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10月25日の絵手紙クラブ屋外活動&SSフォトクラブ展へ-2

10月31日      10月25日の絵手紙クラブ屋外活動&SSフォトクラブ展へ-2
                  社友会 同行会の行事
絵手紙クラブの体験教室に参加して、クラブに新規入会し絵手紙の最低限の道具を
揃えて初の屋外活動へ参加、屋外活動を年に2回、気候の良い春と秋に実施してる
と言う、何処かえ出かけて御前中に1枚画いて昼食タイム、皆の前で各々描いたもの
を説明して見て貰い、先生の寸評、此れは何時もの社友会事務所でする時と同じ事
をしている、題材がテーブルに置いた物では無く、自然や造形物を題材に探して・・・
今回は豊中市の服部緑地へ行く事に、参加者は8人
北大阪急行の緑地公園駅改札口に10時、西口と南口の案内は無かった緑地公園へ
の出口で待ってると反対側の出口から迎えに来てくれた、私以外の皆さんは前にも
一度此処へ来た事が有り、次に此処へ来る時は弁当買うのに都合の良い此処へ集
まる、と決めていた様だ、入会直後の私は未だ名簿も出来ていなくて・・・
昔昔昭和40年~43年頃に数回、服部緑地に遊びに行ってた記憶はあるが、当時とは
全く違う思いで当然の事だが何も思い出せない・・・
此の日の私の万歩計は、13987歩で約9.4km歩いたことに・・・
志都美駅
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北大阪急行の緑地公園駅
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緑地公園
服部緑地への入口?此処で1枚目の絵を画く
私が描いたのは此処
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此処を基地に
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昼前には天気も良くなり青空も
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2枚目は此処を描いた(ボールペンだけで色付けなし)
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昼食を終えて
各々描いた絵を批評?して貰って先生の絵も・・・
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帰りは、服部緑地公園をフラワー通りを阪急曽根駅の
方向へ縦断、途中の花や風景を楽しみながら歩いた・・・
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服部緑地公園
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此処までは、
10月25日の絵手紙クラブ屋外活動&SSフォトクラブ展へ-1 として
              下記のセカンドブログへ詳細を投稿しました。
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-10-31
此処では続きを、まだまだ続く服部緑地公園~
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服部緑地公園を出て
川を渡り、阪急曽根駅へ向かう
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用事が迫ってると言う御一人は、曽根駅へ直行、残りの7人は、
曽根駅前の喫茶店で小休止、私は途中で退席して八尾のプリズムホールへ
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近鉄八尾駅について
プリズムホールへ向かう
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プリズムホール
プリズムホールで社友会の同好会、SSフォトクラブの写真展が開催されている
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講師を含めて26名の方々が各々3枚組の写真を展示、見応えがありました。
事業部でお世話になった年齢一回り以上の大先輩に全部の写真の案内迄・・・
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近鉄八尾駅へ
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八尾駅~堅下駅間の車窓から夕焼けを
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近鉄で堅下駅へ出て、JR柏原駅
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柏原駅から王寺駅へ戻りバスで自宅へ
自宅近くに戻り、もうこんな時間に・・・
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10月24日の和歌山城&徳川家ゆかりの寺社-2

10月27日      10月24日の和歌山城&徳川家ゆかりの寺社-2
                    歩こう会例会
徳川家ゆかりの和歌山城を訪ねて 雨天決行10時15分約8㎞  参加者67人
コース    和歌山市駅に10時15分集合
和歌山市駅~勝海舟寓居地~和歌山城~二の丸庭園~天守閣広場~ 不明門跡~
岡山時鐘堂~徳川吉宗生誕地~ 報恩寺~無量光寺~和歌山城氏神 刺田比古神社
(吉宗の仮親)~ 岡公園(陸奥宗光 像・昔懐かしい 和歌山市電)~岡口門~大手門
にて集合写真撮影し解散・・・4人で和歌山駅迄歩いた、大半の方が駅迄歩いてた
此の日の私の万歩計は、20490歩出役13.6km歩いたことに・・・
和歌山市駅
南海電鉄(本線)が台風21号被害で途中で不通、バス代行運転中の為、
大阪からは1時間余分に時間をかけてJRで駆け付けた関係で参加者少なかった
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勝海舟寓居地
幕府の軍艦奉行であった勝海舟が海岸砲台検分のために滞在した場所
幕末の安政元年、ロシアの使節プチャーチンが和親通商条約締結を渋る徳川幕府に
圧力をかける目的で黒船ディアナ号を大阪湾に侵入させ、天保山の沖合に停泊しまし
た。この時には示威行動のみに終わったものの、異国船がたやすく大阪湾に侵入した
ことに脅威を感じた幕府は、大阪防衛のために淡路島と友が島に台場(砲台)を築造
するよう命じます。しかしながら、当時の日本には海上の艦船を攻撃するための砲台
の築造に関するノウハウが無かったため工事は難航し、工事が完了するのは文久3
年になってからのことでした。
勝海舟は、当時、幕府の軍艦奉行であったことから、海岸砲台検分のため紀州藩を訪
れました。その際に滞在した場所が橋丁の清水平右衛門宅であると伝えられており、
これが現在「勝海舟寓居地」の石碑のある場所なのです。
このとき、勝海舟は加太から和歌浦にかけて海岸沿いの30数か所を検分しました。そ
の際の報告書によれば、やっと完成した加太の台場に対して「その位置を失い、多くは
児戯に類して歎息に堪えず」と厳しい評価をしており、あまりに貧弱なことを嘆いていま
す。それと同時に、加太浦を軍艦の建造地の候補にあげ、実現の際にはそこに浦賀
奉行に準ずる「加太奉行」を設置すべしと主張したと言われています。
この構想は、明治時代になって「由良要塞」として加太や友ケ島に大規模な砲台が建
設されることにより実現することになります。
また、この時には、勝の門弟だった坂本龍馬も紀州藩を訪れており、勝海舟とともに
海防施設の巡視に参加したと考えられています。
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和歌山城へ向かう、お城が見えて来た
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わかやま歴史館
先ずは此処で知識を得てから城内へ
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和歌山城
財団法人日本城郭協会より「日本名城100選」の1つに選定されています。
こんもりと緑茂る虎伏山(とらふすやま)に白亜の天守閣がそびえ、御三家の威容にふ
さわしい風格を醸し出しています。和歌山城は、天正13年(1585)に紀州を平定した豊
臣秀吉が弟の秀長に築城させたのが始まりです。その築城を担当したのが、築城の名
人藤堂高虎(とうどうたかとら)でした。
まず、秀長の城代として桑山重晴(くわやましげはる)が入り、慶長5年(1600)には、
関ヶ原の戦いで功をたてた浅野幸長(あさのよしなが)が入城。そして、元和5年(1619)
には徳川家康の第10男・頼宣(よりのぶ)が入城し、紀州55万5千石の城となり、以来、
水戸・尾張と並び、徳川御三家のひとつとして、長い歴史を刻んできました。
和歌山城の石垣には、紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く使われ、たしかに和歌山に
来たことを実感させてくれます。又、天守閣に登れば、和歌山市街が見渡せ、紀ノ川が
ゆったり流れているのがよくわかります。
和歌山城の石垣は、和歌山城の時代の変遷を映すように、石垣の石積みにも変化が
見られます。二の丸庭園前には創建期と思われる、一見乱雑に見える「野面積み」の
石垣。時代が進むと、大手門をくぐって城内に入った所に大きな石の間に小石を詰めた
「打ち込みハギ」へと変わり、さらに歩くと江戸時代の美しく積み上げられた「切り込み
ハギ」の石垣があります。
また、石垣には、転用石や、約170種類2100個以上もの刻印を見ることができます。
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御橋廊下
藩主の生活の場である二の丸と紅葉渓庭園のある西の丸を行き来する橋で、平成
18年に復元。長さ27m、幅約3m。江戸時代には藩主とそのお付きの人だけが行
き来でき、外からは姿が見えない造り。今は通り抜けができます。
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二の丸庭園から天守閣広場へ
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天守閣広場~天守閣
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不明門跡~城外へ
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此処までは、
10月24日の和歌山城&徳川家ゆかりの寺社-1 として      
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-10-27
続きは、岡山時鐘堂~
岡山時鐘堂
紀州藩五代藩主徳川吉宗の時代の正徳2年(1712)に建立されました。当時は、市内
本町に浅野幸長の時に作られた時鐘屋敷があり、南北で呼応して一刻ごとに時を報知
したといわれますが、現在は、この時鐘堂しか残されていません。
この鐘は、藩士の登城と町民に刻限を知らすほか、出火、出水、異国船の出没など、
非常時をいち早く知らせる重要な役目をもっていました。石段を登ると西向きに出入口
があり、一階は土間で、四隅に二階までの通し柱があり、二階の大梁の中心から梵鐘が
釣り降ろされ、撞木によって東西二ケ所から鐘を鳴らすようになっています。屋根は寄棟
造の本瓦葺です。梵鐘は、元は大坂夏の陣で豊臣方が使用し、その後紀州藩が管理し
ていた大筒を二代藩主光貞が、紀州粉河の鋳物師に命じて改鋳させたものとされます。
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徳川吉宗公生誕の地の碑へ向かう
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徳川吉宗生誕地 徳川吉宗公生誕の地の碑
八代将軍吉宗は、NHKの大河ドラマやTVドラマで良く知られるようになりました。地元和歌
山でも人気があって、キャラクターも生まれ、様々なイベント等で登場しています。
実在の吉宗は、紀州藩第二代藩主徳川光貞の四男として、貞享元年(1684年)10月に、徳
川家菩提寺報恩寺のすぐ西にある吹上邸で誕生しました。母は側室お由利の方です。現在
吹上二丁目には生誕地の碑が建てられています。末っ子ではありましたが、兄達が次々と
亡くなったため第五代紀州藩主となります。質素倹約を旨として、農業の振興や武芸学問の
奨励などを行い、藩の財政の立て直しを行いました。 将軍となってからも、紀州藩主時代の
経験を活かして、後に享保の改革と呼ばれる治世で、幕政を立て直し、江戸幕府中興の名
君と称えられています。
[紀州藩主時代]
・訴訟箱の設置 広く民衆の声を聞くために一の橋の門前に置かれたと伝えられます。これ
は後の目安箱につながります。
・農業の振興のために、新田開発を行うとともに水利灌漑のための用水路や大規模なため
池を造りました。 大畑才蔵や伊沢弥惣兵衛に命じて、小田井用水(高野口~岩出間約33
km)や亀池の造営をさせました。
[江戸幕府将軍時代]
紀州藩主としての実績を活かした治世を行います。とくに力を入れた治水灌漑事業では、
伊沢弥惣兵衛を江戸に呼び寄せ、見沼用水路(埼玉県)など数々の事業を完成させまし
た。こうした努力により、幕府の年貢による収入は大幅に改善されました。
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報恩寺
報恩寺(ほうおんじ)は、和歌山市にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は白雲山。
報恩寺は、紀州徳川家二代藩主徳川光貞が母である瑤林院(加藤清正の娘/父の紀
州藩祖徳川頼宣の夫人)の報恩の為に建立(寛文9年/1669)した日蓮宗のお寺で、瑶
林院をはじめ、光貞夫人の天真院、5代藩主吉宗夫人寛徳院らの墓がある。(因みに
頼宣をはじめ歴代の藩主の菩提寺は下津にある長保寺であることは知られている所)
報恩寺の門をくぐり、奥に向かって歩を進め、石段を登りつめたところに件の御廟があ
る。350年の年月を経た墓石はかなり風化が進み、刻字の判読が困難だが、かろうじて
瑤林院の文字を読みとることができる。
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 徳川家の御廟
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無量光寺
無量光寺(むりょうこうじ)は和歌山市にある浄土宗の寺院。徳本上人大名号塔の寺。
本尊は阿弥陀如来。「首大仏の寺」として知られる。
無量光寺の首大仏
無量光寺の境内には首から上の部分しかない大仏「首大仏(おぼとけ)」が鎮座していま
す。この首大仏は大福寺の蓮心和尚のために多くの人の力で丈六佛(じょうろくぶつ)が
造られたことが始まりとされています。その後、丈六佛は火災により焼失します。悲嘆にく
れた人々は再興を決意し、鎌倉の大仏を目標に丈六佛の溶けた銅でまずは頭部を鋳造
し、その後胴体も鋳造し頭部とつなげる予定でしたが断念し、頭部だけの大仏となりまし
た。その後、大福寺は安政の大地震の際に伽藍も全て消失し、寺の維持が困難になった
ことから明治41年(1908年)廃寺に至り、大仏は無量光寺に安置されることになりました。
首大仏は高さも3mあり、偉容を誇っています。
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刺田比古神社(吉宗の仮親)へ向かう
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和歌山城氏神  刺田比古神社(吉宗の仮親)
刺田比古神社(さすたひこじんじゃ)は、和歌山市にある神社。式内社で、旧社格は県社。
『日本書紀』では「狭手彦」と表記。大伴金村の子で、『新撰姓氏録』によると道臣命十世
孫とされる。朝鮮半島に派遣され武功を挙げたという。
通称「岡の宮」。延喜式内社で1000年以上の歴史を持つ神社。頼宣が和歌山城に入城
以来、城の守り神となり、神主が吉宗の仮親になったといわれています。吉宗の出世にあ
やかり、開運の神様として知られています。
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岡公園(陸奥宗光 像・昔懐かしい 和歌山市電等)
園内には、蒸気機関車くまの号と以前和歌山市内で走っていた路面電車が展示されて
います。
和歌山出身の外交官で政治家の陸奥宗光の銅像、陸奥の生誕地の敷地内に、石碑と
功績が記された看板がある。
和歌山市の「陸奥宗光伯没後120年事業」の一環。「陸奥宗光伯生誕地」と刻まれた石
碑(高さ1・2メートル)と、功績が記されたステンレス製の看板が設置された。
場所は陸奥の生家があった敷地内で、天保15年7月7日に紀州藩の重臣だった伊達宗
広の第6子として誕生した陸奥が、幼少期を過ごしたとされている。
看板には、父の失脚による苦境を乗り越えた陸奥が勉学に励み、後に幕末の紀州藩を
救ったことや、第2次伊藤博文内閣で外相を務め、明治27年に英国との不平等条約改
正を達成、欧米列強に認めていた領事裁判権の撤廃に成功したことなどが日本語と英
語で紹介されている。
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蒸気機関車 C57&チンチン電車
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岡口門~大手門
大手門前にて集合写真撮影し解散・・・4人で和歌山駅
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和歌山駅
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10月19日の磐城駅からふたがみパーク&大倉本家へ

10月21日     10月19日の磐城駅からふたがみパーク&大倉本家へ
                 歴史探訪の会 ハイキングコース下見
雨の中、来年3月度の歴史探訪の会ハイキングのコース下見に行って来ました。
コースは、磐城駅~長尾神社~当麻寺~石光寺~ふたがみパーク&道の駅(昼)
~大倉本家(試飲) 酒蔵 大倉本家13:00~13:30頃 利き酒3種類 500円予約
帰りは 近鉄南大阪線 当麻寺駅へ15分
ガイド予約・・・9時55分に葛城市観光ボランティアガイド(松下さん)と待ち合わせて
長尾神社~ふたがみパーク迄案内して貰いました。 雨の中を有難う御座いました。
来年の3月に 又宜しくお願いします。
 
ふたがみパークで昼食後、道の駅を覗いて大倉本家へ、45分あるいて到着・・・
大倉本家で利き酒を楽しんで当麻寺駅前へ、中将堂で煎茶セットを、美味しかった!
当麻名物の中将餅を土産に、私の万歩計は、17890歩で約12km歩いた事に・・・
来年3月14日(水)の大倉本家での利き酒と葛城市観光ボランティアガイドを予約。
磐城駅~長尾神社
大和の大蛇の尾っぽに当たる長尾神社。
その社名からも長い尾っぽが想像されるわけですが、その昔、三輪山を何重にも
取り巻く大蛇がいたことから、蛇の頭を大神神社、尾っぽが長尾神社に相当する
と伝えられます。長尾は交通の要所、竹之内街道と長尾街道の交わる場所。

長尾神社
葛城市長尾に鎮座する長尾神社では、御祭神は水光姫命(みひかひめのみこと)
と白雲別命(しらくもわけのみこと)が祀られています。
当社の創建は明らかではありませんが、平安時代の書物である「三代実録」や「延
喜式(えんぎしき)」神名帳(927年)にも記載される葛下郡の式内社で、とても古い
歴史を持つ神社です。
また放光寺古今縁起(ほうこうじここんえんぎ)(1443年)には、飛鳥時代に天武天
皇が壬申の乱で勝利したことから、その報賽(ほうさい)としてこの地を神地と定めら
れたと記されています。
古代においてこの長尾神社の場所は、大阪方面から竹内街道を通って大和へ入り、
飛鳥の藤原京に至る古代の大道「横大路」の西側の入口となる所であり、重要な場
所に社地を構えていました。
そして現代に至っても、この長尾の地は竹内街道や長尾街道などの主要な街道が
集まり交差する、交通の要衝であることから、この街道を行き交う人々の守護神、
いわゆる交通安全の神様としても、厚く信仰されています。
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此の神社最古の絵馬
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竹之内街道
大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、長尾神社付近に
至る約26kmの街道で、推古天皇21年に開通した飛鳥の都と難波を結ぶ、最古の
官道です。沿道には古社寺や旧跡が多く、かつては旅人を泊めるための宿場町と
して栄えました。松尾芭蕉が訪れた地として有名で、沿道の綿弓塚には芭蕉の歌
碑が建立されており、俳人の憩いの場となっています。また司馬遼太郎(しばりょ
うたろう)氏の母の実家が竹内にあったため、氏は幼少期をこの地で過ごしました。
その著書『街道をゆく』の中でも竹内街道のことを語っています。
二上山の南麓を通って、大和国と河内国を結んだ古代の幹線道路の一つ。日本
最古の官道といわれる。大阪府堺市大小路から竹内峠を通り、奈良県葛城市に
所在する長尾神社までの約26 kmの道が現存しているが、両端の難波、飛鳥とも
市街地になっていることから、かつて幅30 mあったとされる飛鳥時代の大道の面
影は残されていない。街道沿いには、応神天皇陵、仁徳天皇陵、推古天皇陵をは
じめとする古墳が多数あることから、物資輸送路、文化伝達路として重要な役割を
果たした幹線通りと考えられている。古市古墳群と百舌鳥古墳群のほぼ中央部を
走る東西道路であり、2つの古墳群を繋ぐ道路であったとも考えられる。長尾街道
より遅れて敷設されたと考えられる。また、この街道を直線道路として東西に延長
すれば誉田山古墳南端の後円部に、大山古墳の南東端部の前方部に接して通っ
ていることになる。つまり、この二つの巨大古墳は地図上の北緯線上に造られて
いることが分かる。竹内街道の名は、奈良県葛城市にある竹内集落を通って竹内
峠を越えていくことに由来する。
竹内街道は『日本書紀』の推古天皇21年(613年)の条に「難波(大阪)より京(飛
鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた難波大道などと同様、日本最古の
「官道」である。一説には、聖徳太子が小野妹子らが中国大陸への使者として派
遣された遣隋使が帰国の際に同行してくる大陸からの使者が通るために、立派な
道路が必要だと考えて整備したものだといわれる。現在の竹内街道は、大部分は
推古天皇時代の官道と重なっている。東側は奈良盆地南部を東西に横切る官道
横大路に繋がっている。 かつては丹比道(たじひみち)と言われた。丹比野を横断
するのでその名が付いたと推定されている。天武天皇元年7月1日(672年)の条
に「会明に、西の方を臨み見れば、大津・丹比、両の道より、戦の衆多に至る」とみ
え、壬申の乱にも使われていたことが分かり、長尾街道と竹内街道であると推定さ
れている。
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長尾街道
長尾街道は、日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に
至る大道(おおじ)を置く」と記されていた日本最古の「官道」である「竹内街道」の北
1,908m(但し計画値)に平行して整備された。 古くは「大津道」と呼ばれた。大津の
名は、羽曳野市北宮にある式内大津神社に由来するといわれるが、大和川と石川
の合流地点が大津と呼ばれた時期があったことがあり、その大津に至る道という意
味で大津道といい、細長い海岸浜堤を長狭(ながお)といい、その特徴から長尾街
道と名が付いたという。
奈良時代以降になると、その北側に「竜飛道」(のちの奈良街道)が整備された。河
内国府(現在の土師ノ里駅付近)で本道と合流し、国分(現在の河内国分駅前)で分
かれた、難波京・住吉津と飛鳥・平城京を結ぶ重要な経路となった。

當麻寺
當麻寺は、612年に用明天皇の第3皇子麻呂子王が河内国に建てた万法蔵院に始まり、
その後、麻呂子王の孫當麻真人国見が役行者ゆかりの現在地に移したものといわれま
す。681年に弥勒仏を本尊として金堂が創建され、以後、講堂・千手堂(現・曼荼羅堂)・
東西両塔などの諸堂宇と、中院(現・中之坊)をはじめとする塔頭寺院が順次完成してい
きました。 創建当初は三論宗を奉じる学問寺院でありましたが、823年(弘仁14年)に空
海が当寺に参籠してから真言宗となり、當麻曼荼羅を中心として修法・観想・祈祷など
の仏道実践を重んじる密教寺院に転化した。この當麻曼荼羅は中将姫が一夜で織りな
した伝説とともに全国的に広まり、多くの参詣者を迎えて浄土信仰の霊場として栄えた。
この浄土信仰の高まりによって、南北朝時代には京都知恩院が當麻寺境内地に往生
院(現・奥院)を建立することになり、後に浄土宗が参入する契機となりました。この結果、
現在は真言宗と浄土宗の併立となっています。
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ゆうあいステーション(葛城市の福祉施設)
雨天の場合の昼食場所に・・・・
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石光寺へ向かう
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石光寺
石光寺(せっこうじ)は、奈良県葛城市にある浄土宗の寺院である。山号は慈雲山。本尊
は阿弥陀如来。出土遺物等から飛鳥時代後期(白鳳期)の創建とみられる古寺で、中将
姫伝説ゆかりの寺院である。境内には中将姫が蓮糸曼荼羅を織成する際に蓮糸を染め
たという井戸「染めの井」と、糸を干したという「糸掛桜」があり、「染寺」と通称されている。
観光的にはボタンの寺として知られ、境内にはボタン、シャクヤク、アジサイ、サクラ、サル
スベリなどが植えられている。関西花の寺二十五霊場20番札所である。
役小角の開山と伝えられる。『元亨釈書』等に記載される縁起によれば、天智天皇(在位
668〜671年)の時代、霊光を放つ大石が見つかり、天皇の勅命を受けてこの石に弥勒如
来を彫らせ、堂宇を建立したのが始まりとされる。1991年(平成3年)には弥勒堂改築に伴
う発掘調査の結果、飛鳥時代後期(白鳳期)の石造如来坐像、瓦、塼仏が出土した。この
時の発掘調査で、平面五間x四間の堂跡が検出され、前述の石仏はこの堂に安置されて
いたものとみられる。また、境内に飛鳥時代後期といわれる塔の心礎がある。
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染の井
中将姫が蓮糸曼荼羅を織成する際に蓮糸を染め
たという井戸「染めの井」と、糸を干したという「糸掛桜」
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境内に飛鳥時代後期といわれる塔の心礎がある
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ふたがみパーク(二上山ふるさと公園)
ここでボランティアガイドの松下さんと別れて弁当タイム
二上山のふもとに広がる自然公園で、ピクニックに最適な広い芝生広場があります。夏に
なると水遊び場に変身する水辺のテラス、木製コンビネーション遊具、ログハウス調のおも
ちゃ館など子どもたちが大喜びする自然遊びがたくさんあります。
また奈良盆地が一望できる456段の石段を上るとそこは国見の丘?ぜひ一度登って・・・
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昼食後に道の駅を覗いて大倉本家へ向かう
此処で雨もあがって、振り返ると二上山が・・・
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大倉本家(試飲)酒蔵 
大倉本家・・・HPより引用
明治29年(1896年) 大倉勝治商店として創業。
以来、吟醸酒には「速醸酒母」も用いますが、それ以外は普通酒に至るまで、すべて山廃
酒母で仕込んでいます。「酒は本来、素朴・端正をもって極上とする」、此れが家訓。
昭和7年頃より 奈良県神社庁の委託を受け、「御神酒」造りが始まりました。
戦時中 原料米を入手するのが困難な状況においても、品質第一のお酒のご提供をさせて
頂き、戦後2代目勝治のもと、販路を拡大させて頂けたと聞いております。
3代目勝彦のときに 特定名称酒醸造を開始しました。地元で強い地盤を持たさせていただ
け、最盛期は年間6000石近い販売量がありました。この間 全国新酒品評会で金賞をいた
だいたこと数回。しかし、諸々の事情で平成12年秋の濁酒の仕込みを最後に、休造を決断
します。創業以来はじめて 蔵は酒造りのない冬を経験することになりました。
その後 横浜より隆彦(現4代目蔵元)が戻り、酒造り再開に向けて先代と話合いを繰り返し
ます。何とか再開を了承していただき、長年「金鼓」で指揮をとって下さっていた杜氏の皆さ
んが蔵入り。3年ぶりに酒造りを再開させて頂くことになりました。
現在の蔵のキーワードは「山廃」と、「自家栽培米ひのひかり」、そして「水もと仕込み濁酒」。
創業以来 頑なに守り続けてきた山廃仕込み、それこそは「金鼓」「大倉」の味を形成するも
の。蔵復活にあたり、その伝統の秘技を余すことなく継承するのが、責務と考え、地の水・
空気・太陽で育った「ひのひかり」を使用することで、本来の地酒屋を目指します。 
※【地酒】その土地でできた酒(風土 米 すべてにおいてMade in 鎌田の酒)
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この3種類の利き酒を500円で・・・
下戸の私は、最初の”陽の光”が飲み易く美味しくて、酔ってしまい残り2杯は知人達に・・・
3人とも各々好みのお酒を購入して、表で集合写真を撮って貰って當麻寺駅へ
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当麻寺駅前でよく立ち寄る中将餅屋?
中将堂本舗・・・HPより引用
中将堂本舗の中将餅(よもぎ餅)は、葛城の里に昔から伝わる掌大のあんつけ餅を
一口の大きさにし、ぼたんの花びらを型どったものです。
よもぎの香りと甘味を押さえた独特のあんとの調和、優れた品質のものをと思い、材
料の餅米も当店で丹精込めて実らせた物を使用し、葛城の里に自生するよもぎをふ
んだんに活用しております。あんは、さらっとしたこしあんに大納言の粒を少量加え
あっさりした中にも、こくのある味わいに仕上げております。 だそうです・・・・

4人の内1人は、奈良で用が有ると言う事で先に帰り、残った3人で店内に・・・
中将餅と煎茶セット@300円を頼んで小休止、お土産に中将餅@700円買って帰った。
3人とも お土産に中将餅を買っていた・・・
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10月17日の竜田川紅葉ハイキングコースの下見

10月20日    10月17日の竜田川紅葉ハイキングコースの下見
  歩こう会 11月度特別企画
竜田川紅葉コース(11月21日特別)約6㎞の下見に知人と4人で行って来ました。
雨の中を歩いて、ハイキング終了後 “プチ飲み会“は王寺の餃子の王将で昼食兼
て餃子、唐揚げ、小エビ天麩羅、マーボ豆腐、レバニラ炒め、チャーハンと、4人で
スーパードライ大瓶4本飲んで満腹?雨の中だが実のあるハイキングでした・・・・
コース 王寺駅で9時50分に集合してスタート
王寺駅~神岳神社~三室山~竜田公園~竜田城跡~国道25号バイパス~白山
神社~吉田寺~龍田神社~寺風集会所~業平つれづれの道・道標~竜田川~
竜田公園~国道25号バイパス~国道25号~餃子の王将(昼食&ビール)王寺駅

王寺駅~神岳神社(かみおかじんじゃ)
神岳神社
神岳神社は、三室山の中腹に鎮座する神社で境内の縁起には聖徳太子が斑鳩
宮造営の際に飛鳥の産土神をこの地に安置し、太子之勅願所として祭祀されて
いたといわれます。本尊の地蔵菩薩像と聖観音菩薩像は融念寺(恵宝殿)に安
置されています。

三室山(みむろやま)
三室山は、標高82mの小さな山で、古来より神の鎮座する山とされており、神南備
山とも呼ばれます。平安時代の歌人・能因法師が
     「嵐ふく 三室の山の もみち‘葉は 竜田の川の 錦なりけり」(歌碑)と
詠んでいることでも知られ、春には300本のソメイヨシノが山の半分を覆い桜の名所
ともなっています。
此処には、能因法師の歌と在原業平の歌が・・・
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竜田公園~竜田城跡
竜田公園
竜田川は、在原業平が
  「千早ぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」(歌碑)と
詠むなど古くより紅葉の名所で、今は遊歩道が整備された都市公園です。
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竜田城跡
室町時代に龍田氏の館があったとも云われる。 慶長6年(1601年)大和国に2万
4千石を領して入部した片桐且元によって陣屋が築かれた。 且元は間もなく摂津
国茨木に移り、且元が没すると孝利が継いだ。 孝利没後は且元の四男為元が
継いだが1万石に減封され、元禄7年(1694年)断絶となった。
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国道25号バイパス~白山神社
白山神社
竜田公園から国道25号バイパスを歩いて10分ぐらいの所にあります。斑鳩町
稲葉車瀬にあり森で囲まれています。創建は不明です。
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吉田寺(きちでんじ)~龍田神社
吉田寺
吉田寺は、清水山を号とする浄土宗の寺院です。本尊は阿弥陀如来像(奈良県下で
最大)で多宝搭とともに国の重要文化財に指定されています。天智天皇の勅願によ
り恵心僧都(源信)が開基し、恵心僧都が母親の臨終の際、祈願した衣服を着せかけ
たところ安らかに往生したと伝えられており、御本尊に祈ると腰から下の世話をかけず
に往生できるといわれることから「ぽっくり寺」とも呼ばれています。
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龍田神社
当社の神使は鶏。手水鉢に鶏の像が置かれている。
聖徳太子が法隆寺を建立しようとして龍田明神の神誨を受け、この地に堂塔を建立し、
守護神として本宮の分霊を勧請。本宮に対して新宮、または新龍田ともいう。
ただし、法隆寺創建以前から祀られていたとする説もある。
明治以前は法隆寺から当社へ別当をおき、例祭には30人の僧侶を遣わして法会が
行われていたが、明治になって神仏分離により、法隆寺から離れ、龍田大社の摂社と
なったが、大正十年県社に列し、翌年、龍田大社から分離独立した、
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金剛流発祥之地碑
能楽の金剛流は,大和猿楽4座(結崎・円満井・外山・坂戸)の一つ「坂戸座猿楽」が
ルーツで、ここ斑鳩の里を発祥の地とする。 大和4座は、大和一円の大寺に所属した
猿楽座で、外山座と結崎座は 現在の談山神社に、円満井座は興福寺に、坂戸座が
法隆寺に属したといわれ、後にそれぞれ 観世座・宝生座・金春座・金剛座と呼ばれる
ようになった。
坂戸座は 坂戸孫太郎氏勝を流祖とし、6世の三郎正明から「金剛」を名乗った。華麗・
優美な芸風から「舞金剛」、装束や面の名品を多く所蔵することから「面金剛」などとも
呼ばれる。豪快な芸風で知られた 7世金剛氏正は「鼻金剛」の異名を取り、中興の祖
とされる。
江戸初期に金剛流から喜多流が分派し“四座一流”と呼ばれるようになった。
この発祥碑は、斑鳩町制施行50周年を記念して、1997(平成9)年に建立された。
上記の龍田神社から700mほど北西,仙光寺の南側に“春日神社”がある。 神社の社
殿の一つの中に「金剛能発生之地」という木の札が掛かっていて「当神社の由来」とい
う案内板に金剛座(=坂戸座)との関わりが書かれている。
金剛流は斑鳩町が発祥の地とされていて 発祥の地碑は瀧田神社にあるが,当時の
金剛座の本拠地は春日神社にあったということだろう。
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※龍田大社
第十代崇神天皇の頃、国内に凶作・疫病が流行した折、天皇の御夢に「吾が宮を朝日
の日向処、夕日の日隠る処の龍田の立野の小野に吾が宮を定めまつりて云々」という
神託があり、造営されたらしく、その後、疫病は退散し、豊作となったという。
また、『日本書紀』によると天武天皇が、小柴美濃王と小錦下佐伯連廣足を派遣して
龍田の立野に風神を祀らしめたという。
天武天皇四年(675)から平安時代まで年に二度、勅使参向のもと祭祀が斎行された
大社で、朝廷奉幣二十二社の中七社に名を連ねたが、鎌倉時代の動乱により社勢は
衰退した。 明治になって神社制度が整備され、明治四年五月官幣大社に列格した。

お寺風の集会場
すぐ近くに「鹿塚」が有ります。
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※鹿塚
昔、聖徳太子が多くの家臣とこの辺りを通った時、家臣の飼い犬が鹿と喧嘩をして、
犬が鹿の足に噛み付き、それを見た太子が鹿の手当てをして逃がしまし たが、数日
後、また犬が鹿を噛み殺したので、太子がこの事を深くお考えになり、これは前世の
宿業によるもので、恨みの恐ろしさを悟り、それを忘れない様に鹿塚を造りました。

業平つれづれの道・道標
在原業平のロマンあふれる伝説の道、平安時代の恋心に触れるつれづれの道です。
セイタカアワダチソウが満開・・・
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竜田川~竜田公園
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国道25号バイパス
国道25号~餃子の王将~王寺駅で解散

おまけ
10月18日は天気良かった
サガリバナは部屋に入れて、高さ50cmに伸びている
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駐車場の琉球朝顔も未だ未だ元気に咲いている
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馬見丘陵公園のダリア三昧

10月13日  馬見丘陵公園のダリア三昧
               10月10日の馬見丘陵公園フラワーフェスタ
                  朝の散歩に馬見フラワーフェスタ
馬見丘陵公園では、今年も10月7日~15日迄、馬見フラワーフェスタが開催され
ている。未だ観客の来ない?朝早い時間に家内と一緒に行ってみた・・・
9時を過ぎると観客も増えて来て、天気が良いせいか陽射しもきつくて真夏日に?
北エリアのダリア園と集いの丘のコスモス、トンネルを潜って花の道のコスモスと
バラ園のコスモス等一通り花の写真を撮って、暑くて暑くて早々に退散した・・・

”10月10日の馬見丘陵公園フラワーフェスタ”は下記へ投稿済み。
http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/2017-10-12

此処では、馬見丘陵公園のダリア園としてダリアばかりを・・・・

馬見丘陵公園のダリア園のダリア三昧として
約120品種1000株の多彩なダリアが豪華な花を咲かせています。
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飛鳥稲渕の案山子三昧・案山子は何組?

10月13日    9月24日の飛鳥稲渕の棚田と案山子と彼岸花
              近鉄駅フリーハイキング飛鳥駅~
此の日は知人と6人で参加、天気が良くてまだまだ暑い中でのハイキングだった・・・
長蛇の列を想定して10時過ぎて飛鳥駅に着いたがまだまだ長蛇の列、私で837人目、
知人を待つ間、まだまだ長蛇の列が続いていた・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング   飛鳥駅受付9時半~11時10分
飛鳥駅(受付)~文武天皇陵~朝風峠~稲渕棚田・案山子ロード~男綱~祝戸橋~
石舞台古墳地区(昼食)~石舞台古墳~橘寺~川原寺跡~亀石~鬼の雪隠~鬼の俎
~飛鳥周遊道路~猿石(吉備媛王)~欽明天皇陵~耳なほし地蔵~飛鳥駅
飛鳥駅~文武天皇陵へ向かう
此の日の私の万歩計は、22921歩で約15.1km歩いた事に・・・

今回は案山子だけを並べてみました、さて何体(何組)の案山子が有ったのか? 
案山子です。
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10月10日の馬見丘陵公園フラワーフェスタ-2

10月12日       10月10日の馬見丘陵公園フラワーフェスタ-2
                  朝の散歩に馬見フラワーフェスタ
馬見丘陵公園では、今年も10月7日~15日迄、馬見フラワーフェスタが開催され
ている。未だ観客の来ない?朝早い時間に家内と一緒に行ってみた・・・
9時を過ぎると観客も増えて来て、天気が良いせいか陽射しもきつくて真夏日に?
北エリアのダリア園と集いの丘のコスモス、トンネルを潜って花の道のコスモスと
バラ園のコスモス等一通り花の写真を撮って、暑くて暑くて早々に退散した・・・
花見茶屋の横からダリア園を目指す
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ダリア園は約120品種1000株の多彩なダリアが豪華な花を咲かせていた?未だ
ツボミも多いので此れからもっともっと咲く予感
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此処までは、
10月10日の馬見丘陵公園フラワーフェスタ-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-10-12-1
続きは、ダリア園の途中から
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馬見花苑の花々ニュウギニアインパンチョス
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集いの丘
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集いの丘のコスモス
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トンネルを潜って花の道
此処はコスモスとニュウギニアインパンチョスやコルチカム
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バラ園も今はコスモス園に変わって
こんなに天気良い
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10月8日の秋風を感じ都会の中に有る癒しを求めて-2

10月10日      10月8日の秋風を感じ都会の中に有る癒しを求めて-2
               近鉄駅フリーハイキング 歩程約9㎞
此の日は、知人と2人で参加、知人は1時からの映画を見たい、と言うことで12時半
に途中の玉造駅へ向かう、ここで別れて私はどんどろ大師以降のお寺を巡り、鶴橋
駅へ1時に到着、鶴橋駅の外回りホームに有る小さな店、アンドリューのエッグタルト
でショコラ2ヶとアップルティ2ヶを購入して帰宅、美味しかったマカオのお菓子・・・
アンドリュ-(安徳魯)・・・パッケージやしおりに澳門安徳魯餅店と書かれていた
欧州のお洒落なお菓子だと思ってたのが、中国の澳門の安徳魯餅店のお菓子・・・
此の日の私の万歩計は、17813歩で約11.8km歩いたことに、未だ未だ暑かった!
コース  近鉄駅フリーハイキング 鶴橋駅東口改札前受付9時半~11時
鶴橋駅東口改札前(受付・スタート)~産湯稲荷神社~天龍院~長安寺~西方寺~
生国魂神社~高津宮~難波宮跡~善福寺(どんどろ大師)~興徳寺~鶴橋駅の予
定だったが、コースを変え、天然寺、蓮生寺、藤次寺を入れ、難波宮跡を外して・・・
志都美駅
久し振りに駅迄あるいて
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JR鶴橋駅改札口~近鉄鶴橋駅東口へ
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産湯稲荷神社
当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社となっている。
現地に掲げられていた社記によると「当地の開拓神である大小橋命(おおおばせの
みこと)は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代(4世紀頃?)、こ
こ味原郷に誕生した。その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この
地を「産湯」という。 父は神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人
兄弟の長男である」としている。すなわち、大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣
鎌足の先祖に当る人である。 この誕生のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比
売許曽神社の近くにある。
また、一説では生野区にある御勝山は大小橋命の墓であるとも言われ、この地には
大小橋命に関わる伝承は多い。
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天龍院へ向かう
天龍院
天龍院は天正14年(1586)に創建された浄土宗の寺院である。
木造十一面観音菩薩立像(もくぞうじゅういちめんかんのんぼさつりゅうぞう) 
本像は境内の観音堂に安置される等身大の像である。この像の制作年代は本院の
創建、天正14年(1586)よりはるかに遡り、伝来の過程は不明である。境内に別に堂
を設けてまつっていることから、周辺にあった古堂にまつられていた像を、客仏として
まつってきたのと思われる。市内に残る平安彫刻の中でも古様を残す事例である。
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女郎花が未だツボミ
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天然寺・・・由緒あるお寺だった。今回のコースには無かったが何故か魅かれて
天然寺は潮待山と号し、もとは正覚院といい、1588年(天正16年)天延上人の開基。
此の天然寺にも菅原道真にまつわる伝説が残されていた。
901年(昌泰4年)右大臣菅原道真が時の左大臣藤原時平らの策謀で大宰府に左
遷されたおり、浪速津にて乗船の潮時をこの地で待つ間、自作の木像を作り、これを
残し船出をしたが、里人はこの跡を慕って、小社を営み、管公自作の像を祭ったと伝
わる。社殿は元は大坂城内の地にあったが、豊臣秀吉が大坂城築城の際、現在地
に還し祀ったという。
菅原道真が潮待ちのために滞在した地に祀られたため、古くは「潮待天満宮」と呼ば
れ、潮待ちのため落着かれたので「おちつき天神」とも呼ばれている。
なお、この辺りを「汐町」というのは、潮待ちからの由来とする。現在の中央区と天王
寺区にある地名、「上汐町」の冠称の「上」の字は南船場に所在した「塩町」との混合
を避けるために冠したことによるという。
菅原道真が腰を掛けたと伝わる「お座りの石」、座ると道真公同様、頭が良くなる・・・
境内の一角に「おちつき天神社」が有り、山門の傍らには「右大臣菅原道真公遺跡 
おちつき天神」の碑が建てられている。
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長安寺・・・浄土宗知恩院末の寺院。山号は瀧水山。
天正年間に寂譽により開基される。開山は法譽(慶長12年6月25日寂)。
本尊は阿弥陀如来。像高五尺五寸(2m)。
寛文3年(1663年)多くの信者からの寄進により、加古川市の鶴林寺より当山に請来
された。制作時期は不詳であるが、聖徳太子御作と伝えられる。幸い2度の大阪大空
襲の火難は逃れるが、昭和25年9月3日、ジェーン台風による仮本堂倒壊とともに破
損、京都の国宝修理所において修復され、現在に至る。
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蓮生寺・・・ねしゃかの寺 今回のコースには無かったが以前訪れた事があったので
ねしゃかの寺(蓮生寺・れんせいじ)
山号 宝池山、浄土宗知恩寺末寺、文禄元年(1592)僧天譽創建、大坂夏の陣で焼失、
延宝年間(1673~1681)に復興、正徳4年((1717)台風で大破、享保年間(1716~1736)
再興、戦災で昭和20年(1945)焼失、昭和59年((1984)再々興。
寝釈迦像は江戸初期の作で青銅製重さ500キロ、寺伝に依ると、「昔、正斎という念仏
行者が、道頓堀の墓地に草庵を建て、この尊像を安置して、一千日念佛を行じたところ、
諸人の帰依ことのほか厚く、群集が集まり、その前に市が出来、千日念佛前と呼ばれ、
今日の千日前の基となりました。明治維新に神仏分離令が出て、神仏合祀が禁じられ
たので、当寺に祀られていた金比羅宮を遷宮して、その跡へお迎えしました。香華絶え
ることなく、病気あれば痛むところをなでて、信心祈願すれば、悉く平癒すると云われて
います。一般に釈迦の涅槃像は右を下にした横臥像ですが、この涅槃像は真上を向い
て仰臥しています。
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籐次寺へ向かう
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籐次寺・・・今回のコースには無かったが以前訪れた事があったので
藤次寺(とうじじ)は、大阪市天王寺区生玉町にある、高野山真言宗の寺院。山号は如
意山(にょいさん)。
藤次寺は弘仁年間(810年~824年)に藤原冬嗣の発願により、甥(おい)の、任瑞上人
を開基とする。藤原家の安泰を願い建立された。藤原家を治める寺であるでゆえに、藤
冶寺と称していたが、明治初年には、生玉十坊の一つである地蔵院を合併し、藤次寺と
改称し、現在に至っている。
作家・山崎豊子の墓所も藤次寺にあり、墓石の右隣には山崎が生前執筆した全28作の
作品名が刻まれた石碑も存在する。
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西方寺・・・安養山西方寺。 三井高利の墓所
「大阪三越」、1673 年(延宝元年)京都室町に、翌年江戸は本町で開かれた「越後屋
呉服店」まで遡ることが出来る。この越後屋の創業者で、後の三井財閥の始祖である
三井高利は1622 年(元和8年)伊勢松阪の商人三井高俊の4男として生まれた。
1635 年(寛永12 年)江戸に出て、呉服屋を開いていた長兄の店を手伝い、商いのノウ
ハウを習得した。 高利は自分の店を持つと、当時として画期的な「現金掛値なし」の取
引を始め、店売りを主体とする、顧客にはお茶を出す、雨が降り出すと貸傘を置くなど、
現在でも通用する独創的なサービスを次々と打ち出している。高利は1683 年(天和3
年)江戸本町の店を駿河町に移し、両替商も始めたが、69歳のとき大坂に進出し、同
業者の営業妨害をものともせず、事業を拡大している。1694 年(元禄7年)73 歳で没
した。墓は大阪天王寺区の西方寺にある三井家の墓所の中にある。
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此処までは、
10月8日の秋風を感じ都会の中に有る癒しを求めて-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-10-10
続きは、生国魂神社~
生国魂神社
『日本書紀』孝徳天皇(7世紀中頃)に「生國神社」、平安時代の『延喜式』には「難波坐
なにわにいます生國咲いくくにさき國魂くにたま神社」二座と記され、御祭神は特別に
生島巫いくしまのみかんなぎによって祀られるなど、国家の祭祀(八十島祭)の社として
知られている。中世では隣接して「石山本願寺」が建てられ、そして1583年に豊臣秀
吉が大阪城築城のため、社領を寄進し社殿を造営し、1585年に現在の地に遷ったと
伝えられる。その後も豊臣・徳川と時代は変わったが、両家の保護のもとに神域は守ら
れ、以来「難波なにわの大社おおやしろ」の尊称をもって広く信仰を集め、明治には官
幣大社に列せられる。
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城方向きたむき八幡宮(境内社)「勝運・方除の神」
大阪城鬼門の守護神として祀られていたことから、城方向(北向-きたむき)と称する。
古来「八幡宮」は武神として崇敬厚く、当社では勝運・方除けの神様として信仰を集め
ている。
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稲荷神社?
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鴫野しぎの神社(境内社)「女性の守護神」
淀君ゆかりの神社。昔、弁天島に大阪城の淀君の崇敬が篤い弁天社「鴫野しぎのの
弁天さん」があった。後にはその隣に「淀姫社」として祀られるようになった。そして女
性の守護神として心願成就、縁結びから悪縁切りまで霊験あらたかとの評判を呼び、
毎月「巳の日」を縁日としてお参りする人が群れをなしたと伝えられる。俗に「巳みい
さん」と呼ばれた由縁である。その後、弁天島用地買収に伴い大阪城に縁の深い当
社に移され、鴫野(しぎの)神社として祀られている。
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生国魂神社を後に
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真言坂を降りて
高津宮へ向かう陸橋の上から生国魂神社の鳥居を
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高津宮
当宮は浪速の地を皇都(高津宮)と定められ大阪隆昌の基を築かれた仁徳天皇を王
神と仰ぐ神社であります。
仁徳天皇が高殿に昇られて人家の炊煙の乏しいのを見られて人民の窮乏を察し直ち
に諸税を止めて庶民を救済されました御仁政はあまねく国民の敬慕する処であります。
その御仁政を慕い平安期の初期清和天皇の貞観八年(866年)勅命(天皇の命令)に
よって旧都の遺跡を探索して社地を定め社殿を築いてお祭りしたのを創始と致します。
以後世々皇室を始め時の幕府等の度々の御造営寄進を重ねて浪速津の守護神と仰
がれ御神威輝き渡ったのでありますが、その後700年を経た正親町天皇の天正十一
年(1583年)豊臣秀吉が大阪城の築城に際し比売古曽社の現在地に御遷座(神社の
御神体が移ること)になって今日に及んでおります。
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高津公園で昼食
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高津公園を後に、谷町筋を横断、上町筋へ出て難波宮跡へ向かう
途中の上本町1丁目から空堀町~JR玉造駅へショートカットコース
をとり、空堀町で知人はJR玉造駅へ向かい、私はどんどろ大師へ・・

どんどろ大師
善福寺(ぜんぷくじ)は、大阪市天王寺区空堀町にある高野山真言宗の寺院。「どん
どろ大師」「どんどろ」と通称する。山号は如意山。院号は甘露院。「どんどろ大師」の
名で知られる。
現在、善福寺のある位置には鏡如庵大師堂(鏡如寺・通称:どんどろ大師)という寺
があったが、明治時代に廃寺になっている。その後、明治42年(1909年)1月9日に
大阪府豊能郡豊能町(旧大阪府豊能郡東能勢村)にあった如意山甘露院善福寺を
鏡如庵大師堂のあった場所(現在地)へ移転し、現在に至っている。
鏡如庵大師堂(どんどろ大師)
大坂冬・夏の陣の戦跡鏡如庵大師堂(きょうにょあんだいしどう)は、宝暦2年(175
2年)3月に高野山岩本院 法資法道が大坂夏の陣(元和元年・1615年)の戦死者の
霊を弔うために創建されたと言う。鏡如庵とも称する。鏡如庵大師堂のあった付近
は、大坂冬の陣(慶長19年・1614年)では、真田幸村が真田丸を築き、激戦があっ
た。大坂冬・夏の陣ともに激戦地であった。
鏡如庵大師堂は、歌舞伎「傾城阿波の鳴門(けいせいあわのなると)」、歌舞伎「国
訛嫩笈摺(くになまりふたばのおいずる)」の「どんどろ大師 門前の場」の舞台として
設定されている。
平成19年(2007年)、どんどろ大師善福寺境内にある勝軍地蔵尊の建立100年と、
2009年(平成21年)に、どんどろ大師善福寺中興當地開創百年を迎えることから、
この2つの百年を記念して、平成21年(2009年)山門前に、歌舞伎「傾城阿波の鳴
門 どんどろ大師門前の場」に登場する「お弓 おつる」母子像の銅像が建立された。
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「真田丸」跡に信繁父子を祀る心眼寺を創建
1614年、慶長19年、真田信繁(幸村)は真田山に出城「真田丸」をつくり、ここで徳
川の大軍を相手に勝利をおさめた。翌年、「大坂夏の陣」で幸村は討ち死にする。
そして豊臣家は滅亡した。
元和8年(1622)4月、白牟(はくむ)和尚が、「真田丸」があった場所に、幸村・大助
父子の冥福を祈るために堂舎を創建。それが心眼寺(しんがんじ)である。寺の定
紋は真田家の六文銭と定められ、山号は真田山だ。
しかし当時、大坂は江戸幕府の直轄地であったため、豊臣方の武将であった幸村
の墓をつくることは許されなかったようだ。幸村のお墓は建てられないままずっとき
たのだが、真田丸の戦いがあった「大坂冬の陣」から400年目にあたる2014年、信
繁四百回忌に、ご住職の長年の願いが叶い、ついに墓碑が建立された。寺を入っ
てすぐの場所にあり、「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓(じゅごいのげ さな
ださえもんのすけとよとみのぶしげのはか)」と記されている。
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真田丸顕彰碑
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興徳寺・・・真言宗興徳寺
聖徳太子御在世中の創建と伝えられる。創建時は薬師院と称し、大阪城付近に
あったと思われる。秀吉が大阪城築城の時、現在の地に移設。戦災のため古い
資料・過去帳・仏像が焼失、住職が行方不明の荒れ放題の寺だった。また、この
寺の住職は次期信貴山の貫主になられる出世寺であった。過去を調べるより現
世利得の方針で、子供の遊び場、休憩所を設け地域密着の場を提供されている。
高さ 10 米メートル程の准抵観音像が祀られている。(昭和63 年建立)
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真田山公園を通りJR鶴橋駅へ13時に到着
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天王寺駅ホーム
新型車両の大坂環状線
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王寺駅~バスで自宅近くの「バス停~
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鶴橋駅の外回りホームに有る小さな洋菓子店?アンドリューのエッグタルトで
ショコラ2ヶとアップルティ2ヶを購入して帰宅、美味しかったマカオのお菓子・・・
アンドリュ-(安徳魯)・・・パッケージやしおりに澳門安徳魯餅店と書かれていた
欧州のお洒落なお菓子だと思ってたのが、中国の澳門の安徳魯餅店のお菓子・・・
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9月30日の達磨寺座禅体験と周辺の史跡を巡る-2

10月9日      9月30日の達磨寺座禅体験と周辺の史跡を巡る-2
            JRふれあいハイキング 歩程約8㎞
此の日は、何時も昼飲み会には参加するが、ハイキングには初めて参加する知人と
2人で王寺町の達磨寺座禅体験ハイキングに参加して来た、ハイキングには少し暑
かったが此の日の私の万歩計は17695歩で約12km歩いた事に・・・
JRふれあいハイキング 王寺観光ボランティアガイドの会主催  要予約ハイキング
コース   参加費400円
王寺駅(10時集合・スタート)~達磨寺(座禅体験)~芦田池~乳垂地蔵(ままたれ地
蔵)~尼寺廃寺跡(昼食)~永福寺~孝霊天皇陵~王寺駅(ゴール)
楽しいハイキング、王寺観光ボランティアガイドの会の皆さん、有難う御座いました。
志都美駅へ向かう
葛下川
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志都美駅
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達磨寺へ向かう
和らぎの鐘
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達磨寺・・・聖徳太子ゆかりの達磨寺
推古天皇21年(613年)の冬、聖徳太子が片岡山で飢えていた異人に衣食を施した
という飢人伝説(きじんでんせつ)に基づいて開かれた達磨寺は、達磨大師の墓と伝
えられる古墳の上に本堂が築かれている。
「日本書紀」によると、聖徳太子(厩戸皇子)が片岡山を通りかかったところ、飢えて瀕
死の異人に出会った。太子はその異人に寒さと飢えをしのぐための食物と自分の衣類
とを与えた。翌日、使いをやって異人の様子を見に行かせたところ、すでに息絶えてい
たので、丁重に葬った。それからしばらくして墓の様子を見に行かせると、屍骸は消え
ており、衣服だけがたたまれて、棺の上に置かれていた。これを知った里人は、あの異
人は達磨禅師の生まれ変わりに相違ないと言い、聖徳太子自らが刻んだ達磨像を祀っ
たのが、達磨寺の始まりである。
今日は本堂で座禅体験をする
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座禅体験証を貰った
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芦田池
この芦田池は、「日本書紀」によると、聖徳太子の進言によって、推古天皇15年(607
年)の冬に大和の国に新しく造られた4つのため池(肩岡池、高市池、藤原池、菅原池)
の一つ、肩岡池のことであり、日本最古の官立の「ため池」である。
・この地は歌の名所として、数々の名歌が残されている。
 あすからは 若菜つまむと 片岡の
   あしたの原は けふぞやくめる   柿本人麻呂
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乳たれ地蔵(ままたれじぞう)
乳かけ地蔵とも呼ばれ、母乳の出が良くなる地蔵として信仰を集めている。
その昔、、推古天皇が、乳母の乳が少なかったのを憂いて、この地蔵に御祈願されると、
七日と経たないうちに乳が垂れるほどたくさん出るようになったと伝えられている。
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尼寺廃寺跡(にんじはいじあと)・・・国指定史跡尼寺廃寺跡
僧寺と尼寺の関係が指摘される北廃寺跡と南廃寺跡からなる 
・7世紀中頃に創建された寺院跡
・平成8年の調査で、塔の基壇下から日本一大きいと言われる心礎が出土。
・東西、南北ともに幅3.8m・厚さ1.8m=8畳ほどもある大きさの石。(地下の心礎
は埋め戻され見ることは出来ない)
・基壇上には心礎をはじめ計13個が残存。
・塔の北側に、南北約16m・東西10mの金堂跡と見られる基壇が確認されている。
・出土の瓦などから7世紀中ごろから建設を始め、奈良時代後半まで存在。その後
消失したと推定されている。
・法隆寺式伽藍配置である。
今日は此処で昼食・・・
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午後は
永福寺へ向かう
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此処までは、
9月30日の達磨寺座禅体験と周辺の史跡を巡る-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-10-09
続きは、永福寺~
永福寺(えいふくじ)
行基によって開基されたといわれ、本尊釈迦如来坐像は寄木造、地蔵菩薩立像は
一木造で、ともに平安後期の作品。境内の層塔も凝灰岩を使い、風食による破損
が大きいものの平安後期以前の作品と見られる。
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孝霊天皇陵へ向かう
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孝霊天皇陵・・・桃太郎と卑弥呼のお父さんとされる第7代孝霊天皇
孝霊天皇は、「古事記」「日本書紀」に記される第7代天皇(紀元前290年2月19日~
紀元前215年3月27日)。大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)
大倭根子日子賦斗運命(「古事記」)
父は孝安天皇、母は天足彦国押人命(あまてらしひこくにおしひとのみこと)の女・押
媛(おしひめ、「古事記」に忍鹿比売)。
皇后は細媛命(くわしひめのみこと、ほそひめのみこと。磯城県主大目の女)
第一皇子は大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるのみこと、孝元天皇)
皇子の彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと 吉備津彦命)は桃太郎伝説の
モデルと言われている。
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天皇陵から見る空は雲一つ無い青空
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天皇陵を降りて
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王寺駅へ向かう
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葛下川下流&上流
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葛下川堤防で解散
王寺駅前からバスで帰り下牧停留所から自宅へ
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おまけ
我家の琉球朝顔とクロトン
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9月24日の飛鳥稲渕の棚田と案山子と彼岸花-4

10月2日        9月24日の飛鳥稲渕の棚田と案山子と彼岸花-4
                  近鉄駅フリーハイキング飛鳥駅~
此の日は知人と6人で参加、天気が良くてまだまだ暑い中でのハイキングだった・・・
長蛇の列を想定して10時過ぎて飛鳥駅に着いたがまだまだ長蛇の列、私で837人目、
知人を待つ間、まだまだ長蛇の列が続いていた・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング   飛鳥駅受付9時半~11時10分
飛鳥駅(受付)~文武天皇陵~朝風峠~稲渕棚田・案山子ロード~男綱~祝戸橋~
石舞台古墳地区(昼食)~石舞台古墳~橘寺~川原寺跡~亀石~鬼の雪隠~鬼の俎
~飛鳥周遊道路~猿石(吉備媛王)~欽明天皇陵~耳なほし地蔵~飛鳥駅
飛鳥駅~文武天皇陵へ向かう
此の日の私の万歩計は、22921歩で約15.1km歩いた事に・・・
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文武天皇陵~朝風峠へ向かう
文武天皇
文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))
は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日
(707年7月18日))。天武天皇と持統天皇の孫。
当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもと
で政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。
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朝風峠~稲渕棚田・案山子ロード
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稲渕棚田・案山子ロード~男綱
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此処までは、
9月24日の飛鳥稲渕の棚田と案山子と彼岸花-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-10-01
続きは、
まだまだ続く 稲渕棚田・案山子ロード~男綱
P9243033.JPGP9243036.JPGP9243040.JPGP9243044.JPGP9243047.JPGP9243053.JPGP9243057.JPGP9243062.JPGP9243068.JPG P9243072.JPG 此れが 一番大きい案山子 P9243075.JPG P9243077.JPGP9243081.JPGP9243086.JPGP9243090.JPGP9243091.JPGP9243099.JPG まだまだ続く、稲渕棚田・案山子ロード~男綱 此処までは、 9月24日の飛鳥稲渕の棚田と案山子と彼岸花-2 として           下記のメインブログへ詳細を投稿しました。        http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/2017-10-01 稲渕棚田・案山子ロード~男綱 P9243101.JPGP9243105.JPGP9243110.JPGP9243114.JPGP9243124.JPG 男綱~祝戸橋 P9243126.JPGP9243130.JPGP9243134.JPGP9243138.JPG 祝戸橋~石舞台古墳地区(昼食) P9243140.JPGP9243144.JPG 石舞台古墳地区~石舞台古墳 石舞台古墳 石舞台古墳は、飛鳥歴史公園内石舞台周辺地区の中央に位置するわが国最大級の 方墳です。30数個の岩の総重量は約2300トン、特に天井石は約77トンとかなりの重 量で、造られた当時の優れた土木・運搬技術の高さがうかがわれます。 1933年(昭和8)~35年(昭和10)の発掘調査で方形の墳丘、堀、外堀が存在すること、 6世紀代の小古墳を壊して築造されていたことなどが確認されており、その上で築造は 7世紀初め頃と推定されています。 P9243148.JPGP9243160.JPGP9243175.JPG 石舞台古墳~橘寺 P9243179.JPGP9243183.JPG 此処までは、 9月24日の飛鳥稲渕の棚田と案山子と彼岸花-3 として            下記のセカンドブログへ詳細を投稿しました。         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-10-01-1   続きは、橘寺~ 橘寺~川原寺跡望む 橘寺 聖徳太子誕生の地に太子自身が創建とされる橘寺(たちばなてら)です。この橘とは 日本書紀によると田道間守(たじまもり)が垂仁天皇の勅命を受けて不老長寿の薬を 求め、海を渡り十年後にある種を持ち帰りました。しかし、その時はすでに天皇は亡く なっていたそうです。しかたなく、その種をこの地にまくと芽が出たのが橘(みかんの 原種)であったことから、以来この地を橘と呼ぶようになったそうです。そしてここに橘 の宮という欽明天皇の別宮が建てられ、太子はここで生まれ子供頃を過ごしました。 P9243187.JPGP9243190.JPGP9243192.JPGP9243194.JPGP9243195.JPGP9243199.JPGP9243200.JPGP9243202.JPGP9243203.JPGP9243205.JPGP9243207.JPGP9243209.JPGP9243211.JPGP9243212.JPGP9243214.JPGP9243215.JPGP9243219.JPGP9243221.JPGP9243223.JPGP9243224.JPGP9243226.JPG 橘寺~亀石 P9243231.JPGP9243232.JPG 亀石~鬼の雪隠~鬼の俎 亀石 大きさは長さ3.6メートル、幅2.1メートル、高さ1.8メートルもある。 いつ頃制作されたのかや目的・用途など詳しいことはわかっていないが、弘福寺 (川原寺)の古文書に「字亀石垣内」と記載されたもの有り川原寺の寺域の境界を 示す石標ではないかという説や、猿石、二面石、人頭石など一連の飛鳥石造物の 一つではないかなど、様々な説がある。 ※亀石伝説 奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻のヘビと川原のナマズの争いの結果 前者のヘビが勝ち、水を吸い取られた結果、川原の辺りは干上がってしまい、湖 のカメはみんな死んでしまった。これを哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って 供養をしたという。 また、亀石は最初は北を向いていたが、次に東を向いたと言う。そして、現在は南 西を向いているが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の 海と化すと伝えられている。 P9243237.JPG P9243236.JPGP9243239.JPGP9243241.JPGP9243242.JPGP9243243.JPG 飛鳥周遊道路 P9243244.JPGP9243246.JPGP9243248.JPGP9243250.JPGP9243253.JPG 猿石(吉備姫王墓)・欽明天皇陵 猿石(吉備姫王墓) 欽明天皇陵の南西に、宮内庁が檜隈墓として管理する吉備姫王(きびひめのみこ)の 墓がある。吉備姫は第35代皇極天皇(第37代斉明天皇)および第36代孝徳天皇の 生母であり、『日本書紀』によれば皇極天皇2年(642)9月になくなり、檀弓丘に埋葬さ れた。『延喜式』諸陵寮には欽明天皇陵と同じ陵域内に墓があると記されていること から、その墓が現在の古墳に比定されている。柵の中に有る高さ1m前後の石造物は、 それぞれ僧、男性、女性、山王権現の名で呼ばれているが、何故か「猿石」と総称され ている。 P9243256.JPGP9243258.JPGP9243260.JPG 欽明天皇陵~耳なほし地蔵 欽明天皇 欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月15日(571年 5月24日?))は、第29代天皇(在位:宣化天皇4年12月5日(539年12月30日?) - 欽明天 皇32年(571年?)4月15日)。和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろに わのすめらみこと)。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(いずれも「しきしまのすめらみこ と」と呼ぶ)。この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。 P9243262.JPGP9243264.JPGP9243266.JPGP9243268.JPG 耳なほし地蔵 朝風峠でボランティアガイドさんに下記の伝説を聞いた事が有ります。 明日香・栗原集落の朝風峠のお地蔵さん、右の肩の上が大きく欠けているのは、 「朝風地蔵」と平田集落にある「耳なほし地蔵」が争って、片方は肩を取られ、 片方は耳を取られた。というおもしろい言い伝えがあるそうです。 今日、訪れた、此の耳なほし地蔵には「キリ」が多数奉納されていました、キリ で穴が開けられる様に耳が通り聞こえる様になる?というおまじないでしょう・・・ P9243270.JPG 耳なほし地蔵~飛鳥駅 P9243272.JPG おまけ 二上山~我が家の琉球朝顔他 P9243276.JPG P9243279.JPGP9243281.JPGP9243287.JPG
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