3月5日の酒蔵みてある記大倉本家「大倉」・尺土駅-2
3月13日 3月5日の酒蔵みてある記 大倉本家「大倉」・尺土駅-2
近鉄ハイキング 歩程約10㎞
此の日は知人3人と参加、素晴らしいハイキング日和の中を酒蔵迄歩いた歩いた。、
コース 近鉄駅フリーハイキング 南大阪線 尺土駅受付 10時半~11時
尺土駅(受付)~木戸池公園~相撲博物館~仁王門~當麻寺~黒門~当麻神社
入口~傘堂~中川酒造~道の駅ふたがみパーク(昼食)~大倉本家・粕汁・試飲・
燗酒試飲・抽選会~五位堂駅(ゴール)
酒蔵では通常の常温のお酒の試飲、熱い粕汁の他に燗酒の試飲も有り良い気分。
抽選には4人共外れ、此の日の私の万歩計は23590歩で約15.8km歩いた事に・・・
志都美駅

JR御所駅~近鉄御所駅



尺土駅(受付・スタート)

木戸池公園


相撲博物館へ向かう


相撲博物館・・・葛城市HPより
相撲の起源として、「野見宿禰」(のみのすくね)と「當麻蹶速」(たいまのけはや)の
天覧相撲が日本書紀に書かれています。大和の国當麻の邑に「當麻蹶速」という
人物がいました。蹶速は手で角をへし折るほどの怪力の持ち主で、常日頃から
「この世で自分と互角に力比べができるものはいない、もしいればその人物と対戦
したいものだ」と豪語していました。天皇はその話を聞き、家臣に「當麻蹶速と互角
に戦えるものはいないのか?」と尋ねたところ、家来の一人が「出雲の国に野見宿
禰なる人物がいます。この人物を呼び寄せ蹶速と戦わせてはいかがでしょうか?」
と進言しました。天皇は大いに賛成し、垂仁天皇7年7月7日に「野見宿禰」と「當麻
蹶速」の対戦が行われました。お互いに足を上げて蹴りあい、長い戦いの末、けは
やはこの試合で命を落としてしまいました。この「宿禰」と「蹶速」の力比べが国技
相撲の発祥とされ、また、我が国初の天覧相撲といわれております。

當麻寺へ向かう


當麻寺・仁王門

當麻寺・・・葛城市HPより
當麻寺は、612年に用明天皇の第3皇子麻呂子王が河内国に建てた万法蔵院
に始まり、その後、麻呂子王の孫當麻真人国見が役行者ゆかりの現在地に移し
たものといわれます。681年に弥勒仏を本尊として金堂が創建され、以後、講堂
・千手堂(現・曼荼羅堂)・東西両塔などの諸堂宇と、中院(現・中之坊)をはじめと
する塔頭寺院が順次完成していきました。
創建当初は三論宗を奉じる学問寺院でありましたが、823年(弘仁14年)に空海
が当寺に参籠してから真言宗となり、當麻曼荼羅を中心として修法・観想・祈祷
などの仏道実践を重んじる密教寺院に転化した。この當麻曼荼羅は中将姫が
一夜で織りなした伝説とともに全国的に広まり、多くの参詣者を迎えて浄土信仰
の霊場として栄えた。この浄土信仰の高まりによって、南北朝時代には京都知恩
院が當麻寺境内地に往生院(現・奥院)を建立することになり、後に浄土宗が参入
する契機となりました。この結果、現在は真言宗と浄土宗の併立となっています。
平安後期に一時興福寺の末寺となったため、1180年(治承4年)、平家の南都攻
めの際に標的となり、金堂が大破、講堂は焼失してしまったが、間もなく源頼朝
が施主になって再興し、貴重な寺宝を現代に数多く伝えられることとなりました。

黒門を出て
傘堂へ向かう

此処までは、
3月5日の酒蔵みてある記大倉本家「大倉」・尺土駅-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-03-13
此処では、當麻山口神社入口~


※當麻山口神社・・・HPより
古くから近辺の16ヶ所の村(當麻、大橋、西中、勝根、今在家、染野、市場、岡崎、
大中、有井、神楽、築山、大谷、池田、野口、鎌田)の鎮守産土神として広く崇敬、
信仰されてきた旧指定郷社です。延喜式神名帳※(901年)には大和の国に14ヶ
所の山口神社が載り、いずれも式内大社の社格をもち、朝廷から奉納をうけてい
ました。これらの神社は本来、山々の精霊を支配した大山祗命を御祭神としたも
のと思われます。
當麻山口神社のことについては神名帳に「人皇55代文徳天皇仁寿3年(853年)、
夏4月、冬11月これを祀る」とあり、祈年祭、新嘗祭、月次祭には幣帛※が奉納さ
れ、特に祈年祭には幣帛と共に、馬1匹が加えられて奉られていました。三代実
録には清和天皇の貞観元年正月27日(859年)に当神社に正五位を贈られ、天
皇からの遣いが参向して幣帛奉納とあり神社縁起の上からもまことに古い歴史を
もつ由緒深いお社といえます。
摂社、當麻都比古神社の祭神、麻呂子皇子は第31代用明天皇の皇子で聖徳太
子の異母弟にあたり、當麻氏の先祖とされています。當麻寺を創建したこの地の
豪族當麻氏の氏神として男女二神をお祀りしています。延喜式神名帳に式内小
社と記載されています。
※傘堂・・・葛城市HPより
新在家の大池の東畔にある傘堂は、郡山藩主本多政勝候の菩提を弔うため、
その影堂として、恩顧の家臣やこの地域の農民たちによって延宝2年(1674)
に建立されたものです。一辺が約40cmの四角い一本柱を中心に立て、その
上に本瓦葺の方形造の屋根がのる珍しい形の建物で、その全体的な形が唐
傘に似ていることから傘堂(唐傘堂)と呼ばれています。また、いつの頃からか、
安楽往生を願う庶民信仰の対象にもなっています。



道の駅ふたがみパークへ向かう



此処にも酒蔵(中川酒造)が
「奈良 中川酒造」で調べると、二上山の麓に湧き出づる澄んだ泉のごとくと命名
された清酒「透泉」を醸造する江戸末期創業の酒蔵「中川酒造」が出てきました。
道の駅で「当麻蹶速(たいまのけはや) 720ml を販売しているようです。
知人が此の酒蔵で酒粕とお酒を購入した様ですが銘柄は見て無かったので・・・


ふたがみパークへ向かう


ふたがみパークで昼食


※葛城市ゆかりの有名人・・・葛城市HPより
・柿本人麻呂 ・大伯皇女と大津皇子 ・中将姫 ・飯豊天皇
・司馬遼太郎(しばりょうたろう)
司馬遼太郎氏の母の実家が磐城村(現葛城市竹内)にあったため、氏は幼少期を
この地で過ごしました。旧當麻町は、氏の原風景であったと言えるかもしれません。
「長尾から竹内にのぼる坂が実に印象的であった」
昭和61(1986)年に旧當麻町で行われた講演会で、氏はそう語っています。
酒蔵・大倉本家へ向かう



大倉本家
~酒は本来 素朴・端正をもって極上とする~
地酒「金鼓」「大倉」は、万葉の昔より「天の二上」と親しまれて来た二上山麓で誕生。
以来この地で百有余年、酒の真髄を追い求めて参りました。
山廃でしか出せない蔵の味。自家栽培米ひのひかりで仕込んだこだわりの味。先人
から伝え受けた水もと仕込みの技。創業以来育んできた技法を守りつつ、個性ある
質の良い酒造りを目指し技術の研讃に励んでいます。







五位堂駅(ゴール)

近鉄ハイキング 歩程約10㎞
此の日は知人3人と参加、素晴らしいハイキング日和の中を酒蔵迄歩いた歩いた。、
コース 近鉄駅フリーハイキング 南大阪線 尺土駅受付 10時半~11時
尺土駅(受付)~木戸池公園~相撲博物館~仁王門~當麻寺~黒門~当麻神社
入口~傘堂~中川酒造~道の駅ふたがみパーク(昼食)~大倉本家・粕汁・試飲・
燗酒試飲・抽選会~五位堂駅(ゴール)
酒蔵では通常の常温のお酒の試飲、熱い粕汁の他に燗酒の試飲も有り良い気分。
抽選には4人共外れ、此の日の私の万歩計は23590歩で約15.8km歩いた事に・・・
志都美駅
JR御所駅~近鉄御所駅
尺土駅(受付・スタート)
木戸池公園
相撲博物館へ向かう
相撲博物館・・・葛城市HPより
相撲の起源として、「野見宿禰」(のみのすくね)と「當麻蹶速」(たいまのけはや)の
天覧相撲が日本書紀に書かれています。大和の国當麻の邑に「當麻蹶速」という
人物がいました。蹶速は手で角をへし折るほどの怪力の持ち主で、常日頃から
「この世で自分と互角に力比べができるものはいない、もしいればその人物と対戦
したいものだ」と豪語していました。天皇はその話を聞き、家臣に「當麻蹶速と互角
に戦えるものはいないのか?」と尋ねたところ、家来の一人が「出雲の国に野見宿
禰なる人物がいます。この人物を呼び寄せ蹶速と戦わせてはいかがでしょうか?」
と進言しました。天皇は大いに賛成し、垂仁天皇7年7月7日に「野見宿禰」と「當麻
蹶速」の対戦が行われました。お互いに足を上げて蹴りあい、長い戦いの末、けは
やはこの試合で命を落としてしまいました。この「宿禰」と「蹶速」の力比べが国技
相撲の発祥とされ、また、我が国初の天覧相撲といわれております。
當麻寺へ向かう
當麻寺・仁王門
當麻寺・・・葛城市HPより
當麻寺は、612年に用明天皇の第3皇子麻呂子王が河内国に建てた万法蔵院
に始まり、その後、麻呂子王の孫當麻真人国見が役行者ゆかりの現在地に移し
たものといわれます。681年に弥勒仏を本尊として金堂が創建され、以後、講堂
・千手堂(現・曼荼羅堂)・東西両塔などの諸堂宇と、中院(現・中之坊)をはじめと
する塔頭寺院が順次完成していきました。
創建当初は三論宗を奉じる学問寺院でありましたが、823年(弘仁14年)に空海
が当寺に参籠してから真言宗となり、當麻曼荼羅を中心として修法・観想・祈祷
などの仏道実践を重んじる密教寺院に転化した。この當麻曼荼羅は中将姫が
一夜で織りなした伝説とともに全国的に広まり、多くの参詣者を迎えて浄土信仰
の霊場として栄えた。この浄土信仰の高まりによって、南北朝時代には京都知恩
院が當麻寺境内地に往生院(現・奥院)を建立することになり、後に浄土宗が参入
する契機となりました。この結果、現在は真言宗と浄土宗の併立となっています。
平安後期に一時興福寺の末寺となったため、1180年(治承4年)、平家の南都攻
めの際に標的となり、金堂が大破、講堂は焼失してしまったが、間もなく源頼朝
が施主になって再興し、貴重な寺宝を現代に数多く伝えられることとなりました。
黒門を出て
傘堂へ向かう
此処までは、
3月5日の酒蔵みてある記大倉本家「大倉」・尺土駅-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-03-13
此処では、當麻山口神社入口~
※當麻山口神社・・・HPより
古くから近辺の16ヶ所の村(當麻、大橋、西中、勝根、今在家、染野、市場、岡崎、
大中、有井、神楽、築山、大谷、池田、野口、鎌田)の鎮守産土神として広く崇敬、
信仰されてきた旧指定郷社です。延喜式神名帳※(901年)には大和の国に14ヶ
所の山口神社が載り、いずれも式内大社の社格をもち、朝廷から奉納をうけてい
ました。これらの神社は本来、山々の精霊を支配した大山祗命を御祭神としたも
のと思われます。
當麻山口神社のことについては神名帳に「人皇55代文徳天皇仁寿3年(853年)、
夏4月、冬11月これを祀る」とあり、祈年祭、新嘗祭、月次祭には幣帛※が奉納さ
れ、特に祈年祭には幣帛と共に、馬1匹が加えられて奉られていました。三代実
録には清和天皇の貞観元年正月27日(859年)に当神社に正五位を贈られ、天
皇からの遣いが参向して幣帛奉納とあり神社縁起の上からもまことに古い歴史を
もつ由緒深いお社といえます。
摂社、當麻都比古神社の祭神、麻呂子皇子は第31代用明天皇の皇子で聖徳太
子の異母弟にあたり、當麻氏の先祖とされています。當麻寺を創建したこの地の
豪族當麻氏の氏神として男女二神をお祀りしています。延喜式神名帳に式内小
社と記載されています。
※傘堂・・・葛城市HPより
新在家の大池の東畔にある傘堂は、郡山藩主本多政勝候の菩提を弔うため、
その影堂として、恩顧の家臣やこの地域の農民たちによって延宝2年(1674)
に建立されたものです。一辺が約40cmの四角い一本柱を中心に立て、その
上に本瓦葺の方形造の屋根がのる珍しい形の建物で、その全体的な形が唐
傘に似ていることから傘堂(唐傘堂)と呼ばれています。また、いつの頃からか、
安楽往生を願う庶民信仰の対象にもなっています。
道の駅ふたがみパークへ向かう
此処にも酒蔵(中川酒造)が
「奈良 中川酒造」で調べると、二上山の麓に湧き出づる澄んだ泉のごとくと命名
された清酒「透泉」を醸造する江戸末期創業の酒蔵「中川酒造」が出てきました。
道の駅で「当麻蹶速(たいまのけはや) 720ml を販売しているようです。
知人が此の酒蔵で酒粕とお酒を購入した様ですが銘柄は見て無かったので・・・
ふたがみパークへ向かう
ふたがみパークで昼食
※葛城市ゆかりの有名人・・・葛城市HPより
・柿本人麻呂 ・大伯皇女と大津皇子 ・中将姫 ・飯豊天皇
・司馬遼太郎(しばりょうたろう)
司馬遼太郎氏の母の実家が磐城村(現葛城市竹内)にあったため、氏は幼少期を
この地で過ごしました。旧當麻町は、氏の原風景であったと言えるかもしれません。
「長尾から竹内にのぼる坂が実に印象的であった」
昭和61(1986)年に旧當麻町で行われた講演会で、氏はそう語っています。
酒蔵・大倉本家へ向かう
大倉本家
~酒は本来 素朴・端正をもって極上とする~
地酒「金鼓」「大倉」は、万葉の昔より「天の二上」と親しまれて来た二上山麓で誕生。
以来この地で百有余年、酒の真髄を追い求めて参りました。
山廃でしか出せない蔵の味。自家栽培米ひのひかりで仕込んだこだわりの味。先人
から伝え受けた水もと仕込みの技。創業以来育んできた技法を守りつつ、個性ある
質の良い酒造りを目指し技術の研讃に励んでいます。
五位堂駅(ゴール)