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5月14日の馬見丘陵公園散策-2

5月21日        5月14日の馬見丘陵公園散策-2
               息抜きになんじゃもんじゃを?
此の日は朝一番の眼科検診を終えて、馬見丘陵公園散策へ出かけてみた・・・
車で出かけたので、此の日の私の万歩計は5266歩で約3.1kmの公園散策でした。
公園館前の極楽鳥花
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なんじゃもんじゃは終わって
蛙がお出迎えの森のウッドデッキ通路へ
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上池が見える
此処のなんじゃもんじゃも終わって
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梅林の前を通り
倉塚古墳前~一本松古墳の間を下池へ
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下池のウッドデッキ通路を
菖蒲を見ながら
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此処までは、
5月14日の馬見丘陵公園散策-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-05-21
此処では、続きのカタビ古墳の古墳の丘へ~ の詳細を掲載します。
カタビ古墳群の古墳の丘へ
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下池の
ウッドデッキから亀を・・・
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未だ花の無い
花菖蒲園
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栗の花、紫蘭、シロバナ紫蘭
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バラ園
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バラ園から公園館へ向かう
台風で途中から折れたベニバナトチノキに花が咲いて
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シャリンバイ白い花
ツツジ
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公園館前で
最初に撮った極楽鳥花をもう一度撮った
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5月13日の道頓堀と名物商店街を歩く

5月20日          5月13日の道頓堀と名物商店街を歩く
                   近鉄ハイキング 歩程約5km 
此の日は、知人のK場さん・M吉さんと3名で参加、難波から道頓堀周辺を半日ウオーク、
昼食後直ぐ解散となり、此の日の私の万歩計は、15837歩で約9.5km歩いたことに・・・
コース     大阪難波駅西改札口受付  10時16分
大阪難波駅(西改札口受付)~道頓堀川~浮庭橋~道頓堀リバーウオーク~安井道頓
道卜紀功碑~黒門市場~千日前・道具屋筋~法善寺~七宝山大福院三津寺~御津八
幡宮~御津公園(アメリカ村三角公園)~リバープレイス前(昼食)~JR難波駅
大阪難波駅西改札口受付
道頓堀川~浮庭橋へ向かう
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浮庭橋から
浮庭橋(うきにわばし)は、大阪府大阪市の道頓堀川に架かる人道橋である。
北岸は若者向けの店舗が並ぶ堀江、南岸は複合施設湊町リバープレイスやJR難波駅、
大阪シティエアターミナルがある。
デザインコンペにより採用された「浮かぶはらっぱ」をコンセプトに設計されており、両岸
の主塔からケーブルワイヤで鋼床板を吊る構造になっている。橋上は芝生や植栽、橋
桁はツタにて緑化され、通行だけでなく憩いの場としても用いられている。
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道頓堀リバーウオーク
大阪・ミナミの真ん中に流れる道頓堀川は、1615年に完成・大阪を代表する河川であ
り都心に残された貴重な水辺空間である。道頓堀川水辺整備事業で両岸に整備された
遊歩道で、西日本随一の繁華街を川岸から眺める事が出来、現在カフエテラスやイベ
ント等に利用され繁盛して来た歴史や伝統をまち造りに活かそうと取り組んでいる。
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安井道頓道卜紀功碑
道頓堀川は、1612年安井道頓が着手し、従兄弟の安井道卜らが1615年に完成させま
した。1914年に天皇が来阪時に両名の鉱石をたたえ従五位が贈られ、翌年道頓堀完
成300年を記念して地元の有志が道卜の屋敷が有った場所に建立されたと云われて
います。石碑は大阪城の石垣に使われる為に掘り出されたが実際には使われなかっ
た為に「残念石」と呼ばれています。
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黒門市場
堺筋から一つ東の筋を中心に、千日前通りの南側に展開しています。大阪において
は、東成区の鶴橋市場、豊中市の豊南市場などと並んで食の宝庫として知られてい
ます。年末には遠方からのお客様も来られ、今では、韓国、中国などの海外からもの
観光客で賑わっています。
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千日前
道具屋筋
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法善寺(ほうぜんじ)  「水掛不動尊 法善寺」
一日中線香の煙がただよい香がしみついています。そもそもは御供え物を持ち合わ
せていなかった参拝客が思わず水を掛けて手を合わせたのが始まりだと伝えられ、
「水かけ不動さん」の名で親しまれている不動明王は、商売繁盛、恋愛成就等、様々
な願いを込めて、お詣りの人がかける水で苔むしています。
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道頓堀をわたり
心斎橋筋商店街を三津寺へ向かう
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七宝山大福院三津寺(しっぽうさんだいふくいんみつてら)
真言宗御室派の順別格本山。摂津国八十八ケ所第二番霊場、大坂三十三観音札所
第三十番札所。七法山は、744年に行基菩薩が十一面観世音菩薩を安置した本堂を
創建した事で開山、本堂は徳川時代末期、1808年に再建された建物で、本尊は十一
面観世音菩薩で秘仏で有るが、本尊と同じ姿の石仏が山門を入った直ぐの所に祀ら
れており、「ミナミの観音さん」と親しまれています。
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御津八幡宮(みつはちまんぐう)
ミナミの繁華街を守る氏神様。縁起によると749年に手向山八幡宮が東大寺の守護
神として、宇佐八幡宮から勧請された折に神輿が此の地に上陸し一時三津の寺に安
置され後に御津八幡宮に改められたとなっています。
創始については諸説があり、明確な文献は有りませんが、古い歴史を有する神社で
有る事には間違い有りません。ただし、本殿・拝殿等すべてが1945年の大阪大空襲
で焼失し、1960年に再建されたものです。
ペットの健康を祈願する絵馬、縁結びをお願いするハート型の絵馬が有ります。
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御津公園(みつ公園)・・・通称「三角公園」
アメリカ村のランドマークで待合せのスポットでもあり、あめりか村の発展と共に
「三角公園」という呼び名で親しまれています。
近年では若手漫才師らが辺りを闊歩する若者達をお客さんに見立て無償で漫才
を披露するのが名物になってる様です。
リバープレイスへ向かう
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リバープレイス(昼食)~大阪難波駅・JR難波駅

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5月11日の奈良大和 四寺巡礼 長谷寺-2

5月15日         5月11日の奈良大和 四寺巡礼 長谷寺-2
               近鉄ハイキング 歩程約8km Kipsカード
此の日は知人のK場さん・I 田さん・O 村さん・S籐さんと5名で参加、天気良すぎて暑い
暑い一日でした。此の日の私の万歩計は、22000歩で約13.2km歩いたことに・・・
コース   桜井駅(9:30~10:00受付)→桜井中央公園へ 
桜井駅~650m~桜井中央公園(受付・スタート)~大和川(初瀬川)・仏教伝来之地碑・
大和川(初瀬川)沿い~脇本春日神社~白山神社~地蔵堂~十二柱神社~桜井市・出
雲~長谷寺~法起院~長谷寺駅(ゴール)
志都美駅
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大和川(初瀬川)・仏教伝来地
桜井市の三輪山の南麓に流れる初瀬川の畔に、「仏教伝来の地」の碑が立つ。
古代、この辺りには、「海石榴市(つばいち)」と呼ばれる、わが国最初の大きな市があっ
たという。山の辺の道をはじめ、いくつかの古道が交差する陸の交通の要衝であり、摂
津の難波津(なにわつ)から大和川(初瀬川)を遡行する、舟運の終着地でもあった。
ゆえに多くの物資が集まり、交易の中心として栄えた。
近くには欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)があったとされる。付近
一帯は、外国の使節が発着する水上交通の要所としても利用されるなど、外国からの
人、物、文化を迎え入れる玄関口だったようだ。
『日本書紀』によると、欽明天皇13(552)年(※)、百済(くだら)の聖明王の使者が、この
地に釈迦仏の金銅像や経典を献上したとあり、それをもって日本に仏教が伝来したとさ
れる。また、聖徳太子に優れた才能を見いだされた遣隋使の小野妹子が帰国したのも
この地。隋からの使者である裴世清(はいせいせい)も下客(しもべ)12人とともに降り立
ち、朝廷側は飾騎(かざりうま)を75匹用意し、盛大に迎えたそうだ。
※『上宮聖徳法王帝説』、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では538年と記されている。
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大和川(初瀬川)沿い
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脇本春日神社
脇本遺跡のほぼ中心に脇本地区のの鎮守、春日神社が鎮座しています。境内に立つ杉
の老大木がその歴史を物語っているようです。この神社は三輪山から南に延びた丘陵の
尾根を削り造成された事が今もその地形から明確に読み取れます。神社の境内には古
墳時代の土器片が散乱しており朝倉宮造営の時に削平された可能性もあります。祭神は
天児屋根命、太玉命、天宇受受命で拝殿の左奥に末社の稲荷社があります。創祀由緒
は不詳ですが春日造りの本殿は慶長8年(1603)に建立された三間春日造りで知られ県
指定文化財に指定されています。尚、この神社の前の道は旧伊勢街道です。
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ご参考までに境内の説明板より
春日神社本殿 (県指定文化財)三間社春日造で、身舎の側面は二間からなり、前面吹放
とし、後面梁行に三口の板扉を設けて身舎としている。身舎の正面と両側面には縁を付け、
背面両端柱には脇障子を取り付け、縁高欄を巡らしている。向拝には浜縁を設け、正面中
央一間に、五級の木階と登り高欄を取り付けている。屋根は桧皮葺である。本殿は組物・
虹梁など、細部の手法がすぐれた三間社春日造であり、棟木銘から慶長8年(1603年)の
建立であることが明らかで、貴重な建造物である。  桜井市教育委員会
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※脇本遺跡
脇本遺跡は奈良盆地の東南部に位置し三輪山と外鎌山(忍坂山)に挟まれた泊瀬谷の入
り口にあたる場所にあります。飛鳥に宮が移るまで三輪山の西南麓から香具山あたり一
帯は、大王(天皇)や皇后の宮が十三もあったと伝えられ大和王権の中心地域でした。
しかし伝承地は、ほとんど調査されることなく今日に至っているのですが、脇本遺跡に限っ
ては過去18次にわたる調査が橿原考古学研究所と桜井市教育委員会で行われ5世紀
後半、6世紀後半、7世紀後半の大型建物跡などが発見されています。
5世紀のものについては→雄略天皇の泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)跡 ,6世紀に
ついては→欽明朝の行宮の泊瀬列城宮(はつせなみきのみや)跡 、7世紀のものについ
ては→大伯皇女の斎宮跡の可能性が指摘されてきました。この地は、すぐ近くには王権
の武器庫があったと言われる忍阪や軍事氏族の大伴氏の本拠地もあり、水陸の交通の
要所としても大和と東国を結ぶ重要な位置にあります。5世紀後半にこの朝倉宮にいた
雄略天皇は万葉集巻1の巻頭歌でも知られる第21代の天皇(当時は大王と言う名前で
呼ばれた)です。

白山神社
万葉集発祥の地!桜井市の白山神社
境内南東隅に万葉集がこの地から始まったことを讃える萬葉集発耀讃仰碑が建っています。
桜井市黒崎の「天の森」が、朝倉宮の地であろうとの説は、『大和志』や『日本書紀通証』など
で、述べられている。が立地的に見て、宮を営むのに適地ではない。保田興重郎氏は、この
白山神社付近をその候補地とし、雄略天皇の歌で始まる『万葉集』の発祥の地として、神社
境内に記念碑を建立したものである。・・・桜井市教育委員会の石碑より
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泊瀬朝倉宮跡(はせあさくらのみやあと)
朝倉宮跡は伝承としては3ヵ所あり、この脇本あたりは弥生時代古墳時代に至る遺物が出土
しており、古くから人々が生活していた地である。
第21代雄略天皇の宮跡である。万葉集には開巻第1の歌が有名である。脇本付近は近年発
掘調査があり建物遺構も出土している。
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地蔵堂・・・出雲の流れ地蔵(堂)という
「本尊は室町時代末の地蔵菩薩で、上半身だけを地上に出し、腰から下は地下に埋まって
いる風変わりな地蔵さんとして有名である。
文化8年1811年)の大洪水で、初瀬川上(長谷寺の桜の馬場)から現在地まで流されてきた
のを当時の出雲村の人たちが助けてまつった、と語り継がれている。
本かわらぶき宝形造りの立派な堂前に建つ石燈籠に、天保11年(1840年)の年号が刻ま
れている。」・・・・(地蔵菩薩前の掲示板から)
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此処までは、
5月11日の奈良大和 四寺巡礼 長谷寺-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-05-15
此処では、続きの十二柱神社~ の詳細についてを掲載致します。
十二柱神社(じゅうにはしらじんじゃ)
神社境内には野見宿彌の顕彰碑や五輪塔が建てられている。また神社参道の石段を登っ
た所にある狛犬の台座には珍しい相撲取りの人形が見られ、片方4人ずつで大きな狛犬を
支えている。
神代の七神とその後の地神五神を祭神とする。垂仁天皇のころ、当麻蹴速と相撲を取り、
勝者となった野見宿彌の五輪塔が移されている。
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野見宿禰顕彰会の立て札
十二柱神社は「出雲ムラ」の村社。
大昔は、神殿がなく、「ダンノダイラ」(三輪山の東方1700メートルの嶺の上にあった古代 の
出雲集落地)の磐座を拝んだ。明治の初めごろまで、年に一度、全村民が「ダンノダイラ」へ
登って、出雲の先祖を祀り偲んだ。一日中、相撲したり、食べたりした。・・・(出雲ムラ伝説)
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武烈天皇泊瀬列城宮伝承地
武烈天皇はヽ小泊瀬稚鷦鷯天皇とあり、仁徳天皇の大鷦鷯と対の名をもつ・これは、仁徳
の皇系が武烈天皇で絶えるため、仁徳を聖帝・武烈を暴君として描くのと同じ考え方であろ
う。武烈があまりの悪政非道な政治をしたから、仁徳の皇系は絶えたことを記紀では強調し
ているが、実際のところはわからない。壇場を柏瀬列城に設けたとあり、初瀬谷の中央、出
雲の地あたりかと考えられている。
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桜井市・出雲
長谷寺へと続く国道165号線に架かる歩道橋に、この場所が「桜井市出雲」であることが
示されています。出雲、この文字を見ると、自然と古代日本の姿が想い起されます。
出雲大社、上賀茂神社、それに大神神社。
それぞれの国における一之宮に、出雲の地名が残されています。なんとも不思議なつな
がりを感じます。昔の文献によれば、出雲国の大国主神の和魂を、大美和の三輪山に鎮
めたと記されています。
出雲といえば、出雲大社で有名で、一般的には今の島根県の東部を指す地名として知ら
れます。出雲は神様と関係の深い地名であることに間違いなく、桜井市出雲も、神の鎮座
する山として名高い三輪山の麓に位置しています。
出雲の地名由来ですが、島根県の出雲に端を発します。いわゆる国号地名です。
出雲の集落のほぼ真ん中に鎮座する十二柱神社。
昔は背の高い樹木や建物の柱に神様が降りて来ると信じられていました。神様の数を数
える単位として「柱」が使われます。
十二柱神社には、全部で12柱の神様が祀られています。
十二柱神社の境内には、大相撲にゆかりのある野見宿禰の五輪塔が建てられています。
野見宿禰の出自は出雲国です。山の辺の道の相撲神社に野見宿禰のお話が残されてい
ます、出雲と大和の文化交流・・・その歴史が垣間見えます。
桜井市出雲は出雲人形の生産地でもありました。
出雲人形とは、出雲の集落で昔から作られている素朴な人形で、そのルーツを埴輪に辿
ることができます。長谷寺や伊勢神宮へと続く伊勢街道の途上にあって、子どものお土産
として参詣客に人気があったようです。
出雲という地名は、三輪山南東のこの辺りだけではなく、他の近隣エリアにも残されており、
狭井神社で知られる狭井川の北方に、出雲屋敷という地名が伝承されています。さらに、
三輪山北西には、かつて出雲荘と呼ばれる荘園がありました。出雲荘は、現在の桜井市
大西・江包(えっつみ)の地に当たります。
大西地区北部には、今もなお”ヲナンジ”という子字名が残ります。このヲナンジですが、荘
園絵図には「大己貴(おおなむち)」と記されています。
大己貴といえば、大神神社の神様として有名な名前です。
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長谷寺へ向かう
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長谷寺
仁王門から本堂へ続く登廊が印象的。399段ある石段を登りながら、桜、牡丹、あじさい、
紅葉、寒牡丹など四季折々の花が楽しめる。本堂の舞台からは、門前町や与喜山の原生
林が一望できる。山号を「豊山」と称える。創建以来9度の罹災で焼失と復興を繰り返す。
現在の本堂は、西暦1650年に再建されたもので、平成16年10月に国宝に指定された。
真言宗豊山派の総本山として、 また西国三十三観音霊場第八番札所として、 全国に末
寺三千余ヶ寺、 檀信徒はおよ三百万人といわれ、四季を通じ「花の寺」としての多くの
人々の信仰をあつめている。
長谷寺(はせでら)は、奈良県桜井市初瀬にある真言宗豊山派総本山の寺。山号を豊山、
院号を神楽院と称する。本尊は十一面観音、開基(創立者)は僧の道明とされる。西国三
十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場として知られる。寺紋は
輪違い紋。
大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。初瀬山は牡丹の
名所であり、4月下旬〜5月上旬は150種類以上、7,000株と言われる牡丹が満開になり、
当寺は古くから「花の御寺」と称されている。また『枕草子』『源氏物語』『更級日記』など
多くの古典文学にも登場する。中でも『源氏物語』にある玉鬘の巻のエピソード中に登場
する二本(ふたもと)の杉は現在も境内に残っている。
大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊
院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の一つに数えられる。
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創建は奈良時代、8世紀前半と推定されるが、創建の詳しい時期や事情は不明である。
寺伝によれば、天武朝の朱鳥元年(686年)、僧の道明が初瀬山の西の丘(現在、本長
谷寺と呼ばれている場所)に三重塔を建立、続いて神亀4年(727年)、僧の徳道が東の
丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したというが、これらのことにつ
いては正史に見えず、伝承の域を出ない。
長谷寺は平安時代中期以降、観音霊場として貴族の信仰を集めた。

長谷寺は東大寺(華厳宗)の末寺であったが、平安時代中期には興福寺(法相宗)の
末寺となり、16世紀以降は覚鑁(興教大師)によって興され僧正頼瑜により成道した新
義真言宗の流れをくむ寺院となっている。天正16年(1588年)、豊臣秀吉により根来山
(根来寺)を追われた新義真言宗門徒が入山し、同派の僧正専誉により現在の真言宗
豊山派が大成された。近年は、子弟教育・僧侶(教師)の育成に力を入れており、学問
寺としての性格を強めている。
十一面観音を本尊とし「長谷寺」を名乗る寺院は鎌倉の長谷寺をはじめ日本各地に多く
240寺程存在する。他と区別するため「大和国長谷寺」「総本山長谷寺」等と呼称するこ
ともある。
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法起院へ向かう
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法起院
徳道上人は斉明天皇の御宇二年(西暦六五六年)、播麿の国矢田部の里で誕生なさい
ました。その容貌は気品に満ち、眼は真澄鏡(ますみかがみ)のように美しく清らかで、
髪の毛は 梳(くしけず)れば滴(したた)るように黒く艶やかに光り、深くたたえられた優雅
さと聡明さに里人達は目を見張ったそうです。
成長されるにしたがって読書を好み、手に筆を持つことを無上の楽しみとし、神童との噂
の中で 連日精進をお重ねになりました。
しかし、突然起こった不幸は上人の父を奪い、そして数年の後には母も 不帰の客となっ
たのです。仏の道を極めることこそ人間に生まれた最高の道であり、 亡き父母の菩提を
弔うことが今の自分にとっては、真実の報恩であろうと大悟徹底された上人は、当時我
が国随一の大名僧であった大和長谷寺の道明大徳との間に師弟の契りをお結びになり
ました。 約十年間の修行の後、智道兼備の名僧となられた上人は、大和の長谷寺、鎌
倉の長谷寺をはじめ諸国に四十九ヶ所の寺院を建立されました。
その中でも大和の長谷寺では本尊大観音を御造立されました。
前記の養老二年の春、突然の病のために仮死状態にあった上人は、夢の中で閻魔大
王にお会いになり、悩める人々を救う為に三十三ヶ所の観音菩薩の霊場を広めるよう
に委嘱され、そして三十三ヶ所の宝印を与えられて仮死状態から解放されました。
上人は三十三ヶ所の霊場を設けましたが、人々は上人を信用しなかったので、やむな
く宝印を摂津中山寺にお埋めになったと伝えられています。
二百七十年後の永延二年(西暦九八八年)に、花山法皇がこの宝印をお掘り出しにな
り、今日の三十三ヶ所を復興なさいました。
本堂の左側には、「上人御廟十三重石塔」があり、上人が晩年当院の松の木の上から
法起菩薩と化し去ったといわれ、当院の名前もそこからつけられました。
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長谷寺駅
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5月5日の平野の大念仏寺万部お練り-2

5月9日(令和元年)      5月5日の平野の大念仏寺万部お練り-2
                      JR平野駅~大念佛寺
5月1日に予定入れていたが雨だったので5日に延期し、知人のO村さん達4名と一緒
に行く事になった、JR平野駅出待ち合わせて大念佛寺へ歩いて約5分出到着した・・・
1日~5日迄、連日13時~万部お練りが開催される、との事だったので12:30頃到着
を目標にしてたので丁度良かった。奈良の当麻寺の練供養を思って時間設定したが、
思い切り当てが外れてしまいました、13時スタートに来ても十分観覧出来る様子・・・
まあー12:30仁到着したおかげで観覧出来た神事も有ったので早目にきて良かった。
大念佛寺
1127年、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子から夢
のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建したのが始まり。
平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門の最初の宗派で日本最
初の念仏道場といわれる。その後、火災などで荒廃するが、元禄期(1700年頃)に本山
として体裁が整い、現在に至る。融通念佛宗の総本山。

融通念仏とは
融通とは溶け合い和合することです。
砂とセメントと水は、それぞれその形も働きも異なりますが、この三者が溶け合って和合
すると強固なコンクリートになるのも融通です。
融通念仏は、念仏が相互に融通して大きな力となることをいいます。すなわち念仏を称
えることによって、人と人、人と物、物と物とのすべての関係の上に融通和合の世界を
自覚し、苦脳と迷いのこの世を喜びに満ち溢れ、悟りの智慧かがやく楽土(浄土)にする
ことをめざした教えです。
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宗祖良忍上人とは
良忍上人(聖應大師)は、延久四年(1072)尾州知多郡富田荘(現愛知県東海市富木島
町)に誕生、父はその地方一帯を治める領主で、名を藤原秦氏兵曹道武といい、母は
熱田神宮大宮司第二十四代、藤原秀範の息女でした。生まれつき美声の持ち主だっ
たところから、幼名を音徳丸と名づけられました。十二歳で比叡山に登り、良賀僧都の
もとで得度し、名を光乗坊良仁と与えられました。良忍と改名したのは大原へ隠棲して
後のことです。
比叡山での良忍上人は堂僧(堂守り)として修業する傍ら、天台の学問はもとより密教
や戒律の修法にも努めました。二十一歳ですでに多くの学侶(学問をする修行僧)を教
導する講主の職に任ぜられることになります。しかし学問の議論ばかりが先走り、真に
道を求める心が薄れていることを嘆いていた良忍上人には当時の比叡山は決して修
行に適した環境ではなくなっていました。伝教大師が強調された道心がゆるんでいた
のです。また時代は貴族社会に変わって武家政権に移行する動乱期にさしかかって
いました。一大仏教拠点たる比叡山にも時代変革に伴う世俗化の波が押し寄せてい
たのです。そうした中にあって心ある修行僧は本来の仏道を求めて別の地に移り棲む
ことがよく行われました。
二十三歳にして良忍上人は洛北大原に隠棲されることになります。大原は比叡山の別
所として、念仏聖や修行者が草庵を結んで一つの集落を形成していたところです。
大原での良忍上人は、世俗の営みを断ち偏に往生を願う純心な念仏行者であったこと、
一切経を披閲し堂舎、仏像を造立し多年修練したこと、一日六万遍の念仏を称えるかた
わら、法華経書写に励んだこと、睡眠時間をきりつめ、手足の指を燃やして仏と経に供
養したこと等が最も古い資料とされる「後拾遺往生伝」「三外往生記」等に見え、真摯な
念仏行者であり、法華経の修行僧であったことが窺えます。また「一切経を披閲し」とあ
るのは、大原来迎院に「如来蔵」という書庫を建て、仏教の典籍に親しまれたことを指し
ています。
かくて上人四十六歳の永久五年(1117)五月十五日 午の刻(正午)一心に念仏を称えて
いる中に阿弥陀仏が面り相好(お姿)を現じ、速疾往生といって、後の世を待たずに、現
世にだれもが速やかに智慧かがやき喜び溢れる幸せの世界に至る方法として融通念仏
の法門を授与されました。その授与された御文を「弥陀の妙偈」といい、融通念佛宗の教
えの要となるものです。
「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 是名他力往生 十界一念 融通
念仏 億百万遍 功徳円満」
告げ終わって更に大光明を放って、白い絹一枚を上人に授与されました。そこには今しが
た空中にお姿を現された仏、菩薩の尊像が描かれていました。中央に阿弥陀如来が立ち、
その周囲を十体の菩薩がとりかこむお姿で、ご本尊「十一尊天得如来」であります。
良忍上人は阿弥陀如来の示現をいただき、融通念仏の教えを深く領解したとはいえ、いま
だ民衆に念仏を勧める機縁の熟さないまま草庵に閑居しておられました。しかし上人の徳
は人づてに京の都に伝わっていました。ある時、鞍馬寺の多聞天王が威厳に満ちたお姿
を現して上人にいわれるには、 「あなたは先に仏さまから尊い融通念仏を授かったのに、
どうしてそれを人びとに勧めて苦しみの衆生を救済しないのか」 このお言葉によって布教
の時ようやく至ったことを知った良忍上人は、天治元年(1124)6月9日 はじめて市中に出
て念仏勧進を始められました。上人の名は朝廷に達し鳥羽上皇は宮中に上人を招いて皇
后や百官もろともに融通念仏会を修し、自ら日課百遍の念仏を誓約されました。その上、
上皇はご帰信のしるしに愛用の鏡を鉦に鋳かえて上人に授与されました。これを“鏡鉦”と
いい念仏勧進の道すがら鏡鉦を叩いて歩かれ代々大切に伝持されてきました。中祖法明
上人のとき、故あって“亀鉦”と改称され今に大念佛寺の宝物として伝わっています。

早目に来て観覧出来た神事?
途中から見たので何かはわからない?が神事には違いない・・・
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IMG_7629.JPG IMG_7637.JPG IMG_7641.JPG IMG_7643.JPG 万部お練り 「万部おねり」とは聖聚来迎会と阿弥陀経万部会が融合された融通念佛宗総本山大念 佛寺最大の伝統行事の通称名です。 聖聚来迎会は無量寿経の中の「その人、寿(いのち)が終わる時にあたって、私は極楽 浄土から二十五菩薩を従えて、その人を迎えに来るであろう」という阿弥陀仏の願いを具 体的に表現した儀式であり、貞和五年(1349)3月15日「観音様の蓮台に乗り、阿弥陀如 来のお導きに従って、生身のまま往生の本懐を遂げるまでの儀式を営んでみたい。聖聚 来迎の様相を実際にこの眼で見、また世の多くの人々にも見ていただきたいものだ」と中 祖法明上人自ら行者となり、臨終不退、一念往生、上品上生を遂げるまでの法明上人の 堅固な意思により始まったことを起源としています。 「阿弥陀経万部会」は江戸時代第四十九世尭海上人の頃、「阿弥陀経を一万部読誦して、 極楽往生と檀信徒の先祖供養」を願いとしてはじめられました。 平安時代の中頃から浄土信仰が盛んになります。 二十五菩薩とは 臨終の際に極楽浄土から阿弥陀如来とともに迎えに来る菩薩の一団です。 1・観世音菩薩 2・薬王菩薩 3・大勢至菩薩 4・薬上菩薩  5・普賢菩薩 6・陀羅尼菩薩 7・法自在王菩薩  8・白象王菩薩 9・虚空蔵菩薩 10・徳蔵菩薩 11・宝蔵菩薩 12・金蔵菩薩 13・光明王菩薩  14・山海恵菩薩  15・金剛蔵菩薩 16・華厳菩薩 17・日照王菩薩 18・衆宝王菩薩 19・月光王菩薩  20・三昧菩薩 21・獅子吼菩薩 22・大威徳菩薩 23・定自在王菩薩 24・大自在王菩薩 25・無辺身菩薩 万部お練りスタート IMG_7658.JPG IMG_7660.JPG IMG_7662.JPG IMG_7663.JPG IMG_7665.JPG IMG_7666.JPG IMG_7668.JPG IMG_7671.JPG IMG_7673.JPG 10番目迄 万部お練り途中ですが 此処までは、 5月5日の平野の大念仏寺万部お練り-1 として        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。       https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-05-09 此処では、続きの万部お練りの途中~  万部お練り 11番目から IMG_7675.JPG IMG_7677.JPG IMG_7678.JPG IMG_7679.JPG IMG_7681.JPG IMG_7682.JPG IMG_7683.JPG IMG_7684.JPG IMG_7687.JPG IMG_7688.JPG IMG_7692.JPG IMG_7693.JPG IMG_7695.JPG IMG_7696.JPG IMG_7697.JPG IMG_7700.JPG IMG_7702.JPG ※練供養の発祥は奈良当麻寺の練供養 中将姫さまは、宝亀6年3月14日、二十五菩薩のお迎えを受け、現身のまま、阿弥陀如来 さまの極楽浄土へ迎えられました。その故事に因んで行われるのが「聖衆来迎練供養会 式」です。 「聖衆来迎練供養会式」は、観音菩薩、勢至菩薩ら二十五菩薩が、現世に里帰りした中将 姫を迎えて、阿弥陀さまの待つ極楽へ導いていく様子を再現した儀式です。 1000年を越える伝統を持つこの行事は、我が国の「練供養(ねりくよう)」の発祥で、境内 は数多くの参詣者で埋め尽くされます。 JR1平野駅 煙でいぶされて身体も着衣も煙臭い・・・・ IMG_7709.JPG
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5月3日の平城宮跡天平文化の香りとともに-2

5月8日(令和元年)       5月3日の平城宮跡天平文化の香りとともにー2
                       近鉄駅フリーハイキング 歩程11㎞
此の日は、素晴らしいハイキング日和の中、知人の・I 田さん・M村さん・O村さんと4名で
参加した、西大寺駅前から平城宮跡迄奈良交通の無料シャトルバスが出ていたので先
ずは此れに乗車、約7分で朱雀門広場に到着、朱雀門広場での天平祭は大勢の人だか
りの輪の中で見る事が出来ず、パスして大極殿へ向かい、此処から後のコースを不退寺
をパスしてショートカットしたが・・・
此の日の私の万歩計は、25170歩で約15.1km歩いたことに・・・
コース  大和西大寺駅南出口  10時35分集合
大和西大寺駅(南出口・受付)~シャトルバス7分~平城宮跡朱雀門広場(天平祭会場)~
平城宮跡・南門復元工事・大極殿・遺構展示館前(昼食)~海龍王寺~春日社~法華寺前
~芸亭伝承地~佐保川堤~大仏鉄道記念公園~奈良県庁屋上~奈良公園・国立博物館
前~むくろじ大木前~奈良公園の藤~春日大社~十三鐘~興福寺・五重搭・中金堂・南円
堂前・額塚・北円堂前~近鉄奈良駅~JR奈良駅
平城宮跡朱雀門広場(天平祭会場)
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大極殿へ向かう
平城宮跡・南門復元工事
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大極殿
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遺構展示館へ向かう
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遺構展示館前(昼食)
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法華寺前へ向かう
海龍王寺
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春日社
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法華寺前へ向かう
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法華寺前~芸亭伝承地
芸亭伝承地
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佐保川堤を歩く
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大仏鉄道記念公園
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佐保川
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佐保川堤~奈良県庁へ向かう
此れは菖蒲(あやめ)だと思う
かきつばた(杜若)は浅い水辺に葉を伸ばし花を咲かせます。あやめ(菖蒲)は乾燥した
陸地に葉を伸ばし花を咲かせます。違いは明らかに咲いている場所で判断できます。
花だけを見た時は良く似ていて、違いを見分けるのが難しいかもしれません。その場
合の簡単な見分け方ですが、かきつばた(杜若)は花びらの中央が真っ白で、あやめ
(菖蒲)は花びらの中央に網目の模様があります。
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奈良県庁屋上
屋上から見る興福寺の五重搭
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此処までは、
5月3日の平城宮跡天平文化の香りとともに-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-05-08 
此処では、続きの奈良公園~ の詳細について掲載します。
奈良公園・国立博物館前~仏教美術資料研究センター
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むくろじ大木前~奈良公園の藤
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春日大社参道
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春日大社本殿へ向かう
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春日大社
砂ずりの藤
慶賀門を入った所の棚作りの藤で、5月初旬頃に花房が1m以上にも延び、 砂にすれ
るということからこの呼名があります。ノダフジの変種といわれます。
摂関近衛家からの献木と伝えられ、『春日権現験記』にも書かれている古い藤、 樹齢
700年以上といわれます。
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復路
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飛び火野の藤
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春日大社一の鳥居
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十三鐘(じゅうさんかね)のなんじゃもんじゃ
「十三鐘」=興福寺菩提院大御堂と言うのが正式名称
「十三鐘(じゅうさんがね)」と呼ばれる興福寺菩提院大御堂の正面には「伝説三作
石子詰之旧跡」と書かれた木標が立てられています。
この記されている伝説「三作石子詰」、すなわち「石子詰めの三作」とは、現在も「神
鹿」であり保護されている奈良の鹿が一層手厚く保護されていた昔、「三作」と呼ば
れる子どもが文鎮を鹿に当て、誤って鹿を死なせてしまい、鹿を死なせた者を死罪
とする掟を破ったことで穴に埋められたという悲劇の伝説です。江戸期、元禄時代
には近松門左衛門が三作伝説を題材に母親が弔いの鐘を鳴らすエピソードを盛り
込んだ浄瑠璃「十三鐘」を生み出すなど、奈良に留まらず古くから広く流布した伝説
・伝承として知られています。
ちなみに、埋められたとされる場所は木標の下ではなく、脇にある鹿よけの門を開け
興福寺菩提院に入った前庭に、三作を祀った実際の「塚」が設けられています。
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興福寺・五重搭
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中金堂
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興福寺の額塚
比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺などに見られる山号はよく知られるところで、奈良
の興福寺にも月輪山(がつりんざん)という山号が付けられていたようです。ところが
天平宝字8年の5月興福寺南大門の芝生に、あろうことか突然大きな穴が出来たそう
です。そこから洪水が噴出し、往来が困難になったと伝えられます。無風状態なのに
樹木が倒れたりしたこともあったようです。困り果てた興福寺山内でしたが、とある僧の
霊夢に「月の字は水に縁ある為なり」とお告げがありました。月輪は水に縁のあるもの
であるから、水が出る。つまりこれを取り下ろせば良いのではということになり、山号額
を取り外すことになりました。その後は無事に禍(わざわい)も収まり、その発端となっ
た山号額は茶臼山に埋められたという逸話です。
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南円堂前の変わり藤?
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北円堂前
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近鉄奈良駅~JR奈良駅
コーヒーケーキセット @600円
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4月29日の浅香山つつじ祭りと大和川-2

5月1日(令和元年)      4月29日の浅香山つつじ祭りと大和川-2
                     平成最後の近鉄ハイキング10㎞
此の日は花曇りで涼しくて歩くのに丁度良い天候、知人のO村さん・K場さん・I 田さん・
M村さん・M吉さんと6名で近鉄駅フリーハイキングに参加、ツツジが満開で見頃だった。
此の日の私の万歩計は、21587歩で約12.9km歩いたことに、昼飯抜きで疲れた!・・
初の試みでゴールの河内天美で外食する為、昼食抜きでゴール(13:30着)、疲れた・・
復路の「今池水みらいセンター(風の広場・虹の広場)」は通らずにショートカットした。
コース  布忍駅(9:30~11:00)受付・スタート   10:15集合
布忍駅(10:15)~布忍神社~長尾街道~船堂公園~華表神社~奥本公園~浅香山稲
荷神社~浅香山公園~浅香山緑道(旧浅香山浄水場)~大和川河川~河内天美駅 
志都美駅
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柏原駅で近鉄道明寺線に乗り換え
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布忍駅~
布忍神社前西除川
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布忍神社
主祭神は速須佐男之命(はやすさのおのみこと)。厄除け・病気平癒・交通安全の宮
として信仰されています。 言葉のアーティストであるイチハラヒロコ画伯の恋みくじは
若者の心もゲットするユニークなお告げで人気です。 江戸時代に布忍の風景を描い
た布忍八景絵馬は、西除川の歩道に設置された案内板でご覧いただけます。
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長尾街道を船堂公園へ
船堂公園
「自然の風致の再現」をめざし、山・野・池のエリアの3つのエリアから構成された公園
です。「山のエリア」には、公園のシンボルとして巨石を配して岩山を表現し、「野のエ
リア」には、広場を囲む様に緩やかな崗賀あり、「池のエリア」には、ため池を中心とし
た公園が整備されています。
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華表神社
北花田郷七村の惣社で、中世には東光山薬師寺と称する神宮寺の他、多聞院、東之
坊、明王院、威徳院、西之坊、乾坊、無量寿院の七坊があったとされています。しかし、
織田信長によって供料三百石が没収され、無量寿院のみとなり、その後、明治の神仏
分離で廃絶しています。現在、境内には本殿の他、拝殿及び弊殿(昭和55年再建)、
神門、参集殿、末社、元禄十六年銘の石鳥居が残されています。
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奥本公園へ向かう
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奥本公園
花の綺麗な公園
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浅香山稲荷神社
昔、大和川の付け替え工事は河口から上流に向かって進められるも、浅香山の掘り下
げに苦労した末、担当の姫路藩主が亡くなったことを「狐の祟り」と恐れた人々は、浅香
山稲荷を祀り直して狐の供養をした結果、夜中に狐が化けて難工事を助けたとの言伝
えが有ります。境内には、当時の奉行が寄進した石燈籠や手水鉢が残されています。
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浅香山公園へ向かう
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此処までは、
4月29日の浅香山つつじ祭りと大和川-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
      https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-05-01-2
此処では、続きの浅香山公園~ についての詳細を掲載します。
浅香山公園
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浅香山緑道&(旧浅香山浄水場)
2012年に整備された大和川に沿って広がる緑道で、「大阪みどりの百選」にも選ばれ
ています。 ゴールデンウイーク期間中の4月27日~5月6日には、隣接する浅香山浄
水場が解放され、「浅香山つつじ祭り」が開催されます。堺市の花木でもある樹齢80
年のつつじが咲き誇る様は一見の価値が有り、毎年此の時期を楽しみにしている人も
沢山います。出店ブースにはパネルの展示や花の即売会、クラフト教室なども行われ、
隣接する浅香山公園では露店が並び賑わいます。
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堺市水道事業発祥之地碑
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旧浄水場跡
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復路
大和川河川敷~河内天美へ向かう
大和川河川敷
大阪府内の大和川は、江戸時代に河内今米の庄屋・甚兵衛によって付け替えが行わ
れた川ですが、人工的に作られた川にも拘わらず、此の付近で大きく蛇行しています。
「浅香の千両曲り」と呼ばれ、さまざまな言伝えが有りますが、上町台地を避ける為と、
出来るだけ簡単で無駄のない工事が行えるように考慮されたとの説が有力です。
現在では立派な堤防となっている河川敷を歩き、当時の人々の熱意と努力を感じて
みるのも良いのでは・・・
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近鉄電車
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河内天美商店街
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4月26日の昼飲み会ハイキング(八幡屋公園)

4月30日          4月26日の昼飲み会ハイキング(八幡屋公園)
                   平成最後の昼飲み会&ハイキング
知人と4名で平成最後の昼飲み会ハイキングへ行き、昼飲み会を12時30分スタート
に設定、昼飲み会には新たに8名が加わり全12名で開催、2時海のカラオケも7名で
盛り上がりました。此の私の万歩計は、12083歩で約7.2km歩いたことに・・・
朝潮橋駅直ぐ 八幡屋公園  10時25分集合   最大1時間25分滞在可能

☆4月26日(金)昼飲み会12:30~14:30 居酒屋甘太郎 会費3000円 12名参加
          2次会のカラオケには7名が参加し大いに盛り上がりました・・・
志都美駅
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八幡屋公園・・・HPより
ユニークな外観のプールと体育館が公園と一体化。広大な芝生広場を囲み、体育館
とプール(冬季はアイススケート)と、身近にスポーツを楽しんでいただける総合公園
です。みどりに囲まれた広大な敷地には、遊具やウォーキングコースに、展望台など
子どもから大人まで遊べるスポットがいっぱいです。どなたでも季節を感じながら楽し
んでいただけます。
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先ず、体育館屋上?展望台に向ます
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排気搭?
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小高い丘の展望台(グリーンヒルズ)
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小高い丘の展望台(グリーンヒルズ)から
芝生広場の木々を挟んでプールの屋根と弁天町の高僧ビルが見える
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まるで円墳2つが繋がってる様だ
隣の小さな円墳?の丘から大きな丘を見上げる
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多目的広場へ降りて
ジンべーサメの滑り台と花壇
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次は
プールだ
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プール正面
エントランス
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朝潮橋駅
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昼飲み会の居酒屋
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2次会のカラオケへ

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4月23日の宝塚市JR福知山線廃線跡散策-2

4月26日         4月23日の宝塚市JR福知山線廃線跡散策-2
                   平成最後の歩こう会  8km
此の日は素晴らしいハイキング日和だったが、参加人数は77名と天候良い割には低調、
ソメイヨシノは終わり八重桜が満開、山々には白いウツギの花が咲き山が微笑んでる様
な風景と渓流が涼しげ、此の日の私の万歩計は、18597歩で約11.1km歩いたことに・・・
コース   JR西宮名塩駅  10時集合
JR西宮名塩駅~旧福知山線廃線跡入り口~新岩~トンネル~天狗岩・百畳岩・千人岩
~トンネル~桜の園(集合写真・昼食・解散)~JR武田尾駅へ
JR大阪駅 宝塚線丹波路快速 篠山口行き 9:20発 西宮名塩駅 9:50着(運賃500円)
志都美駅~新今宮駅~大阪駅へ
西宮名塩駅(受付・スタート)
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旧福知山線廃線跡入り口
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入り口~新岩~トンネル~天狗岩・百畳岩・千人岩~トンネル~桜の園(昼食)
入り口~新岩
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トンネル~天狗岩
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天狗岩~百畳岩
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千人岩~トンネル
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此処までは、
4月23日の宝塚市JR福知山線廃線跡散策-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-04-26
此処では、続きのトンネル~鉄橋~ の詳細についても掲載します。
トンネル~鉄橋
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桜の園(昼食)へ
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桜の園(昼食)
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JR武田尾駅へ
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武田尾稲荷神社
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駅が見えて来た
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JR武田尾駅
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おまけ
自宅へ戻って
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4月15日の藤原宮跡~おふさ観音~今井町

4月22日         4月15日の藤原宮跡~おふさ観音~今井町
                  5月度歩こう会 例会のコース下見 
此の日は歩こう会の世話人3名で5月度例会のコース下見(おふさ観音から藤原京へ)
へ行って来た、此の日の私の万歩計は、25394歩で約15.2km歩いたことに・・・
コース   大和八木駅集合  9:35~9:46
大和八木駅(集合・スタート)~耳成山~耳成山公園(トイレ)~山之坊山口神社~耳成
駅~八釣山地蔵尊~畝傍坐健土安神社~畝傍都多本神社~藤原宮跡資料室~藤原
宮跡(昼食)~醍醐池~おふさ観音~飛鳥川沿い~今井町・称念寺・春日神社・順明寺
・蓮妙寺・西光寺・河合酒造~八木西口駅
志都美駅
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香芝駅~近鉄下田駅へ
鹿島神社・・・平安末期の勧請伝承を持つ由緒ある鹿島神社。
河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母
が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。平治の乱で平清盛
に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく東国へ向かった。道中落武者狩り
に遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致
は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに
裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治
二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着
いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に
源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現
れてこう告げた。 「庚子の年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。長い年月が過ぎた。時に承安二
年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝
目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地
こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主と
して長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、
源氏の世が到来する。又、香芝市の市名由来は冠雪的に鹿島神社とされている。
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近鉄下田駅
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大和八木駅(集合・スタート)・・・スタンプ貰って
耳成山・耳成山公園(トイレ)
耳成山(みみなしやま)
耳成山は、奈良盆地の南部に位置する奈良県橿原市にある山。山の標高は139.6m
だが、山頂にある三角点の標高は139.2mで、天香久山、畝傍山とならんで大和三山
の一つをなし、最も北に位置する。歴史的風土特別保存地区と国の名勝に指定され
ている。この山は第三紀に噴出した火山岩が侵食されてその一部のみが残存した侵
食地形である。瀬戸内火山帯に属する独立峰であり、安山岩より形成される。
天然の山ではなく、古代に造営された上円下方墳との説がある。大和三山が二等辺
三角形をなし、かつその事実が古くより知られていた事、古事記や日本書紀において
古い時代の記述が無く、ようやく日本書紀において允恭天皇の時代以降に記述が見
られる事が根拠として提示される。その規模の大きさから全くのゼロから造営された
古墳でなく、既存の天然山を改造したという説もあり、火山と見られるのに噴火口が
無い事から、噴火口を埋めるなどの造成をした(その際に大和三山の山頂が二等辺
三角形をなすように調整された)とも考えられている(もちろん上述の通り、火山岩が
侵食された侵食地形というのが通説である)。かつては天神山とも呼ばれ天神山城
があったとされる。南麓の池は木原古池遺跡、北西には木原環濠がある。
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木原古池 万葉歌碑
耳成の 池し恨めし 我妹子が
  来つつ潜かば 水は涸れなむ (巻16-3788) 作者未詳
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山之坊山口神社へ向う
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山之坊山口神社
本社は昭和四十二年に創建された神社であり、これを主 張する説は存しない。それを論
社としてあげたのは、耳成山口神社 との関係からである。
本社は、その由緒として山之坊町の氏神は古く耳成山上に奉祀されていたが 徳川の中
期享保年間境界訴訟の結果耳成山が木原町の 領地と定められた当町の宮司佐伯丹後
守が神霊を奉じ て下山、その子孫の宅に奉仕して今日に至る。と登記明細帳に記してを
り、享保と寛延と時代は前後する が、耳成山口神社が目原坐高御魂神社とした場合には、
本来の耳成 山口神社が山の上に移り、本来の目原坐高御魂神社は現在の 山之坊山口
神社に連なる。
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耳成駅~八釣山地蔵尊へ向かう
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八釣山地蔵尊
興福寺(八釣山地蔵尊)(こうふくじ やつりやまじぞうぞん)
585年に、物部守屋(もののべのもりや)が仏法を嫌い、飛鳥の「橘寺」(たちばなでら)に
火を放って焼いたとき、金堂に安置してあった地蔵菩薩が、火から香具山(かぐやま)の
頂上に逃れて行き、それを知った聖徳太子が香具山の山麓に寺を建立して地蔵を祀っ
たと言われています。また、聖徳太子が夢のお告げで御体顕されたいう御夢想の名灸
があり、リュウマチや神経痛などに良く効くそうです。「八釣」の地名は、中世まで「やと
り」と呼んでいたことが文献に残っているとされています。この「やとり」は古代の職業名
の漢織(あやはとり)を簡略したものだという説があります。香久山の南北に「八釣」と呼
ぶ地域があり、朝廷の衣裳を縫っていた人々が住んでいたことがわかっており、この地
域の北を「下八釣」と呼んでいたとのことです。・・・ (「かしはら町名考」より)
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畝傍坐健土安神社(うねおにますたけはにやすじんじゃ)
『日本書紀』神武天皇即位前紀己未年二月二十日の条に「天皇、前年の秋九月を以て、
潜に天香山の埴土を取りて、八十平瓮を造りて、躬自ら斎戒して諸神を祭りたまふ。遂
に区宇を安定むること得たまふ。故、土を取りし処を号けて、埴土と白ふ」という埴安の
地に祀られた土霊が当社であるという。
『大和志』では「今称天照大神」とあり、近世に天照大神社と称していた。
祭神は、伊邪那美が火の神の迦具土命を産んで陰部に火傷を負い、亡くなった。この
時に、尿や糞、嘔吐物から新たな神々を産んだ。その糞から産まれた神が祭神の健土
安比売命である。
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※迦具土命
カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎは
やをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのか
み;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほ
むすび)と表記される。

畝傍都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)
祭神は、泣沢女神(なきさわめのかみ)、泣沢という井戸があり、その井戸が御神体として
祀られている。畝尾都多本神社は、「哭澤の神社」(なきさわのもり)とも言います。祭神の
哭澤女神(なきさわめのかみ)は、「古事記」によると国生みの最後の段階で、伊邪那美神
(いざなみのかみ)が火の神である火之迦具土神(ひのかぐちのかみ)を生み亡くなったの
を、父の伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が悲しんで泣いた涙から生まれた女神だと言われ
ています。神殿はなく玉垣で囲んだ空井戸をご神体とし、境内には末社の八幡(はちまん)
神社が鎮座しています。
桧隈女王(ひのくまのおおきみ)が、「哭澤の 神社(もり)に神酒据(みわす)ゑ 祈れども
我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ」と詠んだと言われる万葉歌碑が境内にあります。
創建は不明だが、『万葉集』巻第二の二〇二に、哭沢の神社に神酒すゑいのれどもわご
玉は高日知らぬ(泣沢神社の女神に神酒を捧げて薨じられた皇子の延命を祈っているの
に、皇子はついに天を治めになってしまわれた。)その左注に、「右一首、類聚歌林に曰は
桧隈女王の泣沢女神を怨むる歌といへり。日本紀を案ふるに云はく、十年丙申(696)の秋
七月辛丑の朔の庚戌、後皇子命薨りましぬといへり」と記されている。これは、持統天皇
十年(696)に、松隈女王が再生の神に神酒を捧げ高市皇子の延命を祈ったのに、蘇るこ
となかったという、泣沢女神を恨む和歌である。この事から畝尾都多本神社は、飛鳥時代
には既に存在していると考えられる。延喜式内社の畝尾都多本神社と比定され、同じく式
内社の畝尾坐健土安神社が隣接して鎮座。奈良時代の正税を収納管理する役所「香山
正倉」の遺構が周辺から発掘されている。明治時代に社殿が再建された。
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境内社に八幡宮
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藤原宮跡資料室
裏庭にて・・・
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藤原宮跡へ向かう
池の土手へ上ると行けの向うに香久山が・・・
藤原宮跡(昼食)
天香久山
天香久山、天香具山(あまのかぐやま、あめのかぐやま)、
天香久山、天香具山、または香久山、香具山(かぐやま)は、奈良県橿原市にある山。畝
傍山、耳成山とともに大和三山と呼ばれる。標高は152.4mと三山の中では標高は2番目
である。他の二山が単独峰であることに比して多武峰から続く竜門山地の端にあたる。
歴史的風土特別保存地区[2]と国の名勝に指定されている。太古の時代には多武峰から
続く山裾の部分にあたり、その後の浸食作用で失われなかった残り部分といわれている。
山というよりは小高い丘の印象であるが、古代から「天」という尊称が付くほど三山のうち
最も神聖視された。天から山が2つに分かれて落ち、1つが伊予国(愛媛県)「天山(あめ
やま)」となり1つが大和国「天加具山」になったと『伊予国風土記』逸文に記されている。
また『阿波国風土記』逸文では「アマノモト(またはアマノリト)山」という大きな山が阿波国
(徳島県)に落ち、それが砕けて大和に降りつき天香具山と呼ばれたと記されている、と
される。藤原京の東にあることにより太陽信仰の地であったともいわれる。現在、山頂か
らは畝傍山を望むことができ、その山頂には國常立命を祭神とする國常立(くにとこたち)
神社があって、2つの小さな祠のうちの1つには高靇神が祀られている。山の北麓には櫛
真智命神(くしまちのみことのかみ)を祭神とする天香山(あまのかぐやま)神社、南麓に
は天照大神の岩戸隠れの伝承地とされる岩穴や巨石を神体とした天岩戸(あまのいわ
と)神社がある。
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藤原宮跡(昼食)
中国の都城にならい、日本で初めて建設された本格的都城。持統8(694)年遷都。平城
京遷都までの16年間、この地で持統、文武、元明の天皇三代が律令国家体制を強力に
押し進めた。藤原京の規模は東西5.3km、南北4.8kmで、その中心部には藤原宮があっ
た。天皇の住まいである内裏や、天皇が儀式や政治を行った大極殿跡が残る。最近の
調査研究によると、平城京や平安京を上回る規模だったとも考えられている。現在、宮
跡には原野が広がり、大極殿跡には基壇が残る。宮跡からは東に天香具山、西に畝傍
山、北に耳成山を望める。
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※藤原京
694年(持統8年)から710年(和銅3年)までの16年間、都城制を敷いた初めての都で、
日本で初めて国家体制が確立された大化の改新(645年)以後、その新しい国家の首
として造営された日本で最初の都市である。
史料には、持統天皇4年(690年)に着工し、4年後に飛鳥浄御原宮から宮を遷した、と
ある。それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例か
ら3代の天皇に続けて使用された宮となったことは大きな特徴としてあげられる。この
時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛
鳥浄御原(あすかきよみはら)令、さらに大宝律令で初めて敷いた重要な時期と重なっ
ている。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立
を宣するために必要だったと考えられ、この宮を中心に据え条坊を備えた最初の宮都
建設となった。
実際の建設は、その後の研究により、すでに676年(天武天皇5年)には開始され(これ
を倭京と呼ぶ)、宮都が完成したのは遷宮から10年も経った704年(慶雲元年)とも言
われ、着工から28年が経過したことになる。以来、宮には持統・文武・元明の三代にわ
たって居住したが、完成から4年後の708年(和銅元年)に元明天皇より遷都の勅が下
り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された。その翌年の711年(和銅4年)に、宮が焼
けたとされている(『扶桑略記』、藤原宮焼亡説参照)。
畝傍山
平成17年に名勝指定された大和三山(やまとさんざん)と呼ばれる香具山(かぐやま)・畝
傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)のうちの1つです。
標高199.2m。大和三山では一番高い山です。橿原市の中心部に位置します。周囲には、
橿原神宮や神武天皇陵など名所旧跡が点在しています。
瀬戸内火山帯に属する死火山で、噴火時はいまよりも2倍以上大きかったそうです。それ
が長い年月をかけて侵食され、現在のような形になりました。
地質は、花崗岩質の丘陵がのびてきた上に火山が噴出したもので、中腹以上は黒雲母
安山岩からなります。
畝傍山という名前は、田の畝のようにくねくねした尾根を多く持つところからつけられたそ
うです。「古事記」「日本書紀」「万葉集」では、「畝火山」「雲根火山」「宇禰縻夜摩」「慈明
寺山」「御峯山」「瑞山」と記されました。万葉集では、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
が大和三山のことを詠んだ歌があります。
「香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 古昔も 然に
あれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」

醍醐池  万葉歌碑
 春過ぎて 夏来るらし 白栲の
  衣干したり 天の香具山 (巻1-28) 持統天皇 
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おふさ観音
通称おふさ観音。正式名は高野山真言宗別格本山観音寺。通称名は、江戸時代に地
元の娘「おふさ」さんが、この地で観音様を奉りはじめたのが後にお寺に発展したとい
われています。本尊は十一面観音。大和七福神(信貴山朝護孫子寺、久米寺、長谷寺、
おふさ観音、談山神社、當麻寺中之坊、安倍文殊院)に大神神社が加わり、大和七福
神八宝霊場会を発足。
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※今年の春のバラまつり
開催日時2019年5月15日(水)~2019年6月30日(日)(07:00~16:30 ※開門は17:00迄)
境内を埋め尽くす4,000株、約3,800種類のバラを無料でお楽しみ頂けます。花の女王と
呼ばれる、バラの濃厚な香りと様々な花色が織り成すファンタジックな光景は、華やかな
感動を与えてくれます。また、本堂では寺宝を特別

飛鳥川沿いを今井町へ向かう
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今井町
・称念寺
称念寺は室町時代末期、今井町(重要伝統的建造物群保存地区)の中核となった寺院
です。中世期末の時代から、本願寺の証如上人 蓮如上人の末子実従、さらに顕如上人
らの高僧が投宿されています。また明治10年には明治天皇が投宿したおり、西南の役
の勃発をここ称念寺で知らされたと伝えられています。
このように称念寺は浄土真宗寺院の貴重な遺構であり、歴史上でも重要な役割を果たし
てまいりました。稱念寺は、浄土真宗本願寺派に属し、今井御坊とも南之御堂とも呼ば
れている。現在の今井町は、この寺の境内地を中心として発達した寺内町である。
寺の草創は室町末期の天文年間織田信長が誕生したあたりで、本願寺の一家衆今井
兵部卿豊寿がここに本願寺の道場を建てたのに始まる。
豊寿ならびに二代鶴寿は今井道場を自坊としたが、本願寺の与力や本願寺の支城、我
孫子の城主をも兼ねていた。彼の石山合戦の折、天正三年(1575年)には本願寺の和
議の使者のひとりとして兵部も織田信長の元に赴いている。
今井道場が今井御坊稱念寺となるのは文禄年間(1592~1595年)で富綱のときである。
時は丁度秀吉が朝鮮征伐に赴くそのあたりである。
今井氏は代々兵部と名乗り、織田・豊臣・徳川氏に仕えて武士と僧侶を兼帯し、なかん
ずく秀吉の頃には堺住吉郡の代官や大阪城の普請奉行の要職についている。
しかし延宝七年(1679年)には武士を返上して釈門に帰り、以後は大和の真宗寺院を統
轄していた五カ所御坊、十六大坊の中心寺院として幕末まで中本山的な役割を果たして
いる。明治十年(1877年)二月には明治天皇が二夜三日駐泊された。
明治天皇は、二月十二日熊本城危機の知らせのために大阪道明寺に向かわれ、御一泊
の後堺に向け御進発遊ばされた。西南の戦争の始まりであった。
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・春日神社
奈良県橿原市今井町にある春日神社(かすがじんじゃ)です。
かつては常福寺の鎮守社だったとされますが、明治の廃仏毀釈運動の影響で常福寺は
廃寺になったとされています。
そのため、境内には旧常福寺の仏堂などが残されており、橿原市の文化財に指定され
ています。創建年代は不詳とされますが、明治の廃仏毀釈で廃寺となった天台宗寺院で
ある常福寺の鎮守社だったとされ、常福寺が慶長18年(1613年)の上棟であり、現存す
る当社最古の石燈籠銘に「慶安五壬辰年仲春吉日」とあることから、江戸時代以前には
創建されていたものと推測されているようです。
現在では春日神社のみが残っていますが、境内には山門や神像・仏像などを安置する
各御堂があるため、今でも神仏習合の痕跡を残す神社となっています。
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・順明寺
戦国時代に称念寺を核とする寺内町が形成され、江戸時代にはその形態を残しつつ
商売の町として発展した。現在も江戸時代の町並みが保存され、日本で最大の重要
伝統的建造物群保存地区になっている。
その今井町にあって、称念寺は<南の御堂>と呼ばれ、真北にある順明寺は<北の
御堂>と呼ばれて、今井町を形成している。
順明和尚は1217年、常陸国の稲田にて親鸞聖人の弟子となり、新賀庄に堂宇を建
てたのが順明寺の始まりで、1626年今井町へ移ってきている。
天灯山順明寺:浄土真宗本願寺派。開創:1217年以降。本尊:阿弥陀如来。
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順明寺の表門
順明寺は、旧北町、北尊坊通りの西端にある浄土真宗本願寺派の寺院で、北の御堂
ともよばれています。屋根は降り棟(くだりむね)の付いた切妻造で、千鳥破風(ちどり
はふ)に猪の目懸魚(いのめけぎょ)が付いています。板扉には入八双金具(いりはっ
そうかなぐ)が付き、両開きとなっています。建立年代についての確証はありませんが、
文献によると表門は1638年(寛永15)の建立であることが窺われます。扉以外はすべ
て建立当初の材を残している、貴重な門です。
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・蓮妙寺
(1333)大覚大僧正妙実聖人の開基、創立 現在の本堂は昭和60年の再建。
本尊;三宝(題目宝塔を中心に多宝如来・釈迦如来を祀る) 
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・西光寺
元は天台宗でしたが、(1580頃)誉上人の代に浄土宗に改宗しています。
本尊;阿弥陀如来坐像。本堂は18世紀後半の建築 元は、明治7年に開校の文明舎
その願書が当寺に残っています。境内の鐘楼は(1690)の建立。
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・河合酒造~八木西口駅
今井町・河合酒造
河合酒造は、江戸時代から続く蔵元です。
この蔵元のある橿原市の今井町は、国の“重要伝統的建造物群保存地区”に指定され
ていて、昔ながらの街並みが保存されています。
また、この河合酒造は、その中でも国の重要文化財に指定されているほどの歴史ある
蔵元です。今では毎年造る酒の量も少なくなりましたが、昔ながらの味わいを現在も造
り続けています。
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八木西口駅へ

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4月14日の歴史ある當麻の里を巡り練供養へ-2

4月20日       4月14日の歴史ある當麻の里を巡り練供養へ-2
                 近鉄駅フリーハイキング 8㎞
此の日は、午前中は知人のK場さんと大和高田駅~約3.5km、長尾迄歩いて木戸池
公園で昼食を済ませて、近鉄ハイキングの尺土駅~の12時~13時30分受付の駅フ
リーハイキングへO村さんと知人3名のパーティーと一緒に参加、6名で歩きました・・・
先ず午前中のハイキング・・・尺土駅へ行くのが目的
大和高田駅10時集合・スタート~高田橋~高田川沿い桜並木~大中公園(トイレ休
憩)~竹内街道・横大路を歩く~長尾・木戸池公園(昼食・トイレ休憩)~長尾神社~
尺土駅へ
午後からのハイキング・・・中将餅を食べてPM4時から當麻寺のお練りを見に
尺土駅(12:00~13:30受付・スタート)~長尾神社~綿弓塚~中将堂で中将餅とお茶
を~相撲館・けはや座前~首子塚・史跡首子古墳群(當麻寺の東塔と西塔が見える
ビューポイント)~石光寺~中将姫墓塔~當麻寺・黒門・本堂前(5名と此処で別れて)
東大門~当麻寺駅 → 橿原神宮前駅 → 大和八木駅 → 五位堂駅
へ私だけ先に帰らせて貰った。

午前中のハイキング・・・尺土駅へ行くのが目的
大和高田駅10時集合・スタート~高田橋~高田川沿い桜並木~大中公園(トイレ休憩)
~竹内街道・横大路を歩く~長尾へ
竹内街道・横大路(大道)
春分と秋分の日、太陽は三輪山から昇り、二上山を超えて大阪湾に沈む。このこと
から、推古天皇21年(613年)に東西の直線で敷設された幅20mを越える大道(竹内
街道・横大路)は、太陽の道と言われる。
古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、先進技術や仏教文化を
伝えた。中世には経済都市を結び、近世には伊勢参りの宿場町としての賑わいを見
せ、場所ごとに様々な表情を浮かべる。1400年の歴史の移り変わりを周辺の歴史遺
産を通して感じさせる日本最古の国道。それが竹内街道・横大路(大道)なのである。

葛城市 市場の三ツ池
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木戸池公園(昼食・トイレ休憩)
このため池が出来たのは、江戸時代。200年以上にわたって田畑をうるおしてきたが、
最近になって池の水がよごれてきて、「人が近づけない池」と呼ばれる様になった。
子供の為の遊具も有り、桜の花も綺麗・・・
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木戸池公園の遊具
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池のほとりの東屋(昼食場所)
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近所の子供連れが鯉にエサを・・・
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二上山も見える
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桜の花びら
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公園の小高い丘からの眺め
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丘の上の桜
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スミレの花
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長尾神社~尺土駅へ
長尾神社(ながおじんじゃ)・・・午後のハイキングコースになってるが事前に
長尾神社は、奈良県葛城市に鎮座する葛下郡の総社。旧大和国葛下郡の式内大
社で、旧社格は郷社。
長尾の森の広大な神域に鎮座し、『延喜式神名帳』に「葛下郡長尾神社、大、月次、新
嘗」と記されている式内の古社。このあたりを支配していた長尾氏の氏神とされるが定
かでない。また吉野連との関係があるとされる。『日本三代実録』に、「貞観元年己卯
(875年)正月二十七 日大和国従五位下、長尾神社従五位上」とあり、9世紀にはこの
地に鎮座していた。社伝によると、寛平9年(897年)より弘安4年(1281年)までの間に
九階進昇。弘安4年には正二位、江戸時代には正一位にまで昇進した。『放光寺古今
縁起』(1302年)や『大和志』(1736年)によると祭神は伊勢の神宮の内宮及び外宮の
大神天照大神、豊受大神である。伊勢の神宮の真西に鎮座していることから、古くから
人々の篤い信仰を得た神社であった。また住吉・熱田・諏訪の神々も祀られている。江
戸期の文献では水光姫命、白雲別命も祀られたとある。また『放光寺古今縁起』には
「長尾神社は葛下郡全体の総社である天武天皇が壬申の乱(672年)で勝利した後に
感謝の気持ちから葛下郡一郡を当社に献じられた」と記されている。
鎮座地は竹内街道、長尾街道、横大路が交差する交通の要衝であり、古来より交通安
全、旅行安全の神として篤く信仰されている。参道は拝殿に向かって東西に長く伸びて
おり一の鳥居は近年新たに竣工した。 二の鳥居の両脇には「なで蛙」が配されて、参
拝者を見守っており、安産祈願の神としても名高い。 また水光姫命は古事記や日本書
紀に体が光って尾が生じていたと記されており、神様の化身が白蛇であると言われると
ころから蛇の頭が大神神社で尾が長尾神社という伝承がある。
又、桜井の大神神社(三輪明神)を龍の頭、高田の石園座多久虫玉神社(竜王宮)を龍
の胴、葛城の長尾神社を龍の尾とする伝承もあるようです。
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午後からのハイキングへ向けて尺土駅で受付
午後からのハイキング・・・中将餅を食べてPM4時から當麻寺のお練りを見に行く
尺土駅(12:00~13:30受付・スタート)
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長尾神社
大鳥居の前に狛犬ならぬなで蛙が鎮座
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長尾神社を出て
竹内街道を歩く、長尾街道への分岐点
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竹内街道を綿弓塚へ向かう
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綿弓塚休憩所(松尾芭蕉 ゆかりの地)
綿弓塚は、「野ざらし紀行」で松尾芭蕉が門人千里をつれて、千里の旧里竹内に
宿ったときに詠んだ句を記念し文化年間に建てられた句碑が「綿弓塚」として残っ
ています。いまは休憩所「綿弓広場」として整備されています。

  「 綿弓や 琵琶になぐさむ 竹の奥      松尾芭蕉 」
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此処までは、
4月14日の歴史ある當麻の里を巡り練供養へ-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-04-20
此処では、続きの午後からの楽しみ、中将餅屋へ向う~ の詳細を掲載します。
中将餅屋へ向う
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中将堂で
中将餅とお茶のセットを頂き休憩して出発
相撲館・けはや座前
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思わず撮った
トイレの張り紙(注意事項)
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葛城市相撲館横
當麻蹶速塚(たいまのけはやづか)
相撲の始祖として知られる當麻蹶速(たいまのけはや)の塚と伝えられている五輪塔
です。垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代に當麻蹶速と野見宿禰(のみのすくね)と
が力比べをし、これが日本で最初の天覧相撲と伝えられています。
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石光寺へ向かう
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首子塚
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首子塚・史跡首子古墳群(當麻寺の東塔と西塔が見えるビュー点)
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史跡首子古墳群
古くから「首子七塚」として知られている。現在、現地で確認できるのは4基。
首子4・5号墳の前に説明板がある。残っているこの4基も削平や改変がかなり
されている。1・4・5・8号墳が県指定史跡となっている。
説明板から
昭和28・51・52年の調査で帆立貝形前方後円墳1基・円墳6基・方墳3基 計10基
が確認されている。
多くの古墳は横穴式石室で内部に組合式石棺が納められていた。
副葬品には、刀、装身具、須恵器などがある。
5号墳 首子塚ともよばれ、埋葬部は未確認だが、木棺を直葬したものと考えられ
ている。墳丘部には円筒埴輪があった。
1号墳 櫟山古墳、
2号墳の墳丘は削平されていたが、丘尾を切断する形で溝が半円形にめぐり、溝内
から多数の円筒埴輪・家形埴輪・須恵器が出土
3・4号墳は方墳で、3号墳では、木棺直葬。4号墳は竪穴式石室
5号墳は群中最大で、帆立貝式前方後円墳で円筒埴輪がある。
7号墳は未調査だが一辺18mの方墳
8号墳は径25mの円墳で、横穴式石室の中に凝灰岩製の石棺の底石が残っていた。              この石室は中世に再利用されている。
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石光寺へ向かう
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石光寺(せっこうじ)
天智天皇の勅願によって創建された。
石光寺は、奈良県葛城市にある浄土宗の寺院である。山号は慈雲山。本尊は阿弥陀
如来。出土遺物等から飛鳥時代後期(白鳳期)の創建とみられる古寺で、中将姫伝説
ゆかりの寺院である。境内には中将姫が蓮糸曼荼羅を織成する際に蓮糸を染めたと
いう井戸「染めの井」と、糸を干したという「糸掛桜」があり、「染寺」と通称されている。
観光的にはボタンの寺として知られ、境内にはボタン、シャクヤク、アジサイ、サクラ、
サルスベリなどが植えられている。関西花の寺二十五霊場20番札所である。
役小角の開山と伝えられる。『元亨釈書』等に記載される縁起によれば、天智天皇(在
位668〜671年)の時代、霊光を放つ大石が見つかり、天皇の勅命を受けてこの石に
弥勒如来を彫らせ、堂宇を建立したのが始まりとされる。1991年(平成3年)には弥勒
堂改築に伴う発掘調査の結果、飛鳥時代後期(白鳳期)の石造如来坐像、瓦、塼仏が
出土した。この時の発掘調査で、平面五間x四間の堂跡が検出され、前述の石仏はこ
の堂に安置されていたものとみられる。また、境内に飛鳥時代後期といわれる塔の心
礎がある。
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流石!花のお寺
ミツマタ
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マンサク
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ツバキ
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ボタン
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マンサクIMG_7289.JPG
??
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ハナズオウ
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お堂の下を潜って
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マンサク
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シャクナゲ
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ヤマブキ
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ボタン
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??
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ボタン
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石光寺を後に
中将姫墓塔~當麻寺へ向かう、又、雨が降って本降りに・・・
※中将姫墓塔・・・當麻北共同墓地内にあります。
花崗岩で造られた十三重塔で、高さ・285cm。初重の四方仏は、軸部に縁をとった
中に舟形を造って、そこに厚肉に彫出。屋根は軒反りが強く、鎌倉時代末期の様式
です。横に建つ石造三重塔は平安時代後期の作で、高さ・156cmです

當麻寺・黒門・本堂前(5名と此処で別れて)
當麻寺・黒門
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当麻寺・本堂前
未だ1時間以上待たないと始まらない
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當麻寺
當麻寺は、古代大和の“西方”に位置し、白鳳・天平様式の大伽藍を有する古刹。金堂
の弥勒仏や四天王、梵鐘などの白鳳美術を今に伝えるほか、古代の三重塔が東西一
対で残る全国唯一の寺としても知られています。
本尊として祀られる「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」は、奈良時代、藤原家の郎女・中
将姫さまが写経の功徳によって目の当たりにした極楽浄土の光景を壮大な規模で表し
たもので、中将姫さまを常に守護し、導いた守り本尊「導き観音さま」とともに今も多くの
人々のよりどころになっています。
推古天皇20年(612)、用明天皇の第3皇子である麻呂古(麻呂子・まろこ)という親王さ
まが、兄である聖徳太子さまの教えによって「万法蔵院(まんぽうぞういん)」を建立した
のがはじまりとされています。いくつか異説がありますが、現在、大阪府太子町に「万法
蔵院跡」と伝承される場所があります。万法蔵院のご本尊は弥勒さまとする史料と、救
世観音さまとする史料があります。
さて、親王さまはある時、万法蔵院を二上山の東麓に移すようにという夢を見られたそう
です。二上山は大和では落陽を象徴する山ですから、山の東側こそ祈りの地として相応
しいということだったのでしょう。しかし、壬申の乱の混乱で寺の遷造は遅れ、親王の存
命中には実現せず、その夢を実現したのは親王の孫に当たる当麻国見でした。
二上山の東麓は当時、役行者さまの私領でした。役行者さまは大和の修験者ですが、
その最初の修行地が當麻だったのです。万法蔵院の遷造に際し、行者さまはその領地
を寄進し、天武天皇10年(白鳳9年・681)、金堂にご本尊として弥勒仏さまがお祀りされ、
現在の當麻寺がはじまったのです。
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此れ以上居たら風邪をひいてしまう
東大門へ~東大門を出て当麻寺駅へ私だけ先に帰らせて貰った。
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当麻寺駅 → 橿原神宮前駅 → 大和八木駅 → 五位堂駅 経由でバスで帰った。

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