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4月29日のへぐり時代祭 歴史ウオーク・平群駅-2

4月30日     4月29日のへぐり時代祭 歴史ウオーク・平群駅-2
              近鉄駅フリーハイキング 歩程約9㎞
知人と3人で参加、途中でもう一人の知人と遭遇?し、4人で一緒に歩く事に、
コース 近鉄駅フリーハイキング 平群駅受付9時半~11時  10時集合
平群駅(受付)~藤田家住宅~白山神社弥勒堂~長屋王墓・吉備内親王墓
~道の駅(祭り)~鳥土塚古墳~石床神社旧社地~西宮古墳~平群駅
ゴール平群駅前の喫茶で、知人2人にもう1人の方を紹介してコーヒータイム、
白山神社の境内では最近顔見知りになって挨拶を交わすご夫婦にも出会い、
暑くも無く寒くも無く風通しの良い爽やかな素晴らしいハイキングとなりました。
此の日の私の万歩計は、21263歩で約14.3km歩いたことに・・・
志都美駅
葛城山~二上山
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平群駅で受付
知人と待ち合わせてスタート
長楽寺
長楽寺は、平群町にある 聖観音を本尊とする 真言宗豊山派の寺院です。
聖徳太子の建立と伝えられ、平群町役場の向かいにあるのが長楽寺です。
寺には、太子が腰をかけて戦略を練ったとされる「鑑石」(かんがみいし)が
あります。
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※下記は現地駒札より引用
用明天皇2年(586)聖徳太子建立と伝わる真言宗豊山派の寺院。山号は
勝出山。寺伝では太子が仏敵の物部守屋を討伐する時、ここで石(現在本
堂の前にある鑑石)の上に坐り、軍法を鑑み、護法四天王に祈念して曰く
「我をして敵軍に勝たし給えば必ずここに寺塔を建立して神仏を弘通せん」。
すると毘沙門天王が現れて軍法を授け、戦勝を得たので、ここに毘沙門天
本地仏「聖観音立像」を太子自ら刻み安置したという。

つぼり山古墳へ向かう
竜田川を渡る
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つぼり山古墳
生駒山地より東に延びる丘陵の南斜面に築造された古墳で、墳丘は造成工事で
削平され、当初の姿を留めていないが、一辺20m程の方墳の可能性が考えられ
ている。主体部は南に開口する横穴式石室で、玄室は二段積みで、2石目が大
きく内傾し、前壁も同様だったとみられる。
玄室中央と羨道に各一基の二上山白色凝灰岩製の刳抜式(くりぬきしき)家形石
棺が納められている。玄室棺は蓋が半分のこり、わずかに下方に傾いた縄(なわ)
掛(かけ)突起の形態が確認できる。古くに開口し、石室の整備に伴う発掘調査で
は当初の副葬品は出土せず、石室構造、石棺形態より7世紀初頭の築造と考え
られている。
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藤田家住宅へ向かう
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藤田家住宅
藤田家は、系図によると武蔵国榛沢郡藤田庄(埼玉県本庄市藤田)に藤原氏
の荘園があり、その荘官出身。鎌倉期に武士化して上杉氏に仕え、藤田姓を
名乗る。その滅亡後は甲斐武田氏に仕え、室町期に武田氏が滅ぶと大和に
移り、山辺郡を本拠に筒井氏・藤堂氏に仕えた。元和(げんな)(1615~1624)
の頃に平群に転封され、帰農して庄屋を歴任した。
藤田家住宅は北福貴の高台にあり、南には灰田川の谷を見下ろす要地にある。
整った大和棟(やまとむね)の民家として指定され、昭和59、60年度に半解体修
理が行われた。修理の際の調査により、当初は元禄年間(1688~1703)に建て
られた萱葺(かやぶき)の入母屋造りで、三度の改修が確認された。第一次改造
は18世紀後半、第二次改造は文化4年(1807)、第三次改造は明治末年(1912)
に実施されている。修理後は、指定の趣旨から大和棟の形態が整った第一次改
造の姿に復元されている。
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白山神社へ向かう
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白山神社弥勒堂
白山神社
この神社は平群中学校の西約300mに鎮座しています。一の鳥居と社号標は境内
から200m程手前に建立され、参道はいったん左に曲がってから神社へと行き着き
ます。神社入り口脇には双体道祖神と思しき二体の仏像のレリーフが彫られた石
像が祀られ、二の鳥居を潜り石段を上がると正面に弥勒堂が建立されています。
其の右側に並んで割拝殿が建ち、その奥に浪速狛犬に護られた本殿が覆い屋内
に建立されています。神社から外を振り返ると、宮池が穏やかな水面を見せて・・・
主祭神 伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)
伊弉冉尊 (いざなみのみこと) 御祭神 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
伊弉諾尊・伊弉諾冉尊を祀っていた福貴寺の神宮寺。明治初めに神仏分離で独立、
森垣内の小森神社と栗坪垣内の38社神(子守神社)を合祀して福貴大字全体の氏
神となる。明治25年(1892年)の明細帳には「或云白山大神」とみえる。享保14年
(1729年)奉納の慈尊山白山大明神の湯釜が伝わる。白山神社周辺が福貴寺の跡
で、慈尊山福貴寺と号し、法隆寺の高僧「道詮律師」の隠居寺として栄え、盛時には
60坊を数え、境内奥に、中ノ坊・西ノ坊等の塔頭跡が残る。弘法大師とも信仰があつ
く、伝燈大師と号して南都七大寺僧綱を兼ね、荒廃した法隆寺夢殿の再建を果たし、
その功績から律師像(塑像:国宝)が夢殿の本尊脇に侍している。隠居後も、法隆寺
の学僧等の請いを受けて毎年夏期に百ヶ日間三経を講じに往来し、民衆からは「福
貴の道詮」と呼ばれて厚く慕われた。境内奥に近世の供養墓が祀られている。
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此処までは、
4月29日のへぐり時代祭 歴史ウオーク・平群駅-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-04-30 
此処では、続きの普門院跡~の詳細を
4月29日のへぐり時代祭 歴史ウオーク・平群駅-2 として掲載します。
普門院跡(ふもんいんあと)
法隆寺の夢殿を再興した道詮律師が隠居寺として建てた福貴寺の塔頭の
一つで、日頃起居された住坊だと伝えられている。
脇仏で江戸時代の木造仏、3体が盗難にあったが、重要文化財に指定され
ている木造聖観音立像は残されており、現在は法隆寺に保管されている。
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吉備内親王墓
長屋王墓北西150mのやや高所、丘陵斜面の中段に所在する塚で、現状は直
径20m、高さ2m程の円墳である。長屋王墓と共に明治34年に治定されている。
明治26年の野淵龍潜の調査では、「墳丘に埴輪の残欠多く、巨石が鍵の手に
埋っている。墳頂に埴輪が散布する」とあり、絵図にも3つの巨石が描かれてい
る。同32年の平群村の調査図では台形状の塚として描かれている。現在は方
形の石垣と生垣で囲まれ、南側に長い石段の参道が取り付いている。
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長屋王墓
平群谷の北より、矢田丘陵より西に長く延びる丘陵の南斜面裾にある塚で、直径
15m、高さ1.5m程の円墳状をしている。宮内庁により明治34年に、奈良時代初
期の皇親政治家、長屋王の墳墓に治定されている。現在は方形の石垣と生垣の
で囲まれ、南側に参道が取り付いている。『続日本紀』神亀6年(729)には、正妻
吉備内親王と共に「生駒山に葬る」とのみ記され、明確な葬地は示されていない。
そして、約千年後の江戸中期にまとめられた『大和志』に、「双墓 梨本村にあり
一は長墓と称し左大臣正二位長屋王、一は宇司墓と称し二品吉備内親王‥・・」
と記され、梨本の2つの塚が夫妻の墓とされている。
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※長屋王墓の下には削平された前方後円墳(前方部を西に向け、全長約45m
で、周溝をもち、葺石・円筒埴輪・須恵器を配置す。6世紀前半の築造。)の梨本
南2号墳が埋まっていることが確認されている。長屋王墓との関係は不明であ
るが、梨本南2号墳は付近に分布する後期古墳群の初出である可能性もあり、
その形状とともに、注目される古墳である。

へぐり時代祭りパレード
行列では、平群町に関わりのある歴史上の人物が町内を練り歩きます。
へぐり時代行列は、2010年にあった平城遷都1300年祭をきっかけに始
められました。天平衣装や甲冑の装束をまとった時代行列、住民参加型
で住民が手作りで作ったイベントです。 1300メートルほど練り歩きます。
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道の駅(祭りステージと屋台)
イベントで大賑わいの為、此処を通りこして、次の鳥土塚古墳へ向かうべく、
竜田川を渡り川沿いの公園で昼食をとることに、桜吹雪?の中で昼食・・・
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鳥土塚古墳(うどつかこふん)へ向かう
古墳前の釣り堀
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鳥土塚古墳
竜田川の西岸、南北方向の独立丘陵に築造された北面する前方後円墳。墳丘
は全長60.5m、後円部径35m、高さ約9m、前方部幅31mあり、平群谷最大規
模の古墳。墳丘は一段築成で葺石はなく、墳頂寄りに1.5~2m間隔で円筒埴
輪を並べていたらしい。墳丘西裾では幅約2mの小規模な周溝が確認されてい
る。主体部は南に開口する両袖式の横穴式石室。西北西800mの石床神社付
近(越木塚)から運ばれた巨石を用い、奥壁と前壁は垂直に、両側壁はやや持ち
送られて積まれいる。玄室(げんしつ)中央と羨道(せんどう)奥寄りに二上山白色
凝灰岩(ぎょうかいがん)製の組合家形石棺が納められ、玄室の周囲より金銅装
馬具・銀装太刀等の武具・四獣鏡・須恵器・土師器等の副葬品が出土し、立体
的な副葬品配置が確認されている。また、石室前庭部付近で須恵器子持ち器台
・巫女(みこ)形埴輪・形象埴輪・須恵器(すえき)大甕(おおがめ)などがまとまって
出土しており、石室閉塞部分における埴輪と須恵器を用いた墓前祭祀の様子が
明かとなった。
墳丘の花&景色&玄室
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※石床神社旧社地・・・今回はパス、行かなかった
越木塚集落の南東部、伊文字川流域を見下ろす位置にあり、本殿や拝殿は当
初からなく、鳥居と社務所があっただけで、崖面に露頭した高さ約6m、幅10数m
の巨大な「陰石」を御身体としている。『延喜式』に記載のある式内社で、祭神は
剣刃石床別命(けんじんいわとこわけのみこと)。貞観元年(859年)には従五位
上を授けられている。地域での磐座(陰石)信仰が窺え、古い信仰形態を伝える
貴重な神社である。大正13年(1924)に集落内の素盞鳴神社「現:石床神社」に
合祀されている。この付近には花崗岩の巨石が多数露頭し、烏土塚古墳や西宮
古墳に運ばれており、古墳時代~飛鳥時代の石材産地でもある

西宮古墳(にしのみやこふん)へ向かう
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西宮古墳
廿日山(はつかやま)丘陵の南側斜面、中段に築造された方墳。一辺約36mあり、
二段のテラスを配して三段に築成されている。墳丘の左右と後方の三方に堀割
を廻らし周囲の地形を大きく取り込んだ墓域を有する。
墳丘は全面に貼石が施され、傾斜部分(35度)は扁平な石を、テラス部分はやや
丸みのある石を用いている。墳丘の南側、下段テラス面にあわせて精美な切石
の横穴式石室を設け、羨道側石と天井石の前面を墳丘勾配に合わせて加工し
ている。この状況から、石室の開口部を墳丘封土に埋め込むのではなく、扉状
の施設によって閉塞し、石室を墳丘外に明示していたことが確認できる。羨道の
幅に合わせて前面テラスを0.2m下げて墓道としている。石室は基本的に一石で
積まれ、玄室は奥壁、側石、天井石がそれぞれ一枚石で積み木のように組まれ
ており、目地には漆喰(しっくい)が詰められている。
石室の床面には近世に礫石経((れきせききょう)法華経)が敷かれているが、こ
の下には90cm角ぐらいの花崗岩切石を敷きつめているらしい。玄門部に竜山
石(たつやまいし)製の刳抜式(くりぬきしき)家形石棺身部が盗難を免れ
て残り、外面上下に帯状の突帯を設けている。羨門部で須恵器坏蓋(つきふた)、
高坏片が出土し、7世紀中葉から後半の築造と考えられている。
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中央公園でトイレ休憩
ベニバナトキワマンサク?が綺麗
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平群神社
祭神は大山祇神(おおやまつみのかみ)。「延喜式」神名帳記載社。五座の祭
神とある。神功皇后の時代(4世紀半ば)平群氏の祖・武内宿禰が神功皇后と
共に新羅出征前に戦勝祈願として大山祇神をこの地に祀ったと伝わる。その
後平群氏が祖神の武内宿禰と平群木菟宿禰(つくのすくね)を祀ったのだろう。
五穀豊穣と、武運長久、家内安全の守護神として信仰を集め今日に至る。

平群駅~王寺駅~バスで帰宅
おまけ
我家の草木花?モミジが緑色に変わりつつ・・
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4月27日の病院&馬見丘陵公園

4月29日       27日の病院&馬見丘陵公園
               眼科で視野検査他
午前中は病院で目の検査&治療、何時もの眼圧の検査、視力検査、視野検査、
眼底検査、涙の通り道治療(洗浄)、今回右目の矯正視力が0.5と悪くなってると
言う事で、緑内障の治療を今の3種類の点眼薬(目の圧力を下げる薬2種、炎症
を鎮める薬1種)だけで良いのか?緑内障の専門医に一度診察を受ける様に進
められ、受診する事にした。
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午後に、馬見丘陵公園の変わり種?チュウリップを見に家内を連れて行って来た。
北エリア駐車場に九ry真を停めて、お目当ての変わり種?チュウリップへ、色違い
の2種類が丁度咲いていた、折角なので近場のチュウリップも撮って帰った・・・
変わり種チュウリップ?
一株に4~5輪花を付けている、チュウリップ祭り中には咲いて無かった
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普通のチュウリップ
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4月25日の歩こう会・浅香山緑道他・浅香駅-2

4月26日      4月25日の歩こう会・浅香山緑道他・浅香駅-2
             浅香山緑道つつじ&関西大学堺キャンパス
コース:浅香駅(10時半 集合・スタート) 歩程約6km  参加者は94人とまあまあ
浅香駅(スタート)~浅香山稲荷神社~浅香山公園~浄水場つつじ鑑賞~大和川水
辺体感~関西大学堺キャンパス前~鉄砲鍛冶射的場跡~南海本線七道駅(ゴール)
駅前の放鳥銃定限記(ほうちょうじゅうていげんき)碑と河口慧海の銅像
天気良く最高のハイキング日和、私の万歩計は16295歩で約10.9km歩いた事に・・・
志都美駅へ向かう
志都美駅から葛城山~二上山
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浅香駅(スタート)爽やかで心地良い天気・・・
ツツジがお出迎え?
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浅香山城跡
奈良時代の左大臣藤原魚名の子孫、浅香氏の居城だった。浅香将監宗勝は南朝
に属した。室町後期の文亀元年(1501)に落城、一族は閑居していたが、天正の
豊臣秀吉の四国攻めの際に功があり、浅香善右衛門宗胤が旧城地一帯を与えら
れた。城跡は現、浅香山稲荷と伝えられる。
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浅香山稲荷神社・・・「浅香山稲荷神社案内板」
昔、この辺り住之江の浦と連なる小さな湾で、そこに小島が出来、遠く推古天皇の御
代(590年代)聖徳太子御巡遊の折、白髪の老翁が太子に、昔より比処に埋る香木
有り、と伝えて去る。太子が不思議に思い、掘らせたところ、果せるかな地中より幾
千年も経たと思われる朽木が出で、これを焼かせたところ馥郁優なる香りたなびき、
その時太子が「浅からぬ香り」と仰せられて、以後この地を”浅香の浦”と呼び、その
香木で老翁の像を刻みここに祀られたのがこの神社の創始と言われています。
後、ここに城を築いて、この神像を稲荷大神と仰ぎ祭られてきた。この稲荷大神とは
宇迦之御魂大神と言い。生活の大本を司り福徳盛運の守護神として伊勢外宮にます
豊受大神と異名同神と言われます。
時移り世が代わって宝永年間(1704)、旧大和川の水害から流域を守るために大久
保大隈守宰領として流れを変える工事の折、この地の狐塚の所に至り、どうしても工事
が進まず、前日掘った所が翌日は又元に復し、人夫達は恐怖におののき手だしも出来
ず、宰領奉行も神威を畏み、計画を変えこの狐塚を避けることによって大工事を完成さ
せるに至りました。
後、宰領大隈守は神威を怖れこの狐塚の所に神殿を建立し、現在に至っております。
尚、現神殿は、昭和五十一年七月に改築完成されたものです。
神前の一対の石灯籠は大久保大隈守の寄進にかかり、又自然石の大手洗鉢は当時
の川口奉行等の寄進によるものです。   以上「浅香山稲荷神社案内板」より
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浅香山公園へ向かう
ライラック(リラの花)
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浅香山公園の藤
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浅香山公園~浄水場つつじ(浅香山緑道)
※浅香山浄水場
1910年(明治43年)4月通水。近代水道としては全国18番目である。当初は大和
川から原水を取水していたが、大和川の水質の悪化に伴って1978年(昭和53年)
11月に取水は中止されている。また、かつての浄水施設も撤去が進み、事実上
「浄水場」ではなく「配水場」である。
現在は、淀川から取水した大阪広域水道企業団村野浄水場から送水された浄水や
堺市内の他の配水場からの送水をいったん浅香山浄水場で受水したのち、堺区内
に配水している。配水池容量は高架配水池2池と地下1池で24,000m3。
厚生労働省の「近代水道百選」に選ばれている。

ツツジの通り抜け
浅香山浄水場では毎年4月下旬~5月上旬にかけて、「ツツジの通り抜け」をおこ
なっている。浄水場内の沈殿池の堤防強化や緑化を目的に植えられたヒラドツツジ
約2300本が、期間中に無料公開される。ツツジの通り抜けは1956年(昭和31年)
に開始された。ちなみに2011年(平成23年)は東日本大震災の影響で中止。
2012年(平成24年)からは、浄水場敷地内の一部に常時散策可能な「浅香山緑道」
が整備されたことにより、これまでの開花時期だけの期間限定開放から、常時つつ
じを楽しめる環境へと変わった(緑道部分)。
また、この緑道の完成により、「緑道のつつじ」とこの時期に開放される「浄水場のつ
つじ」を合わせて、「浅香山つつじまつり」へと名前が改められた(旧「浅香山浄水場
つつじの通り抜け」)。浄水場の樹齢70年を越えるつつじ約500本と、新しく植えられ
たつつじ約2000本が約600メートルにわたって楽しめる。
浅香山浄水場のツツジは、「大阪みどりの百選」にも選定されてい。

浅香山緑道のツツジ
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此処までは、
4月25日の歩こう会・浅香山緑道他・浅香駅-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-04-26
此処では、この続きの浅香山緑道のツツジの途中~について
4月25日の歩こう会・浅香山緑道他・浅香駅-2 として詳細を掲載します。
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此の時期、浄水場へは入れない
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大和川水辺体感
昼食には、このメタセコイヤの林へ戻って来る・・・
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関西大学堺キャンパス
(堺市立堺商業学校~堺市立商業高等学校跡)
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メタセコイヤの林へ戻って(昼食)
集合写真撮影の後、大和川河川敷ウオークへ・・・
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鉄砲鍛冶射的場跡・・・大阪府堺市堺区鉄砲町
南海本線七道駅(ゴール)駅前に放鳥銃定限記碑と河口慧海の銅像
放鳥銃定限記 (ほうちょうじゅうていげんき)碑
わが国に初めて鉄砲が伝来したのは,天文十二年(1543年)のことです。
堺の貿易商人橘屋又三郎は,いちはやく種子島より鉄砲の製造技術と射撃場を持
ち帰ったと言われています。また,紀州根来の津田監物算長も伝来の銃を持ち帰り
堺出身の刀工芝辻清右衛門に鉄砲を作らせました。清右衛門は,豊臣秀吉の「根
来攻め」のあと堺に戻って製造を続け,鉄砲鍛冶芝辻一門の祖となりました。
堺鉄砲の製造は,芝辻一門,榎屋一門など多くの鉄砲鍛冶によって国内最大の生
産量を誇りました。それとともに試射場も次々と作られ,このあたりにも江戸時代初
期につくられた試射場が,昭和の初めまでその面影を残していました。
大正三年にこの付近で,運河の開削工事中に「放鳥銃定限記」と題した碑が、発見
されました。この碑には,寛文四年(1664年)砲術家川名金右衛門忠重によって、
「鉄砲 は優れた兵器で,正しく扱えば命中確実である。しかし,そのためには不断の
習練が必要である。小濱民部丞嘉隆は文武両道を兼ね備えた人であり,堺の浜に
射撃場を設け砲術家の養成や銃の試射を行うなど,大きな功績を残した。」と,恩師
小濱丞嘉隆への讃辞と鉄砲試射場の由来が記されています。
この碑もまた,堺鉄砲の歴史を物語る貴重な資料です。
     運河掘削工事の発起人であった柳原吉兵衛氏は,この碑を後世に伝え
     顕彰するために,自然石をくりぬいた中にはめこみました。その後、昭和
     一九年に堺市に寄贈され,長らくザビエル公園に保存されてきましたが、
     駅前広場の整備にともない,発見場所に近いこの場所に移設しました。
 平成二年三月  堺市  堺市教育委員会
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河口慧海
河口慧海[慶応2年(1866年)~昭和20年(1945年)]
河口慧海は現在の堺区北旅籠町西に生まれました。幼名は定治郎(さだじろう)。
錦西小学校、土屋弘(鳳州)の晩晴塾、東京の哲学館(現、東洋大学)に学ぶ。
黄檗宗の僧侶。仏教学者にして探検家。僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。
中国や日本に伝承されている漢語に音訳された仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来
の教えの意味が分る物を求めて、梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を決意。
慧海は、チベット語訳の仏教原典を求めて明治30年および37年の二回にわたり
チベットへ入国しました。その旅行記(『西蔵旅行記』)は、仏教学者だけではなく
民族学者、探検家にも高く評価され英訳も出版されました。晩年は僧籍を返上し
て在家仏教を提唱しました。
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5人で七道駅近くの喫茶店でだべった後、1人は七道駅へ、2人は浅香駅へ、
私達は、2人で高須神社~阪堺線(ちんちん電車)で阿倍野橋へ出て帰った。
私はあべのハルカス&JR天王寺駅へ、連れは近鉄阿部野橋駅へ別れた・・・
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4月23日の新家長福寺の桜・ボタン・藤

4月26日        4月23日の新家長福寺の桜・ボタン・藤
                     (花のお寺)
23日、寝屋川市へ伯母さんの見舞いに行った帰りに少し時間が有ったので
22日の近鉄ハイキングで訪れた広陵町の新家長福寺へ立ち寄ってみた、駐
車場が満車なら帰ろう、と思いながら行ってみるとうまい具合に広陵町図書
館の駐車場に入る事が出来、新家長福寺の八重桜や藤棚、ボタンや石楠花、
ハナズオウなどを家内にも見せる事が出来た・・・・
    
新家長福寺(花の寺 ボタン・石楠花・桜・藤・はなずおう)
浄土真宗大谷派の寺院で本尊は天正2年(1547年)造立の阿弥陀如来立像です。
徳川家康より、僧慶秀が新家の地を賜り草庵を設け「長福寺」と称したのが始めで
あり、承応元年(1652年)には新家御坊と称した様で、新家長福寺と称されたのは
寛文3年(1663年)からです。境内には八重桜が多く、「桜御坊」とも呼ばれます。
ガラケーでポイントブログへ投稿した3枚
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この7枚は23日にカメラで撮った八重桜、ボタン、藤、たんぽぽ・・・
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 帰りに道路脇のタンポポ
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下記の 近鉄ハイキング
☆4月22日「生産量日本一」靴下のお祭り・五位堂駅-1&2 
 には、大量の花の写真を投稿済みです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-04-24

http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/2017-04-24

4月22日「生産量日本一」靴下のお祭り・五位堂駅-2

4月24日     4月22日「生産量日本一」靴下のお祭り・五位堂駅-2
              近鉄駅フリーハイキング 歩程約8㎞
知人と3人で参加、まさしく素晴らしい天気のハイキング日和に花の寺も映えて。
コース 近鉄駅フリーハイキング  五位堂駅受付10時~11時半
五位堂駅(受付)~牧野古墳~馬見丘陵公園~竹取公園(靴下祭り会場)~新家
長福寺(花の寺 ボタン・石楠花・藤・桜)~三吉石塚古墳~五位堂駅(ゴール)
此の日の私の万歩計は、19899歩で約13.3km歩いたことに・・・
香芝駅~下田駅へ乗り換え
鹿島神社
創建は第80代高倉天皇の承安2年(1172年)3月に、源義朝の家臣であった
鎌田政清の子・鎌田小次(二)郎政光が常陸国(現、茨城県)鹿島神宮の御分
霊を勧請したのが始まりとされます。
当社に伝わる古文書(鹿嶋文書※)によると、平治元(1159)年、平治の乱に
あって源義朝が平清盛に敗れ、東国へ敗走中に義朝の第一の家臣であった
鎌田兵衛藤原政清の舅 尾張国(現、愛知県)半田郡野間の長田庄司忠致に
匿われました。 しかし、忠致は恩賞目当てに義朝を浴場で暗殺、政清も忠致
の子景致に殺害され、随行家来の大半は討死致しました。鎌田政清の子・政
光はかろうじて難を逃れ、常陸国 鹿嶋神宮に辿り着いたとされています。
そこで、源氏の再興を祈願し、百日の参籠を行い、昼夜一心に法華経を誦唱
しました。 満願の夜、夢に一老翁が現れ「庚子(の年)源氏栄え、汝の福 西に
あり」との御神託があり、御分霊の御幣を奉じ西方へと向いました。大和の下
田の里で夕暮れとなり、土手(田のほとりとするものもある)の松の木の下で
野宿し、翌朝この地の景色が極めて鹿嶋に似ていた為、懐かしく思いここに
小祠を建て鹿嶋大明神を祀ったといわれます。
御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)(武甕雷神・建御雷之男神
とも表記される)神様の中でも一、二を争うほど武勇に優れ、武神・軍神とし
て知られています。延喜式内社。
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下田駅~五位堂駅
五位堂駅(受付)
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かつらぎの道を牧野古墳へ向かう
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牧野古墳
古墳時代後期末葉の直径50mの大型円墳で、舒明(じょめい)天皇の父にあたる
押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえみこ)の成相墓(ならいのはか)の
可能性があります。墳丘は三段築成で造られ、二段目に全長17.1mの横穴式石
室が開口しており、玄室内からは、服装品として、金環やガラス小玉の装身具類、
壷鐙(つぼあぶみ)や縁金具の有る障泥などの馬具が多数出土しています。
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馬見丘陵公園へ向かう
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馬見丘陵公園(昼食)
大和平野のほぼ中央に有る馬見丘陵は、我が国でも有数の古墳が集中している
地域です。これらの古代の遺跡を包み込む様に、豊かな自然が広がっています。
馬見丘陵公園は、こうした歴史と文化の遺産や素晴らしい自然環境を、憩の空間
として広く活用して頂く事を目的に整備された都市公園です。又、馬見丘陵公園内
には多数の古墳が有ります。
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   ナガレ山古墳
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   はんかちの木
  今年は沢山のハンカチ?がぶら下がりそう・・・
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   カエルが出迎え、ウッドデッキへ
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    リキュウ梅、マンサク、ライラック(リラの花)、
    ツツジ、16日迄のチュウリップ祭りの名残り等・・・
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    陸橋を渡って巣山古墳前へ
    四葉のクローバを探してる??・・
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竹取公園へ向かう
竹取公園・公園グランド(靴下祭り会場)
竹取公園
「竹取公園」と言う名前から、昔話の竹取物語やかぐや姫を連想すると思いますが、
まさにこの竹取公園の此処がその舞台とされている場所です。かぐやひめの描かれ
ている竹筒形のトイレもユーモアが有ります。園内には花とせせらぎ広場や古代住
居広場、学びの森、ちびっこゲレンデ、皆の広場など、様々な遊戯施設や学習施設
が有ります。
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公園グランド(靴下祭り会場)
広陵町商工会主催の靴下祭り会場です。例年春と秋に2回開催されています。会場
内は出店や、国産の靴下の即売会が実施されています。
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新家長福寺(花の寺 ボタン・石楠花・桜・藤・はなずおう)
浄土真宗大谷派の寺院で本尊は天正2年(1547年)造立の阿弥陀如来立像です。
徳川家康より、僧慶秀が新家の地を賜り草庵を設け「長福寺」としょうしたのが始め
であり、承応元年(1652年)には新家御坊と称した様で、新家長福寺と称されたの
は寛文3年(1663年)からです。境内には八重桜が多く、「桜御坊」とも呼ばれまう。
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此処までは、
4月22日「生産量日本一」靴下のお祭り・五位堂駅-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-04-24
此処では、此の続きの新家長福寺の花々の途中~の詳細を
4月22日「生産量日本一」靴下のお祭り・五位堂駅-2 として掲載します。
新家長福寺の花々
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  ボタンは此れから・・・
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   ハナズオウ
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   藤棚
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    鉢植えの石楠花
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三吉石塚古墳へ向かう
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三吉石塚古墳
新木山古墳の西に築かれた東向きの帆立貝式古墳で、墳丘全長45m、直径41.4m、
高さ6.5mの後円部に幅22m、長さ7mの短い前方部がついています。周囲に馬蹄形
(ばていがた)の周濠が掘られ、更に外堤が有り、堤を含めた全長は62mとなります。
墳丘は二段築成で、二段目には円筒埴輪の他に蓋(きぬがさ)、短甲(たんこう)、家
形埴輪が立てられていた。墳丘と周濠には葺石が施され、葺石の作業単位が良く残
る。前方部の南東隅には張出部が設けられ、周濠幅が世万区なっている。埋葬施設
は未調査で、埴輪から古墳時代中期後葉の築造と考えられています。
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五位堂駅へ向かう
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五位堂駅(ゴール)
知人2人と五位堂駅で別れて・・・銀杏と二上山
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4月20日の春爛漫!~飛鳥の古墳巡り-2

4月23日        4月20日の春爛漫!~飛鳥の古墳巡り-2
          近鉄万歩ハイキング カルチャーウオーク 歩程約11㎞
今回は、カルチャーウオーク(ボランティアガイドと巡る~春爛漫!飛鳥の古墳巡り)
コース 近鉄万歩ハイキング 飛鳥駅受付9時半~10時 10時15分スタートの5班。
飛鳥駅(受付)~檜隈寺跡~キトラ古墳~文武天皇陵~橘寺裏~石舞台古墳(昼食)
~川原寺跡~菖蒲池古墳~孝元天皇陵・剣池~橿原神宮前駅(ゴール)
此の日は電車1本乗り遅れて飛鳥駅へ10時過ぎに到着、最後の5班に間に合って・・・
5班のボランティアガイドは井上さん、思い出せないが前にも1度お世話になった様な?
参加者は352人だった様で(私は320番)、私の参加した最後の5班は30人くらいの・・・
此の日の私の万歩計は28152歩で約19.1km、天気も良く素晴らしいハイキングでした。
飛鳥駅(受付・スタート)
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檜隈寺跡へ向かう
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檜隈寺跡(ひのくまでらあと)
『檜隈寺跡』(ひのくまでらあと)は、7世紀ごろ、古代の渡来系豪族「東漢」(やまと
のあや)一族の中心氏族であった檜隈氏が、その祖と伝わる「阿智使主」(あちの
おみ)を祀った寺院があった場所です。1907年、この地に『於美阿志神社』(おみ
あしじんじゃ)が移転し、現在の形となりました。
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於美阿志神社(おみあしじんじゃ)境内の石碑
この一帯は、第28代・宣化天皇が即位した「檜隈廬入野宮」(ひのくまのい おりの
のみや)があった場所とされています。先の安閑天皇の死去にともない、536年、
この地で69歳という高齢で即位し、わずか4年で崩御なさいました。短い間でした
が、当時の日本の中心だったとされる場所に当たり、境内に石碑が建っています。
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キトラ古墳へ向かう
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キトラ古墳
キトラ古墳は、明日香村の南西部、阿部山に築かれた古墳。亀虎古墳とも書く。
墳丘にある石室内に壁画が発見され高松塚古墳と共に保存事業が進められて
いる。二段築成作りの円墳である。墳丘は小高い阿部山の南斜面に位置してい
る。名称の「キトラ」は、「北浦」の転訛といわれる。
1983年11月7日、石室内の彩色壁画に玄武が発見され、高松塚古墳に次いで
2例目となる大陸風壁画古墳として注目を集める。
1998年の探査で青龍、白虎、天文図が確認され、2001年には朱雀と十二支像が
確認された。カビなどの被害が発生していたため壁画ははぎとられて保存されて
いる。壁画などにみられる唐の文化的影響が高松塚古墳ほどには色濃くないこと
から、遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作ら
れた古墳であると見られている。
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文武天皇陵へ向かう
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レンゲ畑の向こうに文武天皇陵が・・・
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文武天皇陵
天武天皇と持統天皇の孫にあたり、藤原京で即位し、大宝律令を制定した文武天皇
がまつられています。 高松塚古墳の南東方向に位置します。
文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月)は、
日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日
(707年7月18日))。
草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男。母は阿陪皇女(天智天皇皇女、
持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)。父草壁は皇太子のまま亡くなり即位していない
ため、本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられるはずだが、祖母である持
統天皇の後見もあってか、立太子以前から皇子の扱いを受けていたと考えられる。
父・草壁が持統天皇3年4月13日(689年)に亡くなり、同10年7月10日(696年)には伯
父にあたる高市皇子も薨じたため、同11年2月16日(697年)立太子。文武天皇元年8
月1日(697年)、祖母・持統から譲位されて天皇の位に即き、同月17日(9月7日)即位
の詔を宣した。当時15歳という先例のない若さだったため、持統が初めて太上天皇を
称し後見役についた。
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此処までは、
4月20日の春爛漫!~飛鳥の古墳巡り-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-04-23
此処では、続きの橘寺へ向かう~の詳細を
4月20日の春爛漫!~飛鳥の古墳巡り-2 として掲載致します。
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定林寺跡
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太子の湯
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橘寺へ向かう
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橘寺裏を通り
橘寺(たちばなでら)は、明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏頭山上宮皇
院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は、垂仁天皇の命
により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたこと
に由来する。
橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七
大寺の1つとされている。太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わ
る。史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀』天武天皇9年(680年)4
月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)と
あるのが文献上の初見である。
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石舞台古墳へ向かう
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石舞台古墳公園(昼食)
石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、明日香村にある古墳時代後期の古墳。国の特
別史跡に指定されている。
元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていたが、その土が失われ、巨大な石を用
いた横穴式石室が露出している。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されている。
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岡寺の山門へ続く鳥居
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橘寺を見ながら川原寺跡へ向かう
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川原寺跡
飛鳥寺、薬師寺、大官大寺とともに飛鳥四大寺に数えられ、斉明天皇の冥福を祈り
息子の天智天皇が建立したとも言われていますが、未だ創建については謎が多く
残されているお寺です。創建時の姿は飛鳥資料館の模型で見ることができます。
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菖蒲池古墳
菖蒲池古墳(しょうぶいけこふん)は、橿原市菖蒲町にある古墳。形状は方墳。国
の史跡に指定されている。類例のない精巧な造りの家形石棺2基で知られる。
奈良盆地南縁、丸山古墳と明日香村大字岡を結ぶ道路北側の、低丘陵南面に築
造された古墳である。
主体部の埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南方に開口するが、玄室の下半分
や羨道部が埋もれているため全容は明らかでない。玄室内部には家形石棺2基を
据えるが、これら2基は非常に精巧な造りで、全国的にも特異な石棺になる。
この菖蒲池古墳は、出土土器等から古墳時代終末期・飛鳥時代の7世紀中頃の
築造と推定される。被葬者は明らかでなく、皇族の墓とする説のほか、蘇我氏の
墓とする説がある。
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孝元天皇陵へ向かう
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孝元天皇陵(こうげんてんのうりょう)・剣池
橿原市の南部、石川池(剣池(つるぎいけ))のほとりにあるのが、第8代孝元(こう
げん)天皇の御陵、剣池島上陵(つるぎのいけしまのえのみささぎ)です。
日本書紀によると孝元天皇の名は、大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこく
にくるのすめらみこと)といいます。父は第7代孝霊(こうれい)天皇です。都を大和
の軽の境原宮に置いたとされ、その場所は現在の橿原市大軽町付近にあたると
考えられています。
石川池はかって剣池(つるぎのいけ)と呼ばれていた潅漑用のため池である。 堤防
の上に登ると、広々とした水面が広がり、樹木で覆われた第8代孝元天皇陵が水面
に黒い影を落としている。一見すると、周濠を巡らした御陵のように見えるが、そうで
はない。陵墓が作られてから随分たってからこの溜池が作られている。 『日本書紀』
には、第15代応神天皇の11年冬10月、軽池、鹿垣(かのかき)池、厩坂(うまやさ
か)池と共に剣池を造った、とある。
『日本書紀』にはもう一度剣池に関する説話が登場する。 皇極天皇3年(644)の6月、
すなわち大化改新のちょうど一年前に、剣池で一本の茎から二つの花を咲かせた珍
しい蓮が見つかった。 当時繁栄の絶頂期にあった蘇我本宗家の蝦夷(えみし)は、
「これは、蘇我臣が栄えるという目出度い前兆だ」と勝手に考えて、金泥で蓮の花を
描かせ、大法興寺(飛鳥寺)の丈六の仏に献上した。皮肉なものである。 それから一
年後、蘇我蝦夷・入鹿親子は中大兄皇子や中臣鎌足らが起こしたクーデターによって
滅ぼされる運命にあった。
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※孝元天皇は、穂積臣らの祖先である内色許男命(うつしこをのみこと)の妹・内色許
売(うつしこめ)命を皇后に立てた。皇后は、二男一女を生んだ。第一の子が大彦(お
おびこ)命、第二が後の開化天皇、第三が倭迹迹姫(やまとととひめ)命という。第一子
の 大彦命は後の崇神天皇の時代に将軍として北陸道に派遣された人物である。皇后
の他に、二人の妃を娶った。伊香色謎(いかがしこめ)命は彦太忍信命(ひこふつおし
のみこと) を生み、別の妃の埴安媛(はにやすひめ)は武埴安彦命を生んだ。 彦太忍
信命は、景行から仁徳までの六代の天皇に仕え300歳まで生きたという伝説を持つ
武内宿禰(たけちのすくね)の祖父である。武埴安彦命後に崇神天皇のとき反乱をおこ
した ことで知られている。
さらに、『古事記』では武内宿禰の9人の子供(男7人、女2人)の名をあげ、武内宿禰
の後裔とされる氏族を 列挙している。その中には、波多臣、巨勢臣、蘇我臣、平群臣、
木臣など臣(おみ)姓の地方豪族の名がある。これらの地方豪族は後世に共同の祖と
して武内宿禰を構想し、 その系譜の上流を皇族に結びつけて箔をつけている。

橿原神宮前駅へ向かう
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橿原神宮前駅(ゴール)
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五位堂駅で降りて、バスは1時間に2本
バスが出たところなのでバス通りを暫く歩く・・・
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4月17日の水の都 歩こう!春を感じて・布施駅-2

4月22日      4月17日の水の都 歩こう!春を感じて・布施駅-2 
             近鉄駅フリーハイキング 歩程約7km
M吉さんK場さんと3人で参加、新世界ラジウム温泉で汗を流して天王寺駅で待合せ
Y川さんR得さんの2人と合流して5人で昼飲み会、その後は4人でカラオケ迄行き・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 布施駅受付 9時30分~11時 10時集合で
布施駅(受付)~鴨高田神社~長栄寺~工場地帯~川俣スカイランド~第二寝屋川
沿い(途中の公園で昼食)~三井会所跡~第二寝屋川遊歩道~八戸ノ里駅(ゴール)
八重の里駅~新今宮駅へ出て、通天閣裏の新世界ラジウム温泉~居酒屋へ
此の日の私の万歩計は25974歩で約17.6km歩いた事に
志都美駅
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香芝駅~下田駅へ乗り換え
鹿島神社
創建は第80代高倉天皇の承安2年(1172年)3月に、源義朝の家臣であった
鎌田政清の子・鎌田小次(二)郎政光が常陸国(現、茨城県)鹿島神宮の御分
霊を勧請したのが始まりとされます。
当社に伝わる古文書(鹿嶋文書※)によると、平治元(1159)年、平治の乱に
あって源義朝が平清盛に敗れ、東国へ敗走中に義朝の第一の家臣であった
鎌田兵衛藤原政清の舅 尾張国(現、愛知県)半田郡野間の長田庄司忠致に
匿われました。 しかし、忠致は恩賞目当てに義朝を浴場で暗殺、政清も忠致
の子景致に殺害され、随行家来の大半は討死致しました。鎌田政清の子・政
光はかろうじて難を逃れ、常陸国 鹿嶋神宮に辿り着いたとされています。
そこで、源氏の再興を祈願し、百日の参籠を行い、昼夜一心に法華経を誦唱
しました。 満願の夜、夢に一老翁が現れ「庚子(の年)源氏栄え、汝の福 西に
あり」との御神託があり、御分霊の御幣を奉じ西方へと向いました。大和の下
田の里で夕暮れとなり、土手(田のほとりとするものもある)の松の木の下で
野宿し、翌朝この地の景色が極めて鹿嶋に似ていた為、懐かしく思いここに
小祠を建て鹿嶋大明神を祀ったといわれます。
御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)(武甕雷神・建御雷之男神
とも表記される)神様の中でも一、二を争うほど武勇に優れ、武神・軍神とし
て知られています。延喜式内社。
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布施駅(受付・スタート)
鴨高田神社
「延喜式」に乗せられる古社のひとつで、「大阪府誌」には速須佐之男(はやす
さのおのみこと)、社の由緒書きには大鴨積命(おおかもつみのみこと)・神功
皇后(じんぐうこうごう)・応仁天皇(おうじんてんのう)を加えた四神が祭神。
社は元和(げんな)元年(1615年)の大坂夏の陣の兵火によって社殿がことご
とく焼失し、数年をかけて再建されました。
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長栄寺
本尊は、像高106㎝の一木造りの木造十一面観音立像で、藤原時代の優れた
社殿として、昭和16年に大阪府の文化財に指定されています。寺伝によると、
推古天皇の時代に聖徳太子が創建され、太子自らが本尊を刻み、百済からの
渡来僧入法師に供養させたことから、山号を百済山としたと云われています。
寺は長らく荒廃し、江戸時代の安永(あんえい)年間(1772年~81年)に慈雲尊
者(じうんそんじゃ)が再興しました。本堂の北側には慈雲尊者が長尾の滝で修
業していた禅那台が後に移築され、昭和45年に大阪府の文化財指定を受けて
います。
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工場地帯~川俣スカイランド
工場地帯
東大阪市は、我が国でも有数の工業都市「モノづくりの町東大阪」として知られ
工場密度で全国一位ですが、従業員規模20人未満の事業所が全体の90%で
占め、町工場が大半です。

川俣スカイランド
川俣スカイランドは、川俣水未来センター(旧川俣下水処理場)の屋上に設けら
れた緑ある広場などとして整備された施設です。府民のふれあいの場として誰
でも無料で利用出来、広大な芝生や水辺の広場、子供が遊べる遊具なども有り
ます。
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此処までは、
4月17日の水の都 歩こう!春を感じて・布施駅-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-04-22 
此処では、続きの第二寝屋川沿い~の詳細を掲載します。
第二寝屋川沿い(途中の公園で昼食)
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三井会所跡~第二寝屋川遊歩道
三井会所跡
第二寝屋川遊歩道
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八重の里駅(ゴール)
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八重の里駅~鶴橋駅~新今宮駅
新世界へ向かう
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新世界
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新世界ラジウム温泉(銭湯)
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ジャンジャン町~天王寺駅
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居酒屋で昼飲み会
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カラオケ(ジャンカラ)
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4月14日&15日の社友会本部総会関連(抜粋)

4月21日   4月14日&15日の社友会本部総会関連(抜粋)
               14日準備、15日の本部総会
4月14日・社友会本部総会の準備に八尾の社友会事務所~堺の本社へ
志都美駅へ向かう
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志都美駅
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志都美駅ホームから
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久宝寺駅でおりて
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桜が満開
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社友会事務所へ向かう
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荷物を載せた車で堺の本社へ向かう
途中で旧本社ビルの解体現場を横を通り・・・
堺本社へ到着、多目的ホールロビーに懐かしい銅像
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15日の総会の準備を済ませて車で堺駅送って貰い、帰った
自宅近くのバス停で降りて高速道路の裏道を花桃、桜、夕焼け
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我家の・・・
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4月15日・堺の本社多目的ホールで経営状況報告会&社友会本部総会へ
志都美駅から
葛城山~二上山&二上山
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南海堺駅東口で貸切バスへ案内係り
運河に鯉のぼり
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バスは述べ6台、参加者240人の予定
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総会終わって会場を片付けて
バスへ乗る前にお別れの1枚・・・
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南海堺駅東口に貸切バスで到着
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我家のモミジ、新芽が出揃って・・・
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4月10日の八尾(久宝寺駅)社友会事務所(抜粋編)

4月16日       4月10日の八尾(久宝寺駅)社友会事務所
                 社友会の役員会に出席
4月15日の社友会総会に向けて、今月は一足早い役員会で総会事前準備の
14日の段取り、当日15日の対応について最終確認の為の臨時の役員会だ。
久宝寺駅の桜の花が綺麗に咲いてるだろう?とカメラ持参で出かけた・・・
志都美駅&二上山
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久宝寺駅前公園の桜が2種類・・・
此れは何と言う桜なのか?知らないが葉桜に・・・
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此れはソメイヨシノ
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此処から会社が見える
だんだん近づいて行く・・・事務所はこのビルでは無い
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会議が終わって久宝寺駅へ向かう
八尾市のマンホール
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久宝寺駅前ロータリーのシンボル?機関車の動輪
偶に乗り降りする王寺駅前ロータリーにも同じ様な?動輪が置いてある。
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志都美駅でおりて自宅へ帰る途中
西名阪高速道ぼ高架下に雪柳とレンギョが綺麗・・・
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我家の鉢植えの花
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4月8日の馬見丘陵公園のチュウリップ祭り-2

4月11日      4月8日の馬見丘陵公園のチュウリップ祭り-2
                午後の馬見丘陵公園散策
8日は知人と3人で近鉄ハイキングに参加する予定だったが、当日の朝に
私事でハイキング不参加にする事となり知人2人に迷惑をかけてしまった。
楽しみにしてた、橿原神宮前駅スタートの神武祭!春うらら、建国の神話・
伝承地巡りのハイキングを不参加にしたが、午後から近場の馬見丘陵へ
8日から開催のチュウリップ祭りを覗きに行って来た・・・
一番近い中央公園館の駐車場は満車で入れて貰えず、何時もは開いてい
ない南エリアの臨時駐車場?へ入れて貰い散策スタート・・・
古墳の丘
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古墳の丘の桜が満開
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下池
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バラ園のチュウリップ畑
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花の道を通り
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此処までは、
4月8日の馬見丘陵公園のチュウリップ祭り-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-04-11
此処でrは、続きの地下道を潜って北エリアへ~の詳細を掲載します。
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ダリア園もチュウリップ畑
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集いの丘をぐるっと回って
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南エリアへの地下道前・・・
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雨の中を駐車場へ帰った.