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2月19日の歩こう!奈良の裏道 歴史の道-2

2月27日        2月19日の歩こう!奈良の裏道 歴史の道-2
                近鉄駅フリーハイキング 歩程約10㎞
此の日は、知人と2人で参加、目玉の平城京跡東院庭園も大極殿も遺構展示館も無料で
観覧出来る館は皆定休日で拝観料の高額な?不退寺と法華寺と海龍王寺は拝観せず・・
少し残念な、心残りなハイキング?になりました・・・
コース  近鉄駅フリーハイキング  近鉄奈良駅東改札 9時半~11時 
近鉄奈良駅(受付)~大仏鉄道記念公園~興福院~長慶寺~狭岡神社(さおかじんじゃ)
狭穂姫の伝承地~不退寺~佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群・ウワナベ古墳・コナベ古墳・
水上池・磐之媛命陵(ヒシアゲ古墳)~平城宮跡遺構展示館(昼食)~海龍王寺~法華寺
~東院庭園~平城宮跡大極殿~西大寺駅(解散)→郡山駅~源九郎稲荷神社~薬園八
幡神社~JR郡山駅
此の日の私の万歩計は、27467歩で約20.3km歩いたことに・・・
JR奈良駅
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開化天皇陵
開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇7年 - 開化天皇60年4月9日)は、日本の第9代
天皇(在位:孝元天皇57年11月12日 - 開化天皇60年4月9日)。115才。
和風諡号は、『日本書紀』では「稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおお
ひひのすめらみこと)」、『古事記』では「若倭根子日子大毘毘命」。
『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、「欠史八代」の1人
に数えられる。
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浄教寺
淨教寺(じょうきょうじ)は、奈良県奈良市上三條町にある浄土真宗本願寺派の寺院で
ある。山号は九条山。本尊は阿弥陀如来立像。
『淨教寺由緒略記』によると、開基行延法師は、河内国八尾の庄司で、真野将監行延
と名乗る知勇兼備の武士であった。浄土真宗開祖親鸞上人の直弟子となり、寛元2年
(1244年)3月出家し、法名を行延と賜ったという。
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近鉄奈良駅東改札口(受付 スタート)
舟橋商店街~ 大仏鉄道記念公園
大仏鉄道(大佛鐵道)記念公園は、大仏駅跡に機関車の動輪モニュメントと説明碑が
建てられた小さな公園です。
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※大仏鉄道(大佛鐵道)
大仏鉄道とは、明治31年(1898)に開業し、加茂駅と大仏駅、翌年に奈良駅(現在の
JR奈良駅)までを結んだ関西(かんせい)鉄道株式会社の路線(通称名)です。
現在のJRの加茂駅―木津駅ー平城山駅ーJR奈良駅よりも東側を通り、勾配の大き
い坂やトンネル、橋梁が多く、当時の機関車での運行が困難であったことから、開通
から9年間で廃線となりました。
現在、当時の線路は残っていませんが、加茂駅に動輪モニュメントがあるほか、橋梁
(橋台)やトンネル跡が一部遺構として残っており、ハイキングコースなどとしても人気
があります。

大きな松ぼっくりの木
大王松(だいおうまつ)と思われる
北アメリカの東南部に分布しています。雌雄異株で、高さは20~40mになります。
樹皮は暗灰褐色で、亀甲状に裂け目ができます。葉は3個が束生し、「まつ」の仲
間では最も長い針状葉です。長さ15~25センチの大きな球果ができます。わが
国では、生け花にも利用されます。
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手焼き煎餅屋さん
  お土産に焼き立ての煎餅を購入
興福院(こんぶいん)
奈良時代に創建された浄土宗知恩院派の美しい尼寺。奈良時代には僧院として隆盛
したものの、以後衰退。もと尼ヶ辻にあったが、現在の地に尼寺として再興されたのは
将軍徳川家綱の時代のことで、参道は徳川家綱が作らせたものといわれる。小堀遠州
作庭と伝わる客殿(重要文化財)の庭園は、春日山や三笠山を借景にした非常に風情
の あるものである。なかでも、4月のツバキ、5月のサツキの季節はとくに美しい。同じ
く遠州 作の茶室もある。
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長慶寺・・・エピソードが有り過ぎて書ききれない
奈良市法蓮町に長慶寺というお寺がある。大阪平野の大念仏寺を総本山とする融通
念仏宗の寺院である。融通念仏宗の寺院数は359とされるが、奈良県内に205、そ
のうち市内に30の末寺があって、長慶寺はその一つになっている。
この寺は建立されてまだ百年に達しない新しい寺院である。開基したのは吉村長慶。
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狭岡神社(さおかじんじゃ)狭穂姫の伝承地
狭岡神社
狭岡神社は霊亀2年(西暦715年)藤原不比等(淡海公)が、国家鎮護、藤原氏繁栄の
ため勅許により己のが邸宅佐保殿の丘上に天神八座を祭祀し、崇拝しました。これが
佐保丘天神、狭穂岡天神、狭加岡天神となって、今の狭岡神社になったのであります。
次いで藤原淡海公は天平神護景雲年間に河内の国枚岡より、藤原氏の祖神である春
日大明神を大和の国奈良の御蓋山へ移され祭祀せられました。これが今の春日神社
であります。それ以来国政の大事や、氏神春日詣りには、藤原氏一門(公家、女官た
ち)が、この佐保殿に集まり、必ず狭岡天神に参籠して『日待ちの神事』奉行精進潔斎
をして、それより日の出を待って国政に掌り、春日社詣をしたと古事に出ています。
現在の狭岡神社は佐保の里一円の氏神様で、昔から、産業の天神、智恵の天神、災
難よけの天神さんであると崇拝され、その霊験あらたかなことは氏子中ではよく知られ
ているところであります
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狭穂姫の伝説
狭穂彦王の叛乱
狭穂毘売は垂仁天皇の皇后となっていた。ところがある日、兄の狭穂毘古に「お前は
夫と私どちらが愛おしいか」と尋ねられて「兄のほうが愛おしい」と答えたところ、短刀
を渡され天皇を暗殺するように言われる。
妻を心から愛している天皇は何の疑問も抱かず姫の膝枕で眠りにつき、姫は三度短
刀を振りかざすが夫不憫さに耐えられず涙をこぼしてしまう。目が覚めた天皇から、夢
の中で「錦色の小蛇が私の首に巻きつき、佐保の方角から雨雲が起こり私の頬に雨が
かかった。」これはどういう意味だろうと言われ、狭穂毘売は暗殺未遂の顛末を述べた
後兄の元へ逃れてしまった。
反逆者は討伐せねばならないが、天皇は姫を深く愛しており、姫の腹には天皇の子が
すくすくと育っていた。姫も息子を道連れにするのが忍びなく天皇に息子を引き取るよう
に頼んだ。
天皇は敏捷な兵士を差し向けて息子を渡しに来た姫を奪還させようとするが、姫の決意
は固かった。髪は剃りあげて鬘にし腕輪の糸は切り目を入れてあり衣装も酒で腐らせて
兵士が触れるそばから破けてしまったため姫の奪還は叶わない。天皇が「この子の名は
どうしたらよいか」と尋ねると、姫は「火の中で産んだのですから、名は本牟智和気御子
とつけたらよいでしょう」と申し上げた。また天皇が「お前が結んだ下紐は、誰が解いてく
れるのか」と尋ねると、姫は「旦波比古多多須美知能宇斯王に兄比売と弟比売という姉
妹がいます。彼女らは忠誠な民です。故に二人をお召しになるのがよいでしょう」と申し
上げた。そうして炎に包まれた稲城の中で、狭穂毘売は兄に殉じてしまった。

不退寺へ向かう
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不退寺
平安遷都ののち、平城京をなつかしむ平城天皇は、上皇として都を再び平城京に戻す
ことを画策されたが成功せず、都を逃れてこの地に萱御所を営みました。上皇の崩御
後は、皇子阿保親王と在原業平が後を引き縦ぎ、承和14年(847)に業平自らが聖観
音像を刻んで当寺を開基したのが始まりとされ、別名「業平寺」とも呼ばれています。
近世の地誌類が伝える縁起によれば、大同4年(809年)、平城天皇が譲位してのち隠
棲し「萱の御所」と称したのが始まりとされ、その後平城天皇の皇子である阿保親王、
更に阿保親王の5男である在原業平が暮らしたという。伊勢神宮参詣時に受けた神勅
を機に業平が自ら聖観音像を刻み、「不退転法輪寺」と号して阿保親王の菩提を弔っ
たのが、寺院としての始まりと伝えられている。
寺の近辺からは平安時代前期の古瓦や木簡が出土しており、創建がその頃までさか
のぼることは認められるが、中世以前の沿革はあまり明らかでない。
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佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群・ウワナベ古墳・コナベ古墳
・ウワナベ古墳
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航空自衛隊奈良基地
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・コナベ古墳
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・水上池
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此処までは、
2月19日の歩こう!奈良の裏道 歴史の道-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-02-26
続きは、磐之媛命陵(ヒシアゲ古墳)~
・磐之媛命陵(ヒシアゲ古墳)
ヒシアゲ古墳は、奈良県奈良市佐紀町にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀
盾列古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「平城坂上陵(ならさかのえの
みささぎ)」として第16代仁徳天皇皇后の磐之媛命の陵に治定されている。
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※磐之媛命(いわのひめのみこと)
磐之媛命(いわのひめのみこと、生年不詳 - 仁徳天皇35年6月(347年)は、古墳時代
の皇妃。『日本書紀』では磐之媛、『古事記』では石之日売、その他、いはのひめ、磐
姫とも記す。仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとり。仁徳天皇2年(314年)立后。葛城
襲津彦の娘で、武内宿禰の孫にあたり、皇族外の身分から皇后となった初例とされる。
孝元天皇の男系来孫(古事記では玄孫)。仁徳天皇の男御子5人のうちの4人(履中天
皇・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇)の母。記紀によるととても嫉妬深く、仁徳天皇
30年(342年)に、彼女が熊野に遊びに出た隙に夫の仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異
母妹。磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城
宮(現在の京都府京田辺市多々羅付近)に移り、同地で没した。

水上池・・・白鳥が?
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平城宮跡遺構展示館(昼食)
平城京発掘調査で見つかった遺構をそのまま見ることができるほか、第一次大極殿
や 内裏の復元模型を展示しています。

海龍王寺
海龍王寺(かいりゅうおうじ)は、奈良県奈良市法華寺北町にある真言律宗の寺院。
平城宮跡の東方、総国分尼寺として知られる法華寺の東北に隣接している。
本尊は十一面観音。光明皇后の皇后宮(藤原不比等の邸宅跡)の北東隅に建てら
れたことから隅寺(すみでら)の別称がある。
海龍王寺は、『続日本紀』、正倉院文書などの奈良時代の記録では「隅寺」「隅院」
「角寺」「角院」などと呼ばれている。正倉院文書では天平8年(736年)には「隅院」の
存在が確認できる。「隅寺」とは、皇后宮(藤原不比等邸跡)の東北の隅にあったこと
から付けられた名称と言われている。
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法華寺へ向かう
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法華寺
法華寺と海龍王寺のある一画は、かつては藤原不比等の邸宅であった。養老4年
(720年)の不比等の死後、邸宅は娘の光明皇后が相続して皇后宮となり、天平17
年(745年)にはこれが宮寺(のちの法華寺)となった。
光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られる(門跡寺院とは、皇族、貴族の子女など
が住職となる格式の高い寺院の称)。東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、
法華寺は総国分尼寺と位置づけられ、詳しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいの
てら)といった。
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東院庭園
平城宮は他の日本古代都城の宮殿地区には例のない東の張出し部を持ちます。
この張出し部の南半は、奈良時代をつうじて「東宮」とよばれたようですが、孝謙・
称徳天皇の時代にはとくに「東院」とよばれていました。
称徳天皇はこの地に「東院玉殿」を建て、宴会や儀式を催しました。最近の研究
では、光仁天皇の「楊梅宮」はもとより、聖武天皇の「南苑(南樹苑)」もこの場所
を中心として営まれていたとする説があります。

平城宮跡大極殿
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平城宮跡朱雀門
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西大寺駅へ向かう
西大寺駅(解散)
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郡山駅~源九郎稲荷神社へ向う
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源九郎稲荷神社
源九郎稲荷神社は 日本三大稲荷の1つに数えられ、大和郡山城主大納言豊臣秀長
さんが郡山の鎮守として祀った神社であり、「大和の大和の源九郎さん」として親しま
れています。神社の名前である源九郎は、歌舞伎の「義経千本桜」にも出てくる源九
郎狐のことであり、この狐は、静御前が持つ初音の鼓が両親の皮で出来ていたことか
ら、それを慕って源義経の家来に化けて、義経と静に寄り添い兄頼朝に追われた二人
を守り通します。しかし、途中、義経に狐であることを見破られてしまいます。 義経は、
親を慕う狐に同情し、また自分達を狐の神通力で守り通してくれたことに感謝し、自分
の幼少名である「 源九郎」の名をこの狐に与えます。この神社は、その源九郎狐ゆか
りの神社です。
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JR郡山駅へ向かう
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薬園八幡神社(やくおんはちまんじんじゃ)
八幡神社は、日本人にとってなじみのある神社ではなかろうか。八幡宮とも呼ばれ、
主に、神道において応神天皇の神霊とされる八幡神を祀っている。八幡神社は末社
を含むと、全国で4万社以上あるともいわれ、大分県宇佐市にある宇佐八幡(正式
には宇佐神宮)が総本社だ。 八幡神は、東大寺の大仏造立の際、その守護神とし
て勧請され、はるばる北九州から奈良へとやって来られた。
大仏鋳造直後の12月18日、八幡神は平群郡(現在の大和郡山市南部)から入京する。
平城京の南、梨原宮(なしはらのみや)において神殿を造って神宮とし、八幡神を迎え
祀った。
入京する際、八幡神が立ち寄った「梨原」は、かつて広大な薬園があったとされる地だ。
東大寺へと向かう際、八幡神の分霊をこの地の神殿にとどめて祀ったとされ、それが
薬園八幡神社の創始といわれる。翌750年、今の同社御旅所の地である清澄荘薬園
に遷座した後、1491年、郡山城築城に伴って現在の社地に移された。
薬園八幡神社のある一帯は奈良時代、「薬園の庄」とも呼ばれていた。その名残を偲
ばせるかのように、八幡神がとどまりし古社には薬草が植えられ、今も緑の葉をそっと
揺らしている。
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JR郡山駅~王寺駅~バスで自宅へ

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2月17日の酒蔵みてある記 長龍酒造「長龍」-2

2月21日         2月17日の酒蔵みてある記 長龍酒造「長龍」-2
                  近鉄駅フリーハイキング 歩程約7㎞
知人と2人で参加、午前中はポカポカ陽気だったが午後は冷たい風が吹き酒蔵から駅
へ向かう頃には雨粒が顔にも?馬見丘陵公園の北エリアでTV撮影、ナイナイの”お見
合い大作戦”のリハーサル?が行われていて寒そうだったが此れに少々お付き合い・・
テレビ放映は4月頃に?
コース  近鉄ハイキング  五位堂駅北口ロータリー受付10時~11時
五位堂駅(受付)~かつらぎの道・横峰近隣公園~牧野(ばくや)古墳~竹取公園~馬
見陵公園(ナガレ山古墳)~北エリア・ナイナイの”お見合い大作戦”の撮影~長龍酒造
(無料試飲&振舞い酒・抽選会)解散~箸尾駅 →王寺駅で知人と別れて・・・
参加者は、1400人超、此の日の私の万歩計は、18130歩で約13.4km歩いたことに・・・
志都美駅
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香芝駅~近鉄下田駅へ乗り換え
加島神社
香芝の地名は当社の「カシマ」に由来するともいわれています。 『もりのみやさん』
『おうぎのみやさん』とも呼び親しまれ、 往古からこの地の守り神《鎮守の杜》として、
広く皆様から大切にされています。
創建は第80代高倉天皇の承安2年(1172年)3月に、源義朝の家臣であった鎌田
政清の子・鎌田小次(二)郎政光が常陸国(現、茨城県)鹿島神宮の御分霊を勧請し
たのが始まりとされます。
当社に伝わる古文書(鹿嶋文書※)によると、平治元(1159)年、平治の乱にあって
源義朝が平清盛に敗れ、東国へ敗走中に義朝の第一の家臣であった鎌田兵衛藤原
政清の舅 尾張国(現、愛知県)半田郡野間の長田庄司忠致に匿われました。 しかし、
忠致は恩賞目当てに義朝を浴場で暗殺、政清も忠致の子景致に殺害され、随行家来
の大半は討死致しました。鎌田政清の子・政光はかろうじて難を逃れ、常陸国 鹿嶋神
宮に辿り着いたとされています。 そこで、源氏の再興を祈願し、百日の参籠を行い、昼
夜一心に法華経を誦唱しました。 満願の夜、夢に一老翁が現れ「庚子(の年)源氏栄
え、汝の福 西にあり」との御神託があり、御分霊の御幣を奉じ西方へと向いました。大
和の下田の里で夕暮れとなり、土手(田のほとりとするものもある)の松の木の下で野
宿し、翌朝この地の景色が極めて鹿嶋に似ていた為、懐かしく思いここに小祠を建て
鹿嶋大明神を祀ったといわれます。
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下田駅~五位堂駅
五位堂駅前で受付
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かつらぎの道~牧野(ばくや)古墳
牧野古墳(ばくやこふん)は、奈良県北葛城郡広陵町に所在する古墳時代後期の
円墳である。1957年に国の史跡に指定されている。
本古墳は、奈良盆地の西側に拡がる馬見丘陵の尾根先端部に位置し、馬見古墳群の
中央群に属する。築造は石室や石棺、出土遺物から6世紀末と見られている。この頃か
ら7世紀初頭にかけて、列島各地で大王墓や首長墓として造り続けられてきた前方後円
墳が築造されなくなる。代わって採用されたのは方墳や円墳でる。このことは前方後円墳
祭祀が終焉を迎えたことを示しており、古墳の形態で力を誇示する時代[ではなくなった。
埋葬施設は墳丘の中ほどに造られており、南面に開口した両袖式の全長17.1mの横穴
式石室である。この石室は巨石を積んでおり、明日香村の石舞台古墳に次ぐ規模である。
本古墳は、この時期では墳丘規模が最大級であることから、被葬者は大王に近い支配
者層の墓と考えられ、敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子であると推定されている。
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この古墳公園の駐車場の横には、ちかくの文代山古墳より発掘された長持型
石棺の底部分が、展示されていますというか置かれています
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※文代山古墳 (ぶんじろやま) 古墳
猪形埴輪出土で知られる馬見丘陵中央群で唯一の独立方墳です。
:この古墳から出土したと伝えられる長持式石棺の底石(竜山石製)が西方にある下水
の吐水口に転用されていたが現在、牧野古墳公園に移設されており見ることが出来る。

竹取公園
かぐや姫伝説の地
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馬見丘陵公園
蝋梅が咲いていたが河津桜は未だ咲いていない
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馬見丘陵公園 梅林
数本の梅が咲いていてカメラマンが・・・
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此処までは、
2月17日の酒蔵みてある記 長龍酒造「長龍」-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-02-21
続きは、馬見丘陵公園 上池~
上池
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陽だまり広場へ
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下池
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馬見丘陵公園 北エリアではイベントが
ナイナイの”お見合い大作戦”撮影中・・・奈良県川合町 男性17名 
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馬見丘陵公園
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長龍酒造へ
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高田川を渡り長龍酒造へ
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もう帰りの人もいる
お見合い大作戦のロケを見に行くのか?
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長龍酒造へ長蛇の列
昇道無窮極(しょうどうむきゅうきょく)この言葉を胸に日々精進しています。
社名 長龍酒造株式会社  創業 1923年(大正12年)
1923年 飯田弟一、生家の飯田酒造場(1868年創業 現在の奈良県天理市㈱飯田
本店)より独立し、八尾に酒の小売店開業。間口二間の店に店員一人、生家の清酒
「長龍」120本を元手とする。
1941年 戦時体制により酒類販売を中断。飯田木工株式会社設立。 樽・木製ドラム・
バケツ等の製造販売を行う。
1963年 長龍酒造株式会社設立。八尾工場を竣工して共同びん詰場の免許を取得、
原酒の貯蔵と「長龍」のびん詰作業を始める。
1964年 画期的新商品、樽酒のびん詰「吉野杉の樽酒」の開発に成功。 「吉野杉の
樽酒」の販路を全国に拡げる。1968年 「慶雲長龍」発売
1971年 長龍酒造株式会社第二貯蔵庫竣工。炎暑の夏も高品質を保つ完璧な温度
管理を実現。 1979年 広陵酒造株式会社 設立 広陵蔵で醸造開始
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甘酒~試飲~販売所~抽選会
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箸尾駅へ
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箸尾駅~新王寺駅、王寺駅で知人と別れて

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2月8日~13日・引き続き奄美大島滞在-2

2月21日       2月8日~13日・引き続き奄美大島滞在-2
                 73才全国同窓会に出席
2月5日~7日の歩こう会特別企画で奄美大島への旅に引き続き、1人奄美に居残って
2月10日の73才全国同窓会に出席、故郷の加計呂麻島へ渡って先祖の墓参りを済ま
せて帰阪することにした・・・・
2月8日、9日は奄美市名瀬浦上町の叔母の家に居候、庭木の手入れと大工仕事等・・・
2月10日は、叔母と一緒に奄美大島南部の瀬戸内町古仁屋へ、叔母は教え子の薩川
中学校卒業の還暦全国同窓会に出席、叔母は教え子たちと民宿に1泊、私は瀬戸内町
の73才全国同窓会に出席して古仁屋のホテルに1泊・・・
2月11日は、叔母と一緒にフエリーで故郷の加計呂麻島へ渡り先祖のお墓へ手を合わ
せて何故か加計呂麻島へ渡ってた同窓生に夕陽の丘や実久海岸、ガジュマル大木、伊
子茂守君等を案内して旧交をあたため、奄美市の叔母の家へ戻り、13日に帰阪した・・・
2月8日奄美市
玄関は網戸1近所に住む1人の叔母の家と近くの従弟の家を訪ねたが皆網戸で・・・
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2月10日
奄美大島の南部、瀬戸内町の古仁屋へ
先ず日本で唯一の海上国道で日本で一番長い国道、国道58号線の碑
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瀬戸内町古仁屋
海の駅の公園に巨大マグロのオブジェ、マグロ養殖日本一の町
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古仁屋港
フェリー「かけろま」、加計呂麻島へ渡るフエリーや海上タクシー
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古仁屋港
海の駅2Fでの「73才全国同窓会」に64人が参加
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同窓会終了後は粗全員で二次会のライブハウスへ、ライブハウスで11時45分迄、
その後は小グループに分かれてカラオケやカラオケスナックでの三次会へ繰り出して
私ら7人は同窓生の経営するカラオケスナックへ行き、ホテルへ戻ったのは深夜2時・・
2月11日
6時起床、6時半に朝食を摂り、民宿に叔母を迎えに行き、7時のフェリーで加計呂麻島へ
加計呂麻島瀬相港へ25分で到着、故郷の島の西側の芝集落へ着いたのは、朝8時頃
最近資料が見つかり今年1月7日に序幕式を済ませた明治13年に設立「芝小学校」跡の
記念碑・・・
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生家を開けて入り、線香とお酒と花を持って
先祖の墓参りに行き、墓参りを済ませた後、親戚を訪ねる、海岸も綺麗
島では此の時期にもポインセチアが庭先でさいている、菜の花も綺麗だ
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瀬相港から古仁屋へ向かうフェリー出港迄未だ時間が有る
加計呂麻島へ渡ってた同窓生に夕陽の丘や実久海岸、ガジュマル大木、
伊子茂守君等を案内して旧交をあたためた
夕日の丘・・・東シナ海へ沈む夕日の絶景ポイント
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実久集落
源為朝が琉球へ渡る前に、加計呂麻島実久に上陸し、此の地の女性との間に豪傑
実久三次郎が生まれたと言う伝説が有ります実久三次郎神社の境内には、実久三
次郎のものと伝えられる大きな足跡が残る石が保存されています。
実久海岸
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此処までは、
2月8日~13日・奄美大島滞在-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-02-20
続きは、瀬相港~
瀬相港
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於斎集落の海岸線に立派なガジュマルが有る、幹回りはそんなに太く
ないが数多く 垂れ下がった気根が大地にしっかり根をはり、まるで城のようだ・・・
ガジュマルの大木
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伊子茂守君
伊子茂小学校の正門を見つめるお巡りさん
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古仁屋へ戻って
もう一度国道58号線の石碑をじっくり見る
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叔母が嘉鉄集落を通った事が無いと言うので
少し遠回りになるが、嘉鉄集落経由で帰る事にした
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2月12日~13日
奄美市浦上町の叔母の家
黄鈴樹・・・ キンレイジュ(金鈴樹)
キンレイジュ(金鈴樹)
ノウゼンカズラ科テコマ属の常緑低木で、原産地は北アメリカ南部(フロリダ州やテキサ
ス州からアリゾナ州)、熱帯アメリカです。英名をイエローベル(yellow bells)と言います。
葉は羽状複葉で鋸歯があります。枝先に鮮やかな黄色い鈴状の花を咲かせ、花はよい
香りがします。
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2月13日 奄美空港→関西空港
奄美空港
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いよいよ搭乗
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奄美空港→関西国際空港
関西空港へ到着 無事帰阪

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2月5日~7日・歩こう会 奄美大島への旅-2

2月18日     2月5日~7日・歩こう会 奄美大島への旅-2
               社友会 歩こう会の特別企画
社友会 歩こう会の特別企画として「奄美大島へ2泊3日の旅」を企画推進して実現、
2月5日~7日の奄美大島への旅が社友会の企画とはならず歩こう会の特別企画と
して、参加者21名で無事に?滞りなく実施され、皆が楽しい、有意義な旅だった、と。
2月5日(月)関西空港から奄美空港へ
奄美大島は曇り時々小雨、この日予定の現地でのナイトツアーは雨で中止に・・・
関西空港→奄美空港→あやまる岬→奄美パーク→「ひさ倉」で郷土料理鶏飯の夕食
自宅~関西空港
新今宮駅でラピートを撮る
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関西空港
バニラエアー エアバスA320
エアバスA320(Airbus A320)は、欧州エアバス社が製造した近・中距離向け商業 旅
客機である。民間機として初めてデジタル式フライ・バイ・ワイヤ制御システムを採用し
たハイテク旅客機であり、サイドスティックによる操縦を採用しているのが特徴である。
座席数は標準2クラス仕様で150席程度。
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関西空湊~奄美空港
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奄美空港到着
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あやまる岬
奄美で最もメジャーな景観スポット. あやまる岬. 奄美十景のひとつ。 あやまる岬の石碑
には、あやまる岬の名前の由来が書かれている。 小高い丘にある展望 台から眺められ
るのは、左手に笠利崎。正面に太平洋、右手に土盛海岸を一望できる大 パノラマ。
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奄美パーク(旧奄美空港)
奄美の自然、歴史、文化を映像や展示などで楽しく学び、また最新の観光情報を提供し
ます。 奄美の自然に魅了された不遇の天才画家・田中一村の数々の傑作を展示する
一村美術館もあります。
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「ひさ倉」で郷土料理鶏飯の夕食
郷土料理. 「鶏飯(けいはん)」はお椀に入れたご飯の上にほぐした鶏肉、 椎茸、錦糸卵、
パパイヤ漬けなどの具材と薬味をのせて鶏ガラで出汁をとったスープを かけた料理で、
奄美大島地方の郷土料理です。「鶏飯」というと一般的には 鶏肉を入れた炊き込みご飯
が思い浮かびますが、奄美の郷土料理である「鶏飯」は 「とりめし」ではなく「けいはん」と
呼び、スープをご飯にかける「お茶漬け」のような料理 です。鹿児島県内でも人気料理と
して一般的に食されています。
奄美の鶏飯. 郷土に伝わる由来. 奄美の鶏飯は、様々な具を使った手のこんだ料理であ
る。 薩摩藩の支配下におかれた奄美群島の人々 は、厳しい圧政の中でさとうきびを栽
培して黒砂糖を作り、藩におさめていた。 島の素朴 な女たちが,本土から渡ってくる威圧
的な役人の気持ちを少しでもやわらげようと祈り つつ、できる限りのぜいたくなもてなしを
するため料理をしたと言われている。
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2月6日(火)曇り時々小雨
希望者のみの早朝散歩 名瀬旧港&名瀬商港&屋仁川通り入口 約5km
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ホテル→大浜海浜公園→住用マングローブパーク(園内散策・カヌー体験・昼食)→
大島紬村→ショッピングセンタービッグツーでお土産買い物→ホテル・夕食
大浜海浜公園・海洋展示館
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住用マングローブパーク(園内散策・カヌー体験・昼食)
黒潮の森 マングローブパーク(道の駅奄美大島住用)奄美.黒潮の森 マングローブ
パーク(道の駅奄美大島住用)は.沖縄の西表島に次いで、日本で2番目の大きさを
誇るマングローブ原生林。絶滅危惧種のリュキュウアユなど、貴重な動植物も生息
し ています。マングローブが生い茂る水路を巡るカヌーツアーもおすすめです。
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13人がカヌー体験
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カヌーを見送って展望台へ
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展望台を降りて
園内を散策、ヒカゲヘゴ&緋寒桜
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昼食後も園内散策
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奄美大島紬村
本場奄美大島紬の織元が運営する大島紬の観光庭園である大島紬村です。奄美大
島を観光する上で本場奄美大島紬はもっとも重要なポイント です。大島紬製造工場
は南国亜熱帯植物庭園の中に併設されており、奄美大島 の豊かな自然を堪能しな
がら大島紬の製造現場をご見学できます。
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ショッピングセンタービッグツーでお土産買い物
ホテル・夕食
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此処までは、
2月5日~7日・歩こう会 奄美大島への旅-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-02-18
続きは、2月7日(水)の早朝散歩~
2月7日(水)曇り時々小雨
希望者のみ早朝散歩 朝仁海岸&千年松公園&長浜港公園 約6km
朝仁の千年松
400年超えている朝仁の千年松、周辺の琉球松はマツクイ虫にやられて殆ど立ち枯れ。
そもそもマツクイ虫とは(マツノマダラカミキリとマツノザイ線虫の共同作業?)
400年超えて生きている千年松、枯らさないで欲しい・・・
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ホテルへ戻って
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ホテル→佐大熊峠→東シナ海側展望台→蘇鉄群生地・糸芭蕉群生地→西郷南洲隆盛
の家見学→黒糖焼酎蔵(浜千鳥館&宝物館)見学→太平洋側海岸→奄美空港
ホテル→佐大熊峠→東シナ海側展望台
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安木屋場海岸・蘇鉄群生地・糸芭蕉群生地
糸芭蕉
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安木屋場海岸
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西郷南洲隆盛の家見学
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大島酒造・・・黒糖焼酎蔵(浜千鳥館&宝物館)見学
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試飲、昼食、買い物
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太平洋側海岸→奄美空港→関西空港へ
13日迄奄美に居残りの私を残して皆さん無事帰阪、大阪は寒かった様です、特に。。。
旅は道連れ世は情けとは良く言ったもの、今回の2泊3日の旅は、しまバスの運転手さん
とバスガイドさんに大変お世話になりました、とても物知りで歌も上手なバスガイドさんに
皆さん感謝、奄美にこんな素敵なバスガイドさんが居て下さって大変心強く思いました・・・

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1月28日の当麻寺お練リ&石光寺~大倉本家(酒)-2

2月1日     1月28日の当麻寺お練リ&石光寺~大倉本家(酒)-2
               葛城市観光ボランティアガイドの会
此の日は知人と3人で当麻寺お練リ&石光寺~大倉本家(酒)歩程7㎞を歩く・・・
午前中は、葛城市観光ボランティアガイドの会主催の当麻寺のお練りと白鳳文化を
探る(伝統行事の当麻でらのお練り実演・講演会)を當麻文化会館で学び、午後から
は我々独自にハイキングコースを企画して、当麻寺~中将姫墓塔~石光寺~二上
パーク~大倉本家(酒蔵)~当麻寺駅前中将餅屋でお茶して解散する事に・・・・

コース   磐城駅に9:13分着  當麻文化会館の開場 9:30~開園予定
当麻寺のお練り実演&講演会(10時~11時30)護念院住職&勢至&観音菩薩役 
講演会終了後~我々は、
当麻寺~中将姫墓塔~石光寺館牡丹鑑賞~二上パーク休憩所で弁当~大倉本家
(酒蔵)で試飲(@500円)、此処で雪が降り出して~当麻寺駅前迄傘を開いて中将餅
屋へ、満席で暫く待たされる羽目になったが中将餅でお茶し(餅2ヶとお茶@300円)、
お土産に中将餅を各々購入して尺土駅で「あみま倶楽部手帳」に捺印貰って帰途へ

此の日は、当麻寺のお練り実演&講演に感動、お練り行事では、見る事の出来ない
勢至菩薩と観音菩薩のお堂内での所作を見る事も出来て、本当に参加して良かった。
此の日の私の万歩計は、20591歩で約15.2km歩いたことに・・・
※当麻寺のお練り
平安時代に恵心僧都源信によって創始されたと言う「聖衆来迎供養会式」は、其の後
1000年余りも信仰と地域の伝統行事として続けられている。、
磐城駅~當麻文化会館 
講演会終了後、当麻寺へ向かう
二上山
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当麻寺
當麻寺(たいまでら、常用漢字体:当麻寺)は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院。
法号は「禅林寺」。山号は「二上山」。創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信
仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)である。宗派は高野山真言宗と浄土宗の
並立となっている。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創につ
いては不明な点が多い。
西方極楽浄土の様子を表した「当麻曼荼羅」の信仰と、曼荼羅にまつわる中将姫伝説で
知られる古寺である。毎年5月14日に行われる練供養会式(ねりくようえしき)には多くの
見物人が集まるが、この行事も当麻曼荼羅と中将姫にかかわるものである。奈良時代 -
平安時代初期建立の2基の三重塔(東塔・西塔)があり、近世以前建立の東西両塔が残
る日本唯一の寺としても知られる。
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當麻寺の黒門を出て中将姫墓塔へ向かう
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この地蔵堂の後ろに墓塔がある
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中将姫墓塔
當麻北共同墓地内にあります。
花崗岩で造られた十三重塔で、鎌倉時代末期の様式です。
横に建つ石造三重塔は平安時代後期の作です。
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※中将姫伝説
今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれる
ようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。
中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。ところが、
姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿
を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにし
てきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて
當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。姫が五色の蓮糸を用い、一夜にし
て織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、
たちまち五色に染め上がった。當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。
姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったの
であった。

石光寺
別名「染寺(そめでら)」とも呼ばれ、中将姫(747〜775)ゆかりの「染の井」と「糸掛桜」がある。
右大臣藤原豊成(704〜765)の娘、中将姫は美貌で知られたが、 17歳で出家、当麻寺にこ
もるうち霊感を得て蓮の茎を集め、糸を採り出した。 そして石光寺の庭に 井戸を掘り、糸を
浸したところ五色に染まった。 それが染の井で、傍らの桜の枝にかけ たのが糸掛け桜。中
将姫はその蓮糸で一夜のうちに当麻曼茶羅を織りあげたという伝説がある。 境内には牡丹、
芍薬、アジサイ、桜、さるすべりなど、四季おりおりの花が あります。
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ミツマタの蕾?
ミツマタは、中国・ヒマラヤ地方が原産地とされていて、ジンチョウゲ科ミツマタ属の冬に葉
を落とす落葉低木です。新芽が芽吹く前の2月~4月にかけて枝先に花だけが開花し、早
春を告げる花として親しまれてきました。その小さい花の姿は、びらはなく銀色の綿毛に覆
われており、かわいらしい黄色の花がボンボンのように丸く密集した状態で咲きます。
蜂の巣をぶらさげたように下を向いて咲く花には芳香があり、その香りは春の訪れを連想
させるような、甘酸っぱい可憐な香りです。
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中将姫の染井戸
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寒牡丹他
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此の続きは、
1月28日の当麻寺お練リ&石光寺~大倉本家(酒)-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-02-01
続きも、石光寺の万両、寒牡丹、蝋梅他
石光寺の万両
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寒牡丹
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蝋梅他
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石光寺を後に二上パークへ向かう
二上山
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二上パーク休憩所
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香芝市鎌田の
大倉本家(酒造)・・・HPより
明治29年(1896年) 大倉勝治商店として創業。
以来、吟醸酒には「速醸酒母」も用いますが、それ以外は普通酒に至るまで、すべて
山廃酒母で仕込んでいます。
昭和7年頃より 奈良県神社庁の委託を受け、「御神酒」造りが始まりました。
戦時中 原料米を入手するのが困難な状況においても、品質第一のお酒のご提供を
させて頂き、戦後2代目勝治のもと、販路を拡大させて頂けたと聞いております。
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当麻寺駅前
中将餅でお茶・・・
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尺土駅で「あみま倶楽部手帳」に改札印を貰って帰途へ
私は高田市駅~大和高田駅へむかう
石園座多久虫玉神社(いわぞのにいますたくむしたまじんじゃ)
          又は、(いそのにますたくむしたまじんじゃ)とも・・・
通称 竜王宮として地元住民からは篤い信仰を集めている式内社。
尚、横大路に沿うように、大神神社を龍の頭、当神社を龍の胴、葛城市の長尾神社
を龍の尾とする伝承がある。
建玉依比古命・建玉依比賣命を主祭神とし、豊玉比古命・豊玉比賣命を配祀する。
建玉依比古命とは、賀茂別雷神社(上賀茂神社)摂社・土師尾社や日吉大社摂社・
樹下若宮に祀られる鴨玉依比古命のこととされる。ただし、社名からは、本来の祭
神は「多久虫玉神」ということになる。
創建年代は不明であるが、第三代安寧天皇の時代の都である片塩浮穴宮跡の伝
承地に鎮座している。崇神天皇の時代に勅祭が行われたと伝えられる。延喜式神
名帳では「大和国葛下郡 石園坐多久虫玉神社 二座」と記載され、大社に列し、月
次・新嘗の幣帛に預ると記されている。
古くは「射園神:いそのかみ」と呼ばれたという。石上神宮がある石上(いそのかみ)
と何らかの関係があるのか興味深い。また、宮中に祀られていた園神神社と関係が
あるとの説もある。
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大和高田駅
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五位堂駅
二上山を・・・
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