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11月10日の上牧町ささゆりウオーク-2 

11月14日        11月10日の上牧町ささゆりウオーク-2 
                  健康上牧21計画推進事業
毎月10日は奈良県民健康の日、と言う事で我が町でも毎月10日に「ささゆりウオーク」を、
此れまでは、中々参加する機会が無かったが、この11月に参加、12月も参加できそうだ。
受付&スタートは、2000年会館前、家から歩いて15分くらいの所、9時~9時15分受付
コース  方向距離 約5km(約1.5時間) 次回12月10日は片岡城跡コース 約5.5km 
2000年会館前(受付・スタート)~滝川遊歩道~東洋シール側道~五軒家集落~雨乞い
地蔵~牧野史跡~葛城台~滝川遊歩道~2000年会館(ゴール)
私が初めて参加した、此の日の参加者は40人+ウオーキングスタッフ16人の合計 56人
いつもは80人位の参加らしい?今日の参加者はいつもの半分くらい出そうで40人・・・ 
2000年会館前に集合、向かい側に虹の湯
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さあースタート
滝川遊歩道へ向かう
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滝川遊歩道を東洋シール側道へ向かう
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東洋シール工場正門前で滝川を渡り道路を浜寿司の前迄
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回転寿司屋(浜寿司)の前で滝川を渡り、又滝川遊歩道を歩く
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五軒家集落・雨乞い地蔵
※五軒家集落の雨乞い地蔵の昔話
昔、ある年の夏、旱(ひでり)の日が何日も続き、五軒屋の村人も、「こんなに長く雨が降
らんと、米がとれん。困ったなあ」と話し合っていた。
「そうや、雨乞い地蔵さんにお願いしたらどうや」。「ああ、それがよい」ということになり、
村のお地蔵さんに助けを求めた。
村人は、重い石地蔵さんを荒縄で縛り、皆で担いで溜池の神田池(じんでんいけ)まで運
んだ。「お地蔵さん、どうか雨を三日のうちに降らせてください。降りましたら、お地蔵さん、
池から出ていただきますから」と言い、地蔵さんを池につけた。
すると、なんと有難いことに、三日のうちに恵みの雨が降った。村人は大いに喜んだとい
う。この雨乞いの行事は、その後も何度か行われたらしい。だが、困ったことに、地蔵さん
を引き上げる時は、せっかく溜めた大切な池の水を放流しなければならない。その為か
どうか、いつからか行われなくなった。
ただ、大正十三年八月の大旱魃(だいかんばつ)の時には行われた。その時も「霊験あら
たか。おかげで、雨を降らせてもらった」と、この時のことは今も古老によって語り継がれ
ている。その雨乞い地蔵さんは、五軒屋の村人の手で今も大切に祀(まつ)られている。
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神田池(じんでんいけ)の向うに二上山賀見える
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滝川のずーつと向こうに二上山が・・・
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※奈良のむかしばなし
奈良盆地の西、北葛城郡上牧(かんまき)町の五軒屋。その昔、このあたりは牧野(ば
くや)とよばれていた。
上牧町の東、広陵町と河合町などにまたがって広がる馬見(うまみ)丘陵は、古代、朝
廷の放牧地で、上牧の地名もそれに由来するとか。五軒屋を抜ける今の舗装道路も昔
は「馬街道」とよばれていた。
そのかつての馬街道に立つと、五軒屋は、周囲を小高い緑の丘陵に囲まれ、その中に
広々とした田圃(たんぼ)がどこまでも続く。実にのどかな昔懐かしい里山の風景である。
馬見丘陵の北東の磯城郡三宅町。地名は古代の「屯倉」(みやけ)に由来し、大和朝廷
が支配していた穀倉地帯であった。つまり五軒屋も含め、このあたり一帯は古くから豊
かな稲田が一面に広がっていたのであろう。水田に必要な溜池も多く点在している。
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滝川遊歩道を離れて牧野史跡へ向かう
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此の続きは、
11月10日の上牧町ささゆりウオーク-2 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿します。
      http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/
此の続きは、牧野古墳~
牧野古墳(国指定史跡)
広陵町の『牧野古墳(ばくやこふん)』は、石舞台古墳に次ぐ大きな石室を持つ、古墳時代
末期の巨大円墳です。
丘陵の奥部にある直径約60mの大型円墳で、墳丘は三段築成で造られ、二段目に横穴
式石室が開口している。玄室(げんしつ)の長さ6.7m、幅3.3m、高さ4.5m、羨道(せんど
う)の長さ10.4m、幅1.8mで、全長17.1mを測る大型石室である。
玄室内には奥壁に沿って横向きに刳抜(くりぬき)式の家形石棺が安置され、その手前に
は組み合わせ式の家形石棺が置かれていたと考えられている。
石棺は、ともに大部分が破壊されていたが副葬品は意外に多く残されていた。装身具類
は金環(きんかん)、金銅製山梔玉(くちなしだま)、ガラス小玉、粟玉(あわだま)が、馬具
は木心鉄地金銅張の壺鐙(つぼあぶみ)や、縁金具のある障泥(あおり)、心葉形の鏡板
(かがみいた)と杏葉(ぎょうよう)等が二組分出土してる。武器は、銀装の大刀と400本近
い鉄鏃(てつぞく)があり、羨道に集中していた容器類のなかには、木心の金銅張容器と
総数58点の須恵器があった。
古墳時代後期末葉の古墳で、舒明天皇の父である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひ
とのおおえのみこ)の成相墓(ならいのはか)の可能性が高い。
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石室入口、今日は中へ入れる
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墳丘からの眺め
二上山も
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墳丘を下る
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墳丘を下ると牧野古墳公園
文代山古墳 (ぶんじろやま) ・・・・の石棺の底石
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※文代山古墳
方墳(南北44m、東西40.5m)周濠あり(幅20mで各辺高低差あり)埴輪、葺石あり
此の古墳から出土したと伝えられる長持式石棺の底石(竜山石製)が西方にある下水の
吐水口に転用されていたが現在、牧野古墳公園に移設されており見ることが出来る。
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葛城台へ向かう
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葛城台
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回転寿司屋(浜寿司)の前で滝川遊歩道へ
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2000年会館前へ戻る(解散)
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中央公民館前を通り家へ帰る
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マンホールのデザインは、町花のササユリ
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おまけ
我家の鉢植えの皇帝ダリア
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11月7日の南生駒の役行者像と石の文化財巡り-2

11月11日      11月7日の南生駒の役行者像と石の文化財巡り-2
                南生駒の役行者像と石の文化財巡り
コース  生駒市観光協会主催 生駒市観光ボランティアガイドが案内 歩程約6.5km
萩の台駅~石福寺~応願寺~円福寺~竹林寺~観泉寺~菊司醸造~南生駒駅(解散)
萩の台駅に12時30~受付13:00スタート  12:30~15:40頃解散 参加費用100円
知人と3人で参加、素晴らしい秋のハイキング日和?此の日は暑かった-参加者24人?
2班に分かれてスタート、我々3人はNOカード1.2.3で1班スタート、ガイドさんが 2名と
スタッフ1名の3人で 12名の面倒を見る班編成、多少アップダウンも有る変化あるコース。
ゴールの菊司酒造は以前、ハイキングで訪問した美味しいお酒の飲めるところ・・・
お酒もまわって、とても良いハイキング、此の日の私の万歩計は15976歩で約10.5km。
案内して頂いた、生駒市観光ボランティアガイドの会の皆さん、有難う御座いました!
上牧服部台バス停
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近鉄生駒線王寺駅へ向かう
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近鉄生駒線王寺駅
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萩の台駅(受付・スタート)
事前に葉書で予約していたハイキング、スタート前に昼食のお握りをほおばって・・・
こんな感じでスタート
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お墓の前の六地蔵
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正根山 石福寺
融通念仏宗、本尊は石造地蔵菩薩立像。旧乙田村の菩提寺として念佛信仰の歴史が
今日迄伝わっています。ご本尊は厨子の中、一般公開はされていない。
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逆修の十三仏板碑
前庭に整列した6対の石碑(13仏板碑と名号板碑)は安土桃山時代(1600年頃)のもの
で歴史が感じられる。
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※逆修
仏教用語。生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るための仏事をすること。その為
に建てる石塔婆を逆修塔という。墓石に自分の戒名を刻み朱を入れたりするのも逆修 。

乙田人形浄瑠璃(おとだにんぎょうじょうるり)
幕末、村の豪商だった松川家の当主・松川伊作が村に娯楽として取り入れようと、村人
に「浄瑠璃語り」を習わせたのがはじまりで、戦後まで続いた。平成19年(2007)には
「乙田浄瑠璃・芝居資料」として、奈良県の有形民俗文化財に指定。生駒市萩の台の
石福寺境内に建つ文化財保存館には、いまでは見られなくなってしまった「村芝居」の
資料が展示・保存されている。館内には芝居用具や、舞台で使われた浄瑠璃本、練習
用の版本など、さまざまな資料が展示され、村芝居を中心に人々が集った、古き良き時
代を偲ばせる。
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小平尾 行者堂へ向かう
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富雄川を渡る
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小平尾 行者堂
お堂に役行者像
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祈求山 応願寺へ向かう
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祈求山 応願寺
融通念仏宗、本尊は十一面観音立像。創建年代は不明。萩原の檀那寺として信仰を集
めて来ました。境内の石造地蔵菩薩像(像高147㎝)は鎌倉時代永仁2年(1294)9月11
日の銘有り、石工伊行氏の作と考えられている。
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円福寺へ向かう
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此処までは、
11月7日の南生駒の役行者像と石の文化財巡り-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-11-11
此の続きは、龍華山 円福寺~
龍華山 円福寺
真言律宗、本尊は釈迦如来坐像。行基が開祖したと伝えられるが詳細は不明。本堂(重
要文化財)・桁行3間・梁間3間・一重・入母屋造りの鎌倉時代造立の和風建築。来迎壁に
十二天図を描く。境内には鎌倉時代造立の宝篋印塔(重要文化財)が2基あります。
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宝篋印塔(重要文化財)2基
此処で1班の集合写真を撮った
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慈願山 興融寺
融通念仏宗、本尊は阿弥陀如来立像。創建は不詳。有里の檀那寺だが無住寺です。
鎌倉時代中期のもので奈良県下最古の五輪塔が有ります。
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生馬山 竹林寺
律宗、本尊は文殊菩薩騎獅像。行基が建てた四十九院の一つ生馬仙房と比定される
が詳細は不明。鎌倉時代に唐招提寺の僧によって文殊堂付近に有った行基の墓所か
ら舎利瓶が発掘されて以降、行基信仰が盛んになる。平成9年に堂舎が整備される。
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境内奥の行者堂
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行基菩薩墓
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忍性菩薩墓
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竹林寺古墳・・・生駒市唯一の古墳。
有里町の竹林寺境内にあります。 古墳時代前期後半(4世紀後半)の前方後円墳です。
生駒山から東に派生する尾根上に築かれています。 前方部を宅地で削られていますが、
推定全長60m、後円部の径は約45mあります。 生駒谷を支配した豪族の族長の墳墓と
考えられます。 一分コモリ遺跡の豪族居館との関係や、 生駒谷の古墳時代を解明する
うえでもたいへん重要な古墳です。
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青龍山 観泉寺へ向かう
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青龍山 観泉寺
融通念仏宗、本尊は木造阿弥陀如来坐像。寺伝によれば、元禄六年(1693)僧龍峯に
より開かれた寺院。境内には、石造美術品「十三重石塔(四條畷の戦で亡くなった方々
の遺髪と臍の緒を祀ったと寺伝にあるという)、種子十三仏板碑など」が数多くある。
神変大菩薩諡の木造役行者像が境内奥のお堂に祀られています。
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境内奥の行者堂
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※神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)
神変大菩薩とは? 役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝
–大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者である。姓は君。 修験
道 の開祖とされている。

境内からの眺めが・・・生駒山山頂
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菊司醸造
かつて奈良街道の宿場町として栄え、300年以上の歴史を受け継ぐ造り酒屋。松尾芭
蕉が暗峠について、詠んだ句にちなんで名付けた辛口でスッキリとした味わいの「くらが
り越え しぼりたて純米生原酒」はおすすめ、スイカの奈良漬もおすすめです・・・・
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南生駒駅
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11月4日のおふさ観音バラ鑑賞~晩秋の耳成山を眺めて-2

11月10日    11月4日のおふさ観音バラ鑑賞~晩秋の耳成山を眺めて-2
近鉄駅フリーハイキング 歩程約10km   
大和八木駅で知人3人と待ち合わせて4人で参加、前日に予約しておいた今井町へ迂回して
胡瓜奈良漬を入手、おふさ観音のバラ鑑賞へ合流、雨にも降られずゴールへ辿り着いた・・・
此の日の私の万歩計は、27219歩で約18.3km歩いた事に?迂回路は+1kmだったのに・・
久し振りに旧知?4~5年前にハイキングで知り合った4人で歩けて楽しいハイキングでした。
コース 近鉄駅フリーハイキング 大和八木駅受付9時半~11時 10時集合で待合せ
大和八木駅(受付)~迂回路(今井町)~おふさ観音~三輪神社~JAまほろばキッチン~
奈良県橿原総合庁舎~竹田神社~阪門(さかと)神社~十市御縣座(とおちのみあがたに
ます)神社~新ノ口駅(ゴール)、私は此処から五位堂駅へ~そしてバスで自宅へ
志都美駅
曇ってて二上山が見えない
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飛鳥川沿いを通り今井町へ(此処までは正規のコース)
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迂回して今井町の中に入り予約してあった胡瓜奈良漬を購入して
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コースへ戻りおふさ観音へ向かう
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おふさ観音
おふさ観音は、高野山真言宗・別格本山のお寺です。
その本堂が建つ辺り一帯は、かつて「鯉ヶ淵(こいがふち)」と呼ばれる、大きな池でありま
した。時は慶安3年(1650)4月、ある日の早朝のこと。この地で暮らす「おふさ」という娘さ
んが、鯉ヶ淵のそばを歩いていると、白い亀の背中に乗った観音様が、目の前に現れた
のです。おふささんは、池のそばに小さなお堂を建て、そこに観音様をおまつりすることに
しました。その観音様は、色々なお願い事をかなえてくださるとして、近くの村人たちに厚
く信仰され、大切にまつられました。やがて誰からともなく「おふさ観音」と呼ばれるように
なったといいます。
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此処までは、
11月4日のおふさ観音バラ鑑賞~晩秋の耳成山を眺めて-1 として
                下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-11-10-1
続きは、
おふさ観音~耳成山を眺めて~三輪神社へ向かう~
藤原宮跡と醍醐池の間を通り、左に耳成山と醍醐池、右に藤原宮跡
耳成山
標高は139.6メートルだが、山頂にある三角点の標高は139.2メートルである。大和三山の
一つで、最も北に位置する。歴史的風土特別保存地区[2]と国の名勝に指定されている。
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※大和三山(やまとさんざん)
大和三山は、奈良県(旧・大和国)の奈良盆地南部、飛鳥周辺(橿原市)にそびえる3体の
山々の総称。1967年(昭和42年)12月15日、歴史的風土保存区域に指定、各山も歴史的
風土特別保存地区に指定、2005年(平成17年)7月14日、国の名勝に指定された。
天香久山(あまのかぐやま、あめのかぐやま、152m)
畝傍山(うねびやま、199m)
耳成山(みみなしやま、140m)
万葉集では「香具山は 畝火(うねび)ををしと 耳成(みみなし)と 相あらそひき 神代より
かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)をあらそふ
らしき」(中大兄皇子、巻1-13)と歌われている。大和三山(の神)が神代に恋争いをしたとい
う歌である。この歌の「畝火ををし」を「畝火雄々し」と解釈し畝傍山の神は男神であるという
説と、「畝火を愛し」と解釈して畝傍山は女神であるという説とがある。この歌は、中大兄皇
子と弟の大海人皇子の額田王をめぐっての恋争いを大和三山に託したものという説もある。

藤原宮跡
中国の都城にならい、日本で初めて建設された本格的都城。持統8(694)年遷都。平城京
遷都までの16年間、この地で持統、文武、元明の天皇三代が律令国家体制を強力に押し
進めた
藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)は、藤原京の中心施設である藤原宮のあったところです。藤
原宮は一辺約1kmの中に、大極殿や朝堂院といった国をあげての儀式や政治を行う施設や
天皇の住まいである内裏などがあり、現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁街を合わせ
た性格を持っていました。藤原京は16年間の都でしたが、藤原宮の構造はその後の都にも
引き継がれていきます。
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醍醐池
藤原宮跡の真正面にある池。
藤原宮跡の正面入口の真向かいにある。往時から池だったのだろうか。このすごい立地と
名前。 池のほとりに万葉歌碑がある。あの有名な歌。

春過ぎて 夏来たるらし 白たへの 衣干したり 天香具山 (持統天皇)
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藤原宮跡&天香久山
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藤原宮跡&畝傍山
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秋の風景を楽しみながら三輪神社へ向かう
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三輪神社
西之宮の西端、橿原市膳夫町と同石原田町に接し、当神社の西側を北から旧中ツ道
が通っていたので、横大路と交差した地にあたる。旧村社で大物主櫛甕玉命を祭神とし、
社殿は東面する。もと内垣内にあった白山神社(祭神・菊理姫命)を合祀した。
本殿(春日造、鉄板葺、朱塗)と拝殿(入母屋造、瓦葺)のほか、石造狛犬一対、石鳥居、
金毘羅大権現(自然石)のほか七基の石燈籠、磐座らしい巨石などが境内にある。
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JAまほろばキッチンへ向かう
皇帝ダリアのツボミも・・・
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JAまほろばキッチン
この中でウロウロしたので歩数が伸びたのかな?
JAまほろばキッチンは、全国最大級の売り場面積を有する農産物直売所を中心に産
直レストラン、フレンチレストラン、フードコート等で構成しています。
生産者の顔が見える安全・安心な地場産農畜産物を消費者のもとへ届けるなど「地産
地消」の輪を広げていきます
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奈良県橿原総合庁舎
屋上庭園(昼食)からの眺めが良かった
2006年に閉校になった耳成高校の校舎をしっかりと耐震化などがなされた上で「橿原
総合庁舎」として利用されています。この屋上部分が『橿原総合庁舎 屋上庭園』として
無料公開されており、三輪山や大和三山、万葉歌の舞台となる土地が一望できる素晴
らしい展望スポットになっています。
橿原総合庁舎の屋上は、大和三山(畝傍、耳成、香具山)、多武峰、三輪山、二上山遠
くには高円山、若草山を眺望できる絶好のロケーションにあることから、庭園として整備
しています。また屋上から見える景色を読んだ記紀・万葉の詩歌を紹介しています。
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耳成山と後方左手に畝傍山
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奈良県橿原総合庁舎を後に竹田神社へ向かう
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竹田神社
寺川の西南岸に鎮座する。社叢の目立つ神社である。
仁徳天皇の御世、大和国十市郡刑坂川の辺に竹田神社ありと新撰姓氏録に記載さ
れている。『多神宮注進状草案』によれば本社は多神社の若宮とされている。
本社の左手にある大日堂は神宮寺の跡という。弘治元年(1555)に南都宿院仏師源
次・源四郎父子によって作られた大日如来坐を安置する。この像は昭和54年に盗難
に遭ったが、その後無事もどってきた。
境内に大伴坂上郎女の歌碑が有る。
          うす渡す竹田の原に鳴く鶴(たづ)の間なく時無しわが戀ふらくは
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阪門(さかと)神社
中町集落の中に鎮座する。周囲は住宅地で、小さな鎮守の森の中にある。
境内に由緒・創建時期等を記した案内はなく、詳細不明。
祭神、武甕槌神(タケミカヅチ)
明治24年(1891)の神社明細帳には、タケミカヅチ・斎主命(イワイヌシ)・天児屋根命
(アメノコヤネ)・姫大神とあり(式内社調査報告)、藤原氏(中臣氏)の祖神・春日四神
を祀るという。
大和志に“今、春日社と云う”とあるように、式内・坂門神社に比定される以前の祭神を
引きついたもので、式内・坂門神社本来の祭神かどうかは不明。
社殿は、中町集落の西寄りに鎮座し、東を向いた鳥居を入った先に拝殿(切妻造・瓦
葺)が、その奥、高い白壁に囲まれた中に本殿(春日造・銅板葺)が東面して鎮座する。
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十市御縣座神社へ向かう
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十市御縣座(とおちのみあがたにます)神社
橿原市十市町にある。北向きの入口を入り、左折すると広い境内。境内には末社が
多い。 創祀年代は不詳。天平二年(730)の『大倭国正税帳』に「十市御県神戸」と
あり、奈良時代から祀られていた古社。
大和国六御縣神社の一座として、創建された神社。皇室御料地に創建された、式内
大社なのだ。大和国六御縣神社とは、高市、葛木、十市、志貴、山辺、曽布の六社。
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新ノ口駅へ向かう
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新ノ口駅(ゴール)→大和八木駅→五位堂駅と乗り継いで
五位堂駅では雨が降ってたが直ぐ止んで
五位堂駅~バスで帰った・・・・
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11月2日のペガサスフェスタ(文化祭)&紅葉散策-2

11月10日       11月2日のペガサスフェスタ(文化祭)&紅葉散策-2
                    近所のウオーキングコース
近所の知人から、文化祭に陶芸と写真を展示してるから、と情報が入って来てたので
行ってみた、文化祭の展示会場へ行くのは此れが初めての体験、ペガサスホール自体、
行くのが此れで2回目、前に行ったのは古墳で珍しい物が発掘されて展示説明会が開
催された時に初めて入って、今回が2回目、ペガサスホール=中央公民館だと言う事も
知らなかったのだ、こんな町民居る?情報をくれ、誘ってくれたた知人に感謝しなくちゃ・・・
家から滝川遊歩道へ出て、ペガサスホールへ向かう
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紅葉の中にペガサスホールが見えて来た
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建物に上牧町立図書館と書いてある
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上牧町文化祭の立て看板
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知人の出展している陶芸と写真展をみて、町の文化遺産(古墳)展示や、
水彩画&油絵の展示会場等を見て廻った・・・
ペガサスホールを出て
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2000年会館の公園の紅葉
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此処までは、
11月2日のペガサスフェスタ(文化祭)&紅葉散策-1 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-11-10  
此処では、続きを、
2000年会館の公園を離れてまほろばコーヒーの前へ
セイタカアワダチソウ
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まほろば咖渄の前、黄色いポストの飾りが
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ヨモギが有ってバス停&ススキ
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第三小学校の前にコスモス&ダリア、ハート型の刈込、キバナコスモス
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畑の向う、遠くに二上山も見える、ダリア、タンポポ他・・・
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介護老人ホームをぐるっと回って
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虹の湯の前をペガサスホールの前を通って帰った
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10月31日・病院の帰りに散歩コースの紅葉散策-2

11月7日      10月31日・病院の帰りに散歩コースの紅葉散策-2
                内科定期検診に向けて事前採血
朝一番に何時もお世話になっている病院へ血液検査の為の事前採血に行き、帰りに
近所の散歩コースの紅葉散策と洒落こんだ、万歩計は10829歩で約7.2km歩いた・・・
先ず、病院を出て役場に向かう、此処にメタセコイヤか?ラクショウ?の大木が有るが
私には解らない。
道中はハナミズキの紅葉
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上牧町健民グランドのペガサス像
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桜並木の紅葉
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町役場のメタセコイヤORラクショウ、私にはどちらか解らない
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県道を越えて田畑の有るところへ
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ハナミズキ並木にセイタカアワダチソウ
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此処で振り返ると田畑の向うに二上山
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タンポポやドングリもある
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ハナミズキ並木
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介護老人ホーム前の花壇
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ハナミズキ並木にススキやヨウシュヤマゴボウ、セイタカアワダチソウ
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二郡水神社 二郡大神
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ハナミズキ並木
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子供達が未だ小さい頃、此の池でよく釣りをした
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此処までは、
10月31日・病院の帰りに散歩コースの紅葉散策-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-11-07
続きは、桜が丘の銀杏並木
銀杏と桜と楠とが交合に植えられている?
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第二小学校の下の紅葉が綺麗
つたの紅葉、カエデが5本、他はハナミズキと南京ハゼ
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片岡台団地の下、葛下川沿いの道路
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高速道路の裏道を通って帰る
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10月27日・大阪生野区の歴史ある寺社巡り-2

11月1日      10月27日・大阪生野区の歴史ある寺社巡り-2
              毎月恒例の昼飲み会&ハイキングと銭湯
今回のハイキングは、以前雨の中を歩いた近鉄駅フリーハイキングのコースを少し
変えて、阿倍野へ戻って銭湯で汗を流してから月一回の昼飲み会に行ける様に・・・
コース    此の日の私の万歩計は22395歩で約15km歩いたことに
近鉄今里駅~清見原神社~難波寺~田島神社~生野商店街~生野八坂神社~
生野神社~舎利尊勝寺~御勝山古墳~平野川沿い~コリアタウン(公園で昼食)
~御幸森天満宮~彌栄神社~桃谷商店街~桃谷駅 →環状線で 天王寺駅~
キューズモール~銭湯 湯処・あべの橋・・・・居酒屋 甘太郎
志都美駅
曇り空で二上山が全く見えない
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天気も良くなって
俊徳道駅で近鉄に乗り換え
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今里駅で知人と落ち合い、清見原神社へ
清見原神社
清見原神社(きよみはらじんじゃ)は、大阪府大阪市生野区にある神社である。
天武天皇を主祭神とし、明治の神社合祀により素盞嗚尊・大山咋命・天水分神・國水
分神を合わせ祀る。 水害により社記等が流失したため創建の詳細は不詳である。
口伝によれば、 天武天皇が大和の飛鳥浄御原宮から難波に行幸した際に現在の当
社鎮座地で休憩したという。現在の社名はこの伝承によるものであり、このとき天武
天皇が吉野の方をかえり見たとのことから、附近の地名「吉野見」が生まれた。天武
天皇の歿後、一帯を本拠としていた大伴氏が天武天皇を祀る神社を創建し、天武天
皇宮と称したと伝えられる。以降、旧大友村の氏神として崇敬された。
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難波寺
難波寺(なにわじ)は、大阪府大阪市生野区にある臨済宗妙心寺派の寺院。山 号は
月江山。本尊は十一面観音。この寺は、736年(天平8年)聖武天皇の勅命により行
基によって、奈良東大寺の大仏開眼法要のため、遣唐使の船にて来日したベトナム
の僧侶を宿泊させる為、現在の天王寺区東高津町に創建されたと伝えられ、当初、
三井寺の直末として天台宗に属していた。室町時代に入ると荒廃し、江戸時代に
入って妙心寺塔頭後花園院の卓同和尚により中興され臨済宗に改められた。1925
年(大正14年)現在地に移された。
境内には、浄瑠璃・歌舞伎の演目に「茜染野中隠井」(あかねそめのなかのかくれい)
縁の、井戸と弘法大師作の墨掛け地蔵がある。 また、難波寺形と呼ばれる手水鉢が
現存する。
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難波寺形と呼ばれる手水鉢
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墨掛け地蔵尊
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田島神社
古い記録は洪水などで紛失していますが、残った石灯籠などに刻まれた文言によれば、
少なくとも貞享元(1684)年にはすでに神社があったことがわかります。その頃、菅原大
神(すがはらのおおかみ)を主神とし、事代主命(ことしろぬしのみこと)・八幡大神を相
殿として天満宮といわれていました。 寛政4(1792)年には、少彦名命(すくなひこなの
みこと)を主神として天神社といわれ、明治42(1909)年に現社号の田島神社と改称し
ました。その後、平成2(1989)年に御大典記念として本殿を改築し、石鳥居や『天神さ
まの牛』が新設されました。
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境内に眼鏡レンズ発祥の地碑
眼鏡レンズ発祥之地
「田島神社」の参道の真ん中に 大きな「石田太次郎顕徳碑」と「眼鏡レンズ発祥之地」
碑が並んで建っている。
田島地区は 明治から昭和にかけて, 国内有数の「眼鏡レンズ」生産拠点だった。後に
「レンズの始祖」と呼ばれた石田太次郎は ここ田島村で生れ, 丹波の国でレンズ研磨
の技術を習得。 1857(安政4)年に 田島村にその技術を紹介し, 田島の家内産業に発
達した。1913(大正2)年に 農村だった田島村に電力が引かれると, 眼鏡レンズ専門工
場が生まれ, 最盛期には 200軒を超える業者が集まり, 日本一の眼鏡生産地となった。
しかし 1960年代以降, プラスチックレンズの技術が開発され, 軽くて割れにくい優れた
特性から ガラスレンズに取ってかわり, また 工場で大規模に量産されるようになった
ため, 田島のレンズ製造は急激に減少していった。
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こがねもちの大木が御神木に
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生野商店街(得する商店街 どりー夢)
どりー夢商店街
生野銀座商店街は、生野本通り商店街(国道25号線側から)を通り抜け、横断歩道
をわたった先の商店街です。なので、駅からも遠く、本当に地元の商店街という感じ
です。しまっているお店も多いですが、日中は地域のおばさまたちで活気があります。
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生野八坂神社
東成郡誌第三編、生野村第四神社の項に『素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社、大字
林寺字林に鎮座せり…』とあり、その創祀は諸書に『元禄二巳(1689)年勧請』とありま
すが、他にも説があって定かではありません。東成郡林寺村(旧地名)の氏神様として
崇敬されていましたが、明治41(1908)年に天王寺区の河堀稲生神社に合祀され、境
内地も『河堀稲生神社御旅所(おたびしょ)』となりました。その後、氏子有志の熱誠な
る努力によって復興造営が完成し、昭和30(1955)年御神霊の還御を仰ぎ『生野八坂
神社』の認証を受け、 『生野の祇園様』として今日に至っています。
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此処までは、
10月27日の大阪生野区の歴史ある寺社巡り-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿しました。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-11-01
続きは、生野神社~
生野神社
木瓜(もっこう)を神紋とする生野神社の古名は、牛頭(ごず)天王宮という神号を用い、
明治5(1872)年村社、明治42(1909)年素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社を経て、戦後
の昭和22(1947)年に生野神社と改称。 神社の鳥居は小振りながら宝永7(1710)年の
刻銘があり、区内では最も古い貴重なもので、鳥居より背の高い大きな歌碑と榎・いち
ょうの古木が景観を添えています。
また、拝殿前の一対の狛犬は天保4(1833)年のもので、お伊勢参りが大流行した江戸
期の貴重な記念物です。これは村の氏神さんへの崇敬を疎かにしなかった証拠品とな
っています。
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舎利尊勝寺(しゃりそんしょうじ)
南岳山舎利尊勝寺と呼ばれ禅宗の一派に属し、本尊は釈迦如来です。約1400年前、
用明天皇のころ、生野長者と呼ばれる長者に言葉の不自由な子が生まれました。
長者が、四天王寺伽藍を設立するために来ていた聖徳太子にすがると、太子はその
子に向かい「わたしが前世に預けた3つの仏舎利を返しなさい」といいました。すると
3つの仏舎利を吐き出し、それからは普通に話せるようになりました。太子はそのうち、
ひとつを法隆寺に、ひとつを四天王寺に、残った一つを長者に渡しました。長者が、お
堂を建てて、この仏舎利を奉ったのが、舎利寺の起源と言われています。
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御勝山公園・御勝山古墳
御勝山(おかちやま)古墳
もとは岡山と呼ばれ、元和元(1615)年夏の陣の大坂落城のとき、徳川秀忠が此 処で
戦勝の宴を催したことから御勝山の名で知られるようになりました。
南北112m、東西55m、高さ約8mの前方後円墳で現在は前方部が道路(勝山通)と勝
山南公園になっており、後円部を残すのみです。
市内では、茶臼山古墳(天王寺区)と帝塚山古墳(住吉区)と並んで重要な史跡の一つ
です。中臣氏の祖『大小橋命(おおおはせのみこと)』の墓であるといわれていますが明
らかではありません。
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コリアタウン
コリアタウン・・・HPより
御 幸通の3商店街(通称:生野コリアタウン)は1600年の歴史ある御幸森神社のお膝
元、東西500m程に約120店舗が軒を連ねる商店街です。大正時代にかつて猪飼野と
呼ばれたこの近隣が人口の増加に伴い市街化していく中、大阪市立鶴橋公設市場が
開設され、旧市電「猪飼野駅」に続く一条通商店街と交差する位置であったことから国
内にある他と同様な商店街として発展していきました。 生活の苦しかった朝鮮半島の
人々は既に韓国併合が行われていたことにより、日本に職を求めて移住するようにな
ります。 特に大正時代末期に就役した「君が代丸」により、済州島からの移住者が増大
します。その人々こそ経済成長著しい大阪の中小零細企業にあって特に避けられがち
な労働や雇用需要を担ったのです。出稼ぎ労働者が増えてくると、今度は同胞を相手
に商売(といってもゴザに物品・食品を並べる程度)を行う人々が現れ始め、その界隈
が朝鮮市場と呼ばれるようになります(現在の御幸通の裏手)
戦 争が激化し大阪にも空襲が行われると、それまで御幸通で商売をしていた旧日本
人店主たちが疎開を始めるようになります。 疎開の際、「店舗は空襲の被害にあうか
もしれない」「ほうっておいては店舗・家屋が痛む」と考えた旧店主達は、それらを安く
貸したり売ったりするようになりました。この時、御幸通の裏手で商売をしていた人た
ちを始めとして在日韓国・朝鮮人達が御幸通で店舗を構えるようになります。この頃
を境に御幸通商店街が特異な商店街としての発展を見せ始めます。
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昭 和30年代から50年代前半にかけては日本の高度経済成長もあり、韓国・朝鮮の
食品や物品がひとところに集まる商店街としてその隆盛期を迎えます。ところが昭和
50年代後半頃から陰りを見せ始めます。最初期の渡航者から数えると50年程経つ
中で、在日韓国・朝鮮人の生活様式の変化、日本経済の成熟、後継者の不在等い
くつかの要因が重なり、来街者が目に見えて減少していきました。そんな時危機感を
覚えた当時の商店主たちが、"コリアタウン構想"を掲げます。しかし当初コリアタウン
構想を立ち上げたとはいえ、新しい来訪者の方への対応に商店主達が戸惑いを見せ
るような状態が続きましたが、特徴的な門や舗装道路が完成し、その後日韓共催ワー
ルドカップ、冬のソナタに始まる韓国文化への関心が高まり、コリアタウンとして注目
が集まるようになり現在に至ります。
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御幸森天神宮
御幸森天神宮(みゆきもり天神宮)
仁徳天皇・少彦名命(すくなひこなのみこと)・押坂彦命(おさかひこのみこと)を主祭神
としています。江戸時代には『御幸宮』または『天皇天神社』と称していました。
社頭に立てられた由来碑によると、仁徳天皇のとき百済野の北端にあった小丘に鷹を
放って天皇がそれをご覧になったところから御幸森の名が起こったと刻まれています。
また、境内にある5本のムクノキ(椋)の老樹は『まちの貴重な緑をみんなの力で守って
いこう』との願いから、市の保存樹林に指定されています。
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彌栄神社
神祖素盞嗚命(すさのおのみこと)を文録年間に熊野巫神社(旧出雲国意宇郡)より分
霊奉還したのがはじまりと旧記にあります。その当時は牛頭(ごず)天王社と呼ばれ、
創立以来旧木野(この)村の鎮守として崇敬厚く宮座(みやざ)を設けて奉仕し、明治5
(1872)年村社に列せられ、社号もこの時に彌栄神社と改められました。
明治43(1910)年、氏子協議のうえ大字岡村(現勝山北4丁目)の御館(みたて)神社を
合祀しました。その御館神社は、旧岡村の生土神(うぶすながみ)でいばらの神と呼ば
れ、仁徳天皇の的殿(まとどの)の旧跡で、現在は彌栄神社の御旅所(おたびしょ)と
なっています。
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桃谷商店街
桃谷駅前商店街は庶民の味方。懐かしいもん、珍しいもん、安いもんやら、 楽しいもん。
何でも揃うから、ほんま便利やで~。 散歩がてらに、いっぺん遊びにおいでや!
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桃谷駅
桃山御陵が出来るときに、桃山駅から桃谷駅へ駅名変更させられた・・・
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天王寺駅~キューズモール~銭湯
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銭湯 湯処・あべの橋・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
    源泉名 龍宮温泉 1号 大阪市港区2丁目3番33号  深さ 1,500m
    泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
    効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身
        ・くじき・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進
        ・切り傷・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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昼飲み会
居酒屋 甘太郎
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10月25日の絵手紙クラブ屋外活動&SSフォトクラブ展へ-2

10月31日      10月25日の絵手紙クラブ屋外活動&SSフォトクラブ展へ-2
                  社友会 同行会の行事
絵手紙クラブの体験教室に参加して、クラブに新規入会し絵手紙の最低限の道具を
揃えて初の屋外活動へ参加、屋外活動を年に2回、気候の良い春と秋に実施してる
と言う、何処かえ出かけて御前中に1枚画いて昼食タイム、皆の前で各々描いたもの
を説明して見て貰い、先生の寸評、此れは何時もの社友会事務所でする時と同じ事
をしている、題材がテーブルに置いた物では無く、自然や造形物を題材に探して・・・
今回は豊中市の服部緑地へ行く事に、参加者は8人
北大阪急行の緑地公園駅改札口に10時、西口と南口の案内は無かった緑地公園へ
の出口で待ってると反対側の出口から迎えに来てくれた、私以外の皆さんは前にも
一度此処へ来た事が有り、次に此処へ来る時は弁当買うのに都合の良い此処へ集
まる、と決めていた様だ、入会直後の私は未だ名簿も出来ていなくて・・・
昔昔昭和40年~43年頃に数回、服部緑地に遊びに行ってた記憶はあるが、当時とは
全く違う思いで当然の事だが何も思い出せない・・・
此の日の私の万歩計は、13987歩で約9.4km歩いたことに・・・
志都美駅
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北大阪急行の緑地公園駅
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緑地公園
服部緑地への入口?此処で1枚目の絵を画く
私が描いたのは此処
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此処を基地に
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昼前には天気も良くなり青空も
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2枚目は此処を描いた(ボールペンだけで色付けなし)
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昼食を終えて
各々描いた絵を批評?して貰って先生の絵も・・・
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帰りは、服部緑地公園をフラワー通りを阪急曽根駅の
方向へ縦断、途中の花や風景を楽しみながら歩いた・・・
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服部緑地公園
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此処までは、
10月25日の絵手紙クラブ屋外活動&SSフォトクラブ展へ-1 として
              下記のセカンドブログへ詳細を投稿しました。
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-10-31
此処では続きを、まだまだ続く服部緑地公園~
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服部緑地公園を出て
川を渡り、阪急曽根駅へ向かう
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用事が迫ってると言う御一人は、曽根駅へ直行、残りの7人は、
曽根駅前の喫茶店で小休止、私は途中で退席して八尾のプリズムホールへ
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近鉄八尾駅について
プリズムホールへ向かう
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プリズムホール
プリズムホールで社友会の同好会、SSフォトクラブの写真展が開催されている
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講師を含めて26名の方々が各々3枚組の写真を展示、見応えがありました。
事業部でお世話になった年齢一回り以上の大先輩に全部の写真の案内迄・・・
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近鉄八尾駅へ
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八尾駅~堅下駅間の車窓から夕焼けを
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近鉄で堅下駅へ出て、JR柏原駅
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柏原駅から王寺駅へ戻りバスで自宅へ
自宅近くに戻り、もうこんな時間に・・・
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10月24日の和歌山城&徳川家ゆかりの寺社-2

10月27日      10月24日の和歌山城&徳川家ゆかりの寺社-2
                    歩こう会例会
徳川家ゆかりの和歌山城を訪ねて 雨天決行10時15分約8㎞  参加者67人
コース    和歌山市駅に10時15分集合
和歌山市駅~勝海舟寓居地~和歌山城~二の丸庭園~天守閣広場~ 不明門跡~
岡山時鐘堂~徳川吉宗生誕地~ 報恩寺~無量光寺~和歌山城氏神 刺田比古神社
(吉宗の仮親)~ 岡公園(陸奥宗光 像・昔懐かしい 和歌山市電)~岡口門~大手門
にて集合写真撮影し解散・・・4人で和歌山駅迄歩いた、大半の方が駅迄歩いてた
此の日の私の万歩計は、20490歩出役13.6km歩いたことに・・・
和歌山市駅
南海電鉄(本線)が台風21号被害で途中で不通、バス代行運転中の為、
大阪からは1時間余分に時間をかけてJRで駆け付けた関係で参加者少なかった
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勝海舟寓居地
幕府の軍艦奉行であった勝海舟が海岸砲台検分のために滞在した場所
幕末の安政元年、ロシアの使節プチャーチンが和親通商条約締結を渋る徳川幕府に
圧力をかける目的で黒船ディアナ号を大阪湾に侵入させ、天保山の沖合に停泊しまし
た。この時には示威行動のみに終わったものの、異国船がたやすく大阪湾に侵入した
ことに脅威を感じた幕府は、大阪防衛のために淡路島と友が島に台場(砲台)を築造
するよう命じます。しかしながら、当時の日本には海上の艦船を攻撃するための砲台
の築造に関するノウハウが無かったため工事は難航し、工事が完了するのは文久3
年になってからのことでした。
勝海舟は、当時、幕府の軍艦奉行であったことから、海岸砲台検分のため紀州藩を訪
れました。その際に滞在した場所が橋丁の清水平右衛門宅であると伝えられており、
これが現在「勝海舟寓居地」の石碑のある場所なのです。
このとき、勝海舟は加太から和歌浦にかけて海岸沿いの30数か所を検分しました。そ
の際の報告書によれば、やっと完成した加太の台場に対して「その位置を失い、多くは
児戯に類して歎息に堪えず」と厳しい評価をしており、あまりに貧弱なことを嘆いていま
す。それと同時に、加太浦を軍艦の建造地の候補にあげ、実現の際にはそこに浦賀
奉行に準ずる「加太奉行」を設置すべしと主張したと言われています。
この構想は、明治時代になって「由良要塞」として加太や友ケ島に大規模な砲台が建
設されることにより実現することになります。
また、この時には、勝の門弟だった坂本龍馬も紀州藩を訪れており、勝海舟とともに
海防施設の巡視に参加したと考えられています。
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和歌山城へ向かう、お城が見えて来た
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わかやま歴史館
先ずは此処で知識を得てから城内へ
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和歌山城
財団法人日本城郭協会より「日本名城100選」の1つに選定されています。
こんもりと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に白亜の天守閣がそびえ、御三家の威容にふ
さわしい風格を醸し出しています。和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊
臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。その築城を担当したのが、築城の名
人藤堂高虎(とうどうたかとら)でした。
まず、秀長の城代として桑山重晴(くわやましげはる)が入り、慶長5年(1600)には、
関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長(あさのよしなが)が入城。そして、元和5年(1619)
には徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が入城し、紀州55万5千石の城となり、以来、
水戸・尾張と並び、徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできました。
和歌山城の石垣には、紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く使われ、たしかに和歌山に
来たことを実感させてくれます。又、天守閣に登れば、和歌山市街が見渡せ、紀ノ川が
ゆったり流れているのがよくわかります。
和歌山城の石垣は、和歌山城の時代の変遷を映すように、石垣の石積みにも変化が
見られます。二の丸庭園前には創建期と思われる、一見乱雑に見える「野面積み」の
石垣。時代が進むと、大手門をくぐって城内に入った所に大きな石の間に小石を詰めた
「打ち込みハギ」へと変わり、さらに歩くと江戸時代の美しく積み上げられた「切り込み
ハギ」の石垣があります。
また、石垣には、転用石や、約170種類2100個以上もの刻印を見ることができます。
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御橋廊下
藩主の生活の場である二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を行き来する橋で、平成
18年に復元。長さ27m、幅約3m。江戸時代には藩主とそのお付きの人だけが行
き来でき、外からは姿が見えない造り。今は通り抜けができます。
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二の丸庭園から天守閣広場へ
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天守閣広場~天守閣
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不明門跡~城外へ
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此処までは、
10月24日の和歌山城&徳川家ゆかりの寺社-1 として      
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-10-27
続きは、岡山時鐘堂~
岡山時鐘堂
紀州藩五代藩主徳川吉宗の時代の正徳2年(1712)に建立されました。当時は、市内
本町に浅野幸長の時に作られた時鐘屋敷があり、南北で呼応して一刻ごとに時を報知
したといわれますが、現在は、この時鐘堂しか残されていません。
この鐘は、藩士の登城と町民に刻限を知らすほか、出火、出水、異国船の出没など、
非常時をいち早く知らせる重要な役目をもっていました。石段を登ると西向きに出入口
があり、一階は土間で、四隅に二階までの通し柱があり、二階の大梁の中心から梵鐘が
釣り降ろされ、撞木によって東西二ケ所から鐘を鳴らすようになっています。屋根は寄棟
造の本瓦葺です。梵鐘は、元は大坂夏の陣で豊臣方が使用し、その後紀州藩が管理し
ていた大筒を二代藩主光貞が、紀州粉河の鋳物師に命じて改鋳させたものとされます。
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徳川吉宗公生誕の地の碑へ向かう
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徳川吉宗生誕地 徳川吉宗公生誕の地の碑
八代将軍吉宗は、NHKの大河ドラマやTVドラマで良く知られるようになりました。地元和歌
山でも人気があって、キャラクターも生まれ、様々なイベント等で登場しています。
実在の吉宗は、紀州藩第二代藩主徳川光貞の四男として、貞享元年(1684年)10月に、徳
川家菩提寺報恩寺のすぐ西にある吹上邸で誕生しました。母は側室お由利の方です。現在
吹上二丁目には生誕地の碑が建てられています。末っ子ではありましたが、兄達が次々と
亡くなったため第五代紀州藩主となります。質素倹約を旨として、農業の振興や武芸学問の
奨励などを行い、藩の財政の立て直しを行いました。 将軍となってからも、紀州藩主時代の
経験を活かして、後に享保の改革と呼ばれる治世で、幕政を立て直し、江戸幕府中興の名
君と称えられています。
[紀州藩主時代]
・訴訟箱の設置 広く民衆の声を聞くために一の橋の門前に置かれたと伝えられます。これ
は後の目安箱につながります。
・農業の振興のために、新田開発を行うとともに水利灌漑のための用水路や大規模なため
池を造りました。 大畑才蔵や伊沢弥惣兵衛に命じて、小田井用水(高野口~岩出間約33
km)や亀池の造営をさせました。
[江戸幕府将軍時代]
紀州藩主としての実績を活かした治世を行います。とくに力を入れた治水灌漑事業では、
伊沢弥惣兵衛を江戸に呼び寄せ、見沼用水路(埼玉県)など数々の事業を完成させまし
た。こうした努力により、幕府の年貢による収入は大幅に改善されました。
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報恩寺
報恩寺(ほうおんじ)は、和歌山市にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は白雲山。
報恩寺は、紀州徳川家二代藩主徳川光貞が母である瑤林院(加藤清正の娘/父の紀
州藩祖徳川頼宣の夫人)の報恩の為に建立(寛文9年/1669)した日蓮宗のお寺で、瑶
林院をはじめ、光貞夫人の天真院、5代藩主吉宗夫人寛徳院らの墓がある。(因みに
頼宣をはじめ歴代の藩主の菩提寺は下津にある長保寺であることは知られている所)
報恩寺の門をくぐり、奥に向かって歩を進め、石段を登りつめたところに件の御廟があ
る。350年の年月を経た墓石はかなり風化が進み、刻字の判読が困難だが、かろうじて
瑤林院の文字を読みとることができる。
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 徳川家の御廟
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無量光寺
無量光寺(むりょうこうじ)は和歌山市にある浄土宗の寺院。徳本上人大名号塔の寺。
本尊は阿弥陀如来。「首大仏の寺」として知られる。
無量光寺の首大仏
無量光寺の境内には首から上の部分しかない大仏「首大仏(おぼとけ)」が鎮座していま
す。この首大仏は大福寺の蓮心和尚のために多くの人の力で丈六佛(じょうろくぶつ)が
造られたことが始まりとされています。その後、丈六佛は火災により焼失します。悲嘆にく
れた人々は再興を決意し、鎌倉の大仏を目標に丈六佛の溶けた銅でまずは頭部を鋳造
し、その後胴体も鋳造し頭部とつなげる予定でしたが断念し、頭部だけの大仏となりまし
た。その後、大福寺は安政の大地震の際に伽藍も全て消失し、寺の維持が困難になった
ことから明治41年(1908年)廃寺に至り、大仏は無量光寺に安置されることになりました。
首大仏は高さも3mあり、偉容を誇っています。
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刺田比古神社(吉宗の仮親)へ向かう
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和歌山城氏神  刺田比古神社(吉宗の仮親)
刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)は、和歌山市にある神社。式内社で、旧社格は県社。
『日本書紀』では「狭手彦」と表記。大伴金村の子で、『新撰姓氏録』によると道臣命十世
孫とされる。朝鮮半島に派遣され武功を挙げたという。
通称「岡の宮」。延喜式内社で1000年以上の歴史を持つ神社。頼宣が和歌山城に入城
以来、城の守り神となり、神主が吉宗の仮親になったといわれています。吉宗の出世にあ
やかり、開運の神様として知られています。
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岡公園(陸奥宗光 像・昔懐かしい 和歌山市電等)
園内には、蒸気機関車くまの号と以前和歌山市内で走っていた路面電車が展示されて
います。
和歌山出身の外交官で政治家の陸奥宗光の銅像、陸奥の生誕地の敷地内に、石碑と
功績が記された看板がある。
和歌山市の「陸奥宗光伯没後120年事業」の一環。「陸奥宗光伯生誕地」と刻まれた石
碑(高さ1・2メートル)と、功績が記されたステンレス製の看板が設置された。
場所は陸奥の生家があった敷地内で、天保15年7月7日に紀州藩の重臣だった伊達宗
広の第6子として誕生した陸奥が、幼少期を過ごしたとされている。
看板には、父の失脚による苦境を乗り越えた陸奥が勉学に励み、後に幕末の紀州藩を
救ったことや、第2次伊藤博文内閣で外相を務め、明治27年に英国との不平等条約改
正を達成、欧米列強に認めていた領事裁判権の撤廃に成功したことなどが日本語と英
語で紹介されている。
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蒸気機関車 C57&チンチン電車
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岡口門~大手門
大手門前にて集合写真撮影し解散・・・4人で和歌山駅
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和歌山駅
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10月19日の磐城駅からふたがみパーク&大倉本家へ

10月21日     10月19日の磐城駅からふたがみパーク&大倉本家へ
                 歴史探訪の会 ハイキングコース下見
雨の中、来年3月度の歴史探訪の会ハイキングのコース下見に行って来ました。
コースは、磐城駅~長尾神社~当麻寺~石光寺~ふたがみパーク&道の駅(昼)
~大倉本家(試飲) 酒蔵 大倉本家13:00~13:30頃 利き酒3種類 500円予約
帰りは 近鉄南大阪線 当麻寺駅へ15分
ガイド予約・・・9時55分に葛城市観光ボランティアガイド(松下さん)と待ち合わせて
長尾神社~ふたがみパーク迄案内して貰いました。 雨の中を有難う御座いました。
来年の3月に 又宜しくお願いします。
 
ふたがみパークで昼食後、道の駅を覗いて大倉本家へ、45分あるいて到着・・・
大倉本家で利き酒を楽しんで当麻寺駅前へ、中将堂で煎茶セットを、美味しかった!
当麻名物の中将餅を土産に、私の万歩計は、17890歩で約12km歩いた事に・・・
来年3月14日(水)の大倉本家での利き酒と葛城市観光ボランティアガイドを予約。
磐城駅~長尾神社
大和の大蛇の尾っぽに当たる長尾神社。
その社名からも長い尾っぽが想像されるわけですが、その昔、三輪山を何重にも
取り巻く大蛇がいたことから、蛇の頭を大神神社、尾っぽが長尾神社に相当する
と伝えられます。長尾は交通の要所、竹之内街道と長尾街道の交わる場所。

長尾神社
葛城市長尾に鎮座する長尾神社では、御祭神は水光姫命(みひかひめのみこと)
と白雲別命(しらくもわけのみこと)が祀られています。
当社の創建は明らかではありませんが、平安時代の書物である「三代実録」や「延
喜式(えんぎしき)」神名帳(927年)にも記載される葛下郡の式内社で、とても古い
歴史を持つ神社です。
また放光寺古今縁起(ほうこうじここんえんぎ)(1443年)には、飛鳥時代に天武天
皇が壬申の乱で勝利したことから、その報賽(ほうさい)としてこの地を神地と定めら
れたと記されています。
古代においてこの長尾神社の場所は、大阪方面から竹内街道を通って大和へ入り、
飛鳥の藤原京に至る古代の大道「横大路」の西側の入口となる所であり、重要な場
所に社地を構えていました。
そして現代に至っても、この長尾の地は竹内街道や長尾街道などの主要な街道が
集まり交差する、交通の要衝であることから、この街道を行き交う人々の守護神、
いわゆる交通安全の神様としても、厚く信仰されています。
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此の神社最古の絵馬
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竹之内街道
大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、長尾神社付近に
至る約26kmの街道で、推古天皇21年に開通した飛鳥の都と難波を結ぶ、最古の
官道です。沿道には古社寺や旧跡が多く、かつては旅人を泊めるための宿場町と
して栄えました。松尾芭蕉が訪れた地として有名で、沿道の綿弓塚には芭蕉の歌
碑が建立されており、俳人の憩いの場となっています。また司馬遼太郎(しばりょ
うたろう)氏の母の実家が竹内にあったため、氏は幼少期をこの地で過ごしました。
その著書『街道をゆく』の中でも竹内街道のことを語っています。
二上山の南麓を通って、大和国と河内国を結んだ古代の幹線道路の一つ。日本
最古の官道といわれる。大阪府堺市大小路から竹内峠を通り、奈良県葛城市に
所在する長尾神社までの約26 kmの道が現存しているが、両端の難波、飛鳥とも
市街地になっていることから、かつて幅30 mあったとされる飛鳥時代の大道の面
影は残されていない。街道沿いには、応神天皇陵、仁徳天皇陵、推古天皇陵をは
じめとする古墳が多数あることから、物資輸送路、文化伝達路として重要な役割を
果たした幹線通りと考えられている。古市古墳群と百舌鳥古墳群のほぼ中央部を
走る東西道路であり、2つの古墳群を繋ぐ道路であったとも考えられる。長尾街道
より遅れて敷設されたと考えられる。また、この街道を直線道路として東西に延長
すれば誉田山古墳南端の後円部に、大山古墳の南東端部の前方部に接して通っ
ていることになる。つまり、この二つの巨大古墳は地図上の北緯線上に造られて
いることが分かる。竹内街道の名は、奈良県葛城市にある竹内集落を通って竹内
峠を越えていくことに由来する。
竹内街道は『日本書紀』の推古天皇21年(613年)の条に「難波(大阪)より京(飛
鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた難波大道などと同様、日本最古の
「官道」である。一説には、聖徳太子が小野妹子らが中国大陸への使者として派
遣された遣隋使が帰国の際に同行してくる大陸からの使者が通るために、立派な
道路が必要だと考えて整備したものだといわれる。現在の竹内街道は、大部分は
推古天皇時代の官道と重なっている。東側は奈良盆地南部を東西に横切る官道
横大路に繋がっている。 かつては丹比道(たじひみち)と言われた。丹比野を横断
するのでその名が付いたと推定されている。天武天皇元年7月1日(672年)の条
に「会明に、西の方を臨み見れば、大津・丹比、両の道より、戦の衆多に至る」とみ
え、壬申の乱にも使われていたことが分かり、長尾街道と竹内街道であると推定さ
れている。
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長尾街道
長尾街道は、日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に
至る大道(おおじ)を置く」と記されていた日本最古の「官道」である「竹内街道」の北
1,908m(但し計画値)に平行して整備された。 古くは「大津道」と呼ばれた。大津の
名は、羽曳野市北宮にある式内大津神社に由来するといわれるが、大和川と石川
の合流地点が大津と呼ばれた時期があったことがあり、その大津に至る道という意
味で大津道といい、細長い海岸浜堤を長狭(ながお)といい、その特徴から長尾街
道と名が付いたという。
奈良時代以降になると、その北側に「竜飛道」(のちの奈良街道)が整備された。河
内国府(現在の土師ノ里駅付近)で本道と合流し、国分(現在の河内国分駅前)で分
かれた、難波京・住吉津と飛鳥・平城京を結ぶ重要な経路となった。

當麻寺
當麻寺は、612年に用明天皇の第3皇子麻呂子王が河内国に建てた万法蔵院に始まり、
その後、麻呂子王の孫當麻真人国見が役行者ゆかりの現在地に移したものといわれま
す。681年に弥勒仏を本尊として金堂が創建され、以後、講堂・千手堂(現・曼荼羅堂)・
東西両塔などの諸堂宇と、中院(現・中之坊)をはじめとする塔頭寺院が順次完成してい
きました。 創建当初は三論宗を奉じる学問寺院でありましたが、823年(弘仁14年)に空
海が当寺に参籠してから真言宗となり、當麻曼荼羅を中心として修法・観想・祈祷など
の仏道実践を重んじる密教寺院に転化した。この當麻曼荼羅は中将姫が一夜で織りな
した伝説とともに全国的に広まり、多くの参詣者を迎えて浄土信仰の霊場として栄えた。
この浄土信仰の高まりによって、南北朝時代には京都知恩院が當麻寺境内地に往生
院(現・奥院)を建立することになり、後に浄土宗が参入する契機となりました。この結果、
現在は真言宗と浄土宗の併立となっています。
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ゆうあいステーション(葛城市の福祉施設)
雨天の場合の昼食場所に・・・・
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石光寺へ向かう
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石光寺
石光寺(せっこうじ)は、奈良県葛城市にある浄土宗の寺院である。山号は慈雲山。本尊
は阿弥陀如来。出土遺物等から飛鳥時代後期(白鳳期)の創建とみられる古寺で、中将
姫伝説ゆかりの寺院である。境内には中将姫が蓮糸曼荼羅を織成する際に蓮糸を染め
たという井戸「染めの井」と、糸を干したという「糸掛桜」があり、「染寺」と通称されている。
観光的にはボタンの寺として知られ、境内にはボタン、シャクヤク、アジサイ、サクラ、サル
スベリなどが植えられている。関西花の寺二十五霊場20番札所である。
役小角の開山と伝えられる。『元亨釈書』等に記載される縁起によれば、天智天皇(在位
668〜671年)の時代、霊光を放つ大石が見つかり、天皇の勅命を受けてこの石に弥勒如
来を彫らせ、堂宇を建立したのが始まりとされる。1991年(平成3年)には弥勒堂改築に伴
う発掘調査の結果、飛鳥時代後期(白鳳期)の石造如来坐像、瓦、塼仏が出土した。この
時の発掘調査で、平面五間x四間の堂跡が検出され、前述の石仏はこの堂に安置されて
いたものとみられる。また、境内に飛鳥時代後期といわれる塔の心礎がある。
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染の井
中将姫が蓮糸曼荼羅を織成する際に蓮糸を染め
たという井戸「染めの井」と、糸を干したという「糸掛桜」
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境内に飛鳥時代後期といわれる塔の心礎がある
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ふたがみパーク(二上山ふるさと公園)
ここでボランティアガイドの松下さんと別れて弁当タイム
二上山のふもとに広がる自然公園で、ピクニックに最適な広い芝生広場があります。夏に
なると水遊び場に変身する水辺のテラス、木製コンビネーション遊具、ログハウス調のおも
ちゃ館など子どもたちが大喜びする自然遊びがたくさんあります。
また奈良盆地が一望できる456段の石段を上るとそこは国見の丘?ぜひ一度登って・・・
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昼食後に道の駅を覗いて大倉本家へ向かう
此処で雨もあがって、振り返ると二上山が・・・
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大倉本家(試飲)酒蔵 
大倉本家・・・HPより引用
明治29年(1896年) 大倉勝治商店として創業。
以来、吟醸酒には「速醸酒母」も用いますが、それ以外は普通酒に至るまで、すべて山廃
酒母で仕込んでいます。「酒は本来、素朴・端正をもって極上とする」、此れが家訓。
昭和7年頃より 奈良県神社庁の委託を受け、「御神酒」造りが始まりました。
戦時中 原料米を入手するのが困難な状況においても、品質第一のお酒のご提供をさせて
頂き、戦後2代目勝治のもと、販路を拡大させて頂けたと聞いております。
3代目勝彦のときに 特定名称酒醸造を開始しました。地元で強い地盤を持たさせていただ
け、最盛期は年間6000石近い販売量がありました。この間 全国新酒品評会で金賞をいた
だいたこと数回。しかし、諸々の事情で平成12年秋の濁酒の仕込みを最後に、休造を決断
します。創業以来はじめて 蔵は酒造りのない冬を経験することになりました。
その後 横浜より隆彦(現4代目蔵元)が戻り、酒造り再開に向けて先代と話合いを繰り返し
ます。何とか再開を了承していただき、長年「金鼓」で指揮をとって下さっていた杜氏の皆さ
んが蔵入り。3年ぶりに酒造りを再開させて頂くことになりました。
現在の蔵のキーワードは「山廃」と、「自家栽培米ひのひかり」、そして「水もと仕込み濁酒」。
創業以来 頑なに守り続けてきた山廃仕込み、それこそは「金鼓」「大倉」の味を形成するも
の。蔵復活にあたり、その伝統の秘技を余すことなく継承するのが、責務と考え、地の水・
空気・太陽で育った「ひのひかり」を使用することで、本来の地酒屋を目指します。 
※【地酒】その土地でできた酒(風土 米 すべてにおいてMade in 鎌田の酒)
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この3種類の利き酒を500円で・・・
下戸の私は、最初の”陽の光”が飲み易く美味しくて、酔ってしまい残り2杯は知人達に・・・
3人とも各々好みのお酒を購入して、表で集合写真を撮って貰って當麻寺駅へ
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当麻寺駅前でよく立ち寄る中将餅屋?
中将堂本舗・・・HPより引用
中将堂本舗の中将餅(よもぎ餅)は、葛城の里に昔から伝わる掌大のあんつけ餅を
一口の大きさにし、ぼたんの花びらを型どったものです。
よもぎの香りと甘味を押さえた独特のあんとの調和、優れた品質のものをと思い、材
料の餅米も当店で丹精込めて実らせた物を使用し、葛城の里に自生するよもぎをふ
んだんに活用しております。あんは、さらっとしたこしあんに大納言の粒を少量加え
あっさりした中にも、こくのある味わいに仕上げております。 だそうです・・・・

4人の内1人は、奈良で用が有ると言う事で先に帰り、残った3人で店内に・・・
中将餅と煎茶セット@300円を頼んで小休止、お土産に中将餅@700円買って帰った。
3人とも お土産に中将餅を買っていた・・・
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10月17日の竜田川紅葉ハイキングコースの下見

10月20日    10月17日の竜田川紅葉ハイキングコースの下見
  歩こう会 11月度特別企画
竜田川紅葉コース(11月21日特別)約6㎞の下見に知人と4人で行って来ました。
雨の中を歩いて、ハイキング終了後 “プチ飲み会“は王寺の餃子の王将で昼食兼
て餃子、唐揚げ、小エビ天麩羅、マーボ豆腐、レバニラ炒め、チャーハンと、4人で
スーパードライ大瓶4本飲んで満腹?雨の中だが実のあるハイキングでした・・・・
コース 王寺駅で9時50分に集合してスタート
王寺駅~神岳神社~三室山~竜田公園~竜田城跡~国道25号バイパス~白山
神社~吉田寺~龍田神社~寺風集会所~業平つれづれの道・道標~竜田川~
竜田公園~国道25号バイパス~国道25号~餃子の王将(昼食&ビール)王寺駅

王寺駅~神岳神社(かみおかじんじゃ)
神岳神社
神岳神社は、三室山の中腹に鎮座する神社で境内の縁起には聖徳太子が斑鳩
宮造営の際に飛鳥の産土神をこの地に安置し、太子之勅願所として祭祀されて
いたといわれます。本尊の地蔵菩薩像と聖観音菩薩像は融念寺(恵宝殿)に安
置されています。

三室山(みむろやま)
三室山は、標高82mの小さな山で、古来より神の鎮座する山とされており、神南備
山とも呼ばれます。平安時代の歌人・能因法師が
     「嵐ふく 三室の山の もみち‘葉は 竜田の川の 錦なりけり」(歌碑)と
詠んでいることでも知られ、春には300本のソメイヨシノが山の半分を覆い桜の名所
ともなっています。
此処には、能因法師の歌と在原業平の歌が・・・
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竜田公園~竜田城跡
竜田公園
竜田川は、在原業平が
  「千早ぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」(歌碑)と
詠むなど古くより紅葉の名所で、今は遊歩道が整備された都市公園です。
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竜田城跡
室町時代に龍田氏の館があったとも云われる。 慶長6年(1601年)大和国に2万
4千石を領して入部した片桐且元によって陣屋が築かれた。 且元は間もなく摂津
国茨木に移り、且元が没すると孝利が継いだ。 孝利没後は且元の四男為元が
継いだが1万石に減封され、元禄7年(1694年)断絶となった。
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国道25号バイパス~白山神社
白山神社
竜田公園から国道25号バイパスを歩いて10分ぐらいの所にあります。斑鳩町
稲葉車瀬にあり森で囲まれています。創建は不明です。
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吉田寺(きちでんじ)~龍田神社
吉田寺
吉田寺は、清水山を号とする浄土宗の寺院です。本尊は阿弥陀如来像(奈良県下で
最大)で多宝搭とともに国の重要文化財に指定されています。天智天皇の勅願によ
り恵心僧都(源信)が開基し、恵心僧都が母親の臨終の際、祈願した衣服を着せかけ
たところ安らかに往生したと伝えられており、御本尊に祈ると腰から下の世話をかけず
に往生できるといわれることから「ぽっくり寺」とも呼ばれています。
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龍田神社
当社の神使は鶏。手水鉢に鶏の像が置かれている。
聖徳太子が法隆寺を建立しようとして龍田明神の神誨を受け、この地に堂塔を建立し、
守護神として本宮の分霊を勧請。本宮に対して新宮、または新龍田ともいう。
ただし、法隆寺創建以前から祀られていたとする説もある。
明治以前は法隆寺から当社へ別当をおき、例祭には30人の僧侶を遣わして法会が
行われていたが、明治になって神仏分離により、法隆寺から離れ、龍田大社の摂社と
なったが、大正十年県社に列し、翌年、龍田大社から分離独立した、
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金剛流発祥之地碑
能楽の金剛流は,大和猿楽4座(結崎・円満井・外山・坂戸)の一つ「坂戸座猿楽」が
ルーツで、ここ斑鳩の里を発祥の地とする。 大和4座は、大和一円の大寺に所属した
猿楽座で、外山座と結崎座は 現在の談山神社に、円満井座は興福寺に、坂戸座が
法隆寺に属したといわれ、後にそれぞれ 観世座・宝生座・金春座・金剛座と呼ばれる
ようになった。
坂戸座は 坂戸孫太郎氏勝を流祖とし、6世の三郎正明から「金剛」を名乗った。華麗・
優美な芸風から「舞金剛」、装束や面の名品を多く所蔵することから「面金剛」などとも
呼ばれる。豪快な芸風で知られた 7世金剛氏正は「鼻金剛」の異名を取り、中興の祖
とされる。
江戸初期に金剛流から喜多流が分派し“四座一流”と呼ばれるようになった。
この発祥碑は、斑鳩町制施行50周年を記念して、1997(平成9)年に建立された。
上記の龍田神社から700mほど北西,仙光寺の南側に“春日神社”がある。 神社の社
殿の一つの中に「金剛能発生之地」という木の札が掛かっていて「当神社の由来」とい
う案内板に金剛座(=坂戸座)との関わりが書かれている。
金剛流は斑鳩町が発祥の地とされていて 発祥の地碑は瀧田神社にあるが,当時の
金剛座の本拠地は春日神社にあったということだろう。
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※龍田大社
第十代崇神天皇の頃、国内に凶作・疫病が流行した折、天皇の御夢に「吾が宮を朝日
の日向処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に吾が宮を定めまつりて云々」という
神託があり、造営されたらしく、その後、疫病は退散し、豊作となったという。
また、『日本書紀』によると天武天皇が、小柴美濃王と小錦下佐伯連廣足を派遣して
龍田の立野に風神を祀らしめたという。
天武天皇四年(675)から平安時代まで年に二度、勅使参向のもと祭祀が斎行された
大社で、朝廷奉幣二十二社の中七社に名を連ねたが、鎌倉時代の動乱により社勢は
衰退した。 明治になって神社制度が整備され、明治四年五月官幣大社に列格した。

お寺風の集会場
すぐ近くに「鹿塚」が有ります。
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※鹿塚
昔、聖徳太子が多くの家臣とこの辺りを通った時、家臣の飼い犬が鹿と喧嘩をして、
犬が鹿の足に噛み付き、それを見た太子が鹿の手当てをして逃がしまし たが、数日
後、また犬が鹿を噛み殺したので、太子がこの事を深くお考えになり、これは前世の
宿業によるもので、恨みの恐ろしさを悟り、それを忘れない様に鹿塚を造りました。

業平つれづれの道・道標
在原業平のロマンあふれる伝説の道、平安時代の恋心に触れるつれづれの道です。
セイタカアワダチソウが満開・・・
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竜田川~竜田公園
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国道25号バイパス
国道25号~餃子の王将~王寺駅で解散

おまけ
10月18日は天気良かった
サガリバナは部屋に入れて、高さ50cmに伸びている
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駐車場の琉球朝顔も未だ未だ元気に咲いている
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