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5月16日の楠木正成と南北朝争乱ゆかりの地-2

5月31日      5月16日の楠木正成と南北朝争乱ゆかりの地-2
                5月度歴史探訪の会 歩程約6㎞
出かけから大和路線のダイヤの乱れであたふた・・・好天に恵まれ、坂の多い神戸
で悪戦苦闘することに・・・此の日の私の万歩計は、18448歩で約13.6km歩いた・・
コース  参加者19名 2班に分かれてボランティアガイドの案内で散策・・・
神戸駅(受付・スタート)~湊川神社~湊川公園~湊川隧道~会下山公園(昼食)
~福海寺~福厳寺~能福寺・兵庫大仏(ゴール・解散)~JR 兵庫駅
今回は、楠木正成が足利尊氏との湊川の戦いで敗れ、自刃した場所等、楠木正成と
後醍醐天皇にゆかりある場所を中心に神戸の街を歩きました。
神戸駅~湊川神社
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港川神社
御祭神は 御祭神は、1336 年 5月の足利尊氏と戦い(湊川)で殉節した楠木正成。
1692 年(元禄5年)に徳川光圀(水戸黄門が『嗚呼忠臣楠子之墓』(あちゅうしんなん
しのはか)の石碑(文字は光圀の書)を建立した。幕末から明治維新の頃には、吉田
松陰、坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、西郷隆盛、木戸孝允 等々 幕末の志士が此
の石碑を訪れている。
1868 年(明治元年)に明治天皇より、神社の 創建 が命じられ、1872 年(明治5年)
に湊川神社として創建された。
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※湊川の戦い
鎌倉幕府の滅亡(1333 年)から3 年後の1336 年(建武3 年)、後醍醐天皇による建武
の新政に不満をもつ武士達のリーダー足利尊氏は2 月に新田義貞・楠木正成・北畠顕
家らとの戦いで敗れて、九州へ落ち延びた。楠木正成は後醍醐天皇に、状況が有利な
今のうちに足利方と和睦する事を進言するが、後醍醐天皇はこれを退け、3 月に新田
義貞を総大将とする足利尊氏追討の軍を西国へ向けて派遣した。この時、楠木正成は
和睦を進言した事で朝廷の不評を買い、この追討軍からは外された。

新田義貞は播磨国の足利方の武将赤松則村(円心)を攻めるのに手間取り、その間に
足利尊氏は九州で体制を立直して京都を目指して東進をはじめ、中国、四国で細川氏
らの軍と合流し軍を進めた。足利尊氏軍の東進にともない赤松軍は新田軍に攻撃をし
かけ、新田軍のなかには足利方に寝返るものもでてきて、新田軍は兵庫(現在の神戸
市兵庫区辺り)まで軍を退いて立直しを図った。

足利尊氏の軍勢が京都に向かっているとの報に、後醍醐天皇は楠木正成を呼び出し
た。楠木正成は一旦京都から撤退し足利軍を京都に引入れた後に楠木軍と新田軍で
攻撃する作戦を提案するが、公家たちはこれに反対、後醍醐天皇も公家達の意見を
受け入れ、兵庫で新田軍と合流し足利軍を迎え撃つ様にと楠木正成に命じた。正成は
天皇の命令に従い、死を覚悟して湊川に向った。途中、桜井の駅(現在の大阪府三島
郡島本町付近)で嫡男楠木正行と訣別するという話し(桜井の別れ)が伝わる。

1336 年5 月25 日、新田義貞は和田岬に、楠木正成は会下山(えげやま)に布陣して
陸路と海路両方から進軍する足利軍を迎え撃つ体制をとったが、足利軍の水軍が兵
庫よりもさらに東から上陸する動きをしたため、新田軍がそれを討とうと東に動いた隙
をついて一部の水軍が和田岬に上陸、この為新田軍と楠木軍は分断されてしまった。
孤立した楠木軍は足利尊氏、直義(尊氏の弟)の大軍を相手に奮闘するも力尽きて湊
川で弟の楠木正季とともに自害した。

日本で最初のオリーブの木・・・2017年9月22日産経WEST記事
明治初期に官営の農業試験場で栽培されたオリーブが境内に移植されたと伝えられる。
樹齢およそ140年の「日本最古のオリーブ」と紹介されている木は、先の大戦による戦災
や阪神大震災を乗り越えたが、昨秋、害虫により枯死の危機に瀕していることが判明した
という。樹木医の調査で、害虫のオリーブアナアキゾウムシが根に卵を産みつけ、幼虫が
幹の内部に侵食、木全体に栄養を送り込む通路がふさがれた状態だったという。この為、
幼虫の駆除に向けて薬の散布などの治療が進められている。
治療の効果が出てるのか?健在でした・・・
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湊川神社を後にして
港川公園へ向かう
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新開地の
アーケード商店街を通る
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湊川公園へ出た
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工事中で
楠木正成像もまじかに見える
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湊川隧道へ向かう
東山商店街のアーケード通り
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商店街を抜けて
港川沿いへ出た
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湊川隧道
明治時代の湊川は度々氾濫し洪水をおこしていたが、1896 年(明治29 年)に大洪
水が発生、これを機に河川改修が行われ会下山(えげやま)の下をトンネルで流れる
日本最初の河川トンネルとして1901 年(明治34 年)に完成。その後、1995 年(平成
7年)の阪神・淡路震災で損傷した為、新たに新湊川トンネルが建設され2001 年に
完成した後河川トンネルとしての100 年役目を終えた。現在、旧湊川隧道は定期的
に一般公開が行われ、トンネル内ではコンサート等が開かれたりしています。
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旧湊川隧道の
中はのとおり
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会下山公園の下に出口が・・・
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此処までは、
5月16日の楠木正成と南北朝争乱ゆかりの地-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-05-31
此処では、続きの会下山公園へ向かう~
会下山公園へ向かう
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会下山公園(昼食)
足利尊氏と新田義貞、楠木正成との湊川の戦いの際に、楠木正成が本陣をおいたと
されており、神戸の街を広く望む事ができます。公園内には『大楠公湊川陣之遺蹟』の
碑があり、この碑の文字は日露戦争でロシアのバルチック艦隊と戦った東郷平八郎に
よって書かれました。
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会下山公園を下り
福海寺へ向かう
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JRの高架下を通り
福海寺へ向かう
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福海寺
正式には「大光山福海興国禅寺」という臨済宗南禅寺派の寺院。足利尊氏が在案圓有
を招聘して1344 年に創建され歴代足利将軍に尊崇された。本堂には足利尊氏が書い
たと伝わる『福海興国禅寺』の額が掛かっている。1336 年京都での戦に敗れた足利尊
氏は新田義貞の軍に追われて、この付近にあった「針が埼観音堂」(福海寺の前身)に
身を潜め、かろうじて一命を取り留めた。その後九州へ落ち延び、軍勢を立直して京都
を目指して東進し、湊川の戦いで勝利する。1338 年征夷大将軍に任じられ室町幕府を
開いた足利尊氏は一命を取り留めた「針が埼観音堂」への報恩と戦没者の供養の為に
福海寺を開いた。寺の門には足利家の家紋である『足利二つ引き』が配されています。
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福厳寺
臨済宗南禅寺派の寺院で仏僧国師が開いた寺で、創建の時期は不明だが14 世紀初
め頃とも言われている。1333 年(元弘3 年)に後醍醐天皇が隠岐を脱出し京都へ向か
う途中に立ち寄った寺の一つとされている。その際、赤松則村(円心)や楠木正成など
数千の武士が出迎えた。 尚、後醍醐天皇が福厳寺に滞在のおり、近くの寺院から薬水
を献上したとされ、その寺は薬仙寺の名前を賜ったと云われ現在も和田岬にあります。
門前には「史跡後醍醐天皇駐蹕之處」の碑があります。
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能福寺へ向かう
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能福寺・兵庫大仏(ゴール・解散)
伝教大師(最澄)によって開かれた天台宗の寺で、805 年に創建されたと伝わる。平氏
ゆかりの寺院でもあり平清盛が福原遷都にあたって祈願をした寺であり、又、清盛が出
家をした寺とされている。 1891 年(明治24 年)には大仏が建立され、奈良、鎌倉の大
仏と共に日本3 大仏とされていた。しかし、太平洋戦争時代の金属回収令で国に供出さ
れ、現在のものは1991 年に再建されたものです。
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又、神戸事件の責を負って切腹した瀧善三郎正信の碑があります。
神戸事件とは、慶応4年(1868 年)1 月に西宮警備を命令された備前藩兵が大砲を引
いて西国街道を通過中に、三宮神社前で行列を横切ろうとした、フランス人水兵を槍で
刺傷させ、神戸の町が一時、外国兵に占拠されました。この事件では全責任を負って同
年2 月に兵庫の津、永福寺で外国人代表らの立会いの面前で瀧善三郎正信が切腹し
て結着しました。 ・・・日本の武士の責任のとり方、切腹が世界的に有名になった事件。
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JR兵庫駅へ向かう
途中で見えた柳原えびす神社
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JR 兵庫駅

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5月13日・山武市五木田~九十九里浜ウオーク-2

5月28日       5月13日・山武市五木田~九十九里浜ウオーク-2
               5月11日~14日 千葉&東京方面旅行
家内と二人で千葉&東京方面へ、千葉で3泊4日世話になり、12日は千葉・本八幡で
の従兄弟会に久し振りに出席して、私は、4人兄弟の妹、弟3名全員に会えて、東京で
家内の兄姉2名にも会えて(千葉で送り迎えと世話になった宿泊先は家内の兄妹で長
女)3年振り?に旧交を、電話で話すのと会って話すのとでは?家内は姉と深夜迄・・・
此れまでは長年、千葉&東京方面へは、車や新幹線で行き来していたが、今回は初
めてバニラエアーで関西空港⇔成田空港往復、足の悪い家内にとっては、成田空港
の第3ターミナルでのタラップ乗降が少しきつかった?
5月11日~14日・千葉&東京方面 
旅行については、13日分を除いて下記へ投稿済みです。
http://taharas-amami-nara.blog.so-net.ne.jp/2018-05-27
此処では、
5月13日・千葉 山武市五木田  五木田⇔・九十九里浜ウオークの詳細を投稿します。 
此の日の私の万歩計は、14522歩で約10.7km歩いたことに・・
此の日葉1人で、山武市五木田の義理の姉の家~九十九里浜を目指して・・・
田植えの終わった田圃
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ビニールハウスの中はニラ
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田圃が続く
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途中に麦畑も・・・
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水路と田圃
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スイカズラタンポポ他色とりどりに花が咲いている
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田圃の中の避難道路を海岸に向かって・・・
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そろそろ海岸に近づいて来た
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此処から海岸へは車は入れない
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白幡海水浴場
ついに堤防に立った
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片貝の方向、井之内へ少し歩いて
未だ未だ浪打際までは遠い
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風紋
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此処までは、
5月13日・山武市五木田~九十九里浜ウオーク-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-05-28
此処では、此の続きの波打ち際から
波打ち際
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浪打ち際から戻る
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元来た道を帰る
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避難道へ戻って
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井之内
八坂神社
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最初の田圃に帰って来た
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5月11日~14日 千葉&東京方面

5月27日       5月11日~14日 千葉&東京方面
                    家族旅行
家内と二人で千葉&東京方面へ、千葉で3泊4日世話になり、12日は千葉・本八幡で
の従兄弟会に久し振りに出席して、私は、4人兄弟の妹、弟3名全員に会えて、東京で
家内の兄姉2名にも会えて(千葉で送り迎えと世話になった宿泊先は家内の兄妹で長
女)3年振り?に旧交を、電話で話すのと会って話すのとでは?家内は姉と深夜迄・・・
此れまでは長年、千葉&東京方面へは、車や新幹線で行き来していたが、今回は初
めてバニラエアーで関西空港⇔成田空港往復、足の悪い家内にとっては、成田空港
の第3ターミナルでのタラップ乗降が少しきつかった?
5月11日
関西空港24ゲート
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千葉 山武市五木田で一夜明けて
5月12日
山武市五木田・朝の公園散歩
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葛飾区 新小岩の家内実家へそして従兄弟会へ
5月12日
東京 小岩駅~千葉 本八幡駅
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東京 葛飾の家内の実家へ、そして成田空港~帰阪へ
5月14日
成田空港 第2ターミナル
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成田空港 第3ターミナル
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5月14日
成田空港→関西空港→電車→タクシーで無事帰宅 

※5月13日のウオーキングは、別途投稿
千葉 山武市五木田  五木田⇔・九十九里浜ウオーキング


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5月9日のJRハイキング 渡船と最低山(昭和山)-2

5月26日      5月9日のJRハイキング 渡船と低山(昭和山)-2
              リーダ-と歩く楽しいウオーキング 10km
此の日は知人と3名でJRハイキングに参加、渡船2ヶ所と大阪低山(昭和山)散策へ、
コース  JRふれあいハイキング 大坂・関西歩け歩け協会主催 歩程約10㎞
芦原橋駅~徒歩3分~浪速玉姫公園(集合10時)~木津川・落合上渡船~千島公園・
昭和山~北村南公園~尻無川・甚兵衛渡船~八幡屋公園~弁天町駅
参加費用 300円・・・此の日の私の万歩計は、21196歩で約15.6km歩いたことに・・・
芦原橋駅~徒歩3分~浪速玉姫公園(集合10時)
浪速玉姫公園・・・太鼓屋又兵衛
「浪速玉姫公園」は太鼓屋又兵衛 屋敷跡です。
「太鼓屋又兵衛」は江戸時代を通じ、太鼓の全国ブランドとして知られていました。「太鼓
屋」の屋号は、1616年に大阪城の「時太鼓」を作った渡辺村の平八が、その功労によっ
て「太鼓屋」の屋号を許されたことに始まると伝えられています。「太鼓屋又兵衛」の名は、
少なくとも17世紀後半には登場します。
1800年前後に活躍した太鼓屋又兵衛は、皮革の商いにも稀な才覚を発揮し、皮革問屋
としての地位を築きました。幕末に活躍した又兵衛は、九州の小倉で生 まれましたが、
1837年に大阪・渡辺村へ養子に入り、1842年に太鼓屋又兵衛を襲名しました。この人
は温厚・実直で商才もあり「太鼓屋又兵衛」の名をさらに広めました。
太鼓屋又兵衛は、1858年には鳥取城の時太鼓をつくり、現在この太鼓は、島根県の美
保神社にあり国の重要文化財に指定されています。
ここは、その太鼓屋又兵衛の屋敷があった場所です。
出典:浪速玉姫公園「太鼓屋又兵衛の説明書き」
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木津川・落合上渡船場へ向かう・・・此処は太鼓ロード?
人権・太鼓ロード 産地・浪速の歴史を発信
人権・太鼓ロードは、浪速支部をはじめ大阪市や浪速区人権啓発推進協議会などでつくる
同計画策定委員会が推進してきたもので、太鼓の産地として300年の歴史をもち、全国有
数の皮革の集散地だった浪速の歴史を正しく伝え、部落の文化に誇りをもって、人権文化
として発信していこうというもの。
場所は、JR芦原橋駅から大阪人権博物館(リバティおおさか)までの新なにわ筋周辺の約
500メートルが対象。モニュメントがある「海の玄関口ゾーン」や「和太鼓のつくり手ゾーン」
など8ゾーンに分けて石碑や案内板などを設け、バス停やベンチなども太鼓をイメージでき
るデザインになっている。
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木津川・落合上渡船
落合上渡船場は、大正区千島1丁目と西成区北津守四丁目を結ぶ(岸壁間100m)。
平成29年度現在、1日平均484人が利用している。
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※大阪市に今藻残る8つの渡船場
1.天保山(てんぽうざん)渡船場  2.甚兵衛(じんべえ)渡船場  3.千歳(ちとせ)
渡船場  4.落合上(おちあいかみ)渡船場 5.落合下(おちあいしも)渡船場
6.千本松(せんぼんまつ)渡船場  7.船町(ふなまち)渡船場  8.木津川(きづ
がわ)渡船場

千島公園・昭和山(33m)
大阪万博を控えて大阪市営地下鉄の路線整備が急速に進んでいたという建設当時の
背景から、地下鉄建設工事で出た残土約170万立方メートルを使用して山が建設され
た。1970年11月30日に記念植樹式がおこなわれ、式典会場でこの山を「昭和山」と命
名することが発表された。昭和山の名称は、昭和年間に建設された山ということに由来
している。また、1974年に公園内にある千島体育館が開設された。
その後山の周囲約11.2ヘクタールを整備し、1976年4月1日に千島公園が開園した。
昭和山は建設当時、大阪市では最も標高が高い場所となっていた。その後鶴見緑地内
に鶴見新山が建設されたことで、大阪市内最高峰は鶴見新山(当初47m、現在39m)
に譲り、昭和山は大阪市で2番目に標高が高い場所となっている。
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此処までは、
5月9日のJRハイキング 渡船と最低山(昭和山)-1 として
              下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
           http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-05-26
此処では、続きの北村南公園(昼食)~の詳細を掲載します。
北村南公園(昼食)
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泉尾浜公園で時間調整?
尻無川・甚兵衛渡船
甚兵衛によって設けられた渡しにある茶店は「蛤小屋」と呼ばれて名物の蜆、蛤を賞味する
人が絶えなかったという。
現在も甚兵衛渡船場は健在で、大正区泉尾七丁目と港区福崎一丁目を結び(岸壁間94m)、
朝のラッシュ時は2隻の船が運航している。平成29年度現在1日平均約1,189人が利用して
いる。
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※三先天満宮
天保初年(1830年)葦屋勇助なる人物がこの土地の開発を試みます。しかし度重なる水
害に遭い、功半ばにして池田屋大吉なる人にその開発を譲ります。池田屋大吉は開発に
先立ち天保6年(1835年)、成功を祈願して大神様を勧請しお祀りします。
開発は無事成功し、開発された土地は「池田新田」と称されるようになりました。この成功
を以て神域を整え(現在の港南公園北東隅付近)大神様を産土神とされました。現在の
三先池島をお護りされる氏神様です。
明治45年・大正元年(1912年)には当時の地主、田中市蔵なる人が私財を投じ修築され
ました。昭和20年(1945年)には、この辺りは空襲に遭い焼け野原になりました。しかし
当社は、大神様のご加護により消失は免れました。

八幡屋公園・・・面積は約12.4ヘクタール。
1923年、当地に「大阪市立運動場」が開場したことに始まる。当時としては東洋一の規
模とされ、戦前は大規模な競技大会も行われたが、1964年に長居公園内に長居陸上
競技場が完成して以降、主要な陸上競技大会は長居で開催されるようになった。その
ため運動場を廃止し、1972年に八幡屋交通公園として新たに開園。実際の公道そっく
りの道路が園内に作られ、信号機や踏切などを体験しながら交通ルールを学ぶ場とし
て利用された。運動場の廃止に伴い、1956年に開設された大阪国際見本市港会場の
敷地も拡張されている。1985年に大阪国際見本市港会場が南港に移転し「インテック
ス大阪」となったことで、1993年以降、見本市会場跡地と交通公園を一体化した八幡屋
公園として再整備されることとなった。それを受け1996年に大阪プールと大阪市中央体
育館が八幡屋公園に移転した。
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弁天町駅へ向かう
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弁天町駅(ゴール)
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5月6日の大和郡山市・城下町ぶらっと散策-2

5月23日         5月6日の大和郡山市・城下町ぶらっと散策-2
                  JRふれあいハイキング(予約)
5月6日の大和郡山市観光ボランティアガイド協会主催のJRふれあいハイキングに
事前予約申込みをして参加した、参加者19名、10名と9名の2班に分かれぶらっと?
コース JRふれあいハイキング 大和郡山市観光ボランティアガイド協会主催
JR郡山駅(受付・スタート)~日本紡績工場跡~外堀緑地公園・北門(冠木門:かぶき
もん)~四阿(あずまや)~高麗門(こうらいもんl)~町屋物語館(旧川本邸:遊郭)~
源九郎稲荷神社~郡山市観光案内所~春岳院~郡山城・鉄御門(くろがねもん)址~
大手門(根来寺の山門を移築)~奈良公園の図書館を移築~堀の向うに天守閣跡を
~野点茶室~柳沢文庫~柳沢神社~天守閣跡・さかさ地蔵~三の丸緑地~柳御門跡
~百寿橋~菊屋(創業400余年)~金魚葉椿~紺屋川~こちくや(金魚すくい道場)~
薬園(やくおん)八幡神社~JR郡山駅(解散)
「秀長の城下町 大和郡山市散策」歩程約5kmをボランティアガイドの案内で散策・・
此の日の私の万歩計は、14309歩で約10.5km歩いたことに・・・
JR郡山駅(受付・スタート)
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大日本紡績工場跡
現在のユニチカの前身である大日本紡績の 大和郡山工場の跡地 は、JR郡山駅前
の公団住宅になっている。
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※現在のユニチカの前身である大日本紡績の高田工場が大和高田市にありましたが、
1977(昭和52)年に閉鎖されました。

外堀緑地公園・北門(冠木門:かぶきもん)
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四阿(あずまや)
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高麗門(こうらいもん)
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町屋物語館(旧川本邸:遊郭)
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源九郎稲荷神社(げんくろういなりじんじゃ)
奈良県大和郡山市に鎮座する、源九郎狐や綿帽子を買った狐の伝説で有名な神社
である。童謡『やまとの源九郎さん』に歌われている場所であり、地元では「源九郎さ
ん」の呼び名で親しまれている。小さな稲荷であるが、日本三大稲荷の一つに数えら
れ、北向きの本殿に『白狐源九郎』が祀られている。五穀豊穣・商売繁盛の御利益が
あり、4月の第一日曜日に、白狐面をつけた子供行列が練り歩く『源九郎稲荷春季大
祭』が行なわれる。
源義経が兄頼朝との戦に際し、義経は幾度もこの稲荷に助けられ、この稲荷に源九
郎の名を贈ったという伝説が、社名の由来となっている。
翁の姿をした源九郎狐が、長安寺村の宝譽という僧の夢枕に立ち、郡山城に自分を
祀ってくれたら城の守護神になろうと告げたので、宝譽は豊臣秀長にこのことを告げ、
城内竜雲郭に稲荷が創建されたと伝えられている。
享保4年(1719年)、現在地に遷座。大正14年(1925年)、現社殿が完成している。
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※数々の伝説
忠臣狐伝説
義経が兄頼朝に追われ、吉野山まで逃げる道中、佐藤忠信に化けた白狐が、静御
前を守り通した。義経はその白狐の忠義に感服した。狐の意中の物は、親の皮で出
来た御前の鼓であったが、それを知った義経は、自分の名を与えて「源九郎」と名乗
ることを許した。
妖刀子狐丸伝説
菅田明神の境内に住む小狐が、近くの淵で村人を苦しめている大蛇を源九郎狐の
加勢を得て退治した。大蛇の尾から宝剣が見つかり、村人はこの宝剣を「小狐丸」
と名づけ、天理の石上神宮へ奉納した。
元和の鎮火伝説
元和元年(1615年)、豊臣方大野治房による郡山城攻撃が行われた際城下も焼け、
その中心へと火が迫ってきたのを見た洞泉寺住職天誉和尚が、源九郎狐に祈願を
したところ、突然大雨が降り大火を免れた。
綿帽子を買った狐伝説
大和郡山の柳三丁目に帽子屋があり、ある冬の夜婦人が綿帽子を三つ買いに来た。
代金を源九郎神社へ取りに来て欲しいと言われたが、神社では誰も心当たりがないと
いう。主人が不審に思っていると、境内から綿帽子をかぶった三匹の小狐が現れた。
大和郡山市観光案内所~春岳院
春岳院
元は東光寺と号しましたが、秀長の菩提所となった後、その戒名からとって春岳院と
改めました。本堂は正徳元年(1711)の再建と伝わり、狩野貞信筆の秀長画像、箱
本制度で使われた御朱印箱をはじめ、秀長時代の郡山を知る資料を数多く伝えま
す。寺宝に足利尊氏の念持仏という千手観音があり、また、境内の七重石塔は聖武
天皇造立との伝承もあります。
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踏切を渡って
郡山城・鉄御門(くろがねもん)址
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大手門へ向かう
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大手門(根来寺の山門を移築)
修理に使用した樹齢1400年の台湾檜
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奈良公園の図書館を移築
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堀の向うに天守閣跡を
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此処までは、
5月6日の大和郡山市・城下町ぶらっと散策-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-05-23
此処では、続きの野点茶室~の詳細を・・・
野点茶室、柳澤家家紋
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柳澤文庫
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柳澤神社へ向かう
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柳澤神社
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天守閣跡・さかさ地蔵
石材不足を補うため、天守台の石垣には寺院の石碑や墓石、平城京羅城門の礎石
までが用いられた。なかでも有名なのが「さかさ地蔵」。石垣の隙間からのぞくと、高
さ90cmほどの石地蔵が逆さに埋まっているのが見える。
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さかさ地蔵
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三の丸緑地
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柳御門跡~百寿橋
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菊屋(創業400余年)
天正13年(1585)創業の本家菊屋。豊臣秀長より秀吉をもてなす御茶会のための
珍菓を作るよう命じられた店祖・菊屋治兵衛が、粒餡を餅で包んできな粉をまぶし
たお菓子を献上。秀吉はこれをたいそう気にいり、「鶯餅」と命名しました。その菓
子は時代を経て、お城の入口で売っている餅ということから「御城之口餅(おしろの
くちもち)」の名になり、現代も愛されています。
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天井に型菓子の木型が・・・
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金魚葉椿
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商店街
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紺屋川~こちくや(金魚すくい道場)
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薬園八幡神社(やくおんはちまんじんじゃ)
八幡大神、比咩神をお祀りしている。当社の創建は奈良朝孝謙天皇、天平勝宝元年
にして今より1230年前(昭和62年まで)勅命を以って従四位上石川朝臣年、従五位
上藤原魚名等が豊前国宇佐神宮より平城の宮南梨子原(内侍原を云う往昔近衛府の
領地にして今の郡山城内一円なり。)の清地に神殿を造営してここに迎え祀りしを同2
年9月清澄庄藥園(今のお旅所なり)の地に遷座あり後再び移しかへて延徳3年以来
南藥園なる現社地に鎮祀せられたるなり。蓋藥園八幡神社は聖武天皇の勅定にして
常に朝廷の御崇敬厚く勅額神階神領を給ひ、或は奉幣に預り或は社殿の造修を受け
つつ在りしが星霜を経て幕府の政権に入り遂に絶へ僅かに藩主等の尊敬を受け天井、
本庄、塩庄の総社として存ししを明治維新とともに当町産土神社として鎭り給ふもの。
(御霊験と藥園)聖武天皇天平年間に悪疫流行し諸民多く臥して辛苦を嘗めしかば天
皇深く御燐悠ましまし諸国の神祗に幣を奉じて為民祈祷(きとう)なさしめ給ふ時に宇佐
八幡大神の御帳記によりて宮南なる塩の庄の野山に生ずる薬草を湯薬として疫民に給
ふれば服する者は悉く救療せられ全く安寧(あんねい)を得るに至りぬ。是より奈良朝の
施藥院は起り典藥寮の藥園ここに始まるなり。この地は勝宝元年11月25日大嘗会を
行ひ又翌2年春正月朔群臣に饗癒を給ひし所なるべし。
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JR郡山駅(解散)

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5月5日の馬見丘陵公園&竹取公園-2

5月17日           5月5日の馬見丘陵公園&竹取公園-2
                      近所の公園散歩
近所の公園散歩は家内の散歩にお付き合いして、竹取公園の遊具&子供達の遊び
や遊び場を偵察?に・・・
馬見丘陵公園の中央公園館前の駐車場に車をいれて散策スタート
此の日の私の万歩計は7089歩で約5.2km歩いた事に・・・・
芝生の丘
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ナガレ山古墳前の
なんじゃもんじゃyとハンカチノキを見に・・・
奥のなんじゃもんじゃの木に華が咲き始めていた
つつじとなんじゃもんじゃ
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ハンカチノキも花が?
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竹取り公園へ向かう
リキュウバイの白い花が
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陸橋の両道祖土のユリノキに華が咲き始めていた
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竹取り公園
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エレベーターで降りて
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つつじが残っていた
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遊具とエゴノキとヤマボウシ、水車小屋も
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ソリでのターフスキー?ツツジが綺麗、遊具が有る・・・
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此処までは、
5月5日の馬見丘陵公園&竹取公園-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-05-16
此処では、続きの竹取公園をあとに馬見丘陵公園へ戻る~
竹取り公園~馬見丘陵公園へ
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馬見丘陵公園
盛の中のウッドデッキ、ニセアカシヤ?
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カエル?上池
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下池
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花菖蒲園
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バラ園へ
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バラ園は賑やか・・・
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北エリアへトンネルを潜る
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北エリア
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バラ園へ戻る、此処のユリノキも咲いて・・・
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ベニバナトチノキ・・・
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子供の日で人出が多い、お疲れ様・・・

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5月4日の浅香山緑道2500株のつつじ祭り-2

5月10日       5月4日の浅香山緑道2500株のつつじ祭り-2
               近鉄駅フリーハイキング 歩程約10km
此の日は知人と3名で参加、残念ながら浅香山緑道のツツジは既に咲き終えて
しまってて見る事は出来なかったが、素晴らしいハイキング日和の中を歩けた事
に大満足の一日だった・・・・
コース  布忍駅受付・スタート M吉さんが足踏み式自家用社で見送りに?
布忍駅~大林寺~布忍神社~船堂公園~華表神社~浅香山稲荷神社~浅香山
公園~旧浅香山浄水場つつじ祭り会場~大和川堤防道~今池水みらいせんたー
~天美商店街~河内天美駅(ゴール)
此の日の私の万歩計は、23920歩で約17.7km歩いたことに・・・
志都美駅
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柏原駅で道明寺線に乗り換えて
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布忍駅(受付・スタート)
布忍山 大林寺
当山はもとは東大饗村(東おわい村:現堺市美原町)にあったが、1878年(明治11年)
当地に移転した。寺院の西側を流れる西除川の西岸にあった永興寺(ようこうじ:明治
6年に廃寺)の本尊であった十一面観音像や「布忍山永興寺略縁起」、「大般若経60
0巻」を蔵する。この「布忍山永興寺略縁起」によると、永興寺は1069年(寛治3年)
永興律師により創建され、弘安年中(1278~88年)に大和西大寺の叡尊が中興した
と伝える。又、近くにある布忍山布忍寺は、この永興寺の塔頭と伝えられ、布忍寺に伝
わる「布忍山東坊縁起」には、東之坊は聖徳太子が薬師如来を本尊として創建。814
年(弘仁5年)空海が再建したが荒廃し、寛治3年に永興律師が再興し、永興寺と名付
けたとあり、平安後期には大伽藍を誇った寺院が存在していたと思われる。なお、この
永興寺の本堂は1887年(明治20年)現柏原市にある壺井寺に移築され、現存する。
大林寺は、旧長尾街道に面してある。長尾街道は飛鳥時代の7世紀頃に創られた難
波・河内と飛鳥を結ぶ官道であったといわれる。西除川を挟んで永興寺の鬼門の守宮
であったと考えられる布忍神社がある。
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布忍神社
布忍神社は速須佐男之尊、八重事代主之尊、武甕槌雄之尊の三神を祀っています。
社伝によると十八町北方の天見丘から、この地に勧請したとき道中に白布を敷いて迎
えたためこの地を布忍といい、村里を向井といいます。
本社の鎮座する「布忍」の地名の由来は日本書紀にもある布忍入姫命(ぬのしいりび
めのみ こと、日本武尊の娘のひとり)にあると言われている。本社の創建年について
は明確でない。
古来より布にまつわる言い伝えがあり、病気平癒、毒虫の退治の神と称えられ、近世
では病気平癒、厄除け、交通安全、商売繁盛のご利益で知られる神社。
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長尾街道を船堂公園へ
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華表神社(かひょうじんじゃ)
御祭神:誉田別命、素盞鳴尊、宇賀之御魂命
境内社:天満宮、太神社、玉屋神社、廣田神社
由緒
社記によれば素盞鳴尊は仲哀天皇九年十二月神功皇后筑紫に凱旋あり。翌年 摂津
国難波に至り給ひしときに鎮座あらしめ給ひ宇賀御魂命は嵯峨天皇の弘仁元年五穀
成就の為め沙門空海之を勧請し後、後醍醐天皇の元享元年山城国男山若宮八幡を
勧請して供料三百石を寄せられ勅願所となれりと。
東光山薬師寺と称する神宮寺の外多門院東之坊明王院威徳院西之坊乾坊無量壽院
の七僧坊ありて、栄えたりしが 織田信長に至り供料は没収せられて衰微せり。
明治維新後の神佛分離に際し寺は廃絶し社は同五年村社に列せられる。同四十一年
附近の数社を合祀せり。
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※社名の「華表」とは、
中国で、宮殿・廟宇・陵墓の前に立てられる石柱。神社の鳥居。(「大辞泉」より)
中国で、宮殿や墓所などの前、あるいは大路がまじわる所に立てられる標柱。漢の丁令
威が死後千年たって鶴に化して帰郷し城門の華表に止まったという故事(捜神後記)で
有名。(「ジャパンナレッジ」より)中国の伝統建築様式に用いられる標柱。概要 一般的に
台座、蟠龍柱(とぐろを巻く龍)、承露盤とその上の蹲獣像で構成される。華表は建築シン
ボルの一種であり、すでに中国を象徴するものの一つともなっている。宮殿や陵墓へ続く
参道の入り口両側に置かれ、神道柱や石望柱などとも呼ばれている。という意味・・・

浅香山稲荷神社・・・「浅香山稲荷神社案内板」
昔、この辺り住之江の浦と連なる小さな湾で、そこに小島が出来、遠く推古天皇の御代
(590年代)聖徳太子御巡遊の折、白髪の老翁が太子に、昔より比処に埋る香木有り、
と伝えて去る。太子が不思議に思い、掘らせたところ、果せるかな地中より幾千年も経
たと思われる朽木が出で、これを焼かせたところ馥郁優なる香りたなびき、その時太子
が「浅からぬ香り」と仰せられて、以後この地を”浅香の浦”と呼び、その香木で老翁の
像を刻みここに祀られたのがこの神社の創始と言われています。
後、ここに城を築いて、この神像を稲荷大神と仰ぎ祭られてきた。この稲荷大神とは宇
迦之御魂大神と言い。生活の大本を司り福徳盛運の守護神として伊勢外宮にいます豊
受大神と異名同神と言われます。
時移り世が代わって宝永年間(1704)、旧大和川の水害から流域を守るために大久保
大隈守宰領として流れを変える工事の折、この地の狐塚の所に至り、どうしても工事が
進まず、前日掘った所が翌日は又元に復し、人夫達は恐怖におののき手だしも出来ず、
宰領奉行も神威を畏み、計画を変えこの狐塚を避けることによって大工事を完成させる
に至りました。
後、宰領大隈守は神威を怖れこの狐塚の所に神殿を建立し、現在に至っております。
尚、現神殿は、昭和五十一年七月に改築完成されたものです。
神前の一対の石灯籠は大久保大隈守の寄進にかかり、又自然石の大手洗鉢は当時
の川口奉行等の寄進によるものです。   以上「浅香山稲荷神社案内板」より
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浅香山公園へ向かう
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浅香山公園
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浅香山緑道~浅香山
堺市水道事業発祥の地
旧浅香山浄水場
1910年(明治43年)4月通水。近代水道としては全国18番目である。当初は大和 川
から原水を取水していたが、大和川の水質の悪化に伴って1978年(昭和53年)11月
に取水は中止されている。また、かつての浄水施設も撤去が進み、事実上 「浄水場」
ではなく「配水場」である。厚生労働省の「近代水道百選」に選ばれている。
現在は、淀川から取水した大阪広域水道企業団村野浄水場から送水された浄水や堺
市内の他の配水場からの送水をいったん浅香山浄水場で受水したのち、堺区内に配
水している。配水池容量は高架配水池2池と地下1池で24,000m3。
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此処までは、
5月4日の浅香山緑道2500株のつつじ祭り-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-05-10
此処では、続きの旧浅香山浄水場~
旧浅香山浄水場つつじ祭り会場・・・テントの中で昼食
テントが張られてテーブルとイスが容易されていたが観客は少なく
つつじの花は全く無い状況だった・・・
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緑道へ出て、栴檀の花が満開
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大和川堤防道路を河内天美駅へ向かう
草藤やれんげも・・・
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此処の方が未だツツジが残っている
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狭間川と大和川の合流地点をぐるっと回って
大和川の河川敷を眺めながら堤防道を歩く
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南海電車の鉄橋
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JRの鉄橋
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大和川
草藤
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西除川と大和川の合流地点をすぎて
大和川の河川敷きを眺めながら堤防道を歩く
草藤、タンポポ、ツツジ
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水門の阪を右手へおりて今池水みらいセンターを歩く
今池水みらいセンター
大和川下流流域下水道今池処理区は、大和川に流入する西除川、東除川の下流域
を処理区とした流域下水道です。これらの河川の水質保全と大和川沿いの低地の浸
水防除を目的とし、大阪市・堺市・八尾市・富田林市・松原市・羽曳野市・藤井寺市・大
阪狭山市の計8市にまたがり計画されています。
本流域下水道は昭和41年度より計画調査を行い、昭和45年度に事業着手された。
平成25年度末の処理能力は138,000m3/日となっています。

西除川堤防へ出て
西除川堤防を歩く
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天美商店街を通り河内天美駅へ向かう
下高野街道の看板が・・・
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此の天美商店街を抜けると河内天美駅
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4月30日の海上釣り堀での釣り大会

5月10日        4月30日の海上釣り堀での釣り大会
                   恒例の釣り大会
今年は、18名参加で2枡貸切1枡9名で7:00~13:00迄6時間釣り放題?費用@12000円
田尻海上釣り堀り、来年は4月29日に釣り大会実施する事決定・・・
この堤防の下に釣り堀りが・・・
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B枡
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私の釣果は鯛3枚シマアジ1枚イサキ1枚と平均釣果に到達せず、9位
持ち帰って調理したのは、鯛2枚シマアジ1枚イサキ1枚
此れ以上は我が家ではさばききれない・・・
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シマアジの刺身
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鯛の刺身
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イサキの塩焼き
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シマアジの塩焼き&鯛の塩焼き
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大鍋にシマアジと鯛のアラ汁
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アラ汁
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鯛の塩焼きで鯛めし
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最後まで残ったアラ汁&鯛飯
やく一週間かけて、魚尽くしで食べつくした・・・

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4月29日のへぐり時代祭り 歴史ウオーク-2

5月9日         4月29日のへぐり時代祭り 歴史ウオーク-2
                近鉄駅フリーハイキング 歩程約10km
此の日は知人と5名で参加、私は次の日に魚釣り大会を控えており早朝3時起床
が待っており、しかも炎天下での魚釣りに備えて昼食を終えたら皆さんと別行動で
帰宅する旨をつたえてのハイキングとなった。
此の日の私の万歩計は、17934歩で約13.2km歩いたことに・・・
志都美駅
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平群駅(受付・スタート)
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長楽寺・・・勝出山 長楽寺(かちでさん ちょうらくじ)
長谷寺を総本山とする真言宗豊山派の寺院。ご本尊は聖観音立像(勝出山観音)
お寺自体は西暦586年に聖徳太子の創建とあり、相当な古刹である。
聖徳太子が物部氏との戦いに臨む際、当地に地塔を建立することを宣誓して戦勝
祈願を行い勝利したためその通りに建立し、聖徳太子自らが聖観音立像を刻んで
安置したと伝えられる。勝出山という山号に、いわれが残る。
境内に太子が腰をかけて戦略を練ったとされる「鑑石」(かんがみいし)があります。
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竜田川を渡り、つぼり山古墳へ向かう
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つぼり山古墳
生駒山地より東に延びる丘陵の南斜面に築造された古墳で、墳丘は造成工事で
削平され、当初の姿を留めていないが、一辺20m程の方墳の可能性が考えられ
ている。古くに開口し、石室の整備に伴う発掘調査では当初の副葬品は出土せ
ず、石室構造、石棺形態より7世紀初頭の築造と考えられている。
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藤田家住宅
藤田家は、系図によると武蔵国榛沢郡藤田庄(埼玉県本庄市藤田)に藤原氏の荘
園があり、その荘官出身。鎌倉期に武士化して上杉氏に仕え、藤田姓を名乗る。
その滅亡後は甲斐武田氏に仕え、室町期に武田氏が滅ぶと大和に移り、山辺郡
を本拠に筒井氏・藤堂氏に仕えた。元和(げんな)(1615~1624)の頃に平群に転
封され、帰農して庄屋を歴任した。
藤田家住宅は北福貴の高台にあり、南には灰田川の谷を見下ろす要地にある。
整った大和棟(やまとむね)の民家として指定され、昭和59、60年度に半解体修
理が行われた。修理の際の調査により、当初は元禄年間(1688~1703)に建て
られた萱葺(かやぶき)の入母屋造りで、三度の改修が確認された。第一次改造
は18世紀後半、第二次改造は文化4年(1807)、第三次改造は明治末年(1912)
に実施されている。修理後は、指定の趣旨から大和棟の形態が整った第一次改
造の姿に復元されている。茅葺き入母屋造り構造の前身建物の古図が伝わる。
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白山神社へ向う一の鳥居
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白山神社
法隆寺の高僧・道詮律師(どうぜんりっし)が引退後に住んだ富貴寺(ふきじ)跡に
建つ。 道詮律師は平安時代の僧侶で、弘法大師空海とも親交があり、荒れ果てた
法隆寺夢殿の復興に尽くした。
伊弉諾尊・伊弉諾冉尊を祀っていた福貴寺の神宮寺。明治初めに神仏分離で独立、
森垣内の小森神社と栗坪垣内の三十八社神(子守神社)を合祀して福貴大字全体
の氏神となる。明治25年(1892)の明細帳には「或云白山大神」とみえる。享保14
年(1729)奉納の慈尊山白山大明神の湯釜が伝わる。
白山神社周辺が福貴寺の跡で、慈尊山福貴寺と号し、法隆寺の高僧「道詮律師」
の隠居寺として栄え、盛時には六〇坊を数え、境内奥に、中ノ坊・西ノ坊等の塔頭
跡が残る。弘法大師とも親交があつく、伝燈大師と号して南都七大寺僧綱を兼ね、
荒廃した法隆寺夢殿の再建を果たした。その功績から律師像(塑像:国宝)が夢殿
の本尊脇に侍している。隠居後も、法隆寺の学僧等の請いを受けて毎年夏期に百
ヶ日間三経を講じに往来し、民衆からは「福貴の道詮」と呼ばれて厚く慕われた。
境内奥に近世の供養墓が祀られている
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白山神社 弥勒堂
白山神社(福貴寺)弥勒堂
法隆寺の高僧「道詮律師」の隠居寺として栄え、盛時には普門院他60坊を数えた。
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普門院跡
法隆寺の夢殿を再興した道詮律師が隠居寺として建てた福貴寺の塔頭の一つで、
日頃起居された住坊だと伝えられている。
脇仏で江戸時代の木造仏、3体が盗難にあったが、重要文化財に指定されている
木造聖観音立像は残されており、現在は法隆寺に保管されている。
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此処までは、
4月29日のへぐり時代祭り 歴史ウオーク-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-05-09
此処では、続きの吉備内親王の墓&長屋王墓へ向かう~
吉備内親王墓へ向かう
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吉備内親王墓
奈良時代初頭、藤原氏の陰謀に倒れた左大臣長屋王の夫人の墓である。
直径20m程の円墳。地元では「ウシヲ塚」と呼ばれている。
吉備内親王は、草壁皇子と阿倍皇女の娘で、文武天皇、元正天皇の妹である。
天武天皇の皇子である高市皇子の長子、長屋王の正妻となる。天皇家の血筋
が濃密な二人の組み合わせは、元明天皇・元正天皇と女帝が続く中で、重要な
位置にあったことが伺える。夫である長屋王の母は、元明天皇の姉、御名部皇
女であり、信頼関係の厚い姉妹の子供同士の結婚であった。
文武天皇を支える皇室一族として、持統天皇に期待されていた人物である。
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長屋王御陵公園
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長屋王墓
奈良時代の悲劇の宰相「長屋王」(ながやおう。正式には「ながやのおおきみ」)。
天武天皇を補佐した「高市皇子」の長子で、有能な左大臣として聖武天皇を補佐
していたが、藤原四兄弟の陰謀(と思われる)による「長屋王の変」の際に、妻と
四人の皇子とともども自刃に追い込まれてしまいます。その後、藤原四兄弟は
次々に疫病に倒れ、長屋王の祟りと恐れられる存在になった方です。
長屋王の邸宅跡だった「イトーヨーカドー奈良店」から、たくさんの木簡が発見さ
れ、長屋王一族が優雅な生活を送っていたことでも、より名前が知られるように
なりました。
「長屋王の変」
長屋王は、奈良時代初期の皇親政治家で、神亀元年(724)に最高職の左大臣に
就任し、聖武天皇を盛り立てて政治を行なっている。長屋王は、壬申の乱で活躍
した高市(たけち)皇子の長子で、夫人の吉備内親王とともに天武天皇の皇孫で
ある。神亀6年(729)2月10日、皇位継承にからみ、謀反の疑いで館を囲まれ、夫
妻と四人の皇子が自殺に追い込まれる。そして、8月に天平に改元、藤原不比等
の娘、光明子が皇后(従来は皇族のみ)に立てられる。
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三里古墳へ向かう
コンニャクの花
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三里(みさと)古墳
矢田丘陵より西に延びる尾根上に築かれた古墳で、墳丘は削平され周囲が耕作
地化しているが、発掘調査により全長35mの前方後円墳もしくは直径22mの円墳
と考えられている。 出土遺物より6世紀後半~末頃の築造と考えられている。
埴輪はみられないが、周溝埋土に礫が含まれ、墳丘の一部に葺石が施されていた
らしい。玄室奥壁の床よりに奥行き1.5mの板石による棚が架せられている。石棚
のある横穴式石室の古墳は紀ノ川下流域に多いが、奈良県下では三里古墳を含
めて3例のみであり、他の2基も吉野川(紀ノ川)流域に築造されている。
凝灰岩製の組合せ家形石棺の周囲から金銅装鐘形杏葉、(ぎょうよう)鏡板を(かが
みいた)用いた豪華な馬具や金銅装ハート形鏡板のやや実用的な馬具、土器類、
武器類、ガラス玉等が出土している。鐘形杏葉は9枚がまとまって出土しており、
古墳時代後期の馬具として優品であり、三里古墳の被被葬者は2セットの馬具を
使い分けていたと推定される。(出土遺物も一括で奈良県の指定文化財)
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三里古墳から谷の向うの信貴山を・・・
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平群神社へ向う
竜田川を渡り平群神社へ向う
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平群神社
境内に掲示する由緒には、「祭神大山祇神は山野を司る神で、平群氏の祖・武内
宿祢が神功皇后と共に朝鮮へ出兵の際、戦勝を祈願しこの地に祀ったと伝う。
のち五穀豊穣と武運長久・家内安全の守護神として信仰を集め、今日に至る。
延喜式神名帳に『平群神社五座並大 月次新嘗』とあり、神宮寺としても龍華山
西宮密寺があった古い社格の神社である」とある。
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西宮(にしのみや)古墳(昼食)
廿日山(はつかやま)丘陵の南側斜面、中段に築造された方墳。一辺約36mあり、
二段のテラスを配して三段に築成されている。墳丘の左右と後方の三方に堀割を
廻らし、周囲の地形を大きく取り込んだ墓域を有する。
石室は基本的に一石で積まれ、玄室は奥壁、側石、天井石がそれぞれ一枚石で
積み木のように組まれており、目地には漆喰(しっくい)が詰められている。
石室の床面には近世に礫石経((れきせききょう)法華経)が敷かれているが、この
下には90cm角ぐらいの花崗岩切石を敷きつめているらしい。
羨門部で須恵器坏蓋(つきふた)、高坏片が出土し、7世紀中葉から後半の築造と
考えられている。
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鳥土塚(うどつか)古墳へ向かう
釣り堀
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鳥土塚(うどつか)古墳
竜田川の西岸、南北方向の独立丘陵に築造された北面する前方後円墳。墳丘は
全長60.5m、後円部径35m、高さ約9m、前方部幅31mあり、平群谷最大規模の
古墳。墳丘は一段築成で葺石はなく、墳頂寄りに1.5~2m間隔で円筒埴輪を並べ
ていたらしい。墳丘西裾では幅約2mの小規模な周溝が確認されている。
古墳時代後期の築造と思われる。
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鳥土塚(うどつか)古墳から西宮古墳を・・・
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竜田川駅
皆さんは道の駅へ寄って宮山塚古墳へ
私は、竜田川駅で皆さんと別れて帰途へ・・・
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4月28日の食い倒れのまちと、三社巡り-2

5月7日         4月28日の食い倒れのまちと、三社巡り-2
                   近鉄駅フリーハイキング
此の日は知人と4名で近鉄ハイキングに参加、我々4名二とっては、14時~の銭湯と
15時~他のメンバーと合流して居酒屋での恒例の昼飲み会・・・
コース   大坂阿部野橋地下東改札前で受付9:00~11:00  歩程約8km
大阪阿倍野橋(受付)~ジャンジャン横丁~新世界・通天閣~シャープ恵比寿ビル跡
~今宮戎神社~大阪木津卸売市場~難波八阪神社~高島屋~黒門市場~真言坂
~生国魂神社~藤次寺~近鉄上本町駅~バスで阿倍野へ~てんしば・天王寺公園
(昼食)~湯処・あべの橋~JR天王寺駅で2名と合流~6名で居酒屋・甘太郎へ
此の日の私の万歩計は、19316歩で約14.2km歩いたことに・・・
ジャンジャン横丁
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新世界・通天閣
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シャープ恵比寿ビル跡
18Fの立派なビルのホテル?
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今宮戎神社
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大阪木津卸売市場へ向かう、道路脇のシャリンバイ
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大阪木津卸売市場
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難波八阪神社
創建年月日など詳しい資料は残っていませんが、社伝によれば古来「難波下の宮」と
称し難波一帯の産土神でした。後三条天皇の延久(1069年から1073年)の頃から祇
園牛頭天王(ごずてんのう)をお祀りする古社として世間に知られていました。
境内に戦艦陸奥主砲抑気具記念碑が有ります。
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此処までは、
4月28日の食い倒れのまちと、三社巡り-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-05-07
此処では、未だ続く難波八阪神社の途中~
難波八阪神社の続き、戦艦陸奥の・・・
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高島屋
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黒門市場
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真言坂
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生国魂神社
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藤次寺
藤次寺(とうじじ)は、高野山真言宗の寺院。山号は如意山(にょいさん)。
弘仁年間(810年~824年)に藤原冬嗣の発願により、甥(おい)の、任瑞上人を開基
とする。藤原家の安泰を願い建立された。藤原家を治める寺であるでゆえに、藤冶寺
と称していたが、明治初年には、生玉十坊の一つである地蔵院を合併し、藤次寺と改
称し、現在に至っている。
藤原氏の祈願寺として、藤原氏一門より、深い帰依を受け栄えていたが、寺運の盛衰
があった。慶長年間(1596年~1615年)に、加藤清正が大檀主となり、金堂、伽藍、
堂宇などを建立した。広大な寺域(境内)を持ち、壮観であったと言う。
中興憲遵阿闍梨の時には、如意宝珠融通尊への信仰が盛んになり、「大阪の融通さ
ん」と称されて、多くの人々の信仰を集めている。 明和元年(1764年)、中興清範和
上の時、九条尚実が家運長久を祈るため永代不易の祈願寺として改めて、旨辞を授
けた。江戸時代末まで、九条家(五摂家の一つ。藤原兼実が祖。)の祈願寺であった。
作家・山崎豊子の墓所も藤次寺にあり、墓石の右隣には山崎が生前執筆した全28作
の作品名が刻まれた石碑も存在する。
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近鉄上本町駅~バスで阿倍野へ
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てんしば・天王寺公園(昼食)
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湯処・あべの橋
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JR天王寺駅で2名と合流
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6名で居酒屋・甘太郎へ
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