3月28日の歩こう会・和歌山 紀三井寺駅-2
4月1日 3月28日の歩こう会・和歌山 紀三井寺駅-2
紀三井寺から紀州東照宮の散策
3月度歩こう会は和歌山県、紀三井寺から紀州東照宮の散策 歩程約7.5㎞
コース 素晴らしい?ハイキング日和に参加者 73人
紀三井寺駅~紀三井寺~観海閣~不老橋~片男波公園(昼食)~和歌浦漁港
~紀州東照宮(解散)→バスで和歌山駅・・・・番外で歩いて和歌山城天守閣へ。
紀三井寺も紀州東照宮も和歌山城も残念ながら桜は未だ未だ先?の様で・・・・
私にとっては番外の初の和歌山城天守閣に上がれたのは大収穫だった。
此の日の私の万歩計は29179歩で約19.6km歩いたことに・・・
紀三井寺駅前(受付)

紀三井寺入口
早咲きの桜として有名で、また西国第2番の札所でもあり、巡礼姿のお遍路さん
が杖をつきながら、ひたむきなまなざしでお参りしているのが見受けられます。
名前の由来は、三つの井戸「吉祥水(きっしょうすい)」「楊柳水(ようりゅうすい)」
「清浄水(しょうじょうすい)」から来ています。楼門をくぐると、目の前に231段の
階段がそびえ、一瞬立ちすくんでしまいます。しかし、苦しさが多ければ多い程、
喜びもまたひとしおであると思い、この坂を一段一段無心で登り始めると、いつし
か身体の細胞1個1個が目覚めていくような感じがしてきます。
登りきったところでホッとして振り返ると、美しい和歌浦湾が遠望でき、旅情がか
きたてられます。

この寺は、宝亀元年(770)、唐の僧為光(いこう)上人によって開かれました。和
歌山城からほど近いところにあるため、歴代藩主が訪れ、紀州徳川家の繁栄を
祈願した寺です。宝歴年間(1751~1764)に本堂を新築。その本堂のなかには
10代藩主治宝(はるとみ)が寄進した多宝塔が安置されています。
本堂横の入口、霊宝堂のなかには、治宝直筆の掛軸、一休和尚の額、その他、
西国三十三箇所の絵図などが多数展示してあります。
また、六角堂は、西国三十三箇所を巡礼するのに等しい功徳があると伝えられ、
他府県からもたくさんの人が年中途切れることなく参拝に訪れています。
坂を上って本殿へ向かう
桜は未だ、ソメイヨシノ標本木も未だ





古木が1本開花したばかり?

此処で集合写真、和歌の浦湾も見える

参道に下る


参道の土産物店

県立医大病院・ドクターヘリ

和歌川河口旭橋を渡る


三断橋・妹背山・観海閣へ向かう


三断橋・・・1653年
妹背山に延びて架けられた橋で県内最古の石橋で、材料は不老橋同様和泉砂岩
で構築されている。幾度か修復をしながらも400年あまりその原型を失わずに存在
している。橋の先にある多宝塔と観海閣、その存在は道路側から伺うことができな
いが訪れた者を感服させる空間を持っている。


三断橋を渡り妹背山・観海閣をぐるっと回って
妹背山・三断橋・観海閣・海禅院・多宝塔鏡
妹背山は、旧和歌浦湾の内海に浮かぶ周囲250mほどの小島です。その西側には
県内最古の石橋、砂岩製高欄つきの「三断橋」が架けられていて、妹背山に渡るこ
とができます。
万葉集にも読まれた妹背山には多宝塔が祀られており、橋と反対方向には紀三井
寺の遥拝所、観海閣が建てられています。2010年には「和歌の浦」が国の名勝に
指定されました。

観海閣
三断橋の青石を踏みしめて渡ると、小さな島になっている妹背山(いもせやま)にた
どり着きます。そしてくるりと回れば、海に浮かぶ観海閣が現れ、この場所なら詩の
1編も書けそうな気分になります。
この観海閣は、頼宣が慶安年間(1648~1652)に木造の水上桜閣として建立した
もので、 対岸の紀三井寺と対面しています。(当時の建造物は昭和36年に第二室戸
台風で流出。現在はコンクリートで再建されたものです。)
亜熱帯植物も・・・

不老橋へ向かう・しおがま神社
※塩竈神社(鹽竈神社)
万葉の時代から人々に親しまれてきた風光明媚な和歌の浦に位置し、人々の出生
生命を守護する神様『鹽槌翁尊』がお祀りされています。
大正6年に玉津島神社の祓所から神社になりました。伽羅岩と呼ばれる結晶片岩で
できた鏡山の南面に位置し、海風により自然に形成された洞窟の中には小さな拝殿
が造られています。このほこらの中に神体の鹽槌翁尊(シオツチノオジノミコト)が祀
られています。

不老橋を渡って片男波公園へ向かう
不老橋・・・1851年
徳川家康を祀る和歌祭の際、関係者を片男波近くにあった御旅所に向かうために通行
する“お成り道”に架けられた橋である。なんといってもその形は独特で江戸時代にして
は珍しくアーチ型石橋で構成される。材料となった石は和歌山城の石垣でも利用された
和泉砂岩が利用されており、肥後熊本の石工集団によってアーチ部分が構成されたと
推定されている。

片男波公園へ向かう


片男波公園・海水浴場(昼食)
片男波公園は、万葉集にも多くの風光美が詠まれている和歌公園内の片男波地区に
位置している。この地区は、和歌浦湾に注ぐ和歌川の河口部に沿うようにできた延長
千数百メートルにも及ぶ狭長の砂州半島である。
この万葉の景勝地に、歴史的景観を踏まえ、周囲との調和を図りながら、昭和天皇陛
下御在位60年記念健康運動公園として、子供から高齢者まで誰もが手軽にスポーツ
レクレエーション、文化活動などが楽しめる公園整備がなされた。



此処までは、
3月28日の歩こう会・和歌山 紀三井寺駅-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-04-01
此処では、
昼食後の片男波公園・海水浴場~の詳細を掲載します。





和歌浦漁港朝市(おっとっと広場)しらすまつり
春と秋の年2回開催される「おっとっと広場」。目玉は鮮魚販売。地元でとれた新鮮な魚
介類を求めて長蛇の列を作ります。また、この季節の和歌浦湾の特産「わかしらす」は
絶品。わかしらす直売はもちろん、まぐろの解体即売、露店、もちまきなどイベント盛り
沢山です。



御手洗池公園





紀州東照宮
元和7年(1621)、頼宣が南海道(なんかいどう)の総鎮護(そうちんご)として創建された
社殿は、「関西の日光」とも呼ばれ、権現(ごんげん)造りとなっています。
また、江戸初期の代表的な重要文化財建造物としても有名です。漆塗・極彩色の精巧
な彫刻、狩野(かのう)・土佐両派の絵による豪華さに目を奪われ、特に左甚五郎(ひだ
りじんごろう)作の彫刻や狩野探幽(かのうたんゆう)作のふすま絵は必見です。鮮やか
な色彩を目のあたりにすると、当時の時代が壮麗な絵巻物となって浮かんできます。








境内にある‘落ちない木’ 楓(ふう)の木
枯れているのではなく、新しい葉が出るまで古い葉が残っている。春になれば、
青々とした新しい葉に覆われます。新しい葉が出るまで、古い葉が落ちないこと
から、 受験を控えた方がよく訪れます。

山門からの眺め

東照宮を下って
此処で解散、此処からは番外・・・
和歌山城へ向かう、お城が見えて来た


吉宗公

和歌山城
こんもりと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に白亜の天守閣がそびえ、御三家の威容にふさ
わしい風格を醸し出しています。
和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたの
が始まりです。その築城を担当したのが、築城の名人藤堂高虎(とうどうたかとら)でした。
まず、秀長の城代として桑山重晴(くわやましげはる)が入り、慶長5年(1600)には、関ヶ
原の戦いで功をたてた浅野幸長(あさのよしなが)が入城。そして、元和5年(1619)には
徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が入城し、紀州55万5千石の城となり、以来、水戸
尾張と並び、徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできました。
和歌山城の石垣には、紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く使われ、たしかに和歌山に
来たことを実感させてくれます。
天守閣に登れば、和歌山市街が見渡せ、紀ノ川がゆったり流れているのがよくわかります。










紀三井寺から紀州東照宮の散策
3月度歩こう会は和歌山県、紀三井寺から紀州東照宮の散策 歩程約7.5㎞
コース 素晴らしい?ハイキング日和に参加者 73人
紀三井寺駅~紀三井寺~観海閣~不老橋~片男波公園(昼食)~和歌浦漁港
~紀州東照宮(解散)→バスで和歌山駅・・・・番外で歩いて和歌山城天守閣へ。
紀三井寺も紀州東照宮も和歌山城も残念ながら桜は未だ未だ先?の様で・・・・
私にとっては番外の初の和歌山城天守閣に上がれたのは大収穫だった。
此の日の私の万歩計は29179歩で約19.6km歩いたことに・・・
紀三井寺駅前(受付)
紀三井寺入口
早咲きの桜として有名で、また西国第2番の札所でもあり、巡礼姿のお遍路さん
が杖をつきながら、ひたむきなまなざしでお参りしているのが見受けられます。
名前の由来は、三つの井戸「吉祥水(きっしょうすい)」「楊柳水(ようりゅうすい)」
「清浄水(しょうじょうすい)」から来ています。楼門をくぐると、目の前に231段の
階段がそびえ、一瞬立ちすくんでしまいます。しかし、苦しさが多ければ多い程、
喜びもまたひとしおであると思い、この坂を一段一段無心で登り始めると、いつし
か身体の細胞1個1個が目覚めていくような感じがしてきます。
登りきったところでホッとして振り返ると、美しい和歌浦湾が遠望でき、旅情がか
きたてられます。
この寺は、宝亀元年(770)、唐の僧為光(いこう)上人によって開かれました。和
歌山城からほど近いところにあるため、歴代藩主が訪れ、紀州徳川家の繁栄を
祈願した寺です。宝歴年間(1751~1764)に本堂を新築。その本堂のなかには
10代藩主治宝(はるとみ)が寄進した多宝塔が安置されています。
本堂横の入口、霊宝堂のなかには、治宝直筆の掛軸、一休和尚の額、その他、
西国三十三箇所の絵図などが多数展示してあります。
また、六角堂は、西国三十三箇所を巡礼するのに等しい功徳があると伝えられ、
他府県からもたくさんの人が年中途切れることなく参拝に訪れています。
坂を上って本殿へ向かう
桜は未だ、ソメイヨシノ標本木も未だ
古木が1本開花したばかり?
此処で集合写真、和歌の浦湾も見える
参道に下る
参道の土産物店
県立医大病院・ドクターヘリ
和歌川河口旭橋を渡る
三断橋・妹背山・観海閣へ向かう
三断橋・・・1653年
妹背山に延びて架けられた橋で県内最古の石橋で、材料は不老橋同様和泉砂岩
で構築されている。幾度か修復をしながらも400年あまりその原型を失わずに存在
している。橋の先にある多宝塔と観海閣、その存在は道路側から伺うことができな
いが訪れた者を感服させる空間を持っている。
三断橋を渡り妹背山・観海閣をぐるっと回って
妹背山・三断橋・観海閣・海禅院・多宝塔鏡
妹背山は、旧和歌浦湾の内海に浮かぶ周囲250mほどの小島です。その西側には
県内最古の石橋、砂岩製高欄つきの「三断橋」が架けられていて、妹背山に渡るこ
とができます。
万葉集にも読まれた妹背山には多宝塔が祀られており、橋と反対方向には紀三井
寺の遥拝所、観海閣が建てられています。2010年には「和歌の浦」が国の名勝に
指定されました。
観海閣
三断橋の青石を踏みしめて渡ると、小さな島になっている妹背山(いもせやま)にた
どり着きます。そしてくるりと回れば、海に浮かぶ観海閣が現れ、この場所なら詩の
1編も書けそうな気分になります。
この観海閣は、頼宣が慶安年間(1648~1652)に木造の水上桜閣として建立した
もので、 対岸の紀三井寺と対面しています。(当時の建造物は昭和36年に第二室戸
台風で流出。現在はコンクリートで再建されたものです。)
亜熱帯植物も・・・
不老橋へ向かう・しおがま神社
※塩竈神社(鹽竈神社)
万葉の時代から人々に親しまれてきた風光明媚な和歌の浦に位置し、人々の出生
生命を守護する神様『鹽槌翁尊』がお祀りされています。
大正6年に玉津島神社の祓所から神社になりました。伽羅岩と呼ばれる結晶片岩で
できた鏡山の南面に位置し、海風により自然に形成された洞窟の中には小さな拝殿
が造られています。このほこらの中に神体の鹽槌翁尊(シオツチノオジノミコト)が祀
られています。
不老橋を渡って片男波公園へ向かう
不老橋・・・1851年
徳川家康を祀る和歌祭の際、関係者を片男波近くにあった御旅所に向かうために通行
する“お成り道”に架けられた橋である。なんといってもその形は独特で江戸時代にして
は珍しくアーチ型石橋で構成される。材料となった石は和歌山城の石垣でも利用された
和泉砂岩が利用されており、肥後熊本の石工集団によってアーチ部分が構成されたと
推定されている。
片男波公園へ向かう
片男波公園・海水浴場(昼食)
片男波公園は、万葉集にも多くの風光美が詠まれている和歌公園内の片男波地区に
位置している。この地区は、和歌浦湾に注ぐ和歌川の河口部に沿うようにできた延長
千数百メートルにも及ぶ狭長の砂州半島である。
この万葉の景勝地に、歴史的景観を踏まえ、周囲との調和を図りながら、昭和天皇陛
下御在位60年記念健康運動公園として、子供から高齢者まで誰もが手軽にスポーツ
レクレエーション、文化活動などが楽しめる公園整備がなされた。
此処までは、
3月28日の歩こう会・和歌山 紀三井寺駅-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-04-01
此処では、
昼食後の片男波公園・海水浴場~の詳細を掲載します。
和歌浦漁港朝市(おっとっと広場)しらすまつり
春と秋の年2回開催される「おっとっと広場」。目玉は鮮魚販売。地元でとれた新鮮な魚
介類を求めて長蛇の列を作ります。また、この季節の和歌浦湾の特産「わかしらす」は
絶品。わかしらす直売はもちろん、まぐろの解体即売、露店、もちまきなどイベント盛り
沢山です。
御手洗池公園
紀州東照宮
元和7年(1621)、頼宣が南海道(なんかいどう)の総鎮護(そうちんご)として創建された
社殿は、「関西の日光」とも呼ばれ、権現(ごんげん)造りとなっています。
また、江戸初期の代表的な重要文化財建造物としても有名です。漆塗・極彩色の精巧
な彫刻、狩野(かのう)・土佐両派の絵による豪華さに目を奪われ、特に左甚五郎(ひだ
りじんごろう)作の彫刻や狩野探幽(かのうたんゆう)作のふすま絵は必見です。鮮やか
な色彩を目のあたりにすると、当時の時代が壮麗な絵巻物となって浮かんできます。
境内にある‘落ちない木’ 楓(ふう)の木
枯れているのではなく、新しい葉が出るまで古い葉が残っている。春になれば、
青々とした新しい葉に覆われます。新しい葉が出るまで、古い葉が落ちないこと
から、 受験を控えた方がよく訪れます。
山門からの眺め
東照宮を下って
此処で解散、此処からは番外・・・
和歌山城へ向かう、お城が見えて来た
吉宗公
和歌山城
こんもりと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に白亜の天守閣がそびえ、御三家の威容にふさ
わしい風格を醸し出しています。
和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊臣秀吉が弟の秀長に築城させたの
が始まりです。その築城を担当したのが、築城の名人藤堂高虎(とうどうたかとら)でした。
まず、秀長の城代として桑山重晴(くわやましげはる)が入り、慶長5年(1600)には、関ヶ
原の戦いで功をたてた浅野幸長(あさのよしなが)が入城。そして、元和5年(1619)には
徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が入城し、紀州55万5千石の城となり、以来、水戸
尾張と並び、徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできました。
和歌山城の石垣には、紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く使われ、たしかに和歌山に
来たことを実感させてくれます。
天守閣に登れば、和歌山市街が見渡せ、紀ノ川がゆったり流れているのがよくわかります。