So-net無料ブログ作成

2月23日の馬見丘陵公園の河津桜&梅林

2月28日         2月23日の馬見丘陵公園の河津桜&梅林
                  冬枯れの公園に河津桜と梅が・・・
冬枯れの公園
IMG_5945.JPG
梅林の梅が咲いてるのは分かってるから
巣山古墳前丘の河津桜を見に行く・・・
IMG_5905.JPG

河津桜が咲き始めている
IMG_5906.JPG
IMG_5907.JPG
IMG_5908.JPG
IMG_5909.JPG
IMG_5910.JPG
IMG_5911.JPG
IMG_5912.JPG
IMG_5913.JPG
IMG_5914.JPG
IMG_5915.JPG
IMG_5916.JPG

巣山古墳の堀
IMG_5917.JPG

帰りに反対側の河津桜
IMG_5918.JPG
IMG_5919.JPG
IMG_5920.JPG
IMG_5921.JPG
IMG_5922.JPG
IMG_5923.JPG
IMG_5924.JPG
IMG_5925.JPG
IMG_5926.JPG

橋の上からは見えなかったのに・・・
IMG_5927.JPG
今度は梅林へ行く
梅林の梅
IMG_5904.JPG
IMG_5928.JPG
IMG_5929.JPG
IMG_5930.JPG
IMG_5931.JPG
IMG_5932.JPG
IMG_5933.JPG
IMG_5934.JPG
IMG_5935.JPG
IMG_5936.JPG
IMG_5937.JPG
IMG_5938.JPG
IMG_5939.JPG
IMG_5940.JPG
IMG_5941.JPG
IMG_5942.JPG
IMG_5943.JPG
IMG_5944.JPG

河津桜を見に来て良かった・・・

nice!(23)  コメント(0) 

2月22日の古代~近世の柏原市史跡巡り-2

2月28日          2月22日の古代~近世の柏原市史跡巡り-2
                  てくてくマップ大阪14ハイキング
此の日は素晴らしいハイキング日和、知人のM村さんと二人、河内国分駅で待合せて
てくてくマップハイキング、古代~近世の柏原史跡巡り10kmをショートカットで歩いた。
此の日の私の万歩計は、21413歩で約12.8km歩いたことに・・・
コース  近鉄河内国分駅~JR柏原駅へ  私が弁当を忘れた為外食する羽目に・・・
河内国分駅(10:04集合)~松岳山古墳~国分神社~西法寺~阿弥陀寺~不動明王
~田辺池~田辺廃寺跡・春日神社~初吉稲荷神社~原川コミュニティー道~国分駅
前餃子の王将(昼食)~国豊橋から大和川~大和川治水記念公園~黒田神社~平野
川・旧三田家・寺田家~柏原神社~浜地蔵~堅下オガタ通り商店街~JR柏原駅
   ・・・登り坂のきつい玉手山古墳、小松山子船場をパスして歩いた
JR高井田駅
IMG_5812.JPG
白坂神社・・・宿奈川田神社(すくなかわたじんじゃ)
宿奈川田神社は、大阪府柏原市にある神社である。式内社で、旧社格は村社。地元で
は通称 白坂神社(しらさかじんじゃ)と呼ばれ、地図や看板でもそのように表記されてる。
祭神は、宿奈彦根命・高皇産霊命・級戸辺命を主祭神とする。
創建の由緒は不詳である。近くにある天湯川田神社(柏原市高井田)とともに、当地を拠
点としていた鳥取連が祖神を祀ったものとみられる。弘仁式の時から官社となっており、
延喜式神名帳に「河内国大県郡 宿奈川田神社」と記載され、小社に列している。
中世には「白坂大明神」と称していた。一説には、現在二宮神社(柏原市安堂町)。大正
時代に2社を合祀して現在地に遷座)のある地が「字白坂」であることから、元の宿奈川
田神社の鎮座地であるという。
IMG_5813.JPG
IMG_5814.JPG

国豊橋から大和川を撮る
IMG_5816.JPG

近鉄河内国分駅で合流、改札印を貰ってスタート
IMG_5818.JPG
河内国分駅~松岳山古墳へ向かう
西町地蔵尊
IMG_5819.JPG
IMG_5820.JPG

宮本地蔵
IMG_5821.JPG
国分神社
国分神社は鎌倉時代御宇多天皇の朝に創建されました。御祭神は大国主命(おおく
にぬしのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)、飛鳥大神(あすかおおかみ)の
三神。境内の山頂は国指定史跡の松岳山古墳(まつおかやまこふん)で。これより出
土した船氏王後首墓誌は、我国最古のもので国宝に指定され東京の個人(三井記
念美術館所蔵)。
IMG_5822.JPG
IMG_5824.JPG
※銅製船氏王後墓誌(どうせいふなしおうごぼし)
墓誌は、松岳山古墳群から出土したと伝えられていますが、出土の詳しい場所や時期
など経緯は不明です。縦約30cm、横幅約7cm、厚みが0.1cmの 極めて薄い短冊形の
銅板で、表面に86文字、裏面に76文字、計162文字が刻まれています。668年につくら
れたと考えられており、わが国最古の墓誌で す。また、文字使いや内容などから学問
的にも貴重な資料です。

松岳山古墳
国分神社の奥に広がる丘陵上にある全長約130mの前方後円墳です。この古墳には、
円筒埴輪や巨大な鰭付楕円筒埴輪(ひ れつきだえんとうはにわ)が立てられていまし
た。後円部墳頂には組合式石棺(6枚の石板を組み合せた棺)が露出しています。石
棺を覆う竪穴式石室の原状は 不明ですが、周囲に板石が大量に散乱する現状から
石室は墳丘上に積石塚のように築かれていたと推定されます。石棺の南北には大板
石が立てられています。南 の立石は高さ2.3m、幅1.4m、北の立石は高さが1.8m、
幅が1.4mで南立石には1箇所、北立石には2箇所の円孔があります。立石の用途や
何のた めの孔なのかは不明(謎)です。古墳からは銅鏡、装飾品、武器、農工具、土
器、埴輪など様々な遺物の出土が知られています。
松岳山古墳を見学の際には、隣接する国分神社社務所にお声をかける様にと注意
書きが有ります。
IMG_5825.JPG
IMG_5826.JPG
IMG_5827.JPG
IMG_5829.JPG
IMG_5831.JPG
IMG_5833.JPG

国分神社
IMG_5835.JPG
IMG_5838.JPG
IMG_5839.JPG

国分神社御旅所
IMG_5840.JPG
IMG_5841.JPG

西法寺へ向かう
IMG_5842.JPG
西法寺・・・浄土真宗本願寺派 塩出山 西法寺
大阪府 柏原市に位置する西法寺は、聖徳太子建立と伝えられ、本願寺の第8代
蓮如上人の 教化により浄土真宗の寺院となり現在に至っています。
IMG_5843.JPG
IMG_5845.JPG
IMG_5846.JPG
IMG_5847.JPG
IMG_5848.JPG

阿弥陀寺へ向かう
IMG_5851.JPG
阿弥陀寺
綺麗なトイレが有り、助かりました。
IMG_5852.JPG
IMG_5853.JPG

不動明王
IMG_5857.JPG

田辺池
IMG_5858.JPG
IMG_5860.JPG
田辺廃寺跡・春日神社
田辺廃寺跡
田辺廃寺は現在の柏原市田辺を本拠地とした百済系渡来氏族の田辺史(たなべのふ
ひと)氏が建てた氏寺と言われている。1971 年の発掘調査によって金堂、東西両塔、
南大門などが確認され、薬師寺式の伽藍配置であることが判明しました。東塔の基壇
はセン(レンガ状の焼物)を積み上 げたセン積み基壇、西塔と金堂の基壇は瓦を積み
上げた瓦積み基壇で、東西両塔ともに三重塔が建てられていたと考えられます。遺跡
は春日神社の境内にあります。白鳳時代から中世までの間法灯を伝えるが、終始そ
の間同氏を背景に盛衰した寺院と考えられる。

春日神社(かすがじんじゃ)
境内は「国指定史跡 田辺廃寺跡」があります。 田辺廃寺は現在の柏原市田辺を本拠
地とした百済系渡来氏族の田辺史(たなべのふひと)氏が建てた氏寺と言われている。
1971 年の発掘調査によって金堂、東西両塔、南大門などが確認され、薬師寺式の伽
藍配置であることが判明しました。東塔の基壇はセン(レンガ状の焼物)を積み上 げた
セン積み基壇、西塔と金堂の基壇は瓦を積み上げた瓦積み基壇で、東西両塔ともに三
重塔が建てられていたと考えられます。遺跡は春日神社の境内にあり、 瓦などの出土
遺物も境内の収蔵庫に展示されています。
IMG_5861.JPG
IMG_5863.JPG
此処までは、
2月22日の古代~近世の柏原市史跡巡り-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-02-28
此処では、続きの初吉稲荷神社~ の詳細について掲載します。
初吉稲荷神社(はつよしいなりしゃ)
由緒等の詳しい事は分かりませんが、鎮座地は古墳時代の横穴式石室古墳の跡と推定
されているそうで、大正時代までは巨石を組んだ石室の中にまつられていたそうです。朱
塗りの鳥居は二十一基あるそうで、その奥に小さなお社があります。一対の狛狐と燈籠が
ありますが、燈籠の方には昭和十八年(1943)の年号があります。お社の裏には「初吉
大明神」のお塚があり、狛狐の傍らに風化の激しい狛狐が一基、あと顔の部分が欠損して
いる狸の石像がありました。お社まで行きますと周囲より小高くなっていますので、ここが
古墳だった事が良く分かります。
IMG_5867.JPG
IMG_5868.JPG
IMG_5869.JPG

原川コミュニティー道へ向かう
IMG_5870.JPG
原川コミュニティー道
原川沿いの遊歩道を歩く
IMG_5871.JPG
IMG_5872.JPG
国分駅前餃子の王将(昼食)
国豊橋を渡る、大和川を撮る
IMG_5873.JPG
大和川治水記念公園
「大和川治水記念公園」の場所は築留と言われ、1704年に北に流れていた大和川を、
堤を築いてせき止め、西へ流れを変えた所だと言う事です。中甚兵衛(1639~1730)
は「河内」といわれるほど氾濫の多い大和川をつけかえる運動のリーダーでした。
IMG_5875.JPG
※中 甚兵衛(なか じんべえ)
中 甚兵衛は、寛永16年(1639年) - 享保15年9月20日(1730年10月31日))は江戸
時代初期の農民。河内国河内郡今米村(現・大阪府東大阪市今米)の庄屋。次男と
して生まれた。 大和川の付け替え工事に奔走した人物であり、周辺の芝村の曽根三
郎右衛門と吉田村の山中治郎兵衛らの協力を得て、江戸幕府に大和川付け替えや
治水計画を50年近くにわたって嘆願し続け、最後は農民の身でありながら並み居る
幕臣に交じって、付け替え工事を指揮した。
IMG_5876.JPG

柏原黒田神社へ向かう
IMG_5880.JPG

黒田神社・・・柏原黒田神社
昭和44年に藤井寺市の「北条黒田神社」より分社。過去は別名を塩殿神社(ショウデン
さん)といい、海運・交通安全の神として塩土老翁を祀っていた。「黒田」由来は、農民た
ちが耕している田畑が、黒々と肥えてほしい、と願ったことからだという。
IMG_5881.JPG
IMG_5882.JPG
IMG_5883.JPG
平野川・旧三田家・寺田家
柏原舟 ふなだまり跡地
柏原は竜田越奈良街道の要衝で、石川と大和川が合流した直後の下流に位置し、農
業地・商業地として栄えたが、度々水害にも襲われた。ことに元和6年(1620)と寛永
10年(1633)の大水害で柏原地域は壊滅的な被害を受けた。当時の代官末吉孫左衛
門長方は、大坂・京橋と柏原の間に物資運搬船「柏原舟」を往来させ、その売上で地
域復興を企てた。上流の「国分舟」と合わせて明治になって鉄道が開通するまで大い
に栄えた。
IMG_5884.JPG
三田家住宅(さんだけじゅうたく)
三田家住宅は奈良街道に面した町家で、裏は了意川(りょういがわ:平野川)に接し、
柏原船(かしわらぶね)の積荷をそのまま荷揚げできる造りになってい ました。三田
家は、元は大坂伏見呉服町で「大文字屋」と称した有力商人で、寛永13年(1636年)
に代官末吉孫左衛門に協力して柏原船を興し、寛永17 年に柏原に移り住んで柏原
船の運航や肥料商を営みました。明和3年(1766年)から明和5年にかけて屋敷の
大改築(大普請)が行われ、その屋敷がそれ以 後大きな改築を行われず今日まで
遺されています。この時の普請関係の文書も多数遺され、建設時期が明確に示され
るとともに当時の生活・経済状況も窺い知る 事が出来る貴重な資料として、文書類
も合わせて重要文化財に指定されています。
※三田家住宅は一般の住宅で、現在もお住まいのため見学はできません。
寛永17年(1640)に今町に移り住んだ三田家は、明和3年(1766)から5年にかけて
建物の普請を行いました。これが現存する三田家住宅です。明和5年(1768)の竣
工から今年(平成30年・2018)で250年となります。三田家住宅は、昭和44年(196
9)に国の重要文化財に指定されています。
IMG_5886.JPG
IMG_5887.JPG
IMG_5897.JPG
寺田家と柏原船
寺田家は「北条屋」の屋号をもち、志紀郡北条村(現在の藤井寺市北條町)から今町
に移り住んだようですが、くわしいことはわかっていません。寺田家の初代七郎兵衛
の没年が寛文8年(1668)であることがわかっているので、17世紀中ごろではないか
と考えられています。その後明治に至るまで、寺田家の当主は代々七郎兵衛を名乗
っています。柏原船の営業に大坂組が参加したのが寛永17年(1640)のことで、この
ときには寺田家の名が見えないことから、その直後に今町に移ってきたようです。しか
し、当初は柏原船の営業には参加していませんでした。
宝永元年(1704)の大和川付け替え後に、柏原村の東にある川跡には市村新田が開
かれました。新田の開発には七つの組に分かれた23人が共同で参加し、今町からも
「四人組」として吉田与治兵衛、高島平右衛門、三田七左衛門と寺田七郎兵衛が名を
連ねています。寺田家は市村新田の経営に深く関わり、有力地主らとともに輪番制で
市村新田の庄屋を努めていました。そしてのちには、寺田家のみが庄屋を務めること
になりました。明治になると、堺県から市村新田の戸長にも任命されています。
また、三田家とともに柏原船の営業にも中心となって参加し、肥料商を営んで手広く商
売を行っていました。寺田家が最初に柏原船の船持ちになったのは、享保元年(1716)
のことでした。このとき2艘の船持ちとなり、その後寛政元年には9艘、そして弘化元年
(1844)以降明治まで14艘を所有していました。三田家の船数は、寛永17年(1640)に
2艘、寛政元年(1789)に16艘、文政4年(1821)から10年まで21艘で、文政11年(18
28)から明治まで寺田家と同数の14艘でした。柏原船の総数は70艘なので、幕末には
三田家と寺田家で40%の船を所有していたことになります。もっとも、このころには船は
半分程度しか運航していませんでした。
寺田家には、市村新田や柏原船に関する史料が多数残されております。寺田家住宅も
現在お住まいのため、普段は公開されておりません。
IMG_5889.JPG
IMG_5888.JPG
柏原神社
創建の年月は詳ならず。元、とある邸内に鎮座せしを、明治十三年信徒の協議に依りて
当所へ遷座。 無格社なりしも、泉北郡向井村の村社若林神社「天照皇大神、表筒男命、
中筒男命、底筒男命、息長帶比賣命」を合祀するとともに村社に列し、更に志紀村の稲
荷神社「倉稻魂命」を合祀。
柏原黒田神社の北に鎮座、やはり下町風の風景の中で、地域の氏神さんとして慕われ
ているようです。
IMG_5890.JPG
IMG_5896.JPG
IMG_5892.JPG
IMG_5895.JPG
IMG_5891.JPG
IMG_5893.JPG

浜地蔵
IMG_5900.JPG
堅下オガタ通り商店街
ワイングラスを逆さにした街灯が可愛い・・・
IMG_5901.JPG
JR柏原駅
知人と此処で別れて・・・
IMG_5902.JPG
JR柏原駅~王寺駅へ戻って
バス停で・・・
IMG_5903.JPG

nice!(8)  コメント(2) 

2月20日の飲み会&奈良の史跡&奈良公園を歩く-2

2月26日        2月20日の飲み会&奈良の史跡&公園を歩く-2
                   昼飲み会ハイキング 8㎞
此の日は知人のS藤さん・M吉さん・K場さんと4名で昼飲み会ハイキングに奈良公園
を選んで、近鉄奈良駅であみま倶楽部手帳に改札印スタンプを貰ってスタートした・・・
此の日の私の万歩計は、21576歩で約12.9km歩いたことに・・・
コースは  近鉄奈良駅東改札前に集合
近鉄奈良駅東改札前(集合・スタート)~商店街~額塚~南円堂~中金堂~五重塔~
春日神社一の鳥居~影向の松~浮見堂~片岡梅林・円窓亭・浅茅が原~浮雲園地~
春日野園地~水谷茶屋~若草山山麓~手向け山八幡宮・校倉造~三月堂・校倉造経
庫~※四月堂~二月堂~若狭井~万博古河館七重搭双輪レプリカ~東大寺・鏡池・東
大寺ミュージアム・南大門~県庁前(昼食)・県庁屋上展望台~奈良公園~氷室神社~
韓国神社・林神社(饅頭神社)~JR奈良駅前観光案内所
JR奈良駅(13:17)  天王寺駅(13:50) 湯処・あべの梅
☆2月20日・昼飲み会 15:00~ 会費@2600円 参加メンバー6名
近鉄奈良駅東改札前(集合・スタート)~商店街
額塚
興福寺には山号がありません。南都七大寺には不思議と山号がないため今まで気に
も留めていなかったのですが、興福寺にはそれなりの理由があるようです。比叡山延
暦寺や高野山金剛峰寺などに見られる山号はよく知られるところです。奈良の興福寺
にも月輪山(がつりんざん)という山号が付けられていたようです。
そして、その山号額が埋められている場所が茶臼山と呼ばれる額塚です。
興福寺の山号額は南大門に掲げられていました。
天平宝字8年の5月、興福寺南大門の芝生に、あろうことか突然大きな穴が出来たそう
です。そこから洪水が噴出し、往来が困難になったと伝えられます。無風状態なのに樹
木が倒れたりしたこともあったようです。困り果てた興福寺山内でしたが、とある僧の霊
夢に「月の字は水に縁ある為なり」とお告げがありました。月輪は水に縁のあるもので
あるから、水が出る。これを取り下ろせば良いのではということになり、山号額を取り外
すことになりました。その後は無事に禍(わざわい)も収まり、その発端となった山号額
は茶臼山に埋められたという逸話です。
IMG_5735.JPG
※興福寺の南大門
興福寺の正面玄関にあたる南大門は、創建後、中金堂とともに6度の焼失と再建を繰り
返してきたが、1717年(享保2年)に焼失した後は再建されなかった。
南大門は重層建築だったとされ、その規模は平城宮の朱雀門級だったという。復元され
た基壇は、高さ約1.5メートル、東西約30.8メートル、南北約16.6メートル。
基壇上の平面部には、南大門の礎石跡や金剛力士像(仁王像)が立っていたとみられ
る方形の基礎跡も再現されている。

南円堂
西国三十三所観音霊場の第九番札所です。
弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建てに
なった八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わど
うかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げたことが発掘調査
であきらかになりました。この儀式には弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が深く係
わったことが伝えられます。
創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建されました。八角の一面は6.4
m、対面径は15.5m、本瓦(ほんがわら)葺きの建物ですが、その手法はきわめて古
様です。堂内には本尊不空羂索観音菩薩像、法相六祖坐像(ほっそうろくそざぞう)、
四天王(してんのう)像(以上いずれも国宝)が安置されます。
IMG_5736.JPG
中金堂
興福寺「中金堂(ちゅうこんどう)」は、世界遺産「興福寺」の境内中央、五重塔・東金堂
の西側の広々とした空間に建つ興福寺境内では最大規模の仏堂です。
平城京に遷都し奈良時代が幕を開けた和銅3年(710年)頃に成立した興福寺において、
その当初から中心的なお堂として建立されたとされる中金堂は、丈六釈迦如来像をその
中心部に配置し、脇侍としては薬王菩薩像・薬上菩薩像・2体の十一面観音菩薩像を置
き、四天王像・弥勒浄土像も安置していたとされており、奈良のお寺においても東大寺
大仏殿に次ぐような規模を有する非常に重要な存在であったとされています。
奈良時代以降は受難の歴史を歩み、平安時代の永承元年(1046年)に初代中金堂が
焼け落ちてからというもの計7回の焼失を経験することになりました。中金堂は6回目の
焼失まではその都度しっかりと再建されてきましたが、江戸時代の享保2年(1717年)に
7度目の焼失となった後は1世紀ほど再建されず、文政2年(1819年)に再建されたもの
も「仮金堂」と呼ばれる小さなものとなっていたため構造上も弱く、平成12年(2000年)に
は取り壊しが行われ、その後創建当初のスケールを持つ中金堂を復興することになり、
平成22年(2010年)に工事が着工し、8年間の計画で中金堂の再建が進められることに
なりました。
再建された中金堂は、興福寺に関わる歴史資料や唐招提寺金堂の建築様式などを参考
に復元されたものであり、東西の間口は約37メートル、南北の奥行きは約23メートル、高
さは約20メートルの規模となっており、東大寺大仏殿には及ばずとも、唐招提寺金堂や薬
師寺大講堂に匹敵、もしくは少し上回るような規模を有しており、平成の世において建造
された最大規模の木造建築物となっています。
IMG_5740.JPG
五重塔
現存する興福寺五重塔は、室町時代中期・応永33年(1426年)の再建。本瓦葺の三間五
重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建
造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、
文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
興福寺五重塔は、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建された。現存の塔は、
応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.1メートルで、現存する日本の木造塔として
は、東寺五重塔に次いで高い。
IMG_5741.JPG
春日神社一の鳥居
平安後期に創建されたといわれ、現在のものは、寛永11年(1638年)に再建されたもの
である。今では市街地のメインストリートの三条通との境界に当たるが、 古くは春日大社
と興福寺旧境内との境に立つ高さ6.75mの大鳥居です。
3月の春日祭や12月の春日若宮おん祭の際には大きな榊が立てられています。
第60次式年造替の事始めに大規模な修理が施されました。
IMG_5742.JPG
影向の松(ようごうのまつ)
影向の松は、奈良県奈良市の春日大社一の鳥居をくぐってすぐの、参道右側に生育
しているクロマツである。延慶2年(1309年)の春日権現験記にも記された古い巨木で
あったが、1995年(平成7年)に枯れたため、現在は巨大な切り株の横に後継樹の若
木が植えられている。
この地は昔、春日大明神が翁の姿で降臨され、万歳楽を舞われた地とされる。教訓
抄によると、松は特に芸能の神の依代(よりしろ)であり、この影向の松は能舞台の鏡
板に描かれている老松の絵のルーツとされている。
IMG_5743.JPG
浮見堂
鷺池に浮かぶ六角形のお堂は池の水面に映る姿が美しく、憩いの場としても人気です。
IMG_5744.JPG
片岡梅林
梅の木が約250本ほど植えられています。中に奈良地方気象台の植物季節観測用
(ウメ)の標本木も有るそうです。
IMG_5748.JPG
IMG_5751.JPG
IMG_5752.JPG
円窓亭(重要文化財)
円形の窓が特徴の円窓亭(重要文化財)。元は春日大社の経蔵が改造、移築された。
IMG_5753.JPG
片岡梅林・浅茅が原地
浅茅ヶ原園地に「片岡梅林」というところが有ります。
IMG_5755.JPG
IMG_5757.JPG
IMG_5758.JPG

浮雲園地へ向かう
IMG_5764.JPG
浮雲園地
奈良公園の中心部にあります。大仏殿交差点と奈良春日野国際フォーラム甍の間
をゆったりと歩ける園路があります。イベントにも利用されます。
IMG_5765.JPG
IMG_5766.JPG
春日野園地
奈良公園の中で最も広い多目的広場です。東に若草山、北西に東大寺大仏殿、西に
東大寺南大門を望むぜいたくな空間です。イベントにも利用されます。
IMG_5767.JPG
水谷茶屋
昭和23年創業。奈良公園内にある当店は、春日大社の北参道の入り口を流れる
水谷川の対面に位置し、大正初期に建築された茅葺き屋根と柱をそのままに店舗
として改装し、現在の姿に至っております。
店舗周辺には、楓が群生し、夏は鮮やかな緑と川のせせらぎが暑さを忘れさせ、
秋には紅葉が見る者の目を奪う。街の喧騒から離れ、大変癒されます。
IMG_5768.JPG
若草山山麓
若草山
奈良公園を訪れて最初に目に飛び込んでくる景色、それが芝生に覆われた三つ重ね
の山、若草山です。若草山は、標高342メートル、面積33ヘクタールの芝生に覆われ
た山で、山頂には、5世紀頃に築造されたといわれる史跡鶯塚古墳があります。毎年
1月には、若草山焼きがあります。夜空をこがす壮観さはまさに、炎の祭典というのに
ふさわしい行事です。
IMG_5769.JPG
IMG_5770.JPG
手向け山八幡宮・校倉造
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)
手向山八幡宮は、奈良県奈良市に鎮座する神社。手向山神社とも。奈良市街東部
の手向山麓に位置。手向山は紅葉の名所として知られ、古今和歌集では菅原道真
が「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいる
東大寺大仏殿前の道を東に行った正面に位置し、すぐ北には東大寺法華堂(三月堂)
がある。
天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大
寺の守護神として勧請された。当初は平城宮南の梨原宮に鎮座し、後に東大寺大仏
殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180年)の平重衡による戦火で焼失、建
長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建した。当初の鎮座地とされる梨原宮の所
在地は未詳だが、奈良市役所近くにある平城京左京三条二坊庭園跡庭園がその跡と
もいわれる。創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされてきたが、明治の神仏分離の
際に東大寺から独立した。
IMG_5773.JPG
IMG_5777.JPG
宝庫(重要文化財)
宝庫 - 奈良時代、校倉造。もとは東大寺油倉の上司倉。すぐ北には規模・形式とも類似
した「東大寺法華堂経庫」が建つ。
IMG_5772.JPG
此処までは、
2月20日の飲み会&奈良の史跡&奈良公園を歩く-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-02-26
此処では、続きの三月堂・校倉造 経庫(重要文化財)~の詳細を掲載します。
三月堂・校倉造 経庫(重要文化財)
「東大寺法華堂経庫」- 奈良時代、校倉造。すぐ南には規模・形式とも類似した、
もとは、東大寺油倉の上司倉の「手向山八幡宮の宝庫」が建つ。
IMG_5774.JPG
IMG_5775.JPG
※校倉造
三月堂や手向山八幡宮に囲まれた位置にある「校倉造」 。東大寺法華堂経庫は、二月
堂や三月堂(法華堂)、四月堂などが位置する東大寺の古き良き風情を体感して頂ける
「上院」エリアの一角、かつての東大寺鎮守神である「手向山八幡宮」にも隣接する位置
にある建物(重要文化財)です。
建物は正倉院などを同じく、いわゆる「校倉造」の建築様式となっており、その建立は奈
良時代もしくは平安初期にまで遡ると言われています。東大寺の境内地において、奈良
時代周辺に建てられた建築が残っているケースは、正倉院、転害門及び三月堂(後に大
規模な改築を受けている)など一部に留まっており、この経庫も知名度は高くないものの
貴重な建築と言える存在になっています。手向山八幡宮の「宝庫」と並び立つ
なお経庫は、かつては「校倉造」の代表建築である正倉院の近くに設置されていましたが、
鎌倉時代には大規模な修理が施されたりした後、江戸時代の元禄期になると現在の位置
に「手向山八幡宮」の宝蔵として移築されたという経歴を有しています。その後はしばらく
手向山八幡宮に帰属していましたが、明治の廃仏毀釈の折に、再び東大寺に帰属する建
物となったとされています。ちなみに、この経庫の40mほど南側の位置には、手向山八幡
宮の「宝庫」が別途設けられており、こちらも同じような建築様式で、やはり奈良時代頃に
創建されたものと考えられています。

三月堂
IMG_5776.JPG
IMG_5779.JPG
IMG_5780.JPG
※四月堂
東大寺四月堂(三昧堂)は、東大寺の奥行き、風情を最も強く体感できるエリアとして有
名な二月堂や三月堂(法華堂)の位置する「上院」エリアにあるごく小さなお堂です。
名前の由来としては、本来の名前は「三昧堂」ですが、このお堂では毎年四月になると
法華三昧会(ほっけさんまいえ)と呼ばれる法要が執り行われることから、次第に「四月
堂」という通称で呼ばれるようにもなっていきました。
二月堂由来の十一面観音菩薩がご本尊
お堂の創建時期は、東大寺境内の諸堂と比較すると新しく、平安時代の1021年(治安
3年)あるいは1067年(治暦3年)に建立されたと考えられています。また、現在の建物は
江戸時代の1681年(延宝9年)の墨書銘があることから、途中で建て直しが行われたと
も推定されます。堂内にはかつては脚が短く独特の佇まいを見せる「千手観音菩薩立像」
が本尊として祀られていましたが、現在は新たな観光スポットとして整備された「東大寺
ミュージアム」の展示物として移転され、その代わりに二月堂から十一面観音菩薩立像が
招かれ、本尊として安置されています。ちなみにこの十一面観音立像は、奈良市山間部
にあった「桃尾寺」の本尊であり、廃寺に伴い二月堂にお祀りされるようになった存在とさ
れています。なお、現在はお堂の中で副次的な存在として安置されている「普賢菩薩」さ
まに関してもかつては本尊として祀られていたようです。すなわち時代によって本尊が比
較的頻繁に代替わりしてきたのがこのお堂の特徴となっているのです。
知名度は低いけど、穴場の「仏像スポット」です。三月堂や二月堂といった圧倒的な存在
感を放つ建物の真横にあるため、近くを通行する際もごく小さなお堂として見過ごしてしま
う場合も多いですが、東大寺境内では珍しく、管理者の方(堂守)が近くに常駐しておられ
る上に、無料で拝観することが可能なお堂となっています。
三月堂(法華堂)や二月堂にお越しの際は、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

二月堂・・・東大寺二月堂(とうだいじにがつどう)
東大寺二月堂は、奈良県奈良市の東大寺にある、奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存
する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されている。奈良の早春の風物詩であ
る「お水取り」の行事が行われる建物として知られる。「お水取り」は正式には修二会とい
い、8世紀から連綿と継続されている宗教行事である。二月堂は修二会の行事用の建物
に特化した特異な空間構成をもち、17世紀の再建ながら、修二会の作法や習俗ともども、
中世の雰囲気を色濃く残している。
IMG_5781.JPG
若狭井
閼伽井屋(重要文化財) - 霊水の湧く「若狭井」の覆屋。切妻造の簡素な建物で鎌倉
時代の建立。榊と注連縄で厳重に結界されており、一般人の立ち入りはできない。
IMG_5782.JPG
IMG_5783.JPG

東大寺大仏殿へ向う
IMG_5784.JPG
IMG_5785.JPG
大阪万博古河館遺産、東大寺の七重搭の双輪
大阪万博の古川パビリオン、周囲に池を巡らした庭の中に、天平文化のシンボルといわれ
る高さ 86メートルの「七重の塔」の展示館がそびえていた。約 1200 年前、奈良・東大寺の
大仏殿前に建てられた 2 基の「七重の塔」を摸して、当時とそっくりの姿で再現したもので、
当時の人たちが塔に託した“新しい世界”への夢を、現代に置きかえようとの意味がこめら
れていた。  此の時の七重塔の双輪を移築して残して有る
この相輪部だけでも23mもある。七重塔がいかに巨大なものだったかがわかる。
IMG_5787.JPG
IMG_5788.JPG
東大寺・鏡池
東大寺は728年に聖武天皇が建立した金鐘寺を始まりとする。 741年に聖武天皇自身が
各地に国分寺の建立を命じた際、 金鐘寺を大和国分寺として金光明寺と称した。745年に
大仏をはじめ伽藍の造園が開始された時期に東大寺という名称になる。東大寺の「東塔」
と「西塔」は、764年に建立され、高さは70m以上あったと思われる。東塔」は1180年の平
氏の南都焼き打ちなどで焼失し、 1227年に再建後も、1362年に落雷で再び消失した。
「西塔」も平安時代に焼失し、現在は両塔の基壇が部分のみが残っている。
IMG_5789.JPG
IMG_5790.JPG
IMG_5791.JPG

東大寺ミュージアム
IMG_5792.JPG
IMG_5793.JPG

南大門
IMG_5794.JPG

県庁へ向かう
IMG_5795.JPG
IMG_5796.JPG
奈良公園~氷室神社
氷室神社
由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』にも散見される。
和銅3年(710年)、元明天皇の勅命により、吉城川上流の月日磐に氷神を奉祀し(下津岩
根社、厳寒に結氷させたものを氷室に蓄え、翌年に平城京へ献氷させる制度が創始され
た。翌和銅4年(711年)6月1日に初めて献氷の勅祭が興され、以降毎年4月1日より9月
30日まで平城京に氷を納めた。奈良朝7代、70年余りの間はこの制度は継続したが、平
安遷都後は廃止され、貞観2年(860年)、清和天皇の時期になって、現在の地に奉遷さ
れ、左右2神を併せ三座となった。社殿が建立されたのは建保5年(1217年)とされている。
以来、春日大社の別宮に属し、式年費用や営繕費、祭礼費などは春日社、興福寺の朱
印高2万石、および社頭所禄、三方楽所料2千石などの一部によって行われたが、明治
以降はこの制度も廃止され、氏子と冷凍氷業界の奉賛により維持される形になっている。
IMG_5797.JPG
IMG_5798.JPG

県庁前(昼食)・県庁屋上展望台
IMG_5800.JPG
IMG_5799.JPG
漢國神社(かんごうじんじゃ)・林神社(饅頭神社)
漢國神社は、奈良県奈良市にある神社である。式内小社(論社)、旧社格は県社。推古
天皇元年(593年)2月3日、勅命により大神君白堤(オオミワノキミシラツツミ)が園神を
祀ったのに始まると伝える。その後、養老元年(717年)11月28日、藤原不比等が韓神
二座を相殿として合祀したという。かつては春日率川坂岡神社あるいは園韓神社と称し
ていたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國神社」という社名になったと伝
える。貞観元年(859年)1月27日、平安京内の宮内省に当社の祭神を勧請し、皇室の
守護神としたと社伝では伝えているが、平安京の園神社・韓神社の社伝とは矛盾して
いる。治承4年(1180年)兵火にかかり炎上。文治4年(1188年)に興福寺一乗院覚昭大
僧正の奏聞により、率川・坂岡両所の造営があった。慶長年間になって、徳川家康より
法蓮村において知行田5反余りを寄付され、社殿の修理を加えた。
IMG_5801.JPG
IMG_5802.JPG
境内社の林神社(りんじんじゃ)は、日本唯一の饅頭の神社。貞和5年(1349年)に中国
から来日し、漢国神社社頭に住居して日本初となる饅頭を作ったという、饅頭の祖・林浄
因が祀られていることが名前の由来。1978年(昭和53年)に菓祖神の田道間守を合祀し、
饅頭・菓子の祖神の神社として関係業界の信仰を集める。
林浄因の命日である4月19日には、菓業界の繁栄を祈願する例祭「饅頭まつり」が行わ
れ、全国各地の菓子業者が神前に自家製の銘菓を献上するほか、一般参拝者向けにも
無料で饅頭と抹茶がふるまわれる。
また、林家から出た碩学、林宗二の著作『饅頭屋本節用集』に因み、民間印刷業の原点
として9月15日、印刷・出版業界の参列のもと節用集祭りが執り行われる。
IMG_5803.JPG
IMG_5804.JPG

JR奈良駅前観光案内所
IMG_5805.JPG
IMG_5806.JPG
湯処・あべの橋
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
    ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
IMG_5807.JPG
あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!  ほんまでっせ!
IMG_5808.JPG

居酒屋へ向かう
IMG_5809.JPG

甘太郎
IMG_5810.JPG

nice!(17)  コメント(2) 

2月16日のごきげんさん富田林ごりやくハイキング

2月21日        2月16日のごきげんさん富田林ごりやくハイキング
                 近鉄ハイキング 歩程約6㎞
此の日は、知人のM吉さん・K場さん・Y田さん・I 田さん達と5名で参加しました・・・
コースは   近鉄富田林駅(南改札前)集合してスタート
富田林駅(南改札前)~歯痛観音~清水大師堂~新堂役行者~桜井弘法井戸~
木戸山役行者~喜志駅迄の6kmコース&プラスアルファーで道明寺天満宮へ
此の日の私の万歩計は、14632歩で約8.7km歩いたことに・・・
志都美駅
IMG_5678.JPG
柏原駅で近鉄道明寺線に乗り換え
柏原駅ホームから
IMG_5679.JPG
富田林駅南改札前うスタート
歯痛観音・・・西国三十三度(行者)満願供養塔」の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
近鉄 富田林駅からほど近い、昔からある巡礼街道沿いに、祠(ほこら)に祀(まつ)られ
た宝篋印塔(ほうきょういんとう)の塔身の部分に観音像(弥勒菩薩かも知れません?)
が刻まれています。
歯が痛くて頬(ほほ)をさすっておられるようにも見えますので、「歯神(はがみ)さん」とか
「歯痛の観音さん」とか、近在の方々に慕われて呼ばれています。
はこの宝篋印塔、今から250年ほど前の、安永三年(1774)に「新堂村 酒屋忠兵衛」
さんにより、西国三十三度巡礼行者 玄教さんの満願を記念して建てられた供養塔なの
です。
塔身の観音さま(弥勒菩薩かも?)が半跏思惟(はんかし(ゆ)い)=台座に腰掛けて左
足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組み(半跏)、折り曲げた右膝頭の上に右肘
をつき、右手の指先を軽く右頰にふれて思索する(思惟)姿をされているので、どうも歯
が痛くて頬(ほほ)をさすっておれれるようにもみえますので、「歯痛の神さん」になったん
だと思います。
IMG_5680.JPG
IMG_5682.JPG

清水大師堂へ向かう
IMG_5683.JPG
IMG_5684.JPG
IMG_5685.JPG
清水大師堂
弘法大師ゆかりの井戸と伝わり、今も井戸の水がこんこんと湧いています。
富田林市には弘法大師ゆかりの井戸が5つ以上もあります。
水量豊か、枯れたことがない。いまもポリタンクで汲みに来られる方が多い。井戸と
大師堂が一緒になっています。飲用には煮沸が必要です。旧新堂村大工町の河岸
段丘崖にあります。
弘法大師が新堂本郷大工村の住人のために開発したという、石川河畔にある現役
の井戸です。大師を祭る祠堂がありきれいに祭られています。
IMG_5686.JPG
IMG_5687.JPG
IMG_5688.JPG
IMG_5689.JPG
IMG_5690.JPG
IMG_5691.JPG
新堂役行者
役行者(えんのぎょうじゃ)とは
飛鳥時代に活躍した修験道の開祖です。空を飛べたり、鬼を説教して部下にしたり。
ゆかりの地、ここ富田林では、役行者の像が案外街角や民家の横に鎮座しております。
IMG_5692.JPG

桜井弘法井戸へ向かう
IMG_5693.JPG
IMG_5694.JPG

お地蔵さん
IMG_5696.JPG

お地蔵さん
IMG_5697.JPG

防火水槽
IMG_5698.JPG
IMG_5699.JPG
IMG_5700.JPG
西徳寺
真宗佛光寺派 光照山 西徳寺
IMG_5702.JPG
IMG_5703.JPG
正受寺
真宗大谷派 正受寺
IMG_5704.JPG
IMG_5705.JPG
IMG_5706.JPG
IMG_5707.JPG

お地蔵さん
IMG_5708.JPG
IMG_5709.JPG

桜井の弘法井戸へ向かう
IMG_5710.JPG
IMG_5711.JPG
IMG_5712.JPG
神社?
美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)の鳥居だけが・・・
※美具久留御魂神社は、大阪府富田林市にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。
IMG_5713.JPG
今回は本殿へはいけなかったが次回は? 是非行って見たい・・・
※美具久留御魂神社は大阪みどりの百選に選定されている。
美具久留御魂大神(大国主命)を主祭神とし、左殿に天水分神(あめのみくまりのかみ)、
弥都波迺売命(みずはのめのみこと)、右殿に国水分神(くにのみくまりのかみ)、須勢理
比売命(すせりひめのみこと)を配祀する。左右殿に同じ神を祀る建水分神社を上水分社
と呼ぶのに対し、当社は下水分社(しものすいぶんのやしろ)とも称された。
社伝によれば、崇神天皇10年(紀元前88年)、この地にしばしば大蛇が出没したので、天
皇自ら視察して「これは大国主命の荒御魂によるものである」と言い、出雲振根に杵築大
社から生大刀・生弓矢を勘請させ大国主命の神体として祀らせたのに始まるという。崇神
天皇62年、丹波国氷上郡の氷香戸辺が神懸かりして「玉萎鎮石(たまものしずし)。出雲
人祭(いずもひとのいのりまつる)真種之甘美鏡(またねのうましかがみ)。押羽振甘美御
神(おしはふるうましみかみ)底宝御宝主(そこたからみたからぬし)。山河之水泳御魂(や
まがわのみくくるみたま)静挂甘美御神(しずかかるうましみかみ)。底宝御宝主也(そこた
からみたからぬしなり)」と宣託した。天皇は直ちに皇太子の活目入彦命(後の垂仁天皇)
を当社に遣わして祀り、「美具久留御魂(みくくるみたま)」の名を贈り、相殿に四神を配祀
したという。
朝廷から厚く崇敬を受け、嘉祥3年(850年)には従五位上の神階が授けられた。延喜式
神名帳には「河内国石川郡 美具久留御玉神社」として記載され、河内国二宮、石川郡総
社とも称された。
楠木正成は、建水分神社(上水分社)とともに当社(下水分社)を楠木氏の氏神として
崇敬し、社領の寄進や社殿造営を行った。

桜井弘法井戸・・・桜井町の町名の由来
桜井町の西側、東高野街道沿いにある櫻井という井戸を地名の由来とする。
「河内名所図会」にも記載されている弘法大師祈願の井戸。聖徳太子の伝説もあり。
江戸時代は冷たく甘味があったため、茶道の水に利用され、遠方より汲みに来たらし
いですが、今は湧いてなく飲用不可。
桜井の井戸は、『大阪府誌』は弘法大師の祈願によるものとし、『和漢三才図会』は聖徳
太子の遺跡とする。『郷土史の研究』は、古老の言として、聖徳太子が馬上にて鞭を振っ
て地面を掘ったところ清水が湧き、太子が馬に「ちやくらへ(茶食らえ)」と言ったとし、ちや
くらへ井が転じて櫻井になったという伝承を載せている。
水は極めて清く、茶を飲むにも美味であり、遠方から水を汲みに訪れる人もいたという。
『富田林市史 第一巻』が刊行された1985年当時、全く忘れさられ、水田脇の野井戸のよ
うな状態であった。現在は整備され、脇に説明板が立っている。
IMG_5714.JPG
IMG_5715.JPG

お地蔵さん
IMG_5716.JPG
明尊寺・・・浄土真宗本願寺派歸命山明尊寺
明尊寺は親鸞が叡福寺を訪れた際に一泊し、了智という坊号を授けられたという。文永
10年に建立され、文明4年より明尊寺と称する。かつては河内十二坊のひとつであった
とされる。2014年(平成26年)に元禄年間以来となる大改修が行われた。
IMG_5717.JPG

お地蔵さん
IMG_5718.JPG
IMG_5719.JPG
木戸山役行者(神変行者大菩薩)
豪快な役行者さん。石川の上流から村に流れ着いたと言い伝えられています。
それから村のお寺(極楽寺)の脇の祠に大事に祀られています。「
IMG_5721.JPG
IMG_5722.JPG

喜志駅へ向かう
IMG_5723.JPG

喜志駅
IMG_5724.JPG
喜志駅 → 道明寺駅
道明寺駅
IMG_5725.JPG
IMG_5726.JPG

道明寺天満宮へ向かう
IMG_5727.JPG
道明寺天満宮・・・境内の梅を見て梅林へは入らず
埴輪を作って殉死の風習を変えた功績で、垂仁天皇32年に野見宿禰は土師臣(はじの
おみ)の姓とこの地を与えられた。そして、その子孫である土師氏は野見宿禰の遠祖で
ある天穂日命を祀る土師神社を建立した。仏教伝来後に土師氏の氏寺である土師寺が
土師神社の南側に建立され、やがて神宮寺となった。伝承では聖徳太子の発願により
土師八島がその邸を寄進して寺としたという。この土師氏からはやがて菅原氏や大江氏
が分流していく。
平安時代、土師寺には菅原道真のおばに当たる覚寿尼が住んでおり、道真も時々この
寺を訪れている。この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。901年(延喜元年)、道真は大
宰府に左遷される途中に当社に立ち寄って、覚寿尼との別れを惜しんだ。道真遺愛の品
と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。947年(天暦元
年)には道真自刻と伝える十一面観音像を祀って土師寺を道明寺(真言宗御室派の尼
寺)と改称(道真の号である「道明」に由来)し、土師神社内に天満宮も創建された。時代
が下ると道真ゆかりの地ということで、道明寺は学問の神としての信仰を集めるようにな
っていき、土師神社も天満宮が中心となっていった。
IMG_5728.JPG
IMG_5729.JPG
IMG_5730.JPG
IMG_5731.JPG
IMG_5732.JPG
IMG_5733.JPG
IMG_5734.JPG
喜志駅迄の6kmコース、昼食を摂る間も無く終わってしまったので道明寺天満宮
へ梅でも見ながら昼食を食べる場所が無いかと行ってみたが風が冷たくて昼食は
道明寺商店街の中華料理屋で半ちゃんラーメン、食後は喫茶店でコーヒーを・・・

nice!(30)  コメント(2) 

2月11日の水神に五穀豊穣を願う砂かけ祭り

2月15日         2月11日の水神に五穀豊穣を願う砂かけ祭り
                 近鉄駅フリーハイキング 砂合戦 7㎞ 
此の日はとても寒い一日、時雨や雪にも降られつつ知人のO村さん・K場さん・M吉さ
ん・I 田さんと5名で参加、砂かけ祭りを待つ間にK地さんが写真撮影に来られてて・・
隣の町の祭りなのに、大和の奇祭の一つとして有名な「砂かけ祭り」に初めて参加出
来た事に意義有り、此の日の私の万歩計は、18345歩で約13.5km歩いたことに・・・
コース  近鉄生駒線・王寺駅(受付・スタート)
王寺駅(受付・スタート)~大和川・竜田川合流地点~沈下橋~高山二号墳~中良塚
古墳~※大塚山古墳~公園(昼食)~廣瀬大社~定林寺~水分神社~廣瀬大社・砂
合戦~春日神社~黒土沿いの果物屋~天神社~穴地蔵~近鉄田原本線・池部駅へ
志都美駅
IMG_5622.JPG
IMG_5623.JPG
王寺駅(10:53)~沈下橋へ向かう
竜田川がそそぐ大和川
IMG_5624.JPG
IMG_5625.JPG
沈下橋
奈良県内を東西に横切る「大和川」。河合町1丁目の辺りで「佐味田川」(さみだがわ)
が合流したすぐ西側に、奈良県で唯一の「沈下橋(ちんかばし)」があります。
奈良県で唯一の沈下橋『大城橋』(沈み橋・潜水橋)は、大和川に架かっています。
橋の長さは約50m。幅は約2m。もちろん車ですれ違ったりできませんので、対向車
が見えたら、かなり遠くで待つことになります
橋げたのところに出っ張りがあり、車が来たら歩行者はそこへ避けることができま
すが此れも怖い。橋げたの写真が残っていないのが残念、車がきて逃げて来た。
沈下橋とは、橋の欄干や手すりがなく、川が増水すると水面下に沈んでしまう橋のこ
とで地域によって、潜水橋、沈み橋、潜り橋など、さまざまな呼び方があるのだとか。
高知県・四万十川のものが有名ですが、数は少ないながらも、まだ全国各地に残っ
ているそうです。
IMG_5626.JPG

沈下橋~大和川上流を撮る
IMG_5630.JPG

高山二号墳
IMG_5631.JPG
IMG_5632.JPG

中良塚古墳へ向かう
IMG_5633.JPG
中良塚古墳
大塚山古墳郡に属する小規模な前方後円墳です。全長約88m、後円部径約45m、
同高6.5m、前方部幅約50m、同高6.5m、葺石・埴輪列はあったようですが墳丘は
畑に開墾されていたそうで、後円部の一部が破壊されています。埋葬施設は未調
査で不明
IMG_5634.JPG
IMG_5635.JPG
IMG_5636.JPG
IMG_5637.JPG
※大塚山古墳
墳丘:前方後円墳(全長215m、後円部径108m、高さ15.8m、前方部幅123m高さ
16.9m)3段築成で前方部を南に向ける。周囲には盾形周濠の痕跡が明確に残っ
ている。葺石及び埴輪あり。
古墳は県内の河川が集中し大和川となる平坦地の周辺に位置し河川交通の管理
権を掌握していた集団の長の墳墓とする考えが多い。墳形は後円部径が108mに
対し前方部幅が123mとかなり拡がる。標高42mの平坦地に作られた大型古墳でこ
の時期としては最大級の大きさを誇ります。見所は後円部側で32m、前方部側で4
0mある盾形の周濠跡で今も大変良好な状態で遺存しており県下の空濠のある古
墳の中では御所市の掖上鑵子塚古墳と並び屈指の美しさを誇っています。墳丘部
には東側クビレ部付近から比較的簡単に登れますが眺望はききません。しかしなが
ら200m級古墳で登れるものは意外と少ないので是非登ってその大きさを実感され
るといいでしょう。
(大塚山古墳群として大塚山古墳、中良塚古墳(高山塚1号墳)、城山古墳の3基の
前方後円墳と丸山古墳という帆立貝式古墳、高山塚2~4号墳、九僧塚古墳の円墳
や方墳で構成される。)
DSC_0310.JPG

公園で昼食・梅が咲いて
IMG_5641.JPG
廣瀬大社(ひろせたいしゃ、広瀬大社)
廣瀬大社は、奈良県北葛城郡河合町川合にある神社。式内社(名神大社)、二十二
社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は「廣瀬神社(ひろせじんじゃ、広瀬神社)」。
主祭神は、若宇加能売命(わかうかのめのみこと) 「廣瀬大忌神(ひろせおおいみのか
み)」とも。社伝では伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、伏見稲荷大社の宇加之御魂神
と同神とする。龍田大社の龍田風神とも関係があるとしている。鎮座地は、高田川と一
緒になった曽我川・大和川・飛鳥川など奈良盆地内を流れる河川のほとんどが合流す
る地点であり、このことから水神を祭る。社伝では、崇神天皇9年、広瀬の河合の里長
の廣瀬臣藤時に託宣があり、水足池と呼ばれる沼地が一夜で陸地に変化しタチバナ
が数多く生えたことが天皇に伝わり、その地に大御膳神として社殿を建てて祀ったのに
始まるとしている。龍田の風神・広瀬の水神として並び称された。『日本書紀』天武天皇
4年(675年)4月10日条には風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀ったとの記述
があり、これが4月・7月に行われる廣瀬大忌祭の起源とされている。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では大和国広瀬郡に「広瀬坐和加宇加乃売
命神社(廣瀬坐和加宇加乃売命神社) 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列すると
ともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。永保元年(1081
年)に最高位の正一位の神階を受けている。後の二十二社の一つともなった。
明治4年、官幣大社に列格した。第二次大戦以降、廣瀬大社と称するようになった。
2月11日 例祭(御田植祭)
大忌祭の御田水口祭礼に由来するもので、砂を雨に見たてた祈雨の神事である。拝殿
前の広場を田に見立てて田植えの所作を行い、それに対して参詣者と田人・牛に扮した
ひとが一斉に砂をかけあうもので、「砂かけ祭」とも呼ばれる。
IMG_5642.JPG
IMG_5643.JPG
IMG_5644.JPG
IMG_5645.JPG

まだまだ長い参道
IMG_5646.JPG

テレビ局が宮司さんにインタビュー中?
IMG_5647.JPG

日露戦争の戦利品
IMG_5649.JPG

境内への大鳥居
IMG_5650.JPG

午前の砂合戦が終わって抽選会が
IMG_5651.JPG
IMG_5652.JPG
IMG_5653.JPG
IMG_5654.JPG
午後の砂合戦までは未だ時間が有るので近隣のお寺へ向かう
定林寺・涅槃図公開
「定林寺」では、涅槃図の特別公開をしていました。
こちらには市場総代の保有となっている4体の仏像(3体は平安時代、不動明王像のみ室
町時代)が安置されています。、内部には多くの仏像が安置されています。そのうちの4体
が平成9年3月26日に町指定文化財に指定されました。
廣瀬神社の3つの神宮寺のうちの一つで、現在の定林寺は廣瀬神社の西側、城山古墳の
北側にあります。廣瀬神社に伝わる古絵図には宮堂遺跡の位置に、聖徳太子が建立した
大伽藍の寺として描かれています。現在の定林寺は江戸時代の建物ですが、河合町に残
る最古級の仏像が、安置されています。
IMG_5656.JPG
IMG_5657.JPG
廣瀬大社
摂社・水分神社(水分神)
IMG_5655.JPG
IMG_5658.JPG
IMG_5659.JPG

戻って来て砂かけ祭り待ち
IMG_5662.JPG
IMG_5663.JPG
IMG_5660.JPG
IMG_5661.JPG
廣瀬大社・砂かけ祭りに突入・・・
2月11日 例祭(御田植祭)
大忌祭の御田水口祭礼に由来するもので、砂を雨に見たてた祈雨の神事である。拝殿
前の広場を田に見立てて田植えの所作を行い、それに対して参詣者と田人・牛に扮した
ひとが一斉に砂をかけあうもので、「砂かけ祭」とも呼ばれる。
IMG_5665.JPG
IMG_5666.JPG

砂かけられるのが嫌で逃げる
IMG_5667.JPG

春日神社へ向かう
IMG_5668.JPG
IMG_5669.JPG

春日神社
IMG_5670.JPG
IMG_5671.JPG
IMG_5672.JPG
国道沿いの果物やで買い物して天神社、穴地蔵、池部駅へ向う
天神社(池部)
木立の中の参道を50mほど進むと、瓦葺の拝殿があり、本殿は中庭の奥に土塀で囲ま
れ、春日造り桧皮葺です。江戸時代には天満宮と呼ばれていたようです。祭神は国常立
命(クニトコタチノミコト)。
IMG_5675.JPG
穴地蔵
天神社の隣の穴地蔵は、以前は100mほど北にありました。石屋形の中には、江戸時
代の作と思われる地蔵など小石仏6体が安置されています。
IMG_5676.JPG

田原本線・池部駅
IMG_5677.JPG

nice!(42)  コメント(2) 

2月9日の酒蔵みてある記 長龍酒造「長龍」-2

2月14日          2月9日の酒蔵みてある記 長龍酒造「長龍」-2
                  近鉄駅フリーハイキング 6㎞
此の日は知人のY田さん・M吉さん・O村さん・I 田さんと5名でコースを大半飛ばして酒
蔵へ何とか時間内に辿り着きました。此の日の私の万歩計は22775歩で約16.8kmに・・
コース   昼飯を食べる時間も取れず駆け足で酒蔵へ向かうという強硬軍となった
五位堂駅(北口ロータリー11時迄)~牧野古墳~三吉石塚古墳~新木山古墳~竹取公
園~馬見丘陵公園・ナガレ山古墳・北エリア~長龍酒造・長龍・試飲・甘酒・抽選会・解散
~箸尾駅への予定が酒蔵が10時半~12時半と指定されておりコースを辿れなかった・・・
五位堂駅(北口ロータリー11時迄)~牧野古墳~直接竹取り公園へ入り三吉石塚古墳~
新木山古墳をパスして~馬見丘陵公園・梅林を通り、北エリアをパスして直接長龍酒造へ
向かいなんとか12時20分に到着、試飲・甘酒振舞い・抽選会・解散の後で馬見丘陵公園
北エリアへ行き昼食、北エリア~平城宮遷都1300年ロードを通り池部駅へ、池部駅で皆
さんと別れて1人で昔よく歩いた散歩コースの川合町を歩いて40分かけて帰りました。
志都美駅
IMG_5568.JPG
香芝駅~近鉄下田駅へ乗り換え
鹿島神社・・・平安末期の勧請伝承を持つ由緒ある鹿島神社。
河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母
が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。平治の乱で平清盛
に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく東国へ向かった。道中落武者狩り
に遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致
は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに
裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治
二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着
いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に
源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現
れてこう告げた。 「庚子の年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。長い年月が過ぎた。時に承安二
年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝
目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地
こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主と
して長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、
源氏の世が到来する。又、香芝市の市名由来は間接的に鹿島神社とされている。
IMG_5570.JPG
IMG_5571.JPG

近鉄下田駅
IMG_5572.JPG
五位堂駅(北口ロータリー11時迄)
かつらぎの道を牧野古墳へ向かう

かつらぎの道
五位堂駅北側から住宅地の中央に約2kmにわたって続く歩行者・自転車専用道。
途中大型ショッピングセンターのエコール・マミや畿央大学横などを通り、利便性抜
群。北詰めから東へ向かうと馬見丘陵公園も近く、ハイキングコースとしても手頃。
IMG_5573.JPG
牧野古墳
牧野古墳(ばくやこふん)は、奈良県北葛城郡広陵町に所在する古墳時代後期の
円墳である。1957年に国の史跡に指定されている。
本古墳は、奈良盆地の西側に拡がる馬見丘陵の尾根先端部に位置し、馬見古墳群の
中央群に属する。築造は石室や石棺、出土遺物から6世紀末と見られている。この頃か
ら7世紀初頭にかけて、列島各地で大王墓や首長墓として造り続けられてきた前方後円
墳が築造されなくなる。代わって採用されたのは方墳や円墳でる。このことは前方後円
墳祭祀が終焉を迎えたことを示しており、古墳の形態で力を誇示する時代[ではなくなっ
た。埋葬施設は墳丘の中ほどに造られており、南面に開口した両袖式の全長17.1mの
横穴式石室である。この石室は巨石を積んでおり、明日香村の石舞台古墳に次ぐ規模
である。本古墳は、この時期では墳丘規模が最大級であることから、被葬者は大王に
近い支配者層の墓と考えられ、敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子であると推定されて
いる。
IMG_5575.JPG
IMG_5574.JPG

※三吉石塚古墳~新木山古墳をパス
新木山古墳(全長200m、陵墓参考地)の外提西側付近に作られた帆立貝式古墳。
周囲に馬蹄型の周濠が巡っている。後円部は2段に作られ、1段目には円筒埴輪列
に朝顔形埴輪を置いた列が巡り、墳頂には蓋(きぬがさ)、短甲、家などの形象埴輪
が置かれていた。 (復元されているのは円筒、朝顔形のみ)
墳丘と周濠内側に10~30cmの葺石が施されており、後円部では葺石が一列に並
べられている箇所があり、作業単位を示す基準であったと考えられる。後円部の葺
石は二上山麓の輝石安山岩が、前方部の葺石は当麻町西に分布する黒雲母花崗
岩が使われている。 前方部南東隅には他に例を見ない張り出し部が設けられ、外
提部に埴輪列が巡り、周濠部の幅も極端に狭いことから、墓道として作られたと考え
られる。埋葬施設は未調査であるが、5世紀後半の築造と考えられる。

直接竹取り公園へ入り
竹取公園
奈良県北葛城郡広陵町にある入園無料の公園施設です。 公園内には散策 路や木
製の大型遊具、そり遊びのできる施設もあり、小さなお子様連れの方からお 年寄り
まで楽しくすごせる公園です。
IMG_5577.JPG
IMG_5578.JPG
馬見丘陵公園・梅林を通り公園外へ
北エリアをパスして直接長龍酒造へ向かう
馬見丘陵公園
県営馬見丘陵公園は、広陵町と河合町の両町にまたがる、わが国でも有数の古墳群
と 、良好な自然環境が残された地域にあります。 この歴史と文化の遺産やすばらしい
自然 環境を、県民の憩いの空間として、奈良公園に次いで県下2番目 の広域公園と
して広く活用してもらうことを目的に整備されました。
梅林
梅林の梅もそこそこに
IMG_5579.JPG
IMG_5580.JPG

公道へ出て直接酒蔵へ向かう
IMG_5581.JPG
IMG_5582.JPG
IMG_5584.JPG
なんとか12時20分に到着
長龍酒造到着大勢の人が列を作って
長龍酒造
昇道無窮極(しょうどうむきゅうきょく)この言葉を胸に日々精進しています。
社名 長龍酒造株式会社  創業 1923年(大正12年)
1923年 飯田弟一、生家の飯田酒造場(1868年創業 現在の奈良県天理市㈱飯田
本店)より独立し、八尾に酒の小売店開業。間口二間の店に店員一人、生家の清酒
「長龍」120本を元手とする。
1941年 戦時体制により酒類販売を中断。飯田木工株式会社設立。 樽・木製ドラム・
バケツ等の製造販売を行う。
1963年 長龍酒造株式会社設立。八尾工場を竣工して共同びん詰場の免許を取得、
原酒の貯蔵と「長龍」のびん詰作業を始める。
1964年 画期的新商品、樽酒のびん詰「吉野杉の樽酒」の開発に成功。 「吉野杉の
樽酒」の販路を全国に拡げる。1968年 「慶雲長龍」発売
1971年 長龍酒造株式会社第二貯蔵庫竣工。炎暑の夏も高品質を保つ完璧な温度
管理を実現。 1979年 広陵酒造株式会社 設立 広陵蔵で醸造開始
試飲・甘酒振舞い・抽選会
IMG_5588.JPG
IMG_5591.JPG
IMG_5592.JPG
IMG_5593.JPG
IMG_5594.JPG
此処までは、
2月9日の酒蔵みてある記 長龍酒造「長龍」-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-02-14
此処では、続きの試飲・甘酒振舞い・抽選会・解散の後で
馬見丘陵公園北エリアへ向かう~ についての詳細を掲載します。
IMG_5598.JPG
IMG_5599.JPG
馬見丘陵公園北エリアへ行き昼食
北エリア~平城遷都1300年の道を通り池部駅へ
(710年~2009年の歴史的な出来事を年表にして道路上にマッピングされている)
IMG_5600.JPG
IMG_5601.JPG
IMG_5602.JPG
IMG_5603.JPG
IMG_5604.JPG
IMG_5605.JPG
IMG_5606.JPG
河合町役場庭園(旧豆山荘)
河合町役場の庭園は、大正末年、大和鉄道建設の森本千吉氏が、馬見丘陵の大
自然を取り入れ、広大な邸宅と庭園を構築されました。そして「豆山荘」と名づけら
れたことに始まります。
森本氏が逝去された後は、財界の第一人者、新庄町(現 葛城市)出身の吉川京松
氏が譲り受け、豆山荘の維持保存に努められました。
吉川氏は河合村役場を豆山荘に移転したいという当時村長の木下氏からの要望に
応え、昭和23年、豆山荘を河合村に譲られました。
その後、河合町発足とともにここに庁舎を新築し、現在に至ります。馬見丘陵の自然
を生かして造られているため、ここに繁茂する樹木のほとんどは馬見丘陵に自生す
る自然木です。
由緒あるこの庭園を憩いの空間として、ぜひ足を運んでください。庭園は近鉄池部駅
すぐの役場入口左にあり、役場休業日も自由に散策することができます。
IMG_5607.JPG
IMG_5608.JPG
IMG_5609.JPG

池部駅
IMG_5610.JPG
池部駅で皆さんと別れて1人で
昔よく歩いた散歩コースの川合町を歩いて40分かけて帰りました。
IMG_5611.JPG
IMG_5612.JPG
IMG_5613.JPG
IMG_5614.JPG
IMG_5615.JPG
IMG_5616.JPG
IMG_5617.JPG
IMG_5618.JPG
IMG_5619.JPG

河合町とお別れして
IMG_5621.JPG

nice!(22)  コメント(2) 

2月7日の馬見丘陵公園の梅林

2月14日         2月7日の馬見丘陵公園の梅林
                   家内と梅林散策
2月9日に予定されている五位堂駅~の酒蔵みてある記で馬見丘陵公園を通る事に
なっているのでナガレ山古墳側を通るか?梅林側を通るのが良いのか?梅林の咲き
具合を確認に行ってみた、1月19日に一度行ってみてもう満開かと思いきや未だ未だ
梅林全体には咲き広がってはいなかったが、ナガレ山古墳側を通るより此方が良い・・
梅林
IMG_5544.JPG
IMG_5545.JPG
IMG_5547.JPG
IMG_5548.JPG
IMG_5549.JPG
IMG_5550.JPG
IMG_5551.JPG
IMG_5552.JPG
IMG_5553.JPG
IMG_5554.JPG
IMG_5555.JPG
IMG_5556.JPG
IMG_5557.JPG
IMG_5558.JPG
IMG_5559.JPG
IMG_5560.JPG
IMG_5561.JPG
IMG_5562.JPG
墳観橋に上って
梅林を撮る、天気が良けりゃもっと綺麗な梅が散れただろうに・・・
IMG_5565.JPG
墳観橋から
巣山古墳と前丘を撮る
IMG_5563.JPG
IMG_5564.JPG
墳観橋から
倉塚古墳&倉塚古墳と一本松古墳を撮る
IMG_5566.JPG
IMG_5567.JPG
nice!(12)  コメント(2) 

2月5日の唐古・鍵遺跡史跡公園&桃太郎伝説発祥地-2

2月13日       2月5日の唐古・鍵遺跡史跡公園&桃太郎伝説発祥地-2
                  歩こう会特別企画 歩程約9㎞
今年2回目の歩こう会は、歩こう会特別企画で田原本町の史跡巡り、2018年4月リニューアル
オープンした弥生時代の遺跡として有名な、唐古・鍵遺跡史跡公園と道の駅「レスティ唐古・鍵」
や1月の孝霊天皇陵繋がりで桃太郎伝説発祥地の孝霊神社(廬戸神社)や法楽寺(孝霊天皇黒
田廬戸宮跡に建立)を巡る。此の日の私の万歩計は、25635歩で約飽く18.9km歩いたことに
コースは  孝霊神社境内に10時集合     参加者50名(新入会員1名含む)でスタート
黒田駅~徒歩3分~孝霊神社(集合・スタート)~法楽寺~黒田大塚古墳(トイレ休憩)~鍵の蛇
巻~唐古・鍵遺跡史跡公園(トイレ休憩&集合写真撮影)~池坐神社・千万院~ながめの丘・展
望台(昼食休憩)~唐古・鍵遺跡史跡公園・遺構展示館(解散)~道の駅「レスティ唐古・鍵」~石
見駅へ案内して無事終了した、天気にも恵まれて楽しいハイキングだった。
志都美駅
IMG_5473.JPG
王寺駅~新王寺駅
雪丸像
IMG_5474.JPG
IMG_5475.JPG

近鉄田原本線・黒田駅
IMG_5476.JPG
IMG_5477.JPG
孝霊神社(集合・スタート)
孝霊神社(廬戸神社)
IMG_5478.JPG
IMG_5479.JPG
IMG_5481.JPG

法楽寺へ向かう
IMG_5483.JPG

法楽寺、境内の梅がチラホラ・・・
IMG_5485.JPG
IMG_5486.JPG

黒田大塚古墳(トイレ休憩)
IMG_5487.JPG
IMG_5490.JPG
鍵の蛇巻~
唐古・鍵遺跡史跡公園(トイレ休憩&集合写真撮影)
IMG_5491.JPG

池坐神社・千万院へ向かう
IMG_5495.JPG
IMG_5496.JPG

池坐神社、此処も梅が・・・
延喜式神名帳に、『大和国城下郡 池坐朝霧黄幡比売神社 大 月次相嘗新嘗』とある
式内社。社名は“イケニマス アサキリ キハタヒメ”と読むが、神名帳古写本の一部(九条
家本・金剛寺本)には“横幡比売”とあり、“ヨコハタヒメ”と読ませている。社頭の鳥居神額
には「池坐神社」とある。近鉄橿原線・田原本駅の北東約2km、駅東の国道24号線・鍵
交差点から東へ約1km行った北側、初瀬川(大和川)左岸に鎮座する。
延喜式神明帳に『池坐朝霧黄幡比売神社 大月次相嘗新嘗』と見える。社名祭神名の
示す如く機織(幡)の神であって、推古帝24年(615)聖徳太子草創の法喜寺伽藍を賜っ
た秦氏が、その祖神守り神として崇敬した古社である。また法貴寺記録によれば、天慶
9年(946)9月19日に北野天満宮より菅原道真公を勧請した由がみえる。
古来、法貴寺天神又は天満宮として遍く知られており、法喜寺(長谷川氏の氏寺)の鎮
守神として信仰をあつめていた」とある。
これによれば、当社は古代の豪族・秦氏が7世記初頭の頃、氏寺・法貴寺(法起寺とも
いう)とともに創建したともとれるが、それを証する史料はない。
IMG_5499.JPG
IMG_5500.JPG
IMG_5501.JPG
千万院
明治初年廃寺となった法貴寺の塔頭である。法貴寺はもと法起寺とも表記し、聖徳太子
の開いた寺院と伝える。法貴寺本坊実相院の縁起に依れば第33代崇神天皇の御代 新
羅王から贈られた薬師三尊像を法起寺に安置したという。この薬師如来像は特に霊験あ
らたかであるとし、容易に拝むことができぬよう秦河勝に命じたという。
法起寺の名は仏法を起こすの意である。古くは実相院、角之院、池之坊、弥陀院、公文坊、
千万院、長栄坊、宝蔵坊など13の支院を持つ大寺であった。山門と鐘楼。平安時代の不
動明王立像、室町時代の薬師如来坐像、鎌倉時代の薬師如来坐像、南北朝時代の聖徳
太子、室町時代の観音菩薩立像などを有する。法貴寺不動明王立像は高さ約79cm、
時期は平安期のもので国指定重要文化財。
IMG_5503.JPG
IMG_5504.JPG
此処までは、
2月5日の唐古・鍵遺跡史跡公園&桃太郎伝説発祥地-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
       https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-02-12
此処では、続きのながめの丘へ向かう~ の詳細を掲載致します。
ながめの丘へ向う
IMG_5507.JPG
IMG_5508.JPG
IMG_5509.JPG
ながめの丘・展望台(昼食休憩)
展望台があり、唐古・鍵遺跡の楼閣や、大和川及び大和平野を取り巻く山並みが
一望できる初瀬川(大和川)沿いにある公園。
IMG_5519.JPG
IMG_5521.JPG

展望台から
IMG_5522.JPG
IMG_5523.JPG
IMG_5524.JPG
IMG_5525.JPG
展望台を後に
唐古池へ向かう
IMG_5526.JPG
IMG_5527.JPG
唐古池と楼閣
遺跡で発見された土器に描かれていた建物「楼閣」を、江戸時代に築造された農業用
溜池の南西隅に復元。遺跡の、また町のシンボルタワーとなっています。
IMG_5528.JPG
唐古・鍵遺跡史跡公園・遺構展示館(解散)
国史跡の指定を受けた唐古・鍵遺跡では、地下の遺構を恒久的に保存するとともに、史
跡公園として活用を図るため、平成21年度からは本格的な工事に着手し、平成30年4月
17日にオープンしました。
この公園は、弥生時代の遺跡という特色を生かし、周囲の田園風景を含めた弥生時代
の「風景」の再現と、かつてこの場で行われていたであろう「生活」を追体験できる場とな
ることを目指しています。
IMG_5529.JPG
IMG_5530.JPG
IMG_5531.JPG
IMG_5532.JPG
道の駅「レスティ唐古・鍵」・・・奈良交通HPより
平成30年4月20日(金)にオープンした田原本町道の駅「レスティ唐古・鍵」は、さまざま
なイベントの開催とともに、田原本町内の新鮮な野菜、果物、花をはじめ地元や県下の
特産品を多数販売します。また、1階のベーカリーでは「黄金の生食パン極」を製造直売
するとともに、各種ジェラートを販売し、2階のカフェではバラエティー豊かな12種類の
「オリジナルドッグサンド」をメインに、ドリンクメニューや軽食メニューをご用意いたします。
IMG_5533.JPG
石見駅へ
石見駅~田原本駅・西田原本駅~新王寺駅・王寺駅~信貴山下駅
信貴山下駅前
IMG_5534.JPG

大和川を王寺へ渡る
IMG_5535.JPG

信貴山
IMG_5536.JPG
久度神社・・・王寺町HPより
久度の氏神で、誉田別命・天児屋根命・底筒男命・久度神を祀っています。『続日本紀』
の延暦2年(783)12月の記事に「大和国平群郡久度神」と見えることから、すでにこのこ
ろからあった神社であることがわかります。久度神は、「久度」という言葉が竈を意味する
クドに通じるため竈神ともいわれ、平安京に遷都するさいに現京都市北区の平野神社に
遷されたと考えられています。境内には南北朝時代の暦応元年(1338)12月に奉納され
た石灯籠があり、文明8年(1476)8月の箱書をもつ春日曼荼羅が奈良国立博物館に寄託
されています。
IMG_5537.JPG
IMG_5538.JPG
IMG_5541.JPG
IMG_5539.JPG
IMG_5540.JPG

王寺の銭湯・さくら湯
IMG_5542.JPG
王寺駅へ向かう
王寺町マンホール蓋
IMG_5543.JPG

nice!(14)  コメント(2) 

2月3日の酒蔵みてある記、久保本家酒造「初霞」-2

2月8日      2月3日の酒蔵みてある記、久保本家酒造「初霞」-2
               近鉄ハイキング 歩程約8km 
此の日は知人のK場さん・M吉さんと3名で近鉄酒蔵みてある記ハイキング久保本家酒造
に参加、久保本家酒造へは中々タイミングが合わず今回が初めての参加となった・・・
道の駅からの帰りはバス、此の日の私の万歩計は、19995歩で約14.7kmあるいたことに。
コースは
榛原駅(南出口階段下)~宇田川沿い篠楽河川公園~平尾水分神社鳥居~うだアニマル
パーク~宇陀松山地区~慶恩寺~松山西口関門(黒門)~恵比寿神社~春日神社~久
保本家酒造・試飲・甘酒ふるまい~道の駅宇陀路大宇陀~榛原駅迄奈良交通バス利用
志都美駅
IMG_5407.JPG

近鉄桜井駅ホーム
IMG_5408.JPG

榛原駅(南出口階段下)~宇田川沿いを歩く
IMG_5410.JPG
IMG_5412.JPG
IMG_5413.JPG
篠楽河川公園
猟路の桜(かりじのさくら)
飛鳥藤原京の古、宮廷遊猟の地であった宇陀の山野。古典的に由緒あるこの地を後世
に伝えんと記念の桜を植樹し、「猟路の桜」と名づけられたいうのが所以の桜並木。
IMG_5416.JPG
IMG_5417.JPG

宇田川沿いを歩く
IMG_5418.JPG
IMG_5419.JPG
IMG_5420.JPG
IMG_5422.JPG
IMG_5424.JPG
IMG_5425.JPG
平尾水分神社の朱い鳥居
宇陀には、このほか宇太水分神社(下社) 宇太水分神社(中社) 惣社宇太水分神社(上社)
とあります。
平尾水分神社は江戸期に宇陀水分神社より水分神を勧請して祀られた末社。毎年1月1
8日、本殿石段前に設けた板張り舞台で、五穀豊穣を祈る予祝の神事としてオンダが行
われます。
午後7時ころ、神職(墨坂神社宮司)と氏子代表らにより本殿前で厳かに神事が行われま
す。次いで社務所で関係者のお祝いの宴(直会)が開かれたあと、「ショトメ(早乙女/初
乙女)」と呼ばれる子供5人が1人ずつおんぶ、あるいは抱っこされて舞台に上がります。
早乙女役を子供が演じるのは珍しく、最近は男児不足から女の子も加わるようになったそ
うです。
IMG_5428.JPG
※宇太水分神社
宇太水分神社(うだみくまりじんじゃ)は、奈良県宇陀市菟田野古市場にある神社。大和の
東西南北に祀られた四水分神社のうち東に当たるのが当社とされる(他の3つは都祁水分
神社、葛木水分神社、吉野水分神社)。宇陀地域には他に2つの水分神社があり、宇陀市
榛原下井足(はいばらしもいだに)の宇太水分神社を「下社」、同市菟田野上芳野(うたの
かみほうの)の惣社水分神社を「上社」、本項で解説する同市菟田野古市場の神社を「中
社」とも称する。古市場の由緒によると、創立は崇神天皇の時代で、2003年の社殿の塗り
替えの時にわずかに残された色彩が発見されそれを元に復元された。

宇田川沿いを歩く
IMG_5429.JPG
IMG_5430.JPG
IMG_5431.JPG
カザグルマ自生地「宇陀市大宇陀小附」
カザグルマ草
キンポウゲ科の蔓性植物で、自生地の北限として昭和23年に天然記念物指定。 薄紫
色で八弁の大型で優美な花を咲かせ、甘い香りを漂わせる。
現在、国が保護増殖事業に着手し、保存地域内には入ることができない。 外柵からの見
学となり、なかなか確認し難い。
IMG_5432.JPG
宇陀アニマルパーク
宇陀市大宇陀の県畜産技術センターでは60年以上にわたり、牛・豚・鶏などの試験研究
を行い、様々な成果を上げてきておりますが、平成13年4月に大家畜(牛)部門が宇陀郡
御杖村の「みつえ高原牧場」に移転したことによる敷地の有効活用として、動物とのふれ
あいを通して次代を担う子どもたちの健全な育成を目指すとともに、県内外のみなさんに
レクリェーションの場を提供し、社会全体の発展に寄与することを目指し、うだ・アニマル
パークを設置することにしました。
うだ・アニマルパークは、人と動物とのふれあいを通して、動物を学び、動物から学び、そ
して動物のために学ぶ「いのちの教育」を行い、広く県民に動物全般に対する理解を促
進するとともに動物に対する愛護の思想について、普及啓発を図り豊かな社会づくりに
寄与することを目的とした施設です。
IMG_5433.JPG
IMG_5435.JPG
IMG_5437.JPG
IMG_5438.JPG
此処までは、
2月3日の酒蔵みてある記、久保本家酒造「初霞」-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
         https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-02-08
此処では、続きの宇陀松山地区~ についての詳細を掲載します。
宇陀松山地区
松山(まつやま)は奈良県宇陀市大宇陀地域にある広域地名である。旧宇陀郡松山町。
宇陀松山とも呼ばれる。江戸時代、宇陀松山藩の陣屋町として栄え、現在もその風情を
残しており、一部が国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
宇陀松山城の西側の地区は古代は阿騎野と呼ばれた宮廷の狩猟場であった。現在の
街区は戦国時代に国人領主秋山氏により築かれた秋山城の城下町を起源とし、その
後豊臣秀長配下の大名により現在の町並みの原型が形成され、地名が阿貴町から松
山町に改められたとされる。関ヶ原の戦以降は織田信雄以後4代の支配を経て1694年
からは江戸幕府の天領となり、商業地として栄え、明治時代になっても宇陀郡役所や
裁判所がおかれるなど地域の中心として発展し、昭和40年代まで賑わったという歴史
をもつ。当時、近世初頭の敷地割と江戸時代から明治時代の商家が数多く残る中心街
は、宇陀市の都市計画によって定められた伝統的建造物群保存地区であり、宇陀松山
伝統的建造物群保存地区の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定され
ている。

慶恩寺
松谷山菩提院慶恩寺。開山は持統天皇九年に吾城行宮を賜って堂宇としたことに
始まる。その後文治2年に奈良の大仏殿再興にあたり、伽藍指図5分の1の試みと
して建立された。鐘楼には無銘であるが古い梵鐘が懸かる。
IMG_5439.JPG
IMG_5440.JPG
IMG_5441.JPG
IMG_5442.JPG
松山西口関門(黒門)
福島掃部孝治が城下町への出入口として今から400年前に建築したもので、昭和
6年に国の史跡に指定された。宇陀川から春日社にぬける道に位置し、付近には
枡形がある。町の人には「黒門」と呼ばれ親しまれている。
IMG_5444.JPG
IMG_5445.JPG
恵比寿神社
愛宕神社、恵毘須神社、愛宕寺の神仏混合社。愛宕神社は、城下町の火災防止の
ため、松山城主織田長頼が勧請奉祀させたといわれる。恵毘寿神社は町内の茶町
から移され、江戸以来毎年2月8日には初えびすが行われる。
IMG_5446.JPG

秋山城跡・春日神社へ向う
IMG_5447.JPG
秋山城跡・春日神社
秋山城跡のみで城址へは登らなかったが・・・
宇陀松山城は、南北朝時代から宇陀に勢力をもつ秋山氏の本城であったが、天正
13年に豊臣家大名の居城となり、城下町が整備された。最後の城主福島氏が元
和元年に改易され、平成7年からは発掘調査が行われている。平成18年、国史跡
に指定された。
春日神社
祭神、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比び大神。本殿、拝殿、神饌所、門、社務
所の施設が整い、石造灯籠新古を交え35基を奉建している。当社の旧祠宮と伝え
る佐々岡家には祭礼記など数通の古文書を蔵している。
IMG_5448.JPG
IMG_5449.JPG

近世初頭の敷地割と江戸時代から明治時代の商家が数多く残ってる。
IMG_5450.JPG
IMG_5451.JPG
IMG_5452.JPG
和菓子屋「松月堂」のきみごろも
きみごろもは奈良県宇陀市の銘菓である。
卵白を泡立てたメレンゲに砂糖・蜂蜜・寒天を加えて型に入れて固め、サイコロ状
に切ったのち、卵黄で衣をまぶして焼き色をつけたもの。奈良県宇陀市の和菓子
屋「松月堂」の初代が考案し、現在では宇陀市内の複数の和菓子屋で製造・販売
されている。宇陀市以外では、奈良市の「近鉄百貨店奈良店」(毎週水曜日、松月
堂のきみごろもを販売)や東京都中央区の「奈良まほろば館」(週に1度、松月堂の
きみごろもを入荷)にて購入することが可能。柔らかく、ふんわりとした食感が特徴
で、和菓子とも洋菓子ともつかない不思議な味わいを持つ銘菓である。
IMG_5453.JPG

久保本家酒造へ向かう
IMG_5454.JPG
IMG_5455.JPG

陶灯?
IMG_5456.JPG
IMG_5457.JPG
IMG_5458.JPG
IMG_5459.JPG
久保本家酒造
久保本家酒造のある大宇陀は『万葉集』の歌人にも愛された風光明媚なところとして
も知られております。ここは飛鳥の都からも近く、『古事記』や『日本書紀』の神話にも
登場する日本発祥の地であります。また中世には織田信長の子孫が所領する城下町
でもありました。その後近世の頃にも熊野古道や伊勢街道につながる宿場町として人
や物が行き交いとても賑わっておりました。
このころ初代久保勘兵衛が吉野の奥山より出でて、江戸元禄時代に現在の場所で酒
造りを始めました。大宇陀という当時の先進の地で一旗揚げてやろうという志があった
のだと思います。それ以来久保家は300年余り酒造を続けてまいりました。
IMG_5460.JPG
IMG_5461.JPG
IMG_5462.JPG
IMG_5463.JPG
IMG_5464.JPG
IMG_5469.JPG
IMG_5465.JPG
IMG_5466.JPG

販売所へ
IMG_5467.JPG
IMG_5468.JPG
IMG_5470.JPG
道の駅「宇陀路大宇陀」→榛原駅→五位堂駅
五位堂駅
IMG_5472.JPG
IMG_5471.JPG

nice!(16)  コメント(2) 

2月2日の酒蔵みてある記、奈良豊澤酒造「豊祝」

2月5日        2月2日の酒蔵みてある記、奈良豊澤酒造「豊祝」
               近鉄ハイキング 歩程約10㎞
此の日は、知人のY田さん・K場さん・I 田さん・M吉さん・O村さんと6名で酒蔵みてある記
に参加、南都参加者が2144名と大変多くの人で賑わってて酒蔵で試飲も大変な混み合い、
受付での人の多さ、此の日の私の万歩計は、21915歩で約16.2km歩いたことに・・・
コースは 平城宮跡資料館前受付 10時半
大和西大寺駅(北改札)~徒歩15分~平城宮跡資料館前(受付・スタート)~平城宮跡・大
極殿・朱雀門~左京三条二坊宮跡庭園~大安寺~八幡神社~大安寺搭跡広場(昼食)~
奈良豊澤酒造・豊祝試飲・甘酒ふるまい・ワンカップ豊祝お土産(解散)~帯解駅Or上三橋
バス停
Y田さん・I 田さん・O村さんの3名は上三橋のバス停へ、K場さん・M吉さんと私は帯解駅
へ別れて帰りました。私は1452番、6名共くじ運は無く抽選には外れて・・・
志都美駅
IMG_5369.JPG
大和西大寺駅(北改札)~徒歩15分
平城宮跡資料館前(受付・スタート)
一度は見て見たいものです。入館無料。奈良文化財研究所によるこれまでの発掘調査・
研究の成果をもとに、土器や瓦、木簡をはじめ、建物模型や航空写真、発掘のジオラマ
模型などで平城宮を分かりやすく展示しています。
又、奈良文化財研究所 平城宮跡資料館の展示をインターネット上のGoogleストリート
ビューで見ることができるようになっています。
IMG_5370.JPG
平城宮跡・大極殿
今回は遠目に見るだけのコースでした。
IMG_5371.JPG

朱雀門へ向かう
IMG_5372.JPG
IMG_5373.JPG
IMG_5374.JPG
IMG_5375.JPG
平城宮跡・朱雀門
朱雀門を通り抜けて、平城京左京三条二坊宮跡庭園へ
IMG_5376.JPG
IMG_5377.JPG
左京三条二坊宮跡庭園
平城京左京三条二坊宮跡庭園
(へいじょうきょうさきょうさんじょうにぼうみやあとていえん)
昭和50年の発掘調査により発見された、園池を中心とする奈良時代の庭園遺跡です。
日本古代の庭園の姿を伝える数少ない庭園であることから、国の特別史跡・特別名勝
に指定されています。
IMG_5379.JPG
IMG_5380.JPG
IMG_5381.JPG
IMG_5382.JPG
IMG_5383.JPG

警察署の跡地?
IMG_5384.JPG

佐保川堤防を歩く
IMG_5385.JPG
IMG_5386.JPG
IMG_5387.JPG
IMG_5388.JPG

大安寺へ向かう
IMG_5389.JPG
大安寺(だいあんじ)
大安寺は、奈良市中心部にある高野山真言宗の仏教寺院。本尊は十一面観音。開基
(創立者)は聖徳太子と伝える。南都七大寺の1つで、奈良時代(平城京)から平安時代
前半までは、東大寺や興福寺と並ぶ大寺であった。
縁起によれば、聖徳太子の建てた「熊凝精舎」(くまごりしょうじゃ、「熊凝道場」とも)が
官寺となり、その後に移転や改称を繰り返したとされる。平城京に移って大安寺を称し
た時の伽藍は東大寺、興福寺と並んで壮大であり、東西に2基の七重塔が立ち(七重
塔を持つ南都七大寺は他には東大寺のみ)、「南大寺」の別名があった。この時代、東
大寺大仏開眼の導師を務めたインド僧・菩提僊那をはじめとする歴史上著名な僧が在
籍し、日本仏教史上重要な役割を果たしてきた。
平安時代以後は徐々に衰退し、寛仁元年(1017年)の火災で主要堂塔を焼失して以後
は、かつての隆盛を回復することはなかった。現存する大安寺の堂宇はいずれも近世
末〜近代の再建であり、規模も著しく縮小している。奈良時代にさかのぼる遺品として
は、8世紀末頃の制作と思われる木彫仏9体が残るのみである。
現代は癌封じなどに利益(りやく)がある寺と自らを位置付けている。参拝者が、竹筒に
入れて温めた日本酒を飲んで健康を祈る「笹酒祭り」は、奈良時代末期の光仁天皇の
故事にちなむと伝承されている。    
IMG_5390.JPG
IMG_5391.JPG
IMG_5392.JPG
IMG_5393.JPG
IMG_5394.JPG

八幡神社
元石清水八幡宮は、807年(大同2年)8月17日 奈良 南都七大寺の一つである大安寺の
鎮守として建立されました。
最澄・空海も修行したと記録される大安寺の僧 行教和尚が遣唐使としての帰途、大分県
宇佐神宮の第一祭神 八幡大神(応神天皇)からのお告げで、宇佐神宮より南部大安寺本
房第七院石清水房に勧請いたしました。
ほんの一時期を経て、八幡大神は平城天皇の勅命により 現在の位置に祀られたと言われ
ておりますが、その際、手を洗うための水がなかったため、行教和尚が松林の中の磐座を
法具で叩いたところ、美しい清水が湧き出し 池を作ったと伝えられております。現在の御
霊神社の龍池です。
その後のある日、行教和尚は夢の中で 京都の男山に八幡大神(応神天皇)を祀れという
ご神託を受け、859年(貞観元年)京都府八幡市に山城石清水八幡宮(男山八幡宮)が建
立されます。
この件については、行教和尚が 改めて宇佐神宮へ出向き 男山に八幡大神をお招きした
という説と、大安寺より分神したという二説が語り継がれております。
1113年(天永4年)4月、奈良 興福寺大衆が 当時の習慣に則り、神輿を出して天皇に直
訴するが、男山八幡宮は奈良の大安寺から遷座したものだから 共に参加するようにと呼
びかけたところ、男山衆は 男山の八幡大神は宇佐神宮から直接 お招きしたもので、大
安寺とは関係ない と「本社」を名乗って譲らなかったそうです。
石清水の名前は以前から男山にあったというのが 男山衆の主張なので、その主張と分け
るために 元石清水八幡宮の名前が生まれたと言われております。石清水の湧き出したと
される井戸は、現在も大安寺の北方御霊神社境内に保存されております。
IMG_5395.JPG
大安寺搭跡広場(昼食)
大安寺塔跡は、癌封じ「笹酒まつり」などで有名な「大安寺」がかつて巨大寺院であった
時代に存在したとされる東西2つの巨大な七重塔の遺跡です。
大正時代から史跡として指定されてきた塔跡は、現在は遺跡らしさを体感できる広場と
して整備されており、礎石は全て失われていたものの、残された土檀の形をもとに塔の
基壇(塔の基礎となっている四角い石造りの部分)も復元されています。なお、西塔跡
には心礎と呼ばれる最も重要な礎石が残されていますが、西塔跡は東塔跡のように広
場として整備されているわけではありませんので、立ち入ることが出来ません。
天平神護2年(766年)には東塔に雷が落ち初の焼失を経験します。また平安時代の天
暦3年(949年)になると今度は西塔が落雷を受け焼失してしまいます。その後東塔は平
安時代後期の寛治4年(1090年)に金堂などの復興と合わせ、七重塔として再建される
ことになりますが、江戸時代に入る直前の慶長元年(1596年)に起きた大地震で東塔は
倒壊し、そこからは再建されることはありませんでした。
IMG_5396.JPG
IMG_5397.JPG
奈良豊澤酒造
豊祝試飲・甘酒ふるまい・ワンカップ豊祝お土産(解散)
IMG_5398.JPG
IMG_5399.JPG
IMG_5400.JPG
IMG_5402.JPG
IMG_5403.JPG
IMG_5404.JPG
IMG_5405.JPG
IMG_5406.JPG
上三橋バス停と帯解駅へ別れて・・・
Y田さん・I 田さん・O村さんの3名は上三橋バス停へ、K場さん・M吉さんと私は帯解駅
へ別れて帰りました。

nice!(17)  コメント(2)