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11月16日の山田川駅~幻の大仏鉄道遺構散策-2

11月29日          11月16日の山田川駅~幻の大仏鉄道遺構散策-2
                   近鉄駅フリーハイキング 歩程約13㎞
此の日は、久し振りに参加のY田さん、何時ものK場さんM吉さんと私の4名で歩いた・・・
近鉄駅フリーハイキング 山田川駅受付9:30~11:00 10時集合 
山田川駅~藤原百川公墓~善修寺~木津川堤防道~和泉式部の墓~JR木津線ガード
~御霊神社~JR加茂線踏切~京大農場~大仏鉄道公園~大仏鉄道遺構・梶ヶ谷隧道・
赤橋~大仏鉄道公園(昼食)~梅谷観光案内所~大仏鉄道社章~松谷川隧道~タツタ
タワー(木津南配水池)~鹿川隧道~元正天皇陵~元明天皇陵~黒髪山トンネル跡(黒
髪橋)~黒髪山神社~聖武天皇陵~光明皇后陵~~大仏鉄道記念公園~称名寺~西
方寺~奈良観光案内所・JR奈良駅
迄、此の日は鹿川隧道を見た帰りに以前JRハイキングで知り合った方に出会い、帰り道
を寄り道して3つの天皇陵と黒髪橋を通るルートを案内して貰う事になって、此の日の私
の万歩計は、3万歩越えで34074歩となり約25.2km歩いたことに・・・疲れた!疲れた!
加茂駅~C57機関車の展示~.観音寺橋脚~.観音寺橋脚~鹿背山橋台~大仏戦廃線
レール 利用の橋は通らず、大仏鉄道公園・梶ヶ谷隧道以降の遺構を散策して来た・・・
志都美駅
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畝傍駅~八木西口駅で乗換
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山田川駅で知人と合流
藤原百川公の墓
公園のように遊具(滑り台)が有りますが、玉垣で囲まれ双丘(二つの円墳)の有る墓所。
藤原百川と夫人の藤原諸姉(藤原良継の娘) の墓とされています。
藤原百川(雄田麻呂)は、藤原式家の始祖・宇合の八男で、藤原鎌足の曾孫にあたる人
物です。宝亀元年(770)に称徳天皇没後、道鏡を追放して光仁天皇を擁立、山部親王
(後の桓武天皇)を皇太子に立て、藤原氏を復権させました。宝亀10年(779)7月、参議
中衛大将兼式部卿従三位の地位で没しました(47歳)
百川と夫人の墓所は、一時所在が分からなくなっていたが、明治27年に、伝承や江戸
時代の文献から当地に比定されました。
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※藤原式家(ふじわらしきけ)
藤原式家とは、右大臣藤原不比等の三男藤原宇合を祖とする家系。宇合が式部卿を
兼ねたことから式家と称した。
※祖の宇合は長屋王の変の後参議に昇進し、他の兄弟たちと共に聖武朝で政権を主導
したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により病没してしまう。さらに直後に大宰少弐に
左遷された宇合の長男広嗣は天平12年(740年)九州にて反乱を起こしたが、敗死してし
まった(藤原広嗣の乱)。この為孝謙 ~ 称徳朝にかけて、南家(豊成・仲麻呂)や北家
(永手)の後塵を拝する時期がしばらく続いた。
広嗣の弟である良継や百川は称徳天皇の後継に光仁天皇を擁立することに成功し、道
鏡・吉備真備に代わって政権の中枢に躍り出た。また、彼らはそれぞれ自分の娘(乙牟
漏・旅子)を皇太子山部親王(のちの桓武天皇)の妃とし後宮政策も行った。彼ら兄弟は
いずれも桓武天皇の即位を見ないまま亡くなったが、乙牟漏は皇后となり平城・嵯峨の
両天皇を、旅子は淳和天皇を産み、平安初期の式家繁栄の礎を築いた。桓武朝では式
家一族は重用され、宇合四男の田麻呂は右大臣ながら廟堂の首班を務め、三男清成の
子である種継は長岡京造営の事業を一任されるなどした。
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和泉式部の墓へ向かう
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善修寺・・・浄土宗のお寺
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和泉式部の墓へ向かう
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木津川堤防道
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和泉式部の墓
   「あらざらむ 此世の外の思い出に 今ひとたびの逢う事もがな」
この歌の詠み手は、平安時代の女流歌人で、木津で生まれ宮仕えの後、木津に戻って
余生を送ったと伝えられている和泉式部です。三十六歌仙のひとりで、一条天皇の中宮
彰子に紫式部らとともに仕え「和泉式部日記」・「和泉式部集」などの歌集を残し、恋多き
歌人といわれています。
和泉式部は幼少の頃より詩歌に親しみ、「和泉守橘道貞」という人物と結婚し、夫の官名
をとって「和泉式部」と呼ばれるようになったといわれています。その夫と離別した後、何
人かの人物と付き合いましたが、みな若くして亡くなってしまいます。その後、中宮彰子の
もとに仕えたことが縁となって、丹後守藤原保昌に嫁入りし、夫の地方への赴任について
いったそうです。和泉式部が美人であったかどうかはわかりませんが、多くの男性を引き
つける魅力を備えていたことは確かなようです。地方へ行った後の消息はよくわかってい
ないことから、お墓といわれるものは全国に多く存在し、それぞれ伝説が残されています。
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JR木津線ガード~御霊神社へ向う
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御霊神社
木津三社(ほかに岡田国神社、田中神社)の一つ御霊神社(ごりょう じんじゃ)は、木津川
河岸の南に位置している。「木津の御霊」ともいわれ木津郷の産土神として祀られてきた。
祭神は、天穂日命(あまのほひのみこと) 、天津彦根命(あまつひこねのみこと) 、活津彦
根命(いくつひこねのみこと)。アマテラスとスサノオの誓約(うけい)により生まれた男児の
うちの次男、三男、四男を祀る。
創建、変遷の詳細は不明。平安時代、876年、創建されたという。かつては、大路村(木
津川市)にあり、その後移転したという。江戸時代、1730年、現在の社殿が建立された。
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JR加茂線踏切
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木津駅前~大仏鉄道公園へ向かう
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京大農場前~大仏鉄道公園へ向かう
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大仏鉄道公園・・・2015年7月開園
京都府木津川市城山台に開園した「大仏鉄道公園」。明治期に9年間だけ開業し、幻の
鉄道とも言われる「大仏鉄道」(約10キロ)の代表的な遺構見学に好アクセスの公園と
なっており、大仏鉄道の遺構保存や研究を行っている「大仏鉄道研究会」も「貴重な遺
構の魅力を感じてほしい」と話している。
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大仏鉄道は、明治31年、当時の鉄道会社「関西鉄道」が、現在のJR加茂駅と奈良市の
「大仏駅」間を結んだ路線の愛称。翌年には奈良駅まで路線を延長し、東大寺の大仏拝
観などに名古屋方面などから多くの人が利用したという。
しかし、急坂を走るルートに敷かれた大仏鉄道は、明治40年に加茂駅から木津駅を経
て奈良駅に至る平坦(へいたん)な路線が開通したことなどから廃線となり、わずか9年
で営業を終えた。
大仏鉄道公園~梶ケ谷隧道へ向かう
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大仏鉄道遺構・梶ヶ谷隧道・赤橋
「赤橋」と「梶ケ谷隧道(ずいどう)」
赤橋は御影石とレンガを組み合わせて造り、レンガの積み方は長短のレンガを交互に
積むイギリス式。梶ケ谷隧道も御影石、レンガを用いており、レンガのアーチ部分が美
しく残っている。
この2つの遺構は、もともと城山台の開発に伴い撤去される予定だったが、地元住民や
同研究会などの要望もあり現地保存が決定。100年以上前の貴重な鉄道遺構が残さ
れることになった。

梶ケ谷隧道
大仏線築堤を造る際、農道や水路を通すために築堤下部に設けられた隧道です。
壁は煉瓦、側壁は御影石と豪華な作りです。アーチ部分の煉瓦は長手積み坑門は
イギリス積みで当時の技術の高さが良く分かります。保存状態は極めて良く、大仏
鉄道の代表的遺構の一つです。
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赤橋
御影石と煉瓦を組み合わせて造られています。長短の赤煉瓦を交互に積むイギリス
式です。大仏鉄道の遺構の中でも最も代表的なもので、今も現役で上を車道が通って
います。
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大仏鉄道公園へ戻り(昼食)
大仏鉄道社章モニュメントへ向かう
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梅谷観光案内所
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大仏鉄道社章モニュメント
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松谷川隧道
交差点下の畑地へ下ると松谷川トンネルの遺構が残っています。
松谷川トンネルの上が軌道跡で現在は市道44号線が走っています。
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鹿川隧道へ向かう
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此処までは、
11月16日の山田川駅~幻の大仏鉄道遺構散策-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
      https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-11-29
此処では、続きのタツタタワー(木津南配水池の給水塔)~の詳細を掲載します。
タツタタワー(木津南配水池の給水塔)
奈良との県境近く、京都府木津川市にある『木津南配水池』。重要なインフラである
「給水塔」ですが、外壁がレンガで螺旋状に階段が続いて…と、真っ先に「バベルの
塔」を連想させる不思議物件です。残念ながら建物の近くへは行けません。
此処の塀にも幻の大仏鉄道の由緒が描かれていました。
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※すぐ横には
タツタ電線(株)の「タツタテクニカルセンター」が有り、タツタタワー(木津南配水池の
給水塔)と混同する

鹿川隧道へ向かう
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鹿川隧道
奈良市内で唯一、当時の姿を今に伝える遺構。農業用水路のために造られた細い
トンネルです。現在も水路として利用されています。トンネルの上が大仏鉄道の軌
道跡で 、現在は市道44号線となっています。
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元の道路へ戻る
此処で以前JRハイキング出知り合った知人と出会いコースを変えることに・・・
コースを変えて案内して貰う事にした
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元正天皇陵~元明天皇陵
母と娘の陵墓が、近い位置に並んでいる
黒髪山にある第43代と第44代の天皇陵。被葬者は、文武天皇から聖武天皇へ皇位をつ
なぐために、相次いで皇位に即いた母と娘の女帝として知られる。いずれの陵も、自然丘
陵を利用して造られていて、その大きさは、元明天皇陵が東西約88m・南北約104m、元
正天皇陵が東西約104m・南北約120mとなっている。2つは近い位置に東西に並んでい
て、どちらも南側に拝所がある。なお、宮内庁管轄につき、内部の見学はできない。

元正天皇陵
元正天皇(げんしょうてんのう、680年(天武天皇9年) - 748年5月22日(天平20年4月
21日))は日本(奈良時代)の第44代天皇。女帝(在位:715年10月3日(霊亀元年9月
2日) - 724年3月3日(養老8年2月4日))。父は天武天皇と持統天皇の子である草壁皇
子、母は元明天皇。文武天皇の姉。諱は氷高(ひたか)・日高、又は新家(にいのみ)。
和風諱号は日本根子高瑞浄足姫天皇(やまとねこたまみずきよたらしひめのすめらみ
こと)である。日本の女帝としては5人目であるが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃
であったのに対し、結婚経験は無く、独身で即位した初めての女性天皇である。
慶雲4年(707年)に文武天皇が崩御し、その遺児である首皇子(のちの聖武天皇)がま
だ幼かったため、母の阿閉皇女が即位、元明天皇となった。和銅3年(710年)、平城京
に遷都。和銅7年(714年)1月20日、二品氷高内親王に食封一千戸が与えられる。和
銅8年/霊亀元年(715年)1月10日に一品に昇叙。
霊亀元年9月2日、皇太子である甥の首皇子(聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇
から譲位を受け即位。「続日本紀」にある元明天皇譲位の際の詔には「天の縦せる寛仁、
沈静婉レンにして、華夏載せ佇り」とあり「慈悲深く落ち着いた人柄であり、あでやかで美
しい」と記されている。歴代天皇の中で唯一、母から娘への皇位継承が行われた。これを
女系継承とする考えもあるが、父は草壁皇子であるため男系の血筋をひく女性皇族間の
皇位継承である。
養老元年(717年)から藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂を始める。
養老4年(720年)に、日本書紀が完成した。またこの年、藤原不比等が病に倒れ亡くなっ
た。翌年長屋王が右大臣に任命され、事実上政務を任される。長屋王は元正天皇のいと
こにあたり、また妹・吉備内親王の夫であった。不比等の長男・武智麻呂は中納言、次男・
房前は、未だ参議(その後内臣になる)であった。
養老7年(723年)、田地の不足を解消するために三世一身法が制定された。これにより
律令制は崩れ始めていく。
養老8年/神亀元年(724年)2月4日、皇太子(聖武天皇)に譲位した。譲位の詔では新帝
を「我子」と呼んで譲位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。
天平15年(743年)、聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、上皇は改めて「我子」
と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病気の天皇の名代として難波京遷都の勅を
発している。晩年期の上皇は、病気がちで政務が行えずに仏教信仰に傾きがちであった
聖武天皇に代わって、橘諸兄・藤原仲麻呂らと政務を遂行していたと見られている。
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元明天皇陵
元明天皇(げんめいてんのう、661年(斉明天皇7年) - 721年12月29日(養老5年12月
7日))は、日本(飛鳥時代 - 奈良時代)の第43代天皇。女帝(在位:707年8月18日(慶
雲4年7月17日) - 715年10月3日(和銅8年9月2日))。名は阿閇皇女(あへのひめみこ)
阿部皇女とも。和風諡号は「日本根子天津御代豊国成姫天皇」(やまと ねこ あまつみよ
(みしろ) とよくに なりひめの すめらみこと、旧字体:−豐國成姬−)である。
天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。持統天皇
は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。大友皇子(弘文
天皇)は異母兄。天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天
皇の母。藤原京から平城京へ遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた
『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。
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黒髪橋へ向かう
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黒髪山トンネル跡(黒髪橋)
明治41年大仏鉄道が廃止されたその後も残っていましたが,昭和39年の道路拡張
に伴い、山を切り開きトンネルは取り壊されました。トンネル入口にあった関西鉄道
の社章は大阪の交通科学博物館(平成26年4月6日閉館)に保存されています。
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黒髪山神社・・・黒髪山伝説
本殿の横にこの神社の社史があり、黒髪山の名前の由来についても書いてあった。
垂仁天皇の皇后狭穂姫は、兄の狭穂彦王が謀反を起こした時に兄の陣営で皇子を
産んだ。皇子を天皇方に渡そうとするが、その時に捕まらないよう黒髪を切った。そし
てその黒髪を埋めた地がこの「黒髪山」であるという。
「史蹟奈保山西陵7ツ石」という看板があり、隣の建物の壁には「史蹟 黒髪山」の文
字と万葉集が一首書かれている。ここが黒髪山である。
「ぬば玉の 黒髪山の 山草に 小雨ふりしき しくしく 思ほゆ」  柿本人麻呂の作。
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聖武天皇陵・光明皇后陵
聖武天皇陵
聖武天皇(しょうむ てんのう) - 756年6月4日は、日本(奈良時代)の第45代天皇。文武
天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
文武天皇の第一皇子として生まれたが、慶雲4年6月15日(707年7月18日)に7歳で父
と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会うことはなかった。物心が
ついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった。
このため、同年7月17日(707年8月18日、文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇
女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇子の
元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚であ
る藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3
日)に文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになっ
た。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。
聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この
当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っ
ていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性がある
ため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后
に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自害、反対
勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は、長屋
王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原
四兄弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人
の夫人が入ったが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれ
か、または両人の血縁の者である。
天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死
するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛
うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。
乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京
へ遷都を行う。その後、約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京、
難波京、紫香楽京を経て平城京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられている。
詳しい動機付けは定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の
乱を始め、先々で火災や大地震[4]など社会不安をもたらす要因に遭遇している。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13
年(741年)には国分寺建立の詔を、天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔
を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の
反発が強く、最終的には平城京に復帰した。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、
国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕さ
れない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制
の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が
脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。
天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には
自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を
執ったともいわれる)。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。
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光明皇后陵
光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年) - 天平宝字4年6月7日(760年7月27日))
は、奈良時代の聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母
である藤原宮子は異母姉。諱は安宿媛(あすかべひめ)。通称に光明子(こうみょうし)、藤
三娘(とうさんじょう)。 正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう
こうたいごう)。皇族以外から立后する先例を開いた。
聖武天皇の皇太子時代に結婚し、養老2年(718年)、阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を
出産。神亀元年(724年)、夫の即位とともに後宮の位階である夫人号を得る。神亀4年(72
7年)、基王を生んだ。
神亀5年(728年)、皇太子に立てられた基王が夭折したため後継を争って長屋王の変が起
こるなど紛糾した。長屋王の変後、天平元年(729年)に皇后にするとの詔が発せられた。こ
れは王族以外から立后された初例である。以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。
娘である阿倍内親王の立太子、およびその後の孝謙天皇としての即位(天平勝宝元年(74
9年))後、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥の藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を
行った。天平勝宝8年(756年)、夫の聖武太上天皇が崩御。その2年後には皇太后号が贈ら
れた。天平宝字4年(760年)に崩御、佐保山東陵に葬られた。
光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。また貧し
い人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を行った。
夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創設され
た。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。
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Y田さんとは此処で別れ、Y田さんは近鉄奈良駅へ、我々4名は大仏鉄道記念公園へ・・・ 
大仏鉄道記念公園
大仏駅跡を記念する公園「大佛鐵道記念公園」です。機関車の動輪モニュメントと説明
碑があります。
【関西鉄道大仏駅について】
明治28年、草津・名古屋間を全通した関西鉄道は、柘植(つげ)から大阪方面への進出を
計り、2年後の30年11月に加茂まで開通した。ここから梅谷を経由して黒髪山トンネルを
下り31年4月、この地の北側法蓬の交番所の南あたりに大仏駅を設置した。この鉄道は
市民、観光客にも親しまれ大仏詣での人たちもこの駅で下車し、一条通りを通って東大
寺に参拝していた。奈良駅にはその年の12月到達したが乗り入れが実現したのは翌32
年5月であった。その後線路が木津経由に変更となり明治40年8月までの約9年間で廃
止された。昭和39年頃まではトンネルも残っていたが、現在は取り壊されて当時の面影
は今は見られない。 平成4年4月 奈良市(モニュメント横の碑文より)
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称名寺
称名寺は、南都興福寺の学僧であった専英、琳英の兄弟が、法相学を修めた後、弥陀本
願の法に触れ念佛の教えを乞うた京都西山三鈷寺の澄忍上人と力をあわせて建立した
常行念佛の道場を創始とし、その創建は、文永2年(1265・鎌倉時代)と伝えられる。
当初は興福寺の北に位置していた為、興北寺とも呼ばれていたが、室町時代に現在の地
に移転された。
開創以来興福寺の別院とし、四宗(浄土宗、法相宗、天台宗、律宗)兼学の寺として、毎年
八講が執行されていたが、明治7年(1874)の廃宗の令により興福寺を離れ現在に至って
いる。
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西方寺
西方寺(さいほうじ)は、近鉄奈良駅・JR奈良駅のいずれからも近い奈良のメインストリート
の一つ「大宮通り」沿いに建つ浄土宗の寺院です。
奈良時代の神亀年間(724年~729年)に大仏建立にも貢献した「行基菩薩」が現在のきた
まちエリアの北側にあたる「多聞山(佐保山)」にお寺を創建したことをその由来とするとされ
ています。しかしながら戦国時代になると有名な戦国武将である松永久秀が「多聞城」を築
城することになり、永禄二年(1559年)には現在の地に移転され、その後東大寺の勧進職に
就いていた「祐全上人」によって再興が図られることになったと言われています。
なお、このお寺は戦国期以降は「南都総墓所」とも呼ばれる存在となっており、浄土宗の寺
院であるにも関わらず、万人を救済するという理念のもと阿弥陀仏への信仰を有するすべて
の人々に開かれたお寺とされてきたという歴史も持っているほか、剣豪宮本武蔵がしばらく
滞在したというユニークな伝説も残されています。現在の本堂は焼失後、宝暦7年(1757年)
の再建となっています。
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知人とは此処で別れて、知人は近鉄新大宮駅へ
我々3名はJR奈良駅へ・・・
奈良観光案内所・奈良駅
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11月15日の馬見丘陵公園の皇帝ダリア

11月25日          11月15日の馬見丘陵公園の皇帝ダリア
                    急遽 皇帝ダリアを撮って来た
馬見丘陵公園の北エリアの北駐車場に車を置いて、皇帝ダリアのもとへ向かう
馬見花苑
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馬見花苑集いの丘を越えて
池部駅方面へ向かう橋の両側の皇帝ダリア
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大型テントの前から
集いの丘を越えて駐車場へ戻る
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皇帝ダリアの見頃に間に合った

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11月14日の秋の風を感じながら大阪城へ- 2

11月24日         11月14日(水) 秋の風を感じながら大阪城へ-2
                    近鉄駅フリーハイキング  約9㎞
此の日は知人と二人で参加、格好のハイキング日和、近鉄鶴橋駅東改札口で合流して
此の日の私の万歩計は、20290歩で約15km歩いたことに・・・
コース 近鉄ハイキング 鶴橋駅 東口受付 9時半~11時    10時集合
近鉄鶴橋駅東口(受付・スタート)~真田山公園~三光神社~玉造稲荷神社~大阪城~
難波宮跡(昼食休憩)~玉造稲荷神社分社~どんどろ大師(善福寺)~心眼寺~興徳寺
~真田丸顕彰碑~円珠庵(釜八幡)~産湯稲荷神社~JR鶴橋駅へ
志都美駅
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近鉄鶴橋駅東口(受付・スタート)
真田山公園の紅葉
真田山公園は、1939年(昭和14年)大日本帝国陸軍騎兵第4連隊跡地を整備して開園
した。1889年(明治22年)から1932年(昭和7年)の南河内郡金岡村移転まで、当地には
騎兵第4連隊の兵営が置かれていた。現在は大阪府立天王寺スポーツセンター(真田山
プール・アイススケート場)、大阪市立真田山野球場、真田山庭球場が設置されている。
公園周辺は、1614年の大坂冬の陣で真田信繁(幸村)が活躍した古戦場として知られ、
公園の北側には旧真田山陸軍墓地がある。
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三光神社
当神社は大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の松原
の遺称)と称したが、全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では三光神
社となった。創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ創
建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。
当神社は古来より日本全国で唯一の中風除の神として広く知られ毎年恒例の神事とし
て六月一日を祈願の初日と定め七日間往古より今に至るまで変わることなくとり行われ
全国各地からの参拝者が絶えない。
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真田の抜け穴
大坂城の出城のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城
(えんげつじょう)と名付ける塁を定め本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと
言い伝えられ今なおその跡を三光宮鎮座の階下にあり。
真田幸村の像
真田の抜け穴脇に真田幸村公の陣中指揮姿の銅像を建立(昭和62年5月5日)、
その台座に信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺より取り出した石(名付けて
真田石)が置かれている。
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玉造稲荷神社へ向う
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玉造稲荷神社
当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇
3年に改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣
を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたと
ころ、のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったといわれています。
その後、天正4年の兵乱により本・末社、旧記等ことごとく焼失しましたが、慶長8年に
豊臣秀頼公により社殿、高殿(舞台)が再建されました。大坂の陣で、当地は再び戦
地となり被害をうけましたが、元和5年に徳川幕府の大坂城代 内藤紀伊守を始め、
氏子・崇敬者の寄進を以って再建。別称は豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代
を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されたことが、史料に残っています。江戸時代に
は伊勢参りの出発点とされた。文久3年(1863年)11月の大坂大火(新町焼)で焼失
するが、1871年(明治4年)に再建。現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもの
で、一帯は古代、勾玉などを作っていた玉作部の居住地であったという伝承がある。
豊臣家奉納鳥居
慶長8年(1603年)、豊臣秀頼により社殿再建時に奉納された石鳥居。阪神・淡路大
震災により基礎に損傷を受け、現在は上部・脚部に分け、境内に置かれている。
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大阪城公園&豊国神社
大阪城公園
大坂城特別史跡地に所在する広大な歴史公園である。
公園内には樹木が多く植えられ、二の丸市正曲輪の梅林、北外曲輪の桃園、西
の丸庭園の桜など、花見シーズンには梅・桃・桜の名所となっている。また、杉山
地区は森林公園となっており、外濠の水辺に集まる野鳥を眺めて家族連れが憩
う姿も見られ、都会のオアシスとして市民から愛されている。

豊国神社(ほうこくじんじゃ)
豊國神社は、大阪府大阪市中央区大阪城に鎮座する神社。
京都府京都市東山区に鎮座する豊国神社の大阪別社として創建された。のちに京
都・豊国神社から独立して豊國神社に改称。京都・豊国神社が訓読み(とよくに)で、
豊臣秀吉のみを主祭神とするのに対して、当社は音読み(ほうこく)で、豊臣秀頼、豊
臣秀長も配祀する。
現在の鎮座地である大坂城二の丸は陸軍省の所管だったため、現在の大阪市北区
中之島においての創建となったが、のちに城内(現・大阪城公園)へ遷座された。
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天守閣前広場へ
大阪城(おおさかじょう)
大阪城は、安土桃山時代に摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に修築
された日本の城。現在の大阪府大阪市中央区大阪城に所在する。別称は錦城(き
んじょう。金城とも表記)。「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されている。
「太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもあるが、1583年(天正11年)か
ら1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣氏大坂城)の遺構は、
現在全て埋没している。現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元
和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川氏が実質的な新築に相当する修築を
施した大坂城(徳川氏大坂城)の遺構である。1959年(昭和34年)の大阪城総合学
術調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府による
ものであることが確認された。
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極楽橋から御座船
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此処までは、
11月14日の秋の風を感じながら大阪城へ-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-11-24
此処では、続きの極楽橋を渡って京橋口へ向かう~の詳細を掲載します。
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大手門へ向かう
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大手門
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難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)の
上町台地の先端付近にあった古代宮殿。
前期難波宮
乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は652
年に完成した。天皇制の始まり、元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治
はこの宮でおこなわれた。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根で
あった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記さ
れており、ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であった。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が
没した後、655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。
683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都とした
が、686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
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玉造稲荷神社分社
現在、玉造稲荷神社分社の地は江戸時代に玉造を代表する町人である松屋甚四郎、そ
の手代源助が「浪花講」を設立した場所にあたる。甚四郎は唐弓弦師として全国を行商
した経験から、当時の旅は安全性が乏しく、旅人に安全で信頼のおける旅を提供しようと
この組織を設立した。
この「浪花講」は、現在の協定旅館・旅行斡旋業の祖とされ全国へと広がった。全国各地
の旅籠などの軒先には「大坂・浪花講」の看板が掲げられ、旅人らはそれを目印に安心な
宿をとる事が出来た。
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どんどろ大師(善福寺)
善福寺(ぜんぷくじ)は、高野山真言宗の寺院。「どんどろ大師」「どんどろ」と通称する。
山号は如意山。院号は甘露院。「どんどろ大師」の名で知られる。鏡如庵大師堂(きょう
にょあんだいしどう)は、宝暦2年(1752年)3月に高野山岩本院 法資法道が大坂夏の
陣(元和元年・1615年)の戦死者の霊を弔うために創建されたと言う。
鏡如庵とも称する。鏡如庵大師堂のあった付近は、大坂冬の陣(慶長19年・1614年)
では、真田幸村が真田丸を築き、激戦があった。大坂冬・夏の陣ともに激戦地であった。
どんどろ大師は浄瑠璃『傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)』に登場し、お弓とお鶴
の母子再会の舞台としても有名です。
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境内のミツマタ
冬になれば葉を落とす落葉性の低木であり、ジンチョウゲ科のミツマタ属に属する。中国
中南部・ヒマラヤ地方が原産地とされる。3月から4月ごろにかけて、三つ叉(また)に分
かれた枝の先に黄色い花を咲かせる。そのため、「ミツマタの花」は日本においては仲春
(啓蟄〔3月6日ごろ〕から清明の前日〔4月4日ごろ〕まで)の季語とされている。皮は和紙
の原料として用いられる。
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心眼寺・・・真田幸村・大助親子のゆかりの地に立つお寺
大阪城の出城である「真田丸」の跡地横に真田幸村・大助父子と深く関係するお寺があ
り、名前を心眼寺といいます。
1622年(元和8年)、大坂夏の陣から7年後に、白牟(はくむ)和尚が戦国武将真田幸村・
真田大助父子の冥福を祈るために建立されました。この白牟和尚は、真田家の祖先滋
野氏の一族だと言われています。
創建から寺の定紋は真田家の家紋である六文銭が使われ、山号は真田山と称します。
門には六文銭が付いています。
入口には「真田幸村出丸城跡」碑がありますが、最近の調査の結果で、出丸城で は無
かったことがわかりました。
境内に「従五位下真田左衛門佐豊臣信繁之墓」が2014年に新たに建立されており、そ
れによると、三日月の形をしていたことから偃月城とも呼ばれていたと書かれています。
真田丸は大坂冬の陣の講和条件により破却されました。
戦国時代とは関係ないが、江戸時代の幕末、坂本龍馬を暗殺したことで有名になった
京都見廻組の桂早之助と渡辺吉太郎のお墓もここにあります。
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興徳時
興徳寺(こうとくじ)は大阪府大阪市天王寺区餌差町にある 高野山真言宗 の仏教寺
院。天平年間(729年~749年)行基の開創。度々の兵火に火災を罹り、古記を失う。
天正年間(1573年~1592年)の頃、祐乗上人が再興。大正4年(1915年)6月1日の
火災で本堂・庫裏を失い、わずかに土蔵のみが残った。
昭和20年(1945年)の大阪大空襲では山門を残して全焼す。その後再興。
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真田丸顕彰碑(さなだまるけんしょうひ)
真田幸村(信繁)が大坂冬の陣の際に築いた砦「真田丸」があったとされる天王寺区
餌差町に「真田丸顕彰碑」が建立され、平成28年2月1日(月)に天王寺区役所主催
の除幕式が行われました。 碑に組み込まれた陶板には、大阪城天守閣所蔵の「大
坂三郷町絵図」と、「大坂冬夏 陣立図」のうち「冬の陣図」が載っています。
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円珠庵(釜八幡)
かつてこの場所には、古くから人々の信仰を集めていた大きな榎の霊木があり ました。
約400年前の大阪冬の陣の折、この地に陣所を構えた真田幸村がその話を聞き、慣習
にならってその木に「鎌八幡菩薩」と称して鎌を打ち込み祈祷したところ、大いに戦績を
上げることができたと言われて、これが鎌八幡の由来。
その後江戸時代初期、国文学者として著名な契沖が境内に居を構え、円珠庵と称して
研究と同時に信仰してきました。この頃からこの寺は必勝祈願の祈祷寺として信仰され
ています。 鎌八幡が悪縁切りとして有名になったのは昭和に入ってから。 大空襲で御
神木を始め境内の多くが失われたものの、見事な再生を遂げました。
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産湯稲荷神社
当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社となっている。
現地に掲げられていた社記によると「当地の開拓神である大小橋命(おおおばせのみこ
と)は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代(4世紀頃?)、ここ味原郷
に誕生した。その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」と
いう。 父は神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人兄弟の長男である」
としている。すなわち、大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣鎌足の先祖に当る人で
ある。 この誕生のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比売許曽神社の近くにある。
また、一説では生野区にある御勝山は大小橋命の墓であるとも言われ、この地には大
小橋命に関わる伝承は多い。
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JR鶴橋駅~天王寺駅
天王寺駅ホームからあべのハルカス
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11月11日の王寺町で明神山と達磨寺座禅体験-2

11月20日       11月11日の王寺町で明神山と達磨寺座禅体験-2
                 JRふれあいハイキング王寺町 10km
此の日は、知人と3名で10月に予約申込みしてあったJRふれあいハイキングに参加、10月に
阿倍野の近鉄ハイキングで知り合って御一緒した方とも偶然に再会する等、楽しいハイキング
となった。座禅でパンパンと肩を叩かれるのが何とも言えず好き!、此れがあるから明神山へ
の登頂にも耐えられる?勿論明神山のテラスからの眺めにも魅了されて登るのだが、やはり
達磨寺での座禅体験が出来るから何度も此処の参加する・・・
コース  JRふれあいハイキング  王寺町観光ボランティアガイドの会主催
王寺駅~孝霊天皇陵~畠田公園~明神山(昼食)~火幡(ほばた)神社~芦田池~達磨寺
(座禅体験)~王寺駅。王寺町ボランティアガイドの皆さんお世話になり有難う御座いました。 
此の日の私の万歩計は、22584歩で約16.7km歩いたことに、座禅では4回叩いて貰った・・・
志都美駅
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王寺駅で知人と合流、
受付を済ませて2班でスタート
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葛下川の堤防で
朝礼を済ませて孝霊天皇陵へ向かう
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孝霊天皇陵
孝霊天皇は日本の第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日-孝霊天皇76年2月8日)。
孝安天皇の皇子。母は皇后で天足彦国押人命の娘の押媛(忍鹿比売)。兄弟として
『古事記』では同母兄に大吉備諸進命の名が見える。26才で皇太子となる。
父帝が崩御した年の12月、黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に都を移す。其れま
での山裾にあった宮と異なり大和盆地の中央に位置する。翌年の1月に即位。即位
2年、磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命を皇后とし、彦国牽尊(後の孝
元天皇)を得た。また春日千乳早山香媛、倭国香媛らを妃にしている。倭国香媛との
間には崇神天皇の時代に四道将軍となった彦五十狭芹彦命、疫病や反乱を収めるの
に重要な役割を果たした倭迹迹日百襲姫命を得た。即位76年、128才で崩御。 『日本
書紀』・『古事記』ともほぼ系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。
『古事記』には大吉備津日子命と若建吉備津日子命による吉備平定が簡潔に書かれ
ている。此れが後の桃太郎伝説になる。
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王寺ニュータウン?へ向かう
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王寺ニュータウンを畠田公園へ向かう
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畠田公園で小休止
「雪丸弁当」500円予約者に弁当配布
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明神山水神社参道へ
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明神山山頂水神社の大鳥居
此処から山頂の水神社迄1800m
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ようやく山頂迄1000mの所迄来た
お子様連れのご家族での参加者も・・・
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山頂迄400~500m地点に
開けた所が有り亀の瀬の地滑り対策場所が見える
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此処までは、
11月11日の王寺町で明神山と達磨寺座禅体験-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。  
         https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-11-20
此処では、続きのもうすぐ山頂、水神社の・・・・~の詳細を掲載します。
もうすぐ山頂、水神社の鳥居が見える
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水神社
水神社の鎮座地である明神山の山頂は、江戸時代には大日霊女尊(おおひる
め:天照大神)を祀る送迎太神宮が建てられていました。
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明神山山頂に展望テラスが3ケ所あり眺望がすばらしい
この日は霞んでいて良く見えなかったが奈良側大阪側が見える(昼食休憩)
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火幡神社へ向う
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火幡(ほばた)神社
現在の祭神は次の5柱・天児屋根命・息長帯比売命・誉田別命・玉依姫命・天照皇大
神。延長5年(927年)成立の延喜式神名帳における祭神の記載は1座であり、祭神
の比定としては次の記述がある・火之戸幡之神(特選神名牒)・火之戸幡姫命(神名
帳考証)・火之戸幡姫(火幡神社志)、このことから、創建当初の祭神は火之戸幡姫
命であろうと推測される。
社伝によると、大同元年(806年)に創建されたという。新抄格勅符抄によると創建と
同年に神封二十戸が寄進されていることから、創建自体は更に遡ると考えられる。
延喜式神名帳では名神大社に列し、月次・新嘗の奉幣に預ると記されている。江戸
時代は八幡宮と称していた。明治6年(1874年)村社に列格した。
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芦田池へ向かう
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芦田池
片岡山の南側のすそ野、芦田池周辺の一帯は、昔から葦田といわれており、かつては
一帯に葦が繁茂していたため葦田原とも呼ばれていました。それが葦田の原と歌に詠
まれる歌名所となったのです。歌聖・柿本人麿も、「明日からは若菜つまむと片岡のあし
たの原はけふぞやくめる」と歌っています。
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達磨寺(座禅体験)
『日本書紀』によると、推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せって
いた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くな
りました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、
数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。
この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。
このように、聖徳太子と達磨大師の出会いからはじまった達磨寺には、今も本堂の下
に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があります。
これが、聖徳太子が飢人のためにつくったお墓、すなわち達磨大師の墓とされ、鎌倉時
代にその上にお堂が建てられて、本尊として道内に聖徳太子像と達磨大師像が安置さ
れました。
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王寺駅(解散)

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11月8日の天理稲田酒造への納会ウオーク下見-2

11月15日      11月8日の天理稲田酒造への納会ウオーク下見-2
               12月の納会ウオークのコース下見 約6km    
秋だと言うのに夏日にちかい最高気温24度の予報、夏の装備で歩くと丁度過ごし易い、
M吉さんK場さんに協力して貰って、歩こう会の12月度の納会ウオークのコース下見に
JR桜井線の長柄駅~天理教の茶飲み処迄の約5kmと其処から天理駅までの約1km
で合計約6kmを歩いて検証?して来た・・・
此の日の私の万歩計は、17492歩で約12.9km歩いた事に・・・
コース・・・雨天決行、但し雨天時は天理教教祖誕生殿の見学は無しに?する
JR長柄駅(受付・スタート)~500mで大和神社入り口~神社参拝後~270m先の鳥居
~国道169号~天理教教祖誕生殿~春日神社横~突当り左折~藤の棚前~サンエー
化研~浄国寺横~恵比寿神社・市座神社~丹波市跡~田中歯科角~国道25号~市文
化センター~2つ目の信号~天理教茶飲み処(昼食)~稲田酒造~天理駅(解散)
大和神社、天理教教祖誕生殿、天理教お茶飲み処、稲田酒造様に各々の12月18日の
お願いをして天理駅~奈良駅へ出て王寺駅経由で帰った。
集合場所・・・JR桜井線 長柄駅駅前広場
長柄駅で降りて、とても綺麗な駅だ
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大和神社へ向う
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大和神社(おおやまとじんじゃ)・・・良かったです
戦艦「大和」にも縁のある正一位の社。
大和一国の国御霊(くにみたま)を祀る神社で、今から約2000年前に創建された日本
最古の神社です。
御祭神は「日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)」、国土の守護神として、
天照大御神と共に宮中に祀られていた神様です。
しかし、崇神天皇5年に国中に疫病が流行り人民が死に絶える事態がおきます。
神様を人間と一緒に宮中に祀っているのが原因だとして、「天照大神」を皇女豊鍬入
姫命に勅して倭の笠縫の邑に、「大和大国魂神」を皇女渟名城入姫命に勅して、大市
の長岡岬に奉遷したのが大和神社の創祀と伝えられています。
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鳥居の外からは
本殿が見えない・・・
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天理教教祖誕生殿
天理教の教祖、中山みきは寛政10(1798)年4月18日に三昧田町(旧大和国山辺郡
三昧田村)で生まれました。
生家である前川家はこの地で代々庄屋を勤め、信心深い家柄でもありました。そのよ
うな家庭で生まれ育った教祖みきは、聡明で素直な優しい人柄だと、村でも評判の人
で、数え13才の時に三島町(旧同郡庄屋敷村)の中山家へ嫁ぎました。
生家は現在も、そのままの姿で残され、当時の面影を伺うことができます。
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藤の棚・・・松尾芭蕉の句碑
貞享4年(1687)10月、江戸を発って故郷伊賀上野で越年した芭蕉は、翌年3月、杜国
(万菊丸)を同道して、吉野の花見・高野詣・紀伊遊覧・大和の順遊を試み、4月、須磨
・明石を訪ねて、同月下旬、京に入った。
弟子を伴って此処を訪れた芭蕉は、藤の花を見て、「 草臥(くたび)れて宿かる比(ころ)
や藤の花」と詠み、その句碑が藤棚の下で、今も静かに四季を見つめています。
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丹波市跡
丹波市町の恵比寿神社・市座神社へ向う
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此処までは、
11月8日の天理稲田酒造への納会ウオーク下見-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
         https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-11-15
此処では、続きの丹波市跡~の詳細を掲載します。
丹波市跡・・・丹波の国から戎さんを勧請して市を開いたから丹波市?
なぜ丹波といったかは詳かではないが、古代の氏族に関係ないかと疑っている。大和
郡山市に美濃庄あり、丹後庄あり、和爾と櫟本には丹後という小字があるから、中世
の領主関係か併せ考うべきである。ここが中世末になって上街道に沿った市場として
発達して丹波市となった。丹波の国から戎さんを勧請して市を開いたから丹波市という
と一般にいわれているが、丹波の名は延久以前にさかのぼる。
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丹波市町の恵比寿神社・市座神社
参道の入口左側には丹波から遷されたという恵美須神社、また本殿の右側には妙見社が
あります。創祀は不明ですが、事代主命を祀り、今も丹波市の名にふさわしく市場の守
護神として尊崇されています。奧の境内は広く、一角には明治時代まで橋として使われ
ていた大きな石が立てかけられています。この石は緑色をしており、もともとは古墳に
収められた石棺の蓋でした。橋として近代まで転用されていただけあって、とても大き
なものです。今では面影がありませんが、近くには古墳がたくさんあったそうです。
この石もその中の一つの古墳で使われたものと考えられます。
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天理教のお茶飲み所へ向かう
銀杏並木が色付いてとても綺麗だが・・・
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天理教のお茶飲み所で昼食休憩
12月18日に団体で昼食休憩に使わせて貰うお願いをして稲田酒造様へ・・・
三島本通商店街へ
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稲田酒造・・・HPより
稲田酒造は明治10年から天理市で天理教会の御神酒として日本酒造りを始めました。
稲田酒造合名会社はJR・近鉄天理駅から東西に伸びる三島本通り商店街にある創業
130年余りの酒蔵です。 小さな蔵元ですが造り手、売り手、飲み手が一本の糸で
結ばれ、それぞれの顔が見える状況にあること、人と人との繋がりを大切にすること
をモットーに営業しております。
また昭和45年より造り酒屋のおいしい奈良漬けとして白瓜、きゅうり、スイカ、守
口大根、生姜等の奈良漬けを製造・販売させていただいております。
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天理本通
天理駅へ向かうアーケード商店街
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天理駅~奈良駅へ出て王寺経由で帰宅
おまけ
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11月4日の晩秋の上町台地散策と「四天王寺ワッソ」-2

11月11日      11月4日の晩秋の上町台地散策と「四天王寺ワッソ」-2 
                   近鉄ハイキング 9㎞
此の日は素晴らしいハイキング日和の中・K場さん・O村さん・I 田さん・久し振りに参加
の・Mちゃんと私の5名で歩く事に・・・
コース  近鉄駅フリーハイキング 大阪上本町駅地上コンコース 10時集合・スタート
大阪上本町駅~産湯稲荷神社~三光神社~玉造稲荷神社~大阪城公園~難波宮跡
「四天王寺ワッソ」~円珠庵~上本町駅迄のコースを少し変え、森ノ宮駅へ帰るに・・・
上本町駅~産湯稲荷神社~円珠庵(釜八幡)~興徳寺~真田丸顕彰碑~心眼寺~善
福寺(どんどろ大師)~三光神社~玉造稲荷神社~越中井~難波宮跡「四天王寺ワッソ」
会場で近鉄ハイキング粗品貰う~大阪城公園~難波宮跡「四天王寺ワッソ」~森ノ宮駅
難波宮跡「四天王寺ワッソ」会場で近鉄ハイキングの粗品を貰って大阪城公園へ行かず
に難波宮跡で昼食休憩、ワッソ巡行迄未だ未だ時間が有るのでコーヒータイムに茶店探
してNHK放送局と歴史博物館へ行ってみたが茶店は満席で待ち時間かかる様、難波宮
跡迄戻り解散?3名は森ノ宮駅方向へ戻り、Kやん(ワッソ初めて)と私はワッソ見物に・・・
足が棒になる迄?最後迄巡行を見て、此の日の私の万歩計は16319歩で約12kmに・・・
志都美駅
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上本町駅
産湯稲荷神社
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産湯稲荷神社の境内に「式内比売許曽神社御旅所」と「桃山跡」の石碑。
桃山というのはこの辺りの丘陵には明治の頃まで広大な桃林があったことに由来すると
いう。1919年(大正8年)に埋め立てられた味原池とともに景勝地として知られていた。
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産湯稲荷神社
当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社となっている。
現地に掲げられていた社記によると「当地の開拓神である大小橋命(おおおばせのみこ
と)は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代(4世紀頃?)、ここ味原郷
に誕生した。その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」と
いう。 父は神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人兄弟の長男である」
としている。すなわち、大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣鎌足の先祖に当る人で
ある。 この誕生のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比売許曽神社の近くにある。
また、一説では生野区にある御勝山は大小橋命の墓であるとも言われ、この地には大
小橋命に関わる伝承は多い。
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円珠庵(鎌八幡)
かつてこの場所には、古くから人々の信仰を集めていた大きな榎の霊木があり ました。
約400年前の大阪冬の陣の折、この地に陣所を構えた真田幸村がその話を聞き、慣習
にならってその木に「鎌八幡菩薩」と称して鎌を打ち込み祈祷したところ、大いに戦績を
上げることができたと言われて、これが鎌八幡の由来。
その後江戸時代初期、国文学者として著名な契沖が境内に居を構え、円珠庵と称して
研究と同時に信仰してきました。この頃からこの寺は必勝祈願の祈祷寺として信仰され
ています。 鎌八幡が悪縁切りとして有名になったのは昭和に入ってから。 大空襲で御
神木を始め境内の多くが失われたものの、見事な再生を遂げました。
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興徳寺
興徳寺(こうとくじ)は大阪府大阪市天王寺区餌差町にある 高野山真言宗 の仏教寺
院。天平年間(729年~749年)行基の開創。度々の兵火に火災を罹り、古記を失う。
天正年間(1573年~1592年)の頃、祐乗上人が再興。大正4年(1915年)6月1日の
火災で本堂・庫裏を失い、わずかに土蔵のみが残った。
昭和20年(1945年)の大阪大空襲では山門を残して全焼す。その後再興。
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真田丸顕彰碑(さなだまるけんしょうひ)
真田幸村(信繁)が大坂冬の陣の際に築いた砦「真田丸」があったとされる天王寺区
餌差町に「真田丸顕彰碑」が建立され、平成28年2月1日(月)に天王寺区役所主催
の除幕式が行われました。 碑に組み込まれた陶板には、大阪城天守閣所蔵の「大
坂三郷町絵図」と、「大坂冬夏 陣立図」のうち「冬の陣図」が載っています。
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心眼寺・・・真田幸村・大助親子のゆかりの地に立つお寺
大阪城の出城である「真田丸」の跡地横に真田幸村・大助父子と深く関係するお寺があ
り、名前を心眼寺といいます。
1622年(元和8年)、大坂夏の陣から7年後に、白牟(はくむ)和尚が戦国武将真田幸村・
真田大助父子の冥福を祈るために建立されました。この白牟和尚は、真田家の祖先滋
野氏の一族だと言われています。
創建から寺の定紋は真田家の家紋である六文銭が使われ、山号は真田山と称します。
門には六文銭が付いています。
入口には「真田幸村出丸城跡」碑がありますが、最近の調査の結果で、出丸城で は無
かったことがわかりました。
境内に「従五位下真田左衛門佐豊臣信繁之墓」が2014年に新たに建立されており、そ
れによると、三日月の形をしていたことから偃月城とも呼ばれていたと書かれています。
真田丸は大坂冬の陣の講和条件により破却されました。
戦国時代とは関係ないが、江戸時代の幕末、坂本龍馬を暗殺したことで有名になった
京都見廻組の桂早之助と渡辺吉太郎のお墓もここにあります。
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善福寺(どんどろ大師)
善福寺(ぜんぷくじ)は、高野山真言宗の寺院。「どんどろ大師」「どんどろ」と通称する。
山号は如意山。院号は甘露院。「どんどろ大師」の名で知られる。鏡如庵大師堂(きょう
にょあんだいしどう)は、宝暦2年(1752年)3月に高野山岩本院 法資法道が大坂夏の
陣(元和元年・1615年)の戦死者の霊を弔うために創建されたと言う。
鏡如庵とも称する。鏡如庵大師堂のあった付近は、大坂冬の陣(慶長19年・1614年)
では、真田幸村が真田丸を築き、激戦があった。大坂冬・夏の陣ともに激戦地であった。
どんどろ大師は浄瑠璃『傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)』に登場し、お弓とお鶴
の母子再会の舞台としても有名です。
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境内のミツマタ
冬になれば葉を落とす落葉性の低木であり、ジンチョウゲ科のミツマタ属に属する。中国
中南部・ヒマラヤ地方が原産地とされる。3月から4月ごろにかけて、三つ叉(また)に分
かれた枝の先に黄色い花を咲かせる。そのため、「ミツマタの花」は日本においては仲春
(啓蟄〔3月6日ごろ〕から清明の前日〔4月4日ごろ〕まで)の季語とされている。皮は和紙
の原料として用いられる。
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三光神社
当神社は大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の松原
の遺称)と称したが、全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では三光神
社となった。創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ創
建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。
当神社は古来より日本全国で唯一の中風除の神として広く知られ毎年恒例の神事とし
て六月一日を祈願の初日と定め七日間往古より今に至るまで変わることなくとり行われ
全国各地からの参拝者が絶えない。
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真田の抜け穴
大坂城の出城のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城
(えんげつじょう)と名付ける塁を定め本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと
言い伝えられ今なおその跡を三光宮鎮座の階下にあり。
真田幸村の像
真田の抜け穴脇に真田幸村公の陣中指揮姿の銅像を建立(昭和62年5月5日)、
その台座に信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺より取り出した石(名付けて
真田石)が置かれている。

玉造稲荷神社
当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇
3年に改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣
を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたと
ころ、のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったといわれています。
その後、天正4年の兵乱により本・末社、旧記等ことごとく焼失しましたが、慶長8年に
豊臣秀頼公により社殿、高殿(舞台)が再建されました。大坂の陣で、当地は再び戦
地となり被害をうけましたが、元和5年に徳川幕府の大坂城代 内藤紀伊守を始め、
氏子・崇敬者の寄進を以って再建。別称は豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代
を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されたことが、史料に残っています。江戸時代に
は伊勢参りの出発点とされた。文久3年(1863年)11月の大坂大火(新町焼)で焼失
するが、1871年(明治4年)に再建。現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもの
で、一帯は古代、勾玉などを作っていた玉作部の居住地であったという伝承がある。
豊臣家奉納鳥居
慶長8年(1603年)、豊臣秀頼により社殿再建時に奉納された石鳥居。阪神・淡路大
震災により基礎に損傷を受け、現在は上部・脚部に分け、境内に置かれている。
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越中井
豊臣時代の大名、細川越中守忠興(ほそかわえっちゅうのかみただおき)の屋敷が
ありました。越中井は細川家の台所跡に残る井戸だといわれています。
忠興の妻ガラシャは石田三成の軍勢に囲まれ、玉造のこの屋敷で最期を迎えました。
井戸は悲劇のシンボルになっています。
細川 ガラシャ(伽羅奢、迦羅奢)/ 明智 珠(明智 玉)(ほそかわ ガラシャ / あけち たま、
永禄6年(1563年) - 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は、戦国時代から安土桃山
時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱は「たま」(珠、玉)また
は玉子(たまこ)。キリスト教信徒(キリシタン)として有名。
明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも広
くこのように呼ばれる場合が多い。
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難波宮跡
難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)の
上町台地の先端付近にあった古代宮殿。
前期難波宮
乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は652
年に完成した。天皇制の始まり、元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治
はこの宮でおこなわれた。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根で
あった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記さ
れており、ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であった。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が
没した後、655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。
683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都とした
が、686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
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「四天王寺ワッソ」会場で近鉄ハイキング粗品貰う
難波宮跡で昼食休憩

午後からは、K場さんと二人で
難波宮跡「四天王寺ワッソ」会場
「四天王寺ワッソ」・・・ワッソは現代韓国語では「来た!」の意味?
古代のなにわを舞台に行われた、朝鮮半島や中国などの東アジア古代国家と日本の
交流の様子を「再現」した祭り。当時の東アジアからの使節に扮した参加者が、当時の
ものと推定される音楽と「ワッソ! ワッソ!」の掛け声とともに舟だんじりを曳き、巡行
する。これを古代日本人に扮した参加者が当時のものと推定される作法で出迎える。
関西をはじめ韓国の著名人も参加している。現在は関西財界を中心にNPO法人を創
設し、日韓だけではなく、東アジアの古代交流を再現する「大阪の祭り」として毎年11
月に開催されている。
祭りの際には日本国総理大臣・韓国大統領の双方から祝辞が届く?と言う世界唯一
のイベントとなっている。中学校の日韓歴史共通教材にも取り上げられる など広く認
知されるようになっている。
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レッドカーペット上のワッソ巡行を撮る
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此処までは、
11月4日の晩秋の上町台地散策と「四天王寺ワッソ」-1 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-11-11
此処では、続きのワッソ巡行の続き~の詳細を掲載します。
レッドカーペット上をワッソ巡行の続き
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おまけ
勝山通りのアメリカデイゴ
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11月3日の馬見丘陵公園フルバージョン

11月9日           11月3日の馬見丘陵公園フルバージョン
                     子&孫達が遊びに来た
此の日は大阪から子供達と孫達が馬見丘陵公園に遊びに来ると言うので、家内と買い
物を済ませて、大阪から来る娘を迎えて馬見丘陵公園へ、大阪東淀川から来る子供と
孫達と公園で合流する予定だったが、孫達が中々来ない、連休で道路が渋滞してる・・・
先に馬見丘陵公園に着いたので花見散策しながら待つことに・・・
北エリアのダリア園から中央エリアのバラ園等を写真を撮りながら散策、孫達が来てか
ら集いの丘にテントを張り、集いの丘で12月で4才になる孫と8歳の孫とボール蹴り・・・
テントで弁当を食べて暫く下の孫とシャボン玉で遊び、飽きてきたので上の孫と大型遊
具の滑り台へ行って遊んだ。。。。。此の日の私の万歩計は、5876歩で約4.3km・・・
北エリアのダリア園
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皇帝ダリアの方へ
皇帝ダリアは未だ蕾み
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中央エリアへ向かう
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ハギ
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中央エリアへの
トンネルを潜るとバラが
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チャイニーズイエローバナナが未だ咲いている
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バラよりも
コスモスが咲いて
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孫達が北エリアの
駐車場へ着いた様なので戻る
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芝生広場の
集いの丘へ向かう
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丘へ登ってテントを張り
芝生広場でボール蹴りやシャボン玉遊び
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弁当を食べて
シャボン玉遊びも飽きてきたので大型滑り台へ向かう
集いの丘を降りて
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陸橋を渡って
大型遊具エリアの滑り台へ
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サンシュユやカリンが綺麗
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10月31日のボート免許更新講習&その他

11月7日          10月31日のボート免許更新講習&その他
                       10月31日~11月1日
10月31日 
船舶免許更新講習会場ヘ向う
船舶免許更新講習は5年毎に行われる、私にとって今年は2回目の更新
志都美駅
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天満橋駅で降りて歩いて会場へ向かう
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講習会場の有るビル
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免許更新講習が終わって、近くの大阪城公園へ向かう
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京橋口から入って
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極楽橋から
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天守閣前広場
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豊国神社へ向う
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豊国神社
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豊国神社を出て
噴水広場へ向かう
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沖縄が帰って来た、記念碑が・・・
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森ノ宮駅口噴水広場へ出た
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森ノ宮駅へ
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11月1日 
歩こう会HP更新&志葉先生(絵手紙教室)の個展へ
社友会事務所へ歩こう会HP更新へ
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難波の
志葉先生(絵手紙教室)の個展へ
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絵手紙教室の作品も展示されて
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個展会場の前は繁華街
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おまけ
自宅近くの道路脇で・・・
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10月30日の道明寺天満宮~葛井寺へ史跡巡り-2

11月3日        10月30日の道明寺天満宮~葛井寺へ史跡巡り-2
                  来年1月の歴史探訪の会コース下見
来年1月の歴史探訪の会(M越さん)に向けてコース下見の応援に?K場さんM吉さんと
一緒に参加した、M越さん手配の藤井寺市観光ボランティアの会のガイド二人と歩いた。
コースは    近鉄道明寺駅で10時待合せてスタート
道明寺駅(スタート)~道明寺天満宮~道明寺~土師ノ里駅前~鍋塚古墳~仲姫命陵古
墳~澤田八幡神社~古室山古墳(昼食)~大鳥塚古墳~応神天皇陵古墳~番所山古墳
~サンド山古墳~シュラホール~辛国神社~葛井寺~藤本酒造醸~藤井寺駅 (解散)
来年の年始ウオ-ク実施(1月16日(水))時は、雨天決行とし、昼食は応神天皇陵古墳
の後に「カゴの屋」予約しておいて室内での食事を検討(M越さん)・・・
此の日の私の万歩計は、17316歩で約12.8km歩いたことに・・・
志都美駅へ向かう
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志都美駅
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道明寺駅で合流・スタート
※道明寺駅の歴史・・・近鉄電車発祥の駅として知られる?知らなかった?
近畿日本鉄道(近鉄)の駅。駅番号は南大阪線がF15、道明寺線がN15。
柏原駅や古市駅と並び、現在の近鉄に属する駅の中では最古の歴史を有する。
1898年(明治31年)3月24日 - 河陽鉄道として柏原 - 当駅 - 古市間が開業に設置。
1899年(明治32年)5月11日 - 河陽鉄道の路線を河南鉄道が承継。同社の駅に。
1919年(大正8年)3月8日 - 社名変更により大阪鉄道の駅となる。
1922年(大正11年)4月18日 - 当駅から布忍駅までが開通。分岐駅となる。
1943年(昭和18年)2月1日 - 関西急行鉄道が大阪鉄道を合併、関西急行鉄道駅。
1944年(昭和19年)6月1日 - 戦時統合により関西急行鉄道が南海鉄道(現在の
南海電気鉄道の前身。後に再独立)と合併、近畿日本鉄道の駅となる。
※駅周辺のシンボルでもあったサントリー道明寺工場は2004年10月末で操業を
停止し、解体された。

道明寺天満宮
祭神は菅原道真公、天穂日命と、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。
隣接して道明寺という真言宗の尼寺がある。この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当
たる野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社が
あった。仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太
子の発願により土師八島がその邸を寄進して寺としたという。平安時代、土師寺に
は菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、
この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。延喜元年(901年)、大宰府に左遷される途
中にも立ち寄って、覚寿尼公との別れを惜しんだ。道真公遺愛の品と伝える硯、鏡等
が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。
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道明寺(どうみょうじ)
道明寺は、真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。
道明寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。
当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。901年(延喜元年)、大宰
府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂け
れ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故
事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれて
いる。道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」
に由来する。
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土師ノ里駅前広場

鍋塚古墳
仲津山古墳(伝仲姫命陵)の後円部に近接して築造された、一辺50m、高さ7mの
方墳であり、濠があった可能性がある。内部構造は明らかでないが葺石と埴輪列
が確認されている。円筒埴輪の他、家、盾、靫、蓋(きぬがさ)形の形象埴輪が用
いられている。円筒埴輪には黒斑を有し、類似の埴輪が出土している仲津山古墳
との関係がうかがえる。1956年に国の史跡に指定された。なお、2001年に史跡の
追加・統合指定が行われ、本古墳を含む14基の古墳が「古市古墳群」の名称であ
らためて国の史跡に指定されている。
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知人の家の前を通り、仲姫命陵古墳へ向かう
※澤田八幡神社
境内に電車が通っているという、全国的にも数少ない珍しい神社です。
祭  神:仲津媛皇后 応神天皇
国府八幡神社の由緒書きに、藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生
した八幡神社が五社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八
幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室
八幡神社、土師里八幡神社、津堂八幡神社の四社です。とある・・・・

仲姫命陵古墳
5世紀前半に築造された大型前方後円墳です。墳丘長は290mで古市古墳群で
は応神天皇陵古墳(羽曳野市)に次ぐ大きさを誇ります。後円部側には陪塚と考
られる鍋塚古墳があります。
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古室山古墳で昼食休憩
古室山古墳
古室山古墳は、後円部頂上の標高が約39mを測り、国府台地でも高所に位置
しています。そして視界をさえぎる巨木が少ないため、頂上からの眺望はすばら
しいものがあります。また、梅や桜の木が植えられており、季節になると美しい花
を咲かせます。これらはいずれも訪れる人々を楽しませています。古墳の墳丘の
長さは150mで、古市古墳群の中では中形の前方後円墳に属します。古室山古
墳が造られたのは4世紀末から5世紀初頭のことです。これは、古市古墳群の形
成が開始された時期にあたり、同古墳群中で最も早く造られた古墳の一つに数
えられます。
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二上山も見える
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昼食後墳丘から下りて
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大鳥塚古墳
大鳥塚古墳は、墳丘の長さが110メートルの前方後円墳です。古市古墳群の中で
は中形で、前方部は南を向いています。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になってい
て、足を踏み入れると夏でもひんやりとした感じを受けます。造られた当時、墳丘の
斜面には石が葺かれ、平坦面には円筒埴輪が並んでいました。人を葬った施設の
構造は分かっていません。
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応神天皇陵古墳
誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)で墳丘長さ425m、濠を含めた全長650mで
百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵の墳丘長486m、全長840m次ぐ。体積は、143
万立法mで仁徳天皇陵の140万立法mを抜き日本最大。 
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来年の1月16日
本番の時には、ここで昼食場所「かごの屋」を入れる予定?

番所山古墳
藤井寺市の南部、藤ケ丘2丁目の住宅街の中に、まわりを道路で円形に囲まれ
た小さな山があります。これが蕃所山古墳で、モッコ塚とも呼ばれています。この
古墳は、周辺の住宅街ができるときに現在のような形で墳丘が保存されました。
直径22m、高さ3mの円墳ですが、本来はもう少し大きかったと思われます。
墳丘のまわりに濠があったかどうかは分かりません。隣接する道路の一部に深
い掘り込みがあったことが立会調査で確認されています。あるいはこの掘り込み
が濠の一部である可能性も考えられますが、断言はできません。埴輪や葺石は
確認されていません。
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サンド山古墳
近くに応仁天皇陵が存在するため、宮内庁から応神天皇陵(恵我藻伏岡陵)へ
号陪塚とされていますが、恐らく独立した古墳群と考えられています。
5世紀~6世紀前半に造られたとされ、現在の規模は長さ30m、高さ3m程です。
墳形が崩れ原型を留めていないため、実際にどのような古墳だったのかは分
かっていません。サンド山古墳は藤井寺市藤が丘にある「藤ヶ丘 山道ポケット
パーク」に内にあります。サンド山古墳も蕃所山古墳と同様に住宅街の真っ只
中に存在する古墳ですが、蕃所山古墳のように墳形が保たれておらず案内板
もないのでただの土山にしか見えません。
「サンド山古墳」の特徴として ・墳形が崩れてなにかわからない ・発掘したのか
どうかもわからないから情報がない ・宮内庁管理なので中にも入れない ・エピ
ソードもない と、古墳巡り泣かせな古墳です。
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此処までは、
10月31日の道明寺天満宮~葛井寺へ史跡巡り-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-11-03
此処では、此の続きの
仲哀天皇陵古墳~シュラホールへ向かう?の詳細を掲載します。

※岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵古墳)・・・藤井寺市観光協会HPより
岡ミサンザイ”と呼ばれる墳丘長242mの大型前方後円墳で、幅の広い濠と幅の狭
い堤をもつ古市古墳群で3番目に大きい古墳です。5世紀末~6世紀初頭の築造と
考えられています。墳丘からは城の跡も見つかっています。周濠は水を貯え、冬には
マガモが飛来し、市民の憩いの場として親しまれています。

※アイセルシュラホール・・・・(100円コーヒータイム)
大阪府藤井寺市にある考古学・歴史系博物館施設をメインと する生涯学習セン
ターの愛称。正式名称は藤井寺市立生涯学習センター。1994年に 開館した。

辛国神社
今から千五百年程前、雄略天皇の御代に創設された神社で、平安時代には官社と
なり、式内社として人々の尊信を集めてきた神社です。日本書紀には、『雄略十三
年春三月、餌香長野邑を物部大連に賜う』とあるが、餌香長野邑は、旧藤井寺町の
あたりと思われる。この地方を治めることになった物部氏は、その祖神を祀って神社
をつくり、その後、辛國氏が祭祀をつとめ、辛國神社と称するようになった。三代実
録には、清和天皇『貞観九年二月二十六日河内国志紀郡辛國神社を官社に預る』
とあります。元の神社は恵美坂の西南神殿にあったと思われる。室町時代(義満の
頃)河内守護職畠山基国氏が社領二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈
良春日大社に懇請してその祭神・天児屋根命を合祀したと伝えられている。
明治四十一年、長野神社の祭神素盞鳴命を合祀して現在に至っている。
御神徳・饒速日命・瓊々杵尊の御兄。物部氏の祖神。
天孫降臨に先立ち、天祖より天璽宝の瑞宝十種をさずかり、大和建国の任務をうけ
て河内国哮ヶ峰に天降りになった。瑞宝は、『若し痛む処あらば、この十宝を一二三
四五六七八九十(ひふみよいむなやことお)と唱え振れ、此くなさば死人も行き反え
らん』と教え諭された。故に古来より病気平癒、厄除、呆け除の守護神として広く信
仰されている。祭神は、天児屋根命・藤原氏の祖神。素盞鳴命・天照大神の弟神。
品陀別命・応神天皇。市杵島姫命・素盞鳴命の子。
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葛井寺・・・藤井寺市観光協会HPより
葛井寺(ふじいでら)は古代氏族葛井氏の氏寺として、7世紀後半の白鳳期に建立
されました。 西国三十三箇所観音霊場の第五番札所として信仰を集め、多くの巡
礼者が訪れています。 本尊の国宝乾漆千手観音坐像は、大阪府下唯一の天平仏
で、毎月18日に御開帳されます。また、 四脚門は、桃山様式をよく伝える建造物と
して、国指定の重要文化財となっています。
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藤本酒造醸・・・HPより
現在の藤本雅一酒造醸は、大正2年(1913年)3代当主重治郎が創業しました。
当時、藤井寺のあたりは水田や畑が多く、特に綿の栽培がさかんでした。重治郎は
「藤源」という河内木綿の製造業を営んでいました。
いにしえより、このあたりは、金剛山、生駒山など自然も豊富で、近くの山々からの
水脈が良質の地下水となってこの地を流れています。重治郎はこの良質の地下水
を清酒造りに利用できないかと考え、丹精込めた自作の米と合わせて清酒造りに
転向したのです。うまい酒を造りたいという重治郎の願いは「冨士正宗」という銘柄
に実を結び、現在も「冨士正」として造り続けています。
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藤井寺駅へ向かう
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