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真田幸村と伊達正宗が激突した誉田・道明寺を巡る-2

12月15日      真田幸村と伊達正宗が激突した誉田・道明寺を巡る-2
                 12月12日の昼飲み会忘年会ハイキング
昼飲み会に参加する知人・S藤さん・M吉さん・K場さんと4名で湯処・あべの橋温泉~居
酒屋での昼宴を目指して歩いた、雨にも会わず、まーまーのハイキング日和でした。
コース  真田幸村 大坂の陣 ゆかりの地を訪ねて 古市駅10時スタートで歩きました。
古市駅(10時スタート)~白鳥神社~白鳥陵古墳~墓山古墳~向墓山古墳~誉田八幡
宮~応神天皇陵~大鳥塚古墳・縦走~小室山古墳・縦走・昼食~仲姫命陵古墳~古室
八幡神社~澤田八幡神社~鍋塚古墳~道明寺~道明寺天満宮~道明寺駅(ゴール)
道明寺駅 → 大阪阿部野橋駅  湯処・あべの橋温泉 ~ 居酒屋 
此の日の私の万歩計は、20599歩で約15.2kmあるいたことに・・・
志都美駅
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柏原駅で近鉄線に乗り換え
道明寺駅で橿原神宮前行に乗り換え、道明寺駅ホーム
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※道明寺駅の歴史・・・近鉄電車発祥の駅として知られる? 近畿日本鉄道(近鉄)の駅。
駅番号は南大阪線がF15、道明寺線がN15。柏原駅や古市駅と並び、現在の近鉄に属
する駅の中では最古の歴史を有する。
1898年(明治31年)3月24日 - 河陽鉄道として柏原 - 当駅 - 古市間が開業に設置。
1899年(明治32年)5月11日 - 河陽鉄道の路線を河南鉄道が承継。同社の駅に。
1919年(大正8年)3月8日 - 社名変更により大阪鉄道の駅となる。1922年(大正11年)
4月18日 - 当駅から布忍駅までが開通。分岐駅となる。1943年(昭和18年)2月1日 - 関
西急行鉄道が大阪鉄道を合併、関西急行鉄道駅。1944年(昭和19年)6月1日 - 戦時統
合により関西急行鉄道が南海鉄道(現在の南海電気鉄道の前身。後に再独立)と合併、
近畿日本鉄道の駅となる。
※駅周辺のシンボルでもあったサントリー道明寺工場は2004年10月末で操業を停止し、
解体された。

古市駅(10時スタート)
※古市駅の歴史・・・近鉄電車発祥の駅として知られる?
近畿日本鉄道(近鉄)の駅。
道明寺駅、柏原駅と並び、現在の近鉄に属する駅の中では最古の歴史を有する。

白鳥神社
日本武尊、素戔嗚命、稲田姫命を祀る。明治時代に近隣の高屋神社を合祀し、その
祭神である饒速日命、広国押武金日命(安閑天皇)を合せ祀る。
元は軽里の西方の伊岐谷にある白鳥陵の頂に鎮座し、「伊岐宮(いきのみや)」と呼ば
れていた。南北朝・戦国の兵火により衰微し、峯ケ塚古墳の頂の小祠として祀られてき
たが、1596年(慶長9年)の慶長の大地震で倒壊し、そのまま放置されていた。1784年
(天明4年)に古市の氏神として現在地に移された。
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日本武尊(ヤマトタケル)御陵参道
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※「日本武尊」
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命
(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本
武尊」の用字が通用される。第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。
熊襲征討・東国征討を行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。
草薙剣
記紀日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオ尊がヤマ
タノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に
伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。
日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武
尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を
逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、これは挿入
された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。本文では一貫して草薙剣と表記
され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)とのみ記される。

白鳥陵古墳・・・白鳥陵(しらとりのみささぎ)
公式形式は前方後円。考古学名は「軽里大塚古墳」または「前の山古墳」。墳丘長190m
の前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。河内の白鳥陵は明治8年(1875年)
に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年(18
80年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された。現陵は、『河内国陵墓図』では
木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあっ
たという。
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墓山古墳
墓山古墳は古市古墳群のほぼ中央にある大形の前方後円墳です。三段に築かれた墳
丘は長さ225m、くびれ部両側に造出しを備え、深い濠と幅広い堤をめぐらせます。墳丘
部は「応神天皇陵陪塚」として宮内庁が管理されていますので、内部の詳しい様子は不
明です。だた、これまでに多量の滑石製勾玉や各種の形象埴輪の出土が知られていま
す。また、後円部には亀甲紋を陰刻した長持形石棺が納置されていた報告もあります。
これらの情報から墓山古墳は5世紀の前半に築造されたと考えられます。墓山古墳の
周囲には浄元寺山、向墓山、野中、西墓山という4基の陪塚が配されていて、典型的な
中期大型古墳の様相をみせています。
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向墓山古墳
墓山古墳の陪塚
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誉田八幡宮へ向かう
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誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
大阪夏の陣の際、豊臣方の武将・薄田隼人が陣を布いた近くに鎮座しています。豊臣
秀頼による社殿の再建中に大阪の陣が勃発してしまった為、社殿の天井板は未だに
未完成のままとなっています。
誉田八幡宮は、大阪府羽曳野市にある神社で、旧社格は府社。主祭神は応神天皇で、
誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の直ぐ南に鎮座する。
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、応神
天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。このことから最古の八幡宮を
称している。奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建された。永承6年
(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から1町ほど南の現在地に遷座した。
八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家の信
仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一族によって
保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪争いにより社殿・
伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の誉田氏の一部は、四国
や九州に逃れ、また、江戸期には、関西一円の香具師(やし)(露天商)の元締めとして君
臨したといわれている。河内国を支配下に置いた織田信長により、社領をすべて奪われ、
その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を再建した。天正14年(1586年)に社殿が
焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の
建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡があり、建物の内部が未完成のままとなっている。
江戸幕府も200石の社領を安堵し、数度にわたり社殿の修復を行った。 神宮寺の長野山
護国寺は、明治の廃仏毀釈により大半の建物が取り壊され、現在は南大門のみが残る。
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東高野街道(ひがしこうやかいどう)
・・・羽曳野市HPより
東高野街道は高野詣でのための京から高野山に至る道で、江戸時代には東高野街
道の他、西高野街道、下高野街道、中高野街道などいくつかの経路がありました。東
高野街道は、 京都九条の教王護国寺(東寺)から大阪平野の東縁を南下し、羽曳野
市域を通って紀見峠を越え高野山に至っています。
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※ 東高野街道とは、かつて京都から高野山への参詣道として用いられた街道。
数ある高野街道のうち、いちばん東側に位置する道筋。八幡(京都府八幡市)で京街
道(大坂街道) と別れ、河内国の東部を通り、長野(大阪府河内長野市)で西高野街道
と合流し、 以南は高野街道として紀見峠、橋本、高野山へ至る。いつ頃に形成された
かは定かでない。既存の集落を経ず、出来るだけ直線になるように通されており、自
然発生的に形成された道ではなく、計画に基づいて建設された古代道路であると言わ
れている。 淀川水系の河川や、かつて存在した巨大な河内湖(深野池)周辺の湿地
帯を避けて生駒山地の麓を通り、河内国府(現在の藤井寺市)付近で大和川を越え
ると石川の左岸に沿って通った。 平安時代には、京と河内国府を結ぶ官道としても重
要であったとされる。その後は官道としての重要性は薄れたものの、仏教信仰の一般
化に伴い、高野山参りが盛んになると参拝道として賑わうようになった。
現在では、府道長尾八幡線、枚方バイパス、府道枚方交野寝屋川線、府道枚方富田
林泉佐野線と国道170号(旧道)各道の大半に相当または平行する。

応神天皇陵(誉田山古墳とも言う)
誉田御廟山古墳 (こんだごびょうやまこふん)又は誉田山古墳(こんだやまこふん)は、大
阪府羽曳野市誉田にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「惠我藻伏崗陵(えがのもふしのおかのみ
ささぎ)」として第15代応神天皇の陵に治定されている。また外濠と外堤は1978年(昭和5
3年)に国の史跡に指定されている。 名称は「応神天皇陵」とも呼ばれ。全国で大仙陵古
墳(大阪府堺市)に次ぐ第2位の規模の巨大古墳である。
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事務所でトイレを貸して貰った
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大鳥塚古墳(おおとりづかこふん)・縦走
大鳥塚古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。墳形は前方後円形で、前
方部を南方に向ける。墳丘は後円部で3段築成、前方部で2段築成。墳丘表面では葺石・
円筒埴輪列や、形象埴輪(家形・蓋形・盾形・靫形・冑形埴輪など)が認められる。墳丘く
びれ部両側には造出を付すほか、墳丘周囲には馬蹄形の周濠が巡らされる(空濠、現在
は埋設保存)。大鳥塚古墳は、古墳時代中期の5世紀前葉頃の築造と推定される(赤面山
古墳も同時期)。古市古墳群では大王墓の仲津山古墳(藤井寺市沢田)と同時期とされ、
巨大前方後円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を
示す古墳になる。
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小室山古墳(こむろやまこふん)・縦走・頂上・昼食
古室山古墳は、大阪府藤井寺市古室にある古墳。形状は前方後円墳。古市古墳群を構
成する古墳の1つ。国の史跡に指定されている(史跡「古市古墳群」のうち)。
大阪府東部、藤井寺市・羽曳野市・松原市にまたがる大古墳群である古市古墳群のうち、
中位段丘(国府台地)上に築造された大型前方後円墳である。
墳形は前方後円形で、前方部を北東方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は150メートル
を測り、古市古墳群では中規模になる。
古室山古墳は、古墳時代中期の4世紀末-5世紀初頭頃の築造と推定される。古市古墳群
では最初の大王墓と目される津堂城山古墳(藤井寺市津堂)と同時期とされ、巨大前方後
円墳(大王墓)に次ぐ大型前方後円墳として、当時のヤマト王権の政治階層を示す古墳。
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昼食を済ませて
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此処までは、
真田幸村と伊達正宗が激突した誉田・道明寺を巡る-1 として
               下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
           https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-12-15
此処では、続きの仲姫命陵古墳からの詳細を掲載します。
仲姫命陵古墳・・・仲津山古墳(なかつやまこふん)
仲ツ山古墳(仲津山古墳)は、大阪府藤井寺市沢田にある古墳。形状は前方後円墳。古市
古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「仲津山陵(なかつやまのみささぎ)」として
第15代応神天皇皇后の仲姫命の陵に治定されている。
古市古墳群の北部、誉田御廟山古墳の北東に位置する。全長290m、後円部径170m、高
さ26.2m、前方部幅193m、高さ23.3mで、古市古墳群で2番目、全国でも9番目の大きさを
誇る。国府台地の最高所にあるため、周濠は空濠に近い湿地帯になっている。 出土した埴
輪の特徴から、古市古墳群の巨大前方後円墳では、津堂城山古墳に次いで古く、5世紀前
半の築造と推定されている。
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古室八幡神社
神社に由緒書きはありませんが、國府八幡神社由緒に「藤井寺市内には、江戸時代初期
の頃に誕生した八幡神社が五社あり、国府八幡神社以外の八幡神社 は、誉田八幡宮(羽
曳野市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八
幡神社、津堂八幡神社の四社です。」とあり、江戸時代の初め頃、誉田八幡宮の分霊を勧
請した古室地区の氏神様のようです。
国府八幡神社は、壺井八幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請して始まっ たとされています。
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※壺井八幡宮
武家棟梁・河内源氏の氏神である。八幡神として誉田別尊(応神天皇)・仲哀天皇・神功皇
后を主祭神とし、玉織姫・武内宿禰を配祀する。一帯は河内源氏の本拠地で、寛仁4年(10
20年)に源頼信が河内国国司に任じられて以降、頼信・頼義・義家の3代にわたって当地に
居住し、河内源氏と呼ばれるようになった。康平7年(1064年)5月15日、前九年の役に戦
勝して凱旋した源頼義が、現在地である河内国香呂峰の私邸の東側に社殿を造営し、河
内源氏の氏神である石清水八幡宮(京都府八幡市)を勧請したのが当社の始りである。こ
の時に地名を香呂峰から壺井と改め、壺井八幡宮を武家源氏棟梁の河内源氏の総氏神と
した。近くには河内源氏の氏寺・通法寺がある。その後、源頼義は、河内源氏の東国進出の
拠点として、鎌倉にも石清水八幡宮を勧請した(鶴岡若宮。後の鶴岡八幡宮)。頼義の5世孫
である源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、河内源氏の総氏神は壺井八幡宮から鶴岡八幡宮
に移り、壺井八幡宮は河内源氏の祖廟にして当地に土着した河内源氏である石川源氏の氏
神となる。

澤田八幡神社・・・境内を電車が通る神社としても有名
境内には近鉄南大阪線が横切っており、踏切が設けられている。これは1922年大阪鉄道が
布忍駅 - 道明寺駅間を開通した際、町内の中を通ることを避け、仲姫皇后陵の堤に沿って
走らせることにした結果、陵の堤に続く斜面にあった神社を横切ることになったものと考えら
れる。同じように境内に鉄道の線路が横切っている神社の一つに坂田神明宮がある。
当時の住民は線路敷設に肯定的であり、公有地の一部が無償提供されている。
国府八幡神社由緒書によると、国府八幡神社を除く近隣の八幡神社(古室八幡神社、土師
里八幡神社、津堂八幡神社)と同じく、江戸時代初期に誉田八幡宮から勧請されたものとさ
れている。拝殿の棟札には、1655年(明暦元年)11月に旧地の一町西へ遷宮したと伝えられ、
次いで1777年(安永6年)の棟札からこれらの時期に建直しが行われている。沢田の氏神と
して機能し、かつては「先度社」という宮座も存在した。明治5年に村社に列せられる。
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境内を近鉄電車が通る
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鍋塚古墳
4世紀末葉築造、古墳の形は方墳、墳丘一辺の長さ 63m、2段築成。出土したものは、
円筒埴輪、家、衣蓋、盾、靭形といった形象埴輪。
現状は一辺40m前後ですが、周辺の調査成果により一辺63mに復元することができます。
仲姫命陵古墳外堤に食い込むような位置に築かれています。
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道明寺寺(どうみょうじ)・・・真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。
聖徳太子が尼寺を発願され、7世紀中葉に土師氏の氏寺として建立された土師寺が起源。
当初は天満宮の南側参道付近に位置し七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。
石川の洪水で天満宮の境内に移り、さらに明治の神仏分離令によって現在地に移りまし
た。 本尊は国宝「十一面観音立像」で、毎月18日と25日に拝観で きます。
901年(延喜元年)、大宰府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けば
こそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。
この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれてい
る。道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来する。
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道明寺天満宮
祭神は菅原道真公、天穂日命、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。隣接して道
明寺という真言宗の尼寺がある。この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当たる野見宿禰の所
領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社があった。仏教伝来後、土師
氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太子の発願により土師八島がその邸
を寄進して寺としたという。平安時代、土師寺に は菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が
住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。延喜元
年(901年)、大宰府に左遷される途中にも立ち寄って、覚寿尼公との別れを惜しんだ。道真
公遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。
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境内に展示の修羅
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土師社
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道明寺駅 → 大阪阿部野橋駅 ~ 湯処・あべの橋温泉 ~ 居酒屋 甘太郎
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道明寺駅前
道明寺合戦記念碑
道明寺駅前に2014年11月、大坂夏の陣 道明寺合戦の史実を後世に伝えるために建立され
た記念碑です。道明寺合戦は、真田幸村軍と伊達政宗軍が激突し、戦国の歴史が大きく動い
た戦いとして有名で、片倉小十郎、後藤又兵衛、薄田隼人など名だたる武将が戦いました。
地元では、合戦の歴史を後世に伝えるため、「道明寺合戦祭り」などを毎年開催しています。
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阿倍野キューズモール
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湯処・あべの橋温泉・・・4名
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名  龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質  ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
    ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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居酒屋へ向かう
あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!  ほんまでっせ!
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居酒屋・・・今日は6名で
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おまけ
帰りの王寺駅で・・・
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12月9日の大阪探訪 大絶景!めがね橋を歩く-2

12月11日        12月9日の大阪探訪 大絶景!めがね橋を歩く-2
                  南海・近鉄・阪神 TRYあんぐるウオーク
此の日は、後で分かった事だが大阪の最高気温が8度と、この冬一番の寒さだった様で
確かに西成公園で昼食の時一気に手がかじかんだ事、其の後陽当たりの良い陽射しの
有る場所を選んで歩いた事を帰ってから思い出した。やっぱリ寒かったんだと・・・
コース  近鉄大阪上本町駅(受付9時半~10時)
大阪上本町駅(受付・スタート)~生国魂神社~大蓮寺・吉本芸人塚~新世界・通天閣~
~てんしば~あべのハルカス~新開筋商店街~鶴見橋商店街・津守商店街~西成公園
~津守神社~千本松渡船場・千本松大橋(めがね橋)~千島公園~阪神ドーム前駅
久し振りのハイキング、此の日の私の万歩計は、31946歩で約23.6km歩いたことに・・・
大阪上本町駅(受付・スタート)で知人と合流、生国魂神社へ向う
生国魂神社
式内社で、旧社格は官幣大社。難波大社(なにわのおおやしろ)ともいう。地元で
は生玉(いくたま)さんの通称で親しまれている。
伝承によれば、神武東征の際に、神武天皇が難波碕(現在の上町台地)の先端
に日本列島そのものの神である生島大神・足島大神を祀り、国家安泰を祈願した
ことに始まるという。『日本書紀』孝徳天皇即位前紀には、天皇が難波宮造営に際
して北隣する「生國魂社の樹(木)」を切ったとある。延喜式神名帳には「難波坐生
國咲國魂神社 二座」と記載され、名神大社に列している。
1496年(明応5年)に蓮如によって、のちに石山本願寺となる石山御坊の草庵が
神域の一角に結ばれた。石山本願寺は豊臣期の大坂城の詰之丸に存在したとさ
れ、当社の最初の鎮座地は豊臣期の詰之丸付近に相当する、現在の天守閣周
辺ということになる。1580年(天正8年)に石山合戦の戦火により焼失。1583年
(天正11年)には豊臣秀吉による大坂城築城に際して現在地への移転が決定さ
れた。
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既に来年の干支が・・・
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※大蓮寺
なにわの名刹・浄土宗大蓮寺は、いまから450 年前の天文19年(1550年)3月5日、
時の将軍足利義晴の三男坊・晴誉上人によって、足利家の大坂祈願所として創建さ
れました。正式な山号は「浄土宗如意珠應山極楽院大蓮寺」。
当時5千坪を有したといわれる大蓮寺は、その頃から大阪屈指の寺院として名高く、
近世には徳川家の祈願所として愛護され、浄土宗別格寺院としての威容を誇りまし
た。境内は東西五町南北四町、塔頭8ヶ寺、直末75ヶ寺を有したといわれます。
明治45年、大阪大火によって境内の一部を焼失。昭和20年3月14日大阪大空襲に
より伽藍を焼失して、戦後再建されました。寛永期造立された梵鐘は総高206cm、
市中第一といわれましたが、戦時中に供出されました。
また、大蓮寺では近世から大規模な寺子屋が開かれ、根来誠齋や石田梅岩とも縁
が深く、顕彰碑や門弟の墓碑が現存しています。広大な寺域ではしばしば出開帳や
勧進興行も催され、「摂津名所図会」に記録があります。また大坂三十三ヶ所観音
霊場巡礼の二十八番札所としても知られ、往時のにぎわいは近松門左衛門の名作
「曽根崎心中」にも描かれています。
明治29年には天王寺中学校(現高校)、高津小学校が当山で発祥、昭和28年には
境内に直営のパドマ幼稚園を開園、平成9年には塔頭・應典院を再建、社会教育や
芸術活動に取り組むなど、現代も地域文教の寺院として広く親しまれています。
吉本芸人塚
墓地西入り口に、平成5年秋には、吉本興行創業者吉本せいの遺児にあたる辻阪
邦子氏の発起により、無名芸人を偲ぶモニュメント「吉本芸人塚」が建立されました。
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新世界へ向かう
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新世界
1897年(明治30年)に大阪市へ編入される以前は西成郡今宮村の一部で、畑地や荒
地が広がっていた。市街化のきっかけとなったのが、1903年(明治36年)に開催された
第5回内国勧業博覧会で、東に隣接する旧東成郡天王寺村の一部とともに会場敷地と
なった。「内国」とあるが、国内外からの最新技術が披露された点では「万博」に近いも
のがあり、博覧会は5ヶ月間で入場者530万人という大盛況の内に幕を閉じた。
博覧会に合わせて日本橋筋の3丁目以南(現在のでんでんタウン)が整備された。会場
の西縁には既に1885年(明治18年)12月に南海鉄道(現・南海本線)が、南縁には188
9年(明治22年)5月に大阪鉄道(初代。関西鉄道を経て現・JR関西本線)が通じていた
が、会期中は南海鉄道が今宮戎駅南側に「博覧会会場門」駅を、関西鉄道が天王寺駅
西側に「博覧会」駅をそれぞれ開設。来場者の利便性を図った(博覧会終了後は両駅と
も廃止)。 1907年(明治40年)には片岡直輝ら大阪財界有志が恵美須町から浜寺まで
の鉄道敷設を申請。1910年に「阪堺電気軌道」(旧)が設立され、翌1911年に恵美須町
から市之町までが開業した。大阪財界は恵美須町がターミナル駅として発展することを
見越して、博覧会跡地を一大娯楽センターとする計画を立案する。
1908年(明治41年)には博覧会跡地北西角の恵美須交差点から大阪市電南北線が
難波を経由して梅田まで開通している。
博覧会跡地は日露戦争中に陸軍が使用したのち、1909年(明治42年)に東側の約5万
坪が大阪市によって天王寺公園となった。西側の約2万8千坪は大阪財界出資の大阪
土地建物会社に払い下げられ、1912年(明治45年)7月3日、「大阪の新名所」というふ
れこみで「新世界」が誕生。通天閣とルナパークが開業した。開発当初は「新巴里」「第
二千日」と仮称されていたが、開業の際、「新世界」と改められた。

福永大神・・・新世界稲荷神社
創建は明治45年、通天閣の近くにある比較的歴史の浅い神社です。 境内には、
石でできたルーレット形のおみくじ機?があり、円盤を回して出た数字を横の表に
照らし合わせて運勢を占うというもので無料です。正面の鳥居には福永大神とあ
りますが、中の鳥居には新世界稲荷神社とあり、こちらが正しいようです。
入り口の石標も鳥居の額も福永大神とあるが、中は新世界稲荷神社となっている。
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通天閣
通天閣(つうてんかく)は、大阪府大阪市浪速区の新世界中心部に建つ展望塔である。
2007年5月15日に、国の登録有形文化財となった。公式キャラクターは「ビリケン」。
大阪の観光名所として知られる。現在の通天閣は二代目で、1956年(昭和31年)に完
成した。通天閣観光株式会社(つうてんかくかんこう株)により運営されている。避雷針
を含めた高さは108m(塔自体の高さは100m。避雷針は2016年に3mのものから8mの
ものに更新している)。設計者は、ほぼ同時期にできた名古屋テレビ塔、東京タワーなど
を手がけた内藤多仲。建設を施工したのは奥村組である。「通天閣」とは、「天に通じる
高い建物」という意味で、命名したのは明治初期の儒学者、藤沢南岳である。
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新世界ラジウム温泉・・・HPから
大阪のシンボル通天閣の真下に、大阪新世界の銭湯・ラジウム温泉があります。ワン
コインセットで、手ぶらでブラッと入れます。通天閣を眺められる大きな露天風呂では、
本物のラジウム鉱石(人形峠産鉱石)を使い本格的なラジウム温泉を体験して頂けま
す。又、関西でも数少ない高濃度人工炭酸泉風呂設備のある銭湯です。優待駐車場
のサービスも完備しています。朝風呂年中AM6:00から営業。是非お越しください!
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ジャンジャン町・・・ジャンジャン横丁(ジャンジャンよこちょう)
「ジャンジャン横丁」は、新世界の南東部に位置しており、全長約180m。アーケード
はあるが、横幅は2.5mほどと非常に狭い。それがかえって活気を醸し出している。
「ジャンジャン横丁」は通称で、正式名称は「南陽通商店街」である。
した飛田遊廓(1958年廃業)と新世界をつなぐ道筋として1921年、橋本傳三郎の尽力
で開通した。当時の地名は橋本の出身地である島根県の旧国名に因み「石見町」と称
していた。開通当時は関西本線を地下道でくぐる計画であったが、地元の反対にあい、
踏切となった(紆余曲折の末、1923年ごろに地下道が開通)。 当時としては一級の歓
楽街であった新世界と花街をつなぐルートだったため、多くの酔客が出入りし、それを
目当てに飲食店や男娼店、淫売店が急ごしらえで造られた。当時は肩をよけないと通
れないほどの雑踏が、軍艦内の通路に似ていることから「軍艦横丁」と呼ばれていた。
戦前、商店街北側には、噴水を設置した円形浴場やサウナ風呂、演舞場、食堂などを
備えた「噴泉浴場」(通称・ラヂューム温泉)という総合娯楽施設があった。1945年の大
阪大空襲で焼失した後、1950年にストリップ主体の「温泉劇場」(通称・温劇)に業態変
更して復活。近隣の飛田遊廓へ向かう者やあいりん地区の労務者などが詰めかけ、新
世界名物として知られるようになった。
昭和初めには「両側から湧き起る三味線の喧騒、途方もない高い声を張り上げて、やけ
に喚き立てるサノサ節屋、串本節や、道頓堀行進曲。さういふものが一緒になって、道
行く人の心を沸き立たせる。「ジャンジャン横丁」はこの三味線の撥音に由来する。この
喧騒は戦後も続き、道沿いには飲み屋や射的の店が立ち並んでいた。
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てんしばへ向かう
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てんしば・・・大阪天王寺公園エントランスエリア
“てんしば”は、天王寺駅各線、近鉄大阪阿部野橋駅から徒歩すぐ。エリア内にはレスト
ランやカフェ、こどもの遊具場にフットサルコートなど、多彩なテナントが充実。
イベントスペースとして利用できる約7,000㎡の芝生広場を目の前に、自然を満喫しな
がらランチを お楽しみいただけます。
公園内の動物園や美術館の他、周辺施設に足をのばすのもおすすめ。
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あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!  ほんまでっせ!
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新開筋商店街
飛田本通り商店街(動物園前二番街)に繋がるアーケード商店街、
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鶴見橋商店街へ向かう
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鶴見橋商店街(つるみばししょうてんがい)
鶴見橋商店街は大阪市西成区の国道26号線花園町付近から西の阪神高速道路
15号堺線津守出入口付近まで東西約1kmに延びる商店街。昔からの店舗が多い
が、店舗数は減少傾向にある。
鶴見橋商店街は約100mおきに区切りがあり、東の1番街から西の8番街まで続い
ている(旧町名・鶴見橋通1丁目~8丁目にちなむ)。以前は日本で2番目に長い商
店街として数えられていたこともある(一番長い商店街は大阪市北区の天神橋筋
商店街)。
鶴見橋とは、西端の8番街の先に流れていた十三間堀川(現在の阪神高速道路15
号堺線。阪神高速道路建設のため1960年代に埋め立てられた)に架かっていた橋
の名前。1909(明治42)年に大日本紡績(現・ユニチカ)木津川工場が建設された際
に工場近くに架けられ、当時は鶴の飛来がよく見られたことから、地元の住民が「鶴
見橋」と命名した。 1909(明治42)年に大日本紡績木津川工場が操業を開始し、鶴
見橋に従業員向け社宅が建てられたことに始まる。 昭和初期には商店街が形成さ
れ、木津川工場の従業員の通勤路、社交場となっていく。1927(昭和2)年に阪堺電
鉄(後に大阪市電三宝線)の鶴見橋通駅、1942(昭和17)年に大阪市営地下鉄四つ
橋線の花園町駅が開業するなど、交通の便がよくなったことで遠方からも買い物客が
増え、心斎橋筋商店街・天神橋筋商店街と並ぶ「大阪三橋」と称されるほど発展した。
かつては、その豊富な店舗構成から「横に長い百貨店」とも称された。
商店街の西は阪神高速道路を越えて津守商店街、東は国道26号線を越えて花園
本通商店会にそれぞれ繋がっている。
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此処までは、
12月9日の大阪探訪 大絶景!めがね橋を歩く-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-12-11
此処では、続きの未だ未だ続く鶴見橋商店街~の詳細を掲載致します。
未だ続く鶴見橋商店街
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津守商店街
大阪市のリストに掲載されていない津守商店街が、広義では新開筋商店街から西
に伸びる長い長いアーケード商店街の西端部となります。
南海汐見線津守駅付近にある津守商店街の西端 (大阪市西成区)
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西成公園・・・昼食場所
南海汐見線津守駅付近にある西成公園、メタセコイヤ並木も有る緑豊かな公園だが、
フェンスで囲まれた中にフェンスで処所仕切られている未だ未だ異様な感じの公園・・・
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津守神社
津守神社(つもりじんじゃ)は、大阪市西成区に鎮座する神社である。
現在の大阪市西成区津守の一帯は、江戸時代に「津守新田」として開墾された歴史
がある。津守新田の開発の際に勧請されて創建された神社が、現在の津守神社に
あたる。江戸時代には、この神社は五所神社・五社大明神・稲荷神社などと称されて
いた。1871年(明治4年)に津守神社に改称。
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千本松渡船場
大正区南恩加島1丁目と西成区南津守二丁目を結ぶ(岸壁間230メートル)。
このあたりは木津川の川尻に近く、江戸時代には諸国廻船の出入りの激しいところで
あった。幕府は、舟運の安全のため水深を確保し、また防波堤のとしても役立つよう、
天保3年(1832)ここに大規模な石の堤を築いた。千本松の名は、この堤防の上に植
えられた松並木に由来する。「摂津名所図会大成」に「右塘(つつみ)に数株の松を植
列ぬるゆえに俗に木津川の千本松といふ洋々たる蒼海に築出せし松原の風景は彼
の名に高き天橋立三保の松原などもほかならず覚ゆ・・・」と述べている。
千本松の渡しが設けられた年代ははっきりしないが、大正時代の中頃に初めて設け
られたものと思われる。昭和48年に千本松大橋が完成し、それとともに渡しは廃止さ
れることになっていたが、地元住民の強い要望によって存続することになり、現在も
通勤通学の貴重な足として利用されている。
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千本松大橋・・・高さ39m
千本松大橋(せんぼんまつおおはし)は、大阪府道5号大阪港八尾線の大阪市大正区
南恩加島3丁目~大阪市西成区南津守2丁目間の木津川に架かるループ橋である。
大阪市の管理で、1973年(昭和48年)に架設された。両端部の2階式螺旋状坂路(720
度ループ)を含めて道路長は1228mあり、橋の形状をメガネに見立てることから、地元で
はめがね橋の愛称で呼ばれる。 「千本松大橋」の名称は、江戸時代にこの地の木津川
堤防に沿って多くの松が植えられていたことに由来している。 車道と歩道があり、自動
車・歩行者ともに通行可能。橋を通るバスも存在する。
木津川の両岸には工業地帯や造船所が広がり、大型船が頻繁に航行していた。そのた
め、船の運航に考慮して、通常の橋が架橋できなかった。
かつて自動車は上流の橋まで大きく迂回しなければならず、特に大正区南部の住民に
は交通面での不便を生じさせていた。交通の便を改善する目的で、桁下の高さを高く
とったループ橋・千本松大橋が建設された。
しかし、橋が完成した同年、第一次オイルショックやそれに伴う著しい景気の悪化などの
影響により、両岸にあった大型船を建造する造船所は一気に衰退し、またその他の工場
でも規模を縮小したために、皮肉にも、橋の完成と同時に航路高が33mも必要とする大
型船の航行はなくなってしまっていた。
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千島公園
※昭和山(しょうわざん)
昭和山は、大阪市大正区千島二丁目にある人工の山。標高33メートル。山の周囲は千島
公園(ちしまこうえん)として整備されている。
大正区千島の一帯には大正時代に貯木場や製材工場が建設され、木材工業の街を形成
していた。しかし地盤沈下の影響で貯木場の機能が低下したこともあり、貯木場や製材工
場は1960年代に住吉区(現・住之江区)平林に移転した。大阪市は1969年、貯木場跡地に
「港の見える丘」として人工山を中心とした公園を造成し、公園の周囲に公団住宅や官公庁
・公共施設を配置する「千島計画」を発表した。
大阪万博を控えて大阪市営地下鉄の路線整備が急速に進んでいたという建設当時の背景
から、地下鉄建設工事で出た残土約170万立方mを使用して山が建設された。1970年11月
30日に記念植樹式がおこなわれ、式典会場でこの山を「昭和山」と命名することが発表され
た。昭和山の名称は、昭和年間に建設された山ということに由来している。
その後山の周囲約11.2ヘクタールを整備し、1976年4月1日に千島公園が開園した。
昭和山は建設当時、大阪市では最も標高が高い場所となっていた。その後鶴見緑地内に
鶴見新山が建設されたことで、大阪市内最高峰は鶴見新山に譲り、昭和山は大阪市で2番
目に標高が高い場所となっている。
あの体操の金メダリスト、具志堅幸司氏の記念碑が・・・・
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阪神ドーム前駅へ向かう
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京セラドーム・・・今日はキスマイのコンサート?
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阪神ドーム前駅(ゴール・抽選会場)
3名ともハズレ・・・・本日のハイキング参加者は1248名だった

おまけは、我家のモミジ
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11月30日昼飲み会&ハイク西国5番札所葛井寺- 2

12月9日       11月30日の昼飲み会&ハイク西国5番札所葛井寺-2
                 近鉄駅フリーハイキング 約11㎞
此の日は、K場さん・M吉さん・S藤さん・M村さん・O村さんと私の6名、多人数で参加、
コース 近鉄駅フリーハイキング 河内国分駅10時~10時半 10:05集合
河内国分駅(受付・スタート)~土師ノ里駅前の鍋塚古墳~允恭天皇陵古墳~大水川
遊歩道~津堂城山古墳・八幡神社~産土神社~小山善光寺~雄略天皇陵古墳~藤
井寺駅へショートカット(辛国神社と葛井寺をやめて藤井寺駅から阿部野橋駅へ)
大阪阿倍野へ戻り、湯処あべの橋へ  居酒屋甘太郎へ その後2次会はジャンカラへ
此の日の私の万歩計は、22946歩で約16.9km歩いたことに・・・
此の日の私はJR高井田駅から歩いて近鉄河内国分駅のみんなの元へ向かう
高井田駅前
白坂神社
「宿奈川田(すくなかわた)神社」、主祭神は『宿奈彦根命・高 皇産霊命・級戸辺命』式内
社で日本最古の社の一つとされています。
中世には白坂大明神と称し、今地元では白坂神社と呼ばれているが、延喜式・神名帳、
河内国大縣郡宿奈川田神社の論社である。
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大和川を渡る
国豊橋から
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渡りきって
西町地蔵尊
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河内国分駅で知人と合流
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石川を渡り土師ノ里駅前へ向かう
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鍋塚古墳
4世紀末葉築造、古墳の形は方墳、墳丘一辺の長さ 63m、2段築成
出土したもの  円筒埴輪、家、衣蓋、盾、靭形といった形象埴輪
現状は一辺40m前後ですが、周辺の調査成果により一辺63mに復元することが
できます。仲姫命陵古墳外堤に食い込むような位置に築かれています。
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允恭天皇陵古墳(市野山古墳・いちのやまこふん)
市野山古墳
(いちのやまこふん、市野山古墳)は、大阪府藤井寺市にある前方後円墳。古市古墳
群を構成する古墳の1つ。宮内庁により「惠我長野北陵(えがのながののきたのみさ
さぎ)」として第19代允恭天皇の陵に治定されている。
出土した埴輪などから、築造年代は5世紀後半とされる。近くに国府八幡神社、唐櫃
山古墳、長持山古墳、衣縫塚古墳などがある。
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※允恭天皇
允恭天皇(いんぎょうてんのう、仁徳天皇64年? - 允恭天皇42年1月14日)は、第19代
天皇(在位:允恭天皇元年12月 - 同42年1月14日)。5世紀の天皇。雄朝津間稚子宿
禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(古事記)。中国の歴
史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。
仁徳天皇の第四皇子。母は葛城襲津彦の女・磐之媛命(いわのひめのみこと)であり、
履中天皇、反正天皇の同母弟である。皇后:忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ。
稚渟毛二派皇子の女) 第一皇子 木梨軽皇子(きなしのかるのみこ) 皇太子、第一皇
女 名形大娘皇女(ながたのおおいらつめのみこ)第二皇子 境黒彦皇子(さかいのくろ
ひこのみこ)、第三皇子 穴穂皇子(あなほのみこ、安康天皇)、第二皇女 軽大娘皇女
(かるのおおいらつめのみこ)、第四皇子 八釣白彦皇子(やつりのしらひこのみこ)
第五皇子 大泊瀬稚武皇子(おおはつせわかたけるのみこ、雄略天皇)、第三皇女 但
馬橘大娘皇女(たじまのたちばなのおおいらつめのみこ)、第四皇女 酒見皇女(さかみ
のひめみこ)

大水川遊歩道・・・大水川散策公園
藤井寺市のほぼ中央部を南から北へ流れる1級河川・大水川(おおずいがわ)の堤防
上にある散策公園で、大阪外環状線を境に、北は翠花堤苑(すいかていえん)、南は
彩花堤苑(さいかていえん)と命名しています。 延長約3,000mの緑道には、桜や色と
りどりの花を咲かせるバラ園、四季の移り変わりを感じさせる球根植物(スイセン・カ
ンナ・ヒガンバナ)、花をつけると数百mの白い帯となる雪柳など、四季おりおりにジョ
ギングやウォーキング、散策に訪れた人々の目を楽しませています。
津堂城山古墳へ向かう
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此処までは、
11月30日昼飲み会&ハイク西国5番札所葛井寺- 1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-12-09
此処では、続きの津堂城山古墳・八幡神社~の詳細を掲載します。
津堂城山古墳・八幡神社
津堂城山古墳(つどうしろやまこふん)
大阪府藤井寺市にある前方後円墳。古市古墳群を構成する古墳の1つ。宮内庁に
より「藤井寺陵墓参考地」(被葬候補者:第19代允恭天皇)として陵墓参考地に治定
されている。また国の史跡に指定されている。前方部は南東を向き、二重の周濠が
墳丘を囲んでいる。外側の周濠は宅地や田畑となっているが、これを含めると古墳
の全長は400m以上になる。これまでの発掘調査などから築造は4世紀後半とみら
れ、古市古墳群の中でも初期の古墳であり、誉田山古墳よりも先行する。室町時代
には古墳の地形を利用して小山城が築かれたため、墳丘の一部が掘削されている。
明治初期の天皇陵の治定作業では陵墓とされなかったが、1912年に神社に建立す
る石碑の材料とするため、後円部の墳丘から石板を発掘したことがきっかけで竪穴
式石室と巨大な長持形石棺が発見され、鏡や鏃などの副葬品が多数出土した。
そのため、後に「藤井寺陵墓参考地」に治定された。
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津堂八幡神社
沢田八幡神社、 古室(こむろ)八幡神社、土師里(はじのさと)八幡神社、 津堂八幡神社
の四社は江戸時代に誉田(こんだ)八幡宮(羽曳野市)の分霊 を勧請したものとされて
います。
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津堂城山古墳・八幡神社をあとに
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産土神社
室町時代に神宮寺として再建され、祭神を牛頭天王としていましたが、現在は産土神
社として素戔鳴命と櫛稲田姫を祀っています。本殿は一間社流造で、主要部分は創建
当時の状態をよく留めており、藤井寺市内で最古級の神社建築として貴重です。絵馬
も必見です。
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小山善光寺
天正年間まで城山古墳の後円部外側に接する善光寺屋敷にありましたが、織田信長に
よる河内攻めの戦火で焼失したため、現在地に再建されました。 長野善光寺の元祖と
いわれる伝説があり、寺に伝わる「善光寺参詣曼荼羅」からうかがうことができます。
本尊は長野善光寺と同じ一光三尊の阿弥陀如来像で毎年4月24日にご開帳されます。
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雄略天皇陵古墳へ向う
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雄略天皇陵古墳
雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年12月 - 雄略天皇23年8月7日)は、第21代
天皇(在位:安康天皇3年11月13日 - 雄略天皇23年8月7日)。大泊瀬幼武尊(おおは
つせわかたけるのみこと)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇
とも。また『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。その倭王
武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、熊本県玉
名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土
の金錯銘鉄剣銘を「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して、その証とす
る説が有力である。
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ショートカットして
藤井寺駅へ向う
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藤井寺駅 → 大阪阿部野橋駅
阿倍野キューズモール
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湯処・あべの橋温泉
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
    ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!  ほんまでっせ!
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居酒屋 甘太郎へ向かう
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甘太郎
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2次会はジャンカラで
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11月18日のおもろいやんカタシモワイン祭り2018-2

12月1日         11月18日のおもろいやんカタシモワイン祭り2018-2
                    近鉄駅フリーハイキング 約7㎞
此の日は、K場さん・O村さん・M村さん・I 田さんと私の5名でワイワイガヤガヤ歩いた
コース 近鉄駅フリーハイキング 安堂駅受付9時30分~11時  10時5分集合
安堂駅(受付)~大和川付替え記念公園~道明寺線第二溝橋~柏原黒田神社~柏原
舟ふなだまり跡~三田家住宅~柏原神社~オガタ通り商店街~鐸比古鐸比賈神社~
観音寺~清浄泉~石神社~カタシモワイナリー祭り会場~皆さんはゴールの安藤駅へ
私はJR柏原駅へ。此の日の私の万歩計は、17046歩で約12.6km歩いたことに・・・  
安堂駅(受付)で知人と合流、大和川付替え記念公園へ向かう
大和川付替え記念公園・中甚兵衛の像
大和川付替え工事
大和川は常に洪水の危険が付きまとい、古くは飛鳥、奈良時代から洪水の記録があり、
江戸時代になってからでも、元禄年間までの80年間で10数回もの洪水が河内平野を
襲っている。特に、1674年(延宝2年)から3年連続、計4回の洪水は未曾有の被害を
もたらし、その被害は河内平野だけでなく、大坂市中まで及んだという。
こうした被害をなくすため、1657年(明暦3年)ごろ、河内地域の農民から大和川を石
川との合流点から西に向け、直接、住吉、堺方面へ流す案を幕府に嘆願した。
この付け替え運動に中心的役割を果たしたのが、今米村(現東大阪市)の庄屋中甚兵
衛であった。これに対して付替え予定地に当たる村々は、激しく反対し、付替え反対の
嘆願を行い、河内を2分する様相であった。
幕府は、たびたび現地を検分、付替え以外の対策も検討され、河村瑞賢が下流の改
修工事を行った以降も洪水が続発し、抜本的な洪水対策にはならなかった。
このような事態を踏まえ、幕府は方向を転換、1703年(元禄16年)10月大和川の付
替え工事を正式に決定した。明暦3年の最初の嘆願から、付替え工事の決定まで、実
に約50年近くの歳月を要した。この工事にかかった費用は約7万7千両、工事従事者
延べ約286万人と言われる。費用のうち幕府は約3万7千両を負担したが、旧川筋の
新田開発の入札代金が約3万7千両で、幕府にとっては収支トントンの事業であった。
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道明寺線第二溝橋
柏原市上市2丁目の「第2溝橋」この溝橋のレンガ積みは、フランス積みで造られている。
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柏原黒田神社
柏原黒田神社(かしわらくろだじんじゃ)は、もとは塩殿神社と称し、塩土翁命を奉斎し
ていた。その創建年代は不詳。開運・交通安全の神として崇敬されたという。 昭和20
年(1945年)の戦禍で、社殿が甚だしく損傷。その後、復興が目指された。
その中で、北條鎮座の黒田神社、上市鎮座の春日神社の勧請と合祀が図られ、三社
の関係者が合議した。
昭和44年(1969年)6月、新社殿が竣工し、同年9月には両神社の御祭神を遷座合祀、
現社号に改称した。
御祭神は、塩土老翁の他、天御中主大神・天照大神・武甕槌神・経津主神・天児屋根
命・比売大神・八幡大神。
拝殿左手に石力不動尊が祀られ、他に、恵美須神社(事代主大神)がある。
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柏原舟ふなだまり跡へ向かう
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柏原舟ふなだまり跡
現在は児童公園になってる柏原舟ふなだまり跡地とその石碑
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柏原市の三田家住宅裏の船着場址
三田家住宅
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柏原神社
入口には注連柱、参道脇に「村社柏原神社」と記された社号標、参道途中に鳥居が
立ち、境内の途中に小川が流れ、神橋と石段参道があります。境内前面は旧大和川
の河床だったようで、この段差が河岸段丘跡なのだそうです。
参道左に境内社、神輿倉、右に神楽殿が配され、中央奥に社殿が建立され、その中
に本殿が安置されています。神輿倉の中には古い神輿が置かれていますが、現在は
担ぐこともなくなったそうです。
御祭神:宇迦之御魂神、境内社:若宮社
創建年月は不詳ですが、1700年頃に滋賀県の白髭神社からの勧請かと思われます。
この社の御祭神は宇迦之御魂神ですが、滋賀県・白髭神社の御祭神は猿田彦命で、
「大阪府全志」にこの社の由緒を「創建の年月は詳ならず。元、とある邸内に鎮座せし
を、明治十三年信徒の協議に依りて当所へ遷座。 無格社なりしも、泉北郡向井村の
村社若林神社「天照皇大神、表筒男命、中筒男命、底筒男命、息長帶比賣命」を合祀
するとともに村社に列し、更に志紀村の稲荷神社「倉稻魂命」を合祀。」とあるようです。
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水路沿いを
オガタ通り商店街へ向かう
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オガタ通り商店街
全長約800mに及ぶJR柏原駅と近鉄堅下駅を結ぶ通りにもなっている商店街です。
昭和26年設立の商店街で ワイングラスを逆さにした様な街灯のシェードが面白い。
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鐸比古鐸比賈神社へ向かう
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此処までは、
11月18日のおもろいやんカタシモワイン祭り2018-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
          https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-12-01
此処では、続きの鐸比古鐸比賈神社~の詳細を掲載します。
鐸比古鐸比賈神社
祭神は「鐸比古命」「鐸比売命」。 鐸比古命は垂仁天皇の子であり、「沼滞別命」「鐸石
別命」と同人とされる。 和気清麻呂の遠祖であり、鐸比古命を祭神とするのは日本全国
でもここと岡山県の和気神社のみとされている。
河内国大県郡(柏原市平野、大県地区)の氏神であり、背後にそびえる高尾山(標高:2
78m)を神体山・磐座としている。 神社縁起によると創建は成務天皇二十一年(151年)
とされるが、実際の年代は不明。
『河内名所図会』には、「鐸比古神社 (高尾神社・大県神社・高尾明神) 延喜式内、高尾
山の嶺にあり、今比賣春日御前という。傍に清泉あり」と記されている。 もともとは鐸比
古神社と鐸比賣神社は別々の神社であり、鐸比古神社は高尾山の山頂に祀られていた
が、中世には現在の地に遷されたといわれている。現在の社殿は江戸時代・元禄年間の
再建。
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観音寺へ向かう
溜池
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観音寺・ 智識寺跡
観音寺は、かってこの地にあった智識寺の法灯を継ぐと伝え、その縁起は後鳥羽院
(在位:1183~ 98年)の時、源頼朝が勅を奉じて、2寺を合わせて1ヵ寺としたという。
智識寺は奈良時代の創建で、7堂伽藍を備えた河内6大寺の1つで、聖武天皇や孝謙
(称徳)天皇の行幸、礼仏で知られる。聖武天皇は740年(天平元年)に行幸、当時とし
ては日本最大であった丈六の大仏を見た感動から東大寺大仏の造立発願の契機となっ
たいわれる。智識寺は1086年(応徳3年)の落雷のため倒壊、以後再建されることはな
かった。
観音寺にはこの智識寺の経机が所蔵されている。経机の制作年代は不明であるが奈良・
平安を通し、河内における大寺として知られた智識寺の唯一の遺品ともいえるだけに貴
重な物といえる。観音寺の麓にある石神社の境内に智識寺の東塔の礎石が残されてい
る。この心礎の柱穴の径は約1.2mあり、このことから、塔の高さはおよそ50mはあった
と推定されるとのことである。
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清浄泉(浄井戸)へ向かう
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清浄泉(浄井戸)
浄井戸(じょいど)とも呼ばれる湧水地です。石神社(いわじんじゃ)の東側にある井戸で、
生駒山地の岩盤を通って浄化された湧き水です。地元ではおいしい天然水として古くか
ら親しまれてきました(今は、あまり飲用には適しません)。弘法大師(空海)がこの井戸
を掘って、干ばつに苦しむ人たちを救ったという言い伝えがあります。
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石神社
知識寺東搭礎石有り
主祭神石姫皇女 - 宣化天皇の皇女、欽明天皇の皇后である。配祀神石長姫命、熊野権現
石神社は、柏原市太平寺地区の生駒山地南端に近い小高い丘陵の山腹に位置する。 麓
の境内に社務所が、高い石段を登ったところに社殿がある。日本三代実録には貞観9年
(867年)2月に官社に列せられたという記述があり、延喜式神名帳では小社に列している。
江戸時代に入ると太平寺村の氏神として信仰され、熊野権現社と称していた。かつて、この
辺りに「智識寺」と呼ばれる古代寺院があった。 聖武天皇、孝謙天皇が難波宮と平城宮を
往来する際にここを訪れ、礼拝例仏されたという。 智識寺には大きい廬舎那仏があり、これ
を見た聖武天皇が東大寺大仏造営を発願されたといわれている。 その後、智識寺は室町
時代ごろに廃れたとされる。
境内にある大きなクスノキは、周囲約6m・高さ約16m以上の大木で、樹齢700~800年と
推定されており、大阪府指定天然記念物となっている。
境内社務所横には、智識寺の東塔の礎石があり、大阪府の文化財に指定されている。礎
石の柱穴の直径が122cmあり、かつては神社の手洗い石として使用されていたようだが、
現在は柵で囲われている。
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カタシモワイナリー祭り会場
500円で赤か白ワインを試飲?高額すぎるが私は試しに赤ワインを・・・
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皆さんはゴールの安藤駅へ
私はJR柏原駅へ向かう

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11月16日の山田川駅~幻の大仏鉄道遺構散策-2

11月29日          11月16日の山田川駅~幻の大仏鉄道遺構散策-2
                   近鉄駅フリーハイキング 歩程約13㎞
此の日は、久し振りに参加のY田さん、何時ものK場さんM吉さんと私の4名で歩いた・・・
近鉄駅フリーハイキング 山田川駅受付9:30~11:00 10時集合 
山田川駅~藤原百川公墓~善修寺~木津川堤防道~和泉式部の墓~JR木津線ガード
~御霊神社~JR加茂線踏切~京大農場~大仏鉄道公園~大仏鉄道遺構・梶ヶ谷隧道・
赤橋~大仏鉄道公園(昼食)~梅谷観光案内所~大仏鉄道社章~松谷川隧道~タツタ
タワー(木津南配水池)~鹿川隧道~元正天皇陵~元明天皇陵~黒髪山トンネル跡(黒
髪橋)~黒髪山神社~聖武天皇陵~光明皇后陵~~大仏鉄道記念公園~称名寺~西
方寺~奈良観光案内所・JR奈良駅
迄、此の日は鹿川隧道を見た帰りに以前JRハイキングで知り合った方に出会い、帰り道
を寄り道して3つの天皇陵と黒髪橋を通るルートを案内して貰う事になって、此の日の私
の万歩計は、3万歩越えで34074歩となり約25.2km歩いたことに・・・疲れた!疲れた!
加茂駅~C57機関車の展示~.観音寺橋脚~.観音寺橋脚~鹿背山橋台~大仏戦廃線
レール 利用の橋は通らず、大仏鉄道公園・梶ヶ谷隧道以降の遺構を散策して来た・・・
志都美駅
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畝傍駅~八木西口駅で乗換
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山田川駅で知人と合流
藤原百川公の墓
公園のように遊具(滑り台)が有りますが、玉垣で囲まれ双丘(二つの円墳)の有る墓所。
藤原百川と夫人の藤原諸姉(藤原良継の娘) の墓とされています。
藤原百川(雄田麻呂)は、藤原式家の始祖・宇合の八男で、藤原鎌足の曾孫にあたる人
物です。宝亀元年(770)に称徳天皇没後、道鏡を追放して光仁天皇を擁立、山部親王
(後の桓武天皇)を皇太子に立て、藤原氏を復権させました。宝亀10年(779)7月、参議
中衛大将兼式部卿従三位の地位で没しました(47歳)
百川と夫人の墓所は、一時所在が分からなくなっていたが、明治27年に、伝承や江戸
時代の文献から当地に比定されました。
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※藤原式家(ふじわらしきけ)
藤原式家とは、右大臣藤原不比等の三男藤原宇合を祖とする家系。宇合が式部卿を
兼ねたことから式家と称した。
※祖の宇合は長屋王の変の後参議に昇進し、他の兄弟たちと共に聖武朝で政権を主導
したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により病没してしまう。さらに直後に大宰少弐に
左遷された宇合の長男広嗣は天平12年(740年)九州にて反乱を起こしたが、敗死してし
まった(藤原広嗣の乱)。この為孝謙 ~ 称徳朝にかけて、南家(豊成・仲麻呂)や北家
(永手)の後塵を拝する時期がしばらく続いた。
広嗣の弟である良継や百川は称徳天皇の後継に光仁天皇を擁立することに成功し、道
鏡・吉備真備に代わって政権の中枢に躍り出た。また、彼らはそれぞれ自分の娘(乙牟
漏・旅子)を皇太子山部親王(のちの桓武天皇)の妃とし後宮政策も行った。彼ら兄弟は
いずれも桓武天皇の即位を見ないまま亡くなったが、乙牟漏は皇后となり平城・嵯峨の
両天皇を、旅子は淳和天皇を産み、平安初期の式家繁栄の礎を築いた。桓武朝では式
家一族は重用され、宇合四男の田麻呂は右大臣ながら廟堂の首班を務め、三男清成の
子である種継は長岡京造営の事業を一任されるなどした。
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和泉式部の墓へ向かう
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善修寺・・・浄土宗のお寺
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和泉式部の墓へ向かう
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木津川堤防道
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和泉式部の墓
   「あらざらむ 此世の外の思い出に 今ひとたびの逢う事もがな」
この歌の詠み手は、平安時代の女流歌人で、木津で生まれ宮仕えの後、木津に戻って
余生を送ったと伝えられている和泉式部です。三十六歌仙のひとりで、一条天皇の中宮
彰子に紫式部らとともに仕え「和泉式部日記」・「和泉式部集」などの歌集を残し、恋多き
歌人といわれています。
和泉式部は幼少の頃より詩歌に親しみ、「和泉守橘道貞」という人物と結婚し、夫の官名
をとって「和泉式部」と呼ばれるようになったといわれています。その夫と離別した後、何
人かの人物と付き合いましたが、みな若くして亡くなってしまいます。その後、中宮彰子の
もとに仕えたことが縁となって、丹後守藤原保昌に嫁入りし、夫の地方への赴任について
いったそうです。和泉式部が美人であったかどうかはわかりませんが、多くの男性を引き
つける魅力を備えていたことは確かなようです。地方へ行った後の消息はよくわかってい
ないことから、お墓といわれるものは全国に多く存在し、それぞれ伝説が残されています。
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JR木津線ガード~御霊神社へ向う
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御霊神社
木津三社(ほかに岡田国神社、田中神社)の一つ御霊神社(ごりょう じんじゃ)は、木津川
河岸の南に位置している。「木津の御霊」ともいわれ木津郷の産土神として祀られてきた。
祭神は、天穂日命(あまのほひのみこと) 、天津彦根命(あまつひこねのみこと) 、活津彦
根命(いくつひこねのみこと)。アマテラスとスサノオの誓約(うけい)により生まれた男児の
うちの次男、三男、四男を祀る。
創建、変遷の詳細は不明。平安時代、876年、創建されたという。かつては、大路村(木
津川市)にあり、その後移転したという。江戸時代、1730年、現在の社殿が建立された。
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JR加茂線踏切
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木津駅前~大仏鉄道公園へ向かう
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京大農場前~大仏鉄道公園へ向かう
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大仏鉄道公園・・・2015年7月開園
京都府木津川市城山台に開園した「大仏鉄道公園」。明治期に9年間だけ開業し、幻の
鉄道とも言われる「大仏鉄道」(約10キロ)の代表的な遺構見学に好アクセスの公園と
なっており、大仏鉄道の遺構保存や研究を行っている「大仏鉄道研究会」も「貴重な遺
構の魅力を感じてほしい」と話している。
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大仏鉄道は、明治31年、当時の鉄道会社「関西鉄道」が、現在のJR加茂駅と奈良市の
「大仏駅」間を結んだ路線の愛称。翌年には奈良駅まで路線を延長し、東大寺の大仏拝
観などに名古屋方面などから多くの人が利用したという。
しかし、急坂を走るルートに敷かれた大仏鉄道は、明治40年に加茂駅から木津駅を経
て奈良駅に至る平坦(へいたん)な路線が開通したことなどから廃線となり、わずか9年
で営業を終えた。
大仏鉄道公園~梶ケ谷隧道へ向かう
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大仏鉄道遺構・梶ヶ谷隧道・赤橋
「赤橋」と「梶ケ谷隧道(ずいどう)」
赤橋は御影石とレンガを組み合わせて造り、レンガの積み方は長短のレンガを交互に
積むイギリス式。梶ケ谷隧道も御影石、レンガを用いており、レンガのアーチ部分が美
しく残っている。
この2つの遺構は、もともと城山台の開発に伴い撤去される予定だったが、地元住民や
同研究会などの要望もあり現地保存が決定。100年以上前の貴重な鉄道遺構が残さ
れることになった。

梶ケ谷隧道
大仏線築堤を造る際、農道や水路を通すために築堤下部に設けられた隧道です。
壁は煉瓦、側壁は御影石と豪華な作りです。アーチ部分の煉瓦は長手積み坑門は
イギリス積みで当時の技術の高さが良く分かります。保存状態は極めて良く、大仏
鉄道の代表的遺構の一つです。
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赤橋
御影石と煉瓦を組み合わせて造られています。長短の赤煉瓦を交互に積むイギリス
式です。大仏鉄道の遺構の中でも最も代表的なもので、今も現役で上を車道が通って
います。
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大仏鉄道公園へ戻り(昼食)
大仏鉄道社章モニュメントへ向かう
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梅谷観光案内所
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大仏鉄道社章モニュメント
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松谷川隧道
交差点下の畑地へ下ると松谷川トンネルの遺構が残っています。
松谷川トンネルの上が軌道跡で現在は市道44号線が走っています。
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鹿川隧道へ向かう
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此処までは、
11月16日の山田川駅~幻の大仏鉄道遺構散策-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
      https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-11-29
此処では、続きのタツタタワー(木津南配水池の給水塔)~の詳細を掲載します。
タツタタワー(木津南配水池の給水塔)
奈良との県境近く、京都府木津川市にある『木津南配水池』。重要なインフラである
「給水塔」ですが、外壁がレンガで螺旋状に階段が続いて…と、真っ先に「バベルの
塔」を連想させる不思議物件です。残念ながら建物の近くへは行けません。
此処の塀にも幻の大仏鉄道の由緒が描かれていました。
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※すぐ横には
タツタ電線(株)の「タツタテクニカルセンター」が有り、タツタタワー(木津南配水池の
給水塔)と混同する

鹿川隧道へ向かう
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鹿川隧道
奈良市内で唯一、当時の姿を今に伝える遺構。農業用水路のために造られた細い
トンネルです。現在も水路として利用されています。トンネルの上が大仏鉄道の軌
道跡で 、現在は市道44号線となっています。
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元の道路へ戻る
此処で以前JRハイキング出知り合った知人と出会いコースを変えることに・・・
コースを変えて案内して貰う事にした
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元正天皇陵~元明天皇陵
母と娘の陵墓が、近い位置に並んでいる
黒髪山にある第43代と第44代の天皇陵。被葬者は、文武天皇から聖武天皇へ皇位をつ
なぐために、相次いで皇位に即いた母と娘の女帝として知られる。いずれの陵も、自然丘
陵を利用して造られていて、その大きさは、元明天皇陵が東西約88m・南北約104m、元
正天皇陵が東西約104m・南北約120mとなっている。2つは近い位置に東西に並んでい
て、どちらも南側に拝所がある。なお、宮内庁管轄につき、内部の見学はできない。

元正天皇陵
元正天皇(げんしょうてんのう、680年(天武天皇9年) - 748年5月22日(天平20年4月
21日))は日本(奈良時代)の第44代天皇。女帝(在位:715年10月3日(霊亀元年9月
2日) - 724年3月3日(養老8年2月4日))。父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇
子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひたか)・日高、又は新家(にいのみ)。
和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみ
こと)である。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃
であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。
慶雲4年(707年)に文武天皇が崩御し、その遺児である首皇子(のちの聖武天皇)がま
だ幼かったため、母の阿閉皇女が即位、元明天皇となった。和銅3年(710年)、平城京
に遷都。和銅7年(714年)1月20日、二品氷高内親王に食封一千戸が与えられる。和
銅8年/霊亀元年(715年)1月10日に一品に昇叙。
霊亀元年9月2日、皇太子である甥の首皇子(聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇
から譲位を受け即位。「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には「天の縦せる寛仁、
沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」とあり「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美
しい」と記されている。歴代天皇の中で唯一、母から娘への皇位継承が行われた。これを
女系継承とする考えもあるが、父は草壁皇子であるため男系の血筋をひく女性皇族間の
皇位継承である。
養老元年(717年)から藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始める。
養老4年(720年)に、日本書紀が完成した。またこの年、藤原不比等が病に倒れ亡くなっ
た。翌年長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。長屋王は元正天皇のいと
こにあたり、また妹・吉備内親王の夫であった。不比等の長男・武智麻呂は中納言、次男・
房前は、未だ参議(その後内臣になる)であった。
養老7年(723年)、田地の不足を解消するために三世一身法が制定された。これにより
律令制は崩れ始めていく。
養老8年/神亀元年(724年)2月4日、皇太子(聖武天皇)に譲位した。譲位の詔では新帝
を「我子」と呼んで譲位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。
天平15年(743年)、聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」
と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を
発している。晩年期の上皇は、病気がちで政務が行えずに仏教信仰に傾きがちであった
聖武天皇に代わって、橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行していたと見られている。
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元明天皇陵
元明天皇(げんめいてんのう、661年(斉明天皇7年) - 721年12月29日(養老5年12月
7日))は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:707年8月18日(慶
雲4年7月17日) - 715年10月3日(和銅8年9月2日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)
阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ
(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。
天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇
は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文
天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天
皇の母。藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた
『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。
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黒髪橋へ向かう
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黒髪山トンネル跡(黒髪橋)
明治41年大仏鉄道が廃止されたその後も残っていましたが,昭和39年の道路拡張
に伴い、山を切り開きトンネルは取り壊されました。トンネル入口にあった関西鉄道
の社章は大阪の交通科学博物館(平成26年4月6日閉館)に保存されています。
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黒髪山神社・・・黒髪山伝説
本殿の横にこの神社の社史があり、黒髪山の名前の由来についても書いてあった。
垂仁天皇の皇后狭穂姫は、兄の狭穂彦王が謀反を起こした時に兄の陣営で皇子を
産んだ。皇子を天皇方に渡そうとするが、その時に捕まらないよう黒髪を切った。そし
てその黒髪を埋めた地がこの「黒髪山」であるという。
「史蹟奈保山西陵7ツ石」という看板があり、隣の建物の壁には「史蹟 黒髪山」の文
字と万葉集が一首書かれている。ここが黒髪山である。
「ぬば玉の 黒髪山の 山草に 小雨ふりしき しくしく 思ほゆ」  柿本人麻呂の作。
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聖武天皇陵・光明皇后陵
聖武天皇陵
聖武天皇(しょうむ てんのう) - 756年6月4日は、日本(奈良時代)の第45代天皇。文武
天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
文武天皇の第一皇子として生まれたが、慶雲4年6月15日(707年7月18日)に7歳で父
と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはなかった。物心が
ついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった。
このため、同年7月17日(707年8月18日、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇
女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇子の
元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚であ
る藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3
日)に文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになっ
た。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。
聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この
当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っ
ていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性がある
ため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后
に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自害、反対
勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は、長屋
王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原
四兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人
の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれ
か、または両人の血縁の者である。
天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死
するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛
うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。
乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京
へ遷都を行う。その後、約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京、
難波京、紫香楽京を経て平城京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられている。
詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の
乱を始め、先々で火災や大地震[4]など社会不安をもたらす要因に遭遇している。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13
年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔
を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の
反発が強く、最終的には平城京に復帰した。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、
国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕さ
れない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制
の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が
脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。
天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には
自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を
執ったともいわれる)。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。
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光明皇后陵
光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年) - 天平宝字4年6月7日(760年7月27日))
は、奈良時代の聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母
である藤原宮子は異母姉。諱は安宿媛(あすかべひめ)。通称に光明子(こうみょうし)、藤
三娘(とうさんじょう)。 正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう
こうたいごう)。皇族以外から立后する先例を開いた。
聖武天皇の皇太子時代に結婚し、養老2年(718年)、阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を
出産。神亀元年(724年)、夫の即位とともに後宮の位階である夫人号を得る。神亀4年(72
7年)、基王を生んだ。
神亀5年(728年)、皇太子に立てられた基王が夭折したため後継を争って長屋王の変が起
こるなど紛糾した。長屋王の変後、天平元年(729年)に皇后にするとの詔が発せられた。こ
れは王族以外から立后された初例である。以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。
娘である阿倍内親王の立太子、およびその後の孝謙天皇としての即位(天平勝宝元年(74
9年))後、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥の藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を
行った。天平勝宝8年(756年)、夫の聖武太上天皇が崩御。その2年後には皇太后号が贈ら
れた。天平宝字4年(760年)に崩御、佐保山東陵に葬られた。
光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。また貧し
い人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行った。
夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設され
た。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。
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Y田さんとは此処で別れ、Y田さんは近鉄奈良駅へ、我々4名は大仏鉄道記念公園へ・・・ 
大仏鉄道記念公園
大仏駅跡を記念する公園「大佛鐵道記念公園」です。機関車の動輪モニュメントと説明
碑があります。
【関西鉄道大仏駅について】
明治28年、草津・名古屋間を全通した関西鉄道は、柘植(つげ)から大阪方面への進出を
計り、2年後の30年11月に加茂まで開通した。ここから梅谷を経由して黒髪山トンネルを
下り31年4月、この地の北側法蓬の交番所の南あたりに大仏駅を設置した。この鉄道は
市民、観光客にも親しまれ大仏詣での人たちもこの駅で下車し、一条通りを通って東大
寺に参拝していた。奈良駅にはその年の12月到達したが乗り入れが実現したのは翌32
年5月であった。その後線路が木津経由に変更となり明治40年8月までの約9年間で廃
止された。昭和39年頃まではトンネルも残っていたが、現在は取り壊されて当時の面影
は今は見られない。 平成4年4月 奈良市(モニュメント横の碑文より)
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称名寺
称名寺は、南都興福寺の学僧であった専英、琳英の兄弟が、法相学を修めた後、弥陀本
願の法に触れ念佛の教えを乞うた京都西山三鈷寺の澄忍上人と力をあわせて建立した
常行念佛の道場を創始とし、その創建は、文永2年(1265・鎌倉時代)と伝えられる。
当初は興福寺の北に位置していた為、興北寺とも呼ばれていたが、室町時代に現在の地
に移転された。
開創以来興福寺の別院とし、四宗(浄土宗、法相宗、天台宗、律宗)兼学の寺として、毎年
八講が執行されていたが、明治7年(1874)の廃宗の令により興福寺を離れ現在に至って
いる。
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西方寺
西方寺(さいほうじ)は、近鉄奈良駅・JR奈良駅のいずれからも近い奈良のメインストリート
の一つ「大宮通り」沿いに建つ浄土宗の寺院です。
奈良時代の神亀年間(724年~729年)に大仏建立にも貢献した「行基菩薩」が現在のきた
まちエリアの北側にあたる「多聞山(佐保山)」にお寺を創建したことをその由来とするとされ
ています。しかしながら戦国時代になると有名な戦国武将である松永久秀が「多聞城」を築
城することになり、永禄二年(1559年)には現在の地に移転され、その後東大寺の勧進職に
就いていた「祐全上人」によって再興が図られることになったと言われています。
なお、このお寺は戦国期以降は「南都総墓所」とも呼ばれる存在となっており、浄土宗の寺
院であるにも関わらず、万人を救済するという理念のもと阿弥陀仏への信仰を有するすべて
の人々に開かれたお寺とされてきたという歴史も持っているほか、剣豪宮本武蔵がしばらく
滞在したというユニークな伝説も残されています。現在の本堂は焼失後、宝暦7年(1757年)
の再建となっています。
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知人とは此処で別れて、知人は近鉄新大宮駅へ
我々3名はJR奈良駅へ・・・
奈良観光案内所・奈良駅
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11月15日の馬見丘陵公園の皇帝ダリア

11月25日          11月15日の馬見丘陵公園の皇帝ダリア
                    急遽 皇帝ダリアを撮って来た
馬見丘陵公園の北エリアの北駐車場に車を置いて、皇帝ダリアのもとへ向かう
馬見花苑
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馬見花苑集いの丘を越えて
池部駅方面へ向かう橋の両側の皇帝ダリア
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大型テントの前から
集いの丘を越えて駐車場へ戻る
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皇帝ダリアの見頃に間に合った

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11月14日の秋の風を感じながら大阪城へ- 2

11月24日         11月14日(水) 秋の風を感じながら大阪城へ-2
                    近鉄駅フリーハイキング  約9㎞
此の日は知人と二人で参加、格好のハイキング日和、近鉄鶴橋駅東改札口で合流して
此の日の私の万歩計は、20290歩で約15km歩いたことに・・・
コース 近鉄ハイキング 鶴橋駅 東口受付 9時半~11時    10時集合
近鉄鶴橋駅東口(受付・スタート)~真田山公園~三光神社~玉造稲荷神社~大阪城~
難波宮跡(昼食休憩)~玉造稲荷神社分社~どんどろ大師(善福寺)~心眼寺~興徳寺
~真田丸顕彰碑~円珠庵(釜八幡)~産湯稲荷神社~JR鶴橋駅へ
志都美駅
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近鉄鶴橋駅東口(受付・スタート)
真田山公園の紅葉
真田山公園は、1939年(昭和14年)大日本帝国陸軍騎兵第4連隊跡地を整備して開園
した。1889年(明治22年)から1932年(昭和7年)の南河内郡金岡村移転まで、当地には
騎兵第4連隊の兵営が置かれていた。現在は大阪府立天王寺スポーツセンター(真田山
プール・アイススケート場)、大阪市立真田山野球場、真田山庭球場が設置されている。
公園周辺は、1614年の大坂冬の陣で真田信繁(幸村)が活躍した古戦場として知られ、
公園の北側には旧真田山陸軍墓地がある。
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三光神社
当神社は大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の松原
の遺称)と称したが、全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では三光神
社となった。創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ創
建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。
当神社は古来より日本全国で唯一の中風除の神として広く知られ毎年恒例の神事とし
て六月一日を祈願の初日と定め七日間往古より今に至るまで変わることなくとり行われ
全国各地からの参拝者が絶えない。
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真田の抜け穴
大坂城の出城のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城
(えんげつじょう)と名付ける塁を定め本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと
言い伝えられ今なおその跡を三光宮鎮座の階下にあり。
真田幸村の像
真田の抜け穴脇に真田幸村公の陣中指揮姿の銅像を建立(昭和62年5月5日)、
その台座に信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺より取り出した石(名付けて
真田石)が置かれている。
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玉造稲荷神社へ向う
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玉造稲荷神社
当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇
3年に改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣
を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたと
ころ、のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったといわれています。
その後、天正4年の兵乱により本・末社、旧記等ことごとく焼失しましたが、慶長8年に
豊臣秀頼公により社殿、高殿(舞台)が再建されました。大坂の陣で、当地は再び戦
地となり被害をうけましたが、元和5年に徳川幕府の大坂城代 内藤紀伊守を始め、
氏子・崇敬者の寄進を以って再建。別称は豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代
を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されたことが、史料に残っています。江戸時代に
は伊勢参りの出発点とされた。文久3年(1863年)11月の大坂大火(新町焼)で焼失
するが、1871年(明治4年)に再建。現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもの
で、一帯は古代、勾玉などを作っていた玉作部の居住地であったという伝承がある。
豊臣家奉納鳥居
慶長8年(1603年)、豊臣秀頼により社殿再建時に奉納された石鳥居。阪神・淡路大
震災により基礎に損傷を受け、現在は上部・脚部に分け、境内に置かれている。
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大阪城公園&豊国神社
大阪城公園
大坂城特別史跡地に所在する広大な歴史公園である。
公園内には樹木が多く植えられ、二の丸市正曲輪の梅林、北外曲輪の桃園、西
の丸庭園の桜など、花見シーズンには梅・桃・桜の名所となっている。また、杉山
地区は森林公園となっており、外濠の水辺に集まる野鳥を眺めて家族連れが憩
う姿も見られ、都会のオアシスとして市民から愛されている。

豊国神社(ほうこくじんじゃ)
豊國神社は、大阪府大阪市中央区大阪城に鎮座する神社。
京都府京都市東山区に鎮座する豊国神社の大阪別社として創建された。のちに京
都・豊国神社から独立して豊國神社に改称。京都・豊国神社が訓読み(とよくに)で、
豊臣秀吉のみを主祭神とするのに対して、当社は音読み(ほうこく)で、豊臣秀頼、豊
臣秀長も配祀する。
現在の鎮座地である大坂城二の丸は陸軍省の所管だったため、現在の大阪市北区
中之島においての創建となったが、のちに城内(現・大阪城公園)へ遷座された。
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天守閣前広場へ
大阪城(おおさかじょう)
大阪城は、安土桃山時代に摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に修築
された日本の城。現在の大阪府大阪市中央区大阪城に所在する。別称は錦城(き
んじょう。金城とも表記)。「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されている。
「太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもあるが、1583年(天正11年)か
ら1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣氏大坂城)の遺構は、
現在全て埋没している。現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元
和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川氏が実質的な新築に相当する修築を
施した大坂城(徳川氏大坂城)の遺構である。1959年(昭和34年)の大阪城総合学
術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府による
ものであることが確認された。
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極楽橋から御座船
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此処までは、
11月14日の秋の風を感じながら大阪城へ-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-11-24
此処では、続きの極楽橋を渡って京橋口へ向かう~の詳細を掲載します。
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大手門へ向かう
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大手門
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難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)の
上町台地の先端付近にあった古代宮殿。
前期難波宮
乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は652
年に完成した。天皇制の始まり、元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治
はこの宮でおこなわれた。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根で
あった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記さ
れており、ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であった。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が
没した後、655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。
683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都とした
が、686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
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玉造稲荷神社分社
現在、玉造稲荷神社分社の地は江戸時代に玉造を代表する町人である松屋甚四郎、そ
の手代源助が「浪花講」を設立した場所にあたる。甚四郎は唐弓弦師として全国を行商
した経験から、当時の旅は安全性が乏しく、旅人に安全で信頼のおける旅を提供しようと
この組織を設立した。
この「浪花講」は、現在の協定旅館・旅行斡旋業の祖とされ全国へと広がった。全国各地
の旅籠などの軒先には「大坂・浪花講」の看板が掲げられ、旅人らはそれを目印に安心な
宿をとる事が出来た。
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どんどろ大師(善福寺)
善福寺(ぜんぷくじ)は、高野山真言宗の寺院。「どんどろ大師」「どんどろ」と通称する。
山号は如意山。院号は甘露院。「どんどろ大師」の名で知られる。鏡如庵大師堂(きょう
にょあんだいしどう)は、宝暦2年(1752年)3月に高野山岩本院 法資法道が大坂夏の
陣(元和元年・1615年)の戦死者の霊を弔うために創建されたと言う。
鏡如庵とも称する。鏡如庵大師堂のあった付近は、大坂冬の陣(慶長19年・1614年)
では、真田幸村が真田丸を築き、激戦があった。大坂冬・夏の陣ともに激戦地であった。
どんどろ大師は浄瑠璃『傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)』に登場し、お弓とお鶴
の母子再会の舞台としても有名です。
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境内のミツマタ
冬になれば葉を落とす落葉性の低木であり、ジンチョウゲ科のミツマタ属に属する。中国
中南部・ヒマラヤ地方が原産地とされる。3月から4月ごろにかけて、三つ叉(また)に分
かれた枝の先に黄色い花を咲かせる。そのため、「ミツマタの花」は日本においては仲春
(啓蟄〔3月6日ごろ〕から清明の前日〔4月4日ごろ〕まで)の季語とされている。皮は和紙
の原料として用いられる。
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心眼寺・・・真田幸村・大助親子のゆかりの地に立つお寺
大阪城の出城である「真田丸」の跡地横に真田幸村・大助父子と深く関係するお寺があ
り、名前を心眼寺といいます。
1622年(元和8年)、大坂夏の陣から7年後に、白牟(はくむ)和尚が戦国武将真田幸村・
真田大助父子の冥福を祈るために建立されました。この白牟和尚は、真田家の祖先滋
野氏の一族だと言われています。
創建から寺の定紋は真田家の家紋である六文銭が使われ、山号は真田山と称します。
門には六文銭が付いています。
入口には「真田幸村出丸城跡」碑がありますが、最近の調査の結果で、出丸城で は無
かったことがわかりました。
境内に「従五位下真田左衛門佐豊臣信繁之墓」が2014年に新たに建立されており、そ
れによると、三日月の形をしていたことから偃月城とも呼ばれていたと書かれています。
真田丸は大坂冬の陣の講和条件により破却されました。
戦国時代とは関係ないが、江戸時代の幕末、坂本龍馬を暗殺したことで有名になった
京都見廻組の桂早之助と渡辺吉太郎のお墓もここにあります。
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興徳時
興徳寺(こうとくじ)は大阪府大阪市天王寺区餌差町にある 高野山真言宗 の仏教寺
院。天平年間(729年~749年)行基の開創。度々の兵火に火災を罹り、古記を失う。
天正年間(1573年~1592年)の頃、祐乗上人が再興。大正4年(1915年)6月1日の
火災で本堂・庫裏を失い、わずかに土蔵のみが残った。
昭和20年(1945年)の大阪大空襲では山門を残して全焼す。その後再興。
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真田丸顕彰碑(さなだまるけんしょうひ)
真田幸村(信繁)が大坂冬の陣の際に築いた砦「真田丸」があったとされる天王寺区
餌差町に「真田丸顕彰碑」が建立され、平成28年2月1日(月)に天王寺区役所主催
の除幕式が行われました。 碑に組み込まれた陶板には、大阪城天守閣所蔵の「大
坂三郷町絵図」と、「大坂冬夏 陣立図」のうち「冬の陣図」が載っています。
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円珠庵(釜八幡)
かつてこの場所には、古くから人々の信仰を集めていた大きな榎の霊木があり ました。
約400年前の大阪冬の陣の折、この地に陣所を構えた真田幸村がその話を聞き、慣習
にならってその木に「鎌八幡菩薩」と称して鎌を打ち込み祈祷したところ、大いに戦績を
上げることができたと言われて、これが鎌八幡の由来。
その後江戸時代初期、国文学者として著名な契沖が境内に居を構え、円珠庵と称して
研究と同時に信仰してきました。この頃からこの寺は必勝祈願の祈祷寺として信仰され
ています。 鎌八幡が悪縁切りとして有名になったのは昭和に入ってから。 大空襲で御
神木を始め境内の多くが失われたものの、見事な再生を遂げました。
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産湯稲荷神社
当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社となっている。
現地に掲げられていた社記によると「当地の開拓神である大小橋命(おおおばせのみこ
と)は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代(4世紀頃?)、ここ味原郷
に誕生した。その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」と
いう。 父は神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人兄弟の長男である」
としている。すなわち、大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣鎌足の先祖に当る人で
ある。 この誕生のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比売許曽神社の近くにある。
また、一説では生野区にある御勝山は大小橋命の墓であるとも言われ、この地には大
小橋命に関わる伝承は多い。
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JR鶴橋駅~天王寺駅
天王寺駅ホームからあべのハルカス
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11月11日の王寺町で明神山と達磨寺座禅体験-2

11月20日       11月11日の王寺町で明神山と達磨寺座禅体験-2
                 JRふれあいハイキング王寺町 10km
此の日は、知人と3名で10月に予約申込みしてあったJRふれあいハイキングに参加、10月に
阿倍野の近鉄ハイキングで知り合って御一緒した方とも偶然に再会する等、楽しいハイキング
となった。座禅でパンパンと肩を叩かれるのが何とも言えず好き!、此れがあるから明神山へ
の登頂にも耐えられる?勿論明神山のテラスからの眺めにも魅了されて登るのだが、やはり
達磨寺での座禅体験が出来るから何度も此処の参加する・・・
コース  JRふれあいハイキング  王寺町観光ボランティアガイドの会主催
王寺駅~孝霊天皇陵~畠田公園~明神山(昼食)~火幡(ほばた)神社~芦田池~達磨寺
(座禅体験)~王寺駅。王寺町ボランティアガイドの皆さんお世話になり有難う御座いました。 
此の日の私の万歩計は、22584歩で約16.7km歩いたことに、座禅では4回叩いて貰った・・・
志都美駅
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王寺駅で知人と合流、
受付を済ませて2班でスタート
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葛下川の堤防で
朝礼を済ませて孝霊天皇陵へ向かう
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孝霊天皇陵
孝霊天皇は日本の第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日-孝霊天皇76年2月8日)。
孝安天皇の皇子。母は皇后で天足彦国押人命の娘の押媛(忍鹿比売)。兄弟として
『古事記』では同母兄に大吉備諸進命の名が見える。26才で皇太子となる。
父帝が崩御した年の12月、黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に都を移す。其れま
での山裾にあった宮と異なり大和盆地の中央に位置する。翌年の1月に即位。即位
2年、磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命を皇后とし、彦国牽尊(後の孝
元天皇)を得た。また春日千乳早山香媛、倭国香媛らを妃にしている。倭国香媛との
間には崇神天皇の時代に四道将軍となった彦五十狭芹彦命、疫病や反乱を収めるの
に重要な役割を果たした倭迹迹日百襲姫命を得た。即位76年、128才で崩御。 『日本
書紀』・『古事記』ともほぼ系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。
『古事記』には大吉備津日子命と若建吉備津日子命による吉備平定が簡潔に書かれ
ている。此れが後の桃太郎伝説になる。
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王寺ニュータウン?へ向かう
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王寺ニュータウンを畠田公園へ向かう
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畠田公園で小休止
「雪丸弁当」500円予約者に弁当配布
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明神山水神社参道へ
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明神山山頂水神社の大鳥居
此処から山頂の水神社迄1800m
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ようやく山頂迄1000mの所迄来た
お子様連れのご家族での参加者も・・・
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山頂迄400~500m地点に
開けた所が有り亀の瀬の地滑り対策場所が見える
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此処までは、
11月11日の王寺町で明神山と達磨寺座禅体験-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。  
         https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-11-20
此処では、続きのもうすぐ山頂、水神社の・・・・~の詳細を掲載します。
もうすぐ山頂、水神社の鳥居が見える
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水神社
水神社の鎮座地である明神山の山頂は、江戸時代には大日霊女尊(おおひる
め:天照大神)を祀る送迎太神宮が建てられていました。
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明神山山頂に展望テラスが3ケ所あり眺望がすばらしい
この日は霞んでいて良く見えなかったが奈良側大阪側が見える(昼食休憩)
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火幡神社へ向う
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火幡(ほばた)神社
現在の祭神は次の5柱・天児屋根命・息長帯比売命・誉田別命・玉依姫命・天照皇大
神。延長5年(927年)成立の延喜式神名帳における祭神の記載は1座であり、祭神
の比定としては次の記述がある・火之戸幡之神(特選神名牒)・火之戸幡姫命(神名
帳考証)・火之戸幡姫(火幡神社志)、このことから、創建当初の祭神は火之戸幡姫
命であろうと推測される。
社伝によると、大同元年(806年)に創建されたという。新抄格勅符抄によると創建と
同年に神封二十戸が寄進されていることから、創建自体は更に遡ると考えられる。
延喜式神名帳では名神大社に列し、月次・新嘗の奉幣に預ると記されている。江戸
時代は八幡宮と称していた。明治6年(1874年)村社に列格した。
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芦田池へ向かう
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芦田池
片岡山の南側のすそ野、芦田池周辺の一帯は、昔から葦田といわれており、かつては
一帯に葦が繁茂していたため葦田原とも呼ばれていました。それが葦田の原と歌に詠
まれる歌名所となったのです。歌聖・柿本人麿も、「明日からは若菜つまむと片岡のあし
たの原はけふぞやくめる」と歌っています。
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達磨寺(座禅体験)
『日本書紀』によると、推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せって
いた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くな
りました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、
数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。
この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。
このように、聖徳太子と達磨大師の出会いからはじまった達磨寺には、今も本堂の下
に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があります。
これが、聖徳太子が飢人のためにつくったお墓、すなわち達磨大師の墓とされ、鎌倉時
代にその上にお堂が建てられて、本尊として道内に聖徳太子像と達磨大師像が安置さ
れました。
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王寺駅(解散)

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11月8日の天理稲田酒造への納会ウオーク下見-2

11月15日      11月8日の天理稲田酒造への納会ウオーク下見-2
               12月の納会ウオークのコース下見 約6km    
秋だと言うのに夏日にちかい最高気温24度の予報、夏の装備で歩くと丁度過ごし易い、
M吉さんK場さんに協力して貰って、歩こう会の12月度の納会ウオークのコース下見に
JR桜井線の長柄駅~天理教の茶飲み処迄の約5kmと其処から天理駅までの約1km
で合計約6kmを歩いて検証?して来た・・・
此の日の私の万歩計は、17492歩で約12.9km歩いた事に・・・
コース・・・雨天決行、但し雨天時は天理教教祖誕生殿の見学は無しに?する
JR長柄駅(受付・スタート)~500mで大和神社入り口~神社参拝後~270m先の鳥居
~国道169号~天理教教祖誕生殿~春日神社横~突当り左折~藤の棚前~サンエー
化研~浄国寺横~恵比寿神社・市座神社~丹波市跡~田中歯科角~国道25号~市文
化センター~2つ目の信号~天理教茶飲み処(昼食)~稲田酒造~天理駅(解散)
大和神社、天理教教祖誕生殿、天理教お茶飲み処、稲田酒造様に各々の12月18日の
お願いをして天理駅~奈良駅へ出て王寺駅経由で帰った。
集合場所・・・JR桜井線 長柄駅駅前広場
長柄駅で降りて、とても綺麗な駅だ
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大和神社へ向う
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大和神社(おおやまとじんじゃ)・・・良かったです
戦艦「大和」にも縁のある正一位の社。
大和一国の国御霊(くにみたま)を祀る神社で、今から約2000年前に創建された日本
最古の神社です。
御祭神は「日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)」、国土の守護神として、
天照大御神と共に宮中に祀られていた神様です。
しかし、崇神天皇5年に国中に疫病が流行り人民が死に絶える事態がおきます。
神様を人間と一緒に宮中に祀っているのが原因だとして、「天照大神」を皇女豊鍬入
姫命に勅して倭の笠縫の邑に、「大和大国魂神」を皇女渟名城入姫命に勅して、大市
の長岡岬に奉遷したのが大和神社の創祀と伝えられています。
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鳥居の外からは
本殿が見えない・・・
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天理教教祖誕生殿
天理教の教祖、中山みきは寛政10(1798)年4月18日に三昧田町(旧大和国山辺郡
三昧田村)で生まれました。
生家である前川家はこの地で代々庄屋を勤め、信心深い家柄でもありました。そのよ
うな家庭で生まれ育った教祖みきは、聡明で素直な優しい人柄だと、村でも評判の人
で、数え13才の時に三島町(旧同郡庄屋敷村)の中山家へ嫁ぎました。
生家は現在も、そのままの姿で残され、当時の面影を伺うことができます。
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藤の棚・・・松尾芭蕉の句碑
貞享4年(1687)10月、江戸を発って故郷伊賀上野で越年した芭蕉は、翌年3月、杜国
(万菊丸)を同道して、吉野の花見・高野詣・紀伊遊覧・大和の順遊を試み、4月、須磨
・明石を訪ねて、同月下旬、京に入った。
弟子を伴って此処を訪れた芭蕉は、藤の花を見て、「 草臥(くたび)れて宿かる比(ころ)
や藤の花」と詠み、その句碑が藤棚の下で、今も静かに四季を見つめています。
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丹波市跡
丹波市町の恵比寿神社・市座神社へ向う
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此処までは、
11月8日の天理稲田酒造への納会ウオーク下見-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
         https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-11-15
此処では、続きの丹波市跡~の詳細を掲載します。
丹波市跡・・・丹波の国から戎さんを勧請して市を開いたから丹波市?
なぜ丹波といったかは詳かではないが、古代の氏族に関係ないかと疑っている。大和
郡山市に美濃庄あり、丹後庄あり、和爾と櫟本には丹後という小字があるから、中世
の領主関係か併せ考うべきである。ここが中世末になって上街道に沿った市場として
発達して丹波市となった。丹波の国から戎さんを勧請して市を開いたから丹波市という
と一般にいわれているが、丹波の名は延久以前にさかのぼる。
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丹波市町の恵比寿神社・市座神社
参道の入口左側には丹波から遷されたという恵美須神社、また本殿の右側には妙見社が
あります。創祀は不明ですが、事代主命を祀り、今も丹波市の名にふさわしく市場の守
護神として尊崇されています。奧の境内は広く、一角には明治時代まで橋として使われ
ていた大きな石が立てかけられています。この石は緑色をしており、もともとは古墳に
収められた石棺の蓋でした。橋として近代まで転用されていただけあって、とても大き
なものです。今では面影がありませんが、近くには古墳がたくさんあったそうです。
この石もその中の一つの古墳で使われたものと考えられます。
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天理教のお茶飲み所へ向かう
銀杏並木が色付いてとても綺麗だが・・・
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天理教のお茶飲み所で昼食休憩
12月18日に団体で昼食休憩に使わせて貰うお願いをして稲田酒造様へ・・・
三島本通商店街へ
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稲田酒造・・・HPより
稲田酒造は明治10年から天理市で天理教会の御神酒として日本酒造りを始めました。
稲田酒造合名会社はJR・近鉄天理駅から東西に伸びる三島本通り商店街にある創業
130年余りの酒蔵です。 小さな蔵元ですが造り手、売り手、飲み手が一本の糸で
結ばれ、それぞれの顔が見える状況にあること、人と人との繋がりを大切にすること
をモットーに営業しております。
また昭和45年より造り酒屋のおいしい奈良漬けとして白瓜、きゅうり、スイカ、守
口大根、生姜等の奈良漬けを製造・販売させていただいております。
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天理本通
天理駅へ向かうアーケード商店街
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天理駅~奈良駅へ出て王寺経由で帰宅
おまけ
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11月4日の晩秋の上町台地散策と「四天王寺ワッソ」-2

11月11日      11月4日の晩秋の上町台地散策と「四天王寺ワッソ」-2 
                   近鉄ハイキング 9㎞
此の日は素晴らしいハイキング日和の中・K場さん・O村さん・I 田さん・久し振りに参加
の・Mちゃんと私の5名で歩く事に・・・
コース  近鉄駅フリーハイキング 大阪上本町駅地上コンコース 10時集合・スタート
大阪上本町駅~産湯稲荷神社~三光神社~玉造稲荷神社~大阪城公園~難波宮跡
「四天王寺ワッソ」~円珠庵~上本町駅迄のコースを少し変え、森ノ宮駅へ帰るに・・・
上本町駅~産湯稲荷神社~円珠庵(釜八幡)~興徳寺~真田丸顕彰碑~心眼寺~善
福寺(どんどろ大師)~三光神社~玉造稲荷神社~越中井~難波宮跡「四天王寺ワッソ」
会場で近鉄ハイキング粗品貰う~大阪城公園~難波宮跡「四天王寺ワッソ」~森ノ宮駅
難波宮跡「四天王寺ワッソ」会場で近鉄ハイキングの粗品を貰って大阪城公園へ行かず
に難波宮跡で昼食休憩、ワッソ巡行迄未だ未だ時間が有るのでコーヒータイムに茶店探
してNHK放送局と歴史博物館へ行ってみたが茶店は満席で待ち時間かかる様、難波宮
跡迄戻り解散?3名は森ノ宮駅方向へ戻り、Kやん(ワッソ初めて)と私はワッソ見物に・・・
足が棒になる迄?最後迄巡行を見て、此の日の私の万歩計は16319歩で約12kmに・・・
志都美駅
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上本町駅
産湯稲荷神社
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産湯稲荷神社の境内に「式内比売許曽神社御旅所」と「桃山跡」の石碑。
桃山というのはこの辺りの丘陵には明治の頃まで広大な桃林があったことに由来すると
いう。1919年(大正8年)に埋め立てられた味原池とともに景勝地として知られていた。
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産湯稲荷神社
当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社となっている。
現地に掲げられていた社記によると「当地の開拓神である大小橋命(おおおばせのみこ
と)は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代(4世紀頃?)、ここ味原郷
に誕生した。その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」と
いう。 父は神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人兄弟の長男である」
としている。すなわち、大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣鎌足の先祖に当る人で
ある。 この誕生のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比売許曽神社の近くにある。
また、一説では生野区にある御勝山は大小橋命の墓であるとも言われ、この地には大
小橋命に関わる伝承は多い。
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円珠庵(鎌八幡)
かつてこの場所には、古くから人々の信仰を集めていた大きな榎の霊木があり ました。
約400年前の大阪冬の陣の折、この地に陣所を構えた真田幸村がその話を聞き、慣習
にならってその木に「鎌八幡菩薩」と称して鎌を打ち込み祈祷したところ、大いに戦績を
上げることができたと言われて、これが鎌八幡の由来。
その後江戸時代初期、国文学者として著名な契沖が境内に居を構え、円珠庵と称して
研究と同時に信仰してきました。この頃からこの寺は必勝祈願の祈祷寺として信仰され
ています。 鎌八幡が悪縁切りとして有名になったのは昭和に入ってから。 大空襲で御
神木を始め境内の多くが失われたものの、見事な再生を遂げました。
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興徳寺
興徳寺(こうとくじ)は大阪府大阪市天王寺区餌差町にある 高野山真言宗 の仏教寺
院。天平年間(729年~749年)行基の開創。度々の兵火に火災を罹り、古記を失う。
天正年間(1573年~1592年)の頃、祐乗上人が再興。大正4年(1915年)6月1日の
火災で本堂・庫裏を失い、わずかに土蔵のみが残った。
昭和20年(1945年)の大阪大空襲では山門を残して全焼す。その後再興。
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真田丸顕彰碑(さなだまるけんしょうひ)
真田幸村(信繁)が大坂冬の陣の際に築いた砦「真田丸」があったとされる天王寺区
餌差町に「真田丸顕彰碑」が建立され、平成28年2月1日(月)に天王寺区役所主催
の除幕式が行われました。 碑に組み込まれた陶板には、大阪城天守閣所蔵の「大
坂三郷町絵図」と、「大坂冬夏 陣立図」のうち「冬の陣図」が載っています。
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心眼寺・・・真田幸村・大助親子のゆかりの地に立つお寺
大阪城の出城である「真田丸」の跡地横に真田幸村・大助父子と深く関係するお寺があ
り、名前を心眼寺といいます。
1622年(元和8年)、大坂夏の陣から7年後に、白牟(はくむ)和尚が戦国武将真田幸村・
真田大助父子の冥福を祈るために建立されました。この白牟和尚は、真田家の祖先滋
野氏の一族だと言われています。
創建から寺の定紋は真田家の家紋である六文銭が使われ、山号は真田山と称します。
門には六文銭が付いています。
入口には「真田幸村出丸城跡」碑がありますが、最近の調査の結果で、出丸城で は無
かったことがわかりました。
境内に「従五位下真田左衛門佐豊臣信繁之墓」が2014年に新たに建立されており、そ
れによると、三日月の形をしていたことから偃月城とも呼ばれていたと書かれています。
真田丸は大坂冬の陣の講和条件により破却されました。
戦国時代とは関係ないが、江戸時代の幕末、坂本龍馬を暗殺したことで有名になった
京都見廻組の桂早之助と渡辺吉太郎のお墓もここにあります。
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善福寺(どんどろ大師)
善福寺(ぜんぷくじ)は、高野山真言宗の寺院。「どんどろ大師」「どんどろ」と通称する。
山号は如意山。院号は甘露院。「どんどろ大師」の名で知られる。鏡如庵大師堂(きょう
にょあんだいしどう)は、宝暦2年(1752年)3月に高野山岩本院 法資法道が大坂夏の
陣(元和元年・1615年)の戦死者の霊を弔うために創建されたと言う。
鏡如庵とも称する。鏡如庵大師堂のあった付近は、大坂冬の陣(慶長19年・1614年)
では、真田幸村が真田丸を築き、激戦があった。大坂冬・夏の陣ともに激戦地であった。
どんどろ大師は浄瑠璃『傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)』に登場し、お弓とお鶴
の母子再会の舞台としても有名です。
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境内のミツマタ
冬になれば葉を落とす落葉性の低木であり、ジンチョウゲ科のミツマタ属に属する。中国
中南部・ヒマラヤ地方が原産地とされる。3月から4月ごろにかけて、三つ叉(また)に分
かれた枝の先に黄色い花を咲かせる。そのため、「ミツマタの花」は日本においては仲春
(啓蟄〔3月6日ごろ〕から清明の前日〔4月4日ごろ〕まで)の季語とされている。皮は和紙
の原料として用いられる。
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三光神社
当神社は大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の松原
の遺称)と称したが、全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では三光神
社となった。創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ創
建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。
当神社は古来より日本全国で唯一の中風除の神として広く知られ毎年恒例の神事とし
て六月一日を祈願の初日と定め七日間往古より今に至るまで変わることなくとり行われ
全国各地からの参拝者が絶えない。
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真田の抜け穴
大坂城の出城のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城
(えんげつじょう)と名付ける塁を定め本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと
言い伝えられ今なおその跡を三光宮鎮座の階下にあり。
真田幸村の像
真田の抜け穴脇に真田幸村公の陣中指揮姿の銅像を建立(昭和62年5月5日)、
その台座に信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺より取り出した石(名付けて
真田石)が置かれている。

玉造稲荷神社
当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇
3年に改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣
を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたと
ころ、のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったといわれています。
その後、天正4年の兵乱により本・末社、旧記等ことごとく焼失しましたが、慶長8年に
豊臣秀頼公により社殿、高殿(舞台)が再建されました。大坂の陣で、当地は再び戦
地となり被害をうけましたが、元和5年に徳川幕府の大坂城代 内藤紀伊守を始め、
氏子・崇敬者の寄進を以って再建。別称は豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代
を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されたことが、史料に残っています。江戸時代に
は伊勢参りの出発点とされた。文久3年(1863年)11月の大坂大火(新町焼)で焼失
するが、1871年(明治4年)に再建。現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもの
で、一帯は古代、勾玉などを作っていた玉作部の居住地であったという伝承がある。
豊臣家奉納鳥居
慶長8年(1603年)、豊臣秀頼により社殿再建時に奉納された石鳥居。阪神・淡路大
震災により基礎に損傷を受け、現在は上部・脚部に分け、境内に置かれている。
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越中井
豊臣時代の大名、細川越中守忠興(ほそかわえっちゅうのかみただおき)の屋敷が
ありました。越中井は細川家の台所跡に残る井戸だといわれています。
忠興の妻ガラシャは石田三成の軍勢に囲まれ、玉造のこの屋敷で最期を迎えました。
井戸は悲劇のシンボルになっています。
細川 ガラシャ(伽羅奢、迦羅奢)/ 明智 珠(明智 玉)(ほそかわ ガラシャ / あけち たま、
永禄6年(1563年) - 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は、戦国時代から安土桃山
時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱は「たま」(珠、玉)また
は玉子(たまこ)。キリスト教信徒(キリシタン)として有名。
明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも広
くこのように呼ばれる場合が多い。
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難波宮跡
難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)の
上町台地の先端付近にあった古代宮殿。
前期難波宮
乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は652
年に完成した。天皇制の始まり、元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治
はこの宮でおこなわれた。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根で
あった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記さ
れており、ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であった。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が
没した後、655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。
683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都とした
が、686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
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「四天王寺ワッソ」会場で近鉄ハイキング粗品貰う
難波宮跡で昼食休憩

午後からは、K場さんと二人で
難波宮跡「四天王寺ワッソ」会場
「四天王寺ワッソ」・・・ワッソは現代韓国語では「来た!」の意味?
古代のなにわを舞台に行われた、朝鮮半島や中国などの東アジア古代国家と日本の
交流の様子を「再現」した祭り。当時の東アジアからの使節に扮した参加者が、当時の
ものと推定される音楽と「ワッソ! ワッソ!」の掛け声とともに舟だんじりを曳き、巡行
する。これを古代日本人に扮した参加者が当時のものと推定される作法で出迎える。
関西をはじめ韓国の著名人も参加している。現在は関西財界を中心にNPO法人を創
設し、日韓だけではなく、東アジアの古代交流を再現する「大阪の祭り」として毎年11
月に開催されている。
祭りの際には日本国総理大臣・韓国大統領の双方から祝辞が届く?と言う世界唯一
のイベントとなっている。中学校の日韓歴史共通教材にも取り上げられる など広く認
知されるようになっている。
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レッドカーペット上のワッソ巡行を撮る
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此処までは、
11月4日の晩秋の上町台地散策と「四天王寺ワッソ」-1 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-11-11
此処では、続きのワッソ巡行の続き~の詳細を掲載します。
レッドカーペット上をワッソ巡行の続き
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おまけ
勝山通りのアメリカデイゴ
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