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7月13日の冷や冷や夏呑みハイキング「長龍」-2

7月16日     7月13日の冷や冷や夏呑みハイキング「長龍」-2
               味い酒「長龍酒造」へ 歩程約7㎞
知人と2人で参加、近鉄 夏呑みハイキング 五位堂駅受付9時~10時
五位堂駅(受付)~三吉石塚古墳~新木山古墳~竹取公園~馬見丘陵公園
~長龍酒造(試飲有り)~馬見丘陵公園へ戻る~1300年の道を池部駅へ歩く
池部駅  →新王寺駅 JR王寺駅
此の日の私の万歩計は、20752歩で約13.8km歩いたことに・・・
バスで五位堂駅へでて知人と合流
五位堂駅(受付)~ずーっと木陰のかつらぎの道を歩く
三吉石塚古墳(みつよしいしづかこふん)
新木山古墳の西に築かれた東向きの帆立貝式古墳で、墳丘全長45m、直径
41.4m、高さ6.5mの後円部に幅22m、長さ7mの短い前方部が付いています。
周囲に馬蹄(ばてい)形の周濠が掘られ、更に外堤があり、堤を含めた全長は
62mとなります。墳丘は二段築成で、二段目には円筒埴輪の他に蓋(きぬが
さ)、短甲(たんこう)、家型埴輪が立てられていた。墳丘と周濠には葺石が施
され、葺石の作業単位がよく残る。前方部の南東隅には張出部が設けられ、
集合幅が狭くなっている。埋葬施設は未調査で、埴輪から古墳時代中期後葉
の築造と考えられている。
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新木山古墳
馬見古墳群で中核をなす墳丘200mの前方後円墳である。古墳の築造時期は
円筒埴輪から古墳時代中期後葉と考えられる。埋葬施設の副葬品と考えられ
る勾玉、管玉、棗玉(なつめだま)などが宮内庁に保管されている。

竹取公園
「竹取公園」という名前から、昔話の竹取物語やかぐや姫を連想される方も多い
と思われますが、まさにこの竹取公園のある場所はかの竹取物語の舞台と言わ
れる場所です。入園無料の公園施設です。
公園内には散策路や木製の大型遊具、そり遊びのできる施設もあり、小さなお
子様連れの方からお年寄りまで楽しくすごせる公園です。
竹取公園内には竹取物語を読みながら散策できる竹林もあります。
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馬見丘陵公園
大和平野のほぼ中央に有る馬見丘陵は、我が国でも多数の古墳が集中して
いる地域です。そして、これらの古代の遺跡を包み込む様に、豊かな自然が
広がっています。馬見丘陵公園は、こうした歴史と文化の遺産や素晴らしい自
然環境を、憩の空間として広く活用して頂く事を目的に整備された都市公園で
す。また、馬見丘陵公園内には古墳も多く有ります。園内は、緑道エリア・北エ
リア・中央エリア・南エリアと大きく4つに分かれており、北エリアと中央エリアは
離れているが連絡道があるので行き来することが出来ます。馬見古墳群内に
位置する公園の為、園内に多数の古墳が存在します。
ナガレ山古墳
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紫陽花園
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中央公園館
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集いの丘・・・百日紅が綺麗
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馬見丘陵公園を出て
長龍酒造へ向かう
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此処までは、
7月13日の冷や冷や夏呑みハイキング「長龍」-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-07-16
此処では、続きの長龍酒造~を
7月13日の冷や冷や夏呑みハイキング「長龍」-2 として掲載します。
長龍酒造(試飲有り)
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試飲
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コースを変えて馬見丘陵公園へ戻る
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此れは、スイカズラかな?
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馬見丘陵公園の
集いの丘へ戻り、向日葵
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池部駅へ1300年の道を歩く・・・
川合町役場
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池部駅
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池部駅 → 新王寺駅 JR王寺駅
王寺駅からバスで帰る
自宅近くで
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おまけ
我家の鉢植えハイビスカス
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7月8日の冷や冷や夏呑みハイキング「豊祝」・他-2

7月11日     7月8日の冷や冷や夏呑みハイキング「豊祝」・他-2
               近鉄 駅フリーハイキング
知人と4人で近鉄冷や冷や夏吞み夏呑みハイキングに参加、登大路園地スタート
9時半~10時、歩程約6km  当日の参加者多かった 1005人
近鉄奈良駅~徒歩10分~奈良公園登大路園地(受付・スタート)~興福寺~猿沢
池~元興寺~ならまち格子の家~大安寺~奈良豊澤酒造(試飲有り・ゴール)~
知人1人は上三橋バス停へ、3人は~春日神社~帯解寺~帯解駅→JR奈良駅へ
此の日の私の万歩計は、20826歩で約13.9km歩いたことに・・・
興福寺
法相宗の大本山として知られる興福寺。その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さら
にさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」が起源となります。
その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である
鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために
造営したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使
われています。その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も
移建され、その地名を取って厩坂寺とされました。さらに、平城遷都の際、和銅3年
(710)藤原不比等の計画によって移されるとともに、「興福寺」と名付けられたので
す。天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進
められ、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関
家藤原北家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんに
なります。平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになり、
また、鎌倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当た
りました。
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猿沢池
奈良八景の一つに数えられる猿沢池は、周囲360m、池畔の枝垂れ柳越しに望む
興福寺五重塔は昔も今も変わらぬ絵はがきの画題になる名勝である。池には、毎年
4月17日の興福寺の放生会に鯉が放たれる。最近はカメの名所としても知られるよ
うになったが、岸に立てばカメと共に緋鯉、真鯉がエサを求めて変わらず寄ってきて
観光客を楽しませる。猿沢池の俗謡に、「澄まず濁らず、出ず入らず、蛙湧かず藻が
生えず、魚七分に水三分」の七不思議があるが、奈良公園の鹿と同じように池の生
物は興福寺のおかげで手厚く保護され、「魚七分に水三分」というのも大いに理由が
ある。
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元興寺
日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともなって、 蘇我氏
寺から官大寺に性格を変え、新築移転されたのが、元興寺(佛法元興の場、聖教
最初の地)である。
元興寺の名称は
『佛法元興之場、聖教最初の地』の言葉より起こったとされます。南大門には、元興
寺の扁額があり、他には飛鳥寺、法興寺、建初寺、建通寺、法満寺とも標したと伝え
られています。飛鳥寺→法興寺→飛鳥大寺→元興寺と名称及び性格を変えてきまし
た。建初寺=桜井道場、建通寺=向原寺、法満寺=飛鳥寺の歴史を示しているの
でしょうか、朝廷および天皇家が仏教を容認し、唐式の仏教政策を取り入れてから、
遡って意味付けされたのだといえます。因みに、法興寺は『佛法興隆』の言葉からき
ており、法隆寺とは対の名称といえるでしょう。
元興寺の開基は
蘇我氏の氏寺としては蘇我稲目であり、蘇我馬子を本願とします。飛鳥大寺としては
推古天皇勅願、聖徳太子創建と称します。 平城移建に際しては元正天皇、聖武天
皇勅願と伝わります。極楽坊としては興福寺大乘院門跡孝覚大僧正を中興開基とし
ます。
元興寺の開祖は
佛法初伝の歴史から言えば、三論の初伝たる慧潅、法相の初伝といわれる道昭(照)
です。
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ならまち格子の家
御霊神社・・・奈良市ならまち
創祀は800年(延暦19年)、桓武天皇の勅願によると伝えられています。
本殿に祀られているのは、無実の罪で幽閉されたあげく亡くなった井上内親王とそ
の子、他戸親王の二座。さらに東側社殿・西側社殿にはそれぞれ三座を、また境内
末社には開運出世、衣食住、縁結びとご利益の広大な出世稲荷神社と学問の神様
・若宮社も祀られています。秋季例祭は10月13日。神輿とともに時代装束に身を包
んだ氏子、獅子舞がならまちを練り歩きます。
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御霊神社・・・奈良市大安寺
大安寺小学校の東約200m、芝池北に鎮座しています。入口には石の神橋が架かり、
社号標と鳥居が立つ入口から参道が真っ直ぐに東に延び、社殿まで続いています。
社殿の右奥には薄暗い森の中に神池やこの社を創建する元となった閼伽井がありま
す。御祭神:高オカミ命(水の神)、善女龍王命(雨乞、水乞、止雨乞の神)
本神社は元石清水八幡宮と称す。(八幡神社)大同2年8月17日、大安寺の僧、行教
和尚が、大安寺の鎮守社として築紫(大分)宇佐八幡宮より大菩薩を勧請せしとき、
お供えする御手水閼伽井の水(石清水と号す)を求めて此処に、行教和尚の託宣によ
り獨鈷を用いて掘らしめたところ、清湛な法水湧き出る。
而して遥に男山八幡石清水に通じて、この水の保護を受けんがため、御井戸の守神
として、高オカミ命、善女龍王命ニ柱の神を祀られた。現在農耕神、商い神、御霊神
社と崇め奉る宮なり。其井戸は往時の原形は留めないが今も存在せり。
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推古天皇社
大安寺小学校の東南東約200m、芝池西に鎮座しています。入口には社号標と木製
鳥居が建ち、神橋を渡って参道が奥へと続きます。突き当たり瑞垣内に社殿、左側に
境内社:金毘羅権現が祀られています。又、境内には「弘法大師腰掛石」もあります。
御祭神:豊御食炊屋姫尊(推古天皇)
御祭神は第29代欽明天皇の皇女であって、18歳にて第30代敏達天皇の皇后となら
れた。皇后は眉目秀麗な美人だったと伝えられている。第32代崇峻天皇崩御の後、
皇位を巡って、さまざまの動きがあって、日本における最初の女帝となられ、聡明な
聖徳太子に摂政を委ねられて、政治は国家意識を昂揚し理想社会を求める事であっ
た、「外交の刷新・仏教に依て日本民族の思想と生活を改める事等」、従って日本の
歴史の中でも輝かしい時代であった。
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大安寺
聖徳太子が平群に建てた熊凝精舎がその草創といわれています。飛鳥の藤原京で
百済大寺、大官大寺となり奈良時代に現在の地に移り大安寺となりました。南都七
大寺のひとつに数えられ、左京六条四坊から七条四坊にまたがる広大な寺域を占
め、南大寺とも呼ばれて大安寺式の大伽藍を誇っていました。西の薬師寺に対峙す
る国家鎮護の寺でもありました。現境内の南に残る塔跡に昔日の威容を偲ぶことが
できます。旧境内の一部に杉山古墳があります。寺には大安寺様式といわれる奈良
時代の木造十一面観音立像、木造四天王立像、木造不空羂索観音立像、木造楊柳
観音立像〔いずれも重文〕など九体の天平仏が安置されています。
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八幡神社(元石清水八幡宮)
大安寺の鎮守としてその寺域にあり、石清水八幡宮とか郷社石清水八幡宮とも称し
た。社伝として、応和二年(962)五月十一日の『大安寺八幡宮御鎮坐記』に、大同二
年(807)大安寺の僧行教和尚が入唐して帰朝の途次、神影に供奉して大安寺東室
第七院石清水房に鎮座し奉り後神殿へ奉遷、石清水八幡宮と称して大安寺の鎮守
とした。禎観元年(859)行教和尚は神宣によって山城国男山へ遷座、その跡地に奉
祀したのが当社だという。中世には辰市四郷の鎮守として、辰市神社とともに崇敬さ
れた。慶長元年(1598)閏七月十二日大地震のため被害大きく、大安寺は一時廃寺
となったが、その後神社はこの地方の人々によって復興されて今日に及んだ。
拝殿には、石清水八幡宮の神使である、「鳩」の置物がいっぱい。
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大安寺・七重搭跡
大安寺の主要伽藍は南大門・中門・金堂・講堂が南から北へ一直線に配され、小山
の大官大寺と配置が同じになりますが、塔は六条大路を挟んで南大門の南にあり、
しかも東西に二基並んでいました。東塔跡には土壇と基壇延石、西塔跡には心礎が
残っており、早くから国の史跡に指定されています。
これらの塔は天平十九年(747年)の段階では完成していませんが、天平神護二年
(766年)には東塔に震災があったという記述が続日本紀にあるため、このころには
竣工していたとみられます。 さらに塔は寛治八年(1094年)の『官宣旨案』『七大寺
巡礼私記』ともに七重塔であったとしています。
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奈良豊澤酒造(試飲)・ゴール
昭和40年代、日本全国で普通酒が全盛の頃、 当蔵の4代目・豊澤安男は「これか
ら世の中が豊かになるにつれ、 消費者は本当に良い酒を望むはずだ」と考えまし
た。そして、力を入れたのが純米酒造りです。 「高品質のお酒をたくさんの方に飲
んでいただきたい」という思いから、価格を抑えた純米酒「黒松貴仙寿」を 世に送り
出したところ、大変多くの方に支持されました。 それは、消費者の視点から「本当に
喜ばれる良質の酒」にこだわった結果なのです。
奈良豊澤酒造の酒造りへの思いは、今も変わっていません。 そのため、創業以来、
ほとんど機械化せずに手造りに徹した酒造りを行ってまいりました。 今日、奈良豊
澤酒造で生産する酒の8割が、純米酒以上の「特定名称酒」で占められているのも、
その証といえます。
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春日神社・隆興寺
この神社はJR桜井線・帯解駅の北北西約200m、今市町二丁目集会所や東光山
「隆興寺」に隣接して鎮座しています。入口には灯籠と鳥居が建立され、綺麗に敷
き詰められた高砂利を踏みながら境内に入ると、正面に割拝殿、その奥に石段が
造られ板塀内に本殿が建立されています。残念ながら割拝殿の扉が閉められ、そ
れ以上は進むことが出来ません、本殿前には狛犬がおり、脇には境内社が二社祀
られています。御祭神:天児屋根命、境内社:若宮神社(天押雲命)、大国神社(大
國主命・蛭子命)、厳島神社(市杵島姫命)
由緒:元別当寺・東光山「隆興寺」縁起によると、正徳年間(1711~15)に同寺の
鎮護社として勧請されたと記されているようです
隆興寺の蓮
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帯解寺
当山は弘法大師の師である勤操大徳の開基巖渕千坊の一院で霊松庵と申しました。
そして、今から約1100年前、人皇55代文徳天皇の御妃染殿皇后(藤原明子)が永い
間お子様が生まれず、大変お悩みの折、祖神春日明神のお告げによって、早速勅使
をたてられて帯解子安地蔵菩薩にお祈り遊ばされたところ、まもなく御懐妊、月満ちて
惟仁親王(のちの清和天皇)を御安産になられました。
文徳天皇はお喜びのあまり、天安二年(858年)春、更に伽藍を建立になり寺号を改
められ、無事帯が解けた寺、帯解寺(おびとけでら)と勅命せられました。
帯解の名称はここから始まりました。
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自宅の近くへ戻って
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おまけ
7月3日(月)社友会事務所へ、歩こう会HP更新
志都美駅~久宝寺駅~社友会事務所
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7月7日(金)
奄美の従弟からパッションフルーツが届いた
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鉢植えの向日葵
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6月28日の大阪生野区の歴史ある寺社巡り・今里駅-2

7月2日      6月28日の大阪生野区の歴史ある寺社巡り・今里駅-2
                 近鉄 駅フリーハイキング
朝迄本降り、ハイキング受付の今里駅へ行くと小降りになっててハイキングに
出る事が苦にならない程度、予報でも昼前には雨もあがり天気回復すると言う
ので傘を開いて知人と2人でスタートした。私の貰った地図では184人目、この
20分間でスタートした人数だ、其の後も数人並んでいたので10時時点迄の
参加者190人くらい?11時迄の受付なのでもっと増えるかも知れない・・・
終盤のコリアタウンでコースを変えて桃谷駅へ帰る事にした。
家へ戻って実際の歩いた歩数と距離をみると 19697歩で約13.2kmに・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 今里駅受付9:30~11:00  歩程約8㎞
今里駅(受付)~清見原神社~難波寺~田島神社~どりー夢商店街~生野八
坂神社~生野神社~御勝山公園・御勝山古墳~舎利尊勝寺~つるの橋跡~
御幸森天満宮~コリアタウン~彌栄神社~桃谷商店街~JR桃谷駅
今里駅(受付)~清見原神社へ向かう
新地橋の手前で右折、川沿いに歩き新今里橋を渡る
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清見原神社
清見原神社(きよみはらじんじゃ)は、大阪府大阪市生野区にある神社である。
天武天皇を主祭神とし、明治の神社合祀により素盞嗚尊・大山咋命・天水分神
・國水分神を合わせ祀る。
水害により社記等が流失したため創建の詳細は不詳である。口伝によれば、
天武天皇が大和の飛鳥浄御原宮から難波に行幸した際に現在の当社鎮座地
で休憩したという。現在の社名はこの伝承によるものであり、このとき天武天皇
吉野の方をかえり見たとのことから、附近の地名「吉野見」が生まれた。天武
天皇の歿後、一帯を本拠としていた大伴氏が天武天皇を祀る神社を創建し、天
武天皇宮と称したと伝えられる。以降、旧大友村の氏神として崇敬された。
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神社横のお地蔵さん
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中ノ川迄戻って
川沿いに歩く
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難波寺
難波寺(なにわじ)は、大阪府大阪市生野区にある臨済宗妙心寺派の寺院。山
号は月江山。本尊は十一面観音。
この寺は、736年(天平8年)聖武天皇の勅命により行基によって、奈良東大寺
の大仏開眼法要のため、遣唐使の船にて来日したベトナムの僧侶を宿泊させ
る為、現在の天王寺区東高津町に創建されたと伝えられ、当初、三井寺の直末
として天台宗に属していた。室町時代に入ると荒廃し、江戸時代に入って妙心寺
塔頭後花園院の卓同和尚により中興され臨済宗に改められた。1925年(大正
14年)現在地に移された。
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境内には、浄瑠璃・歌舞伎の演目に「茜染野中隠井」(あかねそめのなかのかく
れい)縁の、井戸と弘法大師作の墨掛け地蔵がある。 また、難波寺形と呼ばれ
る手水鉢が現存する。
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田島神社&眼鏡レンズ発祥之地碑
田島神社
古い記録は洪水などで紛失していますが、残った石灯籠などに刻まれた文言に
よれば、少なくとも貞享元(1684)年にはすでに神社があったことがわかります。
その頃、菅原大神(すがはらのおおかみ)を主神とし、事代主命(ことしろぬしの
みこと)・八幡大神を相殿として天満宮といわれていました。
寛政4(1792)年には、少彦名命(すくなひこなのみこと)を主神として天神社とい
われ、明治42(1909)年に現社号の田島神社と改称しました。その後、平成2(19
89)年に御大典記念として本殿を改築し、石鳥居や『天神さまの牛』が新設され
ました。
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眼鏡レンズ発祥之地碑
「田島神社」の参道の真ん中に 大きな「石田太次郎顕徳碑」と「眼鏡レンズ発祥之
地」碑が並んで建っている。
田島地区は 明治から昭和にかけて, 国内有数の「眼鏡レンズ」生産拠点だった。
後に「レンズの始祖」と呼ばれた石田太次郎は ここ田島村で生れ, 丹波の国でレン
ズ研磨の技術を習得。 1857(安政4)年に 田島村にその技術を紹介し, 田島の家内
産業に発達した。1913(大正2)年に 農村だった田島村に電力が引かれると, 眼鏡レ
ンズ専門工場が生まれ, 最盛期には 200軒を超える業者が集まり, 日本一の眼鏡
生産地となった。しかし 1960年代以降, プラスチックレンズの技術が開発され, 軽く
て割れにくい優れた特性から ガラスレンズに取ってかわり, また 工場で大規模に量
産されるようになったため, 田島のレンズ製造は急激に減少していった。
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どりー夢商店街
生野銀座商店街は、生野本通り商店街(国道25号線側から)を通り抜け、横断歩道
をわたった先の商店街です。なので、駅からも遠く、本当に地元の商店街という感じ
です。しまっているお店も多いですが、日中は地域のおばさまたちで活気があります。
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生野八坂神社
東成郡誌第三編、生野村第四神社の項に『素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社、
大字林寺字林に鎮座せり…』とあり、その創祀は諸書に『元禄二巳(1689)年勧
請』とありますが、他にも説があって定かではありません。
東成郡林寺村(旧地名)の氏神様として崇敬されていましたが、明治41(1908)
年に天王寺区の河堀稲生神社に合祀され、境内地も『河堀稲生神社御旅所(お
たびしょ)』となりました。その後、氏子有志の熱誠なる努力によって復興造営が
完成し、昭和30(1955)年御神霊の還御を仰ぎ『生野八坂神社』の認証を受け、
『生野の祇園様』として今日に至っています。
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生野神社
木瓜(もっこう)を神紋とする生野神社の古名は、牛頭(ごず)天王宮という神号を
用い、明治5(1872)年村社、明治42(1909)年素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社
を経て、戦後の昭和22(1947)年に生野神社と改称。 神社の鳥居は小振りなが
ら宝永7(1710)年の刻銘があり、区内では最も古い貴重なもので、鳥居より背の
高い大きな歌碑と榎・いちょうの古木が景観を添えています。
また、拝殿前の一対の狛犬は天保4(1833)年のもので、お伊勢参りが大流行した
江戸期の貴重な記念物です。これは村の氏神さんへの崇敬を疎かにしなかった
証拠品となっています。
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此処までは、
6月28日の大阪生野区の歴史ある寺社巡り・今里駅-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-07-02
此処では、続きの舎利尊勝寺~の詳細を
28日の大阪生野区の歴史ある寺社巡り・今里駅-2 として掲載します。
舎利尊勝寺
南岳山舎利尊勝寺と呼ばれ禅宗の一派に属し、本尊は釈迦如来です。約1400
年前、用明天皇のころ、生野長者と呼ばれる長者に言葉の不自由な子が生まれ
ました。長者が、四天王寺伽藍を設立するために来ていた聖徳太子にすがると、
太子はその子に向かい「わたしが前世に預けた3つの仏舎利を返しなさい」とい
いました。すると3つの仏舎利を吐き出し、それからは普通に話せるようになりま
した。太子はそのうち、ひとつを法隆寺に、ひとつを四天王寺に、残った一つを
長者に渡しました。長者が、お堂を建てて、この仏舎利を奉ったのが、舎利寺の
起源と言われています。
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御勝山古墳へ向かう
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御勝山公園・御勝山古墳
御勝山(おかちやま)古墳
もとは岡山と呼ばれ、元和元(1615)年夏の陣の大坂落城のとき、徳川秀忠が此
処で戦勝の宴を催したことから御勝山の名で知られるようになりました。
南北112m、東西55m、高さ約8mの前方後円墳で現在は前方部が道路(勝山通)
と勝山南公園になっており、後円部を残すのみです。
市内では、茶臼山古墳(天王寺区)と帝塚山古墳(住吉区)と並んで重要な史跡の
一つです。中臣氏の祖『大小橋命(おおおはせのみこと)』の墓であるといわれて
いますが明らかではありません。
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つるの橋跡
猪甘津橋(いかいつのはし)は、日本書紀に記述されている橋。後継の橋は存在
していないが、文献で登場する木造橋としては日本最古。
日本書紀の仁徳天皇十四年(326年?)の条に「猪甘津に橋わたす」との記述があ
り、少し北に「小橋の江」と呼ばれた入江があり、入江に半島のように突き出ていた
上町台地の東側に沿って百済川(旧・平野川)が注ぎ込み、河口付近に「猪甘津」
と呼ばれた港が栄えていた。 橋のあった場所については諸説あるが、猪飼野(現
・大阪市生野区桃谷付近)の百済川に架けられていたものと推定されている。
この場所には江戸時代以降、旧平野川のこの橋に鶴が良く飛んできていたので鶴
橋(つるのはし)と命名されてきた橋が架けられていた。だが、昭和15年(1940年)
に河川改修工事のため川は埋め立てられ、つるの橋はなくなったが、1952年(昭
和27年)に橋が存在した場所(桃谷三丁目)に記念碑が建てられた。
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御幸森天満宮(みゆきもり天満宮)
仁徳天皇・少彦名命(すくなひこなのみこと)・押坂彦命(おさかひこのみこと)を主
祭神としています。江戸時代には『御幸宮』または『天皇天神社』と称していました。
社頭に立てられた由来碑によると、仁徳天皇のとき百済野の北端にあった小丘に
鷹を放って天皇がそれをご覧になったところから御幸森の名が起こったと刻まれて
います。また、境内にある5本のムクノキ(椋)の老樹は『まちの貴重な緑をみんな
の力で守っていこう』との願いから、市の保存樹林に指定されています。
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コリアタウン・・・HPより
御 幸通の3商店街(通称:生野コリアタウン)は1600年の歴史ある御幸森神社
のお膝元、東西500m程に約120店舗が軒を連ねる商店街です。大正時代にか
つて猪飼野と呼ばれたこの近隣が人口の増加に伴い市街化していく中、大阪市
立鶴橋公設市場が開設され、旧市電「猪飼野駅」に続く一条通商店街と交差す
る位置であったことから国内にある他と同様な商店街として発展していきました。
生活の苦しかった朝鮮半島の人々は既に韓国併合が行われていたことにより、
日本に職を求めて移住するようになります。
特に大正時代末期に就役した「君が代丸」により、済州島からの移住者が増大し
ます。その人々こそ経済成長著しい大阪の中小零細企業にあって特に避けられ
がちな労働や雇用需要を担ったのです。出稼ぎ労働者が増えてくると、今度は
同胞を相手に商売(といってもゴザに物品・食品を並べる程度)を行う人々が現
れ始め、その界隈が朝鮮市場と呼ばれるようになります(現在の御幸通の裏手)
戦 争が激化し大阪にも空襲が行われると、それまで御幸通で商売をしていた
旧日本人店主たちが疎開を始めるようになります。
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疎開の際、「店舗は空襲の被害にあうかもしれない」「ほうっておいては店舗・家
屋が痛む」と考えた旧店主達は、それらを安く貸したり売ったりするようになりま
した。この時、御幸通の裏手で商売をしていた人たちを始めとして在日韓国・朝
鮮人達が御幸通で店舗を構えるようになります。この頃を境に御幸通商店街が
特異な商店街としての発展を見せ始めます。
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昭 和30年代から50年代前半にかけては日本の高度経済成長もあり、韓国・朝
鮮の食品や物品がひとところに集まる商店街としてその隆盛期を迎えます。
ところが昭和50年代後半頃から陰りを見せ始めます。最初期の渡航者から数え
ると50年程経つ中で、在日韓国・朝鮮人の生活様式の変化、日本経済の成熟、
後継者の不在等いくつかの要因が重なり、来街者が目に見えて減少していきま
した。そんな時危機感を覚えた当時の商店主たちが、"コリアタウン構想"を掲げ
ます。しかし当初コリアタウン構想を立ち上げたとはいえ、新しい来訪者の方へ
の対応に商店主達が戸惑いを見せるような状態が続きましたが、特徴的な門や
舗装道路が完成し、その後日韓共催ワールドカップ、冬のソナタに始まる韓国文
化への関心が高まり、コリアタウンとして注目が集まるようになり現在に至ります。
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彌栄神社
神祖素盞嗚命(すさのおのみこと)を文録年間に熊野巫神社(旧出雲国意宇郡)
より分霊奉還したのがはじまりと旧記にあります。
その当時は牛頭(ごず)天王社と呼ばれ、創立以来旧木野(この)村の鎮守とし
て崇敬厚く宮座(みやざ)を設けて奉仕し、明治5(1872)年村社に列せられ、社
号もこの時に彌栄神社と改められました。
明治43(1910)年、氏子協議のうえ大字岡村(現勝山北4丁目)の御館(みたて)
神社を合祀しました。その御館神社は、旧岡村の生土神(うぶすながみ)でいば
らの神と呼ばれ、仁徳天皇の的殿(まとどの)の旧跡で、現在は彌栄神社の御
旅所(おたびしょ)となっています。
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桃谷商店街
桃谷駅前商店街は庶民の味方。懐かしいもん、珍しいもん、安いもんやら、
楽しいもん。 何でも揃うから、ほんま便利やで~。 散歩がてらに、いっぺん
遊びにおいでや!
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JR桃谷駅
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おまけ
自宅の近くへ戻って、アザミ、自宅のアガパンサス
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6月27日の歩こう会(街歩き)・日本橋駅-2

6月29日        6月27日の歩こう会(街歩き)・日本橋駅-2
                大阪 道頓堀から星空への散策
6月27日(火)の歩こう会は、大阪 道頓堀から星空への散策、雨天決行と言う事で
集合場所は、近鉄日本橋駅・地下鉄千日前線日本橋駅 地下⑦番出口から50m先
の国立文楽劇場前に10時、歩程距離約6㎞と言う設定・・・参加者は86人
日本橋駅~国立文楽劇場前~安井道頓道卜紀功碑~難波神社~坐摩神社(イカ
スリ)神社~靭公園(トイレ休憩)~科学館無料休憩所(昼食休憩)~大阪市立科学
館・プラネタリウム(解散)・他自由見学~地下鉄肥後橋駅 →難波 →JR難波
国立文楽劇場
四番目の国立劇場として1984年に開館、大小二つの劇場と展示室からなる。大
ホールではユネスコ無形文化遺産の「代表一覧」に記載されている人形浄瑠璃・文
楽の公演を中心に演劇や舞踊などが行われる。小ホールでは奇数月に落語・漫才
・浪曲等の興行「上方演芸特選会」が開かれ、東京の国立劇場における国立演芸
場的役割も担う。
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安井道頓道卜紀功碑
道頓堀
1612年(慶長17年)に南端が堀止になっていた東横堀川と西横堀川を結んで木津
川へ注ぐ堀川の開削が開始され、河内国渋川郡久宝寺(または、摂津国住吉郡平
野郷)の安井道頓(成安道頓)が新川奉行に任命された。しかし、大坂の陣で道頓
が戦死したため、従弟の安井九兵衛道卜(どうぼく)や安藤藤次(平野藤次)らが引
き継ぎ、1615年(元和元年)に完成した。当初は新堀・南堀川・新川などと呼ばれて
いたが、大坂城主の松平忠明が道頓の死を追悼し、また、相当な私財が投じられた
ことや功績を鑑み「道頓堀」と命名した。
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※「大坂濫觴書一件」では、道卜が合戦後の工事再開の認可を受けた際、徳川氏か
らの人夫提供の誘いを断り、久宝寺から百姓を呼び寄せ、自らの手で工事を完成さ
せたとあり、安井家の富豪のほど、また当時の町人の心意気を偲ばせる記述となっ
ている。この開堀では両岸の開発も行われ、道頓堀川八丁が誕生。「九郎右衛門町」、
「宗右衛門町」などの人名のついた各町は安井家出入りの百姓で、この時開発の衝
にあったものの名に因んだものである。

難波神社へ向かう
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長堀の地下道へ入る
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地上へ出て御堂筋
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難波神社
ご祭神 仁徳天皇にんとくてんのう)
配 祀 素盞嗚尊(すさのおのみこと)
反正天皇が大阪府松原市に柴籬宮しばがきのみやを開かれたとき、父帝の仁徳天
皇をご祭神として創建されたと伝えられる。その後、天王寺区上本町に遷り、豊臣秀
吉が大阪城を築城したのち天正年間(1583年)現在地に遷座。昭和20年(1945年)
第二次世界大戦大阪空襲により全焼したため、仮宮によっていたものを昭和49年
7月(1974年)再建され現在に至る。
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難波神社を後に坐摩神社へ向かう
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坐摩神社(イカスリ)神社前半
坐摩神社(いかすりじんじゃ)は、式内社(大社)で、摂津国一宮を称する。旧社格は
官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「白鷺」。
正式な読み方は「いかすりじんじゃ」だが、一般には「ざまじんじゃ」と読まれることが
多く、地元では「ざまさん」の通称で呼ばれる。
祭神は以下の5柱で、「坐摩神」と総称している。
生井神 (いくゐのかみ) - 井水の神(生命力のある井戸水の神)
福井神 (さくゐのかみ) - 井水の神(幸福と繁栄の井戸水の神)
綱長井神 (つながゐのかみ) - 井水の神(「釣瓶を吊す綱の長く」ともいわれ、深く清
                    らかな井戸水の神)
波比祇神 (はひきのかみ) - 竃神(屋敷神。庭の神)
阿須波神 (はすはのかみ) - 竃神(足場・足下の神。足の神であり旅の神)
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大阪市中心部の船場にある古い神社で、同地の守護神的存在である。南御堂の西隣
に位置し、境内は東向きで、入口では大小3つの鳥居が横に組み合わさった珍しい
「三ツ鳥居」が迎える。当社の始まりは、神功皇后が三韓征伐より帰還したとき、淀川
河口の地に坐摩神を祀ったことだとされる。今でも旧社地であった坐摩神社行宮には
「神功皇后の鎮座石」と言われる巨石が祀られている。延喜式神名帳では摂津国西成
郡唯一の大社に列し、住吉大社と同じく摂津国一宮を称している。『万葉集』の中には、
難波津から西国へ向かう防人が旅の安全を坐摩社に祈る歌がある。同社の神紋が白
鷺なのも、神功皇后が坐摩の神の教えにより白鷺の多く集まる場所に坐摩神を奉遷な
されたことに由来する。
境内の花も綺麗
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此処までは、
6月27日の歩こう会(街歩き)・日本橋駅-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-06-29-2 
此処では、
続きの坐摩神社(イカスリ)神社後半~の詳細を掲載します。
坐摩神社(イカスリ)神社後半
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靭公園へ向かう
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靭公園(トイレ休憩)
総面積約9.7ha、東西約800m、南北約150mの細長い形をしており、中央を南北に
通るなにわ筋によって東園と西園に分かれています。 平成16年にリニューアルされ
たバラ園や、4面のテニスコートを備えた靱庭球場、四季に彩られるケヤキ並木など
があり、西園には、16面のテニスコートを有し、国際大会にも利用できる靱テニスセ
ンターがあります。ビジネス街の憩いの場、スポーツの場として幅広く利用されている。
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市立科学技術館へ向かう
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科学館無料休憩所(昼食休憩)
大阪市立科学館(東洋初のプラネタリウム 日本初の科学館)
大阪の中心の中之島地区にある、日本を代表する化学のミュージアムです。
昭和12(1937)年3月に開館した日本初の科学館(大阪市立電気科学館)を
継承しています。天文の専門スタッフが、高性能の超大型プラネタリウムを
駆使して、日本初のプラネタリウム「大阪市立電気科学館」の伝統を引き継
ぐ生解説投影で、星空と宇宙をご案内します。子供から科学に詳しい方迄、
どの年齢層の方にも支持を頂いており、「宇宙とエネルギー」をテーマに科
学を楽しむ文化を発信しています。
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大阪市立科学館・プラネタリウム(解散)・自由見学
プラネタリウム初体験、星座が思ってた事と違う事等、とても良かった。
自由見学の4階、3階、2階の見学&体験も新鮮で良かった、来て良かった!
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肥後橋駅へ向かう
途中でコーヒータイム&4人で涼みに・・・
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難波へ出て
JR難波駅~帰宅
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道路脇のアザミ
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おまけ
我家の花、皇帝ダリアもこんなに大きくなって・・・
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6月17日の岸辺からエキスポシティを経て吹田へ-2

6月22日    6月17日の岸辺からエキスポシティを経て吹田へ-2
               JRふれあいハイキング 歩程約12㎞
今回は、1人で参加したJRふれあいハイキング、初めてのパーティ 会費500円
コース  JRふれあい  南大阪歩け歩け協会主催 岸辺駅(受付・集合)9:45 
岸辺駅(受付・集合)~旧中西家住宅~市場池公園~緑のネットワーク道~エキ
スポシティ~万博記念公園駅前広場~伊射奈岐神社~紫金山公園~吉志部神
社~吹田駅(ゴール・解散)   参加者132人?
若い頃、昭和40年~48年にかけて岸辺駅の次の千里丘駅で乗り降りして大阪へ
通勤してたので懐かしい思いも有り参加したのだが?思い出は万博公園のみ・・
JR志都美駅
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JR岸辺駅
駅前再開発の工事中・・・
昭和40年~48年にかけて岸辺駅と次の千里丘の粗中間?乗降は千里丘駅から
通勤してたので懐かしいハズが、あまりにも変わり過ぎて思い出の場所が無い・・・
数年前に、千里丘、茨木、高槻方面のハイキングに参加した時は思い出の場所が
なんぼか見受けられたのに、奄美から出て来て物珍しかったのは42年頃迄で・・・
勿論、万博記念公園は万博開催時に歩いて行ける場所に住んでた事も有り休日
前には1LDKの文化住宅が満員に?会社の同僚が寝泊まりに来て万博へ・・・
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旧中西家住宅の前を通り
旧中西家住宅は、文化財を吹田市のために役立てたいという中西家の御厚志に
より、平成19年(2007)年1月22日に家具や調度品とともに、吹田市に寄贈された
物です。
中西家は、江戸時代には大庄屋を勤めていました。
約1,000坪の屋敷地に、文政9(1826)年建築の主屋、長屋門、内蔵(米蔵)、キザ
ラ(木小屋)などの建物が建ち、江戸後期の大庄屋の屋敷構えを、ほぼ当時のまま
伝えています。
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市場池公園へ向かう
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市場池公園・・・小休止
市場池公園は、大阪府摂津市千里丘6丁目にある公園です。隣にスーパーイズ
ミヤがあり、こちらは吹田市です。摂津市と吹田市の境目に位置する公園です。
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ヤマモモの木の下で休憩
実が熟してて美味しい・・・
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市場池公園をスタート
万博公園へ2km
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万国博覧会記念公園
日本万国博覧会記念公園は、1970年開催の日本万国博覧会(大阪万博)の跡地を
整備した公園である。万博記念公園や万博公園とも呼称される。
所在地は大阪府吹田市千里万博公園。公園を管理するのは、大阪府である。1972
年3月15日の日本万国博覧会一般公開2周年の日にエキスポランドと自然文化園の
第1期及び日本庭園・大阪日本民藝館などを公開して開園する。その後、自然文化
園が第3期に分けて整備・公開され、国立民族学博物館が開設される一方、開園後
に閉鎖された施設もある。
万博公園の入口にデイゴ、太陽の搭も見えて来た
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太陽の搭
太陽の塔は、芸術家の岡本太郎がデザインし、1970年に開催された日本万国博覧
会のシンボルゾーンにテーマ展示館として、母の塔・青春の塔・大屋根(長さ292m、
幅108m、高さ約40m)とともにつくられました。
塔の頂部には金色に輝き未来を象徴する「黄金の顔」、現在を象徴する正面の「太陽
の顔」、過去を象徴する背面の「黒い太陽」という3つの顔を持っています。
構造は、鉄骨、鉄筋コンクリート造りで一部軽量化のため吹き付けのコンクリートが使
われています。また、内部は空洞になっており、博覧会当時は展示空間でしたが、現
在は公開していません。
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エキスポシティ
三井不動産商業マネジメント(株)運営する、万博記念公園の日本最大級 大型複合
施設。
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高さ日本一の大観覧車
日本一高い観覧車. REDHORSE OSAKA WHEEL(レッドホース オオサカ ホイール)
大阪:吹田市:エキスポシティ」. 高さ 117m. 現在日本一高い観覧車は、2016年7月の
オープン時点では世界でも5番目に高い観覧車。
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此処までは、
6月17日の岸辺からエキスポシティを経て吹田へ-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-06-21-2
続きは、大観覧車の真下をUターンして~
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万博公園の出口へ向かう
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エキスポシティを後に伊射奈岐神社へ向かう
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伊射奈岐神社(いざなぎじんじゃ)・・・昼食休憩
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当社は、延喜式内社で、延喜式神明張に、摂津国島下郡、伊射奈岐神社二座
云々とあり一座がこの神社であって、千里丘陵の中間で万国博会場になった地
域に隣接する高庭山に鎮座している。爾来、皇大神御霊と共に内裏に奉斎され
ていた豊受大御神の御霊が崇神天皇の御宇、皇居を離れさせられ、後に丹波
国与謝郡(現在福知山市)の比冶真名井に遷し奉られたが人皇第二十二代雄
略天皇即位二十二年、皇大神の御神誨により現在の伊勢市山田、高倉山麓の
山田ヶ原に遷座し奉られたとき、伊勢斎宮女倭姫の御示教により、大佐々之命
が、五柱の神を奉祀するべき霊地を諸国にもとめ、ついにこの山田の地に奉祀
せられたと云う。又、山田という地名がこの様な処から山田原と称し、伊勢山田
から名を移したのであると伝えられている。俗に姫神社とも称し、貞観元年正月
従五位上を授けられ(三代実録、貞観元年正月の条に「二十七日甲申京畿七
道諸神進階及新叙惣二六七社云々、奉授摂津国従五位、伊射奈岐神従五位
上」)同十五年社宮と改称されたと云う。
延喜の制に大社に列し、明治六年郷社、祈年月次新嘗の案上に預かった名祠
である。俗に五社宮、姫宮とも称し、山田五ヶ村、上村、中村、別所村、小川村、
下村、千里丘、千里ニュータウンを含む産土大神である。
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昼食を終えて鳥居の前に戻って撮り直して本殿へ
大鳥居
大鳥居(明神鳥居:高さ約5.7m) 慶安三年(1650年)建造、寛永七年(1854年)
再造立 左右の柱に銘。が刻まれている
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午後は、伊射奈岐神社境内をスタート
吉志部神社へ向かう
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紫金山公園
この公園には、国の史跡「吉志部瓦窯跡(きしべがようせき)」ほか、歴史的な資
産が存在しています。また、かつて満開のツツジが山を赤紫色に染めた様子が
名前の由来とされる「紫金山」を後世に残そうと、市民による里山保全活動が行
われている場所でもあります。古くから岸部の田畑を潤していた釈迦が池も含め、
歴史、自然をテーマとした整備計画「吹風土記の丘・紫金山公園基本計画」が市
民参画により策定された総合公園です。
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吉志部神社の手前、平窯
「吉志部瓦窯跡(きしべがようせき)」
ここでは延暦13年(794年)に新たに都が移された平安宮の瓦を生産していま
した。発掘調査の結果、平安宮造営当初の瓦生産の実態を示す重要な遺跡
として昭和46年(1971年)に国の史跡に指定されました。
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吉志部神社へ向かう
※吉志部の里と難波吉志一族
千里丘陵南西部に位置する紫金山。現在、吉志部神社を中心に風土記の丘、
総合公園として整備されているこの辺りは、その昔、吉志部の里と呼ばれ、大
和時代から平安時代にかけて難波吉志一族が活躍していました。
難波吉志一族は、朝鮮半島から渡ってきた進んだ技術を持った人々といわれ
ています。「吉志」というのは、朝鮮半島にあった新羅の国で使っていた役人の
位の称号で、日本に渡ってから吉志(貴志、岐志、吉師)と呼ばれた人はたくさ
んいましたが、中でも難波の津(現在の大阪城付近)に住みついた一族を難波
吉志と呼んでいたようです。 岸部にいた難波吉志の先祖は安部難波吉志とい
い、大阪市阿倍野の四天王寺と関係が深いといわれています。
吉志一族は、代々「吉志の大神宮」を守り神として崇敬し一族の繁栄と周辺の
民衆の幸福を祈願して暮らしていました。

吉志部神社
吉志部神社は、大阪府吹田市の紫金山に鎮座し、遥か古代より鎮守の社として
村の人々に崇敬されてまいりました。
吉志部神社の創建時期は明らかではありませんが、社伝によると崇神天皇の時
代に大和国の瑞籬から奉遷して祀られ「大神宮」と称したとありますが、淳和天皇
の時代である天長元(824)年に天照御神と改称したこともあるようです。
ちなみに正式に吉志部神社となったのは、明治3(1870)年、神仏分離の発令を
機に改められてからです。
古くから極めて壮麗な社殿であったと伝えられていますが、応仁の乱の兵火でこ
とごとく焼け落ちてしまいます。焼け跡には奇跡的に神鏡のみが残されていたこ
とから、それを村人たちの手によって再び奉祀して文明元(1469)年に再建、さら
に天文3年(1534年)に中興されました。 江戸時代、祭神は天照皇大神を主神と
した七柱で七社明神と呼ばれ、吉志部5か村の鎮守として祀られていました。後
に豊受大神を合祀し、正徳3(1713)年、正遷宮の棟札には「吉志部村鎮守八社 」
と記されています。
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吹田駅へ向かう
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吹田駅ホームから
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6月16日の舞洲ゆり園・南港コスモスクエア駅-2

6月21日       6月16日の舞洲ゆり園・南港コスモスクエア駅-2
                   舞洲ゆり園へ花見に・・・
此の日は、家内が行かないと言うので1人で電車で行く事にした、弁天町駅
で地下鉄中央線に乗り換えて、終点の南港コスモスクエア駅、此処からバス
(北港観光)のコスモドリームライン(ロッジ舞洲迄行き帰る循環バス)が運行
されている@210円。ゆり園は、ロッジ舞洲で降りて徒歩3分のところに?
花見が終わって帰りに新夕陽の丘の公園散策、木陰で昼食を済ませて
帰りは、コースを桜島駅行きの市バスに乗ってユニバーサルシティー駅へ、
コスモスクエア駅から舞洲を撮る
舞洲へ渡る橋&舞洲の大坂市ゴミ処理施設
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新夕陽ヶ丘
昼食は此の公園でと考えながら・・・
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ゆり園の入園券@1200円は、JAF割引で@800円
ずーっと雨が降らないせいなのか?ゆり達も生気が無い?お疲れの様子・・・
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この3枚は続きもの?
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元に戻って
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此処までは、
6月16日の舞洲ゆり園・コスモスクエア駅-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
     http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-06-21
此の
6月16日の舞洲ゆり園・コスモスクエア駅-2 では
    続きの未だ未だ続くゆり園~の詳細を掲載します。
未だ未だ続くゆり園
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ゆり園&目休めに海上の船を・・・
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ゆり園を出て
新夕陽ヶ丘の公園へ弁当を食べに・・・
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昨年、
大きな実を付けてたヤマモモの木には実が1つだけ
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此れは
実は小さいが熟してて甘い
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帰りは桜島駅行きのバスでユニバーサルシティ駅へ
バスの車窓から見えたのは大阪市のゴミ処理施設?
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人口島全体を緑で覆い、自然環境と共生することを目指した舞洲のシンボル
として、外装デザインを重視して建てられたゴミ処理施設
高層ビルや工業的な街並みを攻撃的であると考え、建築の合理主義を否定し
続けていたフンデルトヴァッサー氏が、自然環境との調和を重視し、エコロジー
技術と芸術の融和をテーマに建物をデザインした。

※フンデルトヴァッサー(1928年12月15日 - 2000年2月19日)
自由な発想を持つ画家、フンデルトヴァッサーは絵画のほかにも、建築
デザインや商業デザインでもユニークな作品を残し、今も高い評価を得、
そして活用されています。オーストリアの芸術家、画家、建築家。
日本の風呂敷を「美しくて、無駄がない」として賞賛し、1997年に12種類
の風呂敷絵を描き、商品化している。

ユニバーサルシティ駅前で降りて駅へ
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環状線西九条駅で大和路線に乗り換える
西九条駅ホームで見かけた、ど派手!な電車
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6月14日の古戦場跡と公園散策・森ノ宮駅-2

6月18日        6月14日の古戦場跡と公園散策・森ノ宮駅-2
                JRふれあいハイキング 歩程約10㎞
此の日は知人と4人で参加、M吉さんK場さんS藤さんと田原の4人で昼飲み会迄。
コース JRふれあいハイキング 大阪・関西歩け歩け協会主催  参加費300円  
大阪城公園・森ノ宮噴水前 10時集合  此の日の参加者は132人
森ノ宮駅~徒歩5分~森ノ宮噴水前~(受付・集合)~大阪ビジネスパーク~鯰江
公園~城北川~八劔神社~鴫野古戦場跡~鴫野公園~森ノ宮駅(解散) 

ハイキングの4人は、湯処 あべの橋温泉で汗を流して昼飲み会に参加
6月14日・・・昼飲み会15:00~17:00 会費3000円9品&飲み放題 甘太郎で
 ・M吉さん・N西さん・Y田さん・R得さん・K場さん・A座さん・S藤さんと田原の8人
JR森ノ宮駅から
大坂城公園・森ノ宮噴水前へ、此処で4人揃う
森ノ宮噴水で受付
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直ぐ近くの木陰で集合&スタート
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大坂城公園内を歩き大阪ビジネスパークへ向かう
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大阪ビジネスパーク
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鯰江公園へ向かう
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鯰江公園で小休止
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城北川へ向かう
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城北川沿いを歩いて
城北川
城北川は、昭和10年の城北運河の着工に始まります。当時、工業地域としては
舟運の便を著しく欠いているということで、区画整理とあわせて、この運河を開き
ました。城北運河の位置は、旭区(現都島区)友渕町淀川左岸より赤川町、中宮
町、野江町を経て森小路に至り南折し、今福町を経て放出町寝屋川右岸に至り
ます。寝屋川と旧淀川(大川)を結ぶ総延長5615m(城東区内2130m)、幅40m
という大規模なもので、昭和15年12月に完成しました。
昭和30年~40年代の高度成長期には、工場、家庭排水により、城北運河もドブ
川化しました。そこで、昭和41年度から城北運河の浄化作戦が始まります。第1
次改修として5ヶ年計画で鋼矢板護岸工事を行い、生活排水が流れ込まない様
沿岸の下水道敷設を併行しました。昭和42年度からは河岸公園と遊歩道整備工
事にも着手、昭和46年度からは満干潮時に大川口、寝屋川口の両水門操作も
開始され、きれいな淀川の水を導入し汚れた寝屋川の水が締め出されるように
なりました。 このような浄化作戦の成果として、昭和48年1月には城北運河の城
東地区で、フナやモロコ等の稚魚の生息が確認されています。
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此処までは、
6月14日の古戦場跡と公園散策・森ノ宮駅-1 として
      下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
     http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-06-18-1
此処では、此の続きの八釼神社へ向か~を
6月14日の古戦場跡と公園散策・森ノ宮駅-2 として詳細を掲載します。
八釼神社へ向かう
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八劔神社
速素盞鳴命(はやすさのおのみこと)・奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)・八頭大
神(やつがしらおおかみ)を祭神とした神社」とあります。宮座中で存在した伝説を
記録した社記によれば、応永の始、老人の夢に熱田神宮の神様が現れ、明日淀
川の辺りにいくから祀ってほしいというお告げがあった。翌朝里民十数人を招きこ
の事を語ると、同じ夢を見た人が多くいることを奇異に思い、衣服を改め川辺にい
くと、案の定、小さな蛇が川から上がってきた。一同は蛇についていくと川を越え
て当地に入った。依ってその留まった所に小祠を建ててこれを祀ったとあり、これ
を神社の起源とし、応永3(1356)年9月の事としています。
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境内に大楠公さんの石像
大相撲・朝日山部屋の14代朝日山四郎右衛門が中心になり建立?
14代朝日山四郎右衛門とは
大正7年1月春場所に、二瀬川を改めて朝日山四郎右衛門の名を襲名して活躍
したこの関取は、鴫野の米屋の息子でした。本名は井口惣三郎。明治21年2月
23日生まれ。入門時の四股名は鴫野森。大正8年春場所に大関に昇進しました。
大正9年にアメリカ巡業、大正10年に現役を引退後も、大正13年台湾巡業、大
正14年アメリカ巡業をしました。地元の人や郷土を愛し、地元の人からもとても
愛されていました。昭和18年、56歳で没。現在でも八劔(やつるぎ)神社に「奉納
十四代朝日山四郎右衛門、大正九年四月」と書かれた石柱と、朝日山の化粧ま
わしをつけた額が奉納されています。
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※今の城東区に昭和の初め頃あったという大阪国技館
1937年(昭和12年)に、旭区関目(現在の城東区古市)に竣工した大阪国技館(大
阪大国技館とも)については、同年に発刊された『大阪大場所大相撲写真帳-大
阪大国技館竣工記念-』という資料があります。表紙に描かれた絵からもわかる
様に、鉄筋コンクリート4階建ドーム式の相撲場で、収容人員は25,000人、と概
要に記されています。「当時、国技館を中心に商店街や住宅を整備し、新たなま
ちを作る計画がありましたが、昭和16年(1941)の太平洋戦争の勃発とともに、
立ち消えとなり、大阪国技館も、わずか4年間、7回の準本場所が開催されただ
けで役目を終え、昭和26年(1951)頃には解体されました」と紹介されています。
※「大楠公(だいなんこう)」
楠木 正成(くすのき まさしげ)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての
武将。父は楠木正遠とされる。息子に正行、正時、正儀がいる。 後醍醐天皇を
奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に
天皇を助けた。尊氏の反抗後は新田義貞、北畠顕家とともに南朝側の軍の一
翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に敗れて自害した。 明治以降は「大楠
公(だいなんこう)」と称され、明治13年(1880年)には正一位を追贈された。

鴫野古戦場跡
大坂冬の陣の鴫野・今福の合戦は城東区を主戦場としたもので、その碑が1920
年に現在の大阪市立城東小学校(城東区鴫野東3丁目16-14)の校庭に建てられ、
今も残っています。
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鴫野公園で小休止の後
森ノ宮駅へ向かう
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森ノ宮駅~天王寺駅へでて
ハイキングの4人は、湯処 あべの橋温泉で汗を流して待ち合わせ場所で合流、
8人で昼飲み会15:00~17:00 会費3000円 9品&飲み放題 居酒屋甘太郎
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6月11日の馬見丘陵公園・紫陽花等々-2

6月17日        6月11日の馬見丘陵公園・紫陽花等々-2
                菖蒲祭りに菖蒲以外の紫陽花等々
6月10日~12日は、馬見丘陵公園の菖蒲祭りが開催されていました。
此の日11日は、開園時間前に家内と一緒に菖蒲祭り?の菖蒲を見に行った。
菖蒲に菖蒲園周辺と紫陽花等も見て廻ったので・・・
菖蒲園周辺の菖蒲以外について
クレマチス&シモツケ&キンシバイ
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古墳の丘
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下池
亀達も日向ぼっこ
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アメリカデイゴ
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ビヨウヤナギ
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タンポポ&コクチナシ
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紫陽花園&睡蓮池
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此の続きは、
6月11日の馬見丘陵公園・紫陽花等々-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
     http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-06-17
続きは、紫陽花~
紫陽花
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ナガレ山古墳
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ウッドデッキへ
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上池
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梅林には梅の実が
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倉塚古墳
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一本松古墳
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下池
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中央公園館へ
流れの有る坂道
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6月11日の馬見丘陵公園・菖蒲園 詳細編

6月16日        6月11日の馬見丘陵公園・菖蒲園 詳細編
                   菖蒲祭り・・・
6月10日~12日は、馬見丘陵公園の菖蒲祭りが開催されていました。
此の日11日は、開園時間前に家内と一緒に菖蒲祭り?の菖蒲を見に行った。
6月10日~12日の菖蒲祭りは、100品種3万本との歌い文句で開催されていた。
6月11日の菖蒲園
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6月10日の花めぐり大阪の”ジャカランダ”・弁天町駅-2

6月15日       6月10日の花めぐり大阪の”ジャカランダ”・弁天町駅-2  
                JRふれあいハイキング 歩程約13km
此の日は1人で参加、日陰に入ると涼しくて、日向を歩くのが気持ち良い日だった。 
コース 大阪府歩け歩け協会主催 弁天町駅北口 波除公園(集合) 参加費500円
弁天町駅~波除公園(集合・スタート)~八幡屋公園ジャカランダ~甚兵衛渡船場~
泉尾浜公園~千島公園~落合上渡船場~北津守公園~一心寺ジャカランダ~天王
寺駅(ゴール)   参加者320人と多く、渡船(定員48人)には待ち時間が長かった。
八幡屋公園のジャカランダは未だ咲き初め?数本にチラホラ、一心寺のジャカランダ
は外の道路から、此方も未だ花が少なかった、千島公園のデイゴは綺麗に咲いてた。
志都美駅
和歌山線の古い電車が入って来た
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波除公園
主催の大阪府歩け歩け協会の朝礼
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波除公園をスタート
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八幡屋公園へ向かう
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八幡屋公園
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八幡屋公園のジャカランダ
数本の木にチラホラ咲き
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八幡屋公園で小休止
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甚兵衛渡船場へ向かう
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甚兵衛渡船場
定員48人だから7往復?
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甚兵衛渡船場から千島公園へ向かう
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千島公園(昼食休憩)
デイゴ
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此処までは、
6月10の花めぐり大阪の”ジャカランダ”・弁天町駅-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-06-15-2
続きは、千島公園の後半から
デイゴ
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オリンピック体操金メダル
具志堅幸司選手顕彰碑
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千島公園をスタート、公園内を通る
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落合上渡船場へ向かう
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落合上渡船場
此処も定員48人だから7往復
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北津守公園で全員を待って
一心寺へ向かってスタート
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新世界?
一心寺へ向かう
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一心寺のジャカランダ
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茶臼山公園(ゴール)
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堀越神社
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あべのハルカス
天王寺駅へ向かう  
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王子駅へ戻り、バスに乗って
自宅の近く、高速道路の裏道
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自宅の鉢植えのアマリリスが咲いた
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