So-net無料ブログ作成

4月20日の新家長福寺、23日の滝川の鯉のぼり

4月27日      4月20日の新家長福寺、23日の滝川の鯉のぼり
               花の寺・新家長福寺と町内の鯉のぼり
4月20日
家内と一緒に隣り町広陵の花の寺・新家長福寺へ行ってみた
広陵町の駐車場に車を停めて新家長福寺へ向かう
IMG_0022.JPGIMG_0023.JPGIMG_0040.JPG

お寺の塀の外へ見える八重桜を見て期待して
IMG_0024.JPG
新家長福寺(しんけ・ちょうふくじ)山門
「赤長」(赤部長福寺)として親しまれています。慶秀さんのお寺です。境内に桜
が多く、地元の人からは「桜御坊」と呼ばれ、親しまれている。八重桜が多い。
慶秀さん(1554~1609)(生没年は寺伝書により記す)
本願寺12世教如上人の教学的側近。・慶秀は慶長10年(1605)に『正信念仏偈
私記』を、翌年に『三帖和讃私記』を著わすなど、高倉学寮創立、以前から教学・
教化の先駆的な役割を果たしました。慶秀は教如上人から本願寺寺内の堀川七
条に寺地を与えられ、長福寺と号していました。寺跡は、後に山科本願寺の跡地
に再建するため移築され、現在の山科別院長福寺(京都市山科区)として継承。
長福寺沿革
天正元年(1573)、慶秀、大和国赤部に長福寺を開く。(長福寺の尊号を本山より
許される。)(寺伝書による)・元亀3年(1572)、19歳にして本願寺11世顕如上人
に謁し、随従帰敬し法名を得て慶秀と改める。その後、教如上人に随い、京都堀
川七条に寺地を与えられ、長福寺と号した。又、教如上人東本願寺創立に際し慶
秀は教如上人に随い大いに功があり、家康から箸尾城主に命じて大和国新家の
山林を与えられた。長福寺第二代空円(第三代斉円とも)は、拝領の地に新たに
一宇を建立し、これも長福寺の号を戴いた(現在の新家長福寺)
長福寺第三代斉円没するに臨み、三長福寺を本願寺に寄付した。京都堀川七条
の長福寺を山科御坊と称し、新家の地の長福寺を本山の掛所とし、赤部の地の
長福寺を斉円に下付し持坊住職地と定めた。平成20年(2008)、慶秀400回忌記
念法要を勤め慶秀墓を修復し境内前庭に移設した。
IMG_0025.JPGIMG_0026.JPGIMG_0027.JPGIMG_0028.JPG
IMG_0028.JPGIMG_0029.JPGIMG_0030.JPGIMG_0031.JPGIMG_0032.JPGIMG_0033.JPGIMG_0034.JPGIMG_0035.JPGIMG_0036.JPGIMG_0037.JPGIMG_0038.JPGIMG_0039.JPG

4月23日
町内・滝川の鯉のぼり
IMG_0041.JPGIMG_0042.JPGIMG_0043.JPGIMG_0044.JPGIMG_0045.JPGIMG_0046.JPG
nice!(28)  コメント(4) 

4月17日のウワナベ古墳~神功皇后陵古墳へ古墳巡り-2

4月22日     4月17日のウワナベ古墳~神功皇后陵古墳へ古墳巡り-2
        6月度歩こう会のコース下見 10km
此の日は、6月度歩こう会のコース(8km)下見に5名でおまけも入れて10km歩いた。
コース   てくてくマップ奈良② 歴史の道ウワナベ古墳~秋篠寺コース
新大宮駅(10時)~芸亭伝承地~ウワナベ古墳~航空自衛隊奈良基地~コナベ古墳
~磐之媛命陵~水上池~平城宮跡遺構展示館(昼食)~平城天皇陵~佐紀神社~隆
光大僧正墓石~佐紀神社~釣殿神社~八幡神社~日葉酢媛命陵~成務天皇陵~福
松大神~八幡神社~神功皇后陵~秋篠寺~八所御霊神社~大和西大寺駅(ゴール)
6月度歩こう会には新大宮駅~佐紀縦列古墳群めぐり~平城駅(8km)コースを予定。
此の日は、おまけの秋篠寺~八所御霊神社~大和西大寺駅迄10kmを歩いたので私
の万歩計は、25763歩で約19km歩いたことに・・・
新大宮駅~佐保川を渡り
IMG_9912.JPGIMG_9913.JPG
芸亭(うんてい)伝承地
「芸亭」(うんてい)とは,日本で最初の公開図書館とされている施設。
8世紀末,奈良時代後期に 有力貴族であった石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ)が 平
城京(現・奈良市)に設置した。芸亭院(うんていいん)とも呼ばれる。
石上宅嗣は大納言の地位にまで昇る一方で,知識人であり 熱心な仏教信者でもあった。
自分の邸宅を阿閤寺として改築した際に,敷地の一部に古今の書籍を収蔵し 希望者に
閲覧を許したのが芸亭の始まりとされている。
奈良時代,個人で蔵書を集める風潮が芽生え「公家文庫」と呼ばれる蔵書が出現した。
芸亭は 公家文庫のうちでも最も古いものの一つである。
芸亭以前にも 8世紀の初めごろ,国家の蔵書を管理する組織“図書寮(ずしょりょう)”が
中務省(現在の宮内庁に相当)開設されているが,ここは役所内の施設であり, 一般公
開はされていなかった。
IMG_9914.JPG
ウワナベ古墳
ウワナベ古墳・コナベ古墳
周囲に壕をめぐらせた巨大な前方後円墳で、いずれも松の緑におおわれています。
東側が全長255mのウワナベ、ひと回り小さな西側がコナベで全長204m。コナベ古
墳のまわりには副葬品などを納めたとみられる方墳や円墳もあり、日本古墳時代中
期(5世紀)を代表する古墳です。
IMG_9917.JPG
自衛隊奈良基地
奈良基地(ならきち)とは、航空自衛隊幹部候補生学校が配置されている航空自衛隊
の基地である。奈良県内では唯一の自衛隊施設である(自衛隊奈良地方協力本部を
除く)。基地司令は、幹部候補生学校長が兼務。
航空機を運用する航空団や飛行隊などは配備されていない。よって滑走路も有してい
ないが連絡機用として基地グラウンド内に回転翼機が発着するスペースがあり化学消
防車も配備されている。基地内にはF-1戦闘機を始めとする航空自衛隊で使用された
航空機が野外展示されている。
IMG_9919.JPG

コナベ古墳
IMG_9918.JPG
磐之媛命陵
磐之媛命(いわのひめのみこと)
仁徳天皇の4人の皇后のうちのひとり。仁徳天皇2年(314年)立后。葛城襲津彦の娘
で、武内宿禰の孫にあたり、皇族外の身分から皇后となった初例とされる。孝元天皇
の男系来孫(古事記では玄孫)。仁徳天皇の男御子5人のうちの4人(履中天皇・住吉
仲皇子・反正天皇・允恭天皇)の母。記紀によるととても嫉妬深く、仁徳天皇30年(34
2年)に、彼女が熊野に遊びに出た隙に夫の仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異母妹。
磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮(現
在の京都府京田辺市多々羅付近)に移り、同地で没した。
妬み深い人物として知られる。その様から他の妾が宮殿に会いに行けず、仁徳天皇
は宮殿を離れた時か、彼女が宮殿から出かけた時に迎えいれるしかなかったという。
ただ、裏を返せばそれだけ仁徳天皇が多情であったということ・・・・
IMG_9920.JPGIMG_9921.JPGIMG_9923.JPG
水上池
平城宮跡にも近い野鳥の楽園は平城遷都前に設けられた「ため池」
水上池(みずかみいけ・みずがみいけ)は、平城宮跡北側の第一次大極殿や遺構展
示館等があるエリアからほど近い、佐紀盾列古墳群(ウワナベ古墳群)周辺にある奈
良市最大級の大規模なため池です。
天理市との境に位置する「白川溜池」のような護岸で固められた人工的な池を除いて
は、奈良市内で最も広大な池であり、かつ最も古い池の一つであるとされる水上池は、
『日本書紀』の垂仁天皇記において「倭の狭城池及び速見池をつくる」と記される中の
「狭城池」にあたると考えられ、その歴史は1300年前の「平城京遷都」をもはるかに
遡るものであるとも言われています。
IMG_9925.JPGIMG_9927.JPGIMG_9929.JPG

平城宮跡遺構展示館へ向かう
IMG_9931.JPGIMG_9932.JPG
平城宮跡遺構展示館・・・近くの広場で(昼食)
大和西大寺駅と新大宮駅の間に拡がる広大な緑の空間が、奈良時代に天皇の住まい
や官公庁が集まっていた平城宮跡です。 「平城宮跡資料館」では出土遺物や復元模
型の展示、「遺構展示館」では発掘状況をそのまま保存。復元された壮大な「朱雀門」、
奈良時代の庭園のようすがしのばれる「東院庭園」も復元されております。 また、平
城遷都1300年となる2010年には、宮跡の中核施設である第一次大極殿正殿も復元
されました。
IMG_9933.JPGIMG_9934.JPGIMG_9935.JPGIMG_9936.JPG
平城天皇陵
51代平城天皇(へいぜいてんのう)。父は桓武天皇、母は皇后天之高藤廣宗照姫之尊
御 陵 名は楊梅陵 (やまもものみささぎ) 、円丘
809年、平城天皇は病気を理由に弟の嵯峨天皇に譲位し、平安京を出て平城京に移り
住んだ。翌810年、健康を取り戻した平城上皇は藤原仲成・薬子兄妹らに担ぎ上げられ
て重祚(再び皇位につくこと)を企て、「都を平安京から平城京へ移す」と詔を出した。
このため平安京に住んでいた嵯峨天皇と対立し、平城上皇は挙兵のため東へ向かった。
しかし嵯峨天皇は先手を打って坂上田村麻呂を東に派遣しており、藤原仲成は処刑さ
れた。藤原薬子は服毒自殺し、平城上皇は出家した。 これを『薬子の変』と言う。
不退寺は『薬子の変』で敗れた平城天皇が出家後に住んだ『萱の御所』があった場所だ
と伝わっている。不退寺の西2kmほどのところに、市庭古墳があり平城天皇陵に比定さ
れている。市庭古墳は5世紀につくられた古墳だと考えられる。平城天皇は平安時代の
人物なので、市庭古墳は平城天皇陵ではないとする説と、平城天皇陵は5世紀の古墳
を流用して葬られたとする説がある。
1962-63年、市庭古墳の発掘調査を行ったところ、市庭古墳は円墳だと考えられていた
のだが、前方部が壊されていた跡が見つかり、市庭古墳は前方後円墳だった。前方部は
南向きで平城京築造の障害になったため、前方部が取り壊されたものと考えられている。
IMG_9942.JPGIMG_9943.JPG

佐紀神社(亀畑)へ向かう
IMG_9945.JPGIMG_9946.JPG
隆光大僧正墓石
隆光大僧正は1649年(慶安2年)大和国超昇寺郷(現在の奈良市二条町)で生まれ、
長谷寺等で学んだ後、江戸へ出て関東新義真言宗本山の「護持院」を創設した。 5代
将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寵愛を受け、綱吉の護持僧となった。元禄年間、通法
寺再興の時、多田義直の上表の際に、柳沢吉保と共に尽力している。また、桂昌院の
援助で大和の社寺修復に尽くし、特に1567年 (永禄10年)松永久秀が焼き、142年
間雨ざらしの大仏殿再建に尽力しており、地元の河内や大和では評判は良い。
悪法として世人の不満を買った『生類憐みの令』は彼の発案だとされている。そのため、
綱吉の死後はお役御免となり、かって再興に尽力した通法寺の住職に左遷されている。
最晩年の10数年は生まれ故郷に帰り、超昇寺で遇し、1724年(享保9年)に没してい
る。元超昇寺の本墓ともに、通法寺跡にも分骨墓が有る。
IMG_9948.JPG
IMG_9949.JPG
※超昇寺(ちょうしょうじ)
平城天皇の皇子高丘(たかおか)親王(出家して法名を真如(しんによ)という)が、
835年(承和2)楊梅(やまもも)宮の跡地をたまわって創建した。10世紀の末、興
福寺の清海がこの寺に住み,7日間の大念仏(超昇寺大念仏)を始め、極楽浄土
の曼荼羅をえがいた。これを〈清海曼荼羅〉といい、日本の浄土三曼荼羅の一つ
に数えられている。中世の戦乱により衰退し、江戸初期にはわずかに堂1宇を残
すのみとなり、隆光が復興につとめたがついに廃絶した。
※通法寺
羽曳野市壺井は河内源氏発祥の地として知られているが、この壷井通法寺は、長
久4年(1043年)に、河内国司であった源頼信の子源頼義が猟の際に千手観音の
霊像を得て、これを本尊にして創立した寺院と伝えられている。前九年の役の時、
頼義が子の八幡太郎義家とともに奥州へ出陣。凱旋ののち、「香呂峰の地」と呼ば
れた同地に八幡宮を祀ったが、これが西北に隣接する壷井八幡宮の起りとなった。
頼義は浄土宗に帰依し阿弥陀如来を本尊としたことから河内源氏の菩提寺となり
源氏の隆盛と共に栄えた。
南北朝時代に戦火により焼失。江戸時代になって源氏の子孫・多田義直が5代将
軍綱吉に願い出て柳沢吉保らが普請奉行となり再興する。
※通法寺跡に大僧正隆光の墓も有る
隆光は、徳川五代将軍綱吉の学僧。「生類憐れみの令」を公布させた僧として知ら
れ、綱吉死後は左遷され通法寺の住職を勤めていたのだという。

佐紀神社(亀畑)
御祭神は天児屋根命 経津主命 六御県命
奈良市佐紀町、平城宮跡近く、佐紀路沿い、御前池の東にある。御前池の西にも同名
の神社があり、同じく式内論社になっている。
社伝によると、天武天皇二年(673)の創祀。超昇寺の建立と同時に、鎮守社として祀
られたという。 式内社・佐紀神社に比定されている古社。鳥居扁額に「式内佐紀神社」
と刻まれている。
IMG_9951.JPGIMG_9952.JPG

御前池(おまえいけ)
IMG_9955.JPG
此処までは、
4月17日のウワナベ古墳~神功皇后陵古墳へ古墳巡り-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-04-22
此処では此の続きの、佐紀神社(西畑)~
佐紀神社(西畑)
御祭神は天児屋根命 経津主命 六御県命
奈良市佐紀町、平城宮跡近く、佐紀路沿い、御前池の西にある。御前池の東にも
同名の神社があり、同じく式内論社になっている。
東の佐紀神社と違い、ここには式内の石碑がある。でも、規模や雰囲気は同じ。
参道は、こっちの方が明るい、気がする。 当社の東には、「釣殿神社」がある。
由緒は不詳。境内の石碑にある通り、式内社・佐紀神社の論社となっているが
亀畑の佐紀神社からの分神だとも言われている。
IMG_9963.JPGIMG_9962.JPGIMG_9960.JPG
釣殿神社
創建は平安時代頃、式内佐紀神社(奈良市佐紀町字亀畑)の末社・市杵島姫神社と
して、創建されました。当時の御祭神は市杵島姫命。室町時代、戦国時代と、戦火
に遭い消失。江戸時代初頭に、市杵島姫神社が再建とともに、佐紀神社の祭神の
六御県命、経津主命の2神を「釣殿神」として合祀し、天児屋根命をも合祀。市杵島
姫命と合わせ、3柱を祭神としています。
IMG_9959.JPGIMG_9958.JPG
八幡神社・・・山上八幡神社
創建は、江戸時代に入ってからの延宝5年(1677年)とも言われていますが、その
詳しい由来については不詳。しかし神社の周辺には中世に反映した寺院である「超
昇寺」、またその周辺を戦国時代にかけて陣地とした藤原鎌足の末裔とも言われる
超昇寺氏の城郭があったことで知られており、超昇寺氏の信仰を受けていた神社と
しても知られています。
また境内の北側、社殿左後方にそびえる杉の木は、神社の創建時期とは前後する
が、天正19年(1591年)に豊臣秀吉が朝鮮出兵に際してその成功を祈り手植えした
由緒ある神木であるとされているほか、拝殿には合戦の様子を鮮やかに描いた大き
な絵馬が奉納されている事でも知られています。なお、山上八幡神社の祭神は天照
皇大神(あまてらすすめおおかみ)・八幡大明神(やはたのだいみょうじん)・春日大
明神(かすがのだいみょうじん)となっています。
IMG_9964.JPGIMG_9965.JPG
日葉酢媛命陵
全長207メートルの前方後円墳。日葉酸媛は垂仁天皇の后で、「古事記」には、
日葉酸媛が亡くなった時、その葬儀に際しては、それまで行われていた殉死を悪
習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰(のみのすくね)が生
きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や
馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになったという。
埴輪をつくるようになったとする埴輪の起源説話が残されています。
IMG_9966.JPGIMG_9967.JPGIMG_9968.JPG
成務天皇陵
日葉酸媛陵の西に隣接する全長219メートルの美しい前方後円墳。大規模な前方
後円墳が、これほど接してつくられた例は、全国的にも非常にめずらしいそうです。
成務天皇(せいむてんのう)は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第13代天皇。
日本全国の数多くの国造を任命したと伝わる。和風諡号は稚足彦尊(わかたらしひ
このみこと)、若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみこと、古事記)。日本書紀
では国造や稲城の設置、国郡の境を定めたとされている。
IMG_9969.JPGIMG_9970.JPG

神功皇后陵古墳へ向かう
IMG_9971.JPGIMG_9972.JPGIMG_9973.JPGIMG_9974.JPGIMG_9976.JPG

福松大神
IMG_9975.JPG
八幡神社・・・山稜八幡神社
「神功皇后陵」と隣り合わせになっており、この神功皇后陵と深い関係を持つ神社
としても知られています。
祭神は主祭神は神功皇后本人である「気長足媛命」、そしてそれ以外には「品陀和
気命(応仁天皇)」、そして神功皇后の母親である「玉依媛命(タマヨリ)」が祀られて
おり、一般的な「八幡神社」は応仁天皇が最も重要な主祭神となっていることが多い
中で神功皇后ゆかりの神社らしく神功皇后が第一にお祀りされている状況となって
います。なお、この神社では神功皇后は「武運」と「安産」の神、応仁天皇は「厄除開
運の神」、そして玉依媛命は「育児の神」とされており、特に女性にはご利益があり
そうな神社となっています。
IMG_9977.JPGIMG_9978.JPG
神功皇后陵古墳
佐紀古墳群の北西地域にある、4世紀末~5世紀初めの古墳で全長275メートル。
佐紀盾列古墳群の中では最も大きい古墳です。
神功皇后(じんぐうこうごう)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(お
きながたらしひめのみこと)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみ
こと)・大帯比売命(おおたらしひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・
息長宿禰王で、母は天日矛(あめのひぼこ)裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、
この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。
神功元年から神功69年まで政事を執り行なった。夫の仲哀天皇が香椎宮にて急死
(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。その後に熊襲を討伐した。それから住
吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界
灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅の王は「吾聞く、東に日本と
いう神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、戦わずして降服して朝
貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したという(三韓征伐)。
渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすこ
とによって出産を遅らせたとされる。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱
岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉
納されたと言われている。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し志免でお紙目
を代えたと伝えられている。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど九
州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。
IMG_9979.JPGIMG_9980.JPG
ここからはおまけ
秋篠寺(あきしのでら)へ向かう
IMG_9981.JPG
秋篠寺
奈良時代末期780年頃、光仁天皇の勅願によって建立され、開山は善珠僧正と
伝えられています。平城京西北の外れ「秋篠」の地に建てられたためこう呼ばれ
ています。平安時代末期に戦火のため伽藍の大部分を焼失し、鎌倉時代には今
の本堂がもとの講堂の跡に再興されましたが、金堂や東西両塔の跡は雑木林に
なってしまっています。本堂に25体安置されている仏像の中でも特に著名なのが
伎芸天(重文)で、諸技諸芸の守護神として多くの芸術家や芸能人らに慕われ、
またその造形の優美な写実性は古美術愛好家の間でも広く親しまれています。
IMG_9982.JPGIMG_9983.JPGIMG_9984.JPGIMG_9985.JPGIMG_9986.JPGIMG_9987.JPGIMG_9988.JPGIMG_9989.JPG
八所御霊神社
由緒沿革は定かでないが、崇道天皇以下御霊八所(火雷大神、崇道天皇、伊豫
親王、藤原廣嗣、文室(ふんや)宮田麻呂、橘逸勢、吉備大臣、藤原夫人)を祭神
とし、秋篠寺の鎮守社であった。
IMG_9991.JPGIMG_9992.JPGIMG_9993.JPG

大和西大寺駅
IMG_9994.JPG

nice!(36)  コメント(1) 

4月14日の日本のはじまり唐古・鍵遺跡ウオークー2

4月19日     4月14日の日本のはじまり唐古・鍵遺跡ウオークー2
             近鉄駅フリーハイキング 歩程約10㎞
此の日は知人と3名で、新しく整備された唐古・鍵遺跡へのハイキングに参加しyた。
コース  近鉄駅フリーハイキング  石見駅 受付 9時半~11時 
石見駅(受付)~石見鏡作神社~白髭神社~唐古・鍵史跡公園~千万院~池坐神
社~鍵の蛇巻き~安養寺~笹鉾山古墳~法楽寺~黒田大塚古墳(昼食)~孝霊神
社~宮古薬師堂~鏡作神社~浄照寺~楽田寺~津島神社~田原本駅(ゴール)
此の日の私の万歩計は、27604歩で約20.4km歩いたことに・・・
志都美駅~石見駅(受付・スタート)
三宅町石見にある石見鏡作神社
祭神は石凝姥命、天照皇大神、 天児屋根命と思われますが詳細は不詳。
石見の集落は城郭作りの環濠、「石見環濠集落」、集落の北の端、環濠集落の北東の
角に位置する場所に白髭神社と並んで石見鏡作神社が有ります。この地より南、岩見
遺跡の発掘調査による以降は5世紀末から6世紀初めにこの一帯が湿地帯からようや
く顔を出したのが5世紀の終わり位からと考えられます。 主祭神の石凝姥命は天孫降
臨、天の岩戸に出てくる神様で、鏡作部の祖とされ、鉄工、鏡作りは1世紀頃から遅くと
も3世紀半ばには行われ銅鐸の鋳型の発掘が有った唐子鍵遺跡は前4世紀から3世紀
半ば。保津宮古遺跡は古墳時代初頭(3世紀後半=4世紀前半)。薬王寺、十六面遺跡
も3-4世紀~。石見を始め三宅町一帯が開発されたのは5世紀終わり頃からと考えられ、
一帯には、石見をはじめ、但馬、三河の地名が今も残ることから、崇仁天皇以降、湿地
帯から顔を出した一帯の開発の為各地から人足が移住させられたと考えられる。
IMG_9800.JPGIMG_9801.JPGIMG_9803.JPG

三宅町石見にある白髭神社
IMG_9804.JPG

寺川を渡り、唐古・鍵史跡公園へ向かう
IMG_9805.JPGIMG_9806.JPG
唐古・鍵史跡公園
田原本町大字唐古から鍵にかけて所在する弥生時代の環濠集落遺跡である。奈
良盆地のほぼ中央、標高48〜51mの沖積地に立地する。集落は、多条環濠を有し、
大型建物や高床・竪穴住居、木器貯蔵穴、井戸、区画溝などの遺構で構成されてい
る。大環濠(内濠)は直径400mの範囲を囲み、外濠を含めた全体では約42万平方
mの面積を占める。出土遺物は土器、農工具・容器などの木製品、石鏃や石包丁
などの石器骨角器、卜骨などの祭祀遺物、炭化米、種子、獣骨類など多種多様な
遺物、さらには銅鐸の鋳型などの鋳造関係遺物、褐鉄鉱容器に入ったヒスイ製勾
玉、楼閣が描かれた絵画土器など特殊な遺物も出土している。これらの遺構・遺物
から本遺跡は、近畿地方の盟主的な集落と考えられている。
展示品は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示している。
300年前に作られた農業用溜池
IMG_9811.JPGIMG_9812.JPG
楼閣
2000年前の楼閣を復元
IMG_9814.JPGIMG_9815.JPGIMG_9821.JPGIMG_9822.JPGIMG_9823.JPG

大和川堤防に建つ展望台へ向かう
IMG_9826.JPGIMG_9827.JPG

展望台
IMG_9829.JPGIMG_9830.JPG

大和川沿いを歩く
IMG_9832.JPGIMG_9833.JPG

千万院
法貴寺は、「法起寺」ともいい、聖徳太子が創建し秦河勝に賜ったという。千万院
はこの法貴寺の塔頭の子院だった。法貴寺の本坊を実相院といい、中世には法
貴寺天満宮(池坐朝霧黄幡比売神社)の別当職を担うなど、在地豪族長谷川党
とのつよい結びつきで大きな勢力を誇った。しかし、江戸時代半ばには実相院と
千万院の2坊のみとなり、神仏分離で実相院にかわって法貴寺薬師堂を受け継
いだのは千万院だけとなった。現在、千万院の僧坊はすでになく、薬師堂を千万
院と呼ぶ習わしとなっている。
IMG_9834.JPGIMG_9838.JPGIMG_9839.JPGIMG_9841.JPG
池坐神社
池神社は、初瀬川沿いに鎮座する。祭神は天万栲幡千千比売命・菅原道真で、明治
初年ごろまでは天満宮と称されていた。現在は延喜式内大社「池坐朝霧黄幡比売神
社」に比定されている。中世の天満宮は、在地豪族長谷川党の鎮守であった。近世
以降も 法貴寺の実相院が社僧として社務全般を支配した。この関係は神仏分離に
より法貴寺から池神社が切り離されるまで続いた。
IMG_9842.JPGIMG_9843.JPG

鍵の蛇巻きへ向かう、公園の藤棚
IMG_9846.JPG
鍵の蛇巻き・・・(下り龍・降り龍)
鍵では、午前中八坂神社にて稲わらで蛇をつくる。午後からは1年の間に鍵大字内で
祝い事のあった家や、お祝いをしたい家に「おめでとう」と言いながら、蛇を担いで訪ね
る。300キロ近い頭を中学1年生から高校1年生までの男子が担ぎ、後ろの綱を参加し
た全少年が頭の前進を阻むよう引っ張り合いながら道を進んでいく。最後に、北中学
校の前の「はったはん」という場所の大樹の根元に頭がおかれ、胴体を上にして樹に
吊るされる。(下り龍・降り龍)
IMG_9849.JPGIMG_9850.JPG
※今里の蛇巻き・・・(上り龍・昇り龍)
今里の杵築神社では、午後1時過ぎに中学生以上の男子が麦わらを束ねて、全長18
mにもなる蛇を作る。行事参加者が拝殿でお神酒を飲む間、村の参拝者にはわらの
先にくくられた「わかめの味噌煮」が配られる。余れば、観光客にもおすそ分けがある。
甘く美味。その後、中学1年生から高校1年生までの男子が蛇頭を抱え、今里の各戸を
「おめでとう」と言いながら練り歩く。広い道では、「それ」との掛け声とともに、蛇体に人
を巻き込む。蛇は再び杵築神社に戻り、神社南側にある大樹に頭を上に巻き付けられ
る。(上り龍・昇り龍)

安養寺へ向かう
IMG_9851.JPGIMG_9852.JPG
安養寺
安養寺は、寛永10年(1633)、源蓮社宝誉上人の開山と伝えられる。
安養寺(あんようじ)は1633年に創建されたお寺です。
木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代 12世紀末〜13世紀初頭の作品です。
像は、玉眼・粉溜塗の特徴をもつ。粉溜とは、白土を下地にその上に金泥を塗ったも
のである。快慶が好んで用いた手法。X線写真によると、眼の奥に蛇腹状の文様が
映っている。これは玉眼を入れるための工法によるもので、快慶仏には時々この手
法が認められるという。足ほぞには快慶作を示す「巧匠安阿弥陀佛」の墨書が認め
られるが、これは後世に書き改められたものと考えられている。
安養寺は、寛永10年(1633)、源蓮社
IMG_9853.JPGIMG_9854.JPG
此処までは、
4月14日の日本のはじまり唐古・鍵遺跡ウオークー1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-04-18
此処では此の続きを、笹鉾山古墳へ向かう~
笹鉾山古墳へ向かう
IMG_9855.JPGIMG_9856.JPGIMG_9858.JPG
笹鉾山古墳
笹鉾山古墳(1号墳)は、田原本町八尾字山本に所在する東向きの前方後円墳である。
全長88mの2重周濠をもつ6世紀前半の古墳である。墳頂には稲荷神社が祀られ前方
部に向かって参道が伸びている。主体部は明らかでないが、墳丘には埴輪が樹立され
ていた。 古墳時代後期(6世紀前半)に制作。1号墳の北側28mに直径約19.5mの円
墳(2号墳)が存在する。2号墳の周濠からは、ほぼ完全に復元できる馬子と飾り馬の
セットが2組出土している。馬子の1体の顔面には入れ墨を表現する線刻がみられる。
このほか、蓋形埴輪・円筒埴輪・朝顔形埴輪・笠形木製品などが出土している。
出土した埴輪の一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
IMG_9859.JPGIMG_9860.JPG

法楽寺へ向かう
IMG_9864.JPGIMG_9865.JPGIMG_9866.JPG
法楽寺
法楽寺は、由緒書によれば、孝霊天皇黒田廬戸宮跡に建立され、聖徳太子開基にかか
るものとされる。承元元年(1207年)、伽藍坊舎は残らず焼失したが、貞応元年(1222年)
に再建がなされた。長禄三年(1459年)八月の墨書銘をもつ板絵には、盛時の法楽寺の
伽藍坊院が描かれている。室町時代の盛期には堂宇25を数えたが、兵火で焼けて現在
残るのは1坊のみである。 本尊は子安地蔵菩薩立像。僧形地蔵菩薩坐像(室町時代後
期)などの古い仏像も所蔵する。
IMG_9867.JPGIMG_9868.JPGIMG_9869.JPGIMG_9870.JPGIMG_9871.JPG
黒田大塚古墳
黒田大塚古墳は、古墳時代後期の前方後円墳である。周濠まで含めた本来の全長は
86mであるが、後世に周濠は埋め立てられ、墳丘の周囲が削り取られている。
周濠の発掘調査では埴輪や木製品が出土しており、墳丘上に立て並べられていたも
のと考えられる。葺石は認められない。
出土品の一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
IMG_9872.JPGIMG_9873.JPGIMG_9874.JPGIMG_9875.JPGIMG_9877.JPGIMG_9878.JPG
孝霊神社
祭神は孝霊天皇(大倭根子日子賦斗迩命)御脇立 倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭彦
命(吉備津彦命・桃太郎噺のモデル)、稚武彦命、他三神。もとは、法楽寺の鎮守社で
あったが、明治時代初期に現社地へ遷座をし、黒田村の氏神として引き継がれた。旧
地より移した物に、明和七年(1770)の石燈籠がある。岡山県や香川県など日本各
地に残る桃太郎の伝説地の多くは、『古事記』、『日本書紀』に記されている孝霊天皇
の皇子の彦五十狭彦命と稚武彦命兄弟の活躍に由来するものである。第七代孝霊天
皇の黒田廬戸宮(いおと)は、田原本町宮古(都の意)から、この黒田のあたりを指し、
この一帯は古代の地名を残した貴重な所である。
IMG_9879.JPGIMG_9880.JPGIMG_9882.JPGIMG_9883.JPGIMG_9884.JPG

宮古薬師堂へ向かう
IMG_9885.JPGIMG_9886.JPGIMG_9888.JPG

宮古薬師堂
IMG_9889.JPGIMG_9890.JPGIMG_9891.JPG
鏡作神社(鏡作坐天照御魂神社)
鏡作坐天照御魂神社は、田原本町八尾に鎮座する延喜式内大社で、「和名抄」
鏡作郷に鎮座する。祭神は天照国照日子火明命、石凝姥命、天児屋根命で、
古来から鏡鋳造の神として信仰された。このうち石凝姥命は、天照大神の御魂
の神爾の鏡として内待所に祀る鏡を鋳造したとされる神で、社伝ではその試鋳
の鏡が鏡作神社のご神体であると伝える。
IMG_9892.JPGIMG_9893.JPGIMG_9895.JPGIMG_9896.JPGIMG_9897.JPG
豊雛大明神
口碑によれば、江戸時代に豊受大神の小さな雛型の祠を奉祀していたそうで氏子は
これを豊雛大明神と称したと伝わります。本殿は、安政4年(1857)の改築だそうです。
IMG_9898.JPGIMG_9899.JPGIMG_9900.JPG
浄照寺
天正十一年四月(1583年)豊臣秀吉が柴田勝家と織田信長の後継者の地位を
争って賎ヶ岳で合戦。このとき加藤清正・福島正則・片桐且元・秀吉ら七人の武将
が槍を振るって勇名をはせ、世にこれを「賎ヶ岳の七本槍」と称して名高い。
その内の一人、平野權平長泰は数々の軍功により、田原本他六ヶ村を賜り五千石
の領主となった。 その子長勝が二代目領主となり、田原本に陣屋を築造した。
先代の長泰より寺内町の経営を任されていた真宗寺院の教行寺との間に支配権
のことで対立し、教行寺を箸尾へ立ち退かせた。
慶安四年(1651年)、この跡地に長勝は一寺を建立し、本願寺第十三世門主良
如上人に寄付し、御門跡兼帯所(別院)として格式ある寺とした。 門跡寺院として
筋壁(表塀の五本の筋)を許された。
最初円城寺といい、寛延二年(1749年)寺号を改めて浄照寺と称した。
明治10年(1877)2月10日、明治天皇行幸、畝傍山陵参拝のみぎり、ご休憩ご昼
食。明治23年(1877)4月24日、昭憲皇太后行啓、ご宿泊所となる。
IMG_9901.JPGIMG_9902.JPGIMG_9903.JPGIMG_9904.JPGIMG_9905.JPGIMG_9906.JPGIMG_9907.JPG
楽田寺
楽田寺は、天平年間の創建と伝えられますが、定かではありません。元は真言宗
の寺院でしたが、江戸時代に融通念仏宗に改宗しています。現在は無住となって
います。
※楽田寺の善女龍王図
室町時代に製作されたと伝わっています。龍王が雷神・雨神を伴い、上方には
十一面観音像、下方には弘法大師坐像を配しています。寺号の雨宝龍王院が
示すように、善女龍王図は雨乞い祈願に用いられました。
IMG_9908.JPG
津島神社
津島神社は、田原本町旧町域の南側に鎮座する。神仏分離以前は祇園社といった。
現在も夏に盛大な祇園祭が催されることもあり、地元では「祇園さん」の愛称で親しま
れている。現在、祭神は素戔鳴命、櫛名田姫命、誉田別命、天児屋根命などとなって
いるが、本来は牛頭天王を祭神とする田原本村の産土神だったと考えられる。
IMG_9909.JPGIMG_9910.JPGIMG_9911.JPG

nice!(24)  コメント(4) 

4月13日の吉野山 その他-2

4月17日               4月13日の吉野山 その他-2
     その他色々・・・
4月12日
社友会事務所へ歩こう会のHP更新へ
久宝寺駅~
IMG_9726.JPGIMG_9727.JPGIMG_9728.JPGIMG_9729.JPGIMG_9730.JPGIMG_9733.JPG
家の近所へ戻って
ハナミズキが満開に・・・
IMG_9734.JPG

4月13日
およそ30年ぶりの吉野山へ?
吉野山へ桜を鑑賞?に出かけて見たが桜は残念な事に・・・
吉野駅~
IMG_9737.JPGIMG_9738.JPG
中千本広場へバスで行くが桜は無し? @360円
シャガが目につく、更に上の奥千本へバスで向かう @400円
奥千本へ到着
金峯神社 修行門
IMG_9740.JPGIMG_9741.JPGIMG_9744.JPGIMG_9745.JPG
金峯神社
此処の桜は未だ残っていた?
IMG_9751.JPGIMG_9747.JPGIMG_9748.JPGIMG_9749.JPGIMG_9761.JPG

源義経隠搭
IMG_9753.JPGIMG_9754.JPGIMG_9755.JPGIMG_9757.JPG
直ぐ下に展望台が有り、行ってみた
高城山展望台
IMG_9758.JPGIMG_9759.JPG
此処から
帰り道、義経隠搭へもどり
IMG_9760.JPG
家内を待たせていた金峯神社へ戻り
奥千本のバス亭へ並び
IMG_9763.JPG
奥千本~中千本へ バス移動 @400円
バス発着場~竹林院~中千本バス発着場へ
竹林院
IMG_9764.JPG
此処までは、
4月13日の吉野山その他-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-04-16-1
此処では続きを、竹林院~中千本バス停へ~
竹林院~中千本バス停へ歩く
IMG_9765.JPGIMG_9766.JPGIMG_9767.JPG

シャガが綺麗
IMG_9768.JPGIMG_9769.JPGIMG_9770.JPG
トンネルからバスが
このバスで吉野駅へ向かう?
IMG_9771.JPGIMG_9772.JPG
30年前は、此の辺り迄来た記憶が?金峯山寺蔵王堂へ来てた
中千本から上へは行った記憶が無い、今回初めて桜を求めて奥へ・・・
中千本バス停~吉野駅へバス @360円
バスの車窓から
IMG_9773.JPGIMG_9777.JPGIMG_9778.JPG
吉野駅に到着
桜とバニラ、ヨモギとバニラのソフトクリームを喰らう?
ヨモギとバニラが美味しかった!?
IMG_9782.JPGIMG_9783.JPGIMG_9784.JPGIMG_9785.JPGIMG_9786.JPGIMG_9787.JPG
五位堂駅からバスで地元へ
ハナミズキが綺麗に咲いて・・・
IMG_9788.JPGIMG_9789.JPGIMG_9790.JPGIMG_9792.JPGIMG_9793.JPG
IMG_9794.JPGIMG_9795.JPGIMG_9796.JPGIMG_9797.JPG

nice!(17)  コメント(2) 

4月8日の馬見丘陵公園50万株の花々を見に行こう-2

4月16日     4月8日の馬見丘陵公園50万株の花々を見に行こう-2
            近鉄駅フリーハイキング 歩程8㎞
此の日は、知人と5名で参加、近鉄ハイキング30周年記念ピンバッジが貰えると有り
参加者多数、更に今回は女性の為、女性の方々には抽選会も開催されるハイキング。
コース  近鉄駅フリーハイキング  五位堂駅 受付10時~10時半 
五位堂駅(受付)~かつらぎの道~新家長福寺~竹取公園~馬見丘陵公園・チュー
リップフエア~竹取公園・抽選会~三吉石塚古墳~かつらぎの道~五位堂駅(解散)
コースには無かった新家長福寺へ花を見に立ち寄って正解、八重桜、藤、石楠花や
牡丹も咲いていてとても良かった。私は三吉石塚古墳~かつらぎの道へ行く所で皆と
別れて自宅へ帰り、此の日の私の万歩計は、24516歩で約18.1km歩いたことに・・・
志都美駅
IMG_9681.JPG
香芝駅~近鉄下田駅へ乗り換え
鹿島神社
IMG_9682.JPG
近鉄下田駅
特急電車通過
IMG_9683.JPG
五位堂駅(受付)
長蛇の列
IMG_9686.JPG
かつらぎの道~新家長福寺へ寄り道
コースには無かった真宗大谷派・新家長福寺(しんけ・ちょうふくじ)へ花見に
境内に桜が多く、地元の人からは「桜御坊」と呼ばれ、親しまれている。八重桜が
多く植えられている。地元の人からは「桜御坊」と呼ばれ、親しまれている。
IMG_9687.JPGIMG_9689.JPGIMG_9690.JPGIMG_9691.JPGIMG_9692.JPGIMG_9694.JPGIMG_9695.JPGIMG_9696.JPGIMG_9697.JPGIMG_9698.JPGIMG_9699.JPG
此の続きは、
4月8日の馬見丘陵公園50万株の花々を見に行こう-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-04-16
此処では続きを、新家長福寺の花々~
新家長福寺の花々
IMG_9700.JPGIMG_9701.JPGIMG_9702.JPGIMG_9703.JPGIMG_9704.JPG

竹取公園へ向かう
IMG_9705.JPGIMG_9706.JPG

竹取公園
IMG_9707.JPGIMG_9708.JPG

馬見丘陵公園
IMG_9709.JPG

南エリアのチューリップ
IMG_9710.JPG

下池
IMG_9711.JPG

中央エリア、バラ園のチューリップ
IMG_9712.JPGIMG_9713.JPG
北エリアへ向かう
ハナミズキも満開・・・
IMG_9714.JPGIMG_9715.JPG
中央と北エリアの連絡道
トンネルを潜って北エリアのチューリップ
IMG_9716.JPGIMG_9717.JPG
抽選会場の竹取公園へ戻る
水車小屋
IMG_9718.JPG
抽選会場
女性だけに抽選が始まった
IMG_9719.JPG
三吉石塚古墳
コースの牧野古墳を三吉石塚古墳に変えて?
三吉石塚古墳
新木山古墳の西に築かれた東向きの帆立貝形古墳で、周濠が掘られ、さらに外堤
があり、堤を含めた全長は62メートルとなる。墳丘は二段築成で、二段目には円筒
埴輪の他に蓋(きぬがさ)、短甲(たんこう)、家形埴輪が立てられていた。埋葬施設
は未調査で、埴輪から古墳時代中期後葉の築造と考えられる。古墳の遺構を盛土
で保存した上に、かさあげ方式で築造当初の姿に復元整備してる。円筒、朝顔形埴
輪は、出土遺物に基づいて製作した複製品を設置し、葺石も築造当時の積み方で
葺いている。
IMG_9720.JPGIMG_9721.JPGIMG_9722.JPG
かつらぎの道へ向かう途中のケーキ屋で
ケーキでお茶してかつらぎの道で皆と別れて、少し歩いてバスで帰った・・・

nice!(18)  コメント(4) 

4月7日の榛原駅~目指せ!又兵衛桜!-2

4月15日        4月7日の榛原駅~目指せ!又兵衛桜!-2
               近鉄駅フリーハイキング 歩程約13㎞
此の日は知人と2名で参加、前日の風雨で桜が散ったのでは?と心配したが桜は
未だ残っていた、しかし冬に逆戻りした様な非常に寒い中のスタート、曇り空で寒
かったが、昼からは陽も差してきて少し暖かくなり過ごし易い天気になって・・・
此の日の私の万歩計は、28723歩で約21.2km歩いたことに・・・
コース  近鉄駅フリーハイキング  榛原駅 南出口階段下 受付9時半~11時
榛原駅(受付)~宇陀川沿いを歩く~うだ・アニマルパーク(昼食)~宇陀松山地区
・慶恩寺・秋山城跡・春日神社~阿紀神社~又兵衛桜~人麻呂公園~大願寺~
道の駅宇陀路   大宇陀バス停 ⇒ 奈良交通バス ⇒ 榛原駅
榛原駅(受付)
宇陀川桜並木を歩く
IMG_9572.JPGIMG_9573.JPGIMG_9577.JPG
篠楽河川公園
猟路の桜(かりじのさくら)
飛鳥藤原京の古、宮廷遊猟の地であった宇陀の山野。古典的に由緒あるこの地
を後世に伝えんと記念の桜を植樹し、「猟路の桜」と名づけられたいうのが所以の
桜並木。榛原の花火大会も行われるこの地に、こんな桜があろうとは。すらばらし
いお花見ポイントでした。
IMG_9578.JPGIMG_9581.JPGIMG_9582.JPGIMG_9583.JPGIMG_9585.JPGIMG_9586.JPGIMG_9587.JPGIMG_9588.JPGIMG_9589.JPG
平尾水分神社の朱い鳥居
宇陀には、このほか宇太水分神社(下社) 宇太水分神社(中社) 惣社宇太水分
神社(上社)とあります
IMG_9592.JPG

うだ・アニマルパークへ向かう
IMG_9594.JPGIMG_9595.JPG
うだ・アニマルパーク(昼食休憩)
宇陀市大宇陀の県畜産技術センターでは60年以上にわたり、牛・豚・鶏などの試験
研究を行い、様々な成果を上げてきておりますが、平成13年4月に大家畜(牛)部門
が宇陀郡御杖村の「みつえ高原牧場」に移転したことによる敷地の有効活用として、
動物とのふれあいを通して次代を担う子どもたちの健全な育成を目指すとともに、県
内外のみなさんにレクリェーションの場を提供し、社会全体の発展に寄与することを
目指し、うだ・アニマルパークを設置することにしました。
うだ・アニマルパークは、人と動物とのふれあいを通して、動物を学び、動物から学び、
そして動物のために学ぶ「いのちの教育」を行い、広く県民に動物全般に対する理解
を促進するとともに動物に対する愛護の思想について、普及啓発を図り豊かな社会
づくりに寄与することを目的とした施設です。
IMG_9597.JPGIMG_9598.JPG
宇陀松山地区
宇陀松山、聞き慣れない地名かもしれませんが、古くから城下町として発展し、その
町並みが今も生活の場としながらも景観を保ったまま残っている地区です。
2006年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。
・慶恩寺
松谷山菩提院慶恩寺。開山は持統天皇九年に吾城行宮を賜って堂宇としたことに
始まる。その後文治2年に奈良の大仏殿再興にあたり、伽藍指図5分の1の試みと
して建立された。鐘楼には無銘であるが古い梵鐘が懸かる。
IMG_9599.JPG

宇陀簡易裁判所の桜
IMG_9601.JPG
・松山西口関門(黒門)
福島掃部孝治が城下町への出入口として今から400年前に建築したもので、昭和
6年に国の史跡に指定された。宇陀川から春日社にぬける道に位置し、付近には
枡形がある。町の人には「黒門」と呼ばれ親しまれている。
IMG_9603.JPG
・恵比寿神社
愛宕神社、恵毘須神社、愛宕寺の神仏混合社。愛宕神社は、城下町の火災防止の
ため、松山城主織田長頼が勧請奉祀させたといわれる。恵毘寿神社は町内の茶町
から移され、江戸以来毎年2月8日には初えびすが行われる。
IMG_9604.JPG

・秋山城跡・春日神社
秋山城跡のみで城址へは登らなかったが
宇陀松山城は、南北朝時代から宇陀に勢力をもつ秋山氏の本城であったが、天正
13年に豊臣家大名の居城となり、城下町が整備された。最後の城主福島氏が元
和元年に改易され、平成7年からは発掘調査が行われている。平成18年、国史跡
に指定された。
IMG_9613.JPG
春日神社
祭神、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比び大神。本殿、拝殿、神饌所、門、社務
所の施設が整い、石造灯籠新古を交え35基を奉建している。当社の旧祠宮と伝え
る佐々岡家には祭礼記など数通の古文書を蔵している。
IMG_9608.JPGIMG_9609.JPG
伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)
春日神社の双幹の大杉は伊太祁曽神社のご神木になっています。
IMG_9610.JPG
IMG_9611.JPG

銘菓「きみごろも」本舗 松月堂(しょうげつどう)
IMG_9615.JPGIMG_9616.JPG

阿紀神社へ向う
IMG_9618.JPG
阿紀神社(あきじんじゃ)
阿紀神社は奈良県宇陀市大宇陀迫間(おおうだはさま)に鎮座する神社。旧社格
は県社、延喜式内社。旧称は阿貴宮および神戸大神宮、通称は神戸明神。
神代に神楽岡に創建され、崇神天皇の勅によって神戸大神宮の号を賜わる。安土
桃山時代(天正年間)に本郷川西岸の現在地に遷座されたときに、現在の社名へと
改められた。江戸時代前期に能舞台が建設され、能が上演されるようになる。
1902年(明治35年)に郷社から昇格して県社に列格した。
IMG_9620.JPGIMG_9622.JPGIMG_9625.JPGIMG_9626.JPG
此処までは、
4月7日の榛原駅~目指せ!又兵衛桜!-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-04-15
続きは、又兵衛桜へ向かう~
又兵衛桜へ向かう
IMG_9629.JPGIMG_9630.JPGIMG_9631.JPGIMG_9632.JPGIMG_9633.JPGIMG_9634.JPGIMG_9635.JPGIMG_9636.JPGIMG_9637.JPG
又兵衛桜
樹齢300年とも言われる枝垂れ桜。この地に伝わる後藤又兵衛の伝説と、この
桜が後藤家の屋敷跡にあることから「又兵衛桜」と呼ばれ親しまれています。
大阪夏の陣で活躍した戦国武将後藤又兵衛が当地へ落ち延び、僧侶となって一
生を終えたという伝説が残り、この垂れ桜が残る地も、後藤家の屋敷跡とされる。
IMG_9638.JPGIMG_9639.JPGIMG_9640.JPG
IMG_9642.JPGIMG_9644.JPGIMG_9646.JPGIMG_9647.JPGIMG_9648.JPGIMG_9649.JPGIMG_9650.JPGIMG_9652.JPGIMG_9653.JPGIMG_9654.JPGIMG_9655.JPGIMG_9656.JPGIMG_9657.JPGIMG_9660.JPGIMG_9661.JPGIMG_9662.JPGIMG_9663.JPGIMG_9664.JPGIMG_9665.JPGIMG_9666.JPGIMG_9667.JPGIMG_9668.JPGIMG_9669.JPGIMG_9671.JPG
阿騎野人麻呂公園
「阿騎野人麻呂公園」は古代の狩場であった「阿騎野」の中心施設がおかれていた
場所で、平成7年の発掘調査の後、現在は遺跡公園として保存されている。公園内
には柿本人麻呂像や、復原された掘立柱建物などがある。
IMG_9672.JPGIMG_9673.JPGIMG_9674.JPGIMG_9675.JPG
大願寺
大宇陀は、古くは阿騎野と呼ばれ、推古19年(611年)に宮廷の薬狩りの記述が日本
書記にあります。万葉集の中でも秀歌とされる「東(ひむがし)の野にかぎろひの立つ
見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」は柿本人麻呂がこの地を訪れて詠んだもので
す。江戸時代には織田松山藩が治め商家町として栄え、薬草の里らしく多くの薬問
屋がありました。現在も風情のある町並が残る宇陀松山地区は国の重要伝統的建
造物群保存地区に指定されています。江戸中期より続く「森野旧薬園」や薬問屋の
旧居を資料館にした「薬の館」などを見学することが出来ます。
織田家の祈願所の歴史を持つ大願寺では、薬草や宇陀の名産である吉野葛を使っ
た精進料理を提供しております。
IMG_9676.JPGIMG_9677.JPGIMG_9678.JPG

道の駅 宇陀路~バスで榛原駅へ

nice!(19)  コメント(4) 

4月5日の春爛漫!風に揺られてひときわ輝く桜華-2

4月11日       4月5日の春爛漫!風に揺られてひときわ輝く桜華-2
                 近鉄駅フリーハイキング 歩程約14㎞
此の日は知人と2名で参加、昨年の紅葉の季節に歩こう会の会員大勢で訪れた公園
(けいはんな記念公園)に近鉄駅フリーハイキングで桜の季節に又トライ・・・
コース   近鉄駅フリーハイキング  新祝園駅(受付)9時半~11時
新祝園駅(受付)~照光寺~常念寺~稲植神社~けいはんな記念公園~鳥谷公園~
山田川駅(ゴール)
けいはんな記念公園からショートカットして山田川駅へ向かったがたいした距離短縮に
はならず、此の日の私の万歩計は、29627歩で約21.9kmあるいたことに・・・
志都美駅
IMG_9521.JPGIMG_9522.JPG
照光寺(しょうこうじ)・・・精華町HPより
延宝8年(1680)、釈浄乗の開基といわれています。明和9年(1772)に寺地の地上げ
修復をしました。真宗大谷派の寺院。
IMG_9523.JPGIMG_9524.JPG
常念寺(じょうねんじ)・・・融通念仏宗
創建は不明ですが、寛正2年(1461)隨空恵順が中興、天保4年(1833)円空隣粲が本
堂・庫裡を再建して現在に至っています。
常念寺に伝えられている菩薩形立像は、神と仏、神道と仏教の調和の関係を具体的に
示す遺品の一つとして、わが国の歴史上きわめて重要な仏像といえるでしょう。
木津川は大変暴れ川で江戸時代250年間でも35回以上も洪水の被害が記録されてい
ます。「七仏薬師経」にとかれている七仏薬師の第一善名称吉祥薬師如来は、この薬
師如来独特の功徳として、大河や海上で暴風雨にあったとき、この像を祀り、航海の無
事を祈ったといわれています。
IMG_9525.JPGIMG_9528.JPGIMG_9529.JPG
※菩薩形立像(薬師堂本尊/国の重要文化財)
平安時代前期に製作されたもので、精華町で最も古い仏像です。高さは約169cmです。
一木造(いちぼくづくり)で頭から体部、両手首までを一材から掘り出しています。両手首
先や両足先、天衣の垂下部には別材をあてていますが、これらは後世に修復され、新し
い材に替わっています。表面は、現状ではほとんど素地を呈していますが、肉親部や着
衣部にわずかな漆箔の痕跡が見られるので、本来は漆箔仕上げの像であったと推定さ
れます。天衣を両肩から脚部付近まで長くたらしますが、両膝の前で複雑に交差させて
いる様式は、衣のひだに現れている翻波式衣文(ほんぱしきえもん)とともに9世紀の特
色をよく示しています。

※ハナズオウ(花蘇芳)
中国原産。江戸時代初期頃に日本に渡来。葉が出てくる前にピンク色の小さい蝶形
の花がたくさんかたまって咲く。木全体が花で埋まって見事な眺め。白花もときどき
見かける。「蘇芳」という言葉はマレー語の「サパン」から来ている。
また、この「蘇芳」から名づけられたのは、この花の色が神代から重要な赤色染料と
された”スオウ”の木の染汁の色に似ていることから。
IMG_9527.JPG
稲植神社へ向う
此処で此れから照光寺~常念寺へむかう知り合いのハイカーに声をかけられた
目が悪くなって来てて少し遠いとお顔が認識できなくて申し訳ないと思う此の頃・・・
IMG_9531.JPGIMG_9532.JPG
稲植神社・・・精華町HPより
稲植神社は、南稲八妻・植田両地区を氏子として建立された神社で、御祭神は建速須
佐之男命(たけはやすさのおのみこと)です。口伝承によると、元祇園(京都八坂神社の
元)といわれるほど、古い歴史を持っています。最初は、牛頭天王社(ごうづてんのうや
しろ)として祀られ、のちに祇園社として祀られたという記録も残っており、記紀神話のな
かでは特別に豊かな性格づけがなされています。
源平の戦いや応仁の乱などで焼失し、一時期衰微していましたが、再建され、両地区の
氏神として祀られています。
なお、末社として、八幡宮、天満宮、熊野宮、八王子社、四ノ宮があります。
IMG_9534.JPGIMG_9535.JPGIMG_9536.JPGIMG_9537.JPGIMG_9538.JPGIMG_9539.JPGIMG_9540.JPG
稲植神社
当社に隣接して、三宝大荒神社がある。
IMG_9542.JPG
此処までは、
4月5日の春爛漫!風に揺られてひときわ輝く桜華-1 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
          http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-04-11
此処では、続きのけいはんな公園へ向かう~
けいはんな記念公園へ向かう
IMG_9543.JPGIMG_9544.JPGIMG_9545.JPG
けいはんな記念公園
けいはんな学研都市(関西文化学術研究都市)の建設を記念する公園です。日本の里
の風景をテーマにしており、水景園(日本庭園)、芽ぶきの森(里山)、棚田風の広場など
を楽しめます。季節の行事も盛りだくさんです。
水景園(日本庭園)
IMG_9546.JPGIMG_9547.JPGIMG_9548.JPGIMG_9549.JPG
芽ぶきの森(里山)
永谷池を一回りする
IMG_9550.JPGIMG_9551.JPGIMG_9552.JPGIMG_9553.JPGIMG_9554.JPGIMG_9555.JPGIMG_9556.JPGIMG_9557.JPGIMG_9558.JPGIMG_9559.JPG
棚田風の広場)
常念寺をあとに稲植神社へ向う途中で声掛けしてくれたハイカーに出会った
IMG_9560.JPGIMG_9561.JPGIMG_9562.JPGIMG_9563.JPG
昼食を終えてひたすら歩く
鳥谷公園をパスして~山田川駅へ向かう
IMG_9564.JPGIMG_9565.JPGIMG_9566.JPGIMG_9567.JPGIMG_9568.JPG

nice!(18)  コメント(2) 

4月3日の静御前縁の大和高田で歴史にふれて-2

4月10日      4月3日の静御前縁の大和高田で歴史にふれて-2
                歩こう会特別企画 歩程約8㎞
此の日は3月の例会に続いて2回目の花見ハイキング企画、今年は2回とも大当り、
3月27日の背割り堤に続き桜に大当たり?素晴らしい花見ハイキングとなった・・・
コース     参加者43名
築山駅(南改札口前広場 10時)~築山古墳~高田千本桜~静御前塚跡~静御前
記念碑(大中公園)・昼食~衣掛けの松~龍王宮~横大路~春日神社(解散)~近
鉄OrJR高田駅
此の日の私の万歩計は、17729歩で約13.1km歩いたことに・・・
志都美駅
IMG_9447.JPG
築山駅(南改札口前広場 10時)
築山古墳前 児童公園でトイレ休憩
IMG_9450.JPGIMG_9451.JPGIMG_9454.JPGIMG_9455.JPG
築山古墳(つきやまこふん)
築山古墳は、奈良県大和高田市築山字城山にある古墳。形状は前方後円墳。馬見
古墳群を構成する古墳の1つ(南群の盟主墳)。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「磐園陵墓参考地」(被葬候補者:第
23代顕宗天皇)として陵墓参考地に治定されている。
IMG_9449.JPGIMG_9457.JPG

高田川へ向かう
IMG_9458.JPGIMG_9460.JPGIMG_9462.JPGIMG_9464.JPG
高田川
高田千本桜・・・大和高田市HPより
高田川畔の千本桜は、市制施行の1948年(昭和23年)に植樹されたものです。
まもなく、樹齢70年を迎えます。年輪を重ねた見事な桜並木を見ることができます。
IMG_9465.JPGIMG_9466.JPGIMG_9467.JPG
※高田千本桜植樹秘話
・・・名倉仙蔵 第2・4代大和高田市長&奈良軍政府司令官ヘンダーソン大佐
サクラ苗木は、市内の町内会から、数本ずつの寄贈をうけることになってその数は
千本を少し越えた。文字どおり市民のサクラ、ということになる。
サクラ苗木は、吉野山保勝会へ斡旋を依頼して昭和23年12月に植樹することに
なった。このまま植樹ができたらなんの問題もなかったのだが、ひとつのざ折が
あった。河川の堤防にサクラを植える交渉を、長いあいだかかって県とやってきたが
どうしても許可できないという。従来は河川の堤防にサクラを植樹すると堤防を弱く
するといわれてきたが、サクラの根の張り方からみて、植樹の位置、間隔が適当で
あればむしろ堤防を強くする、この論文を、知事と土木部長に提示して強く許可を求
めたが、許可できないという。奈良軍政府司令官ヘンダーソン大佐に話してサクラの
植樹に協力を求め。将校食堂でヘンダーソン大佐と私の趣旨説明が終わると、軍曹
がボール箱でつくった寄付箱を持って食卓をまわってくれた。当時、サクラ苗木の価
格は7年生、8年生、といったもので80円だった。
まず、ヘンダーソン大佐が自分と夫人の名前を書いて6本を寄贈してくれた。将校連
中は、つぎつぎに自分と夫人や子どもの名前を書いて軍曹に渡してくれた。30分ほ
どで250本の寄贈をうけることになった。将校とその夫人、子どもの名前を書いた小
さな名札をつくって苗木につけ、一挙に、250本を堤防の安全な位置へ植樹した。
・・・・250本の苗木に右へならって千本サクラの苗木を植えてしまった。
高田川から少し外れて
静御前 塚跡
IMG_9468.JPGIMG_9469.JPG
※静御前
静御前は大和高 田の宿の長者の妻、礒野禅尼の娘として生まれた。美しい娘でした
ので、京都へのぼって歌舞を習い白拍子の名手となった。立烏帽子、水干、鞘巻を帯
びた麗し い姿は都の人々のまととなった。源義経にかわいがられたが、兄頼朝と仲が
わるくなった弟義経は追われて吉野山へかくれたときに静御前も吉野山へ来たが捕ら
えられて鎌倉へ送られ、鶴ヶ丘八幡宮の社頭で頼朝や政子の前で「静や、しず、静の
おだまき繰りかへし、昔を今に、なすよしもがな」と胸に涙をかくして舞っ た。静御前の
妙なる舞いの名技はならびいる人々の心をうばい、政子のなさけによって静御前は鎌
倉から京都に帰ることができた。ところが心つかれて病気にな り、母のいる故郷大和の
高田の礒野村に帰った。春日町の笠神の森にある明神さまに病気平癒をいのり、帰る
途中の一本の松の木に静御前は衣を掛けた。そこは 古墳で、いまは県立高田高校体
育館の南側の運動場。もと三本松があり、三本松といっていたが、天明年間(1781~
1789)に一本枯れ、昭和にも最後の 一本があった。高田の住人森田湖月が「色かえぬ
松の緑の 古墳かな」とよんだ俳句は、昭和十八年西川林之助によって碑とされたる高
さ七十センチ、幅七十 センチ。 静御前は、ここから礒野の里へ帰って死んだという。
いまの礒野の東北、字藤木にその塚がある。
大中公園
静御前 記念碑(大中公園)
IMG_9472.JPGIMG_9475.JPGIMG_9479.JPG
大中公園で昼食
高田川堤防で・・・
IMG_9480.JPGIMG_9483.JPGIMG_9484.JPG
此処までは
4月3日の静御前縁の大和高田で歴史にふれて-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。   
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-04-10
続きは、大中公園&高田川千本桜の途中~
昼食休憩の大中公園&高田川千本桜
IMG_9485.JPGIMG_9486.JPGIMG_9487.JPGIMG_9488.JPGIMG_9489.JPGIMG_9490.JPGIMG_9492.JPGIMG_9493.JPGIMG_9494.JPGIMG_9495.JPGIMG_9497.JPG

衣掛けの松へ向かう
IMG_9498.JPGIMG_9500.JPG

静御前 衣掛けの松(高田高校)
IMG_9502.JPGIMG_9504.JPG

龍王宮へ向かう
IMG_9506.JPGIMG_9507.JPG
龍王宮・・・石園坐多久虫玉神社(いそのにますたくむしたまじんじゃ)
通称は龍王宮と呼ばれる。大和高田市唯一の延喜式内社。
祭神は建玉依彦命、建玉依姫命の二坐。本社は安寧天皇片塩浮孔宮跡と伝承される。
尚、横大路に沿うように、大神神社を龍の頭、当神社を龍の胴、葛城市の長尾神社を龍
の尾とする伝承がある。
創建年代は不明であるが、第三代安寧天皇の時代の都である片塩浮穴宮跡の伝承地
に鎮座している。崇神天皇の時代に勅祭が行われたと伝えられる。延喜式神名帳では
「大和国葛下郡 石園坐多久虫玉神社 二座」と記載され、大社に列し、月次・新嘗の幣帛
に預ると記されている。
古くは「射園神:いそのかみ」と呼ばれたという。石上神宮がある石上(いそのかみ)と何
らかの関係があるのか興味深い。また、宮中に祀られていた園神神社と関係があるとの
説もある。
IMG_9508.JPG
IMG_9509.JPGIMG_9510.JPG
横大路・・・大和高田市HPより
市内の中央部を東西に貫く道、横大路は、古代からの大道で、国家が設置した最初の国
道ともいえるものです。日本書紀には「難波より京に至る大道を置く」と記述されており、
道幅が30メートル(諸説あり)ぐらいあったとされています。
「横大路」は、古代には京(飛鳥)へ、中世以降は、長谷寺や伊勢神宮詣での交通の要衝
として、多くの人々の往来があり、そのなかには、飛鳥の都へ向かう外国の使者や、豪族
たちも、この道を通ったと思われます。
江戸時代には、伊勢参りが盛んとなり、伊勢神宮に参拝する道中には、道しるべとして
「おかげ灯籠」が建てられて、幕末にはおかげ参りが大ブームとなり、街道沿いでは、食事
や湯茶の接待などの「施行」を行ったとされています。
このようすは、文政13年(1830年)に石園座多久虫玉神社(龍王宮)に奉納されたおかげ
参りの絵馬(1990年焼失)に詳しく描かれ、この絵馬に描 かれている「おかげ参り」に由来
して、平成9年に、かつての横大路の賑わいと商都「大和高田」の復活を願って高田おか
げまつりが発足しました。
IMG_9513.JPGIMG_9515.JPG
※横大路(伊勢街道)
横大路(よこおおじ)とは、奈良盆地を東西に貫く古代からの道。 「横大路」と呼ばれた道
は、奈良盆地南部の藤原京付近を通っていた道 と 法隆寺付近から現在の天理市櫟本
付近までの道の二つがあり、通常は前者のことを指し、後者は「北の横大路」と区別される。
通常「横大路」と呼ばれる道は、桜井市の三輪山の南から葛城市の二上山付近まで東西に
ほぼまっすぐに設置された道である。難波京と飛鳥京を結ぶ官道のひとつとして整備され
た。 別名として、伊勢街道(伊勢本街道)とも呼ばれる。現在の国道166号線の一部区間そ
のもの、および国道に平行している。東側では伊勢国への伊勢街道および初瀬街道に、西
側では和泉国に至る竹内街道および長尾街道に接続する。

春日神社
大和高田市大中東町の「春日神社」が鎮座します。祭神は、奈良の「春日大社」と同じ神様
で、武甕槌命(たけみかづちノみこと)、経津主命(ふつぬしノみこと)、天児屋根命(あめノ
こやねノみこと)、天児屋根命の妃・比売神(ひめノかみ)ら春日四神を祀っています。神社
の紋は「下がり藤」です。
IMG_9516.JPGIMG_9519.JPGIMG_9520.JPG
※義経の七つ石
境内に「源義経の七つ石」があります。平家を滅ぼしたけど、兄頼朝に追われた義経が、
京都から奈良へ出て、山の辺の道を南へ歩き、長谷街道を西へ向かい、静御前の母・磯
野禅尼(いそのぜんに)のいた高田の里へ入り、大中の村の小さな宮(チャンチャン社)で
休みました。その時、義経に従うのは、静、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、駿河の次郎、伊勢
の三郎、亀井の六郎、片岡経春、狐の化身・佐藤忠信、荷物持ち喜三太の9人で、伊勢
の三郎が物見に出て、静は片岡経春の護衛で母に会いに行き、残った義経主従7人が境
内の石に腰掛ました。
IMG_9517.JPGIMG_9518.JPG

近鉄OrJR高田駅

nice!(16)  コメント(4) 

3月28日~4月1日の馬見丘陵公園他

4月6日         3月28日~4月1日の馬見丘陵公園他
3月28日
絵手紙クラブ 社友会事務所
IMG_9345.JPG
IMG_9344.JPGIMG_9343.JPGIMG_9341.JPGIMG_9340.JPG

3月29日 服部記念病院&馬見丘陵公園
IMG_9335.JPGIMG_9336.JPGIMG_9337.JPGIMG_9338.JPGIMG_9339.JPG

4月1日 馬見丘陵公園&我が家のゆすら梅
IMG_9241.JPGIMG_9242.JPGIMG_9243.JPGIMG_9254.JPGIMG_9255.JPGIMG_9256.JPGIMG_9257.JPGIMG_9258.JPGIMG_9259.JPGIMG_9334.JPG IMG_9334.JPGIMG_9348.JPGIMG_9349.JPGIMG_9350.JPGIMG_9351.JPGIMG_9352.JPGIMG_9353.JPGIMG_9354.JPG
IMG_9355.JPG
IMG_9357.JPG

nice!(18)  コメント(4) 

3月31日の春を探そう 東大阪桜花謳歌の旅-2

4月6日      3月31日の春を探そう 東大阪桜花謳歌の旅-2
              近鉄駅フリーハイキング 歩程約9㎞
此の日は、最高のハイキング日和、知人と4名で参加、途中に石切劔箭神社を加えて
此の日の私の万歩計は、26558歩で約19.6km歩いたことに・・・
近鉄駅フリーハイキング  石切駅 北改札口(受付) 9時半~10時半
石切駅 北改札口(受付)~石切大仏~石切劔箭神社~重願寺~枚岡公園~枚岡神
社~瓢箪山稲荷神社~花園中央公園~吉田春日神社(ラグビー神社)~東花園駅 
志都美駅
IMG_9359.JPG

石切大仏へ向かう
IMG_9362.JPG
千手寺(せんじゅうじ)
当山の縁起は1574年(天正2年)に記された寺伝によれば、今から約1300年前、笠
置山の千手窟で修行していた役行者が、神炎に導かれ当地に来て千手観音の出現に
出会い、一宇を創建し、恵日山千手寺と名付けた。以後里人はこの堂を光堂とよび、こ
の地を神並(こうなみ)の里と呼ぶようになった。
また、平安時代の初め、弘法大師がこの寺に止宿した際、当寺守護の善女竜王が夢に
現れ、補陀落山の香木を与えた。大変喜んだ大師はこの木で千手観音像を刻し本尊と
した。その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰した
が、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ご
とに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良
房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。
いずれにしても、役行者、弘法大師、維喬親王、在原業平と歴史上の人物が次々と登
場するこの寺の寺伝。境内に古墳も有る。なんじゃもんじゃの木も有る。
IMG_9374.JPGIMG_9366.JPGIMG_9369.JPGIMG_9370.JPGIMG_9371.JPGIMG_9372.JPG
石切大仏
精力ドリンク「赤まむし」などを製造・販売するサカンポー(阪本漢方製薬)の4代目
阪本昌胤氏が創業地である東大阪市石切町に建立したのが、石切大仏です。
IMG_9375.JPG
石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)
神道石切教の神社。 延喜式神名帳に記載されている河内郡の式内小社。
「石切劔箭命神社二座」。
「石切さん」「でんぼ(腫れ物)の神様」として親しまれ、本殿前と神社入り口にある百度
石の間を行き来するお百度参りが全国的に有名。創建年代は、火災により社殿及び
宝庫が悉く消失したため詳らかではないが、代々の社家「木積」家には、皇紀2年に生
駒山中の宮山に可美真手命が饒速日尊を奉祀されたのを神社の起源とし、崇神天皇
の御世に現本社に可美真手命が奉祀されたと伝わる。現在確認できる文献では、日
本三代実録(巻十一)に「貞観7年9月22日に河内国正六位の石切劔箭神社従五位下
を授く」との記述がみられ、延喜式神名帳にも「石切劔箭命神社二座」とみられる。
IMG_9376.JPGIMG_9377.JPGIMG_9379.JPGIMG_9380.JPGIMG_9382.JPG

石切大仏の方へ戻る
IMG_9383.JPG
石切大仏~額田駅へ向かう
公園出トイレ休憩
IMG_9386.JPGIMG_9387.JPG
夫婦塚古墳・・・神並古墳群
夫婦塚古墳は、21基からなる神並古墳群(現存7基だそうです)の中心的な古墳です。
東大坂市の文化財に指定されています。平成元年に石室内部の発掘調査が行われて
います。西石室は3体、東石室は2体の埋葬が確認されています
東石室からは須恵器・土師器などの土器類、銀製品、玉類、馬に乗った人物や犬をか
たどった壷の装飾部品が出土。西石室からは須恵器、玉類、耳環、銀製品が出土。
6世紀中頃の築造と考えられています。
IMG_9389.JPGIMG_9390.JPGIMG_9391.JPG

額田駅~重願寺へ向かう
IMG_9393.JPG
※又見逃した楠正行の首塚
額田駅から重願寺へ向かう途中、「重願寺」の手前に「楠木正行公の首塚」が有ると言う、
駅の近くで小さな案内「楠木正行公の首塚」文字を見たが見つからない?
案内瞞に従い歩いて行くと、住宅地の一角に小さな石龕が祀られていると言う、楠木正成
の長男である正行は父子2代にわたる南朝方の忠臣として後世に名をとどめており、13
48年(正平3年)高師直軍との四条畷の戦いで破れ、弟正時と差し違えて自害したといわ
れるが、その墓は四条畷神社が管理している「小楠公墓所」以外にも、正行が本陣を置い
た「往生院」にある。また、首塚についても京都嵯峨の「宝筺院」や宇治の「正行寺」が有名
であるが、この東大阪市の此処にも首塚が有ると言う。
この塚は、地元では昔から手厚く保護され、現在でも手入れが行き届いていると言う。

重願寺・・・重願寺HPより
当寺は當知院本誓山重願寺と号し、大阪都市計画の谷町線拡張により昭和37年に
現在の額田に移転した浄土宗のお寺です。
総本山は京都の知恩院。豊臣秀吉の本願で、文録3年(1594)5月18日に岸譽雲
海上人が開基しました。現在の住職は19世忍譽行雄です。
御本尊の木造阿弥陀如来様は座像で像高140センチ、頭高46センチ、膝張108セ
ンチで、その姿は木彫全金色で定印を結び、船形光背を負い、重蓮台に座して藤原
時代の特徴を残しています。
多寶塔におまつりしている聖観音様は立像で高さ105センチ、お顔は温和で藤原様
式の優美な観音様です。
この観音様は大坂三十三ヶ所観音めぐりの第17番札所として江戸時代以来信仰され、
近松門左衛門作『曾根崎心中附り観音めぐり』の中にも『17番に重願寺、ここからいく
つ生玉の、本誓寺ぞと伏拝む』と重願寺の事が記載されています。
大阪市内が一望できる境内には慈雲尊者歌碑をはじめとして、そのほかには大坂夏の
陣『大坂城かえる石』『大坂刀匠碑』『井上真誡墓碑』2代目桂文枝の『桂塚賛成者碑』
など様々な石碑が奉られています。
IMG_9394.JPGIMG_9395.JPGIMG_9396.JPGIMG_9397.JPG
此処までは、
3月31日の春を探そう 東大阪桜花謳歌の旅-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。 
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-04-06
続きは、枚岡公園~   
枚岡公園(昼食休憩)
枚岡公園は、昭和13年に開設され、額田地区および枚岡地区の2つの尾根からなり、
その中央部を豊浦渓谷が流下している自然を生かした公園で、面積が約43.4haです。
昭和33年に金剛生駒国定公園が指定されるにあたり枚岡公園の全地域も国定公園
地域に含められました。梅林や桜の名所としても有名です。
IMG_9399.JPG
姥ヶ池
姥ヶ池の伝説・・・東大坂の昔話から
およそ600年ほども昔の事でしょうか、河内の国は枚岡の里に伝わる物語です。
村の男が夜道を歩いていると、どこからともなく一尺ほどの火の玉が飛んできて男の顔
をかすめてゆきました。なんや!と思い、よく見ると、白髪頭の老婆の首が宙をただよい
口から火を吹いているではありませんか。男は肝を冷やし、家にとんで帰りガタガタ震え
ていましたが、数日後には死んでしまいした。
村では寄るとさわるとこの話でもちきりで、噂は枚岡神社の神官たちの耳に入るまでに
なりました。枚岡神社では、このところ御灯明が夜半に消えてしまう怪事件が頻発して
いて、「枚岡神社の御灯明は、河内一国を照らされるもの、なのにこれはいかがしたも
のか」と問題になっていました。
山姥の仕業、山姥の正体は?
山姥は、若いころ、「山家の花」と呼ばれたほどの器量よしで、村の若者たちのあこがれ
の的でした。ところが人生とはわからないもので、何の因果か連れ添った男が十一人ま
で次々と死に失せ、それからは村人たちも恐れて言葉も交わしません。
八十八まで生きたが、往年の面影はなく、白髪の恐ろしげな老婆となっても、死ぬに死ね
ず貧しい暮らしをたてていました。夜なべの油も買えず、悪いこととは知りながらも、神社
の燈明の油を盗んでしまいました。それを村人にとがめられたため、老婆は神社の境内
の池に身投げして死んでしまったのです。村人たちは、冷たいもので供養もせず、仏も野
ざらしにして野犬や烏のついばむに任せていました。
それ以来、雨の降る夜には池の付近に青白い火の玉が現れ、老婆の妄執の火であると、
「姥ヶ火」と呼ばれるようになり、大変怖がられるようになったのです。
IMG_9400.JPGIMG_9401.JPG
枚岡神社
祭神
主祭神として祀られている天児屋根命(あめのこやねのみこと)は、「日本書紀」神代巻に
「中臣の上祖(とおつおや)」「神事をつかさどる宗源者なり」と記され、古代の河内大国に
根拠をもち、大和朝廷の祭祀をつかさどった中臣氏の祖神で、比売御神(ひめみかみ)は
その后神です。経津主命(ふつぬしのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は、香取
鹿島の神で、ともに中臣氏との縁深い神として知られています。
創祀
枚岡神社の創祀は、皇紀前まで遡り、初代天皇の神武天皇が大和の地で即位される3
年前と伝えられています。神武御東征の砌、神武天皇の勅命を奉じて、天種子命(あめ
のたねこのみこと)が平国(くにむけ)(国土平定)を祈願するため天児屋根命・比売御神
の二神を、霊地神津嶽(かみつだけ)に一大磐境を設け祀られたのが枚岡神社の創祀と
されています。
IMG_9402.JPGIMG_9404.JPGIMG_9405.JPGIMG_9406.JPGIMG_9407.JPGIMG_9408.JPG
※皇紀
皇紀とは日本独自の暦で、西暦はキリスト誕生を元始とするが、日本の皇紀は、
初代天皇西暦よりも660年前に皇紀がはじまったとされます。
※神武御東征(じんむごとうせい)
神武天皇(神倭伊波禮毘古命:かむやまといはれびこのみこと)は、日本の国を治める為、
九州の日向高千穂から東に向かわれ、地方を治めながら日本の最中大和の国、畝傍山
の橿原の地でご即位されたと日本書記に記されています。これを神武御東征といいます。
浪速(今の大阪湾、当時の湾はかなりいりくんでいたと伝わる)に上陸され、生駒の山を
越えて大和の国へ進もうとされたが、生駒の豪族であったナガスネヒコの大軍がこれを阻
止しようと戦がおこってしまいます。思うように進むことができないばかりか、兄である五
瀬命(いつせのみこと)が流れ矢によって負傷してしまうなど、かなりの痛手を負い、ここに
神武天皇は、神のお告げによって「天照大御神の子孫でありながら、日に向かって敵を討
つことは神の道に逆らうものである」と悟られ、天神地祇を祀った後、皇軍を還して和歌山
紀州路から吉野を通り、日を背にむけて大和へ進むことを決意されます。
この時に、天児屋根命・比売御神の二柱の神を霊地神津嶽にお祀りし、国土の平定を
祈願され、その後、熊野を経て大和橿原の地に即位されます。

瓢箪山稲荷神社
瓢箪形の古墳を背にまつられた瓢箪山稲荷神社は古くから「淡路島かよう千鳥の河内ひょ
うたん山恋の辻占」と名調子で売り歩いた辻占の総本山で、日本三大稲荷の一つです。こ
の辻占は、一の鳥居前にある占場に立って往来する人の服装・態度・持ち物などを見て判
じたといわれています。
創建は天正11年(1584年)。豊臣秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方(大坂城の南東)三
里の地に鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したことが由緒とされる。 現在
の本殿は、慶応2年(1866年)に建てられたものである。
神社本殿の背後にある小丘は、通称「瓢箪山古墳」とよばれる、古墳時代後期・6世紀末ご
ろに作られた双円墳で、山畑古墳群の中で最大・最古のもの。 そのヒョウタンに似た形状
から、古墳および一帯の地名が「瓢箪山」と呼ばれるようになった。
IMG_9409.JPGIMG_9410.JPGIMG_9411.JPGIMG_9413.JPGIMG_9414.JPG
花園中央公園へ向かう
瓢箪山商店街
IMG_9415.JPGIMG_9416.JPGIMG_9417.JPGIMG_9418.JPGIMG_9419.JPG
しばらく恩地川沿い
恩地川を渡る
IMG_9420.JPGIMG_9421.JPGIMG_9422.JPGIMG_9424.JPG
花園中央公園・・・HPより
公園内には花園中央公園野球場(花園セントラルスタジアム)、ドリーム21、市民美術セン
ター等があり、花園図書館や花園ラグビー場にも近く、東大阪市の文化・スポーツ活動の
拠点となるよう、 各種の施設整備を進めています。  
公園内の東側には、桜の広場や花菖蒲池などがあり、開花時期には多くの人が訪れ、公
園利用者の憩いの場となっています。また、南側のメインゲートにある石モニュメントと噴
水は公園のシンボルであり、涼やかで心地良い空間を創り出しています。
IMG_9426.JPGIMG_9427.JPGIMG_9428.JPGIMG_9429.JPGIMG_9430.JPGIMG_9432.JPG

吉田春日神社へ向う
IMG_9433.JPGIMG_9434.JPGIMG_9435.JPG
吉田春日神社(ラグビー神社)
吉田春日神社は、大阪府東大阪市吉田にある神社。近代社格では村社。神社本庁に属
さない単立神社である。正式には春日神社のみ。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建年代は不詳。大和春日大社より四柱神を勧請したと伝わる。旧河内郡吉田村の鎮守
として崇敬され、古くは「松の宮」と称した。
御祭神は、天児屋根大神・比売大神・武甕槌大神・経津主大神(斎主大神)。
現存の本殿は、江戸時代前期の寛文10年(1670年)に再建され、中期の享保5年
(1720年)に大修理されたもの。
昭和4年(1929年)、日本初のラグビー専用スタジアムとして、花園ラグビー場が開場した。
「花園」といえば高校生ラガーの憧れであり、聖地。
当社はその程近くに鎮座するため、現在は「ラグビー神社」として知られる。拝殿には奉納
された大きな木製のラグビーボールとラグビーボール型の絵馬が並ぶ。
正月の全国高校ラグビー大会、ジャパントップリーグの開催期間には関係者の参詣が多く、
全国唯一のラグビー守袋を扱う。
IMG_9437.JPGIMG_9438.JPGIMG_9439.JPGIMG_9440.JPGIMG_9441.JPGIMG_9442.JPGIMG_9443.JPG

東花園駅へ向かう
IMG_9444.JPG

東花園駅
IMG_9445.JPG

nice!(7)  コメント(2)