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4月11日の宇治の世界遺産や史跡巡り-2

4月19日         4月11日の宇治の世界遺産や史跡巡り-2
                歴史探訪の会 特別企画 歩程約6Km
此の日は、朝は冷たい雨が少し降ったが、宇治市観光ボランティアガイド2名と参加者13名
がスタートする頃は雨もやんでいたがスタート直後に又も雨、源氏物語ミュージアムで雨宿
り後、斎スタートし世界遺産に登録の宇治上神社~宇治神社~宇治十帖へ・・・
此の日の私の万歩計は、17466歩で約10.4kmあるいた事に・・・
コース   京阪宇治駅 10時集合 
京阪宇治駅(受付・スタート)~源氏物語ミュージアム~宇治上神社~宇治神社~与謝野晶
子歌碑~宇治十帖~恵心院~宇治発電所~興聖寺~中之島公園(昼食・集合写真)~十
三重の石搭~平等院~香りの道~宇治橋(解散)~JR宇治駅又は京阪宇治駅へ
京阪宇治駅(受付・スタート)
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源氏物語ミュージアム~宇治上神社
※源氏物語ミュージアム・・・宇治市観光HPより
平成10年に開館した、源氏物語ミュージアムでは、模型や映像により光源氏や「宇治十帖」
の世界を分かりやすく紹介するほか、テーマごとに分かれた展示ゾーンは、当時の面影、
文化と伝えるとともに、源氏物語の魅力を様々な映像で紹介しています。3000冊以上もの
蔵書をとりそろえ、見るだけではなく、実際に文章を読んで楽しむこともできます。
定期的に講座が開かれ、源氏物語・平安時代をより深く学んでもらうための取組もなされて
います。
千年の時を超えて、いまだなお愛され続ける源氏物語。現代にも普遍ともいえる、男女の愛
憎劇。当時のきらびやかな世界に思いを馳せながら、源氏物語の魅力に是非触れてみてく
ださい。

宇治上神社へ向う
※与謝野晶子歌碑
与謝野晶子の没後50年と宇治市制40周年にあたる平成4年10月、「みだれ髪の会」によっ
て歌碑が建てられました。
晶子は、幼い頃から古典文学に親しみ、紫式部を終生の師と仰ぎ、「源氏物語」の現代語
訳に力を注ぎました。
昭和13年(1938年)61歳のときに、「新新訳源氏物語」全6巻を完成させ、それに加え源氏
物語五十四帖を五十四首の歌で再編成した「源氏物語礼讃」を著しました。
「さわらびの道」の歌碑には、そのうちの宇治十帖の「橋姫」から「夢浮橋」までの十首が
晶子の真筆で刻まれています。
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宇治上神社(うじがみじんじゃ/うじかみじんじゃ)
宇治上神社は、京都府宇治市宇治山田にある神社。式内社で、旧社格は村社。隣接す
る宇治神社とは対をなす。世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の1つとして登
録されている。
祭神は次の3柱。
左殿:菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと) 『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古
事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記される。応神天皇皇子。天皇に寵愛され皇太子に
立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したと
いう美談で知られる。
中殿:応神天皇 第15代天皇。菟道稚郎子命の父。
右殿:仁徳天皇 第16代天皇。菟道稚郎子命の異母兄。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳で「宇治神社二座」と見える2座のうち1座に比
定される。この「二座」を祭神と見た場合、菟道稚郎子を1座とすることは動かないものの、
もう1座については父の応神天皇・異母兄の仁徳天皇・母の矢河枝比売とする諸説があ
る。創建年代などの起源は明らかではない。宇治上神社のすぐ近くには宇治神社がある
が、宇治上神社とは二社一体の存在であった。宇治上神社の境内は『山城国風土記』に
見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」も
それに因むといわれる。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の
記載があるが、その2座はそれぞれ宇治神社・宇治上神社に比定される。なお、宇治上
神社の本殿は本来左右2棟であるとして、「宇治神社二座」は宇治上神社のみを指すと
いう説もある。神名帳の「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があった
ことを意味する。近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。
明治以前は宇治上神社は「上社」・「本宮」、宇治神社は「下社」・「若宮」と呼ばれたほか、
両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称された。明治に入って宇治上神社とは
分離し、近代社格制度では村社に列した。
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宇治神社(うじじんじゃ)
宇治神社は、京都府宇治市宇治山田にある神社。式内社で、旧社格は府社。隣接す
る宇治上神社とは対をなす。
祭神は次の1柱。
菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと) 『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』
では「宇遅之和紀郎子」と表記される。第15代応神天皇の皇子。天皇に寵愛され皇太子
に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したと
いう美談で知られる。本殿には、菟道稚郎子像と伝える神像(国の重要文化財)が祀られ
ている。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳で「宇治神社二座」と見える2座のうち
1座に比定される。この「二座」を祭神と見た場合、菟道稚郎子を1座とすることは動かな
いものの、もう1座については父の応神天皇・異母兄の仁徳天皇・母の矢河枝比売とす
る諸説がある。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の
記載があるが、その2座はそれぞれ宇治神社・宇治上神社に比定される[1]。神名帳の
「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があったことを意味する。のちに
近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。
明治以前は宇治神社は「下社」・「若宮」、宇治上神社は「上社」・「本宮」と呼ばれたほか、
両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称された。
明治に入って宇治上神社とは分離し、明治44年(1911年)府社に昇格した。
2018年(平成30年)台風第21号で大鳥居が土台部分から折れ倒壊する被害に遭った。
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大鳥居が無いと寂しい?
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宇治十帖モニュメント
古跡ではないが、宇治十帖古跡全体を象徴するモニュメントで、ヒロイン「浮舟」と
「匂宮」が小舟で宇治川に漕ぎ出す場面をモチーフとしている。宇治神社の前、朝
霧橋東詰にある。
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朝霧橋東詰
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恵心院(えしんいん)
恵心院は、京都府宇治市にある真言宗智山派の寺院。山号を朝日山と称する。宇治
川宇治橋の上流に位置する。本尊は十一面観音、開基は空海(弘法大師)である。
弘法大師によって開山され、唐の青龍寺に似ているため、龍泉寺と名付けられた。寺
伝によれば、寛弘2年(1005)、恵心僧都源信により再興されたが、中世には兵火によ
り衰退した。
恵心院本堂は、秋篠兵庫により、延宝四年(1676)に建立。建物は、須弥壇室と護摩
壇室とが左右非対称で建てられた和様仏堂である。多くの改造がなされている。
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花筏(はないかだ)・・・葉の真ん中に小さな花が咲く珍しい花だがぶれて見えない
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※恵心僧都源信
浄土真宗七高僧の第6祖源信和尚。源信和尚は、942年に奈良でお生まれになり9歳
で出家、比叡山にのぼられました。その後比叡山横川の恵心院に住んで学問されまし
た。源信和尚が、恵心僧都(えしんそうず)と呼ばれる所以です。
幼少のころからのすぐれた才能で多くの逸話がありますが、特に15歳のときその才智
ゆえ帝から賞をもらったときの話は有名です。
賞に喜んだ源信僧都は、それを郷里の母親に送りました。しかし、母はそれを受け取ら
ずに「後の世を導く僧とたのみしに、世渡る僧となるぞ悲しき」と賞に浮かれている源信
僧都を戒められたということです。
源信僧都は、そのことがあってから名利を離れ、一層仏道精進されたそうです。
その後、源信僧都は母の死とあい、より浄土願生に目覚められ『往生要集(おうじょうよ
うしゅう)』3巻を著述されました。そして、76歳横川で亡くなられました。
『往生要集』は、広く諸経論から往生極楽の要文を集めたものですが、その釈尊一代の
仏教の中から、往生への道は念仏しかないと、特に念仏門を開いていかれました。
そして、安養(浄土)に往生して仏の悟りをひらく浄土の教えに帰依して、一切の人々に
それを勧められたのでした。

花の多い恵心院
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宇治発電所の放水流
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※宇治発電所
大正初期に全長約11kmの導水路とともに建設された、国内最大規模の発電量を誇
る電力飛躍時代の水路式水力発電施設である。
銀座に我が国で初めての電灯がともされたのは明治15(1882)年。そして20年には東
京電燈が日本橋茅場町に石炭を燃料とする火力発電所(出力25kw)を建設している。
これからもわかるように出力も少なく送電技術も未熟な当時にあっては、需要地に近い
ところに火力発電所を建設するのがふつうであり、水力発電は補助的な手段と思われ
ていた。しかし、石炭の高騰などにより水力発電が次第に注目され、24年には琵琶湖
疏水を利用した蹴上発電所が運用を開始し、我が国初の営業用水力発電所として周
辺の工場に電力を供給している。その後、電力需要の増大に伴って、次第に山間部
に大規模的な水力発電所が計画されるようになっていった。
琵琶湖から流れ出す唯一の河川である瀬田川は、瀬田の唐橋から鹿跳橋付近の急
流を経て曽束を過ぎたあたりから宇治川と名を変えるが、琵琶湖から宇治までの間の
落差は70m。その豊富な水量と水位差を利用して電力を得ようとする動きは早くから
あった。27年に京都の有志が発起人となって発電用水路の掘削を出願、水路工事は
明治41(1908)年に12月に着手した。
工事に並行して仮設の水力発電所を建設し(一部は京都電燈から供 給)、43年11月
からは坑内の照明は電灯に変わり、工事用電話も敷設された。4年にわたる水路工事
においては不慮の事故もあった。こうしてできあがった水路トンネルは2.2万kwの発電
を可能にした。
宇治発電所の電力は宇治市内に電灯をともし、京阪電車を動かし、ユニチカなど多く
の工場を誘致して、宇治市の近代化と発展に寄与し続けた。

興聖寺(こうしょうじ)
興聖寺は京都府宇治市にある曹洞宗の寺院。日本曹洞宗最初の寺院である。道元が
興聖宝林寺を建立したことにはじまる。断絶のあと、慶安元年(1648年)永井尚政によ
って再興された。山号は仏徳山(ぶっとくさん)。本尊は釈迦三尊。参道は「琴坂」と称し、
宇治十二景の1つに数えられている。
道元は宋から安貞元年(1227年)に帰国、しばらく建仁寺に身を寄せた後、同寺を去っ
て深草(現在の京都市伏見区深草)の安養院に閑居した。寛喜元年(1229年)頃のこと
とされる。安養院はかつて深草にあった藤原氏ゆかりの大寺院極楽寺の跡で、現在の
京都市伏見区深草宝塔寺山町付近にあったと推定されている。天福元年(1233年)、
道元は深草に興聖寺を開創する。『永平広録』によれば嘉禎2年(1236年)に開堂式が
行われ、観音導利院興聖宝林禅寺と号した。なお、その前年の嘉禎元年(1235年)の
「宇治観音導利院僧堂建立勧進之疏」(『建撕記』所収)によると、当時の興聖寺には仏
堂はあったが法堂と僧堂はまだなく、道元は僧堂建立のための勧進を呼びかけていた。
建築史家の太田博太郎は、この時点(嘉禎元年)からわずか1年足らずの嘉禎2年に伽
藍が完成していたとは考えられないとしている。
興聖寺は、比叡山延暦寺の弾圧を受け、寛元元年(1243年)、道元が越前に下向して
以降荒廃し、住持4代で廃絶した。その後慶安2年(1649年)、淀城主の永井尚政が万
安英種を招聘して5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に復興したのが今ある興聖
寺である。
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参道
宇治川右岸に面した総門より本堂に通じるまでの200m程の緩やかな勾配参道は、
「琴坂」と呼ばれている。
琴坂の参道沿いに流れる湧き水は、本堂脇の貯水槽に一旦貯められた朝日山の山水
が流れており、その水の流れがあたかも琴の音色に聞こえ、長い参道が琴の形状に似
ていることから、今日まで琴坂と呼ばれるようになった。
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此処までは、
4月11日の宇治の世界遺産や史跡巡り-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-04-19
此処では、続きの興聖寺の門前へ出て~ の詳細についてを掲載します。
門前へ出て
茶筅塚、茶筅を燃やして供養する穴も・・・
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平等院へ向かう
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宇治発電所の放水流に架る
観流橋を渡り朝霧橋へ向かう
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朝霧橋から
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中之島公園(橘島と搭の島)・・・昼食・集合写真
橘島
先陣の碑
「宇治川先陣之碑」は、宇治川の中州の橘島に建っています。
先陣を遂げるとは、味方の先頭に立って敵陣へ突き進むことをいいます。武士にとって
戦場での功名が出世を約束する時代、恩賞の対象となるのは先陣を勤めるか、名ある
敵将の首を取って手柄を立てることでした。主人の側からいうと家臣の功名心をあおり
たて、互いに競わせるように仕向けるのが勝利のための策です。
「宇治川先陣之碑」昭和6年(1931年)に建てられたものであるが、実際には現在の宇
治橋よりもさらに下流であった出来事であるとされている。
寿永3年(1184年)1月に起こった宇治川の戦いは、木曽義仲と源頼朝という源氏同士
の戦いであった。この戦いの約半年前の7月に大挙して上洛した木曽義仲であるが、後
白河法皇との不和などから信望を失い、この時点で付き従う者は1000騎余りとなってい
た。一方、源頼朝は法皇の命を受けて、木曽軍追討のために範頼・義経の2人の弟に
数万の大軍を預けて京へ上っていた。結局、宇治川の合戦は木曽側400に対して義経
率いる25000の兵という、圧倒的な兵力差となったのである。
この合戦の白眉は、義経側の先陣争いであった。流れが急な宇治川を競って渡ったの
は、池月に乗った佐々木高綱と磨墨に乗った梶原景季の両名である。池月・磨墨とも頼
朝秘蔵の名馬であったが、先に池月を所望した景季に対して頼朝は代わりに磨墨を与
え、後から所望した高綱に池月を与えた。さらに上洛の途上、高綱が池月に騎乗してい
るのを見た景季は憤激するが、高綱の「盗んできた」との嘘の言い訳を受け入れていた。
両者とも先陣の功名を得ようと必死になるだけの理由があった。
先に進み出たのは景季である。負けじと高綱が追いすがる。ここで高綱「馬の腹帯が緩
んでおるぞ」と景季に声を掛けた。慌てて腹帯を確かめる景季を尻目に、高綱の乗る池
月は宇治川に入っていく。そして池月は急流をものともせず、高綱も川底に仕掛けられ
た大綱を太刀で切り裂き、とうとう川を渡りきって先陣の名乗りを上げたのである。
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搭の島へ
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搭の島
十三重の石搭(じゅうさんじゅうせきとう)
十三重石塔は、宇治市宇治塔川(京都府立宇治公園塔の島)にあって「浮島」「浮舟
ノ島」などと呼ばれてきた人工島の一つである「塔の島」に所在する石塔である。「十
三重石塔」とは、「石造りで十三重構造の層塔」もしくは「石造りで十三層構造の塔婆」
を意味する。アジア各地に同様の塔が数多く存在し、日本国内だけでもかなりの数に
上るため、他の同種の石塔と区別して浮島十三重石塔(うきしま じゅうさんじゅうせき
とう)ともいう。塔高15.2メートルの石造・十三重の層塔で、石塔婆(石造供養塔)。
1953年(昭和28年)3月31日、国の重要文化財に指定された(指定名称:浮島十三重
塔)。2003年(平成15年)3月14日に塔内納置品が京都府指定有形文化財となった。
浮島十三重石塔は、現存する近世以前の石塔としては日本最大(塔高15.2m)である。
なお、観光案内などで浮島十三重石塔を「日本最古の石塔」とするものがあるが、これ
は事実ではない。石造の層塔では、奈良時代前期の石塔寺三重塔(伝・阿育王塔。滋
賀県東近江市石塔町所在)が日本最古である。石造の十三重層塔としては、奈良市
長谷町の塔の森十三重石塔(奈良時代後期)が、破損は甚だしいが現存する。
勝宝山西大寺(南都西大寺)の再興などで知られる僧・叡尊は、鎌倉時代後期にあた
る弘安7年(1284年)、宇治橋の大掛かりな修造を手がけたが、橋が完成する弘安9
年(1286年)に合わせて、宇治川の川中島として大橋の南方に舟を模した形の人工
島を築き、放生会を修する祈祷道場とした。そして、宇治川で漁撈される魚霊の供養
と橋の安全の祈念を旨に、同年11月19日(ユリウス暦換算:1286年12月6日)、島の
中央に大塔婆を造立した。
大塔の建っていた島は、頻発する宇治川の氾濫にもよく耐え、激流に浚われること
がなかった為、いつの頃からか島を指して「浮島」「浮舟ノ島」などと呼ぶようなった。
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鵜の小屋
海鵜のウッティー達の小屋
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喜撰橋
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あじろぎの道
平等院へ向かう
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平等院・鳳凰堂
平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期
11世紀の建築、仏像、絵画、庭園等を今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺
産に登録されている。
山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗
派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開
山は明尊である。琵琶湖国定公園エリア内に位置している。
京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から
貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルとも
いわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇
の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったも
のである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(10
52年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小
野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の
北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。翌天喜元年(1053年)に
は、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立さ
れた。
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鳳翔館見学・・・中は撮影禁止
平等院ミュージアム鳳翔館とは
平等院ミュージアム鳳翔館は平等院の敷地内にある博物館である。2001年3月1日
に開館し、宗教法人としては初となる総合登録博物館となっている。世界遺産である
平等院の景観に配慮し、施設の大半が地下に埋められていることが特徴である。10
円硬貨にもデザインされている平等院の鳳凰堂の建築要素を現代的に表現した建
物は周囲の景観に見事に溶け込んでいる。
平等院ミュージアム鳳翔館では国宝に指定されている梵鐘や重要文化財に指定され
ている十一面観音立像、宇治市指定文化財に指定されている帝釈天像、地蔵菩薩像
などが展示されている他、平安時代(794年–1185年)の鬼瓦などの発掘出土品も多く
展示されている。 また、最新のデジタル技術を用いたCG映像で、かつての平等院
鳳凰堂内の彩色復元映像も見ることができ、平等院の歴史と価値を知る事が出来る。
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見学を終えて
平等院鳳凰堂を後ろから見る
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扇の芝
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平等院を出て~香りの道
香りの道
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紫式部像
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宇治橋(解散)
宇治橋の南側の欄干上流に面して「三の間」といわれる張出は、のちの信長や秀吉時代、
ここから宇治川の水を汲みあげ茶をたてたといわれています。
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4月9日のマキノ駅~海津大崎&清水の桜見物-2

4月15日       4月9日のマキノ駅~海津大崎&清水の桜見物-2
                   歩こう回特別企画 (距離約9㎞)
此の日は朝から少し肌寒い日となったが歩きながらの桜見物には丁度良かったかも・・・・
此の日の私の万歩計は、21731歩で約13km歩いたことに・・・
コース     マキノ駅前に11時 受付・スタート
マキノ駅~湖のテラス~大崎並木口~桜並木散策~海津大崎湖岸園地(昼食・集合写真)
~桜並木散策~大崎寺(奈良時代 泰澄開基・大崎観音)~U ターン~海津~清水(しょう
ず)の桜(水上勉の小説“桜守”)~海津天神社~マキノ駅(解散 2:30頃) 2:50に電車有り
マキノ駅前スタート
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湖のテラス
高木浜水泳場・キャンプ場は、昭和51年(1976)にマキノ浜野営場が完成、平成3年(1991)
のリニューアルオープン、翌4年には琵琶湖の感謝と湖の永久の清らかさを祈るシンボルと
して「湖のテラス」が完成し、水泳場・オートキャンプ場として親しまれています。
マキノサニービーチの玄関口、湖のテラス。雄大で澄んだ水をたたえる琵琶湖を眼下に一
望できる展望台があり、此れが「湖のテラス」です。
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※海津浜の石積
海津は古くから、今津、塩津とともに、湖北三港の一つとして栄え、今も旧街道の面影を残し
ている。湖岸には宿駅や船便の関係で石垣を積んで波除けにし、人家、問屋、宿屋などが
建ち並ぶ街並みを形づくっていた。今も残るこの石積みは嵐のたびに何度も改修されたよう
だが、改修にあたっての石代は藩主である加賀藩等が負担するものの、施工は村人による
自普請とする旨の古文書が残っており、往事の村人の労苦がしのばれる石積みである。
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海津大崎の桜
春、著名な画家が思わず描く筆をとめた、という逸話が残るほど美しく豪華な「ソメイヨシノ」は
樹齢80年を越えており、4月中旬には約800本が咲き誇り、延々4kmにわたって爛々たる風
情を造り出します。海津ならではの湖岸から望む景色も人気があります。近畿圏では桜の遅
咲きの名所として毎年多くの花見客で賑わいます。
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大崎並木口
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桜並木散策
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海津大崎湖岸園地(昼食・集合写真)
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桜並木散策
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此処までは、
4月9日のマキノ駅~海津大崎&清水の桜見物-1 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
           https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-04-15
此処では、続きの桜並木散策の途中~ の詳細を掲載します。
桜並木散策の途中から
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海津大崎
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大崎寺へ
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大崎寺(奈良時代 泰澄開基・大崎観音)
大崎寺縁起
真言宗智山派石立山大崎寺宝光院といい、本尊は泰澄大師の作と伝えられる千手観音で
ある。元は奈良の興福寺の末寺で僧坊三十九院を有する大寺院であったが鎌倉時代以降
荒廃していた。1536年法印が中興しそれ以来真言宗となった。豊臣秀吉が諸国仏閣復興
のとき、安土城の残材を用いて修復を行った際、血痕の残る天井板を使用した事から「安土
の血天井」として知られている。その後本堂は改築され、使われていた用材は昭和41年(19
66年)、阿弥陀堂の改築の際、阿弥陀堂の天井に使われた。また阿弥陀堂の本尊の阿弥陀
如来像は聖徳太子の作と云われている。
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大崎寺から下る
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U ターン~桜並木散策
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海津~清水(しょうず)の桜へ向かう
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清水(しょうず)の桜
海津大崎並木口から北へ約1km、海津の墓地の中に1本の老樹「清水(しょうず)の桜」
があります。樹種はアズマヒガンザクラ。樹齢300年以上といわれ、水上勉の小説「桜守」
の中でも賞賛されています。加賀藩前田候が上洛の折、何度もこの桜を愛でたことから
「見返りの桜」とも呼ばれています。海津大崎の桜より少し早く満開見頃を迎えます。
「清水の桜」は、アズマヒガンザクラと呼ばれる種類の桜で、高さ16m、幹の周囲6.4m
の滋賀県自然記念物にも指定されている県下最大級の桜です。
この桜がこの地に根付いたころ、桜の前には北国北陸からの物資を京や大阪に運ぶ
「七里半越」と呼ばれる山越えの道が通っており、数多くの荷駄や人々が海津から追坂
峠道を通って、敦賀津へ出るこの七里半越で目的地へ向かっていったと思われます。
のちにこの桜が成長するにつれ海津の街も姿を変え、当時の隆盛を偲ぶ物も減ってい
きましたが、この桜は人々の暮らしと海津の街の変化を見守りながら、現在でも四月の
上旬にはその美しい姿で私たちを楽しませてくれます。
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※海津天神社
開基は明らかではありませんが、平安時代末期に現在の海津上尾山(かいづかみおや
ま)の地に勧請したのが始まりといわれています。徳川将軍家や加賀藩主前田氏の保
護を受けて栄えました。折り重なる老松や杉の陰に、天神社を中心として大小10棟の社
が、荘厳なたたずまいを見せています。
祭神は、本殿が菅原道真、大鍬(おおくわ)神社が大己貴命(おおなむちのみこと)、小
野神社が天押足彦命(あまのおしたちひこのみこと)です。そのほかに、貴船社・愛后
(あたご)社・恵比須社など数社の社殿が立ち並んでいます。社宝として、平安時代末期
の法華経8巻に開経・結経を合わせた10巻や、徳川3代将軍家光の朱印状、狩野山楽
筆の板絵著色絵馬など、優れた文化財が数多く保存されています。これらは、10月10日
に一般公開されます。また、毎年4月29日には「海津力士祭」が行われます。

マキノ駅

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4月7日の街並みを眺め時代を感じる宇陀松山地区へ-2

4月10日      4月7日の街並みを眺め時代を感じる宇陀松山地区へ-2    
              4月7日の近鉄ハイキング 又兵衛桜
此の日は、知人と二人で参加、前回の此の辺りのハイキングで、行ってみたい神社が2社
有り、今回は此の2社(平尾の水分神社と野依の白山神社)も訪ねようと意気込んでたが、
野依白山神社は行けず、此の日の私の万歩計は、29730歩で約17.8km歩いたことに・・・
コース     榛原駅南出口階段下受付 9時半~11時
榛原駅(受付・スタート)~宇陀川沿いの桜・猟路の桜~水分神社~宇陀アニマルパーク
(昼食)~宇陀松山地区・黒門・寺社~天益寺~阿紀神社秋~又兵衛桜~柿本人丸像~
大願寺~道の駅宇陀路・大宇陀バス停→奈交バス→榛原駅(解散)→五位堂駅~自宅
榛原駅南出口階段下(受付・スタート)
宇陀川沿いの桜
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宇陀川沿い・猟路の桜
下井足~篠楽~五津にかけての桜並木。篠楽では万葉歌にちなみに「猟路の桜」と
命名。ぼんぼりの夜桜も楽しむことができます。
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宇陀川沿い
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水分神社(みくまりじんじゃ)・・・(平尾水分神社)
いつも鳥居を見て通り過ぎるだけだったが思い切って寄り道して見た
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水分神社本殿(みくまりじんじゃほんでん)
宇陀川の東岸に面した小高い丘陵の西斜面に鎮座する。本殿は境内の東寄りに石垣
を積み上げ、その上に一間社隅木入春日造(いっけんしゃすみぎいりかすがづくり)、桧
皮葺(ひわだぶき)の社殿を3棟並列で西面させて覆屋(おおいや)に納めている。社殿
によれば神社の創立は永徳元年(1381)と伝え、永徳9年(1566)書写『玉岡水分縁起』
の記載からもおそくとも中世末には存在していたと考えられ、近世では妙福寺は神宮寺
であった。祭神は向かって右から第一殿・天照大神、第二殿・水分大明神、第三殿・白山
大権現(だいごんげん)をまつる。水分神社本殿は3殿とも同規模で同時期に建立された
ことは明らかで、当初形式を踏襲しているものと考えられる。覆屋根は慶長4年に建てら
れていることから現社殿の桧皮葺や棟飾(むねかざり)はそれ以前のものと考えられるこ
とに注目に値する。宇太水分神社と同じ形式が見られ棟札から吉野の飯貝大工が携わ
り、大工集団としての活動範囲が宇陀地方にまでおよんでいたことがわかる。
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夜に行われ 古式を残す平尾のオンダ(御田植祭)
平尾水分神社は江戸期に宇陀水分神社より水分神を勧請して祀られた末社。毎年1月
18日、本殿石段前に設けた板張り舞台で、五穀豊穣を祈る予祝の神事としてオンダが
行われます。
午後7時ころ、神職(墨坂神社宮司)と氏子代表らにより本殿前で厳かに神事が行われ
ます。次いで社務所で関係者のお祝いの宴(直会)が開かれたあと、「ショトメ(早乙女/
初乙女)」と呼ばれる子供5人が1人ずつおんぶ、あるいは抱っこされて舞台に上がりま
す。早乙女役を子供が演じるのは珍しく、最近は男児不足から女の子も加わるように
なったそうです。
午後8時ごろ、いよいよお田植えが始まります。太夫役の「大当(だいとう)」と神主役の
「小当(しょうとう)」が神前に向かって、江戸時代頃の旧い言葉で 「・・・吉日吉時をもっ
て正月18日に三社大明神の御前にて御田植仕り候・・・」 のような台詞が声高らかに
語られます。舞台外から合いの手が入り、素朴で暖かい雰囲気の中で進められます。
「鍬入れ」「苗代作り」「水入れ」「種籾まき」「お田植え」・・・などと一連の農作業が続き
ます。この中には現在の稲作では見られなくなった「芋つむぎ」や「鳥追い」など珍しい
ものが組まれており、注目されます。
ひと息入れるころ(間炊=ケンズイ)、「若宮さん」と呼ばれる全身にコヨリを巻きつけた
人形が「小当」によって運ばれます。病気平癒を祈願する人形で、自分の体の治した
い箇所と同じところのコヨリを貰い受け、患部をなでると治癒するとのことで、大勢の
氏子や参加者が嬉しそうにコヨリを戴いていました。全体を通して古風で味わい深い
ユニークなお祭りです。
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宇陀川沿いに戻る
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※白山神社(はくさんじんじゃ)・・・今回はパスしたので次回?
野依の白山神社(のよりのはくさんじんじゃ)
野依のオンダ(のよりのおんだ)
5月5日(もと旧暦)にセックオンダ(節句御田)と呼ばれる田植え行事が行われる。野依
には宇多川を挟んで東西53戸でそれぞれ組織されるトーヤ(頭家)講があり、ここから
選ばれた大頭小頭が氏神白山神社の年間の祭祀を司る。

白山神社 野依のオンダ(節句おんだ)・・・牛馬を使用しない珍しいおんだ祭
宇陀市の野依白山(のよりはくさん)神社で行われる、田植えの成功を前もって祝う(予
祝)神事。もともと旧暦5月5日の行事でしたが、古くからの伝承でこの日は神様の田植
えの日、村人は田植をしてはならない日とされていました。
そこで大正初め頃から新暦の5月5日に「おんだ」を田植え前の行事として行なわれるよ
うになり、俗に「節句おんだ」とも呼ばれています。奈良県の無形民俗文化財に指定。神
社の境内で10数名の神役たちが田植えの様子をユーモラスに演じます。加えて子供た
ちがふざけて神役の背中や尻を押し演技の邪魔をするなど、なごやかなお田植神事が
展開されます。神役は、大頭〔(だいとう)田主〕、小頭〔間炊*(ケンズイ)持ち〕、荒鍬持ち、
小鍬持ち、万鍬(まんぐわ)持ち、苗籠持ち、植女(ショトメ)3人、大太鼓役、荷い手2人、
小太鼓役、ケンズイ配りなどいずれも男性が務めます。* 昼食と夕食の間の飲食、おや
つ唄に合わせショトメが菅笠を上げ下げしつつ舞うのは「白山権現の舞」と「やよの舞」
と呼ばれています。
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宇陀アニマルパーク
恒例のコンニャクを食べて昼食
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宇陀松山地区
宇陀松山、聞き慣れない地名かもしれませんが、古くから城下町として発展し、その町並
みが今も生活の場としながらも景観を保ったまま残っている地区です。
2006年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。
保存地区に選定された古い町並みの散策はもちろん、町並みの隙間からふと顔を出す自
然の表情や、何年も姿を変えていないような店の軒先など、時間の止まったようなゆったり
した空気も魅力です。
宇陀松山が拓かれたのは戦国時代「宇陀三将」と呼ばれた一人、秋山氏の築いた城の城
下町として発展してきました。以後、様々な時代の変遷を経ながら、今の松山の町並みが
作られてきました。
宇陀は「吉野葛」の産地として全国的に有名で、昭和天皇が最後に口にされたのはここの
吉野本葛なのだそうです。他にも天然の良水を活かしたお酒や醤油なども特産品として有
名です。
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松山西口関門
福島掃部孝治が城下町への出入口として、今から400年前に建築したものだ。昭和6年
(1931年)に国の史跡として指定された。壁以外は黒く塗られていることから、地元では
黒門と呼ばれて親しまれている。
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恵比寿神社
黒門近くにある「恵比寿神社」。愛宕神社・恵毘須神社・愛宕寺の神仏混合社です。
愛宕神社は、城下町の火災防止のため、松山城主織田長頼が勧請奉祀させたといわ
れる。恵毘寿神社は町内の茶町から移され、江戸以来毎年2月8日には初えびすが行
われる。
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春日神社参道
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春日神社
祭神、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比び大神。本殿、拝殿、神饌所、門、社務所
の施設が整い、石造灯籠新古を交え35基を奉建している。当社の旧祠宮と伝える佐々
岡家には祭礼記など数通の古文書を蔵している。
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※慶恩寺・・・今回はパス
松谷山菩提院慶恩寺。開山は持統天皇九年に吾城行宮を賜って堂宇としたことに始まる。
その後文治2年に奈良の大仏殿再興にあたり、伽藍指図5分の1の試みとして建立された。
鐘楼には無銘であるが古い梵鐘が懸かる。
※光明寺・・・今回はパス
融通念仏宗の寺院。草創は宇多法皇の時代といわれ、天正14年に法俊上人が再興。光
明寺には本堂、山門のほかに小堂、書院、鐘楼がある。山門は入母屋造り、桧皮葺きの楼
門で、松山・神戸地区で最も古い建物の一つ。
※史跡宇陀松山城跡・・・今回もパス
宇陀松山城は、南北朝時代から宇陀に勢力をもつ秋山氏の本城であったが、天正13年
に豊臣家大名の居城となり、城下町が整備された。最後の城主福島氏が元和元年に改
易され、平成7年からは発掘調査が行われている。平成18年、国史跡に指定された。

松山地区を出て天益寺~阿紀神社へ向う
レンギョやミツマタが」綺麗
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天益寺(てんやくじ)
元伊勢伝承の阿紀神社上手にあるお寺です。枝垂桜の名所です。
境内にある樹齢約350年といわれるしだれ桜。鎌倉末期から室町時代に創建された
本堂は火事で全焼し、現在は再建に向けての取り組みがされています。
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此処までは、
4月7日の街並みを眺め時代を感じる宇陀松山地区へ-1  として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-04-10
此処では、続きの阿紀神社~ の詳細を掲載します。
阿紀神社
(あきじんじゃ)は、奈良県宇陀市大宇陀迫間(おおうだはさま)にある神社。
式内社で、旧社格は県社。通称は神戸明神とも呼ばれる。
神代に神楽岡に創建され、崇神天皇の勅によって神戸大神宮の号を賜わる。あず地
桃山時代(天正年間)に本郷川西岸の現在地に遷座されたときに、現在の社名へと改
められた。江戸時代前期に能舞台が建設され、能が上演されるようになる。1902年
(明治35年)に郷社から昇格して県社に列格した。
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又兵衛桜へ向かう
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又兵衛桜
樹齢300年とも言われる枝垂れ桜。この地に伝わる後藤又兵衛の伝説と、この桜が
後藤家の屋敷跡にあることから「又兵衛桜」と呼ばれ親しまれています。
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又兵衛桜の後ろへ回ると桃や菜の花畑
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ぐるっと反対側から又兵衛桜
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白モクレンやコブシ、他の桜も満開
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川を挟んで帰り道から又兵衛桜を
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阿騎野・人麻呂公園
柿本人麻呂像
平成7年の発掘調査により、弥生時代、飛鳥時代、中・近世の3時代にわたる遺構が
発見されました中ノ庄遺跡です、いにしえの生活の痕跡が残る重要な遺跡として公園
整備されています。周辺は飛鳥時代「阿騎野」と呼ばれ、大和朝廷の狩り場(薬猟)で
あったと伝えられています。園内には、故中山正實(なかやままさみ)画伯による壁画
「阿騎野の朝」を元にした柿本人麻呂像が建ち、掘立柱建物や竪穴式住居が復元され
ています。
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大願寺・・・大願寺の創建は飛鳥時代と伝わります。
聖徳太子が蘇我馬子に命じて建立したと言われ、この狛寅の謎も解けたような気が
します。信貴山朝護孫子寺にも語り継がれる「寅年、寅日、寅刻」・・・聖徳太子が物
部守屋との戦いに際し、毘沙門天に助けられたのが「三寅」のタイミングでした。
そう、虎は毘沙門天の使いなのです。
大願寺沿革
薩埵山(さったさん)・成就院・大願寺と称し、真言宗御室派仁和寺末で、寺の創建は推古
時代(約1400年前)で聖徳太子が蘇我馬子に命じて建立させたと伝えられている。
御本尊十一面観世音菩薩は、弘仁式で弘法大師作または徳道上人作で、その御尊前に
長谷寺建立、大蔵寺建立の大願を誓われたと伝えられ、後観音様は火災に遭うも焼けず
に発見されたので「焼けずの観音」で、「災難除け」の観音様として信仰されている。
大願寺は歴代城主である織田信長の二男信雄(のぶかつ)より松山城主高長、長頼、信
武公に亘り、信仰厚く当寺で諸祈願されたと古文書に記載されている。
毘沙門堂は室生の大杉一本で建立され、毘沙門天は長頼公が鞍馬毘沙門天と同作の毘
沙門天を勧請し祀られた。
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※白山権現社・・・・今回は登らず パス
毘沙門堂の左手奥へ上がって行くと、加賀の白山神社を勧請した白山権現社が祀ら
れています。
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道の駅宇陀路・大宇陀バス停→奈交バス→榛原駅(解散)→五位堂駅~自宅

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3月31日の奈良きた町から桜の佐保川堤を散策-2

4月3日         3月31日の奈良きた町から桜の佐保川堤を散策-2
                     近鉄駅フリーハイキング
此の日は快晴とはいかず花曇りの中を知人のK場さん・I 田さん・O村さんと4名で歩いた、
此の日の私の万歩計は、24275歩で約14.5km歩いたことに・・・
コース     近鉄奈良駅東改札(9:30~11:00) 10時半集合
近鉄奈良駅東改札(受付・スタート)~興福寺・南円堂・中金堂・五重塔~春日大社・一の
鳥居・ムクロジの大木・参道・本殿へ~水谷神社~水谷茶屋・若草山~手向山八幡宮~
校倉造り~東大寺・三月堂・四月堂・二月堂・若狭井・大仏殿・正倉院・大仏殿・転害門(て
がいもん)~佐保川~聖武天皇陵・光明皇后陵・興福院l参道~佐保小学校~大仏鉄道
公園~佐保川堤防~新大宮駅(解散)~徒歩~JR奈良駅 → 王寺駅
志都美駅
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近鉄奈良駅東改札~興福寺へ向かう
興福寺・南円堂
南円堂
西国三十三所観音霊場の第九番札所です。
弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建てに
なった八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わど
うかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げたことが発掘調査
であきらかになりました。この儀式には弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が深く係
わったことが伝えられます。
興福寺は藤原氏の氏寺でしたが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖
である内麻呂・冬嗣親子ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めます。そ
のうえ本尊不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのん)像が身にまとう鹿皮は、氏神春
日社(かすがしゃ)との関係から、特に藤原氏の信仰を集めました。創建以来4度目の
建物で、寛政元年(1789)頃に再建されました。八角の一面は6.4m、対面径は15.5m、
本瓦(ほんがわら)葺きの建物ですが、その手法はきわめて古様です。
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※額塚・・・興福寺には山号がありません。
南都七大寺には不思議と山号がない為今まで気にも留めていなかったのですが、興福
寺にはそれなりの理由がある様です。比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺などに見られる
山号はよく知られるところです。奈良の興福寺にも月輪山(がつりんざん)という山号が
付けられていたようです。そして、その山号額が埋められている場所が茶臼山と呼ばれ
る額塚です。額塚のある場所は興福寺不動堂の南側です。

中金堂
興福寺「中金堂(ちゅうこんどう)」は、世界遺産「興福寺」の境内中央、五重塔・東金堂
の西側の広々とした空間に建つ興福寺境内では最大規模の仏堂です。
平城京に遷都し奈良時代が幕を開けた和銅3年(710年)頃に成立した興福寺において、
その当初から中心的なお堂として建立されたとされる中金堂は、丈六釈迦如来像をその
中心部に配置し、脇侍としては薬王菩薩像・薬上菩薩像・2体の十一面観音菩薩像を置
き、四天王像・弥勒浄土像も安置していたとされており、奈良のお寺においても東大寺
大仏殿に次ぐような規模を有する非常に重要な存在であったとされています。
奈良時代以降は受難の歴史を歩み、平安時代の永承元年(1046年)に初代中金堂が
焼け落ちてからというもの計7回の焼失を経験することになりました。中金堂は6回目の
焼失まではその都度しっかりと再建されてきましたが、江戸時代の享保2年(1717年)に
7度目の焼失となった後は1世紀ほど再建されず、文政2年(1819年)に再建されたもの
も「仮金堂」と呼ばれる小さなものとなっていたため構造上も弱く、平成12年(2000年)に
は取り壊しが行われ、その後創建当初のスケールを持つ中金堂を復興することになり、
平成22年(2010年)に工事が着工し、8年間の計画で中金堂の再建が進められることに
なりました。
再建された中金堂は、興福寺に関わる歴史資料や唐招提寺金堂の建築様式などを参考
に復元されたものであり、東西の間口は約37メートル、南北の奥行きは約23メートル、高
さは約20メートルの規模となっており、東大寺大仏殿には及ばずとも、唐招提寺金堂や薬
師寺大講堂に匹敵、もしくは少し上回るような規模を有しており、平成の世において建造
された最大規模の木造建築物となっています。
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五重搭
古都奈良を象徴する塔です。塔は仏教の祖釈迦の舎利(しゃり)(遺骨)をおさめる墓標
です。天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)皇后
がお建てになりました。初層の東に薬師浄土変(やくしじょうどへん)、南に釈迦浄土変
(しゃかじょうどへん)、西に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、北に弥勒浄土変(みろく
じょうどへん)を安置し、また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこうだらにきょ
う)を安置していたと伝えられます。その後5回の被災・再建をへて、応永33年(1426)頃
に再建されました。高さ50.1m、初層は方三間で8.7m、本瓦(ほんがわら)葺きの塔で
す。軒の出が深く、奈良時代の特徴を随所に残していますが、中世的で豪快な手法も大
胆に取り入れた、大変に力強い塔です。初層の四方には、創建当初の伝統を受け継ぐ薬
師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像を安置します。
現存する興福寺五重塔は、室町時代中期・応永33年(1426年)の再建。本瓦葺の三間五
重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建
造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、
文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
興福寺五重塔は、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建された。現存の塔は、
応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.1メートルで、現存する日本の木造塔として
は、東寺五重塔に次いで高い。
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春日大社一の鳥居
平安後期に創建されたといわれ、現在のものは、寛永11年(1638年)に再建されたもので
ある。今では市街地のメインストリートの三条通との境界に当たるが、 古くは春日大社と興
福寺旧境内との境に立つ高さ6.75mの大鳥居です。3月の春日祭や12月の春日若宮おん
祭の際には大きな榊が立てられています。
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※影向の松(ようごうのまつ)
春日大社一の鳥居をくぐってすぐの、参道右側に生育しているクロマツである。延慶2年
(1309年)の春日権現験記にも記された古い巨木であったが、1995年(平成7年)に枯れ
たため、現在は巨大な切り株の横に後継樹の若木が植えられている。
この地は昔、春日大明神が翁の姿で降臨され、万歳楽を舞われた地とされる。教訓抄に
よると、松は特に芸能の神の依代(よりしろ)であり、この影向の松は能舞台の鏡板に描
かれている老松の絵のルーツとされている。

参道脇のムクロジ
ムクロジはわが国では中部地方以西の山野に自生しており、春日山にも多く生えていま
す。幹の空洞から竹が伸びていて名物樹木になっているムクロジの巨樹。幹周4.58m、
樹高15.5m。
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仏教美術研究資料センターの枝垂れ桜
関野ホール
明治中期を代表する近代和風建築であり、和風と洋風、さらにはイスラム風の意匠も
取り入れた、とても美しい建築物です。奈良国立博物館が管理する『仏教美術資料研
究センター』(重文)は、1902年(明治35年)竣工の、西洋建築の構造と日本伝統の建
築様式を取り入れた、美しい近代和風建築です。当初は「奈良県物産陳列所」として、
奈良県の物産の展示・販売をおこなう施設として利用されました。設計は、建築史学
者であり、古社寺保存修理事業に尽力した「関野貞」(せきのただし)。東京駅舎や奈
良ホテルを設計した辰野金吾の弟子で、新薬師寺や法起寺の修理なども監督・・・。
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参道
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手水
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参道の苔むした灯籠
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春日大社
本殿へ入る前の枝垂れ桜
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春日大社
春日大社(かすがたいしゃ)は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設
された神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は
官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」。全国に約1000社ある春日
神社の総本社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。
ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。
奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神
(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まるとする
説もあるが、社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津
主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を
造営したのをもって創祀としている。

本殿の回廊
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本殿を出て祈祷所へ向かう
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水谷神社へ向う
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水谷神社
春日大社の摂社で聖流水谷川に沿ってお祀りされており、上水谷・中水谷・下水谷の下
社に相当し、素盞鳴命様・大巳貴命様・奇稲田姫様を御祭神としています。平安時代か
ら幕末までの神仏習合時代は祇園精舎の守護神で医薬の神として尊崇され、「牛頭天
王(ごずてんのう)」とされていました。例祭は4月5日で、通称「水谷神社鎮花祭」として
親しまれています。古くより霊験あらたかな神様として名高く、病気平癒や子授けを祈る
人が多いお社です。御神木のイブキ、イブキの横にある説明板では、幹周6.55m、樹高
12.5m。「イブキ」は「ビャクシン」ともいわれます。
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水谷茶屋
昭和23年創業。奈良公園内にある当店は、春日大社の北参道の入り口を流れる水谷川
の対面に位置し、大正初期に建築された茅葺き屋根と柱をそのままに店舗として改装し、
現在の姿に至っております。店舗周辺には、楓が群生し、夏は鮮やかな緑と川のせせらぎ
が暑さを忘れさせ、 秋には紅葉が見る者の目を奪う。街の喧騒から離れ、大変癒されます。
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若草山山麓
若草山
奈良公園を訪れて最初に目に飛び込んでくる景色、それが芝生に覆われた三つ重ねの山、
若草山です。若草山は、標高342m、面積33ヘクタールの芝生に覆われた山で、山頂には、
5世紀頃に築造されたといわれる史跡鶯塚古墳があります。毎年1月には、若草山焼きが
あります。夜空をこがす壮観さはまさに、炎の祭典というのにふさわしい行事です。
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土産物店
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手向山八幡宮
東大寺大仏殿前の道を東に行った正面に位置し、すぐ北には東大寺法華堂(三月堂)があ
る。天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺
の守護神として勧請された。八幡宮からの分社では第一号である。当初は平城宮南の梨原
宮に鎮座し、後に東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180年)の平重衡
による戦火で焼失、建長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建した。当初の鎮座地とさ
れる梨原宮の所在地は未詳だが、奈良市役所近くにある平城京左京三条二坊庭園跡庭園
がその跡ともいわれる。創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされてきたが、明治の神仏分
離の際に東大寺から独立した。
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校倉造り
法華堂(三月堂)法華堂経庫(重文)です。2棟とも天平時代に建てられたものです。
※手向山八幡宮南側に建つ手向山八幡神輿庫。
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※校倉造
三月堂や手向山八幡宮に囲まれた位置にある「校倉造」 。東大寺法華堂経庫は、二月堂や
三月堂(法華堂)、四月堂などが位置する東大寺の古き良き風情を体感して頂ける「上院」エ
リアの一角、かつての東大寺鎮守神である「手向山八幡宮」にも隣接する位置にある建物
(重要文化財)です。
建物は正倉院などを同じく、いわゆる「校倉造」の建築様式となっており、その建立は奈良時
代もしくは平安初期にまで遡ると言われています。東大寺の境内地において、奈良時代周辺
に建てられた建築が残っているケースは、正倉院、転害門及び三月堂(後に大規模な改築を
受けている)など一部に留まっており、この経庫も知名度は高くないものの貴重な建築と言え
る存在になっています。手向山八幡宮の「宝庫」と並び立つ。なお経庫は、かつては「校倉造」
の代表建築である正倉院の近くに設置されていましたが、鎌倉時代には大規模な修理が施さ
れたりした後、江戸時代の元禄期になると現在の位置に「手向山八幡宮」の宝蔵として移築さ
れたという経歴を有しています。その後はしばらく手向山八幡宮に帰属していましたが、明治
の廃仏毀釈の折に、再び東大寺に帰属する建物となったとされています。ちなみに、この経庫
の40mほど南側の位置には、手向山八幡宮の「宝庫」が別途設けられており、こちらも同じよ
うな建築様式で、やはり奈良時代頃に創建されたものと考えられています。

※東大寺
8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である
『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こ
んしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728
年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草
山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。
金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索
堂は現在の法華堂(三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)に
は国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分
寺と定められ寺名は金光明寺と改められた。 大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)
で、このころから「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設の
ための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭
仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現
・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰
り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺
の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要で
あったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼
会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が
終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことで
あった。東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょ
う)」と呼んでいる。
※盧舎那仏の造立&『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究
天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇は、『華厳経』の教えを所依とし、民間
のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われたと
いう。とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず必要であった。

東大寺
三月堂(法華堂)
東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構
とされる。752(天平勝宝4)の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索堂(けんさくど
う)」とあり、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂である。旧暦3月に法華会(ほっけえ)
が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。
もとは寄棟(よせむね)造りの正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)が軒を接して建つ配置であった
が、鎌倉時代、礼堂を入母屋(いりもや)造りに改築して2棟をつないだ。正堂は天平初期の建
築だが、礼堂は大仏様(だいぶつよう)の特色が見られる鎌倉時代の建築。時代の異なる建築
が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。
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四月堂
東大寺の三昧堂は、「法華三昧会」が旧暦の4月に行われる為、一般に四月堂と呼ばれて
いる。創建は、1021年(治安3年)あるいは1067年(治暦3年)といわれ、現在の建物は、
1681年(延宝9年)の墨書銘がある。本尊千手観音(重要文化財)や阿弥陀如来像(重要
文化財)が安置されている。
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二月堂
旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火
(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火には焼け残ったが、寛文7年(1667年)、
お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音
(おおかんのん)小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見る
ことを許されない絶対秘仏である。建物は2005年12月、国宝に指定された。魚を採っていて
二月堂への参集に遅れた若狭の国の遠敷明神が二月堂のほとりに清水を涌き出ださせ観音
さまに奉ったという、「お水取り」。
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若狭井
「お水取り」の井戸は閼伽井屋という建物の中にあり、当役の者以外は誰も入ることもうかがう
ことも出来ない。行列が閼伽井屋に到着すると咒師、堂童子等が中に入り水を汲む。これが二
荷ずつ、閼伽井屋と二月堂の間を三往復して、お香水が内陣に納められる。「お水取り」が終わ
ると閼伽井屋に下っていた練行衆等は再び行列を組んで二月堂へ戻り、中断していた後夜の
「時」が再開される。
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此処までは、
3月31日の奈良きた町から桜の佐保川堤を散策-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-04-03
続きは、大仏殿へ向かう~
大仏殿へ向かう
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※大湯屋(おおゆや)
寺院の風呂場です。奈良時代から設けられていたのですが、文献での初見は平安時代に降り
ます。その後数回の被災・再建を経て、室町時代に再建されたのが現在の建物で、五重塔再
建と同じ時期-すなわち応永33年(1426)頃と考えられます。正面4間(11.7m)、側面4間
(10.6m)、本瓦(ほんがわら)葺きの建物で、西面の屋根は入母屋(いりもや)、東面の屋根
は切妻(きりづま)ですので、東側になんらかの建物があり、この大湯屋で湯を沸かし、東の建
物に湯を送って蒸し風呂にしたり、あるいは入浴したりしたと思われます。 内部に床を敷かず、
地面に直接鉄の湯釜を2個据えています。南の湯釜はほぼ完形で、口径1.5m、胴径1.86
m、高さ1.27mで鎌倉時代、北の湯釜は口縁の部分しか残らないのですが、口径1.44m
で平安時代のものです。
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大仏殿
創建から2度にわたって焼失、鎌倉と江戸時代に再建された。江戸期には柱とする材が調
達できず、芯となる槻(つき)を檜板で囲い、鉄釘と銅輪で締めて柱とした。そのため、創建
時に11間(けん、86m)あったが7間(57m)となった。現在でも世界最大級の木造建築であ
るが、往時の壮大さがうかがえる。毎年、大晦日から元旦に正面唐破風(からはふ)下の観
相窓が開かれ、大仏尊像のお顔を外から拝しながら新年を迎えることができる。
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※講堂跡
東大寺講堂跡は、大仏殿の裏手にある芝生の広場。その昔、ここには大きな「講堂」が建っ
ていた。今は講堂の礎石(そせき)だけが残っていて、絶好のお弁当スポットです。東大寺と
いえば、奈良でも一番人気の観光スポット。でも、観光客でごったがえしているのは大仏殿
くらいまでで、広い境内には意外と静かなエリアもあります。講堂跡もそのひとつ。周辺を通
る人もまばらで、講堂跡に寄る人はもっと少ないし、そのなかでも、ここが「講堂跡」というと
ころだと知っている人は、ほとんどいないんじゃないでしょうか。芝生が広がっているノビノビ
した広場には、柱が立っていた礎石が並んでいて、ベンチ代わりにちょうどいい感じ。ちょっ
と休憩したり、お弁当を広げたり、観光をサボって昼寝したりするのにおすすめのスポットで
す。たまにシカが通ったりしますが、講堂跡あたりにいる シカは、お弁当を狙って取り囲んだ
りしないようです。夏のサルスベリや秋の紅葉なども楽しめます。講堂は、昔のお寺の重要
な建物のひとつで、お経の講義や説法が行われる所。何千人ものお坊さんが勉強にはげん
でいたところで、今でいえば大学でしょうか。東大寺は日本のお寺の中心として建てられた
だけあって、東大寺の講堂は「日本の最高学府」。そんな重要だった建物も、何度も火事に
あって、戦国時代の火事で焼けたあとは建てなおされませんでした。
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正倉院
正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あ
ぜくらづくり)の大規模な高床式倉庫。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平
時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指
定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文
化遺産)に登録されている。元は東大寺の正倉(倉庫)だったが、1875年(明治8年)3月10日、
収蔵されていた宝物の重要性に鑑み、東大寺から内務省の管理下に置かれた。1881年(明
治14年)4月7日、農商務省の設置に伴い、内務省博物局が農商務省へ移管され、1884年
(明治17年)5月に宮内省所管となった。1908年(明治41年)4月、正倉院は帝室博物館の主
管となり、第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)5月3日に宮内府図書寮の主管となった。
現在は宮内庁の施設等機関である正倉院事務所が管 理している。
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大仏殿の大屋根
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転害門へ向かう
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転害門(てがいもん)
東大寺の転害門(てがいもん)は、1180年(治承4年)の平重衡の兵火、1567年(永禄10年)
の松永久秀の兵火にも焼け残った貴重な建物で、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる
唯一の遺構(国宝)。 転害門は、手貝門・手掻門・手蓋門などとも書かれた。寺の西北にあるの
で「西北大門」、この門が佐保路(一条大路)の起点となっているので「佐保路門」とも呼ばれて
いる。「転害門」は、宇佐八幡宮が勧請されるときに八幡神がこの門から入り、みちみち殺生が
禁止されたから、又は、手向山八幡宮の「転害会」の渡御がこの門まで行われるから「転害門」
と呼ばれるようになったといわれ、行基が大仏開眼の導師菩提僧正をこの門のところで手招きし
たから「手掻門」と書いたともいう。また、大仏殿落慶供養に参列した源頼朝を暗殺するために
悪七兵衛景清(平景清)が隠れていたため「景清門」と呼ぶともいう。
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佐保川
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聖武天皇陵・光明皇后陵
聖武天皇陵
聖武天皇(しょうむ てんのう)-756年6月4日は、日本(奈良時代)の第45代天皇。文武天皇の
第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。文武天皇の第一皇子として生まれたが、慶雲4年6月
15日(707年7月18日)に7歳で父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会
うことはなかった。物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢
37のときであった。このため、同年7月17日(707年8月18日、文武天皇の母である元明天皇
(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇
子の元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚である藤
原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3日)に文武天
皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正
天皇より皇位を譲られて即位することになる。聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する
長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:
県犬養三千代)の立后を願っていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即
位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は
光明子の立后に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自
害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は、長
屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄
弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入っ
たが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血
縁の者である。天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとん
どが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じ
て辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。
乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京へ遷
都を行う。その後、約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京、難波京、紫
香楽京を経て平城京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられている。詳しい動機付け
は定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火
災や大地震など社会不安をもたらす要因に遭遇している。天平年間は災害や疫病(天然痘)が
多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平
15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を
行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。
また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)
が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私
財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年
閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒
殺と見る説がある。天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲
位した(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷
が慌てて手続を執ったともいわれる)。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。
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光明皇后陵
光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年)-天平宝字4年6月7日(760年7月27日))は、
奈良時代の聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母である
藤原宮子は異母姉。諱は安宿媛(あすかべひめ)。通称に光明子(こうみょうし)、藤三娘(とう
さんじょう)。正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう こうたいごう)。
皇族以外から立后する先例を開いた。聖武天皇の皇太子時代に結婚し、養老2年(718年)、
阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を出産。神亀元年(724年)、夫の即位とともに後宮の位階
である夫人号を得る。神亀4年(727年)、基王を生んだ。神亀5年(728年)、皇太子に立てられ
た基王が夭折したため後継を争って長屋王の変が起こるなど紛糾した。長屋王の変後、天平
元年(729年)に皇后にするとの詔が発せられた。これは王族以外から立后された初例である。
以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。 娘である阿倍内親王の立太子、およびその
後の孝謙天皇としての即位(天平勝宝元年(749年))後、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥の
藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を行った。天平勝宝8年(756年)、夫の聖武太上天
皇が崩御。その2年後には皇太后号が贈られた。天平宝字4年(760年)に崩御、佐保山東陵に
葬られた。光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。
また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を
行った。夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創
設された。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。
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興福院l参道
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※興福院(こんぶいん)
奈良市法蓮町にある浄土宗の尼寺。山号を法蓮山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創
立者)は和気清麻呂ともいい、藤原百川ともいう。創建について、寺伝では天平勝宝年間
(749 -757年)、和気清麻呂が聖武天皇の学問所を移して創建し、弘文院と称したという。
『七大寺日記』(嘉承元年(1106年))には藤原百川が創建した興福尼院が前身とされてい
る。また、護国寺本『諸寺縁起集』には、宝亀元年(770年)、藤原広嗣の妻・輪立氏の発願
で創建されたとある。古くは興福院弘文院の2つの寺号が用いられ、本尊は薬師如来であっ
た。前述の和気清麻呂を開基とする説は、和気氏が設立した学問所を弘文院と称したこと
から出たものと推測されている。

佐保小学校の枝垂れ桜
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大仏鉄道公園
大仏鉄道(正式名:関西鉄道大仏線)は、名古屋と大阪をつなぐ路線の一つとして、明治31
年4月に開業し、明治40年8月まで奈良駅・加茂駅間約10kmを運行していました。大仏鉄
道が廃止されてから100年が過ぎましたが、平成4年4月には大仏駅跡地付近に大仏鉄道
記念公園が設置され、大仏鉄道の面影を残しています。大仏鉄道記念公園は、奈良事務所
の南方約100mの佐保川沿いにあり、春4月には、しだれ桜の3大木が見事に咲き、たくさん
の人々が訪れます。
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佐保川堤防を歩く
佐保川堤・川路桜
佐保川は 若草山の東麓に発っし、奈良盆地の北部を西へ流れ、奈良市新大宮から 南に転
じ、大和郡山市街東部を南流し、同市南端付近の額田部で大和川に注ぐ。佐保川の桜並木は 
全長5 キロ、 3000本が植えられている。この桜並木は 奈良奉行 川路聖謨(かわじ とし
あきら)が1946年1月から5ヶ月かけて 奈良の興福寺、 東大寺などの有力寺社、町の有力
者に呼びかけ 植えたものである。 現在 地元の 「佐保川を美しくする会」、「川路桜保存会」
の人々が 桜を維持管理している。 興福寺の五重の塔から 猿沢の池に降りる52段階段の上
に 川路聖謨(かわじとしあきら)植桜楓の碑( おうふうをうえるのひ )の碑がある。 
「桜も楓も 歳月が 経てば枯れるが、後世の人が 植えてくれるだろう。そうすれば 今日の遊
観の楽しみは百年の後までも 変わらない。それは後世の人も 私も 望むところだ。」・・・・
これが現実になっています。
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川路桜
江戸時代の奈良の名奉行、川路聖謨(としあきら)ゆかりの桜です。樹齢はかれこれ160年。
ごつごつした幹や枝は支えが必要ですが、風格があります。
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雨がぱらついて
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雨もやみ新大宮駅へ向かう
新大宮駅(解散)~私は徒歩で~JR奈良駅 → 王寺駅へ帰った

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3月29日の馬見丘陵公園の春の花達&池の亀達

3月31日         3月29日の馬見丘陵公園の春の花達&池の亀達
                     家事を終え昼から出かけてみた
午前中の家事をおえて昼食、午後は灯油を買に行くだけ、灯油を買いに出るついでに
ガソリンスタンドの近くの馬見丘陵公園へカメラを持って行って見た、公園は春の陽気
に誘われて大勢の人達で賑わっていた。私の万歩計は、
中央公園館の前の中央駐車場に車を入れて
公園館前~北へ こぶし並木?
こぶしが満開
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花の道・足元にチューリップが咲いて
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北エリアへの連絡道(トンネル)へ向かう
チャイニーズイエローバナナの花が残っていた、たんぽぽも咲いて
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ダリア園の2種類の雪柳が満開
ピンク系
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通常の白色
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集いの丘へ向かう
チューリップが咲いて
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集いの丘のチューリップ&パンジー&タンポポ
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集いの丘の桜
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集いの丘を回って彩広場の
花サポータ花壇の前を乙女山古墳のハナモモの丘へ向かう
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花サポータ花壇
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乙女山古墳
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ハナモモの丘
此れはスモモかな?
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此れはハナモモ
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下池の亀
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古墳の丘の桜
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モクレン
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コブシ
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ミツバツツジ
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スモモ
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3月26日の河内長野市 楠木正成ゆかりの観心寺

3月28日           3月26日の河内長野市 楠木正成ゆかりの観心寺
                      3月度歩こう会 例会 
今回の歩こう会は参加者86名と盛況でした、河内長野駅10時⇒観心寺山門前出で受付、
河内長野駅⇒観心寺へ約12分 バスは ①9:40   ②9:55   ③10:12(最終便)・・・・
観心寺の本堂で長老(元住職)より観心寺や楠木正成、南北朝時代、足利尊氏、後醍醐
天皇、後村上天皇、弘法大師空海のお話を聞き、境内散策・星塚(北斗七星)巡り・楠木
正成お首塚・後村上天皇陵・霊宝館等々・・・帰りは86名中30名が河内長野駅迄4.5kmを
完歩、此の日の私の万歩計は、16594歩で約9.9km歩いたことに・・・
観心寺前
楠木正成像
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観心寺 
観心寺は、大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院。山号を檜尾山と称し、遺跡本山
である。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は実恵である。 仏塔古寺十八尊第十三番。奥河
内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている。
伝承では、大宝元年(701年)、役小角(役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとされる。そ
の後、大同3年(808年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。これにちなむ7つ
の「星塚」が現在も境内に残る(なお、北斗七星を祭る寺は日本では観心寺が唯一である)。
弘仁6年(815年)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」
の寺号を与えたという。「空海が自ら刻んで」云々の話は伝承の域を出ないが、現在金堂本尊
として安置される如意輪観音像は、様式的に9世紀の作品とされている。また、観心寺には奈
良時代にさかのぼる金銅仏4体が伝来することから奈良時代草創説もあながち否定できない。
観心寺の実質的な開基とみられるのは、空海の一番弟子にあたる実恵である。『観心寺縁起
資財帳』(国宝)などによると天長4年(827年)、実恵の意を受け、弟子の真紹が造営を始めて
いる(なお、年次に関しては天長2年(825年)とする異説もある)。承和3年(836年)には石川郡
東坂荘が勅によって施入されたと伝えられている。鎌倉時代の末期には塔頭50か寺以上を誇
る大寺院となっていた。
観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺としても知られている。正平
14年(1359年)12月から翌正平15年(1360年)9月まで後村上天皇の行宮となった。また、境内
には後村上天皇桧尾陵がある。
境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だ
けが建てられた、未完成の建築である。
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山門をくぐってすぐに「後村上天皇御旧跡(旧惣持院跡)」があります。
後村上天皇は、南北朝時代の南朝第2代天皇で、約10ヶ月の間、日本の政治をここで
執行されました。
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向い側が中院
中院は楠木家の菩提寺で、楠木正成の学問所で8歳~15歳までここで勉学に励みました。

本堂は国宝です。
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建掛搭(たてかけとう)
建掛搭(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だ けが建
てられた、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願し
て三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断
され、そのままになっているという。
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お首塚
「楠木正成首塚」
討死後、足利尊氏の命令によりその首が当寺に送り届けられ、ここに祀られました。
湊川の戦いで討ち死にした正成の首は足利尊氏の命令により送り届けられた。
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後村上天皇陵
金堂の右奥、長い石段(256段)を上がると、第九十七代後村上天皇の御陵があります。
住吉大社で没後、当山に御陵が作られました。
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樹齢400年超えの椿(侘助)
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星塚巡り
北斗七星が祀られています。日本ではここ『観心寺』だけだそうです。
弘法大師が厄除けの為に祀られたもので、一巡する事でその年の厄が払われると
云われています。(一巡は約15分くらいでした)
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霊宝館
10体の重要文化財の仏様が展示保管されています。他にも楠木正成ゆかりの重文が
保管されています。見応え有りました。
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観心寺を後に、30名を先導して河内長野駅へ歩きます。
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此の橋を渡ると間もなく河内長野駅二到着します。
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3月22日の昼飲み会ハイキング河内山本駅~八尾駅-2

3月25日        3月22日の昼飲み会ハイキング河内山本駅~八尾駅-2
                   昼飲み会ハイキング 大阪11八尾市巡り
此の日は曇り空、知人・M吉さん・K場さん・M村さん・S藤さん・O村さんと6名で近鉄てくてく
マップ大阪11八尾市寺内町巡りの12kmコースをアレンジ&ショートカットツして約8.5kmを
歩き、13:13分に近鉄八尾駅から電車に乗り15時~昼飲み会に参加する為のハイキング。
此の日の私の万歩計は、19866歩で約11.9km歩いたことに・・・
コース     河内山本駅に10:15着で集合・スタート
河内山本駅(10:15)~山本八幡宮~玉串川~御野縣主(みのあがたぬし)神社 ~ 玉串川
~福万寺公園・移設された福栄橋~三十八神社~第二寝屋川~木村重成墓・公園 (昼食)
~八尾市埋蔵文化C~西郡天神社~楠根川緑地公園~近鉄八尾駅へショートカット 8.5㎞
志都美駅~香芝駅
香芝駅~近鉄下田駅へ乗り換え
鹿島神社・・・平安末期の勧請伝承を持つ由緒ある鹿島神社。
河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母
が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。平治の乱で平清盛
に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく東国へ向かった。道中落武者狩り
に遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致
は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに
裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治
二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着
いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に
源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現
れてこう告げた。 「庚子の年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。長い年月が過ぎた。時に承安二
年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝
目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地
こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主と
して長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、
源氏の世が到来する。又、香芝市の市名由来は間接的に鹿島神社とされている。
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近鉄下田駅~河内山本駅10:15着
山本八幡宮
誉田別尊(応神天皇)を祀る。近鉄河内山本駅のすぐ北側、玉串川の西岸、立石街道の
南沿いに所在する、小ぢんまりとした神社である。
享保元年(1716年)、山本新田の開発者である山中庄兵衛正永と、本山弥右衛門重英
(加賀屋)の両人らが石清水八幡宮より神霊を勧請し、山本新田の鎮守として分祀され
た。当初は「山本八幡神社」という名称だった。その後、享保13年 (1728) 正月に加賀
屋から泉屋住友吉左衛門へ所有が変わった後には、住友家の尊崇と保護を受け近代ま
で至る。昭和15年(1940年)に住友住宅による山本新田での宅地分譲が終了し、212年
に渡る住友家の地主管理が終了する。その際に住友住宅より東南部分の土地を寄贈さ
れている。同年に玉串川沿いにあった池を埋めたて、社務所が新築される。
昭和31年(1956年)に旧橿原神宮の古材を用いて社殿が改築され、恩智神社の社家で
ある新海(にいみ)氏より専任の宮司を迎え入れている。この頃に旧山本新田住友会所
の建物の移築もあり境内が整備され、「山本八幡宮」と改称し現在に至っている。
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※天台院(てんだいいん)・・・次回は是非見てみたい
大阪府八尾市西山本町(旧:河内国若江郡八尾中野村)にある天台宗の仏教寺院。
山号は紫雲山。作家の今東光が住職を務めたと有るので探して見たが不明?
天台宗総本山である比叡山延暦寺の末寺。室町時代初期、朝廷が南朝・北朝に分裂し
ていた頃の創建とされている。開基は文観上人と伝えられており、確証はないが河内長
野市の天野山金剛寺に伝わる「釈摩訶行論」の奥書きに、上人は 壮年四天王寺に遊び、
また河内国に錫をとどめていた と記され、このとき 河内に小庵を結んだ とあり、その小
庵が天台院であるとされている。
昭和26年(1951年)、今東光が本山から住職として派遣された。今東光が派遣された頃
の寺は木造の古びたボロ堂宇で、檀家が三十数件の貧乏寺であった。和尚は24年間ほ
ど住職として滞在した。その間作家・政治家として活躍し、寺も世間の注目を集めていた。
現在はコンクリート製の立派な堂宇となり、境内には八尾文化協会による「東光碑」が建
てられた。
境内に無畏智道上人の碑(文化4卯年7月8日)があり、さらに碑の前方に井戸があり、
「智道の水」として知られている。・・・・・調べた結果はこうだった、次回は是非見たい?

玉串川(たまくしがわ)
玉串川は、大阪府を流れる淀川水系の川(普通河川)。大阪府八尾市二俣で長瀬川から
分流。八尾市の中央部を北上し、東大阪市玉串元町で第二寝屋川に合流する。川幅は
おおむね5 mほどで、川岸は石積みまたはブロックで護岸が整備されている。
高度経済成長期には上流の大和川や長瀬川と同様に水質が悪化していたが、流域の各
所において遊歩道の整備、水生植物の植栽や簡易式の曝気施設が設けられ、環境改善
や水質浄化がなされている。また、これらの整備が行なわれた頃にコイやフナの稚魚が
放流された。流域付近は、八尾市柏村の南部に田畑が広がり、近鉄大阪線河内山本駅
付近が商業地となっている以外はおおむね閑静な住宅街となっている。また、二俣付近と
柏村橋付近 - 五月橋交差点、山本橋 - 山本町北七丁目付近までの両岸に桜の木が植え
られている。この桜は、1960年代前半、工場排水などで汚染が進んでいた玉串川の再生
を図り、当時の住民や自治会の寄付によって、1965年1月から徐々に植樹されていった
ものである。例年、年3月下旬~4月初旬にかけて桜が満開となる。この桜並木は、「大阪
みどりの百選」にも選ばれている。
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そめいよしのではない?
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御野縣主(みのあがたぬし)神社
御野縣主神社は、大阪府八尾市にある神社。式内小社で、旧社格は村社。
旧河内国河内郡上之島村(八尾市上之島地区)の氏神。かつてこの地一帯を支配して
いた豪族・美努連(みぬのむらじ)、三野縣主一族の祖神である。創建の年代は不詳で
あるが、延喜式神名帳に河内国若江郡の御野縣主神社二座と記載されていることから
平安時代以前にはあったとされる。明治5年(1872年)に村社に列せられた。
境内西側は小高い丘になっており、かつて西側に流れていた玉櫛川(旧大和川)の堤
防跡であり、現在ではここだけにしか残っていないとされる。八尾市の保全樹林に指定
され、貴重な史跡となっている。境内の南に御野縣池がある。
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玉串川へ戻る
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玉串川
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山本交番を左に
福万寺公園へ向かう
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此処までは、
3月22日の昼飲み会ハイキング河内山本駅~八尾駅-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-03-25
此処では、続きの福万寺公園~ の詳細についてを掲載します。
福万寺公園・移設された福栄橋
元々恩智川に架っていた石橋(福栄橋)がトイレ横に移築されている
福栄橋
この石橋は福栄橋とよばれ、大坂の玉造から若江、福万寺をへて大和の竜田を結ぶ
十三街道の恩智川を渡るために架かっていました。かって、この橋があった西側には
寛政12年(1800)に福万寺の人々が建てた橋の供養碑が残されています。 碑には、
大雨による洪水で橋が流失したので、新しく再建したことが記されています。 橋に感
謝して建てられた供養碑としては市内で唯一のものです。 ここに保存されている石
橋は、明治9年4月(1876)に造られたものですが、昭和48年(1973)の恩智川改修
工事の際に橋が付け替えられ、橋脚部分を除いた板石と高欄部分が残されています。
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三十八神社(みそやじんじゃ)
三は御祭神(天照皇大神・八幡大神・春日大神)を表し、十八は、神々に対する敬語と伝え
られている。この土地に、当神社が建立された年代は明らかではないが、正平年中(北朝
の文和年間1352-55)佐々木守綱八世の子孫、佐々木二郎盛恵の居城、福万寺城址と記
されている。
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境内入口に”条里割遺構(福万寺)”の石碑
大化改新(645)のさいに行われた耕地の割りかたである。耕地を東西・南北にそれぞれ六
町四方に区画し、一辺を「条」、他の辺を「里」と名づけ、それを三十六等分し、その一つを
一坪とした。一坪は一町歩にあたり、坪の数え方は、千鳥式と平行式があるが、当地域で
は千鳥式である。この地福万寺や上ノ島には、今も味の一の坪、二の坪という坪名が
残っていて、古い条里割遺構の残る地として名高い。・・・八尾市教育委員会
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第二寝屋川
※山口重信碑(八尾市幸町)・・・今回はパスした
元和元年(1615)の大坂夏の陣にこの場所で、木村重成の槍に突かれて戦死した徳川方
武将山口重信の碑。三十三回忌にあたり、弟弘隆が建碑したもので、珍しい亀趺(きふ)の
上に建てられ、碑は西面し表に林 羅山の撰文が刻まれているが、残念ながら破損が・・・

木村重成の墓・木村公園 (昼食)
木村重成の墓
大坂夏の陣で戦死した重成の墓は、もとはここから東五〇メートルの地点にあったが、 
昭和四二年第二寝屋川の開削工事により、その川筋にあったのでここに移された。  
この墓は、宝暦一四年(一七六四)重成の一五〇回忌にあたって、重成の首を落とし
た安藤長三郎の子孫で、彦根藩士安藤次輝が建てたもので,昭和一四年大阪府の史
跡として指定されている。
重成の墓石には「長門守木村重成之墓」と刻まれている。左隣りは山口左馬介(重成
の妹婿)の墓。山口左馬介も重成と同日同地で戦死した。
墓石を削って飲むと、勇気が出て勝負事に強くなるとの俗信仰があり、そのため角が丸
くなっている。また墓前の松の葉を蒲団の下に敷いて寝ると、子どもの寝小便や夫の浮
気に効があると伝えられている。
木村重成は大坂冬・夏の陣で活躍した大坂方の武将。関白豊臣秀次の臣木村常陸介
重茲の子とも言われる。豊臣秀頼に仕え、1614年(慶長19年)大坂冬の陣では11
月26日の今福・鴫野の戦いで功を上げ、1615年(元和元年)の夏の陣では5月6日
の河内若江の戦いで藤堂高虎・井伊直孝の軍と相まみえ、奮戦むなしく戦死した。
若干23歳であった。重成はこの若江戦いに臨んで、兜に香をたきしめていたというこ
とで、徳川家康を感動させたとの話が伝わっている。
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木村公園出昼食を済ませて
八尾市埋蔵文化財調査C(トイレ休憩)へ
展示品見学
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展示品見学&小休止後西郡天神社へ向う
西郡天神社
西郡天神社(にしこおりてんじんじゃ)は、大阪府八尾市泉町にある神社。近代社格では
村社。前後区時代の天文年間(1532年-1555年)の創建と伝わるが、それよりも以前と
の説もある。当地は、錦織連の居住地だった。
錦織連は百済より渡来した織物技術者で、宮中に仕えた。当社境内の手水鉢は、錦織
氏が創立した西郡寺の塔刹柱礎石だった。
つまり当社は寺院跡(錦織廃寺)で、八間堂の字名が残る。かっての寺領は広大で北は
300m先の恩智川まであった。また本堂、金堂、三重の塔などを持つ大寺院だった。
この塔心礎は、高さ60センチ、縦120センチ、横160センチの自然石の中央に、直径67
センチ、深さ37センチの柱穴があり、その中央に直径21センチ、深さ18センチの舎利孔
がある。 白鳳時代に属するものとされ、また、この境内から鎌倉時代の石灯篭の台座も
出土した。現在は市の史跡に指定されている。
南北朝時代には、楠木正成によって建立された幻の河内寺の一つ錦織寺となったが、
南朝の敗退により焼き討ちにされたという。その跡地に、自然発生的に神社が建立され、
錦織家の祖神が祭祀されたのが当社だという。
御祭神は、本殿中央が主祭神の須佐之男大神、脇神として、本殿右座が天穂日命、本殿
左座が菅原道真。当社は、現在は道真が祀られているとはいえ、もとは天神・天満宮では
なく、古い形態の天神社である。
境内社に小宮として、拝殿手前右側に南宮(大国主大神)と、拝殿手前左側に東宮(少彦
名命)がある。 境内には、市の保全樹木に指定されているむくのきがある。
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※錦織廃寺
かっての寺領は広大で 北は恩智川まで(300m)有ったとゆうまた本堂、金堂、三重の塔
などを持つ大寺院であった。 錦織連は百済より渡来した織物技術者である。

※楠根川緑地公園?・・・今回は時間がおしてて辿り着けずパス

近鉄八尾駅で13:13発に乗る
鶴橋駅でJR環状線に乗り換え天王寺駅へ
天王寺駅~キューズモール → 湯処・あべの橋 →14:30
キューズモール 
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湯処・あべの橋
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
    ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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銭湯を出て待ち合わせ場所へ向かう
あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!是非是非!  ほんまでっせ!
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天王寺駅ビル4F 居酒屋へ
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3月22日(金)の昼飲み会の参加者は15名 
集合場所 JR天王寺駅551蓬莱前14:50 Or4F甘太郎前 14:55 参加者は下記
H本・A座・Y田・T石・K池・K西・N西・N山・S藤・M吉・M越・R得・K場・M井と私で15名
最長12年振りに会うメンバーもいて非常に盛り上がり楽しい宴会&情報交換会に・・・

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3月20日の日本のはじまり田原本の史跡巡りー2

3月23日          3月20日の日本のはじまり田原本の史跡巡りー2
                     歴史探訪の会(オープン企画) 8㎞
此の日は最高のハイキング日和、オープン企画とした為会員以外の参加者が14名増となり
参加者合計36名で歩きました。此の日の私の万歩計は、18406歩で約11km歩いたことに・・
コースは   田原本駅西口広場に10時集合
田原本駅西口広場(受付・スタート)~浄照寺~田原本聖救主教会~平野氏陣屋跡(役場)
~寺川~唐古・鍵考古学ミュージアム~池神社~千万院~眺めの丘(昼食)・展望台~ 唐
古・鍵遺跡史跡公園~遺構情報展示館~道の駅「レスティ唐古・鍵」(解散)~石見駅へ
田原本町の観光ボランティアガイドさん2名のご案内で歩きました。有難う御座いました。
志都美駅
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畝傍駅~
八木西口駅で乗換
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田原本駅西口広場(集合・10時スタート)
浄照寺へ向かう
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浄照寺~本誓寺
浄照寺(じょうしょうじ)
浄照寺は、奈良県磯城郡田原本町にある浄土真宗本願寺派の寺院。
山号は松慶山。本尊は阿弥陀如来。田原本御坊とも称される。
天正11年4月(1583年)、織田信長の後継者の地位を争って、羽柴秀吉と柴田勝家が賤ヶ
岳の戦いを起こした。この戦いで秀吉子飼いの7人の武将が活躍し、「賤ヶ岳の七本槍」と
呼ばれる勇名を馳せたが。その一人平野長泰は軍功により、田原本他6か村を与えられ5
千石の領主となる。しかし、長泰は生涯、田原本の地に居住することはなかった。
正保4年(1647年)、長泰より田原本地領(寺内町)の経営を任されていた真宗寺院の真宗
大谷派教行寺は、2代目領主長勝との間に支配権のことで対立し、広陵町箸尾へ立ち退か
せられる。慶安元年(1648年)、領主長勝は田原本に陣屋を築造する。
慶安4年(1651年)、長勝は教行寺の跡地を二分し、北側に平野家の菩提寺である浄土宗
本誓寺を招請建立し、南側に浄土真宗の寺院「円城寺」(淨照寺の前身)を建立した。領主
は円城寺と地域末寺8か寺を加えて浄土真宗本願寺第13世門主良如上人に寄進した。住
職は本願寺門主が務め、御門跡兼帯所(御坊・別院)として、筋壁(表塀の五本の筋)が使
用される。
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※本誓寺(ほんせいじ)・・・田原本町HPより
本誓寺は、浄土宗の寺。開基は、鎌倉時代の伝承もあるが不明。江戸時代の田原本領主
であった平野氏の菩提寺。田原本二代領主平野長勝は、正保四年(1647)に浄土真宗教
行寺を著尾に転座させ、その跡地に円城寺(現在の浄照寺)と本誓寺を建立した。 本堂は
度々の火災を受け、現在は昭和58年に再建された鉄筋コンクリート建物である。
本尊は、阿弥陀如来立像で鎌倉時代後期の作。他に、元は楽田寺にあったとされる平安
時代中期の十一面観音立像が安置されている。

田原本聖救主教会へ向かう
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田原本聖救主教会・・・田原本町HPより
日本聖公会の田原本布教の歴史は、明治16年(1883)の説教会に始まり、明治28年(1895)
には最初の会堂を建築し、伝道を本格化した。現会堂は、昭和8年(1933)に建てられ、木造
平屋、切妻造り。屋根は桟瓦葺(さんかわらぶき)、鬼瓦の紋には十字架が ついている。玄関
妻側の窓も色ガラスがはめ込まれ、桟は十字架をかたどっており、昭和初期当時の面影を留
めている。 NHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」、「マッサン」のロケ地としても使用された。
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平野氏陣屋跡(役場駐車場)~
田原本は、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられる平野長泰が、文禄4年に豊臣秀吉から
5,000石を与えられたところ。寛永12年に2代長勝がこの地に陣屋を構え、以後旗
本交代寄合として8代続いた。
明治元年に9代長裕は、5,000石を加増され大名に列した。
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寺川・・・今里浜   
通称、今里では「浜」と呼ばれているが、今里橋 付近の寺川が改修され昔の面影は
何も残っていない。村伝来の古地図を見る限りでは昔の繁栄振りが伺えるが今は掲
示板だけが立っているだけ。田原本北部、今里領と石見領と入り組んだ寺川の東岸
に石見領唐の口に江戸期今里村庄兵衛が経営する舟問屋があった。 
今里浜は立地条件の良いことからこれらの物資の荷上場として舟問屋が建ち並び問屋
町田原本の外港として栄えた。舟運は水量の多い春と秋に利用され春は上り船が多く
塩、肥料の干鰯や油粕が運ばれ、秋は下り船が主で米、雑穀、綿花等が運ばれた。 
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唐古・鍵考古学ミュージアム
唐古・鍵遺跡(国史跡)は、日本を代表する弥生時代の遺跡として知られ、発見から100
年以上にわたって調査が続けられてきました。
唐古・鍵考古学ミュージアムは、これまでに出土した膨大な資料の一部を展示しており、
2018年6月にリニューアルオープンしました。
玄関前のこれは何?
ただの雨だれを受ける器・・・
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館内
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真剣に聞いています
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真剣に聞いています
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楼閣と第建造物の
イメージ図
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此処までは、
3月20日の日本のはじまり田原本の史跡巡りー1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23
此処では、続きの池神社へ向う~ の詳細について掲載致します。
池神社へ向う
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池神社・千万院
池神社
池神社は、初瀬川沿いに鎮座する。祭神は天万栲幡千千比売命・菅原道真で、明治初年
ごろまでは天満宮と称されていた。現在は延喜式内大社「池坐朝霧黄幡比売神社」に比定
されている。中世の天満宮は、在地豪族長谷川党の鎮守であった。近世以降も 法貴寺の
実相院が社僧として社務全般を支配した。この関係は神仏分離により法貴寺から池神社
が切り離されるまで続いた。
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千万院
法貴寺は、「法起寺」ともいい、聖徳太子が創建し秦河勝に賜ったという。千万院はこの法貴
寺の塔頭の子院だった。法貴寺の本坊を実相院といい、中世には法貴寺天満宮(池坐朝霧
黄幡比売神社)の別当職を担うなど、在地豪族長谷川党とのつよい結びつきで大きな勢力を
誇った。しかし、江戸時代半ばには実相院と千万院の2坊のみとなり、神仏分離で実相院に
かわって法貴寺薬師堂を受け継いだのは千万院だけとなった。
現在、千万院の僧坊はすでになく、薬師堂を千万院と呼ぶ習わしとなっている。
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眺めの丘へ向かう
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眺めの丘(昼食)・展望台・集合写真撮影・オープン参加者へ入会の案内
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唐古・鍵遺跡史跡公園へ向かう
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唐古・鍵遺跡史跡公園・遺構展示館(解散)
およそ2,000年前に栄えた、弥生時代の代表的な集落です。奈良盆地のほぼ中央、奈良県
磯城郡田原本町大字唐古および大字鍵に位置します。遺跡面積の約42ヘクタールは近畿
地方最大です。直径約400mの範囲が居住区で、その周りには幾重にも「環濠」が巡ってい
ました。遺跡は弥生時代前期(約2,300年前)に成立し、古墳時代前期(1,700年前)までの約
600年間続きました。昭和11年の第1次調査では多量の土器・石器・木器が出土し、その成
果は弥生時代研究の基礎となりました。昭和52年の第3次調査以来継続的な調査が行われ、
多数の絵画土器や青銅器鋳造施設の発見など重要な成果が相次ぎました。その重要性か
ら、1999年1月27日、国の史跡に指定されました。
唐古・鍵遺跡(国史跡)は、日本を代表する弥生時代の遺跡として知られ、発見から100年以
上にわたって調査が続けられてきました。特に末永雅雄氏らによる、唐古池の発掘調査(第
1次調査)は、弥生集落の様相が初めて明らかとなり、その後の弥生時代研究の確固たる基
礎を築きました。その後も、奈良県立橿原考古学研究所・田原本町教育委員会によって調査
が続けられ、日本最大級の環濠集落であることが明らかとなりました。また楼閣を描いた絵
画土器や、勾玉を入れた褐鉄鉱容器、大型建物跡など重要な発見も多く、今なお唐古・鍵遺
跡は、弥生文化を考える上で重要な位置を占めています。
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楼閣の説明を聞く
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遺構展示館
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※おまけ・・・道の駅「レスティ唐古・鍵」
平成30年4月20日(金)にオープンした田原本町道の駅「レスティ唐古・鍵」は、さまざまなイベ
ントの開催とともに、田原本町内の新鮮な野菜、果物、花をはじめ地元や県下の特産品を多
数販売します。また、1階のベーカリーでは「黄金の生食パン極」を製造直売するとともに、各
種ジェラートを販売し、2階のカフェではバラエティー豊かな12種類の「オリジナルドッグサンド」
をメインに、ドリンクメニューや軽食メニューをご用意いたします。
「黄金の生食パン 極」
高級カナダ産小麦粉を100%使用し、バター、生クリーム、はちみつを加えて施設内で焼き上
げた高級食パンです。しっとりとした食感と優しい甘さが特徴、そのまま生でお召し上がりいた
だくのがおすすめ。もちろん焼いても美味しいです。
平成30年9月23日、24日に道の駅丹後王国「食のみやこ」で開催された『道-1グランプリ20
18』のスイーツ部門において、近畿大学と松井農園の共同開発したメロン「バンビーナ」を使
用した「バンビーナジェラート」が見事グランプリを獲得いたしました。各々1階 Kagiベーカリー
にて販売しております。

石見駅へ向かう・寺川
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石見駅
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田原本駅~西田原本駅へ乗り換え
田原本線100周年記念、100年前の色に塗り替えたシャリョウが・・・
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3月16日の酒蔵みてある記上田酒造「嬉長」ー2

3月19日          3月16日の酒蔵みてある記上田酒造「嬉長」ー2
                   近鉄駅フリーハイキング 歩程約10km
此の日は、知人の・K場さん・Y田さん・O村さん・I 田さん・M吉さん達と6名で酒蔵みて
ある記に参加よていしてたが、早朝の雨でY田さんが不参加、結果はハイキング受付か
ら天気予報通り雨は完全にやみ、素晴らしいハイキング日和、晴れ間を歩きました。
此の日の私の万歩計は、16663歩で約9.9km歩いたことに・・・
コース   東生駒駅受付(9:30~10:30) 10時40分集合 
東生駒駅受付(10:40)~往馬大社~竹林寺・行基墓・忍性墓~※歓喜の湯(足湯)をパ
スして~行基菩薩の関連で円福寺~往生院~上田酒造・試飲・甘酒・抽選会~一分駅
雨の中、傘を差してバス停~王寺駅へ
王寺駅で近鉄生駒線出生駒駅経由東生駒駅へ
東生駒駅(受付)
雪の生駒山が見えるがハイキングスタート時にはすっかり溶けて
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往馬大社へ向かう
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竜田川
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往馬大社(いこまたいしゃ)
生駒山をご神体とした古社です。広さ3ヘクタールにおよぶ鎮守の森は、奈良県の天然
記念物として指定されているほか、伝統行事の火祭りは県の無形民俗文化財として指
定されています。奈良県生駒市にある神社である。式内社で、旧社格は県社。生駒神
社(いこまじんじゃ)と通称される。
生駒山の神である伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神、および氣長足比賣命(神功皇后)
・足仲津比古命(仲哀天皇)・譽田別命(応神天皇)・ 葛城高額姫命(神功皇后の母)・息
長宿禰王(神功皇后の父)を祀る。伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神は古代より火を司
る神として信仰されている。大嘗祭で用いられる浄火を起こす道具である火燧木は代々
当社が献上することとなっており、今上天皇の大嘗祭においても当社の火燧木が使用さ
れた。『北山抄』『元要記』『亀相記』などには当社の神が「火燧木神(ひきりぎのかみ)」と
書かれている。10月第2日曜日(元は10月10日)の例祭は「火神祭」と呼ばれ、龍田大社
の風神祭、廣瀬大社の水神祭とともに古来より朝廷の崇敬を受けてきた。
創建の年代は不詳であるが、古代、当地に住みついた人々が生駒山を神体山として祀っ
たのを起源とするものとみられる。文献での最も古い記述は、『総国風土記』の雄略天皇
3年(458年)条に「伊古麻都比古神社」とあるものである。延喜式神名帳では大和国平群
郡「往馬坐伊古麻都比古神社二座」と記載され、大社に列し、月次・新嘗の奉幣に預ると
記されている。
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社務所前
すっかり晴れて青空に
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竹林寺古墳
生駒市有里町に所在する古墳時代前期の前方後円墳である。竜田川上流域(生駒谷)
における唯一の前方後円墳で、周辺には他に主だった古墳も存在していないことから、
この地域の首長墓であったと目される。行基や忍性の墓所で知られる文殊山竹林寺境
内にある小規模な前方後円墳である。築造年代は出土した円筒埴輪の特徴から、古墳
時代前期後半の4世紀中頃と比定される。前方部先端と後円部の一部が失われ、後円
部は墳頂に通じる小道が通り、掘削(くっさく)による損傷が生じている。その他の部分は
雑木林に覆われ、開墾による削平(さくへい)を受けておらず、原型を比較的よく留める。
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竹林寺・行基墓・忍性墓
竹林寺
生駒市有里町にある律宗の寺院。奈良時代の僧・行基の墓があることで知られる。山号
は生馬山。本尊は文殊菩薩騎獅像。竹林寺は生駒山の東麓の山中に位置する。奈良時
代に架橋、治水などの社会事業に奔走し、東大寺大仏の造立にも力のあった僧・行基の
墓所がある寺である。行基が壮年期に営んだ小庵が後に寺院とされたものと思われる。
行基は文殊菩薩の化身と信じられており、寺号は文殊菩薩の聖地である中国の五台山
大聖竹林寺にちなむ。明治時代以降は廃寺同然となり、本山の唐招提寺が管理していた
が、20世紀末から境内の整備が進められている。
竹林寺は、奈良時代の僧・行基(668年~749年)の基礎を築いたと伝えられています。
行基は 749年に奈良市菅原寺(すがはらでら)において82歳で生涯を終え生駒山で火
葬され竹林寺に埋葬されています。本堂に向かって右手に行基の墓が、左手の墓地
に忍性(にんしょう)の墓(五輪塔)が建っています。忍性は文殊菩薩と行基を強く尊敬
しており行基と同じように自らも慈善事業に努めました。遺言により遺骨は竹林寺・極
楽寺(鎌倉市)・額安寺(大和郡山市)に分骨されています。
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行基菩薩墓
河内国大鳥郡に生まれる。682年に15歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相崇などの
教学を学び、集団を形成して畿内を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活
動した。704年に生家を家原寺としてそこに居住した。その師とされる道昭は、入唐し
て玄奘の教えを受けたことで有名である。行基は奈良時代、貴族の為のものとなって
いた仏教を民衆に広め、橋や溜池を作るなど民衆の為に社会事業を行ったとされてい
る。その行基がこの近くに一時期居を構え、母親の最期をみとったそうだ。その後、聖
武天皇より大仏建立の為に招聘( しょうへい)されるが、82歳で人生を終えると母親の
近くに眠りたいと、この地に埋葬されたという。行基(ぎょうき/ぎょうぎ)668年~749年
は、奈良時代の日本の僧。僧侶を国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への
仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内を中心に民衆や豪族など階層を問わず
広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。また、道場や寺院を多く建立しただけで
なく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の
社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な
支持を得てその力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正
の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏造立の実質上の責任者と
して招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。
東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」
と呼んで いる。
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忍性菩薩墓
良観房忍性は、建保5年(1216)に大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅
町)で生まれた。早くに亡くした母の願いを受けて僧侶となり、西大寺の叡尊を師として、
真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済にも身命を惜しまぬ努力をし
ました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通った忍性の人柄がうかがえます。
後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興や社会事業を展開します。
忍性は行基の大ファン?16歳の忍性は額安寺(奈良県大和郡山市)に入った。忍性は
19歳から6年間毎月竹林寺に参詣したという。参詣を始めた年に竹林寺で行基の舎利
が発見された。行基は奈良時代の僧で、貧民救済や土木事業などの社会事業を行い、
大仏建立にも尽力したことが知られ、平安時代以降に文殊菩薩の化身とされた。忍性
が竹林寺へ6年間参詣し、その生涯を文殊信仰に基づく救済に捧げたのは、行基を範
とするとするところが大きいと云われる。忍性は、鎌倉・極楽寺で87歳で臨終を迎えた。
遺言により遺骨は三分され、額安寺、竹林寺、極楽寺に埋葬された。人々の救済に努
めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈した。
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※ 歓喜の湯(足湯)をパスして行基菩薩関連で円福寺と往生院へ
歓喜の湯(足湯)
小瀬保健福祉ゾーンの中にある無料の足湯、歓喜の湯
いつも多くの人で賑わっており、なかなか足をつける隙間が空いていることが少ない。
夏の暑い日か、天気の悪い日には空いてる?このひは丁度良く空いてた・・・
泉質も正真正銘の温泉で、美人の湯と言われるアルカリ性温泉。
この施設内には、温泉自動販売機という珍しい施設もあり、100リットル100円で
温泉を持ち帰って、家の湯船に入れて楽しめるという仕組み。

円福寺・・・真言律宗(しんごんりつしゅう)
本尊は阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)
奈良時代に僧行基ぎょうきが開創したと伝えられていますが、詳細は不明です。安永3
年(1774)に書かれた『十一ヶ村村鑑むらかがみ』には、「真言宗 上醍醐報恩院(かみ
だいごほうおんいん)末寺」と記載されており、もとは真言寺院であったと思われます。
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円福寺本堂・・・重要文化財
桁行3間・梁間3間 一重 入母屋造 向拝1間 背面下屋附属 本瓦葺 室町時代 
応安4年(1371)造立 来迎壁額縁裏面墨書銘「応安二二(四)年ウルウ三月廿五日
春カウ五郎」
方3間の規模に周囲に縁を廻らし正面全てを蔀戸とします。来迎柱を立て十二天図
を描いた来迎壁に須弥壇を設け、中央小組格天井を組み上げる和様建築です。
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宝篋印塔 2基(重要文化財)・・・生駒市デジタルミュージアムより
総高(残存値)240.0cm 石造 鎌倉時代 塔身に四方仏を彫り込み、笠石下部と基礎上
部に蓮弁れんべんを刻みます。
総高(残存値)244.0cm 石造 鎌倉時代 永仁元年(1293)造立 塔身に金剛界こんごう
かい四仏(阿しゅく如来にょらい・宝生ほうしょう如来・阿弥陀あみだ如来・不空成就ふく
うじょうじゅ如来)の梵ぼん字を刻んでいます。
銘「右志者 為自他滅罪生善往生浄利 七世四恩法界庶衆平等利益 造立如件永仁
元年壬辰十二 月十六日元祖□於 [(不読)沙弥 [(不読)尼浄阿弥陀佛 近真□」
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往生院(おうじょういん)・・・華厳宗けごんしゅう
輿山こしやま古墓群の中にあり、奈良時代の僧行基ぎょうきが天平21年(749)に没した
とき火葬された生駒山の東陵にあたると伝えられています。本尊は行基菩薩坐像で、
境内には宝篋印塔(重要文化財)などが残っています。
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往生院・宝篋印塔(ほうきょういんとう)・・・生駒市デジタルミュージアムより
重要文化財
総高(残存値)206.5cm 石造 相輪上部欠損 鎌倉時代 正元元年(1259)造立
塔身に金剛界こんごうかい四仏(阿しゅく如来にょらい・宝生ほうしょう如来・阿弥陀あ
みだ如来・不空成就ふくうじょうじゅ如来)の梵ぼん字を刻んでいます。
銘「(東面)南無當□ 導師 弥勒佛 釈迦入滅(南面)一千八百 六十七年 正元々年
十月日 勧進[(不読)」
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此処までは、
3月16日の酒蔵みてある記上田酒造「嬉長」ー1 として 
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-03-19
此処では、続きの上田酒造へ向かう~ についての詳細を掲載します。
公園出昼食を終えて上田酒造へ向かう
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上田酒造・試飲・甘酒・抽選会
上田酒造
清酒:生長 (セイチョウ)と嬉長(キチョウ)の上田酒造
創業以来400有余年。「酒に心あり」を胸に酒造りに対する杜氏達の技によって、生駒
の名水と良質の米が見事に調和し、芳醇な香りと、上品な味わいを持ったお酒が生ま
れます。 生駒の長ならんとの思いから付けられた「生長」と、嬉しい事が長く続くように
と名付けられた「嬉長」の2銘柄です。 新しいことにも挑戦し、近年では完全無農薬有
機米を使用した「嬉長」有機純米酒を発売しました。
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もう一度
甘酒を・・・
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上田酒造を後に
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生駒線一分駅ホームで
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王寺駅前・バス停前
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3月15日の馬見丘陵公園の河津桜&寒緋桜-2

3月17日           3月15日の馬見丘陵公園の河津桜&寒緋桜-2
                    河津桜を鑑賞に?撮りに行って来た
馬見丘陵公園の駐車場に車を入れて、墳観(つかみ)橋で道路を渡り巣山古墳前丘へ、
此処のエリアに植えられている河津桜と池の端に植えられている寒緋桜を撮って来た。
先ずは墳観橋から5枚
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墳観橋から
前丘へ下りて桜並木を撮り歩く・・・
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此処までは、
3月15日の馬見丘陵公園の河津桜&寒緋桜-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿墨です。
         https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-03-17
此処では、続きの寒緋桜の咲く池~ についての詳細を掲載します。
寒緋桜の咲く池・・・
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途中でタンポポを撮る
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池の端の寒緋桜
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竹取t公園~馬見丘陵公園へ入る
ブリッツジ両側の寒々としたユリノキ
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馬見丘陵公園へ入るとコブシが咲いて
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梅林へ向かう
途中に雪柳やマンサク、サンシュユの花が咲いて
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マンサク
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サンシュユ
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花の終わった梅林
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公園はチュウリップの苗が育ってくる
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駐車場へ戻り
石油ファンヒータ用に灯油を買って帰る

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