So-net無料ブログ作成

12月26日・久し振りの早朝散歩(抜粋編)

12月28日      12月26日・久し振りの早朝散歩(抜粋編)
                御近所を歩いてみる・・・
昨夜書き終えた年賀状を持って郵便局へ向かい、其のまま近所の川沿いの
遊歩道や小学校前や6時半から開いてる喫茶店前や24時間開いてるスーパ
(トイレ休憩?)本当に久し振りに歩いてみたが風景は以前と変わりなく・・・・
年賀状は、150枚用意して、4人分減らして146枚使用し、4枚は残してある?

23日の自治会行事・防犯パトロール・餅つき大会の時は寒かった、9時半に
スタートした防犯パトロールでは20分の間に途中で2回も米粒大の霰に降られ
その後の餅つきでは身体を動かしてる時は良いが、じっとしてると寒い寒い日、

25日は大阪から孫達が来てくれてクリスマスで大賑わい、次は正月に来る・・・
夜は結構寒かったが26日の朝はまあまあ暖かかった?のかな・・
郵便局前から川沿いの遊歩道へ
東の空を
PC267012.JPGPC267013.JPGPC267016.JPGPC267018.JPG
小学校前の土手
ハート型の刈込が2つあるが、1つは解りづらい?
PC267021.JPGPC267023.JPG

棚田?
PC267026.JPG

東の空は?
PC267028.JPGPC267032.JPG

道路脇の花壇のコスモス&紫陽花
PC267034.JPGPC267036.JPG

西に二上山が見える
PC267040.JPGPC267042.JPG

ガマの穂も・・・
PC267044.JPG

ヤシの木が2本・・・
PC267048.JPGPC267050.JPG

24時間スーパーでトイレを借りて
PC267053.JPGPC267054.JPG

川沿いの遊歩道を帰る
PC267056.JPG
おまけ
我家の花?山茶花、ユリオプスデージー
PC267058.JPGPC267062.JPG

正月用に植えた2鉢
PC267060.JPGPC267065.JPG

12月20日の歩こう会例会「酒蔵で納会」・阪急御影駅-2

12月21日      12月20日の歩こう会例会「酒蔵で納会」・阪急御影駅-2
               灘五郷の一つ魚崎郷の浜福鶴吟醸工房を訪ねる
歩こう会の年末の恒例行事?12月の歩こう会は酒蔵へハイキングして試飲、買い物を
するのが例年の慣わし?今年は、灘五郷のひとつ魚崎郷の浜福鶴吟醸工房を訪ねる、
昨年から変わったのは、11月迄と同じ様に弁当持参で集まり、午前はハイキングを楽し
み、午後に酒蔵を訪問する形態に変えた事で、歩くことを12月の酒蔵や1月の初詣にも
しっかり取り入れた事(以前は各自昼食を終えて現地集合し、酒蔵や神社に向かう)で、
初めての土地?で各自で昼食場所を見つける等の煩わしさを解消し、歩こう会の主旨、
歩け歩けも出来る、一石二鳥、此れで参加者が増えてくれれば言う事無いのだが・・・・
コース  歩程約5km 此の日の参加者は87人 
阪急御影駅~深田池公園(受付・集合)~弓弦羽神社~本住吉神社~住吉だんじり資料
館(トイレ休憩)~倚松庵眺めて~住吉川川べり散策・昼食~住吉だんじり資料館(トイレ
休憩)~住吉川川べり散策~浜福鶴吟醸工房(試飲・買い物)~魚崎八幡宮(解散)~阪
神魚崎駅へ
志都美駅
IMG_4785.JPG
阪急梅田駅~
阪急御影駅・平野城跡
平野城跡(御影城跡)
平野城(ひらのじょう)は神戸市東灘区の御影山手にあった日本の城。別名、御影村城。
1346年、赤松氏の家臣であった平野忠勝によって建てられた。推定地は現在の阪急御影
駅から神戸市立御影北小学校付近一帯。城の東は湿地帯(現在は埋め立てと開発が進
み深田池が残るのみである)、西は谷川、北は山という地の利を生かした城であったこと
がうかがえる。観応の擾乱により平野忠勝が敗れ帰農するまで忠勝の居城となっていた。
IMG_4787.JPG
深田池公園(受付・集合)。スタート
平野城(ひらのじょう)のなごり?の深田池を公園に・・・
IMG_4789.JPGIMG_4791.JPGIMG_4793.JPG
弓弦羽神社
祭神は、熊野三山に祀られる神である伊弉冉尊(那智大社)・事解之男命(本宮大社)・速
玉之男命(速玉大社)を祀り、「根本熊野三所大神」と総称する。天照皇大御神・素佐男尊
を配祀する。八咫烏をシンボルとする。
神功皇后の三韓征伐からの帰途、忍熊王が挙兵したことを知り、この地で弓矢・甲冑を納
めて熊野大神に戦勝を祈願した。弓矢・甲冑を納めたということから、当社背後の山を「弓
弦羽岳」「武庫山」(後に「六甲山」の字が宛てられた)と呼ぶようになった。
延暦年間(782年 - 805年)に弓弦羽の森が神領地と定められ、嘉祥2年(849年)、社殿を
造営し遷座した。平安中期以降は熊野信仰の隆盛に伴い崇敬を集めた。
17世紀には灘地方で酒造家の創業が相次ぎ、造酒・回船業の氏子を集め繁栄した。
※弓弦羽神社とスポーツ
弓弦羽神社は八咫烏をシンボルとしているが、日本サッカー協会も同じ八咫烏をシンボルと
していること、また日本初のサッカーチームが近隣の御影師範学校で編成されたという地縁
もあり、境内に御影石製のサッカーボールが設置されている。また、フィギュアスケート選手
の羽生結弦が、ファンからのお守りで、名前の似た当社の存在を知って2011年7月に参拝し
た事もあり、とりわけソチオリンピックでの羽生の活躍を祈願しての絵馬が多数かけられ、又
金メダルを獲得した直後は参拝者が20倍になったと云う。必勝祈願の絵馬が並んでいます。
IMG_4794.JPGIMG_4799.JPGIMG_4800.JPG
本住吉神社(もとすみよしじんじゃ)~東灘区役所
本住吉神社
社伝では、日本書紀において、神功皇后の三韓征伐からの帰途に船が進まなくなり、神託に
より住吉三神を祀ったと記される「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」の地が当
地であり、当社が住吉三神鎮祭の根源であると伝え、そのために古くから「本住吉」と呼ばれ
るとしている。「大津渟中倉之長峡」の地は現在の住吉大社であるとする説が有力であるが、
当社では住吉大社も当社からの勧請であるとしている。本居宣長も本住吉神社の主張を支
持している。延喜式神名帳には記載されていない。古くから「本住吉」と称してきたが、明治
初年の『神社調査明細書』には「住吉神社」と記載された。神社側からの申請により、明治38
年(1908年)に「本住吉神社」に復称した。
本住吉神社は底筒男神(そこつつのおのかみ)、中筒男神、上筒男神、神功皇后を祭神とす
る神社で『日本書紀』にも記述がある。この地こそが最初の鎮座地で、大阪の住吉神社はそ
の後のものであるとのことから本住吉神社と称する。名所図会や名所案内などには必ず登
場しており、江戸時代から有名であった事が分かる。
IMG_4804.JPGIMG_4809.JPGIMG_4813.JPG
※住吉大社(大阪)
住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪府大阪市住吉区住吉二丁目にある神社。式内社(名神
大社)、摂津国一宮、二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別
表神社。全国に約2,300社ある住吉神社の総本社であるほか、下関の住吉神社、博多の住吉
神社とともに「日本三大住吉」の一社。また毎年初詣の参拝者の多さでも全国的に有名である。
祭神は次の4柱。「住吉大神」と総称され海の神として信仰される。また底筒男命・中筒男命・表
筒男命は合わせて「住吉三神」と呼ばれる。第一本宮:底筒男命(そこつつのおのみこと)、
第二本宮:中筒男命(なかつつのおのみこと)、第三本宮:表筒男命(うはつつのおのみこと)、
第四本宮:神功皇后(じんぐうこうごう) - 第14代仲哀天皇皇后。
『日本書紀』神功皇后摂政前紀によれば、住吉三神(筒男三神)は神功皇后の新羅征討におい
て皇后に託宣を下し、その征討を成功に導いた。そして神功皇后摂政元年、皇后は大和への
帰還中に麛坂皇子・忍熊皇子の反乱に遭い、さらに難波へ向かうも船が進まなくなった為、務
古水門(むこのみなと:兵庫県尼崎市の武庫川河口東岸に比定)で占うと住吉三神が三神の和
魂を「大津の渟中倉の長峡(おおつのぬなくらのながお)」で祀るように託宣を下した。そこで皇
后が神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになったという。一般にはこの「大津の
渟中倉の長峡」が住吉大社の地に比定される。一方『帝王編年記』では住吉の地における鎮祭
年を神功皇后摂政11年としており、住吉大社側もこの年をもって鎮祭としている。
また『住吉大社神代記』(平安時代前期頃の成立か)によれば、住吉三神は「渟中椋(ぬなくら)
の長岡の玉出峡(たまでのお)」に住むことを欲したので、神功皇后はその地に住んでいた手搓
足尼(田裳見宿禰)を神主として祀らせたという。この田裳見宿禰の後裔が、住吉大社の祭祀を
担った津守連(津守氏)一族とされる。

国道2号線に出ると神社の過度に西国街道の石碑が・・・
西国街道
西国街道(さいごくかいどう、さいこくかいどう)とは、江戸時代における街道のひとつ
であり、近世山陽道の別名である。また、西国路(さいごくじ、さいこくじ、せいごくじ、
せいこくじ)、中国街道(ちゅうごくかいどう)、中国路(ちゅうごくじ)、山陽路(さんよう
じ)などとも呼ばれる。京都から下関までの経路で、律令時代に整備された大路と一
致する。また、狭義の西国街道として同街道の内、西宮〜下関まで区間、あるいは
同じく京〜西宮までの区間を指すこともある。
江戸時代に「街道」が整備されることになった。この街道においては、藩領内であって
も江戸幕府の道中奉行が支配するなど、再び中央と地方の連絡が国家的に整備さ
れたとも言える。街道には宿場が指定され、人馬の継立を行う問屋場や、諸大名の
宿舎としての本陣、脇本陣、そして武士や一般庶民などの宿舎であった旅籠などが
整備された。江戸時代の道路としての山陽道は、京都の羅城門(東寺口)から下関
の赤間関(あかまがせき)に 至る道として再整備されたものである。
なお呼称には多少の重複混同が生じているが、安土桃山時代頃までは前述の京都
~西宮間は山崎街道(唐街道・山崎通り)、そして西宮~下関間を狭義での西国街
道、大坂~尼崎~西宮間は中国街道などと呼称する場合が多いようである。
また、打出(芦屋)から生田神社(神戸元町)前までは山側と海側の南北二手に分岐
しており、山(北)側のルートを西国本街道、海(南)側のルート西国浜街道と呼んだ。
IMG_4814.JPG

だんじり資料館へ向かう
IMG_4815.JPG
住吉だんじり資料館(トイレ休憩)・・・一般財団法人 住吉学園の管理運営
東灘区役所・消防署の道向かいで、入館無料です。
一般財団法人 住吉学園の目的は
この法人は、旧住吉町を中心として、教育・文化・福祉の振興とコミュニティ活動の
向上を図り、もって地域社会の健全な興隆発展に寄与することを目的とする。
IMG_4816.JPGIMG_4817.JPG
住吉川川べり散策・昼食
東灘区のHPより
東灘区のほぼ中央を流れる住吉川は、六甲山最高峰付近に源を発し、いくつもの渓流
を集めて南下、大阪湾へと注ぐ二級河川です。幹川流路延長は4,073 メートル、流域面
積は11.49平方キロメートルです。住吉川は自ら形成した扇状地を流れる天井川で、生
活排水の流入がないこともあって、市内随一の清らかさを誇っています。夏には、川の
中に入って遊ぶ子どもたちの姿をみることもできます。
中流から下流にかけての河川敷は、「清流の道」として一般 に開放されています。これ
は渦森山を削って東部第3工区・第4工区を埋め立てたと きに、土砂を運ぶダンプカーが
街中を何度も往復するのを避けるため、 整備されたものです。工事終了後は立ち入りが
禁止されていましたが、 地元からの強い要望があり、昭和49年に開放されました。以来、
ジョギ ングや散策など多くの市民に利用されています。.
IMG_4819.JPGIMG_4823.JPGIMG_4824.JPG
倚松庵(細雪執筆の家)
倚松庵(いしょうあん)は谷崎潤一郎(1886-1965)ゆかりの家で、昭和11年秋(当時
50才)から18年までの7年間居住。名作「細雪」は、昭和17年にこの家で執筆を始めた
もの。「細雪」は倚松庵での出来事をほぼ忠実にたどったもので、部屋のありさまは作
品の中で生き生きと描写されている。
IMG_4825.JPGIMG_4826.JPG
雨に降られなくて良かった
住吉川川べり散策
IMG_4827.JPG
此処までは、
12月20日の歩こう会例会「酒蔵で納会」・阪急御影駅-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-12-21  
続きは、浜福鶴吟醸工房(試飲・買い物)~
浜福鶴吟醸工房(新・買い物)
株式会社 小山本家酒造 灘浜福鶴蔵
平成元年8月福鶴酒造有限会社を譲受して、有限会社福鶴を設立(小山景市
社長)。平成7年1月阪神淡路大震災にて蔵が全壊。平成8年1月社名を株式
会社浜福鶴銘醸に改め製造を再開。平成8年3月鉄筋コンクリート製の近代的
な蔵に全面改築。「四季醸造による見学酒蔵」として生まれ変わる。平成25年
9月株式会社 小山本家酒造 灘浜福鶴蔵に社名変更。
IMG_4829.JPGIMG_4830.JPGIMG_4832.JPGIMG_4831.JPGIMG_4833.JPG
  酒蔵見学と試飲・買い物組の2班に分かれて
  美味しいお酒と試飲・試食・買い物を楽しみました
IMG_4835.JPGIMG_4836.JPGIMG_4838.JPGIMG_4839.JPGIMG_4840.JPGIMG_4841.JPGIMG_4842.JPGIMG_4843.JPG
※(株)小山本家酒造
(株)小山本家酒造は、お客様に支えられ、創業1808年(文化五年)以来260年。
企業理念は、創業以来、築き上げてきた酒造技術を大切に守り、品質第一
主義をモットーに、お客様の多様なニーズにお応えすると共に、安心・安全で
美味しいお酒をリーズナブルな価格で提供し、社会に貢献・・・

魚崎八幡宮(解散)
往古、神功皇后が三韓を征伐して凱旋の途中、御船がこの沖より進むことができ
なくなった。軍船を止め、磯辺にあった大樹の末に艫綱を繋ぎて占った所、御船に
祀る神の御誨があった。それに従い、天照大神の荒魂を広田に、稚日売神を生田
に、事代主神を長田に、住吉神を渟名椋長岡に祀った。御船は平安に海を航する
を得たり。と云う。
艫綱を繋いだ松はその後久しく栄えて里人は皇后の大御形見として仰ぎ奉りしが、
何れの頃にか枯れてしまった。神依松と云う。当地は元々五百崎(いほざき)と呼
ばれていた。これは皇后の軍船が五百艘であったとか応神天皇の御代に船五百
艘を貢せしめた際、その船が武庫水門に集まったからと云う。後世、これらの由縁
を結んで「神依松」の傍らに神籬をたてて八幡大神を祀り、五百神社と称したのが
創祀と云う。
IMG_4848.JPGIMG_4847.JPG

阪神魚崎駅~近鉄難波駅
IMG_4849.JPGIMG_4850.JPG
難波~JR大和路線で王寺~王寺駅~バス
流石に神戸迄は遠い・・・・
IMG_4852.JPGIMG_4853.JPG

12月14日のJRふれあいハイキング・森ノ宮駅-2

12月16日       12月14日のJRふれあいハイキング・森ノ宮駅-2
                日本最古の橋とコリアタウン 歩程約10㎞
知人と3人でJRふれあいハイキングに参加、ハイキングの後に忘年会も・・・
コース JRふれあいハイキング 大阪・関西歩け歩け協会  参加費300円
 大坂城公園 森ノ宮噴水前広場受付 10時集合・スタート 歩程約10㎞
森ノ宮駅~徒歩5分~大阪城公園森ノ宮噴水前広場(受付)~三光神社~
真田山公園~五条公園~鶴の橋跡~コリアタウン(解散・自由行動)~徒歩
10分~鶴橋駅    本日の参加者  ・S藤・M村・T原の3人で参加
此の日の私の万歩計は、26209歩で約17.6km、参加者は122人だった・・・
志都美駅へ向かう
IMG_4718.JPG

志都美駅
IMG_4721.JPGIMG_4722.JPGIMG_4723.JPG
森ノ宮駅
大坂城公園・森ノ宮噴水前広場
IMG_4724.JPG

   知人3人目が到着・・・
IMG_4725.JPG

勝山通りへ陸橋を渡る
IMG_4726.JPG

難波宮跡へ向かう
IMG_4727.JPG

難波宮跡
IMG_4729.JPGIMG_4731.JPG
法円坂
※浄照坊(じょうしょうぼう)
大阪の町は大阪(石山)本願寺のもとに営まれた寺内町がもととなって発展したとい
われるように、大阪と本願寺教団の関連は深い。浄照坊は、蓮如の弟子である法円
が開いたという由緒をもつ真宗寺院であり、本願寺教団と大阪の関係を考えるうえで
重要な多数の史料を伝えている。今も残る「法円坂」の地名は法円の名前を語源とし
ているといわれるが、法円は八尾の慈願寺の6世であり、蓮如の有力な門弟で、摂津
・河内・和泉地方での教化に重要な役割を果たした。大阪本願寺の前身となった、蓮
如による大阪御坊の建立にあわせて、法円が大阪の通寺として建立したのが浄照坊
であるという。

カトリック玉造教会マリア大聖堂
カトリック玉造教会のHPより
1894年、この玉造の地に聖アグネス聖堂が建てられ、マリー神父が初代主任司祭と
なって玉造教会が誕生しました。その聖堂は戦災によって焼失しましたが、その後、
仮聖堂を経て、ザビエル来日400年記念の年に建設された聖フランシスコ・ザビエル
聖堂に引き継がれ、1963年3月に、現司教座聖堂「聖マリア大聖堂」へと生まれ変わ
りました。その大聖堂の西北には、細川越中守の屋敷跡と伝えられている「越中井」
が残されており、細川ガラシア夫人を記念して辞世の句碑が建っています。
現在の聖マリア大聖堂は、鉄骨鉄筋コンクリート建て、建坪2450平方メートル、軒高
20メートル、青銅板葺きの大伽藍です。大小およそ100個の窓は、通風窓をのぞき、
ステンドグラスで、イエス・キリストの生誕と洗礼、聖母マリアの生涯、そして小聖堂に
は日本人に福音を伝える聖フランシスコ・ザビエルが描き出されています。
大聖堂前広場の両端には、高山右近と細川ガラシア夫人の石像が有ります。
IMG_4733.JPGIMG_4734.JPG
玉造稲荷神社
社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建され、当時は比売社と称していた。
蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し
戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。豊臣大坂城の三の丸に位置し、そ
の鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けた。戦国時代の戦火で荒廃し、慶長8年
(1603年)に豊臣秀頼により社殿が再建された。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で
社殿は再び焼失し、元和5年(1619年)に徳川幕府の大坂城代や氏子らの寄進によっ
て再建された。豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、豊津稲荷社と称した。
江戸時代には伊勢参りの出発点とされた。現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名に
よるもので、一帯は古代、勾玉などを作っていた玉作部の居住地であったという伝承
がある。現在の社殿は昭和29年(1954年)に再建されたものである。
IMG_4736.JPG
三光神社
三光神社(さんこうじんじゃ)は、大阪府大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園にあ
る神社である。天照大神・月読尊・素戔嗚尊を祀る。反正天皇の時代の創建と伝えら
れる。創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し、現在は86代目と伝
える。社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦現在地の南東の鎌八幡の隣に遷座
し、宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったという。かつては「姫山神社」と称し、一
帯は「姫の松原」と呼ばれていた。中風封じの神として有名な三光宮(現 青麻神社)を
勧請し、そちらの方が有名になった。明治15年(1882年)の『大阪名所独案内』に三光
宮を勧請したと書かれており、勧請はそれ以前という事になる。明治41年(1908年)、
姫山神社に境内社・三光宮を合祀し、社名を「三光神社」とした。3柱の神を祀ることか
ら「三柱神社」とも、「日月山神社」ともいう。鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。
かつては大坂城の出城「真田丸」が置かれ、大坂の陣のときには真田信繁が大坂城か
ら当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社殿の下に残っている。
IMG_4737.JPGIMG_4739.JPGIMG_4740.JPG
此処までは、
12月14日のJRふれあいハイキング・森ノ宮駅-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-12-16
続きは、此処で
12月14日のJRふれあいハイキング・森ノ宮駅-2 として詳細を掲載します。
宰相山公園~真田山公園を抜けて
宰相山公園
宰相山という地名は、大阪冬の陣の折に、真田幸村が守る「真田丸」を攻めた越前宰相
・松平忠直が陣を置いたという伝承に因むと言われていますが、一緒に攻めた前田利常
(前田宰相)の陣だったという説もあります。400年も前の事なので良く解りません。
真田山旧陸軍墓地があります。 
この墓地は明治4年の創設で、日本でもっとも早く設置された陸軍墓地である。墓地には
西南の役、日清日露及び今次大戦に至る戦没者将兵ら5,300余柱もの墓石が整然と並
び霊堂には43,000余柱の遺骨が祀られている。外国人名が刻まれた墓石も有るとか・・

真田山公園
真田山公園は、騎兵第四連隊のあった跡に昭和14年(1939年)に開設され、現在は天王
寺スポーツセンター、真田山プール(冬季:アイススケートリンク)、野球場、テニスコートな
どのスポーツ施設も整備されている。このあたりは大阪冬の陣(1614年)で真田幸村が活
躍した古戦場でもある。公園の北、三光神社の西側には、真田山旧陸軍墓地があり、公
園の南東には法円坂の地名で知られる法円が建立したとされる浄照坊がある。

産湯稲荷神社~五条公園(昼食&トイレ休憩)~桃谷駅
産湯稲荷神社
天王寺区小橋町にある産湯稲荷神社の北には、かつて味原池という大きな池があった。
『摂津名所図会』には、「味原池、小橋村の西にあり。一名比賣許曾神の御影池という。
土人溜池とよぶ。」とある。『摂津名所図会大成』には、またの名を白鴨御池、味原(みは
ら)の池ともいう、とある。花見の名所でもあった味原池は、緑豊かな上町台地の中にあり
池の向こう岸には、大阪城の天守閣、さらにその奥には北摂の山並みが鳥瞰されている。
産湯稲荷(うぶゆいなり)神社の創建年代は定かではないが、比売許曽神社(ひめこそじ
んじゃ)の旧境内地であり、大小橋命(オホオバセノミコト)の産湯の井戸の付近にあって
産湯稲荷(うぶゆいなり)神社と称せられ比売許曽神社の摂社であった。この産湯稲荷は
俗に桃山といわれ、明治 38・39 年の頃までは大阪屈指の大桃林があった。
IMG_4744.JPGIMG_4745.JPGIMG_4746.JPG

桃谷駅へ向かう
IMG_4747.JPGIMG_4748.JPGIMG_4750.JPGIMG_4751.JPGIMG_4754.JPG
※桃谷駅
江戸、明治時代に桃畑が続いて「桃山」「桃谷」と呼ばれた事が駅名の由来です。当初
は桃山駅でしたが、明治38年(1905)に伏見桃山駅と混同するので改名しました。太古
の昔は此の辺りは河内湖が広がって大陸の交易船が行き交ったといいます。桃も中国
の舶来植物ですが、大陸文化の香りを感じる駅名です。

鶴の橋跡
『日本書紀』仁徳天皇14年の条に、猪甘津(いかいのつ)に小橋(おはし)を作った記事
が見える。記録に残る日本最古の橋で、それは平野川(旧大和川)に架けられたもので
ある。名の由来は、鶴が多く集まっていたからとも言われた。また、「津の橋」がなまった
からとも言われている。明治7年、平野川浚渫のとき木橋から石橋に架け替えられた。
そのときの親柱を記念に残し大きな橋跡の碑が建てられた。
河内湖の小橋の江と呼ばれた入り江には、百済川(後の平野川)が注ぎ込んでいたので
すが、その河口付近には、人や物資を運ぶ猪甘津(いかいのつ)と呼ばれる港が設置さ
れていて、たいへんな賑わいだったのだそうです。その場所に架けられた猪甘津橋(いか
いつのはし)は、まさに古代の交通の要所でした。
高津宮(こうづぐう)のあたりには、その昔、仁徳天皇が政治を行った高津宮(たかつのみ
や)があったとされていますから、天皇のおわす都から官道が河内へ、そして大和へとつ
ながって行く・・・そのための橋だったわけです。やがて、江戸時代の頃から、この橋は鶴
橋(つるのはし)と呼ばれるようになります。
猪甘津橋が鶴橋と呼ばれるようになったのは、この橋の北のあたりに鶴が多く集まった
事からとも、猪甘津を略して津(つぅ)の橋と呼ばれていたのが、いつしか変化した物だと
も言われます。明治七年(1874年)に、鶴の橋は石橋に架け替えられます。そんな日本
最古の橋も、大正十二年(1923年)の耕地整理によって、平野川がルート変更となり、新
平野川となったため、不要となった旧平野川が埋め立てられてしまい、鶴の橋も廃橋とな
り、其の使命を終えました。江戸時代には、長さ二十間(36.4m)、幅七尺五寸(2.3m)も
あった巨大な橋は、この時に、歴史の彼方へと消え去ったのです。
IMG_4755.JPGIMG_4758.JPG
御幸橋
生野(いくの)コリアタウンは大阪市生野区の北東部、鶴橋駅から南東へ800mほどの 所
にあるまちです。御幸(ごこう)通りは市道上新庄生野線(通称「疎開道路」)との 交点から
東へ、平野川に架かる御幸橋まで、東西約500mにわたって伸びる商店街。
IMG_4760.JPG
コリアタウン(解散・自由歩行)
生野コリアタウン
御幸通の3商店街(通称:生野コリアタウン)は1600年の歴史ある御幸森神社のお膝元、
東西450m程に約120店舗が軒を連ねる商店街です。大正時代に旧猪飼野と呼ばれた
人口の増加に伴い市街化していく中、鶴橋公設市場が開設され、日本にある一般的な
商店街として発展していきました。現 在の生野区(当時は東成区(郡)の一部)は大正時
代、大阪が大大阪(だいおおさか)と呼ばれた当時急速に市街化していき、多くの中小零
細企業が集まりました。生活の苦しかった朝鮮半島の人々は既に韓国併合が行われて
いたことにより、日本に職を求めて移住するようになります。特に大正末期に就役した
「君が代丸」により、済州島からの移住者が増大します。その人々こそ経済成長著しい大
阪の中小零細企業にあって特に避けられがちな労働や雇用需要を担ったのです。出稼
ぎ労働者が増えてくると、今度は同胞を相手に商売(といってもゴザに物品・食品を並べ
る程度)を行い始る人々が現れ、その界隈が朝鮮市場と呼ばれるようになります(現在の
御幸通の裏手)。戦 争が激化し大阪にも空襲が行われると、それまで御幸通で商売をし
ていた旧日本人店主たちが疎開を始めるようになります。疎開の際、「店舗は空襲の被
害にあうかもしれない」「ほうっておいては店舗・家屋が痛む」と考えた旧店主達は、それ
らを安く貸したり売ったりするようになりました。この時、御幸通の裏手で商売をしていた
人たちを始めとして在日韓国・朝鮮人達が御幸通で店舗を構えるようになります。この頃
を境に御幸通商店街が特異な商店街としての発展を見せ始めます。昭 和30年代~50
年代前半にかけては日本の高度経済成長もあり、韓国・朝鮮の食品や物品がひとところ
に集まる商店街としてその隆盛期を迎えます。近隣の在日韓国・朝鮮人だけでなく、大阪
府下を始め近畿地方の各地から仕入れに訪れる業者で商店街がひしめき合う状態でした。
ところが昭和50年代後半頃から陰りを見せ始めます。最初期の渡航者から数えると50年
程経つ中で、在日韓国・朝鮮人の生活様式の変化、日本経済の成熟、後継者の不在等
来街者が目に見えて減少していきました。そんな時、危機感を覚えた当時の商店主達が、
御幸通をただの商店街で終わらせるのではなく新たな顧客を呼びこむために御幸通を特
色ある商店街として訴求していく"コリアタウン構想"を掲げます。しかし当初コリアタウン構
想を立ち上げたとはいえ、社会見学やフィールドワークの学生等、新しい来訪者の方への
対応に商店主達が戸惑いを見せるような状態でしたが、特徴的な門や舗装道路が完成し、
その後日韓共催ワールドカップ、冬のソナタに始まる韓国文化への関心が高まると、コリア
タウンとして商店街に注目が集まるようになりました。現 在ではお買い物のお客様だけなく
フィールドワークや社会見学、修学旅行の来街者も年々増加しております。
IMG_4759.JPGIMG_4761.JPGIMG_4762.JPGIMG_4763.JPGIMG_4764.JPG
御幸森天神宮
御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)は、大阪府大阪市生野区(旧摂津国東生
郡猪飼野村)にある神社である。 仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命を祀る、猪飼野村
の氏神である。
御幸森天神宮のある地域は古くから猪飼野(いかいの)と呼ばれ、猪甘津(いかいの
つ)と呼ばれる古代の港があったことに由来する。猪甘津は日本書紀仁徳天皇十四
年の条に記され、猪甘部(いかいべ)と呼ばれる官職を務める者が住んでいた。猪甘
部は朝廷への貢物として豚を飼育する役を司っていた。また付近は百済野と呼ばれ
百済からの渡来人が多く住んでいた。水鳥が集まる景勝地であったとも伝えられてい
る。伝承によれば、仁徳天皇が鷹狩や渡来人の様子を見聞する御幸に際して、度々
この地の森で休憩したことから御幸の森と呼ばれるようになったとされる。仁徳天皇
崩御の後の反正天皇2年406年、天皇の神霊を祀る社が建立され、御幸の祠や御幸
宮と称されたと伝えられている。
IMG_4765.JPGIMG_4766.JPGIMG_4770.JPG

鶴橋駅 →JR天王寺駅~ゆ処・あべの温泉
IMG_4772.JPG

あべのハルカス
IMG_4771.JPG
14:50JR天王寺駅 551蓬莱前で待ち合わせ
昼飲み忘年会 15:00~17:00阿倍野  カラオケ 17:10~18:40
コース料理&飲み放題 参加者10人
・Y頃・Y川・Y田・N西・N村・M吉・M越・A座・S藤・T原 
IMG_4597.JPG
2次会はカラオケ 参加者5人
・Y頃・Y川・M吉・A座・T原 
IMG_4596.JPG

12月10日のてくてくマップ大阪⑤・古市駅-2

12月13日      12月10日のてくてくマップ大阪⑤・古市駅-2 
               羽曳野・藤井寺史跡古墳コース
知人と3人で近鉄てくてくマップ大阪⑤の羽曳野・藤井寺史跡古墳コース、
歩程約13㎞をコースと見所を少し変えて歩いて見る事にした・・・・、
コース:近鉄てくてくマップハイキング 古市駅(あみま倶楽部スタンプ貰う)
古市駅(スタート)~白鳥神社~誉田八幡宮~誉田山古墳~大鳥塚古墳
~古室山古墳~仲媛命皇后陵~古室八幡神社~澤田八幡神社~道明寺
~土師ノ里八幡神社~允恭天皇陵~大水川散策公園~下水処理場・ふ
れあいらんど(昼食)~津堂城山古墳・津堂八幡神社~産土神社~元善光
寺~雄略天皇陵~陵南の森総合センター・歴史資料室~吉村家住宅~明
教寺~辛国神社~岡ミサンザイ古墳~割塚古墳~アイセルシュラホール
~葛井寺~藤井寺商店街~藤井寺駅 →道明寺駅→柏原駅→王寺駅 
此の日の私の万歩計は、35748歩で約24km歩いた事に・・・
志都美駅へ向かう
PC106806.JPG

志都美駅
PC106808.JPG
古市駅(スタート)~白鳥神社
白鳥神社・・・藤井寺市観光協会HPより
元は軽里の西方、伊岐谷に創建された伊岐宮(白鳥陵の上にあった。)が江戸時代
に現在地に移され、日本武尊と素戔鳴命を祭神とする古市の氏神となりました。この
場所は6世紀に築造された欽明天皇のモガリ陵の後円部であるといわれています。
PC106815.JPGPC106817.JPGPC106818.JPG
誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、
応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。このことから最古の
八幡宮を称している。奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建さ
れた。永承6年(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から1町ほど南の
現在地に遷座した。
八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家
の信仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一
族によって保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪
争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の
誉田氏の一部は、四国や九州に逃れ、また、江戸期には、関西一円の香具師(やし)
(露天商)の元締めとして君臨したといわれている。河内国を支配下に置いた織田信
長により、社領をすべて奪われた。その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を
再建した。天正14年(1586年)に社殿が焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請
奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡が
あり、建物の内部が未完成のままとなっている。
PC106824.JPGPC106826.JPG
東高野街道碑・・・羽曳野市HPより
東高野街道は高野詣でのための京から高野山に至る道で、江戸時代には東高野街
道の他、西高野街道、下高野街道、中高野街道などいくつかの経路がありました。東
高野街道は、 京都九条の教王護国寺(東寺)から大阪平野の東縁を南下し、羽曳野
市域を通って紀見峠を越え高野山に至っています。
PC106841.JPG
誉田山古墳(応神天皇陵古墳)・・・羽曳野市HPより
古市古墳群最大の前方後円墳で、墳丘長約425m、後円部直径250m、高さ35m、前
方部幅300m、高さ36mを測ります。百舌鳥古墳群の仁徳陵古墳(大仙古墳)に次いで
2番目の大きさを誇ります。また、古墳を築造したときに使用した土の量は約143万立米
にものぼり、大仙古墳を上回っています。墳丘は三段に積み重ねられ、斜面は一面に
石が 葺(ふ)かれています。テラスと呼ばれる平坦な部分には推定2万本に及ぶ円筒
埴輪が立て並べられていたと考えられます。5世紀前半頃の築造と考えられています。
墳丘のまわりには二重の周濠(しゅうごう)が巡りますが、東側では先に造られた二ツ塚
古墳を避けて少しいびつな形になっています。出土遺物には、円筒埴輪や盾・靫(ゆぎ)
・家・水鳥などの形象埴輪の他に、蓋形の木製品やクジラ・タコなどの土製品あります。
PC106845.JPGPC106847.JPG
大鳥塚古墳・・・わくわく南河内HPより
藤井寺市 大鳥塚古墳
大鳥塚古墳は、墳丘の長さが110mの前方後円墳です。古市古墳群の中では中形で、
前方部は南を向いています。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になっていて、足を踏み入
れると夏でもひんやりとした感じを受けます。造られた5世紀前葉当時、墳丘の斜面に
は石が葺かれ、平坦面には円筒埴輪が並んでいました。人を葬った施設の構造は分
かっていません。しかし、変形獣形鏡と位至三公鏡と呼ばれる二面の鏡や、鉄製の剣
・刀・矛・矢じりが掘り出されたと伝えられています。
PC106849.JPGPC106851.JPG
古室山古墳・・・藤井寺市観光協会HPより
古市古墳群形成期の4世紀後半に築造された墳丘長150mの前方後円墳です。
古市古墳群のなかでは、皇陵関係以外としては最大級の大きさです。台地の高
所にあるため、墳頂からは生駒、葛城山系が眺望でき、季節によって梅や桜が
楽しめ、市民の憩いの場となっています。
PC106853.JPG
仲媛命皇后陵・・・藤井寺市観光協会HPより
4世紀後半~5世紀初めの築造とされ、墳丘長290mの大型前方後円墳です。
古市古墳群では応神天皇陵古墳に次ぐ大きさを誇ります。周濠は、幅が狭く深
い空堀です。応神天皇の后、仲姫の陵とされていますが、古墳の形態などから
応神天皇よりも古い4世紀後半頃の大王陵だとする説もあります。
PC106862.JPGPC106864.JPGPC106869.JPG
古室八幡神社
藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社が五社ありますが、国
府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請したものと
されています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂八幡神社
の四社です。国府八幡神社は、壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請して始まっ
たとされています。
PC106866.JPG
※壺井八幡宮
武家棟梁・河内源氏の氏神である。八幡神として誉田別尊(応神天皇)・仲哀天
皇・神功皇后を主祭神とし、玉織姫・武内宿禰を配祀する。一帯は河内源氏の
本拠地で、寛仁4年(1020年)に源頼信が河内国国司に任じられて以降、頼信・
頼義・義家の3代にわたって当地に居住し、河内源氏と呼ばれるようになった。
康平7年(1064年)5月15日、前九年の役に戦勝して凱旋した源頼義が、現在地
である河内国香呂峰の私邸の東側に社殿を造営し、河内源氏の氏神である石
清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りである。この時、地名を
香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神とし
た。[1]近くには河内源氏の氏寺・通法寺がある。その後、源頼義は、河内源氏の
東国進出の拠点として、鎌倉にも石清水八幡宮を勧請した(鶴岡若宮。後の鶴
岡八幡宮。)。頼義の5世孫である源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、河内源氏の
総氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮に移り、壺井八幡宮は河内源氏の祖廟に
して当地に土着した河内源氏である石川源氏の氏神となる。

澤田八幡神社・・・境内を電車が通る神社としても有名
藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社が五社ありますが、
国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請した
ものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂
八幡神社の四社です。国府八幡神社は、壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧
請して始まったとされています。
PC106876.JPG
三ッ塚古墳・・・藤井寺市観光協会HPより
写真は、西側の助太山古墳
三ツ塚古墳 助太山.JPG 仲姫皇后陵古墳の南側にあり、東西に並んだ三基
の方墳の総称です。東から八島塚、中山塚、助太山古墳といい、三基は周濠
を共有して、南辺を揃える特異な景観をしています。八島塚と中山塚の間の
濠底部から大小の修羅が見つかり大きな話題になりました。
PC106880.JPG
道明寺・・・藤井寺市観光協会HPより
聖徳太子が尼寺を発願され、7世紀中葉に土師氏の氏寺として建立された
土師寺が起源。 当初は天満宮の南側参道付近に位置していましたが石川
の洪水で天満宮の境内に移り、さらに明治の神仏分離令によって現在地に
移りました。 本尊は国宝「十一面観音立像」で、毎月18日と25日に拝観で
きます。
PC106884.JPG
土師ノ里八幡神社
藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社が五社ありますが、
国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請した
ものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂
八幡神社の四社です。国府八幡神社は、壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧
請して始まったとされています。
PC106894.JPG
允恭天皇陵・・・藤井寺市観光協会HPより
国府台地の北端に立地し、5世紀後半に築造された三段築成の古墳で、墳丘
長230mの前方後円墳です。 整美な外観は古墳時代中期の代表的な墳形と
いわれています。 江戸時代までは「市野山」と呼ばれ、綿作が行われていまし
た。後円部の外周は旧長尾街道(大津みち)です。
PC106896.JPGPC106902.JPG
此処までは、
12月10日のてくてくマップ大阪⑤・古市駅-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-12-12
此処では、此の続きを
12月10日のてくてくマップ大阪⑤・古市駅-2 として詳細掲載します。
大水川散策公園~
PC106904.JPG
下水処理場・ふれあいらんど(昼食)
古墳群の中の水処理場をテーマにして、こんもりと盛られのに下水処理施設が作
られています。屋上や緑地は地域に解放されています。屋上は、四季折々の花が
咲き、展望が良く、大和川周辺の自然景観が楽しめます。市民の散歩やウオーク
などのふれあいの場となっています。
PC106906.JPG
津堂城山古墳・・・藤井寺市観光協会HPより
古市古墳群の中では最も古い4世紀後半に築造された前方後円墳で、墳丘長
208m、2重の濠と堤を持ちます。後円部頂では長持型石棺を納めた竪穴式石
槨が確認されており、内濠の島状の施設から出土した水鳥埴輪はわが国最大
で、重要文化財に指定され、シュラホールに展示されています。
PC106912.JPGPC106914.JPGPC106916.JPGPC106919.JPGPC106928.JPG
津堂八幡神社
石碑に明治42年(1909)1月 小山産土神社
に合祀したと記されているらしい?
藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社が五社ありますが、国府
八幡神社以外の八幡神社は、誉田八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請したものとされ
ています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂八幡神社の四社
です。国府八幡神社は、壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請して始まったとされて
います。
PC106920.JPGPC106923.JPG
産土神社(うぶすなじんじゃ)・・・藤井寺市観光協会HPより
室町時代に神宮寺として再建され、祭神を牛頭天王としていましたが、現在は産
土神社として素戔鳴命と櫛稲田姫を祀っています。本殿は一間社流造で、主要部
分は創建当時の状態をよく留めており、藤井寺市内で最古級の神社建築として貴
重です。絵馬も必見です。
PC106930.JPGPC106932.JPG
元善光寺・・・藤井寺市観光協会HPより
天正年間まで城山古墳の後円部外側に接する善光寺屋敷にありましたが、織田
信長による河内攻めの戦火で焼失したため、現在地に再建されました。長野善光
寺の元祖といわれる伝説があり、寺に伝わる「善光寺参詣曼荼羅」からうかがうこ
とができます。本尊は長野善光寺と同じ一光三尊の阿弥陀如来像です。
難波津で買い求めた一光三尊の阿弥陀如来像が此の地で2つになったとの伝説。
PC106935.JPG
PC106938.JPGPC106940.JPG
雄略天皇陵・・・羽曳野市観光協会HPより
丹比高鷲原陵(たじひの たかわしの はらの みささぎ)。考古学名は高鷲丸山 古
墳(島泉丸山古墳、円墳、径76m)と平塚古墳(方墳、辺50m)の二つで前方後円
墳になる。但し 二つの古墳は 途切れている
高鷲丸山古墳は 五世紀後半に造られたと推定されている。江戸時代の絵図で
は 円墳の島泉丸山古墳だけが第21代雄略天皇陵と描かれている。 
高鷲平塚古墳は 島泉村の入会地であり、農民は 自由に 出入りしていた。幕末
になって尊王思想が強まり、荒れ果てた陵墓が修復され立ち入り禁止になった。高
鷲平塚古墳も同様に 島泉村の領主であった館林藩(群馬県)の秋元氏が 文久二
(1862)年から元治元(1864)年から丸山池を拡張し、丸山古墳(円墳)の周囲に石
垣を築き水中に木の柵を埋め地崩れを防いだ。東南東の平塚に土を盛り、前方後
円墳の前方部のように見えるようにした。しかしどういうわけか円墳と方円は繋げ
なかった。1885年(明治18)の整備工事では、丸山古墳にあった拝所は平塚古墳
側に移した。
PC106944.JPGPC106946.JPGPC106948.JPG

陵南の森総合センター・歴史資料室
PC106950.JPG
吉村家住宅・・・羽曳野市吉村家住宅HPより
吉村家住宅は、畿内の代表的な近世豪農の住居です。建物の一部には、桃山時
代の書院造りの建築様式が残っています。元和元年(1615年)の大坂夏の陣でそ
れまでの建物を焼失し、直後に創建されたと考えられています。昭和12年(1937
年)、主屋が民家としては最初に国宝指定を受け、昭和25年(1950年)には重要文
化財に再指定されました。主屋は、何度も増改築を経て、原型がかなり崩されてい
ましたが、昭和26年から28年に亘って解体復元修理により、約400年前の姿に復
元されています。吉村家の祖は、近世以前よりこの地に住みついていたが、近世
に入り帰農し、江戸中期以降、丹北、八上(現在の羽曳野、松原、八尾、大阪市)の
両郡内十八ヶ村の大庄屋をつとめました。
PC106956.JPGPC106954.JPGPC106958.JPGPC106960.JPG

吉村家住宅前・明治天皇小憩跡碑
PC106952.JPG
明教寺・・・明教寺(みょうきょうじ)HPより
寺伝によると、明教寺は推古八年(600年)に創建され、もとは鳳凰寺といいました。
推古天皇がこの地に、白衣の老婦が鳳凰に乗って舞い降りたという夢を見たことに
由来します。老婦は天皇にこう言ったのです。「支那津川の周辺は高鷲の井がきよ
らかな特別な地域なのでそこに寺をつくれば、世の中はこの上なく安穏になり住み
やすくなるでしょう。私は高鷲の地主で、これからつくられる寺を守る者です」。翌日、
推古天皇からその夢を聞かれた聖徳太子は、これは吉兆の夢であるとして、鳳凰
寺をつくられたのです。『日本書紀』に、百済より聖徳太子に駱駝・羊・白雉を献上し
たことが記してあるが、その白雉の屍を鳳凰寺金堂の拝石の下に埋葬したので、こ
の石は鳳凰石と名付けられました。樹齢500年と云わる貝塚伊吹(カイヅカイブキ)
の大木が有ります。
PC106962.JPGPC106965.JPG
辛国神社
今から千五百年程前、雄略天皇の御代に創設された神社で、平安時代には官社と
なり、式内社として人々の尊信を集めてきた神社です。日本書紀には、『雄略十三
年春三月、餌香長野邑を物部大連に賜う』とあるが、餌香長野邑は、旧藤井寺町の
あたりと思われる。この地方を治めることになった物部氏は、その祖神を祀って神社
をつくり、その後、辛國氏が祭祀をつとめ、辛國神社と称するようになった。三代実
録には、清和天皇『貞観九年二月二十六日河内国志紀郡辛國神社を官社に預る』
とあります。元の神社は恵美坂の西南神殿にあったと思われる。室町時代(義満の
頃)河内守護職畠山基国氏が社領二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈
良春日大社に懇請してその祭神・天児屋根命を合祀したと伝えられている。
明治四十一年、長野神社の祭神素盞鳴命を合祀して現在に至っている。
御神徳・饒速日命・瓊々杵尊の御兄。物部氏の祖神。
天孫降臨に先立ち、天祖より天璽宝の瑞宝十種をさずかり、大和建国の任務をうけ
て河内国哮ヶ峰に天降りになった。瑞宝は、『若し痛む処あらば、この十宝を一二三
四五六七八九十(ひふみよいむなやことお)と唱え振れ、此くなさば死人も行き反え
らん』と教え諭された。故に古来より病気平癒、厄除、呆け除の守護神として広く信
仰されている。
天児屋根命・藤原氏の祖神。素盞鳴命・天照大神の弟神。品陀別命・応神天皇。
市杵島姫命・素盞鳴命の子。
PC106967.JPG
岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵)・・・藤井寺市観光協会HPより
“岡ミサンザイ”と呼ばれる墳丘長242mの大型前方後円墳で、幅の広い濠と幅の狭
い堤をもつ古市古墳群で3番目に大きい古墳です。5世紀末~6世紀初頭の築造と
考えられています。墳丘からは城の跡も見つかっています。周濠は水を貯え、冬には
マガモが飛来し、市民の憩いの場として親しまれています。
PC106976.JPGPC106978.JPGPC106982.JPG
割塚古墳
古市古墳群に属す方墳で、一辺30メートル。第十四代仲哀天皇の陵とされる岡ミサン
ザイ古墳の東側約50メートルのところにあり、4世紀末から5世紀初めに造られたと考
えられている。岡ミサンザイ古墳の陪塚とされるが、築造時期に大きなずれがあり、
否定的な意見も多い。他に岡ミサンザイ古墳の陪塚としては、鉢塚古墳がある。
PC106984.JPG
アイセルシュラホール
大阪府藤井寺市にある考古学・歴史系博物館施設をメインと する生涯学習セン
ターの愛称。正式名称は藤井寺市立生涯学習センター。1994年に 開館した。
PC106986.JPGPC106987.JPGPC106989.JPG
葛井寺・・・藤井寺市観光協会HPより
葛井寺(ふじいでら)は古代氏族葛井氏の氏寺として、7世紀後半の白鳳期に建立
されました。 西国三十三箇所観音霊場の第五番札所として信仰を集め、多くの巡
礼者が訪れています。 本尊の国宝乾漆千手観音坐像は、大阪府下唯一の天平仏
で、毎月18日に御開帳されます。また、 四脚門は、桃山様式をよく伝える建造物と
して、国指定の重要文化財となっています。
PC106992.JPGPC106994.JPGPC106996.JPGPC107001.JPGPC107003.JPGPC107005.JPGPC107006.JPG

藤井寺商店街~藤井寺駅
PC107008.JPG

12月6日の聖徳太子の住居跡?を訪ねる・櫻井駅-2

12月9日       12月6日の聖徳太子の住居跡?を訪ねる・櫻井駅-2
             JRふれあいハイキング 歩程約13㎞ 参加費500円
JRふれあいハイキングに1人で参加、朝の集合時間帯はどんよりとした曇り空の
変な天気、歩き始めると天気は次第に回復、青空の下で心地よいハイキングに・・
私の万歩計は23955歩で約16.1km歩いた事に・・・
コース JRふれあいハイキング 桜井ウオーキングクラブ主催 JR桜井駅南口10時
桜井駅(受付・集合)~来迎寺~桜井・魚市場跡~等彌神社~上之宮遺跡~談山神
社一の鳥居~春日神社・メスリ山古墳~聖林寺~崇峻天皇陵~倉橋溜池ふれあい
公園(昼食)~石位寺~神籠石(ちご石)~舒明天皇陵~玉津島明神~山口坐神社・
樹齢500年の楠木の巨木~報恩寺~JR桜井駅  此の日の参加者90人
桜井ウオーキングクラブの皆様方にお世話になりました、有難う御座いました。
桜井駅(受付・集合)
PC066522.JPGPC066524.JPG

来迎寺へ向かう
PC066531.JPG
来迎寺
旧伊勢街道沿いに建つ、大きな屋根のお寺さん。(融通念仏宗) 無量院「来迎寺
らいこうじ」です。永正10年(1513)了清が草創。元は桜井道場と云われ諸人修行
の場、東光寺の「無量院」(廃寺)を街中に移転(東光寺は南に200mの所の小高
い丘にあります)。現在の本堂は、江戸末期に再建されたもの。
本尊;木造地蔵菩薩立像(国重文・鎌倉時代前期)
境内の来迎の森は、開祖了清のお手植え。手入れが行き届き、樹齢450年以上の
巨松がありましたが、枯れてしまい今は枝垂れ桜に変わっています。境内には粟原
寺の礎石や安倍廃寺の礎石なども置かれています。池の中島に元禄4年(1691)
松尾芭蕉が詠んだ句碑が建っています。「春の夜は桜にあけてしまひけり」
PC066536.JPGPC066540.JPG
桜井旧魚市場跡へ向かう
桜井旧魚市場跡
市場跡に碑が建立されている。有名な「日本橋の魚河岸」開設に当たり、桜井の人、
大和屋助五郎が大いに貢献したということです。(東京史稿から)
旧桜井町の本町通りと立小路町とのT字路あたりは魚市場のあったところで、かつ
ては藤堂藩の宿場として栄え、市場としては古いものの一つである。吉野から多武
峰をへてかついできた熊野鯖は名物のひとつであった。
PC066549.JPGPC066548.JPG
※日本橋の魚河岸
「魚河岸」は日本橋と江戸橋の間、日本橋川の北岸に沿って、本船町から本小田原
町一帯(現在の日本橋本町1丁目、日本橋室町1丁目)にあった魚市場。17世紀の
初めに開設され、1935年に築地市場への移転が完了するまで300年以上にわたっ
て、江戸と東京の人びとの食生活を支えつづけた。
市場への集荷は江戸の近海をはじめ、房州・上総・下総(千葉県)、相州(神奈川県)、
遠州・豆州(静岡県)などの海の魚や淡水の魚が集められ、江戸の住人-武士と町
人たちの腹中におさまった。
最初に魚市場を開いたのは、江戸幕府を開いた徳川家康に従って大坂から江戸に
移住した森孫右衛門一族とその配下の漁民たちだった。彼らは幕府や大名に鯛など
の御用魚を優先的に納めるかわりに、残余の魚介類の市中商いの許可を得たと言
われている。また森一族の後から魚河岸で開業した大和屋助五郎は、駿州(静岡県)
の漁民に仕入金を貸し付け、海中に簀囲いをした活鯛場を設置させて、幕府や大名
家の活鯛御用を大量受注し、有力魚商となった。
「江戸の食の四天王」と云われる食べ物は? 「うなぎ、すし、てんぷら、そば」です。
等彌神社へ向かう
等彌神社
等彌神社(とみじんじゃ)は、奈良県桜井市桜井にある神社。『延喜式神名帳』に掲載
されている大和国城上郡等彌神社に比定されている。明治時代までは能登宮と呼ば
れていた。本社にあたる上ッ尾社の祭神は大日霊貴命とされるが、饒速日命とする
説も存在する。創建年月は不詳であるが、社伝によると当社は古来より鳥見山に鎮
座していたとされる。二千年近くの歴史がある、知る人ぞ知るパワースポットです。
「等彌神社」は、初代天皇とされる神武天皇が皇祖神を祀った場所と伝えられる鳥見
山(とみやま)に鎮座していたとされます。「鳥見の霊畤」は神武天皇が皇祖神に大和
平定と建国を報告する大嘗会(大嘗祭の起源)を営んだとされる場所、建国の聖地で
す。何とも奇妙な土偶が、元文元年(1736)下津尾社の敷地内にある磐余の松の枯
れ株の下から掘り出されました。神社では「ヤタガラス」を表わしたものだと解釈してい
るようですが、そう言われて見ると顔の造りが何となく鳥、カラス天狗のようにも見えて
きます。でも、腰には大きめのバックル状の物が・・・・ やっぱり宇宙人なのかも。
PC066552.JPG

   下津尾神社
PC066560.JPG

   桜井旧魚市場跡から移設された石碑?
PC066579.JPG

   上津尾神社へ向かう
PC066581.JPG

   上津尾神社
PC066583.JPG
上之宮遺跡
桜井市観光協会HPより
上之宮(うえのみや)遺跡は1986年桜井市上之宮の寺川西岸の、河岸段丘上の
土地を区画整理事業に伴い、桜井市教育委員会で調査が行われ、検出された6
世紀末頃の遺構は、聖徳太子の上宮(かみつみや)である可能性が高いと発表さ
れ、大きな話題になりました。遺構は6世紀前半に小規模な建物があったようです
が、6世紀末に大邸宅として整備されていた事がわかっています。
遺構中央部の柱跡は高貴な人の建物に用いられる二重の長方形状の、四面庇
(しめんひさし)の大型建物遺構で北側に長棟の脇殿を配し、東側と南側を柵列で
囲み、それぞれに門が備えられています。また西側からは園地遺構が見つかり、
庭園部分から日本最古の木簡が出土しています。鼈甲や木器の他、果実の種な
ども出土し、桃やスモモの核が多量に出土したことから、周囲には花園があったと
みられ、当時の園池としては第1級の規模・格式を持っていたと思われます。
「上之宮」という地名は、聖徳太子が幼年時代を過ごした宮殿、上宮(かみつみや)
ではないかとその関連性を指摘する説のほか周辺に拠点を持つ阿部氏にかかわ
る遺跡ではないかとの説もあります。県内で6世紀代の建物遺構は数少なく、貴重
な遺跡であることから発掘調査後、埋め戻され、園池遺構はその上に原寸大に復
元され公開されています。
PC066592.JPGPC066596.JPGPC066604.JPG

談山神社一の鳥居へ向かう
PC066607.JPG
談山神社一の鳥居
桜井市観光情報サイトより
簡素で何らの装飾もない。しかも正確に、その石組みの重量感は堂々とした姿に原
始のごとき想像力が味わえる。ここから昔の面影を残す街道が南へと続いている。
この鳥居は享保9年(1724年)の制作で。石材は下村の南大谷から掘り出した。(榊
原文書) 鳥居上の銅額は貞明皇后(大正天皇皇后)の父、九条道孝氏の筆になる。
高さ約8.5メートル、長さ約11.5メートルですが、西側の端が火災で(昭和23年頃)欠
けてしまった。
PC066611.JPGPC066612.JPGPC066615.JPG
※談山神社・・・鎌足と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の出会い
歴史で習った「大化の改新」は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が、蘇我入鹿(そ
がのいるか)と蝦夷(えみし)を滅ぼして、豪族中心の政治から天皇中心の新しい政
治への改革を進めたものです。
鎌足は強い志があり国家革新の盟主を探していたところ、王室のまだ若い中大兄皇
子(後の天智天皇)の存在を知ったのです。しかし、身分の低い鎌足には直接会う事
が出来ませんでした。皇極天皇三年(644年)飛鳥法興寺の蹴鞠会(けまりのえ)が行
われ、中大兄皇子が参加することを知った鎌足は、蹴鞠会の庭で機会をうかがってい
ました。そして偶然、中大兄皇子の靴が脱げ毬と共に転がりました。入鹿の嘲笑が響
いた時、素早く靴を拾い掌に置いて捧げました。中大兄皇子もこれを敬して受け、二人
は意気投合しました・・・・
此処までは、
12月6日の聖徳太子の住居跡?を訪ねる・櫻井駅-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-12-08
此処では、此の続きの春日神社へ向かう~を
12月6日の聖徳太子の住居跡?を訪ねる・櫻井駅-2 として詳細掲載します。
PC066617.JPG
春日神社
創祀など定かではありません。社伝では、「磐船明神」と称し、古くは社殿は無く橿の大
木をご神体としていたそうです。祭神は武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神、品
陀別命。境内社は稲荷神社。境内に重要美術品建造物指定の石造宝塔が有ります。
聖徳太子の万葉歌碑も有ります。
「家にあらば妹が手まかむ草枕旅にこやせるこの旅人あはれ 巻3〜415」
PC066621.JPGPC066623.JPGPC066625.JPG
春日神社・上之宮の石造宝塔
花崗岩製で相輪上部を失って現状高は166センチ。繰型の台石上に二重基礎を置いて
塔身や笠石を載せています。南北朝時代の作で重要美術品建造物指定。東の浅古公
民館の暦応4年(1341)の宝塔と同じ形や作風をみせていて、作者も同じであろうと推定
されています。
PC066627.JPGPC066629.JPGPC066632.JPGPC066634.JPG

崇峻(すしゅん)天皇陵へ向かう
PC066636.JPGPC066637.JPGPC066639.JPGPC066644.JPGPC066646.JPG

   聖林寺橋を渡る
PC066654.JPGPC066656.JPG
※聖林寺
聖林寺(しょうりんじ)は奈良県桜井市にある真言宗室生寺派の寺院である。山号は
霊園山(りょうおんざん)、本尊は地蔵菩薩、開基(創立者)は定慧(じょうえ)とされる。
国宝の十一面観音立像を所蔵することで知られる。
伝承では和銅5年(712年)に多武峰妙楽寺(現在の談山神社)の別院として藤原鎌
足の長子・定慧(じょうえ)が創建したという。妙楽寺の後身である談山神社は当寺の
はるか南方の山中に位置する。

未だ未だ、崇峻(すしゅん)天皇陵へ向かう
PC066658.JPGPC066660.JPGPC066662.JPGPC066664.JPGPC066666.JPGPC066668.JPG
崇峻(すしゅん)天皇陵
陵(みささぎ)は、奈良県桜井市大字倉橋にある倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)
に治定されている。公式形式は円丘。ただし、根拠には乏しいといい、近年では、桜井
市倉橋にある巨大方墳、赤坂天王山古墳を崇峻陵とする説が有力視されるようになっ
ている。同古墳は6世紀末から7世紀初頭に築造された方墳で、東西45.5m、南北42.
2m、高さ約9.1m、全長17mの横穴式石室を持つ。
また、斑鳩町法隆寺にある藤ノ木古墳の被葬者を崇峻天皇とする説もある。
PC066672.JPGPC066674.JPGPC066676.JPG
※崇峻天皇(すしゅんてんのう、欽明天皇14年(553年?) - 崇峻天皇5年11月3日(ユリ
ウス暦592年12月12日?))は、第32代天皇(在位:用明天皇2年8月2日(587年9月
9日?) - 崇峻天皇5年11月3日(592年12月12日?))。諱は泊瀬部(はつせべ)、即位
前は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と称した。『古事記』には長谷部若雀天皇(はつせ
べのわかささぎのすめらみこと)とある。
欽明天皇の第12皇子。母は蘇我稲目の女・小姉君で、敏達天皇、用明天皇、推古天
皇の異母弟にあたる。
大臣の蘇我馬子によって推薦され即位した。一方大連の物部守屋は、穴穂部皇子を
即位させようとはかるが、穴穂部皇子は蘇我馬子によって逆に殺されてしまう。その
後、蘇我馬子は、物部守屋を滅ぼし、これ以降物部氏は没落してしまう。物部氏の没
落によって欽明天皇以来の崇仏廃仏論争に決着が付き、法興寺(飛鳥寺)や四天王
寺などの、造寺事業を積極的に行った。しかし、即位したあとでも政治の実権は常に
馬子が握っており、次第に不満を感じるようになった。592年10月4日に、猪を献上す
る者があった。天皇は笄刀(こうがい)を抜いてその猪の目を刺し、「いつかこの猪の
首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。そのことを聞き
つけた馬子が「天皇は自分を嫌っている」と警戒し、部下に暗殺命令を下した。そして
東国の調を進めると偽って天皇を儀式に臨席させ、その席で東漢駒に暗殺をさせた。
臣下により天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一である。

倉橋溜池・ふれあい公園へ向かう
PC066678.JPGPC066682.JPG

    遠くに二上山が見える
PC066684.JPGPC066686.JPG

    溜池が見えて来た
PC066688.JPGPC066690.JPGPC066692.JPGPC066694.JPG
倉橋溜池・ふれあい公園(昼食)
倉橋溜池は忍阪の石位寺から南の方角に歩いて約1キロ(約20分)の所にあります。
(石位寺からも倉橋溜池の堤がよく見えます)。県内では高山溜池、白川溜池、斑鳩
溜池とともに四大溜池の一つで池としての灌漑面積は県下最大です。
昭和10年頃(1935年)関係町村の有志により干ばつ対策として発案された農業用た
め池ですが戦争等の影響もあり18年の歳月を要して昭和32年(1957年)に完成して
います。平成12年(2000年)には洪水調整機能を併せた防災ダムとして整備され、ま
た平成17年(2005年)には溜池の周辺が倉橋ふれあい公園として整備されました。
PC066696.JPGPC066698.JPGPC066700.JPGPC066702.JPGPC066705.JPGPC066709.JPGPC066707.JPG
此の続きは、
12月6日の聖徳太子の住居跡?を訪ねる・櫻井駅-3 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/ 
続きは、昼食後の倉橋溜池・ふれあい公園~
PC066713.JPGPC066711.JPGPC066715.JPGPC066719.JPGPC066723.JPGPC066725.JPGPC066732.JPGPC066736.JPG

   間もなく出発
PC066738.JPGPC066742.JPG

石井寺へ向かう
PC066744.JPGPC066750.JPGPC066751.JPGPC066754.JPGPC066755.JPG
石位寺(いしいてら)
小さな会所寺だが、本堂の裏に小さな収蔵庫があり、日本最古といわれる石仏
(石造浮彫伝薬師三尊像)が安置されている。
角に丸味のある三角形の砂岩に半肉彫りされた三尊仏。椅子や蓮座を前に傾ける
手法は、白鳳時代に流行した摶仏押出仏様式を取り入れている。
我が国残存石仏の中では最古級かつ最優美な石仏。かつては粟原寺に存在した
ものと考えられている。
PC066757.JPGPC066759.JPG
神籠石(じんごいし)通称ちご石
神籠石(地元では、ちご石と呼ばれています)のいわれについて古書に忍阪の集落
の中央に「楯の奥」(現・タツノ奥)というところあり、その北の「矢垣内」(現・屋垣内)
に神籠石という大きな建石がある、と記され、神武東征の時、天皇がこの地にいた
八十建(やそたける)を討つとき、この石に隠れ石垣をめぐらし矢を持ち楯とした大石
という伝説を持っています。「楯の奥」「矢垣内」という小字名も、そのあたりから、き
ているのかも知れません。昔は素手で正面からこの巨石にのぼり、一畳敷きの上で
大の字になれば一人前の証とされていたという伝承を持っています。(上の火の見
やぐらは昭和35年ごろ、生根神社より移設されたものです。)
『神籠石』は日本各地で「こうごういし」、「こうごいし」、「ひもろぎいし」「かわごいし」とも
言われ、その多くは、聖域を示すモニュメントや古代の山城と理解されていますが定
説はないようです。橿原考古学研究所論集 第4集で藤井利章は忍阪にある舒明天
皇陵の八角墳に関する論文の中でこの石について・・・舒明天皇陵の陵域は延喜式に
よると東西9町、南北6町の兆域があるが、この兆域の基準となる施設に「ちご石」が
あるとの考えを示していることも興味をそそられます。石の大きさは高さ約2.5m、幅約
1.5m、厚さ約1mの規模で自然石そのままではなく加工が行われていることが確認で
きます。
PC066763.JPGPC066765.JPG
舒明天皇陵(じょめいてんのうりょう)
外鎌山の西南麓の小尾根の先端に営まれた古墳で、二段築成の円形または八角
形の墳丘の前面に、裾が拡がる三段に築いた方形段をもつといわれる。田村皇女
(母)との合葬と考えられる。舒明天皇は滑谷岡に葬られたが、643年9月押坂稜に
改葬。
PC066769.JPGPC066775.JPG
※舒明天皇
舒明天皇(じょめいてんのう、推古天皇元年(593年)? - 舒明天皇13年10月9日
(641年11月17日))は、日本の第34代天皇(在位:舒明天皇元年1月4日(629年
2月2日) - 舒明天皇13年10月9日(641年11月17日))。諱は田村(たむら)。 和風
諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。
先代の推古天皇は、在位36年3月7日(628年4月15日)に崩御した時、継嗣を定め
ていなかった。 蘇我蝦夷は群臣にはかってその意見が田村皇子と山背大兄皇子に
分かれていることを知り、田村皇子を立てて天皇にした。これが舒明天皇である。こ
れには蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとしたという説と他の有力豪族との摩
擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したという説がある。また
近年では、欽明天皇の嫡男である敏達天皇の直系(田村皇子)と、庶子である用明
天皇の直系(山背大兄皇子)による皇位継承争いであり豪族達も両派に割れたため
に、蝦夷はその状況に対応した現実的な判断をしただけであるとする見方もある。
ともあれ、舒明天皇の時代、政治の実権は蘇我蝦夷にあった。
在位中、最初の遣唐使を送り、唐からの高表仁の返訪を受けた。 唐には使者の他に
も学問僧や学生が渡り、隋の頃に渡った者も含め、僧霊雲、僧旻、僧清安、高向玄理
が帰国した。百済と新羅からの使節も訪れた。49歳で崩御と伝えられている。

玉津島明神
記紀に伝わる“日本最古の悲恋物語”のヒロインにして絶世 の美女、衣通姫
(そとおりひめ)を祀る玉津島明神(たまつしまみょうじん)
衣通姫伝説は『古事記』中の一大恋愛叙事詩であると言える。『古事記』と『日本書紀』
では人名や物語の内容に食い違いが見られるが、以下は『古事記』の記述である。
允恭天皇の御世、その子に木梨軽皇子、軽大娘皇女という兄妹がいた。二人の母方
の叔母である八田王女(やたのおうじょ)は美しい女性で、その美しさが衣を通してあら
われるようだという意味を込めて「衣通姫」と呼ばれていたが、軽大娘皇女もまた叔母
に似て美しかったため、同様に「衣通姫」と呼ばれていた。
当時は異母きょうだいであれば婚姻も認められていたが、同じ母を持つきょうだいが情
を交わすことは禁忌であった。これは、子供は母に属するものであると考えられていた
ためである。しかし木梨軽皇子は同母妹であるはずの軽大娘皇女に思慕し、やがてそ
の思いを遂げてしまう。この姦淫、近親相姦を知った群臣は木梨軽皇子から離れて行
き、その弟である穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)につく。允恭天皇が崩御した
時、本来であれば長子である木梨軽皇子が即位するはずであったが、木梨軽皇子を支
持する者はおらず、皆穴穂皇子を支持した。これを知った木梨軽皇子は腹心であった大
前小前宿禰(おおまえこまえのすくね)と共謀して穴穂皇子を討とうとするが、逆に追い
つめられ、大前小前宿禰の裏切りにより木梨軽皇子は捕えられてしまう。
PC066780.JPGPC066781.JPG
『日本書紀』においては、巻第13に衣通姫伝説についての記述がある。その中では允恭
24年の夏6月、軽皇子と軽皇女の相姦が発覚し、皇太子を処刑することはできなかった
ので、軽皇女を伊予に追放したとある。さらに允恭42年春1月に天皇が崩御した後、同年
冬10月に穴穂皇子と戦い、形勢不利と悟った大前小前宿禰が軽皇子の助命を穴穂皇子
に嘆願するものの、軽皇子は自害したと書かれている。

山口坐神社・楠木の巨木
忍坂山口坐(おしさかやまぐちにいます)神社にある楠の巨樹で、環境省巨樹巨木林DB
によれば、幹周/7.92m、樹高/30m、樹齢/約600年。
このクスノキは伝承では二代目で、初代の楠は、室町時代の1397年(応永4年)、将軍足
利義満が京都に金閣寺を建てる際に、天井板を一枚張りにするため当社にある楠を供出
することになり、その跡に植えた二代目が現在の楠といいます。ゆえに樹齢600年という。
PC066784.JPGPC066787.JPGPC066789.JPG

報恩寺
桜井市外山区にある国史跡の「桜井茶臼山古墳」の近くにある寺院です。
開創は不明(当時の本尊は薬師如来像)本堂は近年改築された寄木造りの本瓦葺きで
粟原寺の旧仏と伝えられる阿弥陀如来坐像を本尊として迎え入れる為に、新たに天和
三年(癸亥)(1683年)創建されました。本尊の阿弥陀如来坐像は檜材、寄木造、彫眼
の像で、布貼下地の上に漆箔を施しています。像高は約2.2mを計測し、通常の唐尺で
はなく、約二割小さい周尺に基づく定朝様の丈六像で制作年代は作風から平安時代後
期と思われます。
PC066792.JPGPC066796.JPGPC066799.JPG
茶臼山古墳
古墳時代前期の前方後円墳-全長207m、後円部径110m・高さ21.2m、前方部幅61m
・高さ11m 後円部中央の竪穴式石室-全長6.75m・幅1.13m・高さ1・6m、天井石13枚 
古墳の築造時期は布留1式期の4世紀初め頃と考えられている。この古墳は、この地方
の王者の墓であろうと考えられている。土地では、饒速日の命にぎはやびのみこと、あ
るいは長髄彦ながすねひこの墓と伝えられている。
PC066801.JPG
※饒速日の命にぎはやびのみこと
日本書紀によれば神武東征に先立って邇邇芸命の兄にあたる饒速日命が天羽羽矢と
歩靫、十種の神宝を携え天磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯に降臨されます。
饒速日命は地上に降り立つと土着の長髄彦の元に身を寄せて、その妹の登美夜須毘
売と契りを交わして宇摩志麻治命をもうけて一族の主君となりました。
神武天皇が東征してきた時長髄彦は神武天皇より天孫の証として天羽羽矢と歩靫を見
せられるますが2人も天孫が居るわけがないと神武天皇を拒絶します。
饒速日命は長髄彦を殺して神武天皇に大和国を献上いたします。

JR桜井駅 → 五位堂駅~バス
おまけ
五位堂バス停で・・・
PC066802.JPG

我家の山茶花
PC066804.JPG

11月30日の竹取公園&馬見丘陵公園-2

12月4日         11月30日の竹取公園&馬見丘陵公園-2
                  早朝~皇帝ダリアをメインに
竹取公園駐車場をスタート、公園内を6591歩で約4.5km歩いた・・・
IMG_4608.JPGIMG_4607.JPG

陸橋tを渡って馬見丘陵公園へ
IMG_4610.JPGIMG_4611.JPGIMG_4613.JPGIMG_4616.JPG
墳観(つかみ)橋を渡って
馬見丘陵公園南エリアへ
IMG_4620.JPG
倉塚古墳
一本松古墳
IMG_4624.JPGIMG_4626.JPG
寺戸口方面へ廻り
下池周辺
IMG_4627.JPG

公園の外に広陵町の水道タンクが見える
IMG_4628.JPG

乙女山古墳
IMG_4629.JPG
下池
ムクロジの大木&実
IMG_4631.JPGIMG_4632.JPG
中央エリア
古墳の丘
IMG_4636.JPG

中央エリア、花菖蒲園からバラ園へ
IMG_4637.JPGIMG_4639.JPG

花の道を通り
IMG_4640.JPG
此処までは、
11月30日の竹取公園&馬見丘陵公園-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-12-04
此処では、此の続きを
11月30日の竹取公園&馬見丘陵公園-2 として下記、詳細を掲載します。
トンネルを潜って皇帝ダリアの咲く北エリアへ~
IMG_4644.JPG

北エリアの皇帝ダリア
IMG_4647.JPGIMG_4645.JPGIMG_4648.JPGIMG_4649.JPGIMG_4650.JPGIMG_4651.JPGIMG_4652.JPGIMG_4653.JPGIMG_4654.JPGIMG_4655.JPGIMG_4656.JPGIMG_4657.JPGIMG_4658.JPG

なごみの道、集いの丘
IMG_4659.JPGIMG_4660.JPGIMG_4661.JPGIMG_4662.JPGIMG_4663.JPG

大型テント
IMG_4665.JPG

陸橋脇の皇帝ダリア
IMG_4667.JPGIMG_4668.JPGIMG_4669.JPGIMG_4670.JPGIMG_4671.JPGIMG_4672.JPGIMG_4673.JPGIMG_4674.JPGIMG_4675.JPG
此の続きは、
11月30日の竹取公園&馬見丘陵公園-3 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/
続きは、陸橋脇の皇帝ダリア途中~
IMG_4677.JPGIMG_4676.JPGIMG_4679.JPG

大型テント
IMG_4678.JPG

馬見花苑&集いの丘を
IMG_4681.JPGIMG_4682.JPGIMG_4684.JPGIMG_4685.JPG

トンネルを潜って中央エリアのバラ園へ
IMG_4687.JPGIMG_4688.JPGIMG_4689.JPG

公園館
IMG_4692.JPG

サンシュの実
IMG_4693.JPGIMG_4694.JPG

集いの広場
IMG_4695.JPG

ナガレ山古墳
IMG_4699.JPG

陸橋を渡り竹取公園へ
IMG_4702.JPGIMG_4703.JPGIMG_4704.JPG

11月29日の幸村・伊達正宗と激突した誉田・道明寺を巡る-2

12月3日     11月29日の幸村・伊達正宗と激突した誉田・道明寺を巡る-2
                 近鉄 駅フリ-ハイキング 歩程約6㎞
此の日は知人と3人で参加、S藤さん・M吉さんと3人で参加、ハイキングの後は、
安倍野の居酒屋で昼飲み会、此の飲み会には別に4人参加して7人で開催・・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 古市駅 受付 9時半~10時半 
古市駅(受付)~白鳥陵古墳~墓山古墳~向墓山古墳~~誉田八幡宮~薄田
隼人墓~応神天皇陵~小室山古墳~道明寺天満宮~道明寺合戦記念碑~道
明寺駅(ゴール)少しコースを変え一緒に参加した知人の家の前を通る事に・・・
古市駅(受付)~白鳥神社~白鳥陵古墳・遥拝所~墓山古墳~向墓山古墳~羽
曳野市文化財展示室~誉田八幡宮~薄田隼人墓~応神天皇陵~小室山古墳
~仲姫皇后陵古墳~古室八幡宮~澤田八幡宮~道明寺~道明寺天満宮~道明
寺合戦記念碑~道明寺駅(ゴール)
道明寺駅 → 阿倍野橋駅 → ゆ処・あべの温泉で暖まって、昼飲み会へ
古市駅
白鳥神社
日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。明治時代に近隣の高屋神社を合祀し、
その祭神である饒速日命、広国押武金日命(安閑天皇)を合せ祀る。元は軽里
の西方の伊岐谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ばれ
ていた。南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ケ塚古墳の頂の小祠として祀られ
てきたが、慶長9年(1596年)の慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されてい
た。天明4年(1784年)、古市の氏神として現在地に移された。明治41年(1908
年)、式内・高屋神社を合祀した。高屋神社は昭和29年(1954年)に独立・再興
されたが、現在でも合祭神としてその祭神を祀っている。
IMG_4478.JPGIMG_4479.JPG

日本武尊御陵参道
IMG_4481.JPG
白鳥陵(しらとりのみささぎ)
公式形式は前方後円。考古学名は「軽里大塚古墳」または「前の山古墳」。墳丘
長190メートルの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。河内の白鳥陵
明治8年(1875年)に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考
定されたが、明治13年(1880年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定され
た。現陵は、『河内国陵墓図』では木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつ
ては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあったという。
IMG_4484.JPGIMG_4486.JPG
※「日本武尊」
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族
(王族)。『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』で
は主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の
場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。
第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を
行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。
草薙剣
記紀日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオ尊
がヤマタノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、
天孫降臨に伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。
日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日
本武尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払
い、難を逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、
これは挿入された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。本文では一貫し
て草薙剣と表記され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)
とのみ記される。
墓山古墳へ向かう
墓山古墳
墓山古墳は古市古墳群のほぼ中央にある大形の前方後円墳です。三段に築かれた
墳丘は長さ225メートル、くびれ部両側に造出しを備え、深い濠と幅広い堤をめぐらせ
ます。墳丘部は「応神天皇陵陪塚」として宮内庁が管理されていますので、内部の詳
しい様子は不明です。だた、これまでに多量の滑石製勾玉や各種の形象埴輪の出土
が知られています。また、後円部には亀甲紋を陰刻した長持形石棺が納置されてい
た報告もあります。これらの情報から墓山古墳は5世紀の前半に築造されたと考えら
れます。墓山古墳の周囲には浄元寺山、向墓山、野中、西墓山という4基の陪塚が配
されていて、典型的な中期大型古墳の様相をみせています。
IMG_4491.JPGIMG_4490.JPGIMG_4492.JPG
向墓山古墳
墓山古墳の陪塚。
IMG_4495.JPGIMG_4496.JPG

羽曳野市文化財展示室
IMG_4497.JPGIMG_4498.JPG

誉田八幡宮へ向かう
IMG_4503.JPG
誉田八幡宮
大阪夏の陣の際、豊臣方の武将・薄田隼人が陣を布いた近くに鎮座して
います。豊臣秀頼による社殿の再建中に大阪の陣が勃発してしまった為、
社殿の天井板は未だに未完成のままとなっています。
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇に
よって、応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。この
ことから最古の八幡宮を称している。奈良時代には行基によって神宮寺の
長野山護国寺も創建された。永承6年(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に、
元の鎮座地から1町ほど南の現在地に遷座した。
八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじ
め、武家の信仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職
の誉田三河入道一族によって保護されたが、享徳3年(1454年)より始まっ
た河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃した。三好
氏により滅ぼされた応神天皇末裔の誉田氏の一部は、四国や九州に逃れ、
また、江戸期には、関西一円の香具師(やし)(露天商)の元締めとして君
臨したといわれている。
IMG_4505.JPGIMG_4508.JPGIMG_4515.JPG
薄田隼人正兼相の墓
薄田 兼相(すすきだ かねすけ、? - 慶長20年5月6日(1615年6月2日))は、
戦国時代から江戸時代初期の武将である。通称は隼人正。豊臣秀頼に仕え
た。仇討ちや狒々退治の伝説で知られる武芸者・岩見重太郎と同一視される。
冬の陣においては浪人衆を率いて博労ヶ淵砦を守備したが、博労淵の戦いで
は遊郭に通っている最中に砦を徳川方に陥落されるという失態を犯し、味方か
ら「橙武者(橙は酸味が強く正月飾りにしか使えないことから、見かけ倒しを意
味する。)」との嘲りを受けた[注釈。夏の陣の道明寺の戦いにおいては、霧の
発生により先陣の後藤基次の到着から8時間以上も到着が遅れ、直前に基次
を討死させてしまう。そこで陣頭指揮を取り、乱戦の中で自ら何人もの敵兵を倒
したが、討死を遂げたといわれている。剛勇の武将として知られ、兼相流柔術や
無手流剣術においては流祖とされている。
伝承
薄田兼相の前身が岩見重太郎であるという説は有名である。それによるならば、
小早川隆景の剣術指南役・岩見重左衛門の二男として誕生したが、父は同僚の
広瀬軍蔵によって殺害されたため、その敵討ちのために各地を旅したとされる。
その道中で化け物退治をはじめとする数々の武勇談を打ち立て、天正18年(15
90年)天橋立にてついに広瀬を討ち果たした。その後、叔父の薄田七左衛門の
養子となったとされる。
IMG_4517.JPGIMG_4518.JPG
此処までは、
11月29日の幸村・伊達正宗と激突した誉田・道明寺を巡る-1 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-12-03
続きは、応神天皇陵古墳~
応神天皇陵
誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)で墳丘長さ425メートル、濠を含めた全長650
メートルで 百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵の墳丘長486 メートル、全長 840 
メートルに次ぐ。体積は、143万立法メートルで仁徳天皇陵の140万立法メートル
を抜き日本最大。 
IMG_4519.JPGIMG_4521.JPGIMG_4522.JPG
大鳥塚古墳
大鳥塚古墳は、墳丘の長さが110メートルの前方後円墳です。古市古墳群の中で
は中形で、前方部は南を向いています。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になってい
て、足を踏み入れると夏でもひんやりとした感じを受けます。造られた当時、墳丘の
斜面には石が葺かれ、平坦面には円筒埴輪が並んでいました。人を葬った施設の
構造は分かっていません。
IMG_4523.JPGIMG_4524.JPGIMG_4525.JPGIMG_4526.JPGIMG_4529.JPG
古室山古墳(昼食休憩)
古室山古墳は、後円部頂上の標高が約39メートルを測り、国府台地でも高所に位置
しています。そして視界をさえぎる巨木が少ないため、頂上からの眺望はすばらしい
ものがあります。また、梅や桜の木が植えられており、季節になると美しい花を咲かせ
ます。これらはいずれも訪れる人々を楽しませています。古墳の墳丘の長さは150メー
トルで、古市古墳群の中では中形の前方後円墳に属します。古室山古墳が造られたの
は4世紀末から5世紀初頭のことです。これは、古市古墳群の形成が開始された時期に
あたり、同古墳群中で最も早く造られた古墳の一つに数えられます。
IMG_4530.JPGIMG_4531.JPGIMG_4532.JPGIMG_4536.JPGIMG_4537.JPGIMG_4538.JPG

  柿の木のひこばえ?しばし柿の木談義・・・
IMG_4539.JPGIMG_4540.JPGIMG_4541.JPGIMG_4542.JPGIMG_4543.JPGIMG_4544.JPGIMG_4548.JPG
仲姫命陵古墳
5世紀前半に築造された大型前方後円墳です。墳丘長は290mで古市古墳群で
は応神天皇陵古墳(羽曳野市)に次ぐ大きさを誇ります。後円部側には陪塚と考
られる鍋塚古墳があります。
IMG_4546.JPGIMG_4547.JPG
古室八幡神社
祭  神:仲津媛皇后 応神天皇
澤田八幡神社は、御陵の中程に、この神社は、古墳の前方に位置してる。
IMG_4549.JPGIMG_4550.JPGIMG_4551.JPGIMG_4552.JPG

     此処からも仲姫命皇后陵が見える
IMG_4553.JPGIMG_4554.JPG
澤田八幡神社
境内に電車が通っているという、全国的にも数少ない珍しい神社です。
祭  神:仲津媛皇后 応神天皇
国府八幡神社の由緒書きに、藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生
した八幡神社が五社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田
八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、
古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂八幡神社の四社です。とある・・・・
IMG_4558.JPGIMG_4555.JPGIMG_4556.JPGIMG_4560.JPGIMG_4561.JPGIMG_4562.JPGIMG_4563.JPG
※国府(こう)八幡神社・・・藤井寺市
祭神:八幡大神(応神天皇)、春日大神・住吉大神
由緒:正式には「國府八幡神社」と書きます。
伝承によれば、近世の初期に壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請して始まった
とされています。藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社が五
社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八幡宮(羽曳野市)の分霊
を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、
津堂八幡神社の四社です。国府八幡神社の祭神は、他の八幡神社と同じ八幡大
神(応神天皇)が主神で、春日大神・住吉大神があります。
此の続きは、
11月29日の幸村・伊達正宗と激突した誉田・道明寺を巡る-3 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿します。
             http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/
続きは、
知人の家の前を通り、道明寺へ向かう~
道明寺
道明寺(どうみょうじ)は、真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。
道明寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。
当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。901年(延喜元年)、大宰
府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂け
れ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故
事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれて
いる。道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」
に由来する。
IMG_4565.JPGIMG_4566.JPGIMG_4569.JPG
道明寺天満宮
祭神は菅原道真公、天穂日命と、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。
隣接して道明寺という真言宗の尼寺がある。この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当
たる野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社が
あった。仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太
子の発願により土師八島がその邸を寄進して寺としたという。平安時代、土師寺に
は菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、
この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。延喜元年(901年)、大宰府に左遷される途
中にも立ち寄って、覚寿尼公との別れを惜しんだ。道真公遺愛の品と伝える硯、鏡等
が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。
IMG_4571.JPGIMG_4574.JPGIMG_4575.JPG

    干支のお猿さんも最後の仕事、来年は鶏年・・・
IMG_4577.JPGIMG_4578.JPG

   修羅
IMG_4581.JPGIMG_4580.JPG

  此の大楠は300年~400年ものらしい
IMG_4584.JPG

道明寺合戦記念碑へ向かう
IMG_4589.JPGIMG_4592.JPG
道明寺合戦記念碑
道明寺駅前に2014年11月、大坂夏の陣 道明寺合戦の史実を後世に伝えるために
建立された記念碑です。道明寺合戦は、真田幸村軍と伊達政宗軍が激突し、戦国の
歴史が大きく動いた戦いとして有名で、片倉小十郎、後藤又兵衛、薄田隼人など名だ
たる武将が戦いました。地元では、合戦の歴史を後世に伝えるため、「道明寺合戦ま
つり」などを毎年開催しています。
IMG_4590.JPG

道明寺駅
IMG_4591.JPG
  道明寺駅ホーム
道明寺駅 → 阿部野橋駅
おまけ
湯処 あべの温泉で暖まって、昼飲み会&カラオケへ
IMG_4595.JPG
湯処 あべの温泉・・・気分はスーパー銭湯、料金は庶民派銭湯 
天然温泉 
大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号  大阪市港区2丁目3番33号
深さ  1,500m  泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉
泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身
    ・くじき・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復
    ・健康増進・切り傷・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
7人で昼飲み会&4人でカラオケへ
楽しいひと時を・・・
IMG_4597.JPGIMG_4596.JPG

11月26日の鮮やかな紅葉、竜田川を歩いてみませんか-2

12月2日     11月26日の鮮やかな紅葉、竜田川を歩いてみませんか-2
                 近鉄駅フリーハイキング  歩程約6㎞
知人と2人で参加、朝はさむかった、寒い!寒い!と手袋を持って出かけた。                  コース 近鉄駅フリーハイキング  生駒線王寺駅受付ハ 9時半~11時 
王寺駅(受付)~神岳神社(かみおか神社)~三室山~竜田公園・竜田城跡~
吉田寺(ぽっくり寺)拝観~龍田神社~竜田公園・もみじ祭り~王寺駅
10時スタートで此の日の私の万歩計は、23136歩で約15.5km歩いた事に・・・
紅葉状況は龍田城跡紅葉真っ盛りだったが三室山と竜田公園は未だ未だ
此れから?色付くと(いう感じで、12月3日~4日が見頃かな?
志都美駅へ向かう
PB266357.JPG

   葛下川
PB266359.JPG
  
   高速道路高架
PB266361.JPG
志都美駅
葛城山~二上山、ホーム横のセイタカアワダチソウ、電車
PB266363.JPGPB266369.JPG
神岳神社(かみおか神社)
当神社は法隆寺の西側にあたる三室山の中腹に位置し古代は社殿などの建造
物はなく 自然の森や山を神地としての信仰であったといわれている。聖徳太子は
飛鳥より産土神(神名不詳)をこの地に安置し、 太子の勅願所として祭祀されて
いたがいつしか祭神は須佐乃男命を奉祀している。須佐乃男命は別名を「牛頭
天王」と呼び、内陣鳥居前には「牛頭天王」と刻んだ四基の 石灯籠がその歴史を
今日に伝承させている。旧村社、神岳神社は延喜式神名帳巻九(延長5年)に平
群郡神岳神社と、また大和国平群郡神社 明細帳(明治12年7月調)にも社格を
明記されている。この社殿を構えるにあたり、拝殿より一段高い所に小規模の社
殿は一間春日造(春日大社と同じ) の桧皮葺(老朽化により昭和61年銅板葺に
改修)で身舎は円柱で前後に二分し、四面に 花鳥の透彫蟇股を組み随所に極彩
色を施してる。組物は出三斗組で二軒繁棟木をうけている。 向背部は一間とし中
備に蟇股を入れ身舎間は繁虹梁を用いず、手挟みで納めているのは 小規模な社
殿としては類例が少ない。向背垂木にほか浜床部分の壁板等一部の補修はして
あるが殆ど構造物の部材を残し木鼻、虹梁、 蟇股の絵様及び構造形式よりみて
江戸時代初期を下らない構造物であるとの学者説である。なお、古文書によれば
境内地には神佛が習合する神宮寺の神南寺観音堂(通称上ノ堂ともいい 今も残っ
ている小字上ノ堂の意味)があったが、神佛分離によって本尊地蔵菩薩、聖観音
菩薩の佛像は神南融念寺(恵宝殿)に安置されている。堂跡地とみられるあたり
から「神南寺」 と刻印した屋根瓦片の出土があり保存している。
PB266374.JPGPB266376.JPGPB266378.JPG
三室山
平安時代の歌人・在原業平や能因法師の歌など、多くの和歌に詠まれている
ことでも知られる。三室山は、古来から神の鎮座する山とされており、別名を
神南備山とも、三諸山とも言い、地名である神南の由来となっている。聖徳太
子が斑鳩宮を造営するにあたり、飛鳥の産土神をこの地に勧請されたのが由
来となっており、その神々は現在神岳神社に祀られている。
頂上には高さ1.9mの五輪塔があり、能因法師の供養塔と伝えられている。もと
は神南の集落にあったとされるが、三室山が公園として整備された際に山頂に
移された。山の大半を含む周辺はすぐ近くを流れる竜田川の沿岸と共に「県立
竜田公園」となっており、ソメイヨシノやモミジの名所となっている。
PB266382.JPGPB266386.JPGPB266388.JPGPB266390.JPG
竜田公園・竜田城跡
竜田公園
平安時代に在原業平が詠んだ「千早ふる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水
くゝるとは」という一首をはじめ、百人一首の能因法師ら数多くの歌人に詠まれた
古よりの紅葉の名所竜田川畔[1][2]は竜田大橋を中心とする長さ1.4キロメートル、
面積14ヘクタールを整備した都市公園である。遊歩道の総延長約2kmで、平成
12年4月に駐車場と管理棟が設置された。晩秋の紅葉のほか、現在は春は桜の
名所としても広く知られる。
龍田城
三室山の対岸、北東方向に木立覆われた白山神社がある。この神社の裏に「コ
字型」のため池がある。この池こそ龍田城外堀だ。 堀の内側は、完全に住宅地
となり遺構一つ残ってない。 唯一、この堀が城の遺構といえる。
龍田城は、室町時代に一乗院方衆徒龍田氏に築かれ、天正年間までこの居城し
た。 慶長6年、片桐且元が摂津茨木より28,000石で入封して、龍田城跡に新
たに近世城郭の基本を取り入れた陣屋を築いた。
その後、元和元年には加増され4万石を領した。 しかし、元禄7年に片桐氏は断
絶、陣屋も廃された。 尚、且元の弟片桐貞隆は、龍田の隣り大和小泉16,000
石を領して明治まで続いた。
PB266394.JPGPB266384.JPGPB266398.JPGPB266402.JPGPB266404.JPGPB266408.JPGPB266412.JPG
※片桐且元
片桐 且元(かたぎり かつもと)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大
名。賤ヶ岳の七本槍のひとり。
豊臣家の直参家臣で、豊臣姓を許される。関ヶ原の戦い以降も、傅役として豊臣秀
頼に仕えていたが、徳川家康に協力的な立場で、方広寺鐘銘事件で大坂城を退出
して徳川方に転じた。且元系片桐家初代で、大和国竜田藩初代藩主となる。弟に同
国小泉藩主となった片桐貞隆がいる。

吉田寺(ぽっくりてら)へ向かう
PB266414.JPGPB266416.JPGPB266418.JPGPB266421.JPGPB266425.JPGPB266425.JPGPB266427.JPG
此処までは、
11月26日の鮮やかな紅葉、竜田川を歩いてみませんか-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2016-12-02
此処では、この続きの吉田寺~を
・・・鮮やかな紅葉、竜田川を歩いてみませんか-2 として、詳細を掲載します。
吉田寺(ぽっくり寺)拝観
吉田寺(きちでんじ)は、奈良県生駒郡斑鳩町にある浄土宗の寺院である。俗に
「ぽっくり寺」の名で親しまれ、年配の参拝者が多い。本尊の阿弥陀如来像と、境
内にある承応元年(1652年)建立の多宝塔が重要文化財に指定されている。
寺伝によれば天智天皇の勅願により創建されたとされ、近くには妹・間人皇女
(はしひとのひめみこ)を葬る古墳がある。平安時代の永延元年(987年)に天台
僧・源信(恵心僧都)が開山したとも伝えられる。
PB266432.JPGPB266434.JPGPB266436.JPGPB266438.JPGPB266440.JPGPB266442.JPGPB266444.JPGPB266447.JPGPB266449.JPG
  
  境内に神社も・・・
PB266451.JPG
龍田神社
崇神天皇の時代に創立され、法隆寺の鎮守とされていた。伝承によれば、聖徳
太子が法隆寺の建設地を探し求めていたときに、白髪の老人に化身した龍田大
明神に逢い、「斑鳩の里こそが仏法興隆の地である。私はその守護神となろう」
と言われたので、その地に法隆寺を建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る神
社を創建したという。元々の社名は「龍田比古龍田比女神社」で、その名の通り
龍田比古神・龍田比女神の二神(龍田大明神)を祀っていた。延喜式神名帳に
もこの名前で記載され、小社に列している。しかし、後に龍田大社より天御柱命・
國御柱命の二神を勧請したため、元々の祭神は忘れられてしまった。現在は天
御柱命・國御柱命を主祭神とし、龍田比古神・龍田比女神を配祀している。
PB266453.JPGPB266457.JPGPB266458.JPGPB266460.JPGPB266463.JPG

    境内の大蘇鉄
PB266465.JPG

竜田公園(竜田川)へ向かう
PB266467.JPGPB266468.JPGPB266470.JPG
竜田公園
平安時代に在原業平が詠んだ「千早ふる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水
くゝるとは」という一首をはじめ、百人一首の能因法師ら数多くの歌人に詠まれた
古よりの紅葉の名所竜田川畔[1][2]は竜田大橋を中心とする長さ1.4キロメートル、
面積14ヘクタールを整備した都市公園である。遊歩道の総延長約2kmで、平成
12年4月に駐車場と管理棟が設置された。晩秋の紅葉のほか、現在は春は桜の
名所としても広く知られる。
PB266472.JPGPB266474.JPGPB266476.JPGPB266478.JPGPB266480.JPGPB266482.JPGPB266484.JPGPB266486.JPGPB266488.JPGPB266490.JPGPB266492.JPGPB266494.JPGPB266496.JPG

  もみじ祭りの賑やかな市が・・・
PB266498.JPGPB266500.JPG
王寺駅~バスで自宅最寄りのバス停
おまけ
高速道路の裏道&自宅の花
PB266502.JPGPB266505.JPGPB266508.JPGPB266506.JPGPB266509.JPG