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4月15日の藤原宮跡~おふさ観音~今井町

4月22日         4月15日の藤原宮跡~おふさ観音~今井町
                  5月度歩こう会 例会のコース下見 
此の日は歩こう会の世話人3名で5月度例会のコース下見(おふさ観音から藤原京へ)
へ行って来た、此の日の私の万歩計は、25394歩で約15.2km歩いたことに・・・
コース   大和八木駅集合  9:35~9:46
大和八木駅(集合・スタート)~耳成山~耳成山公園(トイレ)~山之坊山口神社~耳成
駅~八釣山地蔵尊~畝傍坐健土安神社~畝傍都多本神社~藤原宮跡資料室~藤原
宮跡(昼食)~醍醐池~おふさ観音~飛鳥川沿い~今井町・称念寺・春日神社・順明寺
・蓮妙寺・西光寺・河合酒造~八木西口駅
志都美駅
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香芝駅~近鉄下田駅へ
鹿島神社・・・平安末期の勧請伝承を持つ由緒ある鹿島神社。
河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母
が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。平治の乱で平清盛
に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく東国へ向かった。道中落武者狩り
に遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致
は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに
裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治
二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着
いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に
源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現
れてこう告げた。 「庚子の年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。長い年月が過ぎた。時に承安二
年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝
目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地
こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主と
して長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、
源氏の世が到来する。又、香芝市の市名由来は冠雪的に鹿島神社とされている。
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近鉄下田駅
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大和八木駅(集合・スタート)・・・スタンプ貰って
耳成山・耳成山公園(トイレ)
耳成山(みみなしやま)
耳成山は、奈良盆地の南部に位置する奈良県橿原市にある山。山の標高は139.6m
だが、山頂にある三角点の標高は139.2mで、天香久山、畝傍山とならんで大和三山
の一つをなし、最も北に位置する。歴史的風土特別保存地区と国の名勝に指定され
ている。この山は第三紀に噴出した火山岩が侵食されてその一部のみが残存した侵
食地形である。瀬戸内火山帯に属する独立峰であり、安山岩より形成される。
天然の山ではなく、古代に造営された上円下方墳との説がある。大和三山が二等辺
三角形をなし、かつその事実が古くより知られていた事、古事記や日本書紀において
古い時代の記述が無く、ようやく日本書紀において允恭天皇の時代以降に記述が見
られる事が根拠として提示される。その規模の大きさから全くのゼロから造営された
古墳でなく、既存の天然山を改造したという説もあり、火山と見られるのに噴火口が
無い事から、噴火口を埋めるなどの造成をした(その際に大和三山の山頂が二等辺
三角形をなすように調整された)とも考えられている(もちろん上述の通り、火山岩が
侵食された侵食地形というのが通説である)。かつては天神山とも呼ばれ天神山城
があったとされる。南麓の池は木原古池遺跡、北西には木原環濠がある。
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木原古池 万葉歌碑
耳成の 池し恨めし 我妹子が
  来つつ潜かば 水は涸れなむ (巻16-3788) 作者未詳
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山之坊山口神社へ向う
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山之坊山口神社
本社は昭和四十二年に創建された神社であり、これを主 張する説は存しない。それを論
社としてあげたのは、耳成山口神社 との関係からである。
本社は、その由緒として山之坊町の氏神は古く耳成山上に奉祀されていたが 徳川の中
期享保年間境界訴訟の結果耳成山が木原町の 領地と定められた当町の宮司佐伯丹後
守が神霊を奉じ て下山、その子孫の宅に奉仕して今日に至る。と登記明細帳に記してを
り、享保と寛延と時代は前後する が、耳成山口神社が目原坐高御魂神社とした場合には、
本来の耳成 山口神社が山の上に移り、本来の目原坐高御魂神社は現在の 山之坊山口
神社に連なる。
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耳成駅~八釣山地蔵尊へ向かう
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八釣山地蔵尊
興福寺(八釣山地蔵尊)(こうふくじ やつりやまじぞうぞん)
585年に、物部守屋(もののべのもりや)が仏法を嫌い、飛鳥の「橘寺」(たちばなでら)に
火を放って焼いたとき、金堂に安置してあった地蔵菩薩が、火から香具山(かぐやま)の
頂上に逃れて行き、それを知った聖徳太子が香具山の山麓に寺を建立して地蔵を祀っ
たと言われています。また、聖徳太子が夢のお告げで御体顕されたいう御夢想の名灸
があり、リュウマチや神経痛などに良く効くそうです。「八釣」の地名は、中世まで「やと
り」と呼んでいたことが文献に残っているとされています。この「やとり」は古代の職業名
の漢織(あやはとり)を簡略したものだという説があります。香久山の南北に「八釣」と呼
ぶ地域があり、朝廷の衣裳を縫っていた人々が住んでいたことがわかっており、この地
域の北を「下八釣」と呼んでいたとのことです。・・・ (「かしはら町名考」より)
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畝傍坐健土安神社(うねおにますたけはにやすじんじゃ)
『日本書紀』神武天皇即位前紀己未年二月二十日の条に「天皇、前年の秋九月を以て、
潜に天香山の埴土を取りて、八十平瓮を造りて、躬自ら斎戒して諸神を祭りたまふ。遂
に区宇を安定むること得たまふ。故、土を取りし処を号けて、埴土と白ふ」という埴安の
地に祀られた土霊が当社であるという。
『大和志』では「今称天照大神」とあり、近世に天照大神社と称していた。
祭神は、伊邪那美が火の神の迦具土命を産んで陰部に火傷を負い、亡くなった。この
時に、尿や糞、嘔吐物から新たな神々を産んだ。その糞から産まれた神が祭神の健土
安比売命である。
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※迦具土命
カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎは
やをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのか
み;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほ
むすび)と表記される。

畝傍都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)
祭神は、泣沢女神(なきさわめのかみ)、泣沢という井戸があり、その井戸が御神体として
祀られている。畝尾都多本神社は、「哭澤の神社」(なきさわのもり)とも言います。祭神の
哭澤女神(なきさわめのかみ)は、「古事記」によると国生みの最後の段階で、伊邪那美神
(いざなみのかみ)が火の神である火之迦具土神(ひのかぐちのかみ)を生み亡くなったの
を、父の伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が悲しんで泣いた涙から生まれた女神だと言われ
ています。神殿はなく玉垣で囲んだ空井戸をご神体とし、境内には末社の八幡(はちまん)
神社が鎮座しています。
桧隈女王(ひのくまのおおきみ)が、「哭澤の 神社(もり)に神酒据(みわす)ゑ 祈れども
我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ」と詠んだと言われる万葉歌碑が境内にあります。
創建は不明だが、『万葉集』巻第二の二〇二に、哭沢の神社に神酒すゑいのれどもわご
玉は高日知らぬ(泣沢神社の女神に神酒を捧げて薨じられた皇子の延命を祈っているの
に、皇子はついに天を治めになってしまわれた。)その左注に、「右一首、類聚歌林に曰は
桧隈女王の泣沢女神を怨むる歌といへり。日本紀を案ふるに云はく、十年丙申(696)の秋
七月辛丑の朔の庚戌、後皇子命薨りましぬといへり」と記されている。これは、持統天皇
十年(696)に、松隈女王が再生の神に神酒を捧げ高市皇子の延命を祈ったのに、蘇るこ
となかったという、泣沢女神を恨む和歌である。この事から畝尾都多本神社は、飛鳥時代
には既に存在していると考えられる。延喜式内社の畝尾都多本神社と比定され、同じく式
内社の畝尾坐健土安神社が隣接して鎮座。奈良時代の正税を収納管理する役所「香山
正倉」の遺構が周辺から発掘されている。明治時代に社殿が再建された。
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境内社に八幡宮
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藤原宮跡資料室
裏庭にて・・・
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藤原宮跡へ向かう
池の土手へ上ると行けの向うに香久山が・・・
藤原宮跡(昼食)
天香久山
天香久山、天香具山(あまのかぐやま、あめのかぐやま)、
天香久山、天香具山、または香久山、香具山(かぐやま)は、奈良県橿原市にある山。畝
傍山、耳成山とともに大和三山と呼ばれる。標高は152.4mと三山の中では標高は2番目
である。他の二山が単独峰であることに比して多武峰から続く竜門山地の端にあたる。
歴史的風土特別保存地区[2]と国の名勝に指定されている。太古の時代には多武峰から
続く山裾の部分にあたり、その後の浸食作用で失われなかった残り部分といわれている。
山というよりは小高い丘の印象であるが、古代から「天」という尊称が付くほど三山のうち
最も神聖視された。天から山が2つに分かれて落ち、1つが伊予国(愛媛県)「天山(あめ
やま)」となり1つが大和国「天加具山」になったと『伊予国風土記』逸文に記されている。
また『阿波国風土記』逸文では「アマノモト(またはアマノリト)山」という大きな山が阿波国
(徳島県)に落ち、それが砕けて大和に降りつき天香具山と呼ばれたと記されている、と
される。藤原京の東にあることにより太陽信仰の地であったともいわれる。現在、山頂か
らは畝傍山を望むことができ、その山頂には國常立命を祭神とする國常立(くにとこたち)
神社があって、2つの小さな祠のうちの1つには高靇神が祀られている。山の北麓には櫛
真智命神(くしまちのみことのかみ)を祭神とする天香山(あまのかぐやま)神社、南麓に
は天照大神の岩戸隠れの伝承地とされる岩穴や巨石を神体とした天岩戸(あまのいわ
と)神社がある。
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藤原宮跡(昼食)
中国の都城にならい、日本で初めて建設された本格的都城。持統8(694)年遷都。平城
京遷都までの16年間、この地で持統、文武、元明の天皇三代が律令国家体制を強力に
押し進めた。藤原京の規模は東西5.3km、南北4.8kmで、その中心部には藤原宮があっ
た。天皇の住まいである内裏や、天皇が儀式や政治を行った大極殿跡が残る。最近の
調査研究によると、平城京や平安京を上回る規模だったとも考えられている。現在、宮
跡には原野が広がり、大極殿跡には基壇が残る。宮跡からは東に天香具山、西に畝傍
山、北に耳成山を望める。
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※藤原京
694年(持統8年)から710年(和銅3年)までの16年間、都城制を敷いた初めての都で、
日本で初めて国家体制が確立された大化の改新(645年)以後、その新しい国家の首
として造営された日本で最初の都市である。
史料には、持統天皇4年(690年)に着工し、4年後に飛鳥浄御原宮から宮を遷した、と
ある。それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例か
ら3代の天皇に続けて使用された宮となったことは大きな特徴としてあげられる。この
時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛
鳥浄御原(あすかきよみはら)令、さらに大宝律令で初めて敷いた重要な時期と重なっ
ている。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立
を宣するために必要だったと考えられ、この宮を中心に据え条坊を備えた最初の宮都
建設となった。
実際の建設は、その後の研究により、すでに676年(天武天皇5年)には開始され(これ
を倭京と呼ぶ)、宮都が完成したのは遷宮から10年も経った704年(慶雲元年)とも言
われ、着工から28年が経過したことになる。以来、宮には持統・文武・元明の三代にわ
たって居住したが、完成から4年後の708年(和銅元年)に元明天皇より遷都の勅が下
り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された。その翌年の711年(和銅4年)に、宮が焼
けたとされている(『扶桑略記』、藤原宮焼亡説参照)。
畝傍山
平成17年に名勝指定された大和三山(やまとさんざん)と呼ばれる香具山(かぐやま)・畝
傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)のうちの1つです。
標高199.2m。大和三山では一番高い山です。橿原市の中心部に位置します。周囲には、
橿原神宮や神武天皇陵など名所旧跡が点在しています。
瀬戸内火山帯に属する死火山で、噴火時はいまよりも2倍以上大きかったそうです。それ
が長い年月をかけて侵食され、現在のような形になりました。
地質は、花崗岩質の丘陵がのびてきた上に火山が噴出したもので、中腹以上は黒雲母
安山岩からなります。
畝傍山という名前は、田の畝のようにくねくねした尾根を多く持つところからつけられたそ
うです。「古事記」「日本書紀」「万葉集」では、「畝火山」「雲根火山」「宇禰縻夜摩」「慈明
寺山」「御峯山」「瑞山」と記されました。万葉集では、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
が大和三山のことを詠んだ歌があります。
「香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 古昔も 然に
あれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」

醍醐池  万葉歌碑
 春過ぎて 夏来るらし 白栲の
  衣干したり 天の香具山 (巻1-28) 持統天皇 
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おふさ観音
通称おふさ観音。正式名は高野山真言宗別格本山観音寺。通称名は、江戸時代に地
元の娘「おふさ」さんが、この地で観音様を奉りはじめたのが後にお寺に発展したとい
われています。本尊は十一面観音。大和七福神(信貴山朝護孫子寺、久米寺、長谷寺、
おふさ観音、談山神社、當麻寺中之坊、安倍文殊院)に大神神社が加わり、大和七福
神八宝霊場会を発足。
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※今年の春のバラまつり
開催日時2019年5月15日(水)~2019年6月30日(日)(07:00~16:30 ※開門は17:00迄)
境内を埋め尽くす4,000株、約3,800種類のバラを無料でお楽しみ頂けます。花の女王と
呼ばれる、バラの濃厚な香りと様々な花色が織り成すファンタジックな光景は、華やかな
感動を与えてくれます。また、本堂では寺宝を特別

飛鳥川沿いを今井町へ向かう
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今井町
・称念寺
称念寺は室町時代末期、今井町(重要伝統的建造物群保存地区)の中核となった寺院
です。中世期末の時代から、本願寺の証如上人 蓮如上人の末子実従、さらに顕如上人
らの高僧が投宿されています。また明治10年には明治天皇が投宿したおり、西南の役
の勃発をここ称念寺で知らされたと伝えられています。
このように称念寺は浄土真宗寺院の貴重な遺構であり、歴史上でも重要な役割を果たし
てまいりました。稱念寺は、浄土真宗本願寺派に属し、今井御坊とも南之御堂とも呼ば
れている。現在の今井町は、この寺の境内地を中心として発達した寺内町である。
寺の草創は室町末期の天文年間織田信長が誕生したあたりで、本願寺の一家衆今井
兵部卿豊寿がここに本願寺の道場を建てたのに始まる。
豊寿ならびに二代鶴寿は今井道場を自坊としたが、本願寺の与力や本願寺の支城、我
孫子の城主をも兼ねていた。彼の石山合戦の折、天正三年(1575年)には本願寺の和
議の使者のひとりとして兵部も織田信長の元に赴いている。
今井道場が今井御坊稱念寺となるのは文禄年間(1592~1595年)で富綱のときである。
時は丁度秀吉が朝鮮征伐に赴くそのあたりである。
今井氏は代々兵部と名乗り、織田・豊臣・徳川氏に仕えて武士と僧侶を兼帯し、なかん
ずく秀吉の頃には堺住吉郡の代官や大阪城の普請奉行の要職についている。
しかし延宝七年(1679年)には武士を返上して釈門に帰り、以後は大和の真宗寺院を統
轄していた五カ所御坊、十六大坊の中心寺院として幕末まで中本山的な役割を果たして
いる。明治十年(1877年)二月には明治天皇が二夜三日駐泊された。
明治天皇は、二月十二日熊本城危機の知らせのために大阪道明寺に向かわれ、御一泊
の後堺に向け御進発遊ばされた。西南の戦争の始まりであった。
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・春日神社
奈良県橿原市今井町にある春日神社(かすがじんじゃ)です。
かつては常福寺の鎮守社だったとされますが、明治の廃仏毀釈運動の影響で常福寺は
廃寺になったとされています。
そのため、境内には旧常福寺の仏堂などが残されており、橿原市の文化財に指定され
ています。創建年代は不詳とされますが、明治の廃仏毀釈で廃寺となった天台宗寺院で
ある常福寺の鎮守社だったとされ、常福寺が慶長18年(1613年)の上棟であり、現存す
る当社最古の石燈籠銘に「慶安五壬辰年仲春吉日」とあることから、江戸時代以前には
創建されていたものと推測されているようです。
現在では春日神社のみが残っていますが、境内には山門や神像・仏像などを安置する
各御堂があるため、今でも神仏習合の痕跡を残す神社となっています。
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・順明寺
戦国時代に称念寺を核とする寺内町が形成され、江戸時代にはその形態を残しつつ
商売の町として発展した。現在も江戸時代の町並みが保存され、日本で最大の重要
伝統的建造物群保存地区になっている。
その今井町にあって、称念寺は<南の御堂>と呼ばれ、真北にある順明寺は<北の
御堂>と呼ばれて、今井町を形成している。
順明和尚は1217年、常陸国の稲田にて親鸞聖人の弟子となり、新賀庄に堂宇を建
てたのが順明寺の始まりで、1626年今井町へ移ってきている。
天灯山順明寺:浄土真宗本願寺派。開創:1217年以降。本尊:阿弥陀如来。
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順明寺の表門
順明寺は、旧北町、北尊坊通りの西端にある浄土真宗本願寺派の寺院で、北の御堂
ともよばれています。屋根は降り棟(くだりむね)の付いた切妻造で、千鳥破風(ちどり
はふ)に猪の目懸魚(いのめけぎょ)が付いています。板扉には入八双金具(いりはっ
そうかなぐ)が付き、両開きとなっています。建立年代についての確証はありませんが、
文献によると表門は1638年(寛永15)の建立であることが窺われます。扉以外はすべ
て建立当初の材を残している、貴重な門です。
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・蓮妙寺
(1333)大覚大僧正妙実聖人の開基、創立 現在の本堂は昭和60年の再建。
本尊;三宝(題目宝塔を中心に多宝如来・釈迦如来を祀る) 
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・西光寺
元は天台宗でしたが、(1580頃)誉上人の代に浄土宗に改宗しています。
本尊;阿弥陀如来坐像。本堂は18世紀後半の建築 元は、明治7年に開校の文明舎
その願書が当寺に残っています。境内の鐘楼は(1690)の建立。
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・河合酒造~八木西口駅
今井町・河合酒造
河合酒造は、江戸時代から続く蔵元です。
この蔵元のある橿原市の今井町は、国の“重要伝統的建造物群保存地区”に指定され
ていて、昔ながらの街並みが保存されています。
また、この河合酒造は、その中でも国の重要文化財に指定されているほどの歴史ある
蔵元です。今では毎年造る酒の量も少なくなりましたが、昔ながらの味わいを現在も造
り続けています。
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八木西口駅へ

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