札所。
1185年(文治元年)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然が
四天王寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、「荒陵の新別所」後に
「源空庵」と称して住んだという。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然
と共に日想観を修した。当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地
のようであったという。1596年(慶長元年)、三河の僧侶であった本誉存牟上人が
法然の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、寺を再興した。彼の一心
称名をもって寺ができたため、一心寺という名になったといわれる。
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コースを外れて安居神社へ向かう
国道から通天閣を捕る・・・
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安居神社(やすいじんじゃ)
大阪府大阪市天王寺区にある神社。安居天満宮ともいう。安居天神、安居神社とも。
創建年は不詳であるが、当社は少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅
原道真が祭られるようになったと伝えられている。菅原道真が大宰府に流されるとき
に、風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承がある。
また、大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が当神社境内で戦死したと伝えられ、境内に
戦死跡之碑が、他に古来、名水特に七名水として名を馳せた安居の清水(別名:か
んしずめの井)の址などがある。
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清水寺(きよみずでら)
大阪市天王寺区伶人町(れいにんちょう)にある仏教寺院。宗派は天台系の和宗に
属する。山号は有栖山であり、詳名は有栖山清光院清水寺(ありすさん せいこうい
ん きよみずでら)である。大阪市内唯一の天然の滝である「玉出の滝」(たまでのた
き)があることでも知られている。京都の清水寺を模して建立されたために、新清水
寺(しんきよみずでら)とも呼ばれる。境内の西側の崖に柱を組み上げて作った舞台
があり、京都の清水寺を彷彿とさせる。創建の時期や事情については判然としない。
もとは有栖寺(うすじ)と称していた。寛永17年(1640年)に延海阿闍梨(えんかいあ
じゃり)により中興された。延海は観世音菩薩の御告げを受けて、京都の清水寺を
模した舞台造の本堂を建立し、本尊として京都の清水寺から迎えた千手観音像(聖
徳太子作の伝承をもつ)を安置した。当寺の境内は北・西・南の三方が崖になってお
り、往時は大坂の街や大阪湾を見渡す眺望の地であった。
「玉出の滝」は、四天王寺金堂地下にあると伝えられる青龍池から流れ出ているとさ
れている白石玉出の霊水が300m離れた地下を流れて滝になっているという。聖徳
太子御本願縁起に「青龍恒守護麗水東流号日白玉出水以慈悲心飲之為法楽」とあ
り、霊験があるとされていた。水量はわずかである。滝の奥にある石窟に石像の不動
明王・八大竜王神などを祀り、滝行場となっている。現在では、滝の水は衛生上の観
点から飲用不可となっている。
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   清水の舞台から?通天閣&あべのハルカスを撮る
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四天王寺(してんのうじ)
大阪市天王寺区四天王寺にある寺院。聖徳太子建立七大寺の一つとされている。
山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音菩薩(くせかんのんぼさつ)である。
「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。
『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されたという。当寺周辺の
区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。また、荒陵寺
(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)
などの別称が伝えられている。宗派は天台宗に属していた時期もあったが、元来は
特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立
の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、1946年
に「和宗」の総本山として独立している。四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と
並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。四天王寺の草創
については『日本書紀』に次のように記されている。用明天皇2年(587年)、かねて
より対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した。
蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河(大阪府東大阪市布施)へ攻め込ん
だが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の
上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子
(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)とい
う木を伐って、四天王の形を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安
置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物
部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終
わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらは
か)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没
収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌
年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)。
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阿部野橋へ向かう
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阿部野橋駅(ゴール)
昼飲み会迄には未だ未だ時間が有り、12時~営業している銭湯へ
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阿倍野橋温泉(湯処あべの橋 銭湯)・・・440円+貸タオル20円
気分はスーパー銭湯、料金は庶民派銭湯  天然温泉  搬入
大阪市港区の『天然温テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 大阪市港区2丁目3番33号  深さ 1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉 泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
   ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
   ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
風呂で汗を流して、爽快な気分で2人と待ち合わせて
此の日は6人で、3時~新宿ごちそうビルへ昼飲み会、楽しい1日でした・・・

おまけ
番外編?今宮戎神社~新世界・通天閣へ向かう途中で
シャープ旧恵比須ビル跡地を見る、ホテル用地として中華系の名前が・・・
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7月14日の藤原京跡の蓮田-3

7月17日           7月14日の藤原京跡の蓮田-3
                    1人で行って来ました
此の日は、家内を連れて蓮を見に行く予定だったが、家内は前夜、娘と2人で
難波松竹座へ歌舞伎を見に行って、此の日14日早朝の藤原京跡の蓮田行
はパス?されて1人で行く羽目になりました、5時起床、5時半出発で車で35分、
6時5分に何時もの駐車場に車を停めて、既に3台の車が停めて有って・・・・
でも良かった?家内が来れなくて、思った程に蓮が咲いていなかったから。
約30分間、6時半頃迄写真を撮って帰った・・・
駐車場へ車を停めて

写真掲載に漏れが有りましたので・・・・
駐車場に車を停めて大和三山を、蓮田へ歩いて、蓮田で撮った15枚が欠落して
いた(編集の際に行方不明になってた15枚を見つけた)分を投稿します。
駐車場に車を停めて大和三山を・・・
畝傍山
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耳成山
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香久山
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蓮田へ歩いて・・・
畝傍山
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耳成山
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ぼんやり二上山
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蓮田で・・・
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バックに耳成山
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7月14日の藤原京跡の蓮田-2

7月16日           7月14日の藤原京跡の蓮田-2
                    1人で行って来ました
此の日は、家内を連れて蓮を見に行く予定だったが、家内は前夜、娘と2人で
難波松竹座へ歌舞伎を見に行って、此の日14日早朝の藤原京跡の蓮田行
はパス?されて1人で行く羽目になりました、5時起床、5時半出発で車で35分、
6時5分に何時もの駐車場に車を停めて、既に3台の車が停めて有って・・・・
でも良かった?家内が来れなくて、思った程に蓮が咲いていなかったから。
約30分間、6時半頃迄写真を撮って帰った・・・
駐車場へ車を停めて
蓮田へ歩いてバックに畝傍山を・・・
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蓮田では古代蓮は結構咲いていたが他はまだまだ此れから
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蓮田では古代蓮は結構咲いていたが他はまだまだ此れから

蓮の葉に・・・
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此処までは、
7月14日の藤原京跡の蓮田-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-07-16-2
此の続きは
バックに畝傍山を・・・から  バックに畝傍山からの詳細を掲載します。
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葛城山は全く見えないが二上山はかろうじて・・
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駐車場へ歩きながら
香久山の上空&バックに畝傍山・・・
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駐車場
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おまけ
家へ戻って来て・・・
鉢植えハイビスカスパッションフルーツ
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7月13日の馬見丘陵公園-抜粋編

7月15日              13日の馬見丘陵公園-抜粋編

雨の降る前にと思い馬見丘陵公園へ向かって、公園中央口前に来ると今日は珍しく
ゲートが開いていたので中央駐車場へ車を入れて、公園館からバラ園を通り北エリア、
北エリアの花見茶屋周辺の花々を撮り、雨が降る前に駐車場へ戻る様にと、急いでる
と北エリアから中央エリアの花の道へ向かう途中で雨がパラついて、其のまま帰る事
に、公園館の前迄戻ると雨も止み、公園館周辺で写真を撮り小一時間で自宅へ向う、
自宅の駐車場へ車を入れて家へ戻ると直後に大雨、雷もゴロゴロ、良かった・・・
中央駐車場に車を入れて
公園館前で鉢植えの芙蓉を・・
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バラ園周辺
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トンネルを通り
北エリアへ向かう
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北エリア
向日葵は未だ小さな蕾・・・
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皇帝ダリアは囲いの中・・・
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トンネルを
中央エリアへ戻る
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バラ園の周辺も向日・・・
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ベニバナトチノキにはピンポン玉くらいの実が・・
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湿気が多いのかキノコが・・・
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公園館の横に吉野川からの農業用水の
配水を行う吉野川分水施設が有る・・・
大迫ダム(川上村)から 72.7km
津風呂ダム(吉野長)から 40.8km 
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公園館へ戻って来て
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駐車場へ

7月11日の馬見丘陵公園&竹取公園-2

7月12日         7月11日の馬見丘陵公園&竹取公園-2

9日に予定していた近鉄ハイキングは雨の為に参加せず、歩きたい衝動に
駆られて馬見丘陵公園へ、一番早い時間帯に開く竹取公園の駐車場へ車を
置いて公園散策スタート、陸橋を渡って馬見丘陵公園へ、今日は古墳巡り・・
朝起きて・・・
鉢植えハイビスカス
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竹取公園駐車場に車を入れて
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陸橋を渡って馬見丘陵公園へ
白花アガパンサス
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馬見丘陵公園
三吉3号墳
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巣山古墳
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佐味田狐塚古墳
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陸橋(墳観橋)から
巣山古墳前丘&巣山古墳
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倉塚古墳
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反対側から狐塚古墳を・・
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上池&上池周辺
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陽だまり広場へ
ウッドデッキを渡る
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   出入り口にカエルが・・
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陽だまり広場から上池を
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別所下古墳周辺のハギ
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此処までは、
7月11日の馬見丘陵公園&竹取公園-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-07-12-1 
此処では
此の続きの下池&下池周辺~の詳細を掲載します。
下池&下池周辺
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カタビ古墳群
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下池周辺
下池の対岸に見える一本松古墳
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乙女山古墳
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公園館
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  向日葵の苗&トチノキ
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佐味田石塚古墳群
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結びの広場
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ナガレ山古墳
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 此処にも向日葵
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陸橋を渡って・・
二上山はかろうじて見えるが葛城山は見えない
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竹取公園へ戻る
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おまけ
自宅へ戻って
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