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1月28日の竹取公園&馬見丘陵公園-2

1月31日       1月28日の竹取公園&馬見丘陵公園-2
                    早朝散歩
此の日は、三吉石塚古墳を先に撮りに行き、戻って竹取公園駐車場に車を置き、
シルバー朝市で大きな大根1本100円、かぶら3ヶで100円を購入して車に積んで、
公園散策、今日は三吉2号墳(帆立貝式古墳)、狐塚古墳(帆立貝式古墳)、倉塚
古墳(前方後円墳)、一本松古墳(前方後円墳)、別所下古墳(円墳又は帆立貝)、
ナガレ山古墳(前方後円墳)の頂上に立つ事を目標に、既に竹取公園の近くの三
吉石塚古墳(復元された帆立貝式古墳)の墳丘頂上にも行って来たので・・・
竹取り公園
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馬見丘陵公園
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三吉2号墳(帆立貝式古墳)車椅子でも登れる様にスロープも有る。
ずーつと前方後円墳だと思って上り下りしていた?
巣山古墳の西に築かれた北向きの帆立貝式古墳で、全長93mを測る。発掘調査
時に後円部の南東で円筒埴輪を埋葬施設とする三吉3号墳が発見されている。
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未だ整備中の巣山(すやま)古墳(前方後円墳・国指定特別史跡
馬見丘陵の中央部に位置する北向きの大型前方後円墳で、墳丘全長約220m、
後円部直径約130m、高さ約19m、前方部幅約112m、高さ約16.5mの規模があり、
左右のくびれ部に造り出しを設ける。前方部の西側には出島状遺構を確認し、水鳥・
蓋(きぬがさ)・盾(たて)・家・囲(かこい)・柵(さく)形埴輪が出土している。埋葬施設
は後円部中央に竪穴式石室が2基確認され、前方部にも小石室が造られている。
出土遺物は、勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、棗玉(なつめだま)等の玉類と鍬形
石(くわがたいし)、車輪石(しゃりんせき)、石釧(いしくしろ)等の石製品、滑石製の
刀子(とうす)、斧が知られている。
馬見古墳群中最大の規模を誇り、古墳時代中期初頭の王墓と考えられる。
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蝋梅&山茶花&タンポポ
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佐味田狐塚古墳
巣山古墳外提の北西に接して築かれた帆立貝式古墳である。墳丘全長78m、後円
部径54~56m、同高7m、前方部長20m、同幅31m、同高5mで周囲に浅い空濠が
めぐる。町道建設により後円部中央を分断されているが、発掘調査で木棺を粘土で
保護した粘土かくが確認され、鏡や鉄刀の破片等が出土している。築造時期は古墳
時代前期後葉と考えられる。
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   道路を超える
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   梅林の前に出る
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梅林を越えて竹藪の横を抜けると倉塚古墳
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倉塚古墳・・・後円部の墳丘が一番高い?墳丘頂上部分が凸凹
現状で墳丘全長約180m、後円部直径106m、前方部幅70mを測る前方後円墳です。
詳細は不明ですが、周辺で出土している埴輪円筒棺から5世紀前半の築造と推測さ
れています。
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 墳丘から上池と下池が見える
 手前が上池、向うが下池
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  墳丘を下ると一本松古墳へ
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此処までは、
1月28日の竹取公園&馬見丘陵公園-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-01-31
此処では、此の続きを
1月28日の竹取公園&馬見丘陵公園-2 として詳細を掲載します。
一本松古墳
全体に開墾が著しいため詳細は不明ですが、墳丘全長150m、後円部直径90m、前方
部幅60m程度の前方後円墳とされ、築造時期は4 世紀後半と見られています。
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 下池、下池の向こうは乙女山古墳とカタビ古墳群
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   かたび7古墳群
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  下池の烏が休憩中・・・・
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  乙女山古墳の向こうに広陵町の水タンクが見える
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一本松古墳をおりて前方部から眺めると
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※乙女山古墳・・・下池の向こうに見える
典型的な帆立貝形古墳として著名な古墳。墳丘全長は130mで、後円部直径104m
に対し、前方部長30m、幅52mで前方部が極端に短く低平になっています。後円部
には別に造り出しがあり、家形埴輪などが出土しています。また、墳丘の周囲には
周濠と外堤が巡っています。
※カタビ古墳群・・・下池の直ぐ横
馬見丘陵公園造成に先立つ発掘調査で4基の古墳が確認されました。1号墳(方墳)と
3号墳(円墳)は大型古墳が盛んに築造された5世紀代に造られたもので、2号墳(円墳)
と4号墳はほとんど古墳が築かれなくなった7世紀代の古墳です。

別所下古墳・・・下池と上池の横
直径60mの円墳、または全長60mの帆立貝形古墳と考えられています。4世紀後半
の築造、河合町内では佐味田宝塚古墳、ナガレ山北3号墳と並ぶ最古の古墳です。
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此の裏が
佐味田石塚1・2号墳
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※佐味田石塚1・2号墳・・・睡蓮池の直ぐ横
昭和59 年、馬見丘陵公園中央エリア入口付近の県道工事の際に発見され、同エリア
内に移築保存されている古墳です。両古墳ともに竪穴の小石室で、1号墳の床面には
飛鳥時代の瓦が敷き詰められていました。1号墳は7世紀前半、2号墳は6世紀末に築
造されたものす。
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結びの広場
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ナガレ山古墳
約1600 年前、5 世紀初期の築造とされる全長105mの前方後円墳。古墳頂上から
当時の姿と現在の姿を同時に見比べられる全国でも珍しい古墳で、東側半分の葺
石と埴輪列が復元されています。
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蝋梅
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ユリノキ
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竹取公園との連絡橋のユリノキ
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竹取公園へ戻って
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1月28日の三吉石塚古墳(抜粋編)

1月30日      1月28日の三吉石塚古墳(抜粋編)
広陵町にある三吉石塚古墳を撮りに行って来た、復元された三吉石塚古墳は、
帆立貝式の小さな古墳で、2段になった円墳には円筒埴輪が整列して配置され
ており、綺麗な古墳だ、たまにだが無性に撮りに行きたくなる古墳でもある・・・
此れは、竹取公園内の広陵町の観光地図・・・一部分
竹取公園の横を通り直ぐ近くにあり、この後竹取公園駐車場へ戻る
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・1月28日の三吉石塚古墳の(詳細編)については
         下記のセカンドブログへ投稿しました。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-01-30-1
三吉石塚(みつよしいしづか)古墳 (奈良県指定史跡
新木山古墳の西に築かれた東向きの帆立貝形古墳で、墳丘全長45メートル、直径
41.4メートル、高さ6.5メートルの後円部に幅22メートル、長さ7メートルの短い前方部
が付く。周囲に馬蹄(ばてい)形の周濠が掘られ、さらに外堤があり、堤を含めた全長
は62メートルとなる。墳丘は二段築成で、二段目には円筒埴輪の他に蓋(きぬがさ)、
短甲(たんこう)、家形埴輪が立てられていた。墳丘と周濠には葺石(ふきいし)が施さ
れ、葺石の作業単位がよく残る。前方部の南東隅には張出部が設けられ、周濠幅が
狭くなっている。埋葬施設は未調査で、埴輪から古墳時代中期後葉の築造と考えられ
る。古墳の遺構を盛土で保存した上に、かさあげ方式で築造当初の姿に復元整備して
る。円筒、朝顔形埴輪は、出土遺物に基づいて製作した複製品を設置し、葺石も築造
当時の積み方で葺いている。
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墳丘の西側に左手から右手へ
葛城山~二上山、北西の方角には信貴山~生駒山も見える
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車を停める場所
直ぐ北側にお墓の駐車場が有る
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東側には新木山古墳が有る
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※新木山(にきやま)古墳 (陵墓参考地)
丘陵中央群のうちでも南に位置し、前方部を東に向ける墳丘全長200mの前方後円
墳である。後円部径117m、同高19m、前方部幅118m、同高17mを測る。くびれ部
には造り出しが付き、周濠、外堤が伴う。周濠は後円部で幅20m、外堤部で幅25m、
外堤部は幅20~22mで高さ3m以上あったと考えられる。
古墳の築造時期は円筒埴輪から古墳時代中期前葉と考えられる。埋葬施設の副葬
品と考えられる勾玉(まがたま)、管玉(くだたま)、棗玉(なつめだま)が宮内庁に保管
されている。巣山古墳とともに馬見古墳群で中核をなす大型前方後円墳である。

1月25日の竹取公園&馬見丘陵公園-2

1月28日       1月25日の竹取公園&馬見丘陵公園-2
           24日の歩こう会会員例会で蝋梅を見たので・・・
24日の歩こう会会員例会で堺市の陶器大宮・陶荒田神社へ初詣・お祓いに
行った時に蝋梅の匂い&花を見たので馬見丘陵公園の蝋梅の木達が気に
なって、家内を職場に送って行ったその足で竹取公園駐車場へ走りました・・
気になってた2ヶ所の蝋梅の木達?は香しい香りと共に見事に咲いていた。
巣山古墳前丘周囲の河津桜は未だ咲いてないが芽が膨らんで来てる様だ。
又、南エリアの梅林は数本の木に花が咲いていて、見に来て良かった!!
巣山古墳前丘周囲の河津桜と南エリアの梅林はチョクチョク見に来ないと・・・
竹取公園駐車場
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ダダオシ池
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蝋梅の木達
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整備途中の巣山古墳
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巣山古墳の前丘
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墳観橋から
倉塚古墳
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墳観橋から
葛城山は雪化粧
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南エリアの梅林
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一本松古墳
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倉塚古墳
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上池
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此処までは、
1月25日の竹取公園&馬見丘陵公園-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-01-28-1
続きは、下池~
下池
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公園館
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結びの広場から
ナガレ山古墳
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結びの広場から
上池
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未来の広場への
ウッドデッキ入口からUターンして
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ナガレ山古墳
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蝋梅の木達&ユリノキ
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ユリノキには実が(昨年花が咲いた?から)
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竹取公園との連絡橋
ユリノキの実がチューリップの花弁?に見える
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連絡橋から
葛城山の雪化粧が良く見える、二上山には雪は無い
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竹取公園へ戻って来た
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1月24日の歩こう会会員例会 陶荒田神社(抜粋編)

1月25日       1月24日の歩こう会会員例会 陶荒田神社(抜粋編)
                 陶器大宮 陶荒田神社へ初詣・お祓い
コース:泉ヶ丘駅(受付)集合 10:00  雨天決行  歩程約6㎞
南海・泉北高速鉄道 泉が丘駅(受付)~陶荒田神社(参拝・お祓い・昼食・歓談 )
集合写真(解散)~南海 北野田駅。雪予報の為か参加者が少なく71人でした・・・
泉ヶ丘駅(受付)~北野田駅迄、雪や雨には降られずに無事に終える事が出来た。
此の日の私の万歩計は15942歩で約10.7kmの表示になっていた・・・
志都美駅へ向かう
雪が降り出した・・・
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瞬く間に道路が雪で白く変わる・・・
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西名阪の高架、雪が降ってる
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志都美駅、未だ雪が降ってる
葛城山も二上山も全く見えない
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新今宮駅で南海・泉北高速鉄道へ乗り換えて
泉ヶ丘駅下車
此処は雪は降っていない
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陶荒田神社へ向かう
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もうすぐ陶荒田神社
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陶器大宮・陶荒田神社
陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)は、大阪府堺市中区に所在する神社で、和泉国
大鳥郡の式内社。須恵器(日本の陶器の祖)の発祥地に鎮座しており、別名、陶器
大宮と呼ばれている。陶器のえびす様として有名。
崇神8年(紀元前90年)、崇神天皇により、陶邑の大田の森(現在地)に住む太田
田根子が神主として選ばれた。彼の祖霊を祀る目的で創建された神社が、当神社
である。創建年は崇神8年前後であろうとされている。当時大規模な疫病がはやり、
国土が荒廃した。ある夜、大物主の神が崇神天皇の夢枕に立ち、太田田根子を神
主に立てて自分を祀るなら、病を治めようと告げた。天皇は、茅渟県陶邑(ちぬのあ
がたすえむら)に太田田根子を探しあて、奈良の三輪山の神主として選び、大物主
神を祀らせた。
名前の由来は、同じ陶邑の大田の森に住む「荒田直」(あれたのあたひ)にあやかっ
てつけられた。荒田直は祭神である高魂命の直系の子孫だったとされている。
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※太田多根子の命
女性の神だと思ってたが男性の神だった・・・
大田田根子(おほたたねこ)、別名 意富多多泥古(おほたたねこ)、
大田々禰古命(おほたたねこのみこと)、大直禰古命:おほたたねこのみこと)
崇神天皇の御代、大物主神の祟りで疫病が流行した時、天皇の夢に大田田根子を
神主にしたら鎮まるという託宣があった。そこで、河内の美努の村(『日本書紀』では
茅渟県陶邑)から大田田根子を呼んで大物主神を祭らせた。
『日本書紀』では、大田田根子は大物主神と陶都耳命の娘・活玉依毘売のあいだに
生まれた子。『古事記』では、大物主神と活玉依毘売と結婚して、櫛御方命をもうけ
られた。この櫛御方命の子が飯肩巣見命。その子が建甕槌命(鹿島神宮祭神の建
甕槌命とは別神)。その子が意富多多泥古(おほたたねこ)。
活玉依毘売のもとに夜な夜な通ってきた男の正体は苧環の糸を辿ってつきとめられ、
それは三輪山の神であった。 大田田根子は三輪君の祖となり、その子孫は代々大
物主神の祭りに仕えた。神主の祖と云われる。
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北野田駅へ向かう、蝋梅が咲いていた
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北野田駅~新今宮駅~天王寺駅~王寺駅

1月22日の酒蔵みてある記・喜多酒造-2

1月25日        1月22日の酒蔵みてある記・喜多酒造-2
               喜多酒造「御代菊」甘酒・試飲・抽選会
今回は知人と3人で参加、畝火山口神社から神武天皇陵への途中で冷たい雨が
降り出し、神武天皇陵近くで直ぐ雨はやみ、次の橿原考古学研究所付属博物館を
見学して喜多酒造の方へ向かうと既に長蛇の列、博物館駐車場脇の小さな公園
で3人で昼食を済ませて時間調整、列が短くなったところで並びに、それでも多少
の待ち時間、寒い、寒い、又酒蔵でも冷たい雨が降り出して抽選会にも3人共外れ
寒さも倍増・・・最近の「酒蔵みてある記」の人気は凄くて人が多すぎる??
聞くと参加者は1800人だとの事、甘酒は飲めたが試飲の樽酒は殆どの樽が空で
漸く試飲コップ1杯にありつけた感じ、大勢の人の中、知人が一番外側で販売の酒
粕を購入、もう人混みの中へ入る気力は無い、雨も本降りになる様相をていして来
たので畝傍御陵前駅へ退散、橿原神宮前駅経由で阿部野橋行に乗る知人と別れ
て2人で京都行で帰る事にした、電車を待ってる間に雨が止み日が射して来たので
知人と2人で次の八木西口駅で降りて今井町の河合酒造へ行き、試飲&試食をし、
知人は此の酒蔵の銘酒「出世男」を購入、更に醤油工場を訪ねて濃口醤油を購入、
其れじゃと、奈良漬を買う酒屋迄行ったが店閉まってて奈良漬は買えなかった・・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング  橿原神宮前駅(受付)10時~11時半
橿原神宮前駅(受付)~久米寺~橿原神宮~畝火山口神社~神武天皇陵~橿原
考研附属博物館~喜多酒造 ・甘酒・試飲・抽選会~畝傍御陵前駅  歩程約7㎞
此処から2人で今井町の河合酒造へ喜多酒造で買いそびれたお酒を買いに?試飲
&試食、出世男と新酒にごり酒と辛口のうねびを試飲「出世男」を購入、以前今井町
の醤油工房で購入した醤油が良かったらしく、近くの醤油工房を訪ねて・・・
此の日の私の漫歩計は17468歩で約11.6km歩いた事に、後半はとても寒かった・・・
志都美駅へ向かう
水仙が咲きだした
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志都美駅
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香芝駅で降りて近鉄下田駅へ
鹿島神社
当社の創建は第80代高倉天皇の承安2年(1172年)3月に、源義朝の家臣で
あった鎌田政清の子・鎌田小次(二)郎政光が常陸国(現、茨城県)鹿島神宮の
御分霊を勧請したのが始まりとされます。当社に伝わる古文書(鹿嶋文書※)に
よると、平治元(1159)年、平治の乱にあって源義朝が平清盛に敗れ、東国へ
敗走中に義朝の第一の家臣であった鎌田兵衛藤原政清の舅 尾張国(現、愛知
県)半田郡野間の長田庄司忠致に匿われました。 しかし、忠致は恩賞目当てに
義朝を浴場で暗殺、政清も忠致の子景致に殺害され、随行家来の大半は討死
致しました。鎌田政清の子・政光はかろうじて難を逃れ、常陸国 鹿嶋神宮に辿り
着いたとされています。 そこで、源氏の再興を祈願し、百日の参籠を行い、昼夜
一心に法華経を誦唱しました。 満願の夜、夢に一老翁が現れ「庚子(の年)源氏
栄え、汝の福 西にあり」との御神託があり、御分霊の御幣を奉じ西方へと向いま
した。大和の下田の里で夕暮れとなり、土手(田のほとりとするものもある)の松
の木の下で野宿し、翌朝この地の景色が極めて鹿嶋に似ていた為、懐かしく思い
ここに小祠を建て鹿嶋大明神を祀ったといわれます。
また、平安時代中期に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある『葛下郡 深溝神
社』は現存せず、各分野の識者・学者の調査や歴史的な考察により当社がそれに
当てはまるのではないか、との説もあります。 いずれにしても、往古からこの地の
守り神≪鎮守の杜≫として広く皆様から親しまれ、大切にされています。
鹿島神社の鎮座する字「鹿島」との間に字「鹿島前」があることから、「カシママエ」
が音節の転倒によって「カマシマエ」となり、それが「カマシバ」、さらに「コウノシバ」
に転訛したと考えられている。つまり、間接的に鹿島神社が香芝市の名の由来と
なったということになる。
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橿原神宮前駅で受付
幸せの黄色いポスト
奈良県橿原市は、宮崎市との姉妹都市盟約締結50周年を記念し、近鉄橿原神宮前
駅中央口前に、幸せを願う黄色いポストを設置した。「思いを届けたい時にご利用を」
と呼びかけている。宮崎市青島は神武天皇ゆかりの地であり、橿原市は神武天皇が
橿原宮を開いた場所とされる。こうした両市は昭和41年2月に姉妹都市の盟約を締
結した。これを機に橿原市は、縁結びの神様として知られる青島神社(宮崎市青島)
近くの青島海岸に設置され、人気を集めている「幸せの黄色いポスト」に着目した。
橿原郵便局の協力を得て2016年10月、黄色いポストを設置した。
※天孫降臨の地とされる宮崎県高千穂町にも黄色いポストがあるが、奈良県内では
初めての登場となった。ポスト横の説明板には「あなたの大切な人にその思いを届け
たい時、ぜひ、このポストをご利用いただければ幸いです」との市長のメッセージが・・・
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久米寺
久米寺は、畝傍山(うねびやま)の南に位置する仁和寺(にんなじ)別院の真言宗のお
寺で、橿原神宮(かしはらじんぐう)の一の鳥居を南に入ってすぐのところにあります。
一般に「久米(くめ)の仙人」の伝説にちなんだ寺として知られていますが、もともとこ
こは久米部(くめべ)の武人の住んだ地といわれ、推古(すいこ)天皇2年の時に聖徳
太子の弟だった来目皇子(くめのおうじ)の創建と伝えらる古寺です。来目皇子が幼
少の頃眼病を患い両目を失明しましたが、聖徳太子のお告げにより薬師如来に祈願
したところ平癒したと言われています。これにより皇子は、自らを来目皇子と称したと
いうことです。創建のきっかけは、推古天皇の眼病全快のお礼だったと言われ、本尊
の薬師如来は、眼病に効くと言われました。
境内には京都の仁和寺から移建された禅宗の影響が見られる多宝塔(重要文化財)
や本尊の薬師如来坐像、久米仙人像などがあります。弘法大師空海ゆかりのお寺で
もあります。
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※久米仙人伝説(くめせんにんでんせつ)
久米仙人は、欽明(きんめい)天皇の御代、金剛山麓葛城の里に生まれたとされてい
ます。吉野山麓龍門ヶ獄(りゅうもんがたけ)で神通飛行術を取得し、空中を自由に飛
べるようになりました。その後、百数十年もの間、久米寺に住んでいたといわれていま
す。聖武(しょうむ)天皇が東大寺に大仏殿を建立する際、勅命を受けた久米仙人は
神変不思議の仙術を使い、国々にある大木大石の数々を三日三夜の内に大仏殿境
内まで飛ばして集めて見せました。その甲斐あって大仏殿の建立は速やかに成就し
たと伝えられています。久米仙人の働きに深く感銘した聖武天皇は、免田30町歩を与
えたということです。この伝説は、「今昔物語」にも見られます。
久米仙人のユーモラスな伝説では、神通力を得て空中を飛びまわっていた仙人は、あ
る日、川で美しい女性が洗濯しているところに遭遇し、その女性のふくらはぎに目がく
らみ神通力を失い墜落したという話も残っています。

橿原神宮へ向かう
橿原神宮
橿原神宮は、畝傍山の東南の橿原市久米町に位置している。東征によって大和を平定
した神日本磐余彦尊かむやまといわれひこのみことは、この橿原の地に宮を建てて、初
代神武天皇として即位したと伝えられている。その宮址に新しく神社を建てて神武天皇
とその皇后の姫蹈鞴五十鈴姫命ひめたたらいすずひめのみことを祭神として祀ったの
は、わずか120年ほど前の明治23年(1890)である。
日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、日本建国の地と記された橿原。
天照大神あまてらすおおかみの血を引く神倭伊波禮毘古命かむやまといわれびこのみ
こと(後の神武天皇)が、豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮から東に向
かい、想像を絶する苦難を乗り越え、畝傍山うねびやまの東南の麓に橿原宮を創建さ
れました。第一代天皇として即位されたのが紀元元年、今からおよそ2,600余年前のこ
とです。日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、日本の原点です。
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畝傍山登山道を畝火山口神社へ向かう
畝傍山
畝傍山は、天香久山、耳成山とともに大和三山と呼ばれ、2005年(平成17年)
7月14日には他の2山とともに国の名勝に指定された。標高は198.8メートルと
三山の中では最も高い。山頂への登山口は、東麓の橿原神宮側と、西麓の畝
火山口神社側がある。現在、山頂からは天香久山や耳成山のほか、遠く若草
山なども眺望することができ、その山頂には、もとあった畝火山口神社社殿跡
が残る。

畝火山口神社
畝火山口神社(うねびやまぐちじんじゃ)は、大谷町の東に位置し、畝傍山(うねびやま)
を背負った西斜面に鎮座しています。創始の由緒は不明ですが、もともと畝傍山の西麓
にあり、一度、畝傍山の山頂に移されたものの、昭和15年の橿原神宮の大拡張工事の
際、橿原神宮や神武天皇陵を見下ろす位置にあることから、現在の位置へ移りました。
現在は、安産の守り神として信仰を集めています。また交通安全祈願者も多く訪れてい
ます。創始の由緒は不詳である。文献の初見は、『新抄格勅符抄』大同元年(806年)の
神封一戸を寄せるという記述である。『日本三代実録』によれば、貞観元年(859年)正月
27日条には正五位下の神階を授けられ、同年9月8日には祈雨のための奉幣使が遣わ
されている。延喜式神名帳では「大和国高市郡 畝火山口坐神社」と記載され、大社に列
格、月次・新嘗の奉幣に預ると記されている。祭神は、気長足姫命(神功皇后)・豊受比
売命・表筒男命を祀り、神功皇后が応神天皇を出産した伝承により、安産の神として信
仰されている。
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   本殿の右横にひっそりと佇む
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此処までは、
1月22日の酒蔵みてある記・喜多酒造-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-01-25 
続きは、神武天皇陵~
神武天皇陵
畝傍山(うねびやま)の北東の麓、橿原神宮に北接する神武天皇陵は、正式には「畝傍
山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)」といいます。日本書紀、古事記によ
ると、初代天皇とされる神武天皇(在位:前660年~前585年)は日向(宮崎)地方から、
瀬戸内海を東に進んで難波(大阪)に上陸しましたが、生駒の豪族に阻まれたため、南
下して熊野に回りました。そこで出会った3本足の「八咫烏」(やたがらす)というカラスに
導かれて、吉野の険しい山を越えて大和に入り、周辺の勢力も従えて、大和地方を平定
しました。そして、紀元前660年の1月1日(新暦2月11日)に橿原宮で即位し、初代の天
皇になりました。
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橿原考古学研究所付属博物館
橿原考古学研究所
古代日本の中心地であった奈良県には、都城跡や古墳をはじめさまざまな遺跡(埋蔵
文化財)が数多く存在しています。これらは先人が残した貴重な文化遺産であり、歴史
や文化を研究するための重要な資料です。奈良県立橿原考古学研究所は、奈良県教
育委員会に属する機関であり、奈良県内の埋蔵文化財の調査研究を行い、その成果を
広く公開するとともに、国民共有の財産である埋蔵文化財を保護し後世に伝えるために
さまざまな活動を行っています。
附属博物館
橿原遺跡と呼ばれる橿原公苑周辺から出土した、縄文時代から歴史時代の各種遺物
をはじめ、大和各地の縄文、弥生、古墳、歴史各時代の出土品、古瓦などをずらりと展
示している。特に宮山古墳の大型の象形埴輪は見もの。
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喜多酒造株式会社・・・HPより引用
喜多酒造は享保三年(1718年)、大和三山に囲まれた奈良橿原の地に創業いたしまし
た。 初代・喜多利兵衞(きたりへい)は生来のこだわり者で、水と米を選りすぐり、自身
が納得いくまで酒屋として旗揚げしなかったと伝え聞いています。
そんな創業者の意思を受け継ぎ、私たちは300年におよび「美味しいお酒」にこだわり
続けています。私たちが思う美味しいお酒とは、造り手の思いが飲む人の心に伝わる
お酒です。 喜多酒造は創業の心を大切にし、日本酒「みよきく」が歴史と喜びを伝える
大和の美酒として愛されることを誇りにしています。
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畝傍御陵前駅(解散)
八木西口駅でおりて今井町へ向かう
蘇武橋のエノキ
幹周/5m、樹高/14m、樹齢/推定420年。江戸時代の建物群が残る「今井町」の
入口にエノキはあります。空洞が根元からかなり上の方まであります。今井町
の歴史的景観の一部としてこのエノキがあります。
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河合酒造・・・HPより引用
「出世男」の醸造元である河合酒造は、江戸時代から続く蔵元です。
この蔵元のある橿原市の今井町は、国の“重要伝統的建造物群保存地区”に指定
されていて、昔ながらの街並みが保存されています。また、この河合酒造は、その
中でも国の重要文化財に指定されているほどの歴史ある蔵元です。今では毎年造
る酒の量も少なくなりましたが、昔ながらの味わいを現在も造り続けています。
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醤油工房
恒岡醤油醸造・・・HPより引用
江戸時代は木綿の製造を行っていたが明治より醤油醸造に転換
四百余年の歴史を誇る寺内町「大和今井」。重厚な本瓦葺の家屋が連なるこの地
で明治の終わりからささやかな醸造業を始めました。1年半以上の長期に亘り真心
をこめて熟成した諸味から手づくり醤油を造っています。
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五位堂駅へ戻り
王寺駅行きのバスで自宅へ帰る
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1月18日の生駒谷・往馬大社初詣&歴史ウオ-クー2

1月21日      1月18日の生駒谷・往馬大社初詣&歴史ウオ-クー2
                  歴史探訪の会会員1月度例会
歴史探訪の会は現在、会員数41人(定員60人?)、活動月は、奇数月で
今年は、1月、3月、5月、7月、9月、11月の7回開催予定になっています。
1月は、生駒谷・往馬大社初詣&歴史ウオ-ク
コース:菜畑駅(集合)~往馬大社~竹林寺古墳~竹林寺~行基菩薩墓~
忍性菩薩墓~円福寺~青山台集会所(昼食休憩)~輿山墓地・往生院~美
努岡萬呂墓~菊司酒造(試飲・買い物)~南生駒駅(解散)
生駒市観光ボランティアガイドの会にお世話になり、有難う御座いました。
志都美駅へ向かう
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葛下川
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志都美駅
葛城山~二上山
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王寺駅で近鉄王寺駅に乗り換え
菜畑駅(集合)、生駒市観光ボランティアガイドの方達と合流
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往馬大社(いこまたいしゃ)
生駒山をご神体とした古社です。広さ3ヘクタールにおよぶ鎮守の森は、奈良県の
天然記念物として指定されているほか、伝統行事の火祭りは県の無形民俗文化財
として指定されています。
奈良県生駒市にある神社である。式内社で、旧社格は県社。生駒神社(いこまじん
じゃ)と通称される。
生駒山の神である伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神、および氣長足比賣命(神功
皇后)・足仲津比古命(仲哀天皇)・譽田別命(応神天皇)・ 葛城高額姫命(神功皇后
の母)・息長宿禰王(神功皇后の父)を祀る。
伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神は古代より火を司る神として信仰されている。大嘗
祭で用いられる浄火を起こす道具である火燧木は代々当社が献上することとなってお
り、今上天皇の大嘗祭においても当社の火燧木が使用された。『北山抄』『元要記』『亀
相記』などには当社の神が「火燧木神(ひきりぎのかみ)」と書かれている。10月第2日
曜日(元は10月10日)の例祭は「火神祭」と呼ばれ、龍田大社の風神祭、廣瀬大社の
水神祭とともに古来より朝廷の崇敬を受けてきた。
創建の年代は不詳であるが、古代、当地に住みついた人々が生駒山を神体山として
祀ったのを起源とするものとみられる。文献での最も古い記述は、『総国風土記』の雄
略天皇3年(458年)条に「伊古麻都比古神社」とあるものである。延喜式神名帳では
大和国平群郡「往馬坐伊古麻都比古神社二座」と記載され、大社に列し、月次・新嘗
の奉幣に預ると記されている。
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往馬大社
  観音堂見学
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竹林寺古墳
生駒市有里町に所在する古墳時代前期の前方後円墳である。竜田川上流域(生駒谷)
における唯一の前方後円墳で、周辺には他に主だった古墳も存在していないことから、
この地域の首長墓であったと目される。行基や忍性の墓所で知られる文殊山竹林寺境
内にある小規模な前方後円墳である。築造年代は出土した円筒埴輪の特徴から、古墳
時代前期後半の4世紀中頃と比定される。前方部先端と後円部の一部が失われ、後円
部は墳頂に通じる小道が通り、掘削(くっさく)による損傷が生じている。その他の部分は
雑木林に覆われ、開墾による削平(さくへい)を受けておらず、原型を比較的よく留める。
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竹林寺
生駒市有里町にある律宗の寺院。奈良時代の僧・行基の墓があることで知られる。山号
は生馬山。本尊は文殊菩薩騎獅像。竹林寺は生駒山の東麓の山中に位置する。奈良時
代に架橋、治水などの社会事業に奔走し、東大寺大仏の造立にも力のあった僧・行基の
墓所がある寺である。行基が壮年期に営んだ小庵が後に寺院とされたものと思われる。
行基は文殊菩薩の化身と信じられており、寺号は文殊菩薩の聖地である中国の五台山
大聖竹林寺にちなむ。明治時代以降は廃寺同然となり、本山の唐招提寺が管理していた
が、20世紀末から境内の整備が進められている。
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竹林寺は、奈良時代の僧・行基(668年~749年)の基礎を築いたと伝えられています。
行基は 749年に奈良市菅原寺(すがはらでら)において82歳で生涯を終え生駒山で火
葬され竹林寺に埋葬されています。本堂に向かって右手に行基の墓が、左手の墓地
に忍性(にんしょう)の墓(五輪塔)が建っています。忍性は文殊菩薩と行基を強く尊敬
しており行基と同じように自らも慈善事業に努めました。遺言により遺骨は竹林寺・極
楽寺(鎌倉市)・額安寺(大和郡山市)に分骨されています。

行基菩薩墓
河内国大鳥郡に生まれる。682年に15歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相崇などの
教学を学び、集団を形成して畿内を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活
動した。704年に生家を家原寺としてそこに居住した。その師とされる道昭は、入唐し
て玄奘の教えを受けたことで有名である。行基は奈良時代、貴族の為のものとなって
いた仏教を民衆に広め、橋や溜池を作るなど民衆の為に社会事業を行ったとされてい
る。その行基がこの近くに一時期居を構え、母親の最期をみとったそうだ。その後、聖
武天皇より大仏建立の為に招聘( しょうへい)されるが、82歳で人生を終えると母親の
近くに眠りたいと、この地に埋葬されたという。行基(ぎょうき/ぎょうぎ)668年~749年
は、奈良時代の日本の僧。僧侶を国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への
仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内を中心に民衆や豪族など階層を問わず
広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場や寺院を多く建立しただけで
なく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の
社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な
支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正
の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏造立の実質上の責任者と
して招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。
東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」
と呼んで いる。
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忍性菩薩墓
良観房忍性は、建保5年(1216)に大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅
町)で生まれた。早くに亡くした母の願いを受けて僧侶となり、西大寺の叡尊を師として、
真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済にも身命を惜しまぬ努力をし
ました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通った忍性の人柄がうかがえます。
後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興や社会事業を展開します。
忍性は行基の大ファン?16歳の忍性は額安寺(奈良県大和郡山市)に入った。忍性は
19歳から6年間毎月竹林寺に参詣したという。参詣を始めた年に竹林寺で行基の舎利
が発見された。行基は奈良時代の僧で、貧民救済や土木事業などの社会事業を行い、
大仏建立にも尽力したことが知られ、平安時代以降に文殊菩薩の化身とされた。忍性
が竹林寺へ6年間参詣し、その生涯を文殊信仰に基づく救済に捧げたのは、行基を範
とするとするところが大きいと云われる。忍性は、鎌倉・極楽寺で87歳で臨終を迎えた。
遺言により遺骨は三分され、額安寺、竹林寺、極楽寺に埋葬された。人々の救済に努
めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈した。
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忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊からは真言密教・戒律受持・聖徳太子
信仰を受け継いでいる。聖徳太子が四天王寺を創建に際し「四箇院の制」を採った事に、
深く感銘しその復興を図っている。四箇院とは、仏法修行の道場である敬田院、病者に
薬を施す施薬院、病者を収容し病気を治療する療病院、身寄りのない者や年老いた者
を収容する悲田院のことで、極楽寺伽藍図には療病院・悲田院・福田院・癩宿が設けら
れており、四天王寺では悲田院・敬田院が再興されている。また、鎌倉初期以来、四天
王寺の西門付近は「極楽土東門」すなわち極楽への東側の入り口と認識されており病
者・貧者・乞食・非人などが救済を求めて集まる所となっていた。

円福寺
真言律宗の寺院。生駒谷を見下ろす山腹に位置する。山号は龍華山(りゅうげさん)。
寺伝では天平勝宝年間(749年~757年)に行基によって創建されたとされるが、沿
革は明らかではない。度重なる火災のため、境内には鎌倉時代の再建による本堂の
みが残る。
重要文化財
本堂(附:棟札1、旧来迎壁額縁1、旧床板1、旧野地板断片1、旧鬼瓦2、旧丸瓦2) -
入母屋造、本瓦葺き、和様の三間堂。来迎壁(仏壇背後の壁)の墨書から応安4年
(1371年)の建立とみられる。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)2基 - 本堂前に並んで建つ。北側の塔(写真左)は初
重に四仏の種子を刻み、永仁元年(1293年)の銘がある。南側の塔は初重に四仏の
像を刻み、北側の塔と同じ頃の造立と推定される。
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此処までは、
1月18日の生駒谷・往馬大社初詣&歴史ウオ-クー1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。   
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-01-21
此処では、此の続きを
1月18日の生駒谷・往馬大社初詣&歴史ウオ-クー2 として~詳細を掲載します。
青山台集会所(昼食休憩)へ向かう~
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溜池には氷が張っていたが梅もほころぶ陽気?
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青山台集会所(昼食休憩)、午後は往生院へ・・・
興山墓地・往生院
輿山古墓群の中にあり、奈良時代の僧行基〔ぎょうき〕が天平21年(749)に没した時
火葬された生駒山の東陵にあたると伝えられています。本尊は行基菩薩坐像で、境
内には宝篋印塔(重要文化財)などが残っています。
竹林寺の奥の院と云われます。(華厳宗) 輿山「往生院」です。行基の遺言により彼
の遺体を焼き遺骨の一部を葬ったのがこの地であったと伝えられます。中世以降、
生駒谷10郷の惣墓となっています。本堂裏にある五輪塔「行基供養塔」は南北朝時
代のもので高さ187cm。境内にある宝篋印塔は正元元年(1259)銘があり県内最古
として知られます。
大仏造営中の749年、喜光寺(菅原寺)で81歳で入滅、生馬市の往生院で火葬後竹
林寺に遺骨が納められ多宝塔を立て墓所とした。また、喜光寺(菅原寺)から往生院
までの道のりを行基の弟子が彼の輿をかついで運搬したことから、往生院周辺の墓
地地帯は別名、輿山と呼ばれるようになった。
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美努岡萬墓(みののおかまろのはか)
奈良県指定史跡。奈良時代の官人であった美努岡萬の墳墓です。1872(明治5)年
に土取り中に偶然、墓誌が発見さました。墓誌は長方形の銅板で銘文を陰刻してあ
ります。銘文から美努岡萬のものであることが明らかとなりました。現在は住宅地の
中ですが、かつては山林の中にありました。古代の人物の墓所が明らかとなる例は
県内でも少なく貴重なものです。
美努岡萬連墓誌 (みののおかまろむらじのぼし)重要文化財
東京国立博物館所蔵
墓誌は、1872(明治5)年に土取り中に偶然、発見しました。縦29.4cm、横20.6cm、
厚さ0.3cmの銅板に銘文を陰刻してあります。銅板の一面に、縦横に罫線を刻み、
11行にわたって176字が記されています。
それによると、岡萬は天武天皇13年(684)に連の姓を賜っています。大宝元年(701)
に遣唐使の一員として渡唐し、帰国しています。従五位下を授かり、主殿寮の頭を任
じられ、神亀5年(728)に67歳で没しています。岡萬は『続日本紀』にもその名がみえ、
奈良時代に活躍した官人のようです。
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竜田川
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菊司酒造(試飲・買い物)
大阪と奈良を結ぶ奈良街道の宿場町であった小瀬の地で、江戸時代の1705年
(宝永2年)より伝統の酒造りを続けている蔵元。総業300有余年。自然と伝統が
織りなす名酒の数々を造り続けています。生駒山系の天然水である井戸水を、
無濾過で仕込水に使用しています。やや硬水で、水自体に味わいがあり、そこか
ら醸し出される味がお酒にも表れています。平成10年より発売銘柄「往馬」は特
定名称酒の限定流通商品です。また、造り酒屋ならではの純正酒粕をふんだん
に使った奈良漬けの製造・販売もしています。美味しいお酒を試飲させて頂き有
難う御座いました。スイカと胡瓜の奈良漬もとても美味しかったです・・・
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南生駒駅(解散)
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1月11日の東大阪初春巡り 布施戎・布施駅~抜粋編

1月13日         1月11日の東大阪初春巡り 布施戎・布施駅~抜粋編
                      えべっさん福を貰って街歩き
近鉄駅フリーハイキングに知人と2人で参加、少し風はあったが心地よい天気の中、
無事に歩程約9㎞コースを完歩、ハイキングの〆に銭湯へ・・・・ゆ処・あべの温泉
コース 近鉄駅フリーハイキング  布施駅コンコース受付9時半~11時
布施駅(受付)~本通商店街~布施戎神社~三ノ瀬公園~巽東緑地~旭神社~杭全
神社~大念仏寺~平野白鷺公園~今川せせらぎ~針中野駅(ゴール)→阿倍野橋駅
~銭湯(ゆ処・あべの温泉)、15時~新年会で2次会はカラオケ
楽しい一日となった此の日の私の万歩計は、23572歩で約15.8km歩いた事に・・・
志都美駅から
葛城山は雪雲の中に隠れて見えない
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柏原駅で降りて近鉄堅下駅へ
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布施駅(受付)
えべっさんがお出迎え
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ほんまち通り商店街
布施駅前通りから西側の通りにあり、50店舗、約350mの両側に面し、商店街入り口に
は、足代のだんじり小屋を設置されており近くには商売繁盛の神様、布施戎神社があり
ます。地域に密着した、昭和の始めよりの老舗の物品販売、各種飲食店、食料品販売、
医院、銀行等が有ります。
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布施戎神社
足代(あじろ)にあった神社で元の名は都留彌(つるみ)神社でしたが大正3年に統合され
荒川に移転し、その神社跡に昭和20年初期に布施戎神社と改名し、現在は、「布施の戎
さん」として親しまれています。又「福娘コンテスト」も実施されており、選ばれた福娘も戎っ
さんに参加し毎年1月9日~11日は賑わいを増しています。
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商店街を抜けて
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三ノ瀬公園
60年以上の歴史を持つ緑豊かな公園で、多くの市民の散策、憩いの場として親しまれてい
ます。また、園内には東大阪の短歌に貢献した歌人「小池晴嵐(治雄)」の碑があり地下に
は貯水池を設け水害対策に備えています。
巽東緑地公園
大阪市生野区の南東にある、生野区最大の公園です。公園の北側には大きな野球場。桜
並木が春のウォーキングを楽しませてくれます。幼児~小学生の楽しめる遊具が沢山あり
休日には賑わいます。公園の周りは1周約610メートルのウォーキングコースになっており、
ゴムチップ舗装になっているので、足への負担も軽くジョギングも楽しめます。
少し変わった健康器具も幾つかあり、工夫次第で様々な使い方が出来そうで楽しめます。

旭神社・・・旭神社HPより引用
旭神社の鎮ります大阪市平野区加美正覚寺の地は、古くは“河内国渋川郡賀美郷橘嶋荘
(里)”と称されており、その賀美(加美)澁河(渋川)の地名は、早くも『日本書紀』や『類聚和
名抄』などに見え、古くから栄えてきた地であった。また“橘嶋”の名が示すとおり旧大和川
の本流であった長瀬川とその支流の橘川との間に出来たデルタ地帯であったと考えられて
いる。旭神社御本社については(『縁起』には旭牛頭天皇と記されている)、聖武天皇の御
世、天平5年(733)頃に当地にお鎮りになり、“旭”と言う呼び名については、「つき旭と称し
侍ることは、此郷の嶋戸に橘のながれとゞまりたるに、朝日さしかがやきてその光社頭に映
じけるにより旭牛頭天皇と申なり」すなわち、この里に先述の「橘」が流れ着いたその光が
朝日の様に社頭にてり輝いた事によると『縁起』は伝えている。
旭神社、その産土神(うぶすながみ その地を守り給う神 氏神)旭神社『縁起』によると、若
宮八幡宮は、孝謙天皇の御世 天平勝宝6年(西暦754年)8月、風雨がやまず人々が大変
困っていたが、「水上より櫛笥と橘を流しそのとどまった所を祝い、祭るのであれば水難を避
け人々を安穏にさせよう」との八幡宮のお告げが有り、大和国河内国の境からお告げのとお
り“櫛笥(くしの箱)”とを流した。“櫛笥”の流れ着いた所には「玉櫛明神(現東大阪市花園鎮座
津原神社)」を祭りし、また“橘”は当神社の鎮座地、賀美郷の川中の小島、すなわち当地に
流れ着き、そのことが孝謙天皇のお耳に達し「東大寺の八幡宮(手向山八幡宮)」を勧請して
“若宮”と仰ぎ祭り、“橘”をご神木と定めた。とその御鎮座の様子を伝えている。
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  境内に正覚寺(しょうかくじ)城跡石碑
天長2年(825年)に空海(弘法大師)により開基。かつては境内四町四方、本堂二十一間
四面、不動堂七間四面、その他山門、廻廊、伽藍等巍々たる名刹で、東之坊ほか五坊を
有する巨刹だった。
明応2年(1493年)2月25日に畠山政長が室町幕府10代将軍足利義稙と共に正覚寺城
(現在の旭神社境内)に本陣を敷き畠山義豊と対峙するも逆襲に遭い、それに荷担した細
川政元が京都でクーデターを起こし(明応の政変)、諸将合わせて4万余の兵を率いて進撃、
4月23日に本陣は陥落し政長は自殺、義稙は捕虜となり、寺は兵火に合い三日三晩燃え
続け、寺院内の高僧や修行僧は寺院と運命を共にした(正覚寺合戦)。以後、正覚寺は廃
寺となり、現在、正覚寺旧六坊(柳之坊、池之坊、中之坊、大寺坊、揚々之坊、東之坊)の
うち東之坊のみ現存し、山門の傍らに『正覚廃寺の由来碑』がある。
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平野郷環濠跡
平野の環濠は、いつ頃掘られたものかは不明であるが戦国時代の動乱の時代に自衛と灌
漑、排水用あるいは洪水の調節池としての役割を持ってつくられたと考えられる。町の周囲
に堤を築き、その外に濠をもうけ、さらに二重になったところもあった。濠は平野川ともつなが
り、杭全神社東側にあった船溜は平野川を上下する柏原船の発着で賑わい、繁栄の基礎と
もなったが、時代の移りかわりとともに埋め立てられた。環濠は、明治の初期には郷の東側
から右廻りに松山池、流池、藤七池、道白池、今堀池、殿堂池(新池)、殿堂蓮池(弁天池)、お
茶池、河骨池、関東池として平野郷を取り囲むように残っていたが、現在では杭全公園の北
側と赤留比売命神社背後の土塁に面影を残すのみとなった。
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杭全神社・・・杭全神社HPより引用
平安の初期、征夷大将軍坂上田村麿の子、広野麿が杭全荘を領地として賜ってこの地に
居を構えました。その子当道が貞観四年(862)に素盞嗚尊を祀る祇園社を創建したのが、
現在の第一本殿です。絵=坂上当道の前に影向される素盞嗚尊(牛頭天王)
降って、建久元年(1190)に熊野證誠権現(伊弉諾尊)を奉祀したのが現在の第三本殿
です。更に、元享元年(1321)に熊野三所権現(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を勧請建
立したのが現在の第二本殿であり、この時、時の帝後醍醐天皇より「熊野三所権現」の勅
額を賜りました。後醍醐天皇の詔勅により、熊野三所権現(第二本殿)を総社と定める。
長い参道の奥に拝殿が見え、その奥にご神殿が三つ建っています。向かって左の第一殿
が最初に祀られた氏神で、第二・第三殿は熊野の神様が祀られ、共に室町時代建立の大
阪で最も古い建物です。また全国で唯一連歌所が残っており市の文化財に指定され、大く
すの木は、樹齢850年以上と伝えられ府の天然記念物にしていされています。
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大念佛寺・・・大念佛寺のHPより引用
大治2年(1127年)、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子
から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建したのが始まり。
平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門の最初の宗派で日本最初の
念仏道場といわれる。その後、火災などで荒廃するが、元禄期(1700年頃)に本山として体
裁が整い、現在に至る。融通念佛宗の総本山。
本堂は、大阪府下最大の木造建築で、国登録の有形文化財に指定されています。
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平野白鷺公園・・・此処で昼食タイムに
大阪市東住吉区今川6丁目にある「平野白鷺公園」。トイレ有り。
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今川のせせらぎ
昭和56年以前の今川は、固有水源が無いため降雨時以外は水枯れし、ところどころに雨水
がたまって腐敗し、悪臭を放っていました。そこで、河川環境事業の一環として、この川に浄
化用水を導入して綺麗な流れを取り戻そうと建設省・大阪府が工事を行いました。今川の最
上流部に、平野下水処理場の綺麗になった第3次処理水(=BOD5ppm以下)をパイプで
導いて、放水しています。現在は毎分約10トンの浄化用水が放水され、水深約10センチの
「せせらぎ」が復活し、水質も良くなりました。最上流部の約300m区間には、岩や石を配置
して渓流をつくり、小橋や遊歩道が設けられ、人々が楽しく散歩が出来る様にされ、芝生や
木々で川岸の緑化も図られ、区民の憩いの場として親しまれています。

中井神社
中井神社は、三代実録(西暦901年)という書物に摂津の国「田辺東神(ひがしかみ)」と記さ
れており、古くは、ご祭神にちなんで「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)とよばれていました。
その昔、社前に、清水の湧く井戸があり、人々は、「汚れ(けがれ)のない霊水」としてたいせ
つにしていたので、中野村の井戸の有るところのお社として、明治時代の初めに中井神社と
改められました。(中井神社発行の神社暦による)中井神社の東神に対し西神が山阪神社と
いわれています。
境内に、根元5mほど残った榎(えのき)は、世に異変のあるときは必ず夜間にごう音がすると
言い伝えられていました。現在、白龍社のご神木として祀られています。
また大阪市の保存樹林に指定された、大楠、公孫樹(いちょう)、メタセコイヤ、小賀玉木(おが
たまのき)があります。
元旦未明には(午前0時の合図とともに)初詣の参詣者に、干支いりの「かわらけ」で、お神酒
が授与されます。毎年除夜の鐘が鳴り出すと長い初詣の行列ができます。
昭和56年以来、笑福亭松喬一門会の落語会は現在も続いています。
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針中野駅(ゴール)→阿部野橋駅
1月11日の東大阪初春巡り 布施戎・布施駅~
         詳細は、下記のセカンドブログへ投稿済みです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-01-12-1
おまけ
ゆ処・あべの橋
気分はスーパー銭湯、料金は庶民派銭湯. 天然温泉 搬入、湯処 あべの橋。
男女境界壁側は温泉浴槽で、こちらは港区のテルメ龍宮からの運び湯。ただし、
加水、加温、循環、消毒ありとなっているそうで・・・私は未だ利用した事が無い。
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1月9日の幸せの道しるべ「開運松原六社参り」・布忍駅-2

1月11日        1月9日の幸せの道しるべ開運松原六社参り」・布忍駅-2
                       近鉄 駅フリーハイキング
前半は知人と5人で参加、賑やかなハイキングとなり、後半は地元の2人が外れて3人に
なって雨が降りそうになり駆け足で最後の1社にお参りする事になったが何とか傘を開か
なくても良い様な雨で無事ゴールの河内松原駅迄辿り着く事が出来ました・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 布忍駅受付スタート 歩程約10km
最初の布忍神社で絵馬購入(500円)六社の参拝印で「開運絵馬と張子の干支」を頂く
布忍駅(受付)~寄り道して大林寺~布忍神社~北新町大池公園~我堂八幡宮~善正寺
~今池水みらいセンター~久多美神社(出雲大社関西支部)~阿麻美許曽神社~大和川
堤防~中高野街道~屯倉神社~阿保神社~海泉(かいずみ)池~柴籬神社 ~河内松原
開運松原六社参り完歩、此の日の私の万歩計は、24947歩で約16.8km歩いた事に・
志都美駅へ向かう
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葛下川
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志都美駅
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布忍駅で受付
コースから外れて寄り道して大林寺
布忍山 大林寺
当山はもとは東大饗村(東おわい村:現堺市美原町)にあったが、1878年(明治11年)当
地に移転した。寺院の西側を流れる西除川の西岸にあった永興寺(ようこうじ:明治6年に
廃寺)の本尊であった十一面観音像や「布忍山永興寺略縁起」、「大般若経600巻」を蔵す
る。この「布忍山永興寺略縁起」によると、永興寺は1069年(寛治3年)永興律師により創
建され、弘安年中(1278~88年)に大和西大寺の叡尊が中興したと伝える。又、近くにあ
る布忍山布忍寺は、この永興寺の塔頭と伝えられ、布忍寺に伝わる「布忍山東坊縁起」に
は、東之坊は聖徳太子が薬師如来を本尊として創建。814年(弘仁5年)空海が再建したが
荒廃し、寛治3年に永興律師が再興し、永興寺と名付けたとあり、平安後期には大伽藍を
誇った寺院が存在していたと思われる。なお、この永興寺の本堂は1887年(明治20年)、
現柏原市にある壺井寺に移築され、現存する。
大林寺は、旧長尾街道に面してある。長尾街道は飛鳥時代の7世紀頃に創られた難波・河
内と飛鳥を結ぶ官道であったといわれる。西除川を挟んで永興寺の鬼門の守宮であったと
考えられる布忍神社がある。
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布忍神社
布忍神社は速須佐男之尊、八重事代主之尊、武甕槌雄之尊の三神を祀っています。社伝
によると十八町北方の天見丘から、この地に勧請したとき道中に白布を敷いて迎えたため、
この地を布忍といい、村里を向井といいます。
本社の鎮座する「布忍」の地名の由来は日本書紀にもある布忍入姫命(ぬのしいりびめのみ
こと、日本武尊の娘のひとり)にあると言われている。本社の創建年については明確でない。
古来より布にまつわる言い伝えがあり、病気平癒、毒虫の退治の神と称えられ、近世では
病気平癒、厄除け、交通安全、商売繁盛のご利益で知られる神社。
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北新町大池公園
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我堂八幡宮
我堂八幡宮は厄除宮として有名です。江戸時代の延宝8年(1680)の「我堂村検地絵図」で
は社名がなく、鳥居マークだけですが、延享元年(1744)の「両我堂村明細帳」には「十五社
明神」、享和2年(1802)の「東我堂村明細書上帳」にも「氏神十五社神」と記されています。
江戸時代の延宝8年(1680)の「我堂村検地絵図」では社名がなく、鳥居マークだけですが、
延享元年(1744)の「両我堂村明細帳」には「十五社明神」、享和2年(1802)の「東我堂村
明細書上帳」にも「氏神十五社神」と記されています。明治初年に八幡神社と称した後、大
正2年(1913)に産土神社と改めましたが、いまでは我堂八幡宮の名で信仰されています。
堺市の百舌鳥八幡宮の分霊を勧請したもので、品陀別命が祭神です。境内には、江戸時
代から昭和初期にかけて若者が力競べをした力石・八幡石・明治石・龍王石・金剛石が残
っており、貴重な民俗資料といえるでしょう。
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善正寺
大阪市平野区にあった真言宗・金剛乗院が、室町時代・明応年間(1492〜1500)に改宗し
現在の最勝寺の地に移転し、浄蓮寺と称するようになりました。安土・桃山時代・文禄2年
(1593)僧順欽の時に「善正寺」と改号。その後、江戸時代・元和2年(1616)に砂村へ移り、
寛永18年(1641)に現在の地に移ったと言われています。
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阿麻美許曽神社へ向かう
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今池水みらいセンター
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寄り道して久多美神社(関西出雲大社)
この神社は河内天美駅の北西約800mに鎮座しています。鳥居には「久多美大神」、境内
の「記」には「関西出雲大社」という社名が記されています。参道や境内等が綺麗に整備さ
れ社殿は出雲大社そっくりの大きさや造りです。御祭神:久多美大神。
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此処までは、
1月9日の幸せの道しるべ「開運松原六社参り」・布忍駅-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-01-10-1
此処では、此の続きの阿麻美許曽神社~
1月9日の幸せの道しるべ「開運松原六社参り」・布忍駅-2 として詳細掲載します。
阿麻美許曽神社
阿麻美許曾神社(あまみこそじんじゃ)は、大阪市東住吉区矢田にある神社。延喜式神名帳
に記載されている河内国丹比郡の式内社で、旧社格は郷社。阿麻美許曾神社は式内社で
あり、社伝によれば、大同年間(大同元年=806年頃)の創建とされているが、おそらくそれよ
り古いであろうとされている。「許曽」は新羅の言葉に由来するとされ、朝鮮半島からの渡来
人が先祖を祀ったのが起こりではないかとされている。
この神社を含む一帯はもともと(後に大阪市の一部となる)矢田村の一部であったが、江戸時
代に大和川の付け替えにより川が矢田村を分断し、神社は大和川の南岸に切り離されてしま
うことになった。この際に、南岸に残された矢田村の大半は後の松原市となる側に編入される
ことになったが、神社は矢田村の氏神であったことから、神社の周囲と参道のみは矢田村に
残留した。このために、神社周辺は大和川の南岸にありながら大阪市に属しており、参道に
相当する部分(下高野街道)が細長く松原市に食い込んで大阪市として存在している。
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大和川堤防
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中高野街道
屯倉神社(みやけじんじゃ)
屯倉神社は、天慶5年(942)に菅原道真を祭神として創祀されたと伝えられています。当地に
はもともと、土師氏(のち菅原氏に改姓)の祖神である天穂日命を祀る穂日の社があり、同社
は、のち依羅三宅天満宮ともよばれるようになりました。本殿には神像として菅原道真像が
安置されています。梅が・・・
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阿保神社
阿保神社は菅原道真を祭神とします。境内には「史跡阿保親王住居址」の石碑が建てられて
います。樹齢1000年と云われる楠木が有る。
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柴籬神社へ向かう
海泉池(かいずみいけ)
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柴籬神社(しばがきじんじゃ)
御祭神反正天皇(別名瑞歯別命){正殿}菅原真公(相殿)依羅宿弥(相殿)当社は24代仁賢
天皇の勅命により創建され後世慶長年中に兵火により焼失、その後寛永年中に宮代代宮寺
観念寺2代目住持覚夢(寛永田年没)によって再建され今日に至っております。
柴籬の宮跡、当跡は大津道(長尾街道)と丹比道(竹内街道)のほぼ中央に位置し、古の松原
荘の内にて大和政権の第18代反正天皇の皇居跡で、五年間この地に都を置き河内王朝最後
の都として、また古事記、日本書紀に丹比柴離宮とあるは、即ち本宮であります。
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河内松原駅(ゴール)
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1月7日の新春初歩き!奈良の初詣・奈良駅~2

1月9日         1月7日の新春初歩き!奈良の初詣・奈良駅~2
                    近鉄 駅フリーハイキング
知人と4人で参加、近鉄奈良駅東改札口前での受付だが、私はJR奈良駅から
歩いて、JR奈良駅前でパチリ、三条通りでパチリ、近鉄奈良駅へ向かいました。
コース 近鉄 駅フリーハイキング 近鉄奈良駅東改札口受付9時半~11時
JR奈良駅~開化天皇陵~浄教寺~近鉄奈良駅(受付)~漢国神社~率川神社
~元興寺~猿沢池~采女神社~興福寺・三重塔・北円堂・南円堂・五重塔~春
日大社~水谷神社~若草山麓(昼食)~手向山八幡宮~三月堂~四月堂~二
月堂~東大寺~氷室神社~県庁屋上~近鉄奈良駅~徒歩15分~JR奈良駅
天気良く最高のハイキング日和で27068歩で約18.7km楽しい一日となりました。
志都美駅へ向かう
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志都美駅
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JR奈良駅・旧駅舎
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開化天皇陵
開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇7年 - 開化天皇60年4月9日)は、日本の第
9代天皇(在位:孝元天皇57年11月12日 - 開化天皇60年4月9日)。
和風諡号は、『日本書紀』では「稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこお
おひひのすめらみこと)」、『古事記』では「若倭根子日子大毘毘命」。
『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史
八代」の1人に数えられる。
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浄教寺
淨教寺(じょうきょうじ)は、奈良市上三條町にある浄土真宗本願寺派の寺院である。
山号は九条山。本尊は阿弥陀如来立像。『淨教寺由緒略記』によると、開基行延法
師は、河内国八尾の庄司で、真野将監行延と名乗る知勇兼備の武士であった。浄
土真宗開祖親鸞上人の直弟子となり、寛元2年(1244年)3月出家し、法名を行延と
賜ったという。境内に大ソテツが有る。根株の周囲6.5メートル。1本の株から25本も
の幹が出ている珍しいもの、樹齢約250年。
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近鉄奈良駅(受付)
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漢國神社(かんごうじんじゃ)
漢國神社は、奈良県奈良市にある神社である。式内小社(論社)、旧社格は県社。
園神(そのかみ)として大物主命、韓神(からかみ)として大己貴命・少彦名命を祀る。
延喜式神名帳で宮中宮内省に祀られ名神大社に列すると記される園神社・韓神社
は当社からの勧請であると社伝では伝える。
推古天皇元年(593年)2月3日、勅命により大神君白堤(オオミワノキミ シラツツミ)
が園神を祀ったのに始まると伝える。その後、養老元年(717年)11月28日、藤原不
比等が韓神二座を相殿として合祀したという。かつては春日率川坂岡神社あるいは
園韓神社と称していたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國神社」とい
う社名になったと伝える。貞観元年(859年)1月27日、平安京内の宮内省に当社の
祭神を勧請し、皇室の守護神としたと社伝では伝えているが、平安京の園神社・韓
神社の社伝とは矛盾している。境内社に日本唯一の饅頭の神社”林神社”が有る。
境内にはその他、巨石を伏せた饅頭塚もある。
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饅頭塚
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林神社
境内社の林神社(りんじんじゃ)は、日本唯一の饅頭の神社。貞和5年(1349年)に
中国から来日し、漢国神社社頭に住居して日本初となる饅頭を作ったという、饅頭
の祖・林浄因が祀られていることが名前の由来。1978年(昭和53年)に菓祖神の田
道間守を合祀し、饅頭・菓子の祖神の神社として関係業界の信仰を集める。
また、林家から出た碩学、林宗二の著作『饅頭屋本節用集』に因み、民間印刷業
の原点として6月15日、印刷・出版業界の参列のもと節用集祭りが執り行われる。
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率川神社(いさがわじんじゃ)・・・御神花:笹百合
祭神は、ひめたたらいすずひめのみこと媛蹈韛五十鈴姫命 (御子神) 中殿
     さいのおおかみ狭井大神 (御父神)        向かって左殿
     たまくしひめのみこと 玉櫛姫命 (御母神)    向かって右殿
当神社は飛鳥時代、推古天皇元年(593)大三輪君白堤が勅命によっておまつり
申し上げた奈良市最古の神社です。御祭神の媛蹈韛五十鈴姫命は、初代神武
天皇の皇后様で、ご聡明にして、よく内助の功をおたてになりました。全国の神社
の中で皇后様を主祭神とした神社は数えるほどしかありません。三棟の本殿左側
には父神の狭井大神、右側には母神の玉櫛姫命をお祀りし、中央にお祀りするお
子様(媛蹈韛五十鈴姫命)を両親がよりそうようにお守りになられる姿で鎮座され
ることから、古くより「子守明神」とたたえられ、安産、育児、生育安全、家庭円満の
神様として県内外から篤い信仰がよせられています。父神の狭井大神は生活全
般の守護神であり、福寿の神である大神神社の大物主大神と同じ神様であり、媛
蹈韛五十鈴姫命が大物主大神のお子様にあたられることから、率川坐大神御子
大神社の名で「延喜式」にも記載されています。
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元興寺(がんごうじ)
元興寺は、奈良市にある、南都七大寺の1つに数えられる寺院。蘇我馬子が飛鳥に
建立した、日本最古の本格的仏教寺院である法興寺がその前身である。法興寺は
平城京遷都に伴って飛鳥から新都へ移転し、元興寺となった(ただし、飛鳥の法興
寺も元の場所に残り、今日の飛鳥寺となっている)。奈良時代には近隣の東大寺、
興福寺と並ぶ大寺院であったが、中世以降次第に衰退して、現在は元興寺と名乗
る寺院は次の2つに分かれている。
蘇我馬子が6世紀末、飛鳥に建立した日本最古の本格的寺院、法興寺(現在の飛
鳥寺)の後身である。和銅3年(710年)の平城京遷都に伴って、飛鳥にあった薬師
寺、厩坂寺(のちの興福寺)、大官大寺(のちの大安寺)などは新都へ移転した。法
興寺は養老2年(718年)平城京へ移転したが、飛鳥の法興寺も廃止はされずに元
の場所に残った。通常、飛鳥にある寺を「法興寺」「本元興寺」、平城京の方の寺を
「元興寺」と称している。「法興」も「元興」も、日本で最初に仏法が興隆した寺院であ
るとの意である。
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興福寺・五重塔
猿沢池から五重塔を・・・
興福寺
法相宗の大本山として知られる興福寺。その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さらに
さかのぼると天智朝の山背国「山階寺」(やましな寺)が起源となります。
その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である鏡
女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営し
たものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われてい
ます。その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、
その地名を取って厩坂寺とされました。
さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、
「興福寺」と名付けられたのです。
天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、
奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北
家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになります。
平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになり、また、鎌倉
・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たりました。
文禄4年(1595)の検地で春日社興福寺合体の知行として2万1千余石と定められ、
徳川政権下においてもその面目は保たれました。
その後、明治時代はじめの神仏分離令、廃仏毀釈、社寺上地令などで興福寺は荒れ
ましたが、その後は寺僧有縁の人々の努力で復興が進展し新たな興福寺としてその
歴史を刻み続けています。
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猿沢池・采女神社
猿沢池(さるさわいけ、さるさわのいけ)
猿沢池は、奈良県奈良市の奈良公園にある周囲360メートルの池。興福寺五重塔が
周囲の柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく、「猿沢池月」 は南都八景のひとつ
となっている。興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造られた
人工池である。放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放
つ宗教儀式である。
猿沢池七不思議
・澄まず・濁らず・出ず・入らず・蛙はわかず・藻は生えず・魚が七分に水三分
猿沢池の水は、決して澄むことなくまたひどく濁ることもない。水が流入する川はなく
また流出する川もないのに、常に一定の水量を保っている。亀はたくさんいるが、な
ぜか蛙はいない。なぜか藻も生えない。毎年多くの魚が放たれているので増える一
方であるにもかかわらず、魚であふれる様子がない。水より魚の方が多くてもおかし
くないような池。
猿沢池にちなんだ言い伝え
・猿沢池のほとりにある采女神社(うねめじんじゃ)は、帝の寵愛が衰えたことを嘆き
 悲しんで入水した采女を慰めるために建てられたという。
・芥川龍之介の小説「龍」は、猿沢池から雲を呼び雨を降らせながら龍が天に昇った
 という伝説を素材にしている。
・猿沢池の名前の由来は、インドのヴァイシャーリー国の猴池(びこういけ)から来た
 ものと言われている。猴の字義としては、尾の短い種類のサルをさしている。
・奈良県大淀町には、興福寺の僧に恋をした娘おいのが身を投げたといわれる
 「おいの池」がある。伝説ではおいの池と猿沢池は地中でつながっており、身を投
 げたおいのの笠が猿沢池に浮かんでいたという。
・1959年に、七不思議に反して池の水が赤くなった時には、「この世の終わりだ」と
 騒がれたという。
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采女祭(うねめまつり)
采女祭とは、奈良県奈良市の春日大社の末社で猿沢池の北西に鎮座する采女神社
の例祭で、毎年仲秋の名月の日(旧暦8月15日)に行われる。奈良時代に天皇の寵
愛をうけた采女(後宮で天皇の給仕をする女官の職名)が、天皇の関心が薄れたこと
を悲観し猿沢池に入水した霊を慰めるために始まったという。王朝貴族が七夕の夜に
秋草で飾った花扇を御所に献上し、庭の池に浮かべて風雅を楽しんだ古事による。
采女神社
猿沢池のほとりにある、春日大社の末社。昔、帝の寵愛が薄れたことを嘆き悲しんだ
采女が猿沢池に身を投げた為、その采女(女官)の霊を慰める為祀ったのが始まりで、
祠が鳥居と反対側を向くのは、入水した池を見るのは忍びないと、采女が一夜の内に
背を向けてしまったと言う伝説のためです。
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興福寺・南円堂
興福寺・三重塔・北円堂・南円堂・五重塔
三重塔
康治2年(1143)に崇徳(すとく)天皇の中宮(ちゅうぐう)が創建されましたが、治承4年
(1180)に被災し、間もなく再建されました。北円堂(ほくえんどう)とともに興福寺最古の
建物で、高さ19.1m、初層は方三間で4.8m、本瓦(ほんがわら)葺き。鎌倉時代の
建物ですが、木割が細く軽やかで優美な線をかもし出し、平安時代の建築様式を伝えま
す。初層内部の四天柱(してんばしら)をⅩ状に結ぶ板の東に薬師如来(やくしにょらい)
像、南に釈迦如来(しゃかにょらい)像、西に阿弥陀如来(あみだにょらい)像、北に弥勒
如来(みろくにょらい)像を各千体描き、さらに四天柱や長押(なげし)、外陣(げじん)の
柱や扉、板壁には宝相華(ほうそうげ)文や楼閣(ろうかく)、仏や菩薩(ぼさつ)など浄土
の景色、あるいは人物などを描いています。東の須弥壇(しゅみだん)に弁才天(べんざ
いてん)像と十五童子像を安置し、毎年7月7日に弁才天供が行われます。
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北円堂
日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されるこの堂は、興福寺創建者藤
原不比等の一周忌にあたる養老5年(721)8月に、元明(げんめい)太上天皇と元正
(げんしょう)天皇がお建てになりました。伽藍(がらん)の中では西隅に位置しますが、
ここは平城京を一望の下に見渡すことのできる一等地で、平城京造営の推進者であっ
た不比等(ふひと)の霊をなぐさめる最良の場所です。治承4年(1180)の被災後、承元
4年(1210)頃に再建されました。鎌倉時代の建物であるにもかかわらず、奈良時代創
建当初の姿をよく残しています。
堂内には本尊弥勒如来(みろくにょらい)像(国宝)、法苑林(ほうおんりん)・大妙相菩
薩(だいみょうそうぼさつ)像、無著(むちゃく)・世親菩薩(せしんぼさつ)像(国宝)、四
天王(してんのう)像(国宝)が安置されます。
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南円堂
西国三十三所観音霊場の第九番札所です。
弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建てに
なった八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わど
うかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げたことが発掘調査
であきらかになりました。この儀式には弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が深く係
わったことが伝えられます。
堂内には本尊不空羂索観音((ふくうけんさくかんのん))菩薩像、四天王(してんのう)
像(いずれも国宝)が安置されます。
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東金堂
中金堂(ちゅうこんどう)の東にある金堂で、西向きの建物です。神亀3年(726)に聖
武(しょうむ)天皇が叔母元正(げんしょう)太上天皇の病気全快を願ってお建てになり
ました。創建当初は床に緑色のタイルが敷かれ、薬師如来(やくしにょらい)の浄瑠璃
光(じょうるりこう)世界がこの世にあらわされていました。以来6度の被災、再建を繰り
返し、今の建物は応永22年(1415)に再建されました。堂内には本尊薬師如来(やく
しにょらい)像、日光(にっこう)・月光菩薩(がっこうぼさつ)像(以上いずれも重要文化
財)、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)像と維摩居士(ゆいまこじ)像、四天王(してんのう)像、
十二神将(じゅうにしんしょう)像(以上いずれも国宝)が安置されます。
五重搭
古都奈良を象徴する塔です。塔は仏教の祖釈迦の舎利(しゃり)(遺骨)をおさめる墓標
です。天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)皇
后がお建てになりました。初層の東に薬師浄土変(やくしじょうどへん)、南に釈迦浄土
変(しゃかじょうどへん)、西に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、北に弥勒浄土変
(みろくじょうどへん)を安置し、また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこう
だらにきょう)を安置していたと伝えられます。その後5回の被災・再建をへて、応永33
年(1426)頃に再建されました。高さ50.1m、初層は方三間で8.7m、本瓦(ほんが
わら)葺きの塔です。軒の出が深く、奈良時代の特徴を随所に残していますが、中世
的で豪快な手法も大胆に取り入れた、大変に力強い塔です。初層の四方には、創建
当初の伝統を受け継ぐ薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像を安置
します。
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此処までは、
1月7日の新春初歩き!奈良の初詣・奈良駅~1 として
         下記のセカンドブログに詳細を投稿済みです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-01-08-1
此処では、此の続きを
1月7日の新春初歩き!奈良の初詣・奈良駅~2 として詳細を掲載します。
続きは、春日大社一の鳥居~
春日大社
春日大社(かすがたいしゃ)は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に
創設された奈良市にある神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七
社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」。
全国に約1000社ある春日神社の総本社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされる
ことから、鹿を神使とする。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登
録されている。
奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島
神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まる
とする説もあるが、社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、
香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓
の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。
一の鳥居
平安後期に創建されたといわれ、現在のものは、寛永11年(1638年)に再建されたも
のである。今では市街地のメインストリートの三条通との境界に当たるが、 古くは春日
大社と興福寺旧境内との境に立つ高さ6.75mの大鳥居です。
気比神宮と厳島神社の大鳥居に並ぶ「日本三大鳥居」の一つ。
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参道のムクロジ
ムクロジはわが国では中部地方以西の山野に自生しており、春日山にも多く生えていま
す。幹の空洞から竹が伸びていて名物樹木になっているムクロジの巨樹。幹周4.58m、
樹高15.5m。
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参道
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本殿
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水谷神社
春日大社の摂社で聖流水谷川に沿ってお祀りされており、上水谷・中水谷・下水谷の下
社に相当し、素盞鳴命様・大巳貴命様・奇稲田姫様を御祭神としています。平安時代か
ら幕末までの神仏習合時代は祇園精舎の守護神で医薬の神として尊崇され、「牛頭天
王(ごずてんのう)」とされていました。例祭は4月5日で、通称「水谷神社鎮花祭」として
親しまれています。古くより霊験あらたかな神様として名高く、病気平癒や子授けを祈る
人が多いお社です。御神木のイブキ、イブキの横にある説明板では、幹周6.55m、樹高
12.5m。「イブキ」は「ビャクシン」ともいわれます。
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若草山麓(昼食)
若草山は、標高342メートル、面積33ヘクタールの芝生に覆われた山で、山頂には、5世
紀頃に築造されたといわれる史跡鶯塚古墳があります。毎年1月には、若草山焼があり
ます。夜空をこがす壮観さはまさに、炎の祭典というのにふさわしい行事です。
鹿にじゃまされながらも麓のベンチ、此処で昼食・・・

手向山八幡宮
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)は、奈良市に鎮座する神社。手向山神社とも。
奈良市街東部の手向山麓に位置。手向山は紅葉の名所として知られ、古今和歌集では
菅原道真が「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいる。
東大寺大仏殿前の道を東に行った正面に位置し、すぐ北には東大寺法華堂(三月堂)が
ある。天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東
大寺の守護神として勧請された。八幡宮からの分社では第一号である。当初は平城宮
南の梨原宮に鎮座し、後に東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(11
80年)の平重衡による戦火で焼失、建長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建した。
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校倉造り
宝庫 - 奈良時代、校倉造。もとは東大寺油倉の上司倉。すぐ北には規模・形式とも類似し
た「東大寺法華堂経庫」が建つ。写真の校倉造りは「東大寺法華堂経庫。
三月堂(法華堂)
東大寺法華堂(とうだいじほっけどう)は、奈良市の東大寺にある奈良時代(8世紀)建立
の仏堂である。一般に三月堂(さんがつどう)として知られる。日本の国宝に指定されてい
る。東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の1つであり、堂内に安置する10体の仏像
も奈良時代の作である。「三月堂」の通称で知られる法華堂は、東大寺境内東方の丘陵
部に位置する、不空羂索観音立像を本尊とする仏堂である。東大寺は広大な境内を有す
るが、このうち法華堂が位置する東方丘陵部の一画を「上院」(じょういん)と称し、法華堂
のほか、「お水取り」で知られる二月堂、東大寺開山の良弁の像を祀る開山堂など、多く
の建物がある。この付近は大仏開眼(752年)以前から、東大寺の前身寺院があった場所
で、法華堂はその主要堂宇の1つであった。
法華堂は、不空羂索観音を本尊とすることから、古くは「羂索堂」と称し、周囲の付属建物
を含めて「羂索院」と称された。『東大寺要録』「諸院章」には、「羂索院」は天平5年(733年)
良弁が不空羂索観音を本尊として創建したものであると記されている。実際の創建時期に
ついては、かつては天平年間の後半(740年代)とされていたが、年輪年代調査の進展等
により、『東大寺要録』のいう天平5年(733年)に近い頃の建立とする説もある。
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校倉造り
法華堂経庫(重要文化財) - 法華堂の南方に建つ校倉造倉庫。平安時代初期。道を挟ん
ですぐ南にあるもう1棟の校倉は、東大寺鎮守の手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)
の宝庫である。
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四月堂
東大寺の三昧堂は、「法華三昧会」が旧暦の4月に行われるため、一般に四月堂と呼ば
れている。創建は、1021年(治安3年)あるいは1067年(治暦3年)といわれ、現在の
建物は、1681年(延宝9年)の墨書銘がある。
本尊千手観音(重要文化財)や阿弥陀如来像(重要文化財)が安置されている。
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二月堂
東大寺二月堂(とうだいじにがつどう)は、奈良市の東大寺にある、奈良時代(8世紀)創建
の仏堂。現存する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されている。奈良の早春の
風物詩である「お水取り」の行事が行われる建物として知られる。「お水取り」は正式には
修二会といい、8世紀から連綿と継続されている宗教行事である。
東大寺の寺伝では、修二会は実忠によって始められたもので、大仏開眼供養と同年の天
平勝宝4年(752年)に初めて行われたとされ、二月堂の創建もこの時とされる。堂の創建
については同時代の史料に言及がなく、確実なことは不明である。
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舞台から
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裏参道
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1970年の大坂での万国博覧会・古河館の展示物
東大寺(旧大阪万博) 復元七重塔相輪部
東大寺の「東塔」と「西塔」は、764年に建立され、高さは70m以上あったと思われる。
「東塔」は1180年の平氏の南都焼き打ちなどで焼失し、 1227年に再建後も、1362年
に落雷で再び消失した。「西塔」も平安時代に焼失し、現在は両塔の基壇が部分のみ
が残っている。1970年大阪で開催された日本万国博覧会の古河館では、その東大寺
七重塔が再現された。建物は博覧会終了後取り壊されたが、相輪のみが保存され、
大仏殿回廊の東側に建てられている。
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東大寺
聖武天皇が発願され、平城京の東に建立されました。大仏開眼は天平勝宝4年(752年)。
2度の兵火に見舞われ当初の規模は有りませんが、それでも世界最大の木造建築、大仏
殿を始めスケール、寺宝の豊富さとも、天平文化を代表する大寺です。

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南大門
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氷室神社
元明天皇の御世、和銅3年7月22日、勅命により平城新都の左京、春日の御蓋の御料山
(春日山)に鎮祀され、盛んに貯水を起こし冷の応用を教えられた。これが平城七朝の氷
室で、世に平城氷室とも御蓋氷室とも春日の氷室とも言われた。翌和銅4年6月1日初め
て献氷の勅祭を興され、毎年4月1日より9月30日まで平城京に氷を献上せられた。奈良
朝七代七十余年間は継続せられたが、平安遷都後はこの制度も廃止せられ、遂に150
年を経て、清和天皇の御世、貞観2年2月1日現在の地に奉遷せられ、左右二神を増して
三座とせられた。明治維新後は、専ら氏子と冷凍氷業界の奉賛によって維持せられて今
日に及んでいる。
奈良時代、この春日野に氷池(新公会堂のあたり)や氷室(荒池・鷺池を望む浅茅ヶ原一
帯を推定)を設け、氷の神を祀り、春迎えの祭りを行い、順調な気候の推移と豊作を祈願
する重要な祭りが営まれたようです。
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奈良県庁屋上から
屋上で昨年、JR奈良ハイキングで知り合った方と再会、懐かしく嬉しかった・・・
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近鉄奈良駅(ゴール)・行基菩薩像
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南都銀行のレトロビル
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JR奈良駅
JRハイキング誌(1月~3月)を貰って帰った・・・・
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2017年1月6日・初出HP更新

1月7日          2017年1月6日・初出HP更新
                 歩こう会のHP更新
今年の初出、社友会・歩こう会のHP更新に八尾工場の社友会事務所
行って来ました。先月12月例会の実施状況と今月1月度例会の案内を社
友会HPへ投稿・・・
志都美駅へ向かう
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葛下川
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志都美駅前
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志都美駅
葛城山~二上山の山なみ&西名阪自動車道の香芝SA付近
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志都美駅前
カットハウスドンキホーテ
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久宝寺で降りて
八尾工場へ向かう
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此れは
帰りに久宝寺駅前の高僧ビルを・・・
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